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美作さんの指

 美作さんの指は、魔法の指だ。
 美作さんはアクセサリーを作るお仕事をしている。美作さんのアクセサリーは、美作さんが作った変わった形の硝子と、ストーンを組み合わせて出来ている。
 美作さんのアクセサリーは、綺麗で、大人っぽい。可愛いんじゃなくて、綺麗。例えるならば、お姫様っていうよりは、お妃様みたいなアクセサリーだ。
 美作さんの耳には、美作さんが作ったピアスがきらりと光っている。赤っぽい小さな硝子のついたそのピアスは、中性的な美作さんにぴったりだ。
 美作さんのアクセサリーは高値で取引されているらしい。オーダーメイドは年単位で待つことになるらしい。だけど、美作さんは自分と仲のいい人には「残り物で作ったから」とアクセサリーをぽんぽんあげてしまう。
「自分が好きな人達が自分のアクセサリーつけてくれるのって嬉しいよね」
 美作さんのそういうところが好きだ。

 ママもそんな美作さんのことが好きだ。美作さんにプレゼントされたアクセサリーをたくさん持っている。
 一度、ママが持っている美作さんが作ったネックレスをつけたことがある。ママは美作さんからのプレゼントを大事にしているから、黙ってこっそりとつけた。
 美作さんがクラック水晶って言っていた、中にヒビが入った小さな透明の石と、それによく似せた硝子がきらりと光る綺麗なネックレス。ママがつけている時は、たまに光を受けて輝くさまがとても大人っぽくて、綺麗だった。でも、私には似合わなかった。ママが付けると鎖骨の辺りで綺麗に光るチェーンも、私がつけると長かった。シンプルで大人っぽいデザインなのに、私が付けるとただただ地味になりさがった。
 美作さんに申し訳なくて、すぐに外した。
 私はまだ、子どもだ。改めて思った。
 はやく大人になりたい。美作さんのアクセサリーが似合う大人になりたい。

 十歳の誕生日に、美作さんが私にアクセサリーをくれた。どうせ似合わないし、と思った。似合わないのにつけるなんて、美作さんに失礼だと思った。でもやっぱりプレゼントされたことが嬉しくて、わくわくしながらラッピングされた箱を開いた。
 あけてみてびっくりした。そこにあるネックレスは、いつもの美作さんのアクセサリーとは違った。いつもみたいに綺麗で、きらりと光る石や硝子がついていたけれども、いつもとは違う。いつもの美作さんが使わない淡いピンクの色合いをしていた。ハートの形をした硝子もいつもよりも大きめだった。
 これはいつもの綺麗なアクセサリーとは違う。これは、
「かわいい」
 私が呟くと美作さんは笑った。
「よかった。かわいい、は難しいよねぇ」
 魔法の指に煙草を挟みながら美作さんが呟く。
「難しい?」
「難しいよー。よくわかんないなぁ、おじさんには」
 骨っぽい魔法の指で頭をかきながら美作さんがぼやく。
 おじさんなんかじゃ、ないのに。おじさんなんて言わないで欲しいのに。
「つけて」
 ネックレスを渡すと美作さんは優しく微笑んで、
「後ろ向いて」
 ネックレスをとめてくれた。チェーンはゴールドで優しい色をしていた。留め具がハート型をしているのも、全部かわいい。
 鏡を見ると、そのネックレスは私に馴染んでいた。かわいい。かわいい。嬉しくなる。
「美作さん、ありがとう」
「どういたしまして。うん、かわいいね」
「……ねぇ、十年後の誕生日にも作ってくれる? 次は、指輪。左手の薬指の」
 そうおねだりすると、美作さんは驚いたように目を見開いたあと、小さく笑った。
「どうだろうねぇ。その時にはもうおじいちゃんだからなぁ」
「ママの一個下なんだから、十年経っても四十前でしょう? 大丈夫だよ」
 私は強気に言い切る。
 だからママと再婚したりしないでね? 美作さんは美作さんでパパじゃない。私のパパは、死んだパパ一人だ。美作さんは美作さんで、私の旦那様になればいい。
 美作さんは困ったなぁって呟くと、
「似合うぐらい大人になったらね」
 その魔法の指で私の頭を撫でた。
 美作さんの指は、魔法の指だ。
 綺麗なアクセサリーを多数生み出す。たまにはかわいいアクセサリーも。
 そして私の顔を真っ赤にさせる。


赤いアネモネ

 わたしは今まで泣いたことがない。

 

 わたしの通う高校の生徒は黒い。

 セーラー服も学ランも、どちらも黒いデザインだからだ。

 その黒い人並みを早足で抜けて、教室へ滑り込む。

 三年二組、そこがわたしの教室。

 窓際の一番後ろ。その机の上から、長い脚が降りていた。

「でさぁー、昨日のシューくんのドラマ」

「見た見た、かっこよかったよねぇ!」

「今度のシューくんのイベント、行く?」

 短いスカート、必要以上に明るい髪の毛。薫る香水と、長く伸ばされた睫毛。クラスの中心的女子。

 わたしとは、住む世界がまったく違う女の子たちだ。

 その窓際の一番後ろはわたしの席だけれども、それに何か言ったりしない。言ったところで、意味なんてない。だから、言わない。

 彼女が座っているわたしの机。その後ろに鞄をそっと置くと、逃れるようにベランダに出た。

 教室の笑い声を背中にうけながら、ベランダからグラウンドを見下ろす。

 一年生の男の子達が、楽しそうにサッカーをしていた。

 まだ今日は始まったばかりなのに、ズボンがもう砂で汚れている。乾燥している校庭の砂は、彼らの動きにあわせて砂煙を巻き上げる。

「清っ!」

 名前を呼ばれ、パスを受けた子がシュートを放つ。

 ゴールが揺れた。

「っしゃー!」

 嬉しそうにガッツポーズ。

 わたしの口元も少し緩む。ほんの、少し。

 黒ぶち眼鏡をかけた、少し真面目そうな、彼。生徒会副会長として、生徒会選挙に出ていたから名前を知っている。

 佐野清澄くん。

「そろそろ教室戻ろうぜー」

「えー、もう?」

「知ってるか、堂本。今日の一限の英語は、小テストなんだ」

「え、そうだっけ!?」

 ああ、もう帰ってしまうのか。

 校舎に戻る足取りもはしゃいでいる彼らを見送る。

 また、昼休みになったら、見られるけれども。

 彼らは朝と昼、校庭で遊んでいる。それはサッカーだったりバスケだったりドッジボールだったり、人数もメンバーもその時によって違うけれども。

 ひとつだけ、毎日共通していることは、彼らがとてもとても楽しそうだ、ということ。きらきらと、眩しい。

 それをこうやってベランダから見るのが、わたしの学校での、唯一の楽しみだ。

 もしかしたら、わたしの唯一の楽しみなのかもしれない。

 彼らの中でも、彼を、佐野くんを見つめるのがわたしの楽しみなのだ。

 

 佐野くんは、三年のわたしのことなんて知らない。知るはずもない。

 ただ、わたしが一方的に、恋焦がれているだけだ。

 いや、恋とも言えない。

 恋なのかはわからない。

 自分の思いについて検討して、わたしが知っている単語であてはめてみたら、そうなるだけ。

 彼に対してどうこうしようというつもりは毛頭ない。

 ただ、こうやって見ていられればいい。

 

 

 わたしが彼のことを知ったのは、文化祭も体育祭も終わり、わたしたち三年生が表舞台からすっかり退いた、十月のこと。

 彼らは今日のようにサッカーをしていた。

 その時のわたしは、まだ今のように自発的にグラウンドを見ているわけではなかった。ただ暇で、居場所もなかったから、なんとなくそれを見ているだけだった。

 それでも彼らが楽しそうにスポーツに興じているのは、見ていて気分が悪くなるものでもなかった。寧ろ逆だった。

 でも、その日は違っていた。

 一つのボールの軌跡を追い、

「っ、あぶないっ!」

 思わず声が出てしまう。

 一人の子が蹴ったボールは、受け手の居ない方へとんでいった。花壇に吸い込まれるように。

 そこにはこの前、生徒会が植えたばかりのアネモネがある。

 毎年あの花壇にはアネモネが植えられる。

 わたしと同じ名前のその花を、わたしは三年間楽しみにしていた。来年の三月、最後のアネモネを見るのを心待ちにしている。

 そのアネモネが危ないと、思わずベランダから身を乗り出した。そんなわたしの目にうつったのは、

「セーフっ」

 走りより、咄嗟にボールを止めた彼、佐野くんの姿だった。

 ほぼスライディングのようにボールを止めた彼のズボンは、砂で真っ白になっていた。

 でも彼はそんな制服を気にすることはなく、強い口調で、でも明るく怒鳴ってみせる。

「あぶねーだろ! 折角の花壇なのに! 堂本のノーコン!」

「わりぃ! ほんとに!」

 もうお前罰としてなんか奢れ、そんな軽口を叩きながら、彼らはまたサッカーに興じる。

 わたしは乗り出していた身をひっこめると、知らずに止めていた息を吐いた。

 わたしの目は、ボールを追いかける佐野くんに釘付けになった。

 花壇にボールがぶつかるのを危ないと思う。それもアネモネを。

 わたしを。

 守ってくれた。

 そう思った。

 

 それからはもう、もうどうしようもなかった。

 あの日以来、わたしは彼を目で追うようになっていた。

 朝と昼に彼らが遊ぶのをベランダで見るのが、本当の意味での日課になった。

 たまに佐野くんがいないときは心のそこからがっかりした。その当時のわたしは、彼のクラスはもちろん、名前すら知らなかったのだ。

 わたしが彼を見る唯一のチャンスが校庭で、だったのだ。

 

 それからしばらくして、生徒会選挙の日。壇上にあがり演説する人物が、あの日の彼だということに気づき、心臓が跳ねた。

 マラソンを終えた後のように、心臓が脈打つ。ああ、こんなことってあるのか。

 佐野清澄。

 その名前を覚える。

 いつも遊んでいるのを見るときの笑っている顔はとても可愛かった。

 その日、壇上の彼は真面目な顔をしていて、それはそれは格好よかった。いつもとはまったく違う顔だった。

 彼の他の表情を、顔を、もっと知りたい、と思った。

 こんな気持ちになったのは初めてだった。

 

 

 これが恋とも呼べない、わたしの彼への思い。

 彼はわたしのことを知らない。

 知る由もない。

 それで、いいのだ。

 それしか、ないのだ。

 

 

「ただいま」

 小さく声をかけて、赤井と表札のついた玄関をくぐり抜ける。

 返事はない。それを今更期待することはない。

「ねー、おかーさーん!」

 妹のアヤメがぱたぱたとわたしの横を通り過ぎる。わたしには一瞥もくれない。

「なあに」

「あのねー、今度の日曜日にでかけたいんだけどー」

 アヤメは台所にいる母と楽しそうに話す。

 六歳下のアヤメが生まれてから、母は変わった。

 それまで鬱々と塞ぎ込むことが多い人だった。

 それが今では、自由気ままで、元気いっぱいのアヤメに振り回されながらも、楽しそうに生活している。笑うことも多くなった。

 だから、わたしはアヤメに感謝している。

 例え、アヤメが生まれたことでわたしに向けられる母の愛情がなくなったとしても。

 母の中からわたしが消えたとしても。

 寂しいと思わないわけではない。でもこれでいいのだ。

 母にはわたしは必要ないけれども、アヤメは必要なのだ。

 わたしには母は必要ないけれども、アヤメには必要なのだ。

 

 ベランダにでて、物干竿の下にしゃがみ込む。

 もう冬だ。さすがに寒い。

 それでも、ここにこうして座っているときが、一番落ち着く。

 家でも、学校でも、わたしが落ち着いていられるのは、ベランダだ。

 そして、それでいいと思っている。

 視線に並べて置かれているプランターに向ける。

 このプランターには、アヤメの花が植えられている。初夏に綺麗な紫色の花を咲かせる、アヤメの花が。

 多年草のアヤメは、今は休眠期だ。

 膝をかかえる。

 アヤメが生まれる前までは、このプランターには、アネモネの花が植えてあった。わたしの花が。

 アヤメが生まれてからは、それはアヤメの花にとってかわった。

 我が家のベランダから、アネモネの姿は消えた。母の意識からも。

 それでいい。

 それで、いいのだ。

 アネモネの花は、学校で見ればいい。何も家で見ることはない。

 そっと目を閉じる。

 校庭の花壇。例年植えられるアネモネ。

 今年のアネモネは、ただのアネモネではない。

 佐野くんが植えて、育てているものだ。

 もちろん、他の生徒会メンバーも世話をしているけれども。

 けれども、いつもベランダから校庭を見ているわたしにしてみれば、佐野くんが一番多く、あの花壇の世話をしていると思う。

 それはわたしの贔屓目かもしれないけれども。でも、わたしはそう信じている。

 時間を見つけて、肥料を与え、水を遣る佐野くんの姿を、わたしはずっと見ていた。

 ボールがあたったらしく、折れている茎を見て狼狽していた佐野くんを知っている。

 アネモネの花を、わたしの花を、大事に思っていてくれることを、わたしは、知っている。

 他の誰が、知らなくても。

 すこし、ストーカーじみている。

 自分に苦笑する。

 でも、いいじゃないか。

 そう、誰にともなく言い訳してみる。

 佐野くんはわたしのことを知らないのだ。だから、わたしが佐野くんのことを知るぐらい、それぐらい、許されてもいいじゃないか。

 わたしがこんなに望むなんてそんなこと、はじめてなのだから。

 

 

「ただいまー」

 階下で父の声がする。

 それに気づき、目を開けた。

 どうやら寝てしまっていたらしい。

 冷えた体をさすりながら、リビングに向かう。

「おかえりなさい」

 返事はなくとも、父に声をかけておきたかった。

「ねー、おとーさん」

 一人、遅れた夕食をとる父の前でアヤメが甘えた声を出す。

「いいでしょー、日曜日。友達と出かけても」

「でもなあ」

「ほらアヤメ。お父さんも駄目だって言ってるでしょう」

「だって、シューくんが来るんだよー! 歩いていける距離にシューくんが来るなんてレアだよ! 入場料もかからないイベントなんだよ!」

 どうやらアヤメは、近所のショッピングモールに今人気のアイドルグループのメンバーが来るという、そのイベントに行きたいようだった。

「アヤメ、何も今じゃなくてもいいじゃないか」

「今じゃなきゃだめなのー!」

 アヤメが頬を膨らませる。

「今のシューくんはね! 今しか見られないんだよ!」

 父が困りきった顔をする。

「アヤメ」

 それから窘めるように名前を呼び、

「もうすぐ入試じゃないか」

「シューくん見たらすぐ帰ってくるから!」

 だからお願いします、とアヤメは両手をあわせる。

 

 わたしの六歳下、小学六年生のアヤメは、中学受験を予定している。

 アヤメ自身はそれほど熱心ではないが、母の熱意に乗せられて勉強してきたことを知っている。母は、おだてることが得意な人だと思う。

 父個人は、アヤメの受験に対して特に何も思っていないようだった。反対も賛成もしていない。

 だから、出かけたいというアヤメの願いにも許可してあげてもいいかなという気持ちと、アヤメの背後で父を睨む母の姿と、せっかくここまで頑張って来たのだし折角だから合格して欲しいかなーもしかしたら合格出来るかもしれないしという親としての気持ちで揺れ動いているようだった。

 三人から離れたところでわたしはそれを冷静に分析する。

 頬を膨らませていたアヤメの目が、段々潤んできた。

 アヤメに甘い父の反応が鈍いことが原因だろう。父に反対されれば、より受験に熱心な母を陥落させることは難しくなる。父ならば頼めば許してくれる、とも思っていたのだろう。

「だめなの?」

 呟く声は震えている。

 それに些か父は焦ったようだ。

「いや、だめっていうか、なあ?」

 狼狽したようにアヤメの肩越しに母を見る。

 頼りない夫に呆れたように母は少し溜息をついてから、

「アヤメ、まだ第一志望の学校が残ってるでしょう?」

「でももう受かったところもあるからいいじゃん」

 そもそも中学なんて義務教育なのだから、わざわざ受験なんてしなくてもいいのに。

 そうは思うけれども、アヤメの勉強を見ている母が生き生きしていて、それに安堵していたこともまた事実だ。

 母の生き生きした姿を見ることは、わたしに安心感を与える。それさえ見られればいい、とさえ思う。

 アヤメが生まれるまで、ふさぎ込んでいた母を知っているから。

 わたしの高校受験の時なんて、母は見向きもしなかったのに。なんて、思ってしまう。そんなこと、言っても詮無いことなのに。

 たまにこうやってひがんでしまうわたしは愚かだ。

 意味のないことをするのは、とても、愚かだ。

 

 睨み合う母とアヤメに恐れをなしたかのように父が、

「あーなんだ、ほら、そのジョーくん?」

「シューくん!」

 アヤメがフグのように膨れる。こんな状況下でも、大好きなアイドルの名前を間違えられることは嫌らしい。

 父は困ったように頭を掻きながら、

「いや、だからそれは二時間とかなんだろう? だったらほら、早く帰って来て勉強すれば。たまに休みぐらいさ、あった方がアヤメも、がんばる気になるよなぁー。ここまでがんばってきたわけだしさ」

 どうだろう? とうかがうように二人を見る。

「わー! お父さんありがとう!!」

 アヤメはもうそれを了承と受け取ったようだ。嬉しそうにテーブルの上に身を乗り出して父に抱きつく。

 母は不満そうに、まだ何かを言おうとしていたが、

「お母さんも!」

 アヤメに抱きつかれて、諦めたように頷いた。

 結局母だって、アヤメには甘い。大事な可愛い娘だから。

 わたしはそれを離れたところから見ていた。

 三人は楽しそうに話を続けていく。

 泣いたり怒ったり笑ったり。アヤメの感情の起伏は、わたしには眩しい。

 わたしは今まで泣いたことがない。

 あんなふうに笑ったこともない。

 だから、わたしにはそれは眩しい。

 同じ姉妹なのに、わたしとアヤメは全然違う。

 見てきたわけではないけれども、アヤメはきっとベランダでグラウンドを眺めることを日課とはしていない。

 わたしの机に座っていた、クラスの中心的女子。きっと学校でのアヤメは、そんな感じなのだろう。

 あの子たちと同じような、明るい匂いがアヤメからはする。

 わたしとは、まったく違う。同じ両親のこどもなのに。

 でもそれは、仕方がないことだ。

 わたしはそれを、知っている。

 

 

 今日も学校は、ざわめきと笑い声でわたしを迎えた。

 それは三年間同じことだった。

 そして、そのざわめきと笑い声は、いつもわたしを、そこから追い出しにかかるものだった。

 ざわめきと笑い声がわたしを迎えてくれたことなど一度もないし、それにこれからもないのだろう。

 仕方がないことだ。

 いつものようにベランダに出る。

 一月も終わりに近づいている。もうすっかり寒いけれども、彼らは楽しそうに遊んでいる。それに安堵する。

 三年生。わたしはもうすぐ卒業する。

 だから彼を見るのもあと少し。できるだけ、目におさめておきたかった。

 佐野くんは、なにかいいことでもあったのだろうか? はしゃいで友達の肩を叩いていた。

 彼の口角はいつ見てもあがっていた。

 それをいいな、と思っていた。

 唇の両端に人差し指をあてる。それをくぃっと上に持ち上げてみる。

 これで笑えているだろうか。

 窓ガラスに僅かに移ったわたしの姿は、酷く滑稽で、慌ててその手を離した。

 無理なものは無理だ。わたしには無理だ。

 そう思った。

 泣いたことも、笑ったこともないわたしには。

 

 

 放課後、わたしはアネモネの花壇の前にいた。

 一週間に一度、この花の成長具合を見るのが楽しみだった。

 母は、わたしの出産予定日が三月と知り、その段階でわたしにアネモネという名前をつけることを決めていた。

 胎児のわたしにずっとアネモネ、と呼びかけるぐらいに。

 アネモネ。桃、青、白と沢山の色があるが、やはりわたしは赤いものが好きだ。

 赤井アネモネ。それはわたしの名前になる。

 赤いアネモネ。まるで血のような色。ギリシャ神話では、少年アドニスの血から、この花が生まれたと言われている。

 赤は生命の色だ。

 わたしに生命の色なんて似合わないが。

 アネモネの花が咲くのは三月頃。

 卒業式までには咲いてくれるといいな、と思う。最後に楽しみにしていた、この学校のアネモネが見たい。

 佐野くんが植えたアネモネが、佐野くんが世話をしていたアネモネが見たい。

 佐野くんが植えた、世話をしていたわたしの、花を。

 でもどうだろうか? 今年は例年より少し寒く、春に咲く花の開花はどれも遅れる見通しらしい。

 卒業式まで、あとどれぐらい残されているのだろうか。あとどれぐらい、佐野くんを見ることができるだろうか。

 三年生であるわたしたちは、他の学年よりも一足早く、もうすぐ学年末テストがはじまる。二月になれば家庭研修期間にはいってしまう。

 学校に来ることがなくなってしまう。

 佐野くんも見ることも減るだろう。寧ろ、見ることができない日々が続くことになるだろう。

 寂しいけれども、こればかりはどうしようもない。

 諦めよう。

 諦めることには、慣れている。

 

 

 だから、彼を廊下の向こうで見つけた時、ほんの偶然だったとしても嬉しかった。運命を感じた。

 この距離で、ベランダからではなく彼をみることは、なんだか気恥ずかしい。正面から佐野くんを見ることができない。

 ほんの少し上目遣いで、そっと佐野くんを見つめる。

 放課後だし、もう帰ろうとしていたところなのだろう。ダッフルコートを着込み、手には鞄を持っていた。

 茶色いそのダッフルコートは、とてもあたたかそうだな、と思った。触れてみたい、そのあたたかさに。

 ほんの少し下を向いていた佐野くんが、何かに気がついたかのように、ふっと顔をあげた。

 ぱちっと目が合う。目が合った。そんな気がした。

 彼はぱっと、花が咲くように笑う。

 眼鏡の奥の瞳が、優しく細められる。愛おしいものを見るように。

 その顔に、胸が高鳴る。

 思わず、その笑みに背中を押され駆け寄ろうと二、三歩足が動いたわたしを、

「ユリっ!」

 彼の心底嬉しそうな、愛おしそうな声と、わたしの横を駆け抜けて行く、ふわふわとした巻き毛が押しとどめた。

 ふわふわの巻き毛の持ち主は、抱きつくようにして佐野くんのところに駆け寄る。そうして佐野くんの手を握ると、嬉しそうに微笑んだ。

 

 柔らかそうな髪、二重でぱっちりとした瞳。カーディガンの袖から、ちょこんと指先がのぞいている。

 小さくて可愛い子だ。

 わたしとは違う。

 可憐に笑う、その顔。

 

 ……わたしは、何を期待しているのだろう。

 何を、期待していたのだろうか。

 黒い髪の毛と校則どおりのスカートをちょっとひっぱる。

 わたしと彼女は、全然違う。

 

「ごめんねー遅くなって」

「いいよ、帰ろう」

 二人は楽しそうに笑いながら、廊下で話している。彼女は佐野くんの指先を、ちょこんっと握っていた。

 彼女と話す佐野くんの声は、いつも聞いているものと違った。

 ベランダから見つめるグラウンドの声ではなかった。生徒会選挙の演説の声ともまた違った。

 どこか甘い、優しい、愛おしい声だった。何かとても淡い、綺麗なものに包まれたかのような声だ。

 彼女のことは知っていた。

 生徒会役員の一人だ。佐野くんと一緒にいるところもよく見かけていた。

 よく見かけてはいたけれども、カノジョではないと思っていた。

 カノジョではないと信じていた。

 でもやはり、カノジョだったのか。

 小さく唇を噛む。

 その動作に気づき、自分に苦笑する。

 何を悔しがっているのだ、わたしは。

 佐野くんにカノジョがいようがいまいが、関係ない。わたしがその位置につくことは、あり得ないのだから。カノジョがいなかったところで、わたしにお鉢が回ってくるわけではないのだから。

 だったら、彼が幸せな方がいいじゃないか。カノジョがいない方がいいというのは、わたしの傲慢さが招く言葉だ。

 そう、自分を叱咤する。

 こんな風に、笑っている佐野くんが見られるなんて、それだけでいいじゃないか。

 グラウンドでも見られないような、弾けるような笑顔が見られるだけで。

 仕方がないことを、諦めることには慣れているじゃないか。

 でも、何故だろうか。胸が痛い。どこかにぶつけたのだろうか。

 諦めることには慣れているはずなのに、悔しい悲しいと思っている自分がいる。

 そんな自分が怖くなる。

 これ以上、楽しそうな二人を見て、知らない自分を見つけるのに耐えられなくなって、わたしは二人の横をすり抜けて、教室へと急いだ。

 

 教室に戻ると、大きな笑い声がした。

 ああ、またあの人たちか。

 クラスの目立つ女の子たち。

 彼女たちの卒業後の進路は短大や、推薦で決まっていて、まだ受験が終わっていないクラスメイトとは違い、のんびりしたものだった。

 実際、一月も終わる今になっても、教室でおしゃべりしてから帰るのを忘れない。これから一般受験をするクラスメイトは、足早に帰ったり、図書室に残って勉強をしていたりするのに。

 のんびりと、いつまでも学校に残っていた点では、わたしも大差ないが。

 いずれにしても、どうしても苦手だ。

 会話をすることもないし、彼女たちはわたしを認識していないことはわかっているが、それでも。

 教室に入るのが躊躇われる。

 でも、いつまでもここにこうして立っているわけにもいかない。

 溜息をつきながら、ドアに手をかける。

「ってかさー、昨日のシューくんのドラマ。あれ、なくねー?」

 その言葉に、ドアを開ける手が止まる。

「えーそう?」

 そのシューくんがでるドラマは、アヤメも見ていた。毎週かかさず、母に頼み込んでそのドラマだけは見ていた。

 わたしはリビングの隅でそれを一緒に見ていた。

 だからよく、覚えている。

「ほらあの台詞」

 それはドラマの終盤、過去を隠してきた主人公がヒロインに自分の過去を告げ、思いを告げる感動的な場面とも言える。

 その台詞は、

 

「僕は生まれてから泣いたことがない」

「わたしは生まれてから泣いたことがない」

 

 彼女は少し、そのアイドルの声色を真似したようだった。

 ドアのこちら側で小さく呟いたわたしと声が、はもった。

 わたしは今まで泣いたことがない。

「だってあれ変じゃない? じゃあ、赤ん坊の時とかどうしてたんですかーっていう」

「うわっ、そこでマジレス?」

「感動的な場面だったのに」

「だって、そうじゃん。産声すらも? みたいな」

「雅ってば超空気読めてない」

 笑い声がする。

 わたしは。

 わたしは、ドアを開けられなかった。

 そっと手をおろす。

 

 わかっていた。

 わたしは生まれてから泣いたことがない。その意味が。

 そして、その表現が、わたしにとっては間違っていることを。

 わたしは——

 

 がらり、といきなり目の前のドアが開いて、体が驚きで凍り付く。

 話は終わったらしい。

 中から出て来た彼女達は、立ち尽くすわたしを気にせず、わたしを、わたしの中を通り抜けて去って行った。

 ああ、わかっていた。

 最後尾を歩いていた少女へ手を伸ばす。その手はただ空を切った。

 距離としては届いていたはずなのに。

 わたしの手は、彼女の肩を、すり抜けた。

 わたしは自分の手を見つめる。

 

 わたしは生まれてから泣いたことがない。

 いや。

 わたしは今まで泣いたことがない。

 産声すらあげなかった。赤ん坊の時も泣くことなく、気づいたら成長していた。

 

 わたしの中にある一番古い記憶は、手術室の中だ。

 騒々しく何かを叫ぶ医師。ベッドの上で横たわる母に、必死で何かの処置をしている。

 わたしはそれを上から見ていた。

「先生、赤ちゃんは」

 目覚めた母が言う。

 わたしはここよ、ここにいるよ。

 その時すでにわたしは自我を持っていた。その意識で呼びかける。

 医師が首を横にふり、母は泣き崩れた。

 わたしは母の周りを飛び回り、母を慰めていた。でもわたしの言葉が母に届くことは、ついぞなかった。

 母は落ち込み落ち込み落ち込み続けた。

 わたしの花を、アネモネの花を愛で、我が子のように愛していた。

 その姿は少し鬼気迫るもので、そう、病んでいるといっても過言ではなかった。

 母が元気を取り戻したのは、それから六年後、アヤメが生まれてからだ。

 だからわたしはアヤメに感謝している。

 わたしの声は母に届かない。

 わたしは母を慰められない。

 わたしは母と生きていけない。

 それらはアヤメの仕事だ。アヤメにしかできないことだ。

 そう、わたしは今まで泣いたことがない。

 産声すらもあげることはなかった。

 わたしは、生まれなかった。

 

 わたしの最初の記憶から、わたしの記憶は間が空いている。

 気づいたらわたしは幼稚園に通い出していた。

 恐らく、幽霊のような存在であるわたしは、世界に留まり、成長していった。通常の子どもと同じスピードで。

 制服や持ち物は、意識するとどこからか現れた。誰にも世話をさせることはなかったけれども、怪我や病気をすることもなく、すくすくとわたしは成長していった。

 幽霊というのは便利なものだ。

 学校にわたしの居場所がないのも当たり前だ。だってわたしの戸籍はないし、わたしは勝手に学校に通っているのだ。

 わたしとしては、きちんと入学試験を受けて、合格発表で番号も確認しているのだけれども。

 

 わたしの存在について、わたしなりにずっと考えていた。

 幼いころは、どうしてわたしの声が母に届かないのか、どうして父はわたしを肩車してくれないのか、どうして先生はわたしの連絡ノートにだけシールを貼ってくれないのか、ただそれだけが疑問だった。

 わたしは彼らが見えているし、幼稚園のブランコでも滑り台でも触れて遊べた。ただ、人間だけには、触れなかった。

 

 パラレルワールド。映画でその言葉を知った時、納得した。

 きっとわたしは、きちんとわたしが生まれた世界と、生まれなかった世界の狭間にいるのだ。平行世界の狭間にいるのだ。

 本来交わるはずのないパラレルワールドは、わたしを起点として、わたし一点だけで交わっている。

 その証拠に、わたしが見る高校の名簿にはきちんとわたしの名前が載っている。それは、わたしがきちんと生まれた世界のものなのだろう。

 いずれにしても一つだけ、わたしにとって確かなことがある。それは、わたしはここに居ることだ。

 幽霊であろうとも。違う世界の人間であろうとも。

 わたしは生まれていない。だからきっとわたしは生きているとは言えない。

 それでもわたしは、ここにいる。

 わたしがいつまでここにいるのかはわからない。生まれて来なかった時に死ななかったから、きっと年を取って死ぬまでここにいるのだろう。生まれて来なかったから死ねず、死ねなかったからここにいる。

 大学は受験しなかった。意味を見出せなかったからだ。

 だから、来年度からはただのニートになる。

 それでもわたしは、来年度以降も存在して、年を取って行くのを待つのだろう。

 そういうものだ。

 わたしが世界に関わることはない。

 自分の意識では世界の一員として存在しながらも、外部からは存在しないものとして扱われ、そうして世界を外から観察する。

 それがわたしの役割だ。

 佐野くんが、わたしのことを知らないのも当たり前なのだ。

 わたしと佐野くんの世界は交わらない。

 永遠に。

 

 小さく息を吐く。

 当たり前のことを今更確認して、なんだというの?

 自嘲気味に笑う。

 わたしには、こういう笑みだけが似合う。

 家に帰ろうと、今度こそ教室のドアを開けて、窓際の自分の席に近づく。

 この自分の席も、余っている机をわたしが勝手にそう認識しているだけでも。

 ふっとなんとなくグラウンドの方を見ると、少しだけ人影が見えた。

 あの茶色いダッフルコートは。花壇にホースで水やりをしている、あの姿は。

「……佐野くん」

 思わず小さく呟く。

 わたしの目はずっと彼を捜していた。だからあっさり見つめてしまう。

 わたしは彼を見ているだけだ。

 彼に関わることはない。今までも、そしてこれからも。

 だって彼はわたしを知らないから。見えないから。

 それは当たり前のことで、今更どうこう思うことじゃない。

 でも。

 さっきの、ぱっと花が咲いたような佐野くんの笑顔を思い出す。できれば、あの顔を、わたしに向けて欲しかった。

 何かも諦めている。生きることも。存在していられればいいと。いや、存在していくことすらも実は諦めている。

 こんな生活終わりにして。はやく誰か終わりにして、と思うこともある。

 だけど。

 ベランダからいつも見ていた、楽しそうに笑う顔。ゴールに失敗して少し膨れる顔。目に焼き付けて来た色々な顔が浮かんでは消える。

 諦めていた。

 諦めることには慣れていた。

 ずっと、そうしていたから。

 でも。

 わたしは手にしていた鞄を放り出すと、教室から飛び出した。

 半ば転げ落ちるようにして階段を下る。

 何人かにはぶつかった。

 わたしは、わたしが誰にも触れないことを、はじめて少し感謝した。

 階段に腰掛けて座っている、少し不良じみた男子生徒も通り抜ける。

 

 諦めていた。

 彼にはわたしは見えない。

 それは当たり前のことだ。その当たり前のことをねじ曲げることなんてできない。

 だけどだけどだけど。

 上履きのまま、校舎の外へ飛び出す。

 水やりを終えたらしい佐野くんは、カノジョと二人、校門に向かって歩いてくるところだった。

「待って!」

 わたしは両手を広げて二人の前に飛び出す。

「佐野くん、待って! あの、わたし!」

 叫ぶ。

 彼が近づいてくる。ゆっくりと。でも確かに。

 彼はカノジョと楽しそうになにかを話していた。

「わたし、佐野くんのことが好きです!」

 当たり前だと思っていた。

 彼の目にわたしがうつることはないと思っていた。

 仕方がないことなのだと思っていた。

 だから、諦めていた。

 でも、わたしは、

「あなたのことは諦められなかった!」

 もう彼は鼻先まで近づいて来ている。

 止まる気配はない。

 わたしが彼の名前を呼んだのと

「佐野くんっ!」

 彼らがわたしを通り抜けて行ったのは同時だった。

 ああ、やはり。

「……好きです」

 小さく声が漏れる。

 両手で顔を覆う。

 やはり、物理法則は超えられない。

 わたしの声は届かない。

 姿は見えない。

 当たり前の、ことだけど。

 世界は、交わらない。

 

 顔を覆ったまま、思わずゆっくりしゃがみ込む。 

 わたしは何を、期待して……。

 どうしてわたしは、こんなに愚かで……。

「あれ?」

 佐野くんの声がした。

 気配は、背中の少し後ろで止まっていた。

「なに?」

「いや、なんか今」

 わたしはゆっくり振り返る。

 愚かなわたしは、佐野くんの言葉に、また少し期待している。

 佐野くんは不思議そうに頭を掻きながら、

「誰かに呼ばれた気がしたんだけどなー」

 首を傾げながら呟いた。

「誰もいないけど」

「だよなー? 佐野くん、って言われた気がしたんだよ」

 わたしは、その言葉をゆっくりと吟味する。

「……ああ」

 口を覆った手に、水が一滴付着する。

 わたしの声は、届いていた。

 視界が滲む。

 彼の背中が滲む。

 ぽたぽたと、水分が手に、頬につく。

 ああこれが、泣くということね?

 

 わたしは今まで泣いたことがなかった。

 人と接することがなかったから、感情が不要だったのだ。

 泣くということが、笑うということが、わからなかった。

 それは一人では体験できないことだった。

 でも、わたしは今泣いている。

 わたしは全てを諦めていた。

 諦めることにな慣れていると思っていた。

 だって、そうしたら傷つかないから。

 だからそうやって諦めるわたしは、強いのだと思っていた。思い込ませていた。

 でも、本当はわたし、

「何一つ。本当は何一つ、諦めたくなんて、なかったの……」

 母にはわたしのことを忘れて欲しくなかった。

 父には肩車をして欲しかった。

 アヤメにはお姉ちゃんって呼んで欲しかった。

 ベランダに植えられたアヤメの花。それを無くせとは言わない。ひっそりでいい。小さな植木鉢一つだけでいい。だからそこに、アネモネの花も植えて欲しかった。

 両親の愛が、欲しかった。

 スカートを折り曲げて、化粧をして、クラスメイトと楽しく笑いあいたかった。

 本当は全部欲しかった。

 なによりも、佐野くん。彼ときちんと、向かいあって見たかった。

 ぽたぽたと、止めなく涙が落ちる。

 まるで生まれてから今までの涙を全て、外に出すかのように。

 わたしは今まで泣いたことがなかった。

 でもわたしもただただ、泣きわめいてみたかったのだ。

 誰にも届かないのにそんなことをするのが空しくて、しなかっただけで。

 わたしは笑わなかった。

 教室のざわめきと笑い声は、わたしを排除していた。

 でも、わたしは意図的に、自ら排除されていた。

 交われないそれが空しくて。

 わたしは本当はずっと、世界が欲しかった。交わりたかった。

 熱意のないフリをして、誰よりも冷めたフリをして、物わかりのいいフリをして、傷つかないように諦めたフリをしていただけだ。

 わたしを拒絶する世界が、憎かったのだ。

 

 佐野くんはカノジョにせっつかれて早足でまた歩き出す。

 それにはっとする。

 行ってしまう。彼が。せっかく、世界が繋がったのに。

「待ってっ」

 泣き過ぎて、かすれた声がでる。

 お願いもう一度、届いて。

 自分がどうして諦めていたのかが、今わかった。

 欲してしまうからだ。今みたいに。

 一度、一つ手に入れると全部を。

 一つじゃないの、全てを下さい。

 わたしは愚かで強欲だから、

「佐野くんっ」

 わたしはあなたの全てが欲しい。

 あなたと同じ世界を生きていきたい。生きたい。生きたい。

 カノジョと別れてわたしと付き合って、なんて言わない。

 ただ、同じ学校に、同じ世界に、生きていたいだけだ。本当に、ただそれだけなのに。

 ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいの?

 右手を伸ばす。追いすがるように。

 もう一度届け。

 世界。

 それでも佐野くんはわたしに気づくことなんかなく、さっきのはまるで空耳だったのさ、とすたすたと歩いて行く。

 お願い世界よ、もう一度……。

「佐野くんっ!」

「あ」

 声が届いたわけではなかった。それでも絶妙のタイミングで佐野くんが立ち止まる。その視線の先には。校門の近くの花壇でとまった。

「花、咲いてるー」

「あ、本当だ」

「これ何?」

「これアネモネでしょう。清澄がさっき水あげてたのも、アネモネだって。ほんっと、あれだけ誰よりも世話してたんだから、名前ぐらい、覚えてあげなよー」

 今はまだ一月の終わりで、アネモネが咲く時期には早過ぎる。なにかの間違いで、はやく咲いてしまったのだろう。

 けれどもそこには、確かに、一輪の赤いアネモネが咲いているのが見えた。

 一人孤独に咲くアネモネは、まるでわたしのよう。他のアネモネの世界から隔離された、アネモネは。

 赤井アネモネ。

 赤いアネモネ。

 わたしの、花だ。

 

 彼はその赤い華を見て、笑った。

「へー、アネモネ。綺麗だね。あそこの花壇に咲くの楽しみだなー」

 覚えておこう。そう、当たり前のようになんの気負いも無くそういうと、カノジョと手を繋いで、校外に消えていった。

 

 わたしはただ、溢れ出る涙を抑えていた。

『へー、アネモネ。綺麗だね』

 彼の言葉が脳内を巡る。

 

 もう、手は伸ばさない。

 声は届いた。

 きっと気持ちも届いている。

 そう思えた。

 だって彼は、赤いアネモネを、わたしの花を、綺麗だと言ったのだから。

 今、この時期に、あの赤いアネモネが咲いていたのは、偶然なんかじゃない。

 あの赤いアネモネは、まごうことなく、わたし自身なのだから。

 世界は交わった。

 わたしはもう、満足だ。

 わたしはずっと、世界と交わった証が欲しかったのだ。

 

 ゆっくりと口角があがり、唇が弧を描くのがわかる。

 今までになく、ごく、自然に。

 ふふっと音が漏れる。

 これが笑うと、いうことね?

 

 ああ、佐野くん。

 わたしの存在がゆっくりと薄れて行く。

 それを感覚で感じると、微笑んだまま目を閉じる。

 

 佐野くん、あなたは、わたしにとって、世界そのものでした。

 わたしはアネモネ。春に咲く花。

 早春の風と共に咲く花。

 どうぞその名前を、覚えていてください。

 春がきて、アネモネが咲く度に、また綺麗だと言ってください。

 

 

 そうしてわたしは消え、

 

 あとには一輪、アネモネの花が残された。


ストーカー魂、死んでも

 死した魂を肉体から刈り取り、冥界に送る。それが私の仕事だ。

 私は死神。人の死を司る者。それ故に人には距離を置かれていた。仕方ないことだ。死を畏怖し、忌避しようとするのは、生きとし生ける者の本能だ。

 私はこれからもただ黙々と職務を遂行していく。人と馴れ合うことなど望まずに。

 そう、思っていた。

 

「いやっほぉー、今日もシーちゃん可愛いねぇっ!」

 すぐ耳元で聞こえた軽薄な声に、ぞわりと肌が粟立った。

「あ、あなたっ」

 ばっと振り返ると一つの魂がふよふよと浮いていた。

 魂は全て球体だ。発光する強さや色合いで、その人の生前の個性がわかり、区別することが出来る。光が弱い場合はお年寄りや長らく病気をしていた人で、光が強い場合は不慮の事故などで亡くなった生命力の強い人。大人しい人は寒色、元気な人は暖色のことが多い。

 そしてこの、無駄に明るく光る、真っ赤な魂の持ち主は、

「里村樹さん、貴方のことは、今度こそっ、冥界に送ったはずですが」

「うん、でもねー、シーちゃんに会いたくて戻って来ちゃった!! 計十五回の出戻りです!」

 戻ってくんな。

 里村樹。享年十九歳。職業大学生。死因は出血多量。

 思いを寄せる女子に、刺された。

 私は、彼が思いを寄せていたという女子に心の底から同情する。こんなののために前科一犯になるとは。優秀な弁護士がついて、軽い罪になっているといい。思い余るのも仕方がない。ノイローゼだったのだ、きっと。

「眉間に皺を寄せているシーちゃんも可愛いね!」

 里村樹。またの名を、ストーカー。

 三つ子の魂百まで。死してなお、魂になってなお、彼はストーカーであった。

 

 生前の里村樹のストーカーぶりは、今よりも陰湿なものであった。

 隠し撮りした写真を送りつける、毎日部屋の前に花束やアクセサリーなどの贈物をおいておく、毎日帰宅の時間に合わせて電話などなどなどなど。おおよそ、ストーカーといって思い浮かぶ行為全般を行っていた。評価すべき点があるとすれば、性的な嫌がらせは決してしなかった点か。

 そこに関しては死後尋ねたところ、

「そそそそそそそんなことできないよっ」

 と吃って返されたので、実は純情な奥手くんなのかもしれない。

 ……だからといってストーカー行為が許されるわけではないのだが。

 

 女の敵であるストーカー男の魂を回収しに行くなんてこと、本当はやりたくなかった。が、ストーカー男が死のうとする場所が私の管轄地域である以上仕方がない。私は職務に忠実な死神なのである。

「なんでっ、なんでっ、いい加減にしてっ!!」

 そう叫びながらナイフを里村樹に突き刺すストーカー被害者がとても痛ましい。この女の敵めっ、可愛い女性の人生を壊しやがって! と思いながら里村樹を見る。私は職務に忠実であるが、それと同時に生きている人間の未来も憂える心優しい死神なのである。

 里村樹を見て、ぞっとした。え、なんでこの人嬉しそうなの気持ち悪いんだけど。

 里村樹は刺されてもなお、恍惚とした表情を浮かべていた。

 全力で魂回収したくなくなってきた……

 しかし、私は職務に忠実な死神なのである。

 ナイフを放り出し、返り血を浴びたまま、ぽろぽろと泣き出す被害者女性の未来に幸が多からんことを祈りながら、愛用の鎌を一振り。これにより、里村樹の肉体と魂は分離される。つまり、ご臨終です。

 切り離した魂は赤くて強い光を持つものだった。元気そうだな……

「うぉぉぉ、何、何、何っ」

 怯えたように魂が叫ぶ。

「俺っ!?」

 倒れた自分を見てか、悲鳴のような声をあげる。

 それから泣き崩れる被害者女性に視線をやると、

「ああ、さつきちゃん! 可哀想に泣いちゃって、どうしたの、大丈夫? 俺が傍にいるよ」

 とか言いながら被害者女性の方へまとわりつこうとするので。

「あんたは死んだんだよこのストーカー野郎」

 低い声で脅すように言うと、遠慮なく魂を握った。

「ぐふぇ」

 蛙が潰れたような音がする。

 大丈夫。死した魂は何をしたってもう死なない。

 私の手から受ける圧力により、球体から形を変化させつつある魂に向かって微笑みかける。

「ごきげんよう。里村樹さん。わたくし、死神ナンバー十垓千二百四十京とんで六ですの。貴方の魂、回収しに参りました」

 外面のいい、お仕事用の顔をして自己紹介。

 歪んだ球体がギブギブっと叫ぶので仕方なしに手を離してあげた。

 ほんの少しひしゃげた気がする球体がこちらを見て、

……死神?」

「ええ」

「俺は、死んだの……

「ええ」

 あんだけ刺されて生きているつもりだったのか。

「そっか」

 里村樹は自分の肉体に視線をやる。いつの間にか現れた警官に、被害者女性が拘束されるところだった。

「さつきちゃん……

 切なそうに呟く。

「大丈夫かな、俺がいなくて……

 死に別れた恋人を思うような言い方だが、騙されてはいけない。恋人なんかじゃない。

「大丈夫ではないと思いますよ。せいせいはすると思いますが」

「え?」

 なになにどういうことさ! とでも言いたげに球体が詰め寄ってくる。

「ストーカーがいなくなったらせいせいするでしょう」

「違う、その前。大丈夫じゃない?」

……大丈夫では、ないでしょう」

 被害者女性は警官に連れて行かれた。里村樹の肉体も、やってきた救急隊に連れて行かれる。

「貴方を殺したのだから」

 貴方が彼女を人殺しにしたのよ。

……そんな」

 里村樹は小さく呟き、急に振り返り、被害者女性を連れた警官の方へ向かおうとする。のを、持っていた虫取り網を使って慌てて止めた。逃げられたら始末書ものだ。

「離せっ」

「出来ません」

「さつきちゃんは悪くないっ!!」

「そうですねー」

 貴方が彼女を追いつめたから。そうは思うものの、彼女を庇おうとするなんてストーカー男のくせに良いところもあるんじゃないか。

「俺はっ! さつきちゃんにあんなに正面から見つめられてっ! さつきちゃんの視線を独占できて! さっき死ぬ程嬉しかったんだっ!」

 訂正。所詮、ストーカー男はストーカー男だ。

 里村樹の魂の叫びを聞きながら、膝から力が抜けそうになる。さっきの恍惚とした表情は、それかっ!

「さつきちゃんがっ! 俺の、俺だけのためにっ! さつきちゃーん」

 このままだと永遠にきもいこと叫んでそうだ。それだけは勘弁願いたい。

 仕方なしに私は虫取り網の口をぎゅっと掴むと、ぶんぶん振り回しはじめた。

「うげっ、めがっ、さつきちゃ、うわぁー」

 とか情けない声が上がるが気にしない。ぶんぶんと回転させる。

 もういいかな、と回転を止めると、案の定里村樹の魂は回転により失神していた。

 死したばかりの魂はなかなか事態を認識できず、喚くことが多い。そういうときはこうやって一旦黙らせるといいんだよ、と新人のころ先輩が教えてくれた。あまりに乱暴な手段で普段は使うのを躊躇うのだが、何故だろう、今日はなんの躊躇いもなく行えた。先輩、ありがとう。感謝します。

 私は気絶した里村樹の魂を連れて宙に浮かぶ。警官が現場検証のようなことをはじめていた。野次馬が追い返される。それを足元に見ながら、ひとまず、この場所を後にした。

 

「さつきちゃーん!!」

 高層ビルの屋根の上、端っこに足を宙に投げ出すように座っていた私は、突然の叫びに驚き、落ちそうになった。死神は職務を真っ当している限り死にはしないからいいんだけれども。

「あ、あれ、さつきちゃん……?」

 目覚めた里村樹の魂は、気を失っていたにもかかわらず、相変わらずきもかった。

「お目覚めですか、里村樹さん?」

 そういって微笑みかける。何事もなかったかのように、冷静を装おって。

「あ……

 里村樹は私の方を見て、

「ああ、そっか、俺、死んだのか……

 小さく呟いた。

「ええ」

……さつきちゃん」

 さらに小さい声で呟くから、

「彼女なら情状酌量の余地ありまくりで、よっぽど腕の悪い弁護士がつかない限りそんなに重い罪にならないでしょうからきっと大丈夫ですよ」

 一応、フォローの言葉をかけてみる。冷静に考えればそんなにフォローにもなっていないのだが。

……そうかな」

「ええ。貴方みたいにきもいのにつきまとわれてたら、そりゃあ病んで実力行使にも及んでしまいます。世間は彼女の味方ですよ」

 人間社会のことはそこまで詳しくわからないけれども。

……なら、いいんだけど」

 ほんの少し、安心したように里村樹が呟く。思いっきり罵倒されていたことに関しては無反応だった。自覚があるのか、そんなことよりもさつきちゃんとやらが心配なのかはわからない。

「ええっと、死神の……

 落ち着いたらしい里村樹がこちらを見てくる。

「特に名前はありません。識別はナンバーで行っています。私は、死神ナンバー十垓千二百四十京とんで六です」

 もう一度自己紹介をする。

「じゅうがいせん……

「十垓千二百四十京とんで六です」

……覚えられん」

 里村樹は悔しそうに呟いたあと、

「じゃあ、死神だからシーちゃんね」

 安直極まりない名前を投げて来た。そんなこと言ったら、この世界にいる数多の死神が皆シーちゃんになるぞ。

「死神ナンバー十垓千二百四十京とんで六です」

「シーちゃん」

「死神ナンバー十垓千二百四十京とんで六」

「シーちゃん」

「死神ナンバー」

「シーちゃん」

「しに」

「シーちゃん」

……もうシーちゃんでいいです」

 何度言っても嬉しそうにシーちゃん呼ばわりされるので諦めた。うんざりしながら答える私に、

「可愛いね、シーちゃん。やっぱりシーちゃんっていう呼び名が、いいでしょう?」

 里村樹が記憶をどこかで改変したとしか思えない発言をした。シーちゃんがいい、なんて一言も言ってない。シーちゃんでいい、と言ったのだ。頭の中お花畑か。

「シーちゃん、よく見たら、可愛いねぇ」

 里村樹がマジマジと私の顔を見ながら呟く。

 まあ、そう呟いてしまうのも無理はない。よく見たらって何気に失礼だが。

 すっと通った鼻筋、きめの細かい白い肌、血のように赤い瞳、さらさらと肩へとこぼれ落ちる白髪。それらを覆い隠すように目深に被った黒いフードに黒い衣裳は、地味ながらも私の魅力を引き立たせる。

 死神界でもかなりの美人だと自負している。

「ええ、まあ、そうですね」

 ぱさりと髪を片手で払い、すらりと長い足をこれ見よがしに組んでみせると、

……決めた」

 それをじっと見ていた里村樹が呟いた。

「何をです? 冥界に行く決心ですか?」

 そうならば話がはやい。

 里村樹は、肉体があったのならばさぞかし憎たらしい笑顔を浮かべていたのだろうと思える声で、

「俺、これからはシーちゃんをストーカーする!」

 高らかに宣言した。

……冥界に、行きましょうね。さっさと、とっとと、一秒でもはやく」

 死してもなお、ストーキングしたいのか。ストーカーしないと死んじゃうのか。ああもう死んでいるからそこら辺は大丈夫じゃないんだろうか。

「よろしくね、シーちゃん」

 私の話なぞ、聞かずに里村樹が告げた。

 そうして、何がふっきれたのか。はたまた、肉体がない以上他にできるストーカー行為が不存在だったのか。死後の里村樹のストーカー行為は生前と違ってあけっぴろげな付きまとい行為をメインとしたものになった。

 そう、今、私の肩でぺらぺらと私への愛の言葉を囁くように。

 いつもの戯言、と聞き流す。

 この冥界にも行かず、行っても帰ってくる不良魂の処遇に困り、直属の上司に相談しに行ったら、

「なんかもう、そのまま持ってれば?」

 とかいうし。あの事なかれ主義の中間管理職め。はげろ! 今よりもさらに、はげろ!

 溜息。

 私の味方はやはり、私しかいないのだ。

「里村樹さん」

「もう、シーちゃん、相変わらずつれないなぁー、イツキンって呼んでってば」

 イツキンという渾名がなんというか、古くさい。

「里村樹さん、冥界に行ったらいかがでしょうか」

「やーだよー、冥界にいってもシーちゃんいないじゃん」

「そんなにストーカーしたいならば生まれ変われば良いんですよ。また堂々と肉体を持ってストーカーすればいいんですよ」

 本当はストーカーなんてしないのが一番だし、この性癖は引き継がないで欲しいが。三つ子の魂、生まれ変わってもかもしれないし。

「シーちゃん、俺のこと、バカにしてる?」

 里村樹の声が、少し真剣味を帯びる。

 それにすこぅし、どきりとする。急にそんな、どうしたのだろう……

「俺のこと、ストーカーするなら誰でも良いような軽い奴だと思ってる? 俺は、俺なりに矜持を持ってストーカーしているんだよ。愛してる人以外、ストーカーする気はない。シーちゃんじゃなくても、ストーカーできればいいってわけじゃないんだよ」

 真面目な声のまま言い切る。

 私はあまりの衝撃的な発言に固まってしまった体の力を抜くように、ゆっくりと息を吐く。

「一瞬どきりとしましたが、恐ろしい勘違いでしたね」

 死した後、直ぐに私をストーカーの対象にしたやつが何を言う。ストーカーについての矜持など、生ゴミの方がマシだ。ゴミの日に出してしまえ。

 迂闊にも真面目に話を聞いてしまったことを悔やみながら、今日の現場を確認する。死神手帳。そこには、私の管轄で今日死ぬ人間の情報が記載されている。

 ええっと、この後は。

「この先の交差点で交通事故?」

 私の肩越しに、というか肩の上で手帳を見ながら里村樹が呟く。

「そーですね」

 もう相手にするのも面倒で適当に頷く。

「可哀想に。ええっと、犠牲者は」

 里村樹はそこで急に、ぴたりと黙った。

「? どうしました?」

 めったにない反応に、驚いて肩の彼を見る。見てから、しまった、これは構ってもらうための作戦だったか! と後悔したが、どうも違うらしい。

……さつきちゃん?」

 小さな声で里村樹が呟く。

 さつきちゃん? 聞き覚えのあるような、ないような。

 死者の名前は、井出さつき。

「シーちゃん! さつきちゃんがっ」

 私の肩で里村樹が悲鳴のような声をだすから思い出した。

 そうか、さつきちゃんとはあれか。里村樹を殺す羽目に陥った哀れな女性か。

「可哀想に」

 貴方になんか人生を振り回されて、こんなにはやく人生を終えるなんて。

「助けなきゃ!!」

 里村樹が叫ぶ。

……何を言っているのです?」

「シーちゃんも、さつきちゃんのこと、可哀想だと思うんでしょう!!」

 だったら助けなきゃ、と里村樹が言う。

……貴方は、何を言っているんですか?」

 ため息をつきながら言葉を返す。

「私は死神。死神ナンバー十垓千二百四十京とんで六です」

「そんなこと知ってるよ!」

「じゃあ、何故、助けるなどと私に向かって言えるのですか? 彼女の魂を冥界に運ぶことが私の仕事です」

「でもっ、さつきちゃんが可哀想!」

「確かに彼女はあまりにも不幸だと思いますが」

 主にあんたのせいで。

「だからと言って個人の感情で動くわけにはいきません。これが私の、仕事ですから」

 里村樹の魂が震える。ああきっと、肉体があったら私のことを睨みつけているのだろう。

「シーちゃんがっ、そんなに冷たい人だなんて思わなかったっ!!」

 吐き捨てるようにそういうと、私から離れてどこかに向かう。おおかた、井出さつきを助けに行こうとしているのだろう。魂だけの存在の癖に。

 冷たい、か。

 小さく笑う。

 どうして今更そんなことを。死神はその仕事故に、古来から人には距離を置かれていた。死を畏怖し、忌避しようとするのは、生きとし生ける者の本能だ。

 それでも私はこの仕事に誇りを持って、これから職務を遂行していくつもりだ。

 なのに、どうして今更あんな一言ことで、傷ついたりしたのだろう。

 一瞬ちくりと痛んだ胸を抑えて、ゆっくり息を吐く。

 くだらない感傷はあとだ。魂だけの里村樹になにができるわけでもないだろうが、職務の完遂のために、私も現場に向かわなければ。

 鎌を握る手に力を入れ、交差点に向かう。

 交差点では里村樹がうろうろしていた。

「さつきちゃん!」

 右手からやってくる井出さつきの姿を見つけると、里村樹が叫ぶ。

 反対側からは、スピードをだしたトラック。運転手の首が前後にふらふらしている。居眠り運転?

「さつきちゃん、来ちゃだめだっ!」

 里村樹が叫ぶ。声は届かない。

 下を見ながら歩く井出さつきは気がつかない。

 里村樹は焦ったように辺りを飛び、何を思ったのかトラックにつっこんでいった。

「なにをっ」

 予想外の行動に私も思わず身を乗り出す。

 里村樹はトラックを突き抜け、居眠りしたままの運転手に衝突した。

「里村樹っ!」

 瞬間、里村樹の魂が消える。一体どこにっ。

 思考をブレーキ音が遮った。

 トラックが、井出さつきの目の前でとまる。さすがに井出さつきが驚いたようにトラックを見つめる。

……おお、できた。憑衣」

 運転手が小さく呟く。いや、運転手の体を借りて、里村樹が。憑衣って、魂というよりは幽霊の仕事ではないだろうか。ああ、でも死神が回収し損なった魂が幽霊となるわけだからいいのか?

「大丈夫ですかっ」

 里村樹が運転手のまま、井出さつきに声をかける。井出さつきは頷いた。

「ごめんなさい、ぼーっとしてて」

「いいえ、こちらも危なかったので。気をつけてくださいね」

 里村樹が微笑む。

……幸せに、なってくださいね」

 そして小さい声で付け足した。運転手が言うには唐突過ぎる言葉だ。

「え?」

 井出さつきがきょとんとした顔で里村樹を見上げる。

「さつきちゃんには、幸せになって欲しいから」

……その、言い方、すとーかー?」

 井出さつきが小さく呟く。

……気づいてくれたんだ」

 里村樹が感極まったように呟く。

 どうしよう、感動的なシーンの筈なのにそうは見えない。

 案の定、井出さつきは感動している里村樹入りの運転手を睨みつけると、

「あんたがっ! あんたのせいでっ、私がどんなっ」

 叫ぶ。

「私が……

 彼女はへなへなと、足から力が抜けたように道路に座り込む。

「さつきちゃんっ」

「ごめんなさいっ。貴方がやったこと、絶対に許さないけど」

……許さないんだ」

 どうして許してもらえると思ったのか。

「だけど、死なせてしまったこと、ごめんなさい」

 彼女が両手で顔を覆う。

 ああ、可哀想に。こんなストーカーの為に罪の意識にさいなまれるなんて。

「迷惑かけて、ごめんね」

 里村樹が呟いた。

「俺の分も、長生きしてね」

「ストーカー……

 井出さつきが顔をあげる。少し涙で濡れた瞳。

「俺、全然後悔してないし、さつきちゃんのこと恨んでないから。最後にさつきちゃんの顔を両目に焼き付けて死ねて、本望だから」

……ストーカー」

 井出さつきの声が怪訝そうになる。

……死んでもストーカーって治らないのね」

 嫌そうに呟いた。本当に。

「俺、もう行くね」

 そんな空気を気にすることなく、里村樹は微笑むと告げた。

「ばいばい、さつきちゃん」

 そうして里村樹は、運転手の中から消える。

 数秒後、

「あれ、おれ?」

 里村樹から解放された運転手が怪訝そうな顔をする。

 それを横目で見ながら、私は死神手帳を開いた。

 案の定、井出さつきの名前は死神手帳から消えていた。死神手帳は、そのときの状況で変化する。里村樹の活躍によって、井出さつきの名前は消えた。彼女はまだしばらく生きるのだろう。

 願わくは、彼女に幸が多いことを。あんなストーカーにあったことが笑い話になるように。

 もうここには用はない。次の場所へ行かなければ。私は交差点に背を向け、

……里村樹?」

 見慣れたその姿がないことに気づき、思わず小さく呟く。

 そういえば、彼はどこに行ったのだろう?

……消えたのかしら」

 もしかしたら自主的に冥界に向かったのかもしれない。死神に回収し損なわれた幽霊達は、未練とやらをはらすと自主的に冥界に向かうという。里村樹もその状態だったのかもしれない。

 ああ、そうか。

「未練は、井出さつきか」

 井出さつきの行く末が気になって、一言謝りたくて、だから魂になっても現世をうろうろしていたのか。そのために、私につきまとって。

 ならば、認めてあげてもいいかもしれない。彼の言うストーカーの矜持。本当に愛した女性だけをターゲットにするという、その話。彼は本当に愛した井出さつきのために、現世をストーカーしていたのだ。

 ならば、認めてあげてもいいかもしれない。その根性は少しだけかっこいいと。

 でもこれは、認めない。

……また、一人になってしまうの?」

 私が寂しいと、思っているなんてこと。そんなことは、絶対に、認めない。

 死神は孤独だ。人とは馴れ合えない。死を畏怖し、忌避しようとするのは、生きとし生ける者の本能だから。だから、寂しいなんて思っていること、認められない。

 ましてや相手が、ストーカー男なんて。

 ぐっと唇を噛む。

 大丈夫。今までどおりに職務を遂行すればいいだけだから。

 鎌を握った手に力をいれる。

 私は一人で、大丈夫。

 

「シーちゃーん!!」

 三日後、遠くの方からその声がした時には、ぞわりと肌が粟立った。

 待て待て待て待て今のはなんだっ?

 振り返る。見慣れた赤い光。

「里村樹っ!」

 思わず叫んでしまう。

「シーちゃーん、会いたかったよ!!」

 そう言って私の周りをぐるぐる回る里村樹。

「あなたっ、冥界にいったんじゃっ」

「行ったよー、強制的に行かされてマジ最悪! でもちゃんと戻って来たよ、シーちゃんのところにっ!」

 とっても嬉しそうに言われた言葉に、返す言葉がない。

「あれー、シーちゃん、目が赤いよ? 泣いたの?」

「生まれつきです!」

 顔を覗き込まれて、慌ててよそを向く。

「やっぱりシーちゃんも、俺が居ないと寂しいんでしょー、そうでしょー?」

「そんなことありません」

 そんなこと、あってはいけません。自分に言い聞かせる。予想外の展開に、心が折れそうだ。

「もー照れちゃってー、かっわいー! シーちゃんが一人でも寂しくないように、ずぅぅぅぅぅうぅぅぅっと、未来永劫、俺が傍にいてあげるからねー! 安心していいよっ!」

 ちっとも安心出来ないことを言いながら、赤い魂がついてくる。

……好きにしなさい」

私は小さく、呟いた。唇の端があがって見えたのだとしたら、それは気のせいだ。

 

 死した魂を肉体から刈り取り、冥界に送る。それが私の仕事だ。

 私は死神。人の死を司る者。それ故に人には距離を置かれていた。仕方ないことだ。死を畏怖し、忌避しようとするのは、生きとし生ける者の本能だ。

 私はこれからもただ黙々と職務を遂行していく。

 魂にストーカーされながらも    


愚かなボグスワフと可哀想なシャーロット

 ウマい話には裏がある。

「おはようございます、お養父さま」
 わたしの言葉に、お養父さまは渋い顔をしたまま一つ頷いた。
「おはようございます、お養母さま」
「おはよう、シャーロット」
 お養母さまは優しく微笑んだ。
「おはようございます、シャーロットおねえさま!」
 明るい声でアンジェラが言う。とん、っとわたしの腰に体当たりし、しがみつく。
「おはよう、アンジェラ」
 言いながら、アンジェラの頭を撫でた。アンジェラは明るい蜂蜜色の髪を揺らし、満足そうに微笑む。
 朝食の席につく。パンとスープ、サラダ、紅茶。お養父さまの趣味。
 リネンの部屋着は着心地がいい。これはお養母さまの趣味。
「アンジェラ、野菜を残しては駄目ですよ」
 お養母さまに窘められて、頬を膨らませるアンジェラ。五歳年下の可愛い妹。
 黙々と食事を続ける養父さま。
 部屋の隅で微笑んだまま、優しげにわたしたちを見つめる執事のヴィクター。
 美味しい食事。暖かい部屋、洋服。優しい家族。足りないものは何もない。
 血のつながり以外は。

 わたしがこの屋敷にきたのは、今から三年前。小さいけれども立派な領土を持つお養父さまが、孤児のわたしを引き取ってくださった。
 孤児院の先生からその話を最初聞いた時、住み込みの小間使いなのだろうと思った。それで構わなかった。それでも十分だった。
 けれども、実際のところ、わたしは家族として受け入れられた。
 お養母さまは、アンジェラを産んだ際に生死の境を彷徨い、二度と跡継ぎが産めない体になった。けれども、アンジェラが一人っ子では可哀想だと、兄弟が居た方が良いと、わたしがもらわれた。幼いアンジェラの面倒を見るために、少し年上の子どもがもらわれた。
 料理長のサイモンをはじめ、料理人のみんなが作るご飯はどれもとても美味しい。お養父さまの方針で、貴族にしてはとても質素な食事だけれども、孤児院での堅いパンに慣れたわたしにとっては、なにものにも代え難いご馳走だ。
 お養母さまの趣味で少し質素な洋服は、着心地が重視されている。なにより、繕う必要がない。
 部屋で凍えることもない。
 お養父さまは素っ気ないけれども、見た目怖いけれども、それはただぶっきらぼうな性格なだけ。実はとても、わたしやアンジェラのことを気にかけてくださっている。
 お養母さまはとても優しくて、たまに少し厳しい。それでも、わたしとアンジェラを区別することなく、接してくださる。
 アンジェラは、可愛い妹。まるで天使のような子だ。わたしのことを本当の姉だと思っている。彼女はなにも知らない。ねえさま、ねえさま、とあとをついてくるのが、とても愛おしい。
 執事のヴィクターはいつも優しく微笑んで、やはりわたしのことも、アンジェラやお養父さまたちの家族として扱ってくれている。
 これ以上、何を望めば良いのか。このうえなく幸せな話だ。
 だから、三年前、この屋敷にきた当初は怖かったのだ。これから何が起きるのかと。どうやって、わたしは不幸のどん底に落ちるのかと。
 ウマい話には裏がある。
 きっとそうだと信じていたし、実際、そうだった。

「おねえさまは、おばあさまの別荘にいかないのー?」
 アンジェラが柔らかい髪を揺らして首を傾げる。
 アンジェラの後ろで、お養母さまが困った顔をしている。
 わたしは、お養母さまを安心させるために笑顔を作る。
「おねえさまは駄目よ。おねえさまが塔から出られないのを、アンジェラだって知っているでしょう?」
「まだ、お体悪いの?」
 心配そうな顔をする、アンジェラ。
 その髪を、そっと撫でる。
「ええ、ごめんね」
「うー、わかったー、お土産買ってくるねー」
 アンジェラが笑う。可愛い妹。
 お養母さまが安心と後ろめたさの混在したような顔でわたしを見る。わたしはただ、微笑む。

 ウマい話には裏がある。
 自室としてあてがわれている、塔の一番上へと向かう。
 わたしは、屋敷とこの塔から出ることは出来ない。
 そういう、約束なのだ。

「よう、おかえり。あと、おはよう」
 部屋のドアを開けると、窓辺に腰掛けた少年が笑う。白髪に赤い瞳。小柄な、十代に見える少年。今日もいつもと同じ、黒い衣服に身を包んでいる。
「ボグスワフ、おはよう」
 後ろ手でドアを閉めながら、わたしは微笑んだ。
 彼は、ボグスワフ。この塔に住み着いている。
 ボグスワフが一つ伸びをすると、尻尾がちらりと現れる。黒い、長い、爬虫類のような尻尾。
 それから、背中に生えた、蝙蝠のような羽根。
 彼は、ボグスワフ。この塔に住み着いている、自称悪魔だ。
 どうみても、ただの少年だけど。
「家族ごっこは楽しいかい?」
 ボグスワフが笑う。嫌な笑い方。こちらを見透かすような、バカにするような。
「家族ごっこなどした覚えはないわ」
 ふかふかのソファーに身を沈める。
 塔の一室といえども、最高の住環境を保っている。
「へぇ」
 ボグスワフが笑う。本当に、嫌な笑い方。
 彼は窓の外を見下ろす。
「本物のお嬢様はお出かけのようだが」
 きっと、窓の外ではアンジェラとお養母さまを乗せた馬車が出て行ったところなのだろう。
「おばあさまの別荘にいくらしいわよ」
「へー、じゃあ」
 ボグスワフが笑う。大きくて赤い唇を歪める。
「今生の別れだ、可愛い妹ちゃんとの」
 わたしはうんざりして、わざとらしくため息をついてみせた。
「ボグスワフ、くだらないことを言わないで」
「違うのか?」
「違わないけれども」
 ソファーの上で膝を抱える。
 可愛いアンジェラ。さよならも言えなかった、なんて。
 可愛いアンジェラ。せっかくお土産を買ってきてくれても、わたしはここにはいない。
 可愛いアンジェラ、可哀想なアンジェラ。帰ってきて、わたしが居なかったら、あなたはきっと泣くでしょう。可愛いアンジェラ、可哀想なアンジェラ。
 可愛いアンジェラ。それから、
「可哀想なシャーロット」
 ボグスワフが揶揄するように言った。
 本当に、嫌なやつ。

 次の満月の晩、わたしは花嫁となる。
 この領地は本来、白き龍の持ち物だった。それを人間が勝手に荒らした。
 白き龍は怒り、領地は飢饉、疫病などに苦しむことになった。
 それを当時の領主の娘が、「私が主様を鎮めます」と言い、白き龍の花嫁となった。おそらくは、殺されたのだろう。
 けれども、それっきり領地は平和になり、寧ろ実り豊になった。
 それ以来、領主は五十年に一度、白き龍に、主様に、花嫁を差し出している。
 そして今が、その五十年目だ。
 婚礼の儀は、次の満月の晩。わたしは花嫁となる。生贄となる。その為に、孤児院からもらわれてきた。生贄となるために。
 アンジェラの代わりとなるために。

「ま、貴族様の考えそうなことだよなー」
 許可もなく、わたしのベッドに倒れ込み、ボグスワフが言う。
 いつも思うのだけれども、仰向けになってその尻尾と羽根は邪魔ではないのかしら?
「跡継ぎの身代わりなんて」
「血筋が絶えてしまったら大変ですもの。もうお養父さまとお養母さまとの間に、新しい跡継ぎは見込めないし」
「別に、この国一夫多妻制なんだから、新しい嫁、手にいれればいいのに」
「ボグスワフ」
 窘めるように名前を呼ぶ。
「お養父さまは、お養母さまを愛していらっしゃるのよ」
 だからもう、新しい妻を望んだりはしない。
 仮に新しい妻が嫁いできたとしても、自分と血の繋がった娘を、生贄にするはずがない。
 事実は揺らがない。
「愛、ねぇ」
「ボグスワフ。それ以上、わたしの家族を愚弄するのならば出て行って頂戴」
 ボグスワフが上体を起こす。少し不満そうな顔をして、
「もともとここは俺の塔だ」
「知らないわ」
 睨み合う。
 先に視線を逸らしたのは、ボグスワフの方だった。
「そうだな」
 皮肉っぽく唇を歪める。
「どうせ、もう少しでまた俺のものだ」
 わたしは、小さく唇を噛む。
「……そうね」
「可哀想なシャーロット」
 わたしから視線を逸らしたまま、ボヴスワフが小さく呟いた。
 本当に、嫌なやつ。
 人の気も、知らないで。

 可哀想なシャーロット。
 それはここにもらわれてきてすぐに、耳にするようになった言葉だ。
 ここにもらわれてきて、半年後にお養父さまは全てを話してくださった。でも、その前からわたしは知っていた。
 皆が、かげでわたしの話をしていたから。こどもだからわからないと、思って。
 そして、一部わからない部分を、この悪魔が補足してくれたのだ。ありがたくもない、けども。

 可哀想なシャーロット。
 初めて訪れた新しい家は、暖かくて、美味しくて、優しくて、幸せで。だから不安だった。いつ、この幸せが終わるのかと。
 ウマい話には裏があるのだから。
 屋敷を案内してもらった。その時、わたしはこの塔と屋敷から出てはいけないと言われた。
 そこで不安になった。そこに何の意味があるのかと。
 そして、この塔には先客がいた。
 ボグスワフ。
 自分を悪魔と名乗る、人ではない何か。
 わたしを不安に陥らせようと、あることないこと吹き込んできた悪魔。愚かなボグスワフ。
 ウマい話には裏がある。
 そんなこと、わかっていた。裏がなにかさえわかってしまえば、わたしがそれ以上不安に陥ることなんてなかったのに。
 そんなことも、わからなかったなんて。愚かなボグスワフ。

「ボグスワフ」
 名前を呼ぶと、再びベッドに倒れ込んでいたボグスワフは、視線だけをこちらに向けた。
「貴方は、この塔に住んでいるのよね?」
「ああ」
「じゃあ、わたしがいなくなったら貴方はここに一人になるの?」
 わたしの言葉にボグスワフは一瞬黙り、次に鼻で笑った。
「一人では可哀想と、俺を憐れむのか? 可哀想なシャーロット。一人の方が、せいせいするさ」
 彼は言った。
 その時は、すでに顔をこちらに向けていなかった。彼の表情はよくわからなかった。
「そう」
 人の気も知らないで。
 次の満月の晩は、明日なのだ。わかっているのかしら、ボグスワフ、貴方は。

 

 午後からは、婚礼の儀の衣装合わせをした。
 フリルとレースを沢山使用した、それでいてどこかクラシカルなデザインの真っ白なドレス。ウェディングドレス。うっとりしてしまうぐらい、素敵なドレス。
 素敵な、死に装束。
 鏡の向こうのわたしに微笑む。
「やだ、わたしってば、とっても似合っているわね」
 言うと、メイド頭のバーバラが皺だらけの顔を歪めた。
「ね、バーバラ。わたし、綺麗よね」
 微笑む。
「綺麗ですよ、シャーロットお嬢様」
 俯いて肩を震わせたバーバラの代わりに、ヴィクターが答えた。
「そうでしょう?」
 わたしは満足そうに頷く。
「これで化粧もしたら、見違えてしまうわね」
「……それはもう、きっととてもお美しいです、シャーロットお嬢様」
 かすれた声でバーバラが答える。
「ありがとう、バーバラ」
 わたしは彼女の肩を抱いた。ぎゅっと力を入れる。
 優しいバーバラ。優しいヴィクター。みんな優しい。
 みんな、わたしを、「シャーロットお嬢様」として扱ってくれる。すべてを知っているのに。
 これは家族ごっこ? いいえ違うわ、ボグスワフ。
 ごっこじゃないわ。

「いいや、家族ごっこだね」
 部屋に戻るなり、ボグスワフが言った。
「家族は、家族を生贄に差し出したりしないさ」
「貴方になにがわかるの、ボグスワフ」
 わたしは露骨にバカにするような笑みを浮かべてみせる。
「愛を知らない悪魔に、何がわかるの。ボグスワフ」
 言うとボグスワフは押し黙った。
「愚かなボグスワフ、貴方には何もわからないわ。わたしたちのことなんて」
 そして、わたしのことも。
 わたしは黙ったままのボグスワフの横を通り抜け、机の上においた日記を手に取る。
「可哀想なシャーロット」
「何かしら?」
「必要ならば、俺が逃がしてやろうか? 一緒に逃げようか?」
 ボグスワフが言う。真顔だった。
 ここにきて、そんな真剣な顔はやめて。
「愚かなボグスワフ。何を言うの?」
 覚悟は決まっているの。かき乱さないで。
「そんなことして、主様を怒らせたらどうするの」
 そんなことはできない。
 ボグスワフは肩をすくめた。
「言ってみただけだ」
「そう。気持ちだけありがたく受け取っておくわ。そしてさよなら、ボグスワフ」
 できるかぎり微笑んでみせる。
 ボグスワフが首を傾げる。
「今日はわたし、屋敷の方で寝るの。我が侭言って、お養父さまと同じ部屋にして頂いたの」
 アンジェラはよく、眠れないと駄々をこね、お養父さまとお養母さまの部屋で眠っていた。それを密かに羨ましいと思っていた。
 親子だ、と。
「だからもう、ここには戻らないわ」
 ボグスワフは答えない。
「さよなら、愚かなボグスワフ。三年間、楽しかったわ」
「……そうか、さよなら、可哀想なシャーロット」
 わたしは微笑んだまま片手をふり、部屋を後にした。

 お養父さまとお養母さまの部屋は、白を基調にしたシックなデザインだった。
「はじめてはいりました」
 わたしの言葉に、お養父さまが一つ頷く。
 お養母さまのベッドに腰掛ける。
「あとで、怒られないかしら? 勝手にお養母さまのベッド使って」
「了解は、とってある」
「ならよかった」
 わたしは微笑んで、そのふかふかのベッドに体を横たえる。
「……シャーロット」
「お養父さま」
 お養父さまの言葉を遮り、天井を見上げたまま、わたしは呟く。
「わたし、三年間とても幸せでした」
 お養父さまは答えない。
「とてもとても、幸せでした」
 寝返りをうち、寝転んだままお養父さまの方を向く。はしたないこと。でも今日だけは許してください。
「本当はね、お養父さま、わたし、アンジェラを殺そうとしたことがあるの」
 お養父さまはいつもの少し厳しい顔をしたまま、何も答えない。
「憎くて。可愛いけれども、愛おしいけれども、とても憎くて。アンジェラさえいなければって思ったの」
 おかしいわよね、と笑う。
「アンジェラがいなければいないで、わたしはさらに必要となるのに」
「シャーロット、それは」
「でもね、お養父様。やっぱりわたしにはできなかった。こっそり当日、アンジェラを騙して入れ替わろうなんて考えたこともあったのだけれども、できなかった」
 だってわたしね、お養父様。
「アンジェラのこと、好きだから」
 視界が滲む。慌てて一つ息を大きく吸った。
 笑っていなければ。
「アンジェラのことも、お養父さまのことも、お養母さまのことも、ヴィクターも、サイモンも、バーバラも」
 指を折って、一つずつ、この屋敷にいる人の名前を挙げる。
 それから、ボグスワフ。愚かな悪魔。小さく唇だけでその名前を呟く。
「わたし、みんなのことが好きなの。大好きなの。本当は、どこの馬の骨ともわからないわたしに対して、みんなとても良くしてくれた。優しくしてくれた。愛してくれた」
 お養父さまの顔が、いつもよりも少し厳しく、険しく見える。
「本当ならお養父さま、わたし、今頃は孤児院を追い出される年齢になって、職もなく、飢えているころだったのに。お養父さまは、わたしに十分過ぎる住環境と、家族をくださった」
 ゆっくりと上体を起こす。
「ねえ、お養父様わたし本当に」
 微笑む。
「感謝してもしきれません」
 ぽろり、と頬を伝ったしずくの感触に慌てる。
「あ、れ。やだ、わたしったら」
 それを拭うわたしの手を
「シャーロット」
 小さく名前を呼んで、お養父さまが止めた。
「すまない、シャーロット。すまない」
「あ、謝らないでください。わたしは、本当に、平気なんです」
「私が平気ではないよ、シャーロット」
 お養父さまの震えた声。
「すまない」
 そっと伸びた大きな手が、わたしの頭を抱え込んだ。
「私の娘」
 小さな声に、きつく目を閉じる。涙が止まらない。
「おとうさま」
 小さい声で呟くと、頭を撫でられた。
「わたしが戻らなかったら、アンジェラ、たぶん、泣くと思うから」
「ああ」
「だから、そしたら、なぐさめてくださいね。わたし、アンジェラのこと大好きだったって、言ってくださいね」
「ああ」
「アンジェラには、ほんとうのこと、言わないでくださいね」
「ああ」
「あの子は、ちいさいから。でももし、大きくなったアンジェラが知ってしまったら」
 わたしは、お養父さまの手から抜け出し、持ってきた日記を手に取る。
 それをもって、お養父さまの隣に座った。
「これを。よかったら、見せてあげてください」
「これは?」
「わたしの日記です。孤児院にいたころからずっと書いてきたんです。毎日じゃないけど、ちょっとずつだけど。字、下手だけど」
 ぼろぼろになった装丁を撫でる。
「アンジェラが負い目に感じないように。わたしが、どれだけアンジェラのこと、好きだったか、書いてありますから」
 微笑む。
「みんな大好きです」
 お養父さまが頭を撫でてくれる。
 嬉しい。幸せだ。
「一人っ子待遇で、嬉しいです」
 小さく微笑んだ。
 お養父さまがその厳しい顔の中、少しだけ口元を緩めた。
 本当に、平気なのだ。
 わたしは幸せだった。幸せだ。
 好きな人達のために、生贄になるのならばそんなことなんでもない。身代わりにだって、なれる。なんだってできる。
 ただ、もし心残りがあるとするならば。

 その夜は、お養父さまと昔の話をしたまま、気づいたら眠っていた。
 お養父さまはずっと、手を握っていてくださった。
 目覚めて、それに気づいて、幸せにまた少し泣いた。

 お養父さまがまだ眠っているのを確認すると、早朝、わたしは部屋を抜け出した。
 そっと塔の階段をのぼる。
 三年間、使っていたドアを開ける。
「ボグスワフ?」
 小さく名前を呼んでみる。返事はない。
 ドアを開け放つ。
「……あきれた」
 ボグスワフは、わたしのベッドで気持ち良さそうに大の字になって寝ていた。
「悪魔も寝るのね」
 結局、彼がなんなのかは、わからなかった。
 毎日毎日顔をあせて、お互いを可哀想なシャーロット、愚かなボグスワフと罵り合っていたけれども。結局、ボグスワフが何者なのかわからなかった。
 わたしのことを、どう思っているのかも。本当に、可哀想なシャーロットと思っているのかも。彼が本当に、愚かなボグスワフなのかも。
 その髪をそっと撫でる。
 初めて触った。アンジェラの髪質と、よく似ていた。柔らかい白髪。
「ボグスワフ」
 名前を呼ぶ。
「ボグスワフ、ボグスワフ」
 心残りがあるとするならば、
「あなたがいてくれたから三年間、この塔の中でも寂しくなかった。悲観したりもしなかった。あなたは冷たくて意地っ張りで唐変木で悪魔だったけれども、わたしの話相手になってくれた。気まぐれで、口を開けば可哀想なシャーロットなんて言ってたけれども、あなたはわたしを不安に陥らせようとしていたけれども、あなたがいたからわたし、寂しくもなかったし不安でもなかったのよ。ボグスワフ。愚かなボグスワフ」
 心残りがあるとするならば、
「わたしは、ボグスワフ、あなたが大好きだった」
 この気持ちだけ。
「大好き」
 そっと囁く。
 ボグスワフは目覚めない。
 その頬に、そっと口付けた。
「愛している」
 この感情は、お養父さまに対するものでも、お養母さまに対するものでも、アンジェラに対するものでも、ない。ボグスワフだけに向ける感情。
「愛などわからない悪魔に、何を言っても仕方がないわね」
 苦笑する。
 なんて報われない恋だったのだろう。
 もう一度、ボグスワフの寝顔を眺め、部屋を後にした。
 さよなら、三年間幸せをくれた部屋。
 さよなら、愚かなボグスワフ。
 さよなら、愛しいボグスワフ。

 

 身に纏うは白い衣裳。婚礼衣裳。
 今日のために長く伸ばしていた黒髪を結い上げる。
 赤い紅。
「シャーロット」
「お養父さま、わたし、綺麗?」
 わたしの言葉に、お養父さまはいつもの厳しい顔で一つ頷いた。
「今まで、ありがとうございました」
 わたしは微笑んで頭を下げる。
 お養父さまは何も言わない。
 何も言わなくて良い。
 わたしは、しきたりどおり古い馬車に乗り込む。
 ベールを顔の前に。
「大丈夫。きちんと、決められたとおりに行います」
 微笑む。口に出してさよならは言わない。
「みんな、ありがとう」
 小さく呟くと、馬車が動き出した。
 お養父さまがじっとこちらを見つめている。
 両手で顔を覆うバーバラの肩を、そっとヴィクターが抱いていた。ヴィクターの奥様は数年前になくなった。再婚すればいいのに、あの二人。言っておけばよかったな。
 お屋敷を見る。
 三年間過ごした屋敷。今までありがとう。
 そして、その隣に建つ、高い塔を見上げる。
 わたしの城。
 さよなら、三年間幸せだったシャーロット。幸福なシャーロット。
 目を凝らしても、上の方にわたしの部屋は見えなかった。でもきっと、彼は窓からこちらを見下ろしているだろう。
 さよなら。愚かなボグスワフ。

 白き龍が、主様が、住んでいるというお社。山奥の、洞穴。
 馬車はしきたりどおり、わたしをおろし去って行く。
 振り返らない。
 決められたとおりに動くだけ。
 まっすぐに、洞穴の奥に進む。
 まっすぐ歩き、少し広い場所へ出た。明るい。
 小さく息を飲んだ。
 真っ白い、真っ白い、龍。大きな、龍。
 心臓が痛い程脈を打つ。深呼吸。
「主様、シャーロットと申します。どうぞ、よろしくおねがいします」
 しぼりだすようにそう言うと、頭を下げる。
 目を閉じる。
「どうぞ、領土に発展を」
 きつく、目を閉じる。
「可哀想なシャーロット」
 歌うように、主様が言った。
 その言い方に、聞き覚えがあった。
「え?」
 顔を上げる。
 真っ白い大きな龍が、主様が、その赤い瞳でわたしを見下ろしていた。
「のこのこココまでやってきて、どっちが愚かなんだ? 可哀想なシャーロット、愚かなシャーロット」
 ほんの一日前にも聞いた、だけれども懐かしい声。三年間ずっと聞いてきた、言い方。
「……ボグスワフ?」
 あの小さくて、少年のような、そんな悪魔の名前を呼ぶ。
 白髪で、赤い瞳の、悪魔。
 主様が口を開く。赤い舌が、ちらりとのぞく。笑うように。
「え、どうして。あなた、ボグスワフなの?」
「気づかないものだな、愚かなシャーロット」
「だ、え、なんで?」
 何度も何度も頭の中で確認してきた流れは、ふっとんでしまう。
 わたしは間抜けにも口をぽかりとあけて、白き龍を、主様を、ボグスワフを見上げる。
「あの塔は、花嫁が婚礼の儀までを過ごすための塔だ。その塔に住み着く悪魔が、無関係だと思ったのか? 可哀想で愚かなシャーロット」
 バカにしたような言い方。間違いなく、ボグスワフ。
「なんで、あなた、そんな」
 言葉にならない。聞きたいことは沢山あるのに、何も言えない。
「見極めたくてな。花嫁に値するか」
 ボグスワフは構わず、続ける。
「最初の娘はよかった。些か愚かで短絡的だったが、わざわざ俺のところにくる娘なんていないからな。楽しかった。だから、喰わずに一緒に暮らした」
「暮らした?」
「花嫁だからな」
「楽しかったから領土に実りをもたらしたの?」
 だとしたら、随分と優しい。
「実り? ああ、あれは偶然だ。俺にそんな力はない」
 こともなげにいう。
「なんていうこと……」
 それじゃあ、わたしはなんのために。
 ボグスワフは、わたしに構わず続ける。
「次の娘は、つまらなかった。始終びくびくして、めそめそ泣いていた。五月蝿かったんで、喰った。だが、不味かった」
 わたしを見下ろす赤い瞳。
「大体の娘はつまらなかった。五月蝿かったしな。別に、俺が生贄を望んでいたわけではないんだが、くれるというならばもらうつもりだった。だからって、あれはない。あいつらは邪魔だった」
 ため息のようなものをつく。
「だから、来る娘を最初に見極めようと思ってな。五月蝿そうだったら、ここに来る前にお引き取り願おうと思っていた。喰ってもまずいし」
「……だから、塔にいたの?」
「ああ。可哀想なシャーロット」
 そして、ボグスワフは瞳を一度閉じた。次の瞬間には、あの小さい少年の姿になっていた。どうなっているのか、まったくわからない。
「お前は面白かった、シャーロット。俺がどんなに可哀想だ可哀想だと言っても、お前は本気で自分のことを可哀想だと思っていなかっただろう?」
「当たり前だわ。わたしは、幸せだったもの。愚かで愛を知らぬボグスワフにはわからないでしょうね」
 揶揄するように唇を歪めてみせる。
 ボグスワフは楽しそうに笑った。
「俺を愚かだという人間も、お前がはじめてだ。愉快だ。実に愉快だ」
 ボグスワフが近づいてくる。
 わたしのベールをあげる。
「俺を愛しているという人間もな」
「なっ」
 真顔で言われて、顔に血が上る。
「あ、あなた! 起きていたのっ?
 悲鳴のような声が漏れる。
「ああ、愚かなシャーロット」
 楽しそうにボグスワフが笑う。
「愛を知らぬと罵った相手を、愛しているとは。お前は本当に、可哀想で、愚かだな」
 嫌なやつ。本当に、嫌なやつ。
 だけれども、とても愛おしい。
 どうしよう。困ってしまう。
「だからお前は合格だ。喰わない」
 そして、わたしをつま先から頭まで眺め、
「意外と似合うな、馬子にも衣装か」
 なんて言う。
 嫌なやつ。
「喰わないわたしを、どうするの?」
「花嫁なんだろう?」
 なんのための格好だよ、これ、と小馬鹿にしたようにボグスワフは言った。
「花嫁?」
「幸せだなー、シャーロット。愛していると告げた相手の花嫁になって」
 嫌なやつ。顔をしかめる。
「卑怯だわ」
「何が」
「何がかはわからないけれども」
 少し唇を尖らせる。ボグスワフは楽しそうに笑う。赤い瞳を細めて。
「ああ、それから、生活の本拠はここじゃないから安心したらいい。まあ、元の場所には戻れないけれども。それから」
 わたしの頬にそっと手をあてる。
「可哀想なシャーロット。もしも、もしもお前が望むのならば、お前をこちらの眷属にしてもいい。人間には戻れぬが、長寿をあたえよう」
 真剣な赤い瞳がわたしを真っすぐ捉える。
「永遠に、ともにいよう」
「……どうせまた、五十年後に新しい花嫁を呼ぶのでしょう?」
「なんだ、ヤキモチか」
「違う」
「お前が俺とともにいてくれるのならば、新たな花嫁を要求することはやめるよ。別に、もともと必要だったわけじゃないし。別に俺なにもしてないし」
 つまらなさそうにボグスワフが言う。
 その赤い瞳をそっと覗き込む。
 何を考えているのかわからない。
 でも、わたしと一緒にいてもいいと考えてくれている。
「わかったわ」
 わたしは一つ頷いた。
「じゃあ」
 少し嬉しそうに笑うボグスワフに
「でも、条件があるの」
 わたしは微笑む。
「愛しているって言って」
 途端にボグスワフは、つまらなさそうな顔になった。
「そうしたら、わたしはあなたとずっと一緒にいる」
「愛を知らぬと言ったのはお前だろう、シャーロット。言う訳がない」
「じゃあ、無理だわ」
「ならば、五十年後に新しい花嫁を要求するまでだ。今度は最後までともにいてくれる花嫁をな」
 吐き捨てるようにボグスワフが言う。いつものような口喧嘩。
 ああでも、ボグスワフ。あなた、結局、寂しいだけじゃないの。永遠に一緒にいてくれる相手が欲しいだけじゃないの。
 愚かなボグスワフ。愛おしいボグスワフ。あなたが望むのならば、わたしはあなたと永久に一緒にいるのに。
 望むのならば。
「そう。じゃあ、この話は一旦保留にしましょう?」
 わたしは首を傾げる。
「これから先、時間はたっぷりあるんですもの、わたしがあなたに愛を教えてあげる。愚かで愛を知らぬボグスワフ?」
 ボグスワフが怪訝な顔をする。
「そして、愛していると言わせてやるわ」
 わたしがわざとらしくそういうと、ボグスワフは「おお怖い」と肩を竦めてみせた。
 わたしは薄く微笑んだ。
「愚かなボグスワフ。わたしはあなたを愛しているわ」
 そうしてわたしは、ボグスワフに向かって左手を伸ばし、頬に添える。そして、
「ごめんなさい」
 隠し持っていた剣を、右手に持ち、
「シャーロット?」
 ボグスワフの腹部に突き刺した。抱き合うようにして。
「っ!」
 短い悲鳴をあげたボグスワフに突き飛ばされる。
「いまだ!」
 背後から聞こえる男の声。足音。 
「ごめんなさい」
 突き飛ばされた姿勢のまま、地面に倒れ込んだままつぶやく。
 私の横を騎士様が駆け抜け、最近見つかったという伝説の剣で、
「滅びろ、魔獣!」
 ボグスワフを、
「……ああ、なるほど」
 斬り裂いた。
 倒したぞ! お嬢様大丈夫ですか? かけられる声に返事をせず、ボグスワフに近づく。
 まだ少し、開かれた赤い瞳。
「そう、だったのか」
 かすれた声が聞こえた。
 私は泣きそうになるのをこらえながらボグスワフに一度頭を下げた。ごめんなさい。
「だまされた、な」
 私がもらわれてきたのは生け贄にされるためだけじゃなかった。できれば主様を殺すこと。主様がいなくなっても、領土の発展を約束する新しいパトロンを見つけたから。主様はもう、いらなかった。
 ボグスワフが何か言った。それはもう、言葉にはなっていなかった。
 それでも、私には彼が最期になんと呟いたのかわかった。
「可哀想な、シャーロット」
 代わりに自分でそう呟くと、しゃがみ込んだ。
 顔を覆う。
「大丈夫ですか、お嬢様」
 返事はできない。嗚咽が漏れる。
「怖かったですよね、もう大丈夫ですよ」

 愚かなボグスワフ、可哀想なボグスワフ。
 主様があなただと知っていたら、こんな役目、引き受けたりしなかったのに。
 主様を倒すことを要求されていた。たとえ、命と引き替えにしても。それが今まで可愛がってもらった恩返しだと思っていたから、引き受けることに異論はなかった。
 それでも、ああ、可哀想なボグスワフ。
 万が一、無事に戻れたら、まっさきにあなたに会いに行くつもりだったのに。
 あなたが永遠に一緒にいようと言ってくれたこと、うれしかったのに。
 なんて愚かなシャーロット。
 こんなことなら、あの時あなたの手を取って逃げれば良かった。いいえ、本当はあなたを刺さずに逃げればよかった。逃げることができたはずなのに。もっと他の道を選ぶことができたはずなのに、なにもできなかった。
 家族を、裏切れなかった。
 ああ、わかっていたはずなのに。
 ウマい話には裏があるということを。
 可哀想な、シャーロット。
 愚かな、シャーロット。


僕のカノジョの首が長過ぎる

 小柄ですばしっこくって、妊婦さんには電車で席を譲って、自分だってそんなに力持ちじゃないくせにお年寄りの荷物を持ってあげて、クラスの子の頼みも断らなくて、
「でも宿題は自分でやらなきゃだめ! わかんなかったら教えてあげるから」
 それでいて言うべきことはちゃんと言って、頭もいい。一重なのを気にしているけれど、僕はそこだってチャーミングだと思う。
 それが僕のカノジョ、ミーちゃん。付き合ってもうすぐ一年になる。

「ヨーくん!」
 むこうの方からミーちゃんが小走りでやってくる。僕は立ち止まって彼女を待つと、走っている間に脱げかけたパーカーのフードを直してあげる。
「ありがと」
「いいえー」
 ミーちゃんは一重なのを気にしている。クラスのませた子にこっそりと、二重にする方法を聞いていたぐらい。
 でも、もっと気にしていることがある。
 それは首が伸びることだ。

 ミーちゃんとは小五になった去年、初めて同じクラスになった。その前から、ちんまりしていて、可愛い子がいるなって思っていた。いつもフードを被っていてちょっと変わった子だな、とも思っていたけど。
 同じクラスになって、中身もすっごくいい子だなって思った。
 勇気を出して告白したら、ミーちゃんってば少し躊躇ってからこう訊いてきたのだ。
「とっても嬉しい。だけど、私、ろくろ首だけどいいの?」
 ミーちゃんは、お父さんが人間で、お母さんがろくろ首らしい。つまり、妖怪とのハーフ。他は殆ど人間だけど、ミーちゃんも首だけは伸びるらしい。
 いつも被っているフードは、首伸び防止らしい。確かにフード被っていれば、つっかえちゃって首が伸びなさそうだもんね。
 フード被っていると怒られる授業中なんかに、よく頭を抱えるような、抑え込むようなポーズで頬杖ついていたのも、そういうことらしい。
 で、つまり、どういうこと?
 事態がよく飲み込めない僕に、ミーちゃんは実際に首を伸ばしてみせてくれた。ミーちゃんが、
「ほんのちょっとだけど」
 と言って伸ばしてくれた首は、一メートルぐらいの長さになった。
 正直、びびった。
「……ごめん、ミーちゃんのこと嫌いになったとかじゃないんだけど。ちょっと理解するまで待っててもらっていい?」
「うん。急にびっくりしたよね、ごめんね」
 ということで、その日は一旦保留にしてもらった。だって、可愛いミーちゃんの首が伸びるんだもん、そりゃあ、びびるよ。
 だけど家に帰ってから一人でじぃっと考えて、やっぱりミーちゃんのことが好きだなって思った。そりゃあ、ろくろ首なことにはびっくりしたけど、そんなこと関係なくミーちゃんが好き。
 それに、わざわざ僕にろくろ首だなんて言わなくてもいいのに。黙っていることもできたのに。教えてくれたこと、とっても誠実だなって思った。
 翌日、そう言ったらミーちゃんは、
「ヨーくんが真剣に言ってくれたから、私も真剣に言わなくっちゃって思ったの。それに、ヨーくんなら言いふらしたりしないって、信じてたから」
 ってにっこり笑って言った。
 ああ、本当可愛い。僕のことを信じてくれている、自慢のカノジョだ。

 ミーちゃんは首が伸びることを除けば、普通と同じぐらい、寧ろ普通よりもいい子だ。
 だけど、この首が伸びることが曲者なんだ。
 ミーちゃんにとって首は多少伸びている時の方が自然らしい。普段は無理して首をすくめている状態なんだって。だから、少し油断すると首が伸びそうになってしまう。
 例えば、
「くしゅんっ」
「ミーちゃん、首っ!」
「ふわぁぁ、ねむーい」
「ミーちゃん、首っ!」
「あははは!」
「ミーちゃん!」
 こんな風に。
 だから僕はいつも油断なく、ミーちゃんを見ている。おかげでクラスの子には、ラブラブだのなんだのからかわれているけれども、ラブラブなのは事実だからどうでもいいよ。
 授業中なんか、ミーちゃんが退屈になって、気もそぞろになっていると危ない。
 ミーちゃんより後ろの席の僕は、ミーちゃんの首が少しでも伸びると、
 かっしゃん。
「……またお前か」
「ごめんなさい」
 筆箱を床に落とす。
 ミーちゃんはびっくりした顔で振り返って、それから慌てて片手で頭をおさえる。
「本当、おっちょこちょいだなぁ」
 先生に呆れたように言われても気にしない。
「ヨーくん、さっきはありがとう」
 あとでミーちゃんがそう言ってくれるから。

 ところで、僕には高校生のお姉ちゃんがいる。
 ある日、お姉ちゃんが帽子とマフラーが一体になったものを買ってきた。毛糸の帽子の両脇に、ながーくマフラーがくっついている。帽子を被ってそのマフラーの部分を首に巻くらしい。
「どー? 可愛いでしょー?」
 わざわざ僕の前にきて、見せびらかして来る。
「うん、可愛い可愛い」
 お姉ちゃんは買った物を一通り、家族に見せたいタイプなのだ。迷惑だけど。
 僕の返事にお姉ちゃんは満足そうに頷いてから、
「ってか、あんたも似合うんじゃない?」
 何を思ったのか。その帽子をすぽっと僕に被せた。ぐるりとマフラーも巻かれる。毛糸が少しちくちくする。
「あはっ、かわいー! 女顔でよかったねー」
 楽しそうに笑いながら、お姉ちゃんはまったく褒めてないことを言う。
 女っぽいとか言われて僕は少しむっとする。
 けれども、それよりも気になるのがこの帽子。首とくっついているから、これ、フードと同じように利用できないだろうか。マフラーをきゅっと巻いていたら、首が伸びにくくならないかな。
 フードだけじゃ味気ないし、これミーちゃんが被ったら絶対可愛い。
「これ、どこで買ったの? いくらぐらい?」
「なに、あんたも欲しいの?」
 お姉ちゃんは意外そうな顔をして逆質問をしてくる。それから、ははーんと何かに気づいて、にやりと笑う。
「ミーちゃんにあげるんだ?」
 図星をつかれて、僕はちょっと赤くなりながら頷く。
「あは、生意気、かわいいー。今度ミーちゃん連れてきなさいよねー」
 ミーちゃんとも仲良くて、ミーちゃんに、
「ヨーくんのお姉さんはちょっと、ブラコンだよね」
 と呟かれたお姉ちゃんは楽しそうに笑った。
「これね、駅ビルの雑貨屋さんだよ。あんたのお小遣いじゃちょっと高いかもなー。あ、でも待って、クーポンあるからあげるよ」
 お店の場所をお姉ちゃんに教えてもらって、五百円の割引クーポンももらった。
 今度のお休みの日、ミーちゃんと一緒に行こう。

 ミーちゃんには、帽子をプレゼントしようとしていることは黙って、ただ買い物に行こうと誘った。
 ミーちゃんがリラックスできるように、普段はミーちゃんの家出遊ぶことが多い。でも、ミーちゃんも僕も外の方が好きだ。
 久しぶりのお外デートにミーちゃんは浮かれていて、それに首が伸びないかハラハラしながらも僕もウキウキしていた。
 お姉ちゃんに教えてもらった雑貨屋に、さりげなくミーちゃんを誘導する。
「あ、この帽子可愛いよ?」
 そう言ってミーちゃんに例の帽子を渡す。
「わー、ほんとだー!」
 ミーちゃんはそれを被ってから、鏡を覗き込む。
「かわいー」
 うん、かわいい。
 ミーちゃんにマフラー部分を巻いてあげながら、
「首、どう?」
 小さい声で訊いてみると、
「フードほどじゃないけど、いいかも」
 と笑った。よしっ。
「んー、でもちょっと高いね」
 値札を確認しながら、ミーちゃんが唇を尖らせる。
 ここのメインターゲットは、お姉ちゃんみたいな女子高生だからね。小学生にはちょっと、難しい。
 でも、僕にはお姉ちゃんにもらったクープンがある! ……それってちょっと、ダサイけど。
 ミーちゃんがお手洗いに行っている隙に、そっとその帽子を買った。ミーちゃんが特に気に入っていた、ピンク。
「ミーちゃん、これ」
 渡すとミーちゃんは、目を大きく見開いて、心底驚いたような顔をしていた。
「え、え、いいの? え?」
 ミーちゃんはただただ、帽子と僕の顔を見比べる。
「もうすぐ一年になるから、記念」
 言うと、ミーちゃんの目がますます大きくなる。
「そうだね! え、でも、いいの? 私なんにも……」
「僕があげたいからいいの」
「だけど」
「半分はお姉ちゃんからだよ」
 ミーちゃんがあまりにも困ったような顔をするから、僕はそう言った。
「ミーちゃん、あんまり遠慮するのも失礼ってもんだよ」
「え、あ、うん」
 ミーちゃんは頷くと、帽子を見る。じわじわと、笑みが広がっている。
 それから、ぱっと弾けるように笑い、
「うん、とっても嬉しい! ありがとう」
 ぺこり、と頭を下げてきた。
「うん、よかった」
 僕も笑い返した。
 お店の人がちゃんとタグをとっていてくれたから、ミーちゃんは早速その帽子を被ってくれた。可愛い。
「ヨーくんは何がいい?」
「んー」
 ミーちゃんと一緒に居られれば、それでいいんだけどな。
 ミーちゃんは右手で何度もマフラーの部分を撫でている。大事そうに。それがなんだかとっても嬉しそうで、僕まで嬉しくなってくる。本当、それだけで十分だ。
 帽子を買った後も、二人でお店を色々見て、そろそろ帰ることにした。
「本当にありがとうね」
 駅ビルを出たところで、ミーちゃんがもう一度言ってきた。
「ううん。気に入ってくれてよかった」
「うん、大事にする」
 ミーちゃんが、ふにゃりんと笑う。僕もつられて笑う。
 たまには、手を繋いでもいいかな、なんて思っていると、
「あっ!」
 ミーちゃんが大声をあげた。
「火事!」
「えっ」
 ミーちゃんが指差した方を見る。前方の方、道路を挟んで反対側。遠くに見える高いマンションから煙が出ていた。冬で乾燥しているから火の扱いには気をつけましょうってテレビで言っていたのに。
 消防車はすでに来ているみたいだった。家に帰るには、普段この道をまっすぐ行くけれども、あの辺りは危ないから避けて帰ろうかな。そんなことを思っている横で、ミーちゃんがぱたぱたと駆け出した。火事の方に向かって。
「ミーちゃん!」
 もう、意外と野次馬根性あるんだから。
 僕も慌てて後を追う。野次馬達の最後尾で、ミーちゃんがぴょんぴょん飛び跳ねながら火事を見ている。
「ミーちゃん、危ないから」
 名前を呼ぶと、
「ヨーくん、大変」
 ミーちゃんが僕の片手を引っ張る。
「上の方、小さい子がいる!」
 言われて、よぉく目を凝らしてみると、一年生ぐらいの男の子がベランダで泣いていた。
「ヨーくん! 助けなきゃ!」
 ミーちゃんが言う。当たり前のように。
 ミーちゃんのそういう責任感が強くて、優しいところ大好きだけど、これはさすがに危ない。僕たちみたいな小学生のやることじゃない。
「ミーちゃん、大丈夫だよ。レスキューの人がどうにかしてくれるよ」
 ほら、はしご車がどんどんはしごを伸ばしていく。あれで助けるんだ。小さい頃、絵本で見た。
 はしごが伸びて伸びて、
「ああっ」
 ミーちゃんが悲鳴みたいな声を漏らした。はしごが、届かない。足りない。ああもう、無駄に高層マンションだから。野次馬の中で溜息のような声が漏れる。
 あんな高いところ、どうしたらいいんだろう。そう思っていると、
「ヨーくん」
 ミーちゃんが背伸びして僕の耳に顔を近づけると、
「私なら、届くよ」
 告げた。顔を離すと、今度は僕を真っすぐ見てくる。
 ミーちゃんなら、届く?
 ああ、確かに、ミーちゃんは前言っていた。高層ビルの屋上ぐらいまでなら伸びるよ、って。だけど、
「でも駄目だよ。危ない」
 それに、
「バレちゃうよ」
 ミーちゃんがろくろ首だってこと。
 バレて生きにくくなったら、妖怪横町に引っ越して、妖怪小学校に転校させられるかもって、ミーちゃんが言ってたんじゃないか。そんなの、嫌だよ。
「消防の人はプロなんだから、助ける方法はちゃんとあるよ」
「だけど、もたもたしているとあの子死んじゃうよ」
 ミーちゃんが少し潤んだ目で、僕を見てくる。僕はぐっと言葉に詰まる。
「助けにいかなかったら、私、絶対後悔する」
 そうだね。ここで助けにいかなくてあの子になにかあったら、ミーちゃんは多分寝込んでしまうだろう。それも嫌だ。
「だけど、危ないよ」
 火事だって危ないし、バレてしまうことだって危ないよ。
「ヨーくん」
 ミーちゃんが右手で首の辺りに触れた。まっすぐに、射抜くような鋭い眼差しで僕を見てくる。
「私ね、この首のこと、嫌いになりたくない」
「……嫌いに?」
「今は嫌じゃないの。ヨーくんがそれでも好きだよって言ってくれたから、首のこと、嫌いじゃないの。だけど、でもたまぁに心のどこかでいやだな、って思うの。なんにも役にも立たないくせにって。だけど」
 ミーちゃんがちらりと、マンションの方に視線を移す。
「今、役に立てる。これで役にたてたら私、嫌いにならないですむ」
 寧ろ見捨てたら、首のことも自分のことも嫌いになる、とでも言いたげだった。
「いつもヨーくんに助けてもらってるから、私だって誰かを助けたい」
 そんなこと気にしなくったって、ミーちゃんはいつも、誰かを助けているじゃないか。
 なんだか、泣きそうになる。
 だって、ミーちゃんの目は真っすぐに僕を見ていて、僕が駄目だって言ったら、僕の手を振り払ってでも助けにいっちゃうだろうな、っていうのがわかったから。そういうミーちゃんのこと好きだけど、嫌いだよ。大嫌いだ。
「……条件があるよ」
 溜息まじりそういうと、ミーちゃんは少しほっとしたように表情を緩めて、頷いた。
 野次馬の群れを抜け、大人の間をすり抜けて、火事になっているマンションの、隣のマンションに向かう。マンションの裏辺りにある植え込みのかげにそっと隠れる。
「これ被って」
 駐車場に置いてあった、バイクのヘルメットをミーちゃんに被せる。これで顔が隠れる。
「勝手に持ってきて、泥棒……」
 ミーちゃんがごにょごにょ言ってたけど、
「こういうのはキンキューヒナンって言って許されるってテレビで見たよ」
 強気に押し通した。
 こうやって被せておけば、ミーちゃんの顔が見られることもないし、顔にやけどとかすることもない。
 ミーちゃんの手をぎゅっと握る。
「危ないと思ったら、途中でも止めるからね」
 止めてもミーちゃん、きかなさそうだけど、だからって僕が折れるわけにはいかない。
 ミーちゃんは頷いた。
 ミーちゃんの首がするすると伸びていく。火事のマンションの方に向かって。
 ある一定の長さ以上を伸ばすには、時間がかかるってミーちゃんが言っていた。首の伸びる速度は、少しゆったりしたものだった。
 僕はミーちゃんの体を守るようにしながら、物陰に隠れてそれを見ていた。
 ミーちゃんの首はどんどん伸びていく。被ったままになっている帽子のマフラー部分が、ひらりと風に揺れた。
「なんだあれっ!」
 誰かの叫び声がする。野次馬のだろうか。ああもう、ミーちゃん本当気をつけて。
 祈るように握ったミーちゃんの手に力を入れる。
 野次馬のざわめきを無視して、ミーちゃんはマンションに向かっていく。ベランダで泣いていた子どもも、あっけにとられたようにミーちゃんを見ている。ミーちゃんは、ベランダまでたどり着くと、くるり、と子どもの周りをまわる。
 下で誰かが悲鳴をあげる。なんにもしない大人は黙ってろよ。
 子どもは怯えたような顔をしていたが、ミーちゃんがなにか言ったようだ。ミーちゃんの首の、上の方にそっと掴まる。ミーちゃんはくるり、と自分の首をその子に巻き付けて支えると、ゆっくりと下に降りていく。
 地上では、もうなんだかわからない声が響いている。ところどころで、子どもが助かってよかった、という声も聞こえて、僕はひとまず安堵する。
 ミーちゃんは地面にそっと、子どもをおろした。子どもの名前を呼んで、母親っぽい人が駆け寄って来る。子どもはまた、途端に大声で泣き出した。
 うんうん、無事に助かってよかった。
 僕がそう思っていると、
「化け物っ!」
 そんな叫びと一緒に、小さな石がミーちゃんの方に飛んでくる。
 それに後押しでもされたように、野次馬達が悲鳴や罵声をあげはじめる。ミーちゃんの傍で子どもを抱えていた母親も、小さく悲鳴をあげると子どもを庇うようにしてミーちゃんに背中を向けた。
 だって、ミーちゃんが助けたのにっ!
 飛び出ていって、そこにいるやつらを片っ端から殴りつけてやる! のを、ぐっとこらえる。そんなことしたら、一番傷つくのはミーちゃんだからだ。
「ミーちゃん、はやく戻って!」
 ミーちゃんの首がするすると縮み出す。
「逃がすか!」
 誰かが叫び、投げた石がミーちゃんのヘルメットにあたった。
「ミーちゃん!」
 それでもミーちゃんは止まらずに、こちらに戻ってくる。
「追いかけろ!」
 誰かが叫ぶ。
 ミーちゃんの首を辿って、こっちに来られたらミーちゃんのことがバレてしまう。どうしよう。
 何かないかと意味もなく視線を動かし、
「あっ!」
 ミーちゃんの鞄についている、防犯ブザーが目にとまった。ミーちゃんごめん、これ借りるね。返せないけど。
「手、離すよ!」
 ミーちゃんに一度声をかけて、ミーちゃんから手を離す。それから防犯ブザーを手に取ると、火事のマンションの方に向かって走る。
 火事現場だからと、野次馬は消防士さんに止められて先に進めないでいる。この隙に。
 僕は、防犯ブザーのスイッチをいれると、それをミーちゃんがいるのとは反対の方、野次馬の背後に向かって思いっきり投げた。
 びーっという大音量が、響き渡る。
「なんだ?」
 野次馬達の視線がそっちに逸れるのを確認すると、僕はまた急いでミーちゃんの元へ戻る。
 ミーちゃんは、大体いつもの長さに首を縮めたところだった。
「ヘルメット脱いではやく!」
 急かすと、ミーちゃんも慌ててそれを脱いだ。
「ありがとうございました!」
 一応お礼を言って、それを地面に置くと、ミーちゃんの手をひっぱって走り出した。とりあえず、ここから離れないと。
「なんだよ、この防犯ブザー」
「っていうか化け物!」
 背後に聞こえる声に、どうにかミーちゃんのことがバレずに済んだのだけは感じられて、それには少し、安心した。

「ヨーくんっ、ちょっとっ」
 ミーちゃんに名前を呼ばれて、慌てて足をとめた。気づいたら、駅ビルの辺りにまで戻ってきていた。無我夢中で走ってきたから、息があがっている。
「も、無理っ」
「ごめんっ、ミーちゃん」
 肩で息をするミーちゃんに慌てて謝る。近くにあった低い花壇にミーちゃんを座らせた。
「ミーちゃん、ごめんね、大丈夫?」
「うん」
 頷くもののミーちゃんの息は荒い。申し訳なく思いながら、僕は外れかかったミーちゃんの帽子を直してあげた。
「……ヨーくん、ごめんね」
「え? 何が?」
「せっかくくれたのに、マフラーのとこ、ちょっと焦げちゃった。外せばよかった……」
 泣きそうな顔でミーちゃんが指し示した先、確かにちょっとマフラーが焦げている。だけど言われないとわからない程度だし、そんなことよりも、
「マフラーなんてまた買えばいいんだよっ! それより、ミーちゃんが無事でよかった……」
 そんなことよりも、もっと気にすることがあるじゃないか。
「うん、あの子助けられてよかった」
 そう言って笑うミーちゃんは、本当に満足そうな顔をしていた。あのあと、化け物だ、とか言われたのに。
「関係ない人になにを言われても平気なの」
 ミーちゃんは、僕の心を読んだように、笑いながら言う。
「ヨーくんがわかってくれていて、あの子が助けられたからそれでいいの」
 笑いながらも、ちょっとだけ悲しそう。口元は笑っているけど、眉根が寄っている。
「うん、僕はわかっているよ」
 だけど僕はそれに触れずに、代わりにミーちゃんの頭を撫でた。
「ミーちゃん、格好良かった」
 そういうと、ミーちゃんは、今度は心底嬉しそうに笑った。ここでそうやって笑う、ミーちゃんが大好きだ。
 ミーちゃんの息が整ったのを見計らって、帰ろうと片手を差し出した。
「防犯ブザー、僕が投げちゃったから。ごめんね」
「ううん、だって助けてくれたんだもん。嬉しかった、ありがとう」
「たいしたことないけど」
 ミーちゃんがやったことに比べたら、なんでもない。
「だから、僕、今日送っていくよ。防犯ブザーないと危ないもん」
 だからほら、っとミーちゃんに差し出した手を近づける。恥ずかしいからはやくしてよ。
 ミーちゃんは少しきょとんっとした顔をしていたけれども、
「うんっ!」
 いつもより赤い顔で大きく頷くと、僕の手に手を重ねてきた。

 火事は結局、大した怪我人もなく無事に消火されたらしい。新聞の地方欄にちょろっと書かれているぐらいだった。
 男の子を助けた謎の首のことについては、どこの新聞やニュースでも話題になっていなかった。ミーちゃんが言うには、妖怪情報委員会っていう妖怪の組織があって、そこが情報をもみ消したらしい。
「私達が知らないだけで、結構あっちこっちで妖怪活躍してるんだよ」
 とミーちゃんは少し誇らしげに語ってくれた。そういう妖怪が活躍した情報を、妖怪情報委員会が情報操作して、僕たちは天気とか別の理由をつけて認識しているらしい。もっと妖怪のおかげだってアピールすればいいのに、とも思うけど、人と妖怪がわかり合うのも難しいのかもしれない。だって僕、ミーちゃん以外の妖怪はやっぱり怖いし。
「表立って褒められないのに頑張るのって、かっこいいね」
 僕が言うと、ミーちゃんはにっこり笑って頷いた。
 ミーちゃんは、今回のことをきっかけに、妖怪レスキューに将来なるんだって決めたらしい。妖怪として人間を助けるんだって。僕としては、危ないことはして欲しくないけれども、人助けしたいっていうのはすっごくミーちゃんらしいな、とも思う。夢の話をするミーちゃんはきらきらしていて、いつもより可愛いし。
 仕方がないから僕はお医者さんを目指すことにした。そうしたら、ミーちゃんが万が一怪我したりしても、治してあげられる。ミーちゃん、首以外は普通の人間だし。

「ヨーくん!」
 ミーちゃんが、僕の名前を呼びながら、駆け寄って来る。ひらひらと、帽子のマフラー部分が揺れる。
 あの時、少し焦げた部分は、ミーちゃんのママが小さなレースをつけてくれたので目立たなくなっている。ミーちゃんは可愛くなったって笑っているし、僕は密かに、それはミーちゃんの勲章だと思っている。

 ミーちゃんは、小柄ですばしっこくって、火事の中男の子を助けたりしちゃうような、優しくて勇敢な心の持ち主で、頭もいい。一重なのを気にしているけれど、僕はそこだってチャーミングだと思う。
 人とはちょっと首が変わっているけれども、それだって個性だし、それがミーちゃんだ。首を生かす仕事を目指し始めたミーちゃんは前よりもキラキラしている。
 これが僕の自慢のカノジョです。


この本の内容は以上です。


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