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なないろマスカレイド

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スーレのねむ

 

夢売りの話

 

腐乱天使

 

サヌザと共に ~草原の道~

 

ヘブンリー・ブルーはここにある

 

酔夢春秋

 

セイレーン

 

樹林の見た夢 ~続・スーレの睡り~

 

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(お題競作企画参加作品を中心に、掌~短編を集めました。それぞれのお題は、後書きに記載してあります)


スーレの睡り

 リュバ・ジンは夢を見たのだった。
 暁闇に独り目覚めた彼は、夢の呼び声に導かれるままにひっそりと臥所を抜け出し、未だ微睡む集落を後に樹林に分け入った。
 片時も手放さぬ愛用の槍を携えて、彼は音もなく木々の間をすり抜けてゆく。誇り高い戦士であり練達の狩人である彼の、しなやかな筋肉に覆われた敏捷な躯は、樹林に溶け込み、気難しい精霊たちを騒がせずに歩くすべを身に付けている。
 いつしか空が白み、湿地の泥からはひそやかな蒸気が立ち昇って、低くたゆたった。窪地に溜まった靄の中に巨木の梢越しの曙光が差し込むと、夜の間眠っていたベルサの花たちが重たげに首をもたげて、重なり合った花弁をはらりと解く。あちらでもこちらでも、乳色の靄の底に、薄紅を滲ませた花が次々と開きはじめる。粘つく泥にまみれたリュバ・ジンの裸足の踵が、わだかまる靄を乱して花々の間を浮き沈みしながら、幻のように窪地を過ってゆく。頭上で鳥が唄い始めた。
 やがて昼の熱気が大気に立ちこめ、湿地には虫柱が立った。黙々と歩き続けるリュバ・ジンの漆黒の膚が汗に濡れて光る。汗ばんだ膚に、温められた泥と踏みしだかれた草の匂いが絡みつく。
 大樹の天蓋を透かして降り注ぐ陽光にまだらに彩られて、リュバ・ジンの引き締まった肢体は、ふと、樹下を過ぎる豹に似る。膚の上を通り過ぎる金色の光の斑と滑るような身ごなしのせいだけではない。リュバ・ジンの心は今、己が人であることを忘れかけている。それが樹林に受け入れられるための狩人たちの秘密だ。樹林に溶け込み獣に近づいた狩人は、人間の気配が薄くなるため、獣たちに恐れられずに獲物に近づくことが出来る。けれど、完全に獣になりきってしまってはならない。心のどこかに常に人である自分がいて、必要な時にはいつでも瞬時に己に立ち返ることが出来なければならない。獣に近づきすぎた狩人は、樹林に取り込まれてしまう。経験の浅い若い狩人が稀に陥る樹林の罠だ。樹林の精霊は、芳香を放つ花が虫を誘うように、瞳に媚を湛えた娘たちが若者を誘うように、若い未熟な狩人を誘う。取り込まれぬよう、けれど騒がせて機嫌を損ねぬよう、狩人たちは、気まぐれな女を扱うような注意深さで樹林にその身を滑り込ませる。
 小さな流れを跨ぎ越え、絡まりあった蔓草を押し分けて、生い茂る下草の陰に小暗い湿地を隠した樹林の奥深く、リュバ・ジンは分け入ってゆく。足元の朽葉の下で青光る甲虫が蠢き、葉陰にきらめく水溜りには虹色の蝶が水を求めて群れ集う。
 光は移ろい、影が躍り、樹冠に隔てられた蒼穹では、日が天頂に差し掛かった。温気に蒸れた林床は、朽ちゆく樹木の芳香を物憂く垂れ込めさせる。
 リュバ・ジンは足を止め、水を蓄えた草蔓を小刀で切り落として滴る樹液で喉を潤し、腰に下げた袋から取り出した僅かな干し肉と手近の枝から摘み取った果実、それに瑞々しいラシの茎を小刀で切り開いて掴み出した乳白色の髄で簡素な食事を摂った。そしてまた、歩き始める。彼ら身軽で強靭な樹林の狩人たちは、僅かな食糧で丸一日でも疲れることなく樹林を駆けることができる。実際、彼は、大きな獲物を追って日がな一日樹林を彷徨ったことが幾度もある。
 けれど、今日、彼が追っているのは、獲物ではなく、ただ、明け方の夢の痕跡だった。
 明け方の夢が、樹林の向こうから、彼を呼んでいる。
 呼んでいる、呼んでいる……。
 呼び声の残響を聴いたような気がして金色の眼差しをふと彷徨わせ、一瞬遠くに意識を飛ばしたリュバ・ジンは、己の足が小枝を踏み割る音に我に返って、歩行に注意を戻した。細心の注意無しに樹林を歩くのは、聖なる樹林を冒涜し狩人の誇りを汚す愚行だ。リュバ・ジンは己を愧じた。
 あたりの景色が見慣れぬものになっていることにふいに気づいて、リュバ・ジンは戸惑った。集落から一日で歩いてこられる距離に、このような地形があっただろうか。
 けれど、一瞬心を掠めた疑念は、身の裡をいっぱいに満たす夢の呼び声に押しのけられて、すぐに霧散した。
 己がどこに向かっているかも知らず、ただ、何かに引き寄せられるままに、リュバ・ジンは歩き続ける。いつのまにか覚めない夢に入り込んだような心地で、ひたすらに足を運び続ける。進むにつれて、彼の中で、夢の呼び声は強さをいや増し、いまや全身を満たして脳裏に鳴り響き、すべての思考を霞ませて彼を衝き動かしていた。
 俺は、行かなければならないのだ。何故かは知らない。それでも、行かなければならないのだ。
 狂おしい衝動に駆られて、いつのまにか彼は飛ぶように樹林を駈けていた。
 待っている、待っている。俺を待っている。もうすぐ、もうすぐ会える……。だが、何に?

 突如、白熱の光が眼前に溢れた。
 幾重にも重なる緑の帳の最後の一枚を押し分けた瞬間、彼は、樹林を抜け出していたのだ。
 仄暗い樹林からいきなり遮るもののない蒼天のもとに飛び出した彼は、とっさに閉ざした瞼を掌で覆い、次いでその掌を庇に少しずつ眼を開いた。
 灼熱の昼光が、襲い掛かるように彼の頭上に降り注いでいた。
 そこは、一面の荒野だった。生きているものの気配すらない乾いた荒野にただ灰色の岩だけが烈日に曝されて無数に連なる荒涼の風景が、見渡す限りどこまでも続いているのだった。
 樹林に、涯はないはずだった。少なくとも、集落から歩いていける範囲に樹林が終わる場所があるはずはなかった。今まで、集落からどの方向に何日歩き続けても、樹林が途切れたことはない。緑の陰なす樹林は、彼らの世界のすべてだった。樹林は世界であり、世界は樹林であった。――そのはずだった。
 けれど今、彼の背後で唐突に樹林は途切れ、眼前には見知らぬ荒野が広がっている。
 自分は夢を見ているのではないかと、リュバ・ジンは訝った。
 空は青白く光り、大地は灰褐色に乾いてひび割れ、動くものといえば時折の僅かな風に移ろう砂以外には何一つ無かった。
 ふいに、今背後を振り返ったらそこに樹林は無いのではないかという、奇妙な恐れが彼を捉えた。
 もしかすると、今目の前にある荒野ではなく、背後にあったはずの樹林こそが、夢だったのではないか。自分は今まで、ずっと夢を見ていたのでないか。生命のざわめきに満ちた湿潤な樹林は己の見ていた夢であり、今眼前にある荒涼の光景こそが世界の真相なのではないか――。
 圧倒的な熱と荒々しい光の氾濫に、目眩がする。
 リュバ・ジンは振り返らなかった。荒野の彼方から、夢の呼び声が今までに無いまでの強さで響いて、彼に前進を促したのだ。
 見えない糸に引かれるように、彼は荒野に足を踏み出した。
 簡素な樹皮のサンダルを足裏に括りつけただけの素足が、たちまち熱い砂にまみれる。容赦なく押し寄せる剥き出しの熱気がじりじりと膚を灼く。
 遠目に小さいと見えた岩々は目の前まで来ると一つ一つが思いがけないほど大きく、よく見れば元は人の手の入った石材のようでもあって、無秩序に見えた連なり方も、巨大な建造物が崩れ落ちた跡にも見え、まるで遠い昔に打ち捨てられた壮大な石造りの都の跡かとも思われた。が、リュバ・ジンはもう、そのことに何の関心も覚えなかった。脳裏に響く呼び声はますます近く大きく、ほとんど本当に耳に聞こえているような気がするほどはっきりと高まって、あらゆる思考を締め出し、彼を駆り立てている。巨大な岩の間を縫って、リュバ・ジンは進んでゆく。
 熱に浮かされたように歩き続けた彼は、一つの巨石の前で足を止め、その頂を見上げた。
 そこに、いる。その向こうに。彼を呼んでいたものが。
 立ちつくす彼の目の前で、突然、岩の上に、もう一つの巨大な岩がせり上がった。
 一瞬灰色の岩と見えたそれは、岩ではなかった。岩のようにごつごつした、硬く乾いた皮膚を持つ、巨大な生き物の首だった。
 たった今砂の中から生まれ出たというようにさらさらと砂を振り落としながら、長い首がゆるりと持ち上がり、巨大な頭部の両側面に、二つの巨大な眼が開く。眩い黄金の双眸が、射るように真っ直ぐに彼を見据えた。

 《竜》ドラカ……!

 リュバ・ジンの全身を激しい歓喜が貫いた。
 竜の眼の中で炎がくるめき、雄大な翼が重たげに打ち振られた。岩が罅割れるように口が開いて、人のものではない不思議な言葉で厳かに何事かを呼びかけた。細長い瞳孔を持つ金色の眼に、彼の姿が映っている。リュバ・ジンと竜、両者の、共に黄金の眼差しが、ひたと互いに据えられる。
 では、おまえが俺を呼んでいたのか――。
 リュバ・ジンの胸は熱く打ち震えた。
 力強くしなやかな首が、彼に向かって悠然と差し伸ばされる。
 そう、やはり、自分のあの樹林での今までの人生はすべて夢だったのだ。今、この瞬間の、乾いた大地と目の前の竜こそが、現実なのだ。この竜と出会うためにこそ、俺は生まれてきて、今ここに在るのだ。――おお、竜よ。俺の竜よ! 今こそおまえと一つになろう……。

 リュバ・ジンは逞しい胸を反らして高く掲げた両腕を抱くように広げ、近づいてくる竜の首を恍惚として待った。
 爛爛と燃える黄金の眼差しが、開かれた巨大な赤い口が、見上げる彼の視界いっぱいに迫る――。



 その日から、リュバ・ジンを見たものはいない。リュバ・ジンがどこに行ったのか、誰も知らない。
 集落の長老は、悲しげに首を振って言うのだった。
 リュバ・ジンは、眠るときに頭の傍にスーレの花を置くのを忘れたから、夢に呼ばれてしまったのだ。樹林の夢に呑まれてしまったのだ。立派な戦士であったのに、優れた狩人であったのに、愚かなことだ。残念なことだ。樹林は時々、奇妙な夢や、危険な夢を見るのだよ。それに取り込まれると、帰ってこられなくなる。だから、よいか、眠るときには、樹林の夢から己を守る為に、スーレの花を枕辺に置くのを忘れてはならぬ。なかでも年若い者、夢想がちな者、不遇をかこつ者、血気に逸る者は、特に気をつけることだ――。

 それからしばらくあったある日、枕頭の花を寝相の悪い兄弟にうっかり蹴り飛ばされてしまった一人の子供が、夢に、竜に乗って天を翔けるリュバ・ジンの姿を見た。
 子供の夢に降り立ったリュバ・ジンは語った。
 子供よ、スーレの香りは、夢を見ない為ではなく、夢から覚めぬ為にあるのだ。覚めぬほうが幸せな夢もあるのだよ。だから、これからは、決してスーレの花を忘れるな――。

 子供はその夢のことを、誰にも話さなかった。

 

(終)

 


夢売りの話

「夢を買いませんか?」

 夜の街角で急に声をかけられて、ぼくはとっさに答えていました。

「北海道の原野なら要りませんよ。火星の土地もね」

 普段なら、こんな怪しいキャッチセールスなど無視して、聞こえぬふりで通り過ぎるところですが、その時、ぼくは、会社帰りに同僚と一杯やって別れたところで、つまり、ちょっとばかり酔っ払っていたのです。

 答えながら、声をかけてきた相手の姿にちらりと目をやって、ぎょっとしました。
 声をかけてきたのは、見るからに怪しげな、黒ずくめの小男だったのでした。
 ずんぐりした身体を黒いコートに包んだその男は、くたびれた中折れ帽を顔が隠れるほど目深に被り、コートの襟を立て、濃灰色のマフラーに顔の下半分を埋め、ご丁寧に、両手に黒い手袋まではめているのです。

 男は、ぼくの警戒の視線などものともせずに、愛想良く話しながら擦り寄ってきました。

「いえいえ、火星の土地ではありませんよ。まあ、星といえば星ですが……。ほら」

 そう言いながら、男は、ポケットから何かビニール袋のようなものを取り出して、片手で掲げて見せました。

 ぼくは、不覚にも好奇心に負けて、男が掲げている袋をのぞきこんでしまいました。風船のように丸く膨らんだビニール袋の中には、金や銀、赤や青と、色とりどりに光る小さな星たちが浮んで、ちかちかとまたたいていたのです。どんな仕組みか分かりませんが、実によく出来た飾り物です。

「どうです? きれいでしょう? 今なら特別サービスで、たったの五百円。今、あなたが手に持っているその硬貨一枚で、煙草一箱の代わりに、このすばらしい『夢』が買えるんですよ」

 その時、ぼくは、ちょうど自販機で煙草を買おうとしていたところで、男の言うとおり、五百円玉を一枚、手に持っていました。(言い忘れていましたが、これは、今から少し前、まだ街角に煙草の自動販売機が溢れていた頃の話なのです)
 確かに、男の言うとおり、このありふれた五百円玉で、ありふれた煙草の代わりに、こんな、ちょっと珍しい、きれいな玩具を買ってみるのも、たまには悪くないかもしれません。
 普段なら、そんな、街頭で声をかけてきた怪しい男から物を買うなんて考えられないことですが、さっきも言ったとおり、この時、ぼくは、少々――いえ、正直に言うとかなり――酔っ払っていたのです。
 なので、ぼくは、つい、手の中の五百円玉と引き換えに、男からその袋を受け取ってしまったのでした。

 男は、ぼくに袋を渡すと、言いました。

「いいですか、お客さん。この『夢』はね、一日に一粒ずつしか食べてはいけませんよ」

 ぼくは、てっきりそれを飾り物だと思っていたので、驚いて問い返しました。

「た、食べるんですか……?」

 そう言いながら、手に持った袋に目を落とすと、それは、もう、さっき男が持っていた時の、中に星が浮んだ袋ではなく、ただの、こんぺいとうの入った袋なのでした。

 手の中のこんぺいとうの包みを見下ろしてぽかんとしているぼくに、男は、
「いいですね、一日一粒までですからね」と、念を押すと、呼び止める間もなく立ち去ってゆきました。

 妙な手品に騙されて五百円もするこんぺいとうを買ってしまったぼくは、なんだかバカらしくなって、もう改めて煙草を買う気にもならず、そそくさと一人暮らしのマンションに帰ったのでした。
 そして、シャワーを浴びて寝る段になって、サイドテーブルに投げ出しておいたこんぺいとうの包みが目に入り、なんとなく、一粒、口に放り込んでみました。

 こんぺいとうの懐かしい薄甘さが口の中に広がったとたん、ぼくは、夢を見ていました。
 夢の中で、ぼくは、宇宙飛行士になって、いろとりどりのこんぺいとうそっくりの星々の間を飛び回っていました。ぼくは世界的なヒーローで、胸躍る冒険も人々の賞賛も思いのままなのでした。
 実に子供っぽい夢ではありましたが、夢を見ている間の感覚は妙にリアルで、あまりに楽しかったので、朝、目が覚めてからも、(そういえば子供の頃、宇宙飛行士に憧れた時期もあったなあ)などと懐かしく思い出して、顔を洗い、ひげを剃りながらも、気がつくとにやにや笑っているのでした。
 その日一日、会社でも、時々、夢のことを思い出して一人笑いをして同僚に気味悪がられました。

 ひさしぶりにこんな楽しい夢が見られたのは、このこんぺいとうのおかげかもしれません。
 そういえば、あの奇妙な小男は、このこんぺいとうを『夢』だと言っていたのですから。
 これは、こんぺいとうの形をしているけれど、ただの菓子ではなく、何か安眠のためのサプリメントのようなもので、そのおかげで心地よく眠れて、楽しい夢が見られるのかもしれません。菓子ではなくサプリメントだから、一日一粒と決まっているのでしょう。一度に多量に摂取しすぎると、何か副作用があるのかもしれません。

 それから毎晩、ぼくは寝る前に、こんぺいとうを一粒ずつ食べました。
 そして、毎晩、素晴らしい夢を見ました。
 サッカー選手や野球選手になって大活躍する夢。人気タレントになってテレビに出る夢。博士になって大発明をしてノーベル賞を貰う夢。億万長者や総理大臣になる夢。

 十日ほど経つと、こんぺいとうが無くなりかけました。
 発売元が分かれば取り寄せることも出来るかもしれませんが、袋には、何も文字が書いありませんでした。連絡先どころか、商品名さえ書いてないのです。あんな怪しい販売の仕方をしていたことを考えても、もしかすると、何か、個人輸入の脱法サプリメントなのかもしれません。
 残念に思いながら最後の一粒を食べ終えた、その次の晩。
 会社帰りに、以前と同じ街角で、また、あの小男が声をかけてきて、次のこんぺいとうを、やはり五百円で売ってくれたのです。

 こんぺいとうの見せてくれる夢は、偉人や有名人になるような大それたものばかりではなく、もっとささやかな夢のこともありました。
 小さな子供になって、優しそうな両親に両手を繋いでもらって公園を歩いているだけの夢。苦手な算数のテストで百点を取って褒められたり、かけっこで一等賞になったり、喧嘩した友達と仲直りしている夢。欲しかった玩具を買ってもらう夢。犬を飼う夢。好きな女の子と両思いになる夢。あるいは、幸せな家族の食卓の夢。
 いずれも、どうということのない光景なのですが、それが、どれもこの上もない幸福感に満ちていて、心の奥深いところまでしみじみと幸せが染み渡るような気がするのです。

 それからまた、夢の中で、ぼくは、子供たちが憧れるようなありとあらゆる職業に就きました。医師に弁護士、作家に漫画家、教師に消防士に警察官にパイロット。
 どの職業に就いても、ぼくは必ず成功し、さっそうと大活躍しました。作家になれば書くもの書くものがベストセラーになり、教師になれば子供たちに慕われ、医師や消防士になれば大勢の人を助けて感謝されました。
 夢の中のぼくは常に有能で、評価され、賞賛され、いきいきと輝いていたので、眼がさめたとき、ふと、現実の自分が単なる冴えないサラリーマンであることのほうが奇妙に感じられるほどでした。

 毎晩毎晩、そんな楽しい夢を見続けるうちに、ぼくは、夜になって夢を見るのを楽しみに一日を過ごしているような気分になってきました。
 会社でも、早く帰ってこんぺいとうを食べることばかり考えて、ぼんやりすることが多くなりました。
 こんぺいとうがなくなりかけると、決まって、同じ場所にあの男が現れて、五百円硬貨と引き換えに、次のこんぺいとうを売ってくれるのでした。

 その頃、ぼくは、新しい重要プロジェクトの責任者にライバルを差し置いて大抜擢されたばかりで、大いに張り切っていたはずなのですが、こんぺいとうを食べるようになってからというもの、昼間も仕事に身が入らず、失敗をすることが増え、何度も上司から叱責されるはめになりました。
 が、普段ならそんなことになったらものすごく落ち込むはずが、まるですべてが壁一枚を隔てた出来事のように思えて、叱責を受けている間も心ここにあらずで、こんぺいとうのことばかり考えていたのでした。

 そのうち、プロジェクトは、いつのまにかぼく抜きで動き始めていました。
 みな、案じているような軽蔑しているような目で遠巻きにぼくを見るようになりました。
 仲の良かった同僚には、顔色が悪いと心配されました。なんだか顔が黒ずんでいる、しかも人相も変った、頬がこけたのか顔が面長になったように見える、どこか内臓でも悪いのではないか、病院で検査してもらった方がいいのではないかと言うのです。
 上司には、ストレスが溜まっているようだから心療内科でも受診してきてはどうかと勧められました。休みはいくらでもやるから、と。

 ぼくは、自分では自分の体調が悪いとは感じていませんでした。別にストレスが溜まっている気もしませんでした。以前のように仕事の進み具合やら職場の人間関係のことが頭を占領して夜眠れなくなることもなく、毎晩楽しい夢を見ながらぐっすり眠っていて、ぼくの主観では、心も身体も、宙に浮んでいるように軽やかだったのです。ストレスといえば、日中、こんぺいとうを我慢しなければならないことだけです。言われて見れば色は黒くなったような気がしますが、きっと日焼けでもしたのでしょう。そういえばまともな食事もとっていなかったので頬はこけたかもしれませんが、甘いこんぺいとうを毎晩食べていては腹が空かないのも当然で、もともと太り気味を気にしていたぼくにとっては、むしろちょうど良いダイエットというものです。

 が、上司は、ぼくにはぜひとも療養休暇を取る必要があると思ったようでした。
 ぼくは、しかたなく、同僚に付き添われて産業医を訪ね、翌日から、会社を休むことになりました。

 会社を休めることは、ぼくにとっては好都合でした。これで、一日中、こんぺいとうの見せてくれる夢のことだけを考えていられます。
 ぼくは、時々コンビニで食料を買いだめする他には一切外出せずに、一日中、カーテンを閉め切った部屋に閉じこもって過ごすようになりました。
 病院へは、その後、一度も行きませんでした。病気ではないのに病院に行く必要などありませんから。

 会社を休んでしばらくたった頃、心配した同僚から電話がかかってきました。
 もうすぐ療養休暇の期限が切れる、病院に行って診断書を取りなおせ、という上司の伝言も伝えられましたが、適当に返事をして電話を切りました。もう、会社など、遠い夢の世界のようで、どうでもよかったのです。

 そのうち今度は上司から電話がかかってきて、具合が悪いのならいつまででも休んでよい、例のプロジェクトは佐藤君に任せたから安心して完治するまで療養に専念するように、と言われました。なんならもうずっと会社に来なくても構わない、とも、付け加えられました。
 佐藤というのは、ぼくが蹴落としたかつてのライバルの名です。
 ぼくをあのプロジェクトの責任者に抜擢した時、確か、あの上司は、『これは君にしかできない仕事だ』と言ったのです。が、今度は、その仕事を、ぼくが療養中だから佐藤に任せたというのです。なんだ、別にぼくじゃなくても良かったんじゃないか……そう思うと、ますます、会社のことなどどうでもいいような気がしてきました。
 やはり、会社にとって、ぼくは、取替えがきく歯車の一つにしか過ぎなかったのです。
 もちろん、そんなことは、もとから知ってはいました。けれど、これといった趣味も親しい友人も恋人もなく会社と一人暮らしのマンションを往復するだけの毎日を送っていたぼくは、あえて自分が会社になくてはならない人間であるかのように錯覚することで自分の人生と折り合いをつけてきたのです。その幻想を目の前ではっきりと打ち砕かれた時には、やはり、それなりの虚しさを感じました。

 そんなわけで、ますます投げやりになったぼくは、それから数週間、ろくに物も食べず、風呂にも入らず、ただ、こんぺいとうがなくなりかけた時にいつもの場所に出かけていって小男からこんぺいとうを買うだけという生活を送りました。
 ぼくがあの場所に行くと、いつでもそこにあの小男がいるということを、もう、不思議にも思わなくなっていました。
 その頃には、ぼくは、とっくに一日一粒という制限を破り、朝も昼も、こんぺいとうを食べては一日中うとうとと夢を見て過ごすようになっていました。
 当然、こんぺいとうはすぐになくなり、数日置きに小男からこんぺいとうを買わなければなりませんでした。
 そのたびに、小男は、ぼくにこんぺいとうの食べすぎを注意しましたが、ぼくはのらりくらりと生返事をしながら、男の手からこんぺいとうをひったくるのでした。

 けれど、ある日、小男は、ぼくにこう言い渡しました。

「もう、あなたには、これはお売りできません」
「な、なぜですか!?」

 ぼくは、目の前が暗くなるような気がしました。このこんぺいとうがなかったら、この先、どうやって生きていけばいいのでしょう。
 ぼくは、必死で男に詰め寄りました。

「お、お金なら、まだありますから! 五百円といわず、五千円でも五万円でも、いや五十万でも!」

 ぼくは当時、もうずっと働いていませんでしたが、ろくにものも食べていませんでしたし、唯一定期的に買っていたこんぺいとうは毎回必ずたったの五百円で、家賃や光熱費が自動で引き落とされる以外にはお金を使うこともほとんどなかったので、貯金はまだ残っているはずでした。といっても、残高の確認さえ長いことしていませんでしたが、もし残っていなければ、借金をしてでもこんぺいとうを買う気でした。

「いえいえ、お金の問題ではないのです。これ以上食べると、あなたにとって大変なことが起こるのです」
「大変なことって、なんですか!?」

 その時のぼくには、こんぺいとうを食べられなくなるより大変なことなど、何も思いつきませんでした。

「夢を食べ過ぎると、獏になってしまうんですよ」

 ぼくは、ぽかんとしました。てっきり、冗談だと思ったのです。
 ところが、そうではありませんでした。

「ほうら、こんな顔になってしまうんです」

 そう言って帽子を取った男の顔をみて、ぼくは、すっとんきょうな悲鳴を上げました。
 確かに、今までも、帽子の下からちらりと覗く男の顔が、マフラーに顔の下半分を埋めていてさえ分かるほど妙に面長なことには気付いていました。それに、やけに色が黒かったので、『流暢な日本語を話すけれど、もしかすると外国人かもしれない』とは、思っていました。
 が、外国人などではありませんでした。
 小男は、本当に獏の顔をしていたのです。

 そんな顔を見せては周囲が大騒ぎになってしまうのではないかと、ぼくは思わずあたりを見回しましたが、その時、ぼくたちの周りは、まるでそこだけ周囲から切り離されたかのように街の灯りや喧騒から隔てられ、近くを通るものは誰もありませんでした。
 小男――いえ、獏は、口をパクパクさせているぼくを見て、にやりと笑いました。当たり前ですが、ぼくは、獏が笑うところを初めて見ました。

「そんなに驚くことはないでしょう。あなただって、ほら、とっくに……」

 獏がポケットから取り出して目の前に突きつけてきた手鏡を見て、ぼくは、もう一度、もっと大きな情けない悲鳴を上げました。

「うわぁ……!」

 そこに写っていたのは、ほとんど獏になりかけた人間の顔でした。
 同僚がぼくのことを、色が黒くなり顔が長くなったと言っていたのは、あれは、本当だったのです。ぼくは、自分でも知らないうちに、獏になりかけていたのです。
 どうして今まで、鏡を見ても気づかずにいたのでしょう。
 いや、そういえばぼくは、このところ、しばらく鏡を見ていませんでした。もう長いこと、顔も洗わず、歯も磨かず、髭も剃っていませんでしたから。

 けれど、一瞬の衝撃が去ると、ぼくは、不思議と肝が据わってしまいました。開き直ったということでしょう。
 別に、顔が獏そっくりになったって、どうということはないでしょう。
 どうせ、ぼくの顔なんて、もともとそう見られる顔でもなかったし、ましてや今は会社に行っていないから、顔がどんなふうだろうと仕事に差し支える心配もありません。コンビニで店員に悲鳴を上げられたりすると少々困るかもしれませんが、今までだってどうせほとんど目もあわせず、うつむいたまま商品を受け取っていたのです。この男のように帽子を目深に被るなり、サングラスやマスクをするなりすれば、それなりにごまかせなくもないでしょう。

「いいですよ、獏になったって、別に」

 そう言うと、獏は、ほほう、と、感心したように笑いました。

「いや、あなた、思ったより肝が据わっていますね。でもね、獏になるというのは、ただ顔が変るだけじゃないんですよ。私どものお仲間になっていただくということなんです。つまりですね、今、私がしているような、この<夢売り>のお仕事をしていただくことになるんですよ」
「構いませんよ。職が貰えるなら、ぼくとしても好都合です。どうせ今の会社はもうクビですから」
「なかなか大変な仕事ですよ。海外出張が多いですからね」
「海外出張?」
「ええ。流れ星が落ちる場所を観測して、世界中のどこへでも拾いに行くんです。北極でも南極でも、砂漠やジャングルの真ん中でもね。実はね、このこんぺいとうは、みんなが流れ星にかけた願い事なんです。私どもは、地上に落ちた流れ星を世界中から集めてきて、みんなの夢が沁み込んだその星を精製してこんぺいとうを作っているんですよ」

 そんな荒唐無稽な話が信じられるか、とも思いましたが、実際に、目の前には二本足で立って言葉をしゃべる獏がいるのです。それを信じるくらいなら、流れ星からこんぺいとうが出来ると言われても信じられるでしょう。
 ぼくは、半ばむきになって叫びました。

「お、面白そうじゃないですか! ぜひやらしてください! だから、そのこんぺいとうを売ってくださいよ」

 きっと、ぼくの目は、熱に浮かされたようにギラギラしていたと思います。それほど、こんぺいとうが欲しかったのです。今すぐ食べなければ、気が狂ってしまうだろうと思うほどに。
 けれど、獏は無情に言いました。

「いいえ。申し訳ありませんが、あと一袋食べると獏になれるという、その記念すべき最後の一袋は、お金ではお売りできないんです。あるものと引き換えに、無料でプレゼントさせていただいているんですよ」
「『あるもの』って、何です?」
「あなたの夢です」
「はぁ?」
「ああ、ご安心を。あなたがこんぺいとうを食べて見る夢ではありませんよ。あれは、あなたの夢ではなく、他の人の夢ですからね。眠っても夢が見られなくなるとか、そういうことではありません。そうではなく、あなたが胸のうちに持っている、あなた自身の夢です。それを持っているうちは、夢売りの仕事は出来ないんですよ」

 獏の言うことはさっぱり訳がわかりませんでしたが、こんぺいとうを食べて夢を見られなくなるのでさえなければ、別に構わないと思いました。そもそもぼくに『自分の夢』なんてものがあるとも思っていなかったし、もし持っていたとしても、自分でも持っているかどうか分からないようなものなら、獏にやってしまっても同じことでしょう。
 でも、そんなものをどうやって他人に渡すことが出来るのでしょうか。

 すると、獏は、にやりと笑いました。

「そんなもの、どうやって他人に渡すんだろうと思っていますね? 簡単です、こうやるんですよ、ほら」

 そう言って、獏はぼくの胸元に、黒手袋の手をにゅっと突き出してきました。
 ぎょっとして避けるまもなく、獏の拳はぼくの胸に何の抵抗もなくめり込み、かと思うと、すっと引き抜かれました。

 獏が拳を開いてみせると、掌の上に小さな黄色い星が浮んで、頼りなく瞬いていました。今にも消えそうな、くすんだ、小さな、弱々しい星でした。
 ぼくはびっくりしてそれを見つめながら、ふいに、胸に痛みを覚えました。
 痛みというより、寒さでしょうか。何かすうすうするような、寂しいような、自分が自分でなくなったような……。そう、たぶんこれが、よく喩えで言う、『胸にぽっかりと穴が開いたような』というやつなのでしょう。
 そして、ぼくは、その小さな弱々しい星を、絶対に売り渡してはならないものだと知ったのです。

「か、返してくれ。やっぱりやめた。こんぺいとうはいらないから、それを返してくれ!」

 ぼくは思わず獏に詰め寄っていました。
 獏は、急に今までの慇懃無礼な口調をかなぐり捨て、悪戯っ子のように節をつけて意気揚々と叫びました。

「やーだよー、だ! もらったものは返せませーん!」

 それを聞いたぼくの頭に、かっと血が上りました。
 ぼくは、獏に掴みかかりました。

「返せ、返せよぅ! それは、ぼくンだ。ぼくンだぞ!」
「あ、痛、いたた、ちょ、ちょっと、何すんですか! 案外乱暴な人ですね!」
「だって、ぼくはそれをあんたにやるとは言ってないぞ!」
「言いましたよ!」
「いや、言ってない!」
「言った!」
「言ってない!」
「……あ、そういえば、言ってなかったですね。しまった……」

 星を抱え込んで激しく抵抗していた獏は、急にしゅんとなって暴れるのを止め、ふてくされたように、ぼくに星を差し出しました。

「ほら、返しますよ、返せばいいんでしょ、返せば……」

 ぼくは獏の手の上からひったくるように星を奪い返して、いきなりそれを口に放り込み、飲み下しました。
 小さな熱の塊が喉をすべり落ちて、胸の奥のあるべき場所に星がすっぽりと収まるのを感じました。

 ああ、この感じだ……と、ぼくは気付きました。小さな、小さな、冴えない星だけれど、この星は、今までもちゃんとそこで瞬いていたのです。その、小さな小さな光で、ぼくの胸の中を、ほんの少しだけれど温め続けていたのです。

「お帰り、ぼくの小さい星……」

 胸に手を当て呟いたぼくの中で、星が、再会の歓びに震えて、チリチリと、リンリンと、歓喜の歌を奏ではじめました。最初は遠慮がちに、次第に高らかに、胸の中で鳴り響く星の歌は、光となってぼくの中から溢れ出し、どんどん広がって、世界は一面、晴れやかな歓喜の歌と眩い光に満たされました――。




 気がつくと、カーテンを開けっ放しだった窓から朝の光が差し込んでいるのでした。
 ぼくは自分のベッドに寝ていて、目覚まし時計が鳴っていました。
 慌ててベルを止めると、枕元からスタンドミラーを引ったくり、顔を映してみました。見慣れた自分の顔でした。
 頭が痛いのは、二日酔いのせいでしょう。
 サイドテーブルには、寝る前に脱ぎ散らした背広やネクタイが、だらしなく引っ掛けられて、ずり落ちかけていました。
 その上に、封を開けたこんぺいとうの袋が載っていました。
 袋には、こう書かれていました。

『夢の味! 獏印こんぺいとう』

 そうして、下手くそな獏のイラストの下に、小さな文字がありました。

『ご注意:食べ過ぎると獏になります(なんちゃって☆)』

 ぼくは小さく笑って、残りのこんぺいとうを全部ざらざらと口に放り込み、空き袋をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てました。
 その時、袋に描かれた間抜け面の獏が片目をつぶったように見えたのは、たぶん、前夜の酔いがまだ残っていたのでしょう。
 

(終)

 


腐乱天使

 そらちゃんが転校してきたのは、小学校四年生の夏休み前だった。

 わたしは空ちゃんが大嫌いだった。空ちゃんは不潔でだらしなくて嘘つきだったから。

 空ちゃんが転校してきた最初の日、先生は空ちゃんをわたしの隣の席に座らせて、わたしに「仲良くしてあげてね」と言った。わたしは学級委員だったから。
 空ちゃんはすごく嬉しそうにわたしを見て、歯の抜けた口で、人懐こく、にかっと笑った。馴れ馴れしくてムカついた。先生にああ言われたからって、もうわたしと仲良しになったつもりでいるの? わたしはあんなみっともない子と、仲良くなんかしたくない。あんなレベルの低い子と仲間だなんて思われたら、わたしまでみんなにバカにされる。
 でも、わたしは学級委員だから、ちゃんと空ちゃんの面倒を見た。分からないことは教えてあげたし、忘れたものは貸してあげた。空ちゃんは毎日忘れ物ばかりしていて、勉強もぜんぜん分からなくて、とても世話が焼けた。先生は、空ちゃんは転校が多かったから勉強が遅れているんだと言ったけど、空ちゃんが勉強が出来ないのは、転校のせいじゃなくて怠け者だからだと思う。転校したって、自分でちゃんと予習復習をしていれば、勉強が分からなくなったりはしないはずだ。自分でぜんぜん勉強しないで何でも人に聞いて済まそうとする空ちゃんは、ずるいと思う。
 空ちゃんは、ほとんどいつも同じ薄汚ない空色のワンピースを着ていて、ぼさぼさの長い髪の毛はフケだらけで、べたべたして臭かった。みそっ歯のせいか舌足らずなしゃべり方も幼稚っぽくてバカみたいで嫌だったし、わたしのことを仲良しの友だちが呼ぶのを真似して勝手に『みゆちゃん』と呼ぶのも、ずうずうしくて嫌だった。不潔で不細工でぜんぜん可愛くないくせに、人懐こい笑顔だけは妙に無邪気そうで、大人たちから『天使のよう』なんて言われたりするのが余計に気に障った。
 そして、空ちゃんは、嘘つきだった。空ちゃんは、町外れの立派なお屋敷が自分の家だとか、お母さんは有名な女優だとか、お父さんは外国の王子様だとか、誰にでもすぐバレるような嘘ばかり次々とついた。小さな町のことだから、空ちゃんが商店街近くのボロアパートに住んでいてお父さんはいないということは、あっという間にみんなに知れ渡っていたのに。しかも、空ちゃんのつく嘘は日によってころころ内容が変わって、みんなに『前に言ったことと違う』と言われても、絶対にそれを認めなかった。
 ある日、昼休みの校庭で、空ちゃんが、居ないはずのお父さんのことをあんまり得意そうに自慢するから、誰かが「空ちゃんのお父さんは死んだんでしょ?」と言うと、空ちゃんは、「違うもん、死んでないもん!」と怒り出した。
「お父さんは、死んだんじゃないの。お空の国に帰っただけなの。お母さんがそう言ったもん。お父さんはね、本当はお空の国の人で、お空の国からお母さんのところに来たんだって。お空の国の人だから、あたしに『空』って名前をつけたんだって。だけど、あたしが生まれてすぐ、お空の国に帰っちゃったんだって」
「お空の国って、天国のことでしょ? だったら、やっぱり、お父さんは死んだってことじゃないの?」
「違うもん、お父さんはお空の国で生きてるもん。お父さんは、お空の国で、お城みたいな立派なおうちに住んでて、あたしは時々、そこに遊びに行くの。お父さんのお空のおうちにはあたしのお部屋もあって、おもちゃやお菓子がいっぱいあるの。お空のおうちにはね、空を飛んでゆくの。あたし、本当は空が飛べるの。あたしのお母さんは本当のお母さんじゃなくて、本当のお母さんはお空の国の女王様で、だからあたしは、お空の国のお姫様なの。お空の国の人にはみんな背中に羽があって、あたしもあるけど普段は隠してるの」
 あまりにも幼稚な嘘にみんなが呆れて、口々に「空ちゃんの嘘つき」「嘘はいけないんだよ」と注意したけど、空ちゃんは、嘘じゃないと言い張って聞かなかった。誰かが「ほんとなら羽を見せてみろよ!」と叫ぶと、他のみんなも「そうだよ、証拠を見せてよ!」「証拠、証拠!」と騒ぎ出した。空ちゃんは、唇をぎゅっとへの字に曲げると、突然みんなに背を向けて校庭の隅のニワトリ小屋まで駆けて行き、落ちていた白い羽を一本拾って戻ってきた。黄ばんでぼさぼさになって乾いた糞みたいなものがこびりついた、きっとバイキンだらけの、わたしだったらとても触る気になれないような不潔な羽を、空ちゃんは得意そうに掲げてみせた。
 みんな、「それはニワトリの羽じゃないか!」と笑った。誰かが「それで飛べるもんなら飛んでみろよ!」と叫ぶと、空ちゃんは、飛べるわけがないのに、羽を持った手をパタパタさせて、ぴょんぴょん跳ねて飛ぶ振りをした。
 そのへんてこりんな姿をみて、みんなは笑ったけど、わたしは笑わなかった。真剣な顔で助走をつけては何度もジャンプする空ちゃんの必死な姿を見ていたら、本当に自分があの羽で空を飛べると信じているんじゃないかという気がしてきて、なんだか薄気味悪くなったから。見ているうちに、こっちまで、一瞬、空ちゃんが本当に飛ぶんじゃないかという気がしてしまって、わたしはちょっと怖くなった。空ちゃんを見てると、わたしまで変になりそうだ。空なんか、飛べるわけないのに。
「うーそつき、うーそつき」
 誰かの一声をきっかけに、男子たちが節をつけていっせいに囃し立てはじめると、空ちゃんは、「嘘じゃないもん!」と、泣き出してしまった。

 放課後、なぜかわたしが先生に呼び出された。空ちゃんを泣かせたのはわたしじゃないのに。わたしは空ちゃんのことを笑ってないし、大きな声で囃し立てて泣かせたのは男子たちで、わたしは一緒にいただけなのに。
 それに、わたしたちは空ちゃんに意地悪をしたわけじゃない。空ちゃんが嘘をつくから、嘘はいけないと注意しただけ。
 そう言うと、先生は困ったような顔をした。
「空ちゃんはね、みんなと仲良くなりたくて、つい、でまかせを言ってしまうんじゃないかしら。きっと、大きなお家に住んでるとかお母さんが有名人だとか言えば、みんなが感心して仲良くしてくれるかもしれないと思って、それで作り話をしてしまうのよ」
 もしそうだとしたら、空ちゃんはバカだ。みんな、嘘をつく子となんか、なおさら仲良くしたくないに決まってるのに。
「ねえ、美由紀ちゃん、空ちゃんを許してあげてね。空ちゃんはね、可哀想なのよ。転校してばかりで、なかなかお友だちが出来なくて、きっと寂しいのよ」
 そんなの、ヘンだ。可哀想な子は、嘘をついてもいいの? 嘘をつくのは、いけないことのはず。わたしは学級委員だから、いけないことをしている子を見たら、ちゃんと注意する。それは正しいことのはず。
 前に、男子たちが掃除の時間にふざけて騒いでいたら、わたしはまじめに掃除していたのに、先生は、学級委員なのに男子がふざけているのを止めなかったと言って、わたしのことも叱った。人が悪いことをするのを見ていて止めないのは自分も悪いことをするのと同じだと言って。わたしは何度も注意したけど、男子が言うことを聞かなかっただけなのに。
 それなのに先生は、今度は、空ちゃんが嘘をついても許せと言う。悪いことをしている子がいるのに、注意をするなと言う。そんなの、訳が分からない。大人は勝手だ。
 黙って唇を引き結ぶわたしを見て、先生は、ますます困ったような顔をした。
「先生思うんだけど、もしかすると空ちゃんは、嘘をついているつもりじゃないのかもしれないわ。美由紀ちゃんは、小さい頃に、自分の作り話を自分で信じてしまったことはない? 何かとっても悲しいこと、嫌なことがあった時、これは本当のことじゃないんだと思いたくなったりしない? 嫌なことを忘れてしまって無かったことにしておきたいと思ったことはない?」
「ありません」と答えると、先生は悲しそうに目を伏せた。
「そう……。先生は、そういう気持ち、ちょっと分かるような気がするのよ」
 だとしたら、先生は、大人のくせに、なんて心が弱いんだろう。そんなふうに目を逸らしていたって悲しいことや嫌なことが消えてなくなるわけじゃないくらい、子どものわたしにだって分かるのに。
「ね、美由紀ちゃん、空ちゃんはね、あなたのことが大好きなのよ。みゆちゃんは可愛くて頭が良くてしっかりしてて優しいって、みゆちゃんが親切にしてくれて嬉しいって、毎日毎日、言ってるのよ。だから、仲良くしてあげてね」
 空ちゃんはいつも先生に、そんなふうにいろいろ話しているの? 先生は空ちゃんだけの先生じゃないのに、そんなことも分かりもしないで、忙しい先生に毎日べたべたとまとわりついて迷惑かけて。先生は、どうして空ちゃんのことばかりそんなに気にかけるの? 先生は空ちゃんをひいきしてる。
 わたしが可愛くて勉強が出来るのは、自分でがんばってそういうふうにしているからだ。成績が良いのは毎日予習復習をしているからだし、忘れ物をしないのは毎晩ちゃんとランドセルの中を点検しているからだ。服も自分で可愛い組み合わせを考えて着て、髪も何度も練習して自分で上手く結べるようになった。そうやって自分でちゃんとがんばっているから、クラスの中でも可愛くて頭が良くて人気のある子たちのグループに入る権利があるんだ。なのに、そういう努力を何もしていない空ちゃんをわたしたちのグループに入れてあげなきゃいけないなんて、不公平だ。そんなことしたら、グループのレベルが下がる。わたしたちが人気者グループの一員という地位を保つためにどんなに努力しているか、そういうことを先生たちは何も知らないから平気で『誰それを仲間に入れてやれ』なんて言うけど、わたしたちにだっていろいろ事情があるんだから、何も分かっていない大人に口を出して欲しくない。
 でも、先生が、「空ちゃんは転校したばかりで、まだいろいろ分からないんだから、大変でしょうけど、あなたが面倒を見てあげてね。よろしくね」と言うから、しかたなく、「はい」と答えた。わたしは学級委員だから、クラスに世話の焼ける子がいたら面倒を見なくちゃならない。わたしは良い子だから、いつでも良いことをする。嫌いな子にでも、ちゃんと親切にする。

 次の日、空ちゃんは、何もなかったみたいに、にかにか笑って寄ってきて、わたしは、それからも毎日、空ちゃんの面倒を見た。空ちゃんは相変わらず世話が焼けて、わたしはうんざりした。

 空ちゃんは、臭くて汚いと言われて、男子たちにいじめられだした。休み時間になると空ちゃんを取り囲んで、髪の毛が臭いとか服が汚いと大きな声で騒ぎながら鼻をつまむふりをしたり、髪の毛をひっぱったり。
 いくら空ちゃんが不潔なのが本当でも、いじめは悪いことだから、わたしは注意して止めさせた。
 でも、空ちゃんも、臭いとか汚いと言われて泣くくらいなら、ちゃんと清潔にすればいいのに。もしお母さんがお仕事で帰りが遅いんだとしても、そんなの、空ちゃんが不潔にしていていい理由にはならないと思う。もう四年生なんだから、お母さんがいなくたってお風呂くらい自分で沸かして入れるはずだし、服だって、自分で洗濯機で洗えるはずだ。わたしだったら、そうする。
 だいたい、男子たちは、よくあんな汚い髪の毛に触る気になる。わたしなんか、隣に座っているだけで、フケがこっちまで飛んできそうで嫌なのに。空ちゃんは、髪の毛をちゃんと洗ったり梳かしたり出来ないなら、あんなふうに長く伸ばしていないで短く切るか、せめてゴムで結べばいいのに。そうすれば、少しは臭くないし、フケも落ちないだろう。
 そう思ったから、空ちゃんに、「髪の毛、結んどいたほうがいいよ」と言って、予備に持っていた髪ゴムをあげた。どうせ三年生の時に買った子どもっぽいやつで、新しいのを買ってからは、ずっと使ってなかったから。大きなプラスチックのボンボンなんて、わたしにはもう幼稚すぎるけど、空ちゃんにはそれくらいがきっとお似合いだ。
 空ちゃんは、ものすごく喜んだ。どうせあまり使ってないものをあげただけなのに、そんなに喜ばれると、自分がすごく良いことをしたみたいで、悪い気はしなかった。わたしも空ちゃんの隣に座っていてフケや臭いがこっちまで来ると嫌だから、空ちゃんが髪を結んでいてくれたほうが、きっと少しは助かるし。
 そうしたら、次の日、空ちゃんは、髪の毛をとっても変な風に結んできて、わたしに向かってにかっと笑って、嬉しそうに「みゆちゃんとおんなじ」と言った。ものすごくムカついた。そんなんで、わたしの髪型を真似したつもりでいるの? 左右の結び目の高さがぜんぜん違って、あちこちから髪の毛がはみ出してぼさぼさしてて、髪の毛の分け目にはフケがべったりとこびりついてて、すごく汚らしくてだらしなくてみっともないのに。髪の毛を高い位置で左右二つに結ぶのは、とても難しい。わたしは何度も練習して、自分で上手く結べるようになった。それなのに、空ちゃんは、あんなへんてこな髪型で、わたしと同じなつもりなんだ。わたしは、空ちゃんなんかに真似をされたくない。同じだなんて思われたくない。
 翌日から、わたしは髪型を変えた。
 それでも、それからも、男子たちが空ちゃんを囃し立てたりするたびに、わたしは注意して追い払った。そのせいで男子たちからうっとおしがられて、わたしまで一緒に嫌な目で見られた。だから、夏休みに入って、やっと空ちゃんのお守りから解放された時には、本当にほっとした。

 それなのに、夏休みのある日、わたしが友だちと歩いていると、空ちゃんとばったり会ってしまった。空ちゃんは、わたしを見ると、それは嬉しそうに、にかっと笑って、誰も一緒に来ていいなんて言わなかったのに、勝手に後をついてきた。
 その日、わたしたちは、駅前のファンシーショップに行くところだった。可愛い文具やアクセサリーがいっぱいのその店は、わたしたちにとって、ちょっと特別な場所だった。中学生のお姉さんたちも買い物に来るその店に入り浸ることは、わたしたちおしゃれで大人っぽい女の子のステイタスの証だったから。その、わたしたちの聖域に、空ちゃんなんかに入り込まれたくなかった。ダサくて幼稚な空ちゃんは、あの店にふさわしくない。
 わたしたちは、目と目で相談しあって、駅とは反対のほうに歩き出した。空ちゃんに、あの店について来られないように。
 空ちゃんは、みんな無視して相手にしないのに、どこまでも後をついてきた。「ついて来ないで」と言っても、聞こえてないみたいにへらへらと笑って、二メートルくらい後ろをついてくる。まるで汚い野良犬みたい。
 わたしたちは意地になってどんどん歩き続け、とうとう市街地を抜けて、山の上の小さなダム湖にまで来てしまった。さすがの空ちゃんも不思議に思ったらしく、無邪気に、「ねえ、どこに行くの?」と訊ねてきた。真夏の日射しの中を歩き続け、疲れて不機嫌になったわたしたちは、誰も返事をしなかった。
 空ちゃんは一人で勝手にしゃべりだした。
「ねえ、みんな、行くとこ決まってないなら、これからお空のおうちに遊びに来ない? 涼しいし、冷たいジュースもあるよ。ゲームがいっぱいあるから、何でも貸してあげるよ。みんなにも魔法で羽をつけてあげるから、そしたら飛んでいけるよ。ちゃんと飛べるように、あたしが飛び方、教えてあげるから。ほんとだよ、簡単だよ……」
 その、しつこく追いすがる舌足らずな声と、際限ない作り話のあまりの幼稚さ、空気を読まない自分勝手なおしゃべりが、ぎりぎりまで高まっていたわたしたちの苛立ちに火をつけた。

 あの時、なぜ、あの場所であんなことが起こってしまったのか分らない。わたしたちには、誓って、空ちゃんに危害を加えるつもりはなかった。空ちゃんを危険な目にあわせようとしてわざとあの場所に誘い出したりしたわけじゃなかった。ただ、空ちゃんがいつものように空を飛べると嘘をつき、いつものようにみんながその虚言を咎めた、ちょうどその時、ダム湖を遥か下に見下ろす小さな赤い橋にたまたま差し掛かっていたというだけ。
 橋の上でみんなに嘘つきと責め立てられた空ちゃんは、「嘘じゃないもん、ほんとに飛べるもん!」と叫んで、止めるまもなく赤い欄干に攀じ登り、いきなり宙に舞ったのだ。
 わたしたちの目の前で、翼のように両手を広げた空ちゃんの小さな身体が、一瞬、青空に浮かんだ。
 直後に、湖面で水音が上がった。わたしたちは悲鳴を上げて欄干から下を覗き込んだけれど、そこにはもう、空ちゃんの姿は無かった。水面で溺れかかってバシャバシャもがいている姿を予想したのに、そこにあったのは、輪を描いて広がる水の波紋だけ。
 夏の日盛りの橋の上、照りつける日射しがふと陰り、蝉時雨が糾弾のように降り注いだ。

 わたしたちに何が出来ただろう。わたしたちは、みな、ほんの十歳かそこらの子どもだった。周囲に他の人影も民家もなく、あの頃はまだ、今のように子どもが携帯を持ち歩いていたりはしなかった。わたしたちに何が出来ただろう。――わたしたちは、ただ、恐くなってその場から逃げ出したのだ。

 息を切らせて逃げ帰った町外れで、わたしたちは足を止め、わたしはみんなに、今日のことは誰にも言うなと告げた。
 わたしたちは何も悪いことをしなかった。わたしたちは誰も空ちゃんに飛び降りろとか死ねとか言っていない。これまでだって、男子たちがしていたみたいに空ちゃんを小突いたりしていじめたことは一度もない。わたしたちは、ただ、嘘を注意しただけ。嘘をつくのはいけないことだと教えてあげて、止めさせようとしただけ。それは正しいことのはず。空ちゃんのためにもなることのはず。それなのに――何も悪いことをしていないのに、今日のことを大人に言ったら、きっと、わたしたちが叱られる。
「誰かに話したら、仲間外れだからね」
 そう宣告すると、みんな青い顔で頷いた。わたしたちが空ちゃんと一緒にいたのは、たぶん、誰も見ていない。見ていたとしても、その後でわたしたちが一緒にダム湖に行った事は誰も知らないから、道で会ったけどそのまま別れたと言えば大丈夫――。

 翌日、行方不明の空ちゃんの捜索で、町は大騒ぎになった。捜索が続く間、わたしは夜毎、怖い夢を見た。蒼褪めたずぶ濡れの空ちゃんが髪から水を滴らせて湖から這い上がってきて、「みゆちゃんがやりました」といいつける夢を。
 空ちゃん、出てこないで。このまま、みつからないで。空ちゃんがみつかったら、きっと、あの日の事がバレる。わたしは良い子でいられなくなる――。
 わたしは毎晩、布団の中で震えて祈った。
 けれど結局、空ちゃんは発見されないまま、わたしたちが疑われることも一切無いまま、しばらくして、空ちゃんのお母さんは、ひっそりとどこかに引っ越していった。
 その頃、大人たちの噂話で、空ちゃんのお母さんの帰りが遅かったのは仕事のためではなく男の人と会っていたかららしいと知った。あの日も、日付が変ってから帰宅して、翌朝遅くなってはじめて空ちゃんがいないのに気がついたらしいと。空ちゃんは、毎晩のように遅くまで放っておかれて、一人でカップ麺や菓子パンを食べていたんだと。
 だからといって空ちゃんが不潔にしていたり嘘をついていい理由になるとは思わなかったけれど、先生が空ちゃんを可哀想だといった意味と、空ちゃんが作り話の中でお母さんのことを『本当のお母さんじゃない』と言った気持ちは、少し分かった気がした。

 それからわたしたちは、空ちゃんについては一切口にしないまま普通の日々を送り、やがてわたしは、空ちゃんのことを、自分の空想の産物だと思うようになっていった。
 空ちゃんは本当に、空の国から来た天使だったのかもしれない。そういえば、あの日、夏の光の中で宙に浮かんだ空ちゃんの背中に、一瞬、薄汚れた白い翼が見えたような気がする。あの日の湖面に一面に映っていた夏の青空――あれは空ちゃんの『お空の国』で、本当は天使だった空ちゃんは、そこに向かって、背中の翼でまっすぐに羽ばたいていったんだ。湖に落ちたのではなく、空に帰っていったんだ。
 もしかしたら、わたしは、その光景を本当にこの目で見たのじゃなかったか。天使の姿に戻った空ちゃんが背中の翼を羽ばたかせ、湖面の青空に向かって飛び去ってゆく光景を。
 白い翼は、少し黄ばんで汚れてはいたけれど、夏の光に誇らかに輝いていた。舞い散った細かい羽毛が白い花びらのように空ちゃんの周りを取り巻いて、一心に羽ばたく空ちゃんは、夢のように綺麗だった。湖面に向かって投げ込まれた、空色のリボンの白い花束のよう。リボンの尾を引いて花束が落ちてゆくのを見るように、わたしは、故郷に向かってみるみる遠ざかってゆく空ちゃんを、なすすべもなく立ち尽くして見送ったのではなかったか――。
 そう思うと、その光景が確かに自分の目に焼きついているような気がした。
 だけど、そんなわけがない。天使なんて、本当にいるわけがないのだから。だったら、あれは何だったんだろう。わたしが見た、あの光景は。見るはずのないものを見た――だったら、それは、きっと夢だったんだ。あるいは、空想の光景か。
 あの頃、わたしは子どもだった。子どもはよく、本当のことと自分の空想をごっちゃにしてしまうものだ。見てもいないものを見たと思い込んだり、夢と現実の区別がつかなくなったり、空想のお友達を持ったり。
 だったら、きっと、その『空ちゃん』という子は、わたしの空想のお友達だったんだ。自分のクラスにある日突然天使が転校してきて、また空に帰っていったなんて、いかにも子どもが考えそうな他愛のない作り話だ。『空から来た空ちゃん』だなんて、名前まであまりに安直すぎて子どもの思いつきっぽいし、その子がいつも空色のワンピースを着ていたなんていうのも、出来すぎていて嘘くさい。そう、空ちゃんなんて子は、最初からいなかったんだ。何もかも、子どもだったわたしの罪のない空想ごっこだったんだ――。
 春の遠足が終わってから転校してきて秋の運動会を待たずに去ってしまった空ちゃんは、学校行事の写真にも一切写っていなかったから、そんな風に自分に思い込ませるのはたやすかった。

 やがて大人になったわたしたちは、散り散りに町を出て行った。そうして、わたしは、空ちゃんのことを忘れて暮らしてきた。――郷里の母からの電話で、あのダム湖で子どもの古い白骨死体が発見されたという噂話を聞くまでは。

 子どもの骨は、湖底に沈んで立ち枯れた木の枝にひっかかっていたのだという。
「可哀想に、木の枝に引っかかってしまって浮かび上がれなかったのね。苦しかったでしょうね、寒かったでしょうね、ずっと一人ぽっちで寂しかったでしょうね」という母の言葉が遠く聞こえ、心の奥に封印されてきた空ちゃんに纏わる記憶のすべてが一気に甦った。

 その夜、夢を見た。
 白くふやけて膨張した天使の腐乱死体が、暗緑色に濁った水の中で、木に引っかかって揺らいでいる。ぼろぼろになって水流に靡く空色のワンピースの背中には、擦り切れた羽毛を僅かに残す折れた翼が、半ば千切れて、ぶら下がっている。魚につつかれて破れた皮膚の、ふやけたところに小さな巻貝が群がって、眼球が喰い荒らされた後の眼窩の縁からイトミミズのような赤い蟲が蠢きはみだして涙のように一筋零れ落ち、天使は空ろな口腔を開け、わたしに向かって、にかっと笑いかけるのだ。昏い口腔の中には、白茶けた小蟹が――。襲い掛かるような腐臭に息が詰る。
 目が覚めても、腐臭は消えなかった。一人暮らしの高層マンションの部屋に、腐臭が満ちている。ああ、バスルームだ。蓋をしたバスタブの中に腐臭を放つ湖水が淀み、天使の腐乱死体が手足を不自然に捻じ曲げて浮かんでいる。蓋を開けたら、きっと、水面をびっしりと覆う不潔な羽毛と長い髪の毛の間から、水に晒されて色が抜けた生白い顔が、わたしを見上げて笑うのだ――。
 バスルームから、時おり、ちゃぷん、と、微かな水音がする。バスタブの縁から、抜け落ちた黒髪と羽毛が混じった腐った水が流れ落ちて床に溜まってゆくのが脳裏に見える。バスルームの前を通るのが怖くて、わたしは部屋から出られない。もうずっと、奥の寝室のドアを締め切って、窓際のベッドで頭から布団を被って震えている。今、バスルームで、かさり、ぽたり、と音がした。バスタブの蓋の隙間から小さな蟹がかさこそと這い出して、床に転がり落ちたのだ。蟹の後を追うように、白く膨れ上がった血の気のない指が蓋の隙間から伸びて、のろのろとあたりを探る。ゆっくりと蓋が持ち上がる。腐った天使が、水を滴らせてバスタブから生まれ出る。ずるり、ぴとり、べちゃり……小さな濡れた足音が廊下を近づいてくる。この寝室のドアの向こうに、溺れて腐った空ちゃんが、空ちゃんが、空ちゃんが……!

 ドアの下の隙間から、腐臭を放つ水がちょろちょろと流れ込む。ドアが軋む。腐臭がわたしを包む。ああ、ドアが、開く――

 逃げ道は一方向だけ。気がつくとベランダの柵を乗り越えて、わたしの身体は宙に舞っていた。あの日の空ちゃんのように。
 青空に浮かんだまま、わたしの時が止まった。目の前に、腐った天使が浮かんでいる。ぶよぶよと膨れて溶け崩れた顔に空ろな笑みを浮かべ、あどけなく小首を傾げて手を差し出す。

――やっとあそびにきてくれたね ずっとまってたんだよ だいすきなみゆちゃんにいちばんにきてほしかったの これからほかのみんなもむかえにいこうね――

 差し伸べられた腕から腐肉がずるりと剥け落ちてわたしの顔に滴り、死んだ子どものつめたい指が手首にからみついた。

 

(終)

 


サヌザと共に ~草原の道~

 砂鳥《スナドリ》 に乗って街道をゆくうちに、いつのまにか道に迷っていたらしい。
 旅人は途方に暮れてあたりを見渡した。
 丈の低い草が痩せ地にへばりつくように生えているだけの乾いた草原を突っ切る、一筋の古街道。これまでにも何度か往来したことがある見知った道筋の、このあたりは迷いようもない一本道であったはずなのに、行けども行けども、今日中に辿りつくはずだった次の宿場が見えてこないのだ。気がつくと、足下の街道自体が、人の踏み跡も絶えて久しい風情で黄褐色の砂を被り、草に埋もれかけている。
 そういえば先頃から、普段なら何組も行き会うはずの他の旅人と、一度も出会っていない。やはり気づかぬうちに古い枝道にでも迷い込んでしまったのだろうか。いや、そんな道はないはずなのだが……。胸のうち でひとりごち、旅人は暮れかけた空を仰いだ。
 西方の砂漠に産する巨砂鳥《オオスナドリ》 は、早駆け時の上下の振動が激しいので騎乗に熟練を要するが、どんな悪路もものともせず、穏和で頑健、渇きに強く雑食性で、休憩時に放してやれば草でも地中の小虫でも、ときには蛇や蛙や野鼠まで何でも勝手に食べるので飼い葉もほとんど不要、野宿の際には巨大な翼を天幕代わりに柔らかな羽毛に包まれて眠れば夜露も凌げて暖かく、人に倍するその巨体と鋭い嘴に恐れをなして野の獣も滅多なことでは近寄らないという、荒野の旅にはこの上もなく役立つ騎獣だ。そのうえ賢く忠実で、細やかな愛情と愛嬌のあるしぐさで旅の孤独を癒やしてくれる、良き道連れでもある。
 が、夜目が利かないのだけは、鳥であるからにはしかたがない。
 野営をするのはいいとしても乏しくなってきた水だけはなんとか調達できぬものかと思案していると、行く手に何か見えてきた。
 近づいてみると、なんと都合の良いことに、それは古びた井戸だった。見渡す限り遮るものとてない広い草原の只中に、ぽつんとひとつ、井戸がある。傍らには一人の老婆が、頭からすっぽりと布を被って、うずくま るように座っていた。
 砂鳥から降りて年長者への礼を取りながら進み出ると、老婆は皺深い面を上げ、旅人を差し招いた。間近に寄って見下ろせば、老婆のかづいている布は、古びて色褪せ擦り切れてはいるがずっしりと凝った織り目の、金糸銀糸を精緻に織り込んだ豪奢な衣の成れの果てであると知れた。
 老婆は井戸守りと名乗り、井戸から水を汲んで、まず自分で一口飲んでみせてから、柄杓を差し出してきた。なぜこんなひとけのないところに老婆が一人で、と、不思議に思いながらも、有り難く澄んだ水を飲み干し、勧めに従って皮袋にも満たした。砂鳥も、足元に置かれた水桶に幾度も頭を突っ込んで、雫が伝う長いくびを一飲みごとに反らしては、満足げに咽を鳴らした。――砂鳥は水を飲まないというのは単なる俗説だ。生草などの水分のある餌を摂っていれば長期間水なしでも耐えられるというだけで、新鮮な水があれば喜んで飲む。
 謝礼の小銭を差し出そうとすると、老婆は受け取らず、旅人が背負った半月琴に目をとめて、謝礼代わりに音楽と一夜の話し相手をと所望した。
 まもなく日も暮れる。この先にはどうせ何もないから、ここで夜を明かすと良い。屋根はないが焚き火を振る舞おう。あそこに積んである薪を運んできて火を熾しておくれ、と。
 この老婆は何処に住んでいるのだろう。まさか普段からここで一人で夜を明かしているのだろうか。水はともかく食料はどうしているのだろう……。訝しみながらも旅人は、言われるままに火を熾し、焚き火のほとりで携帯食を食べ、老婆にも勧めたが、老婆は手を振って断った。その背後に、火明かりが作るはずの影がないのに、そのとき初めて気がついた。
 いずれ人外のものであろうとは薄々察していたから、意外には思わなかった。
 それでも旅人は、老婆に琴を奏でて聴かせた。
 旅人は楽師でもあった。よしや妖しの者であっても、楽の音を愛するものがもてなしの対価として演奏を望むのに、応えないのは楽師の名折れだ。それに、たとい魔物であれ亡霊であれ、楽を愛する者であれば、楽の奏で手に危害を加えはしないものだ――その演奏が、その者の心に適いさえすれば。
 旅人は己の楽の音にいささかの自負を持っていた。演奏の技量にではなく、音色にこめることができる音楽への純粋な愛に対して。
 心をこめた演奏を老婆は気に入り、返礼にこの場所にまつわる物語を、と申し出た。
 この場所を、よく見てごらん――という老婆の言葉に、あらためて黄昏の草原を見回すと、周囲には風化した石材の破片が散乱し、目を凝らせば、井戸を取り囲むように、城郭の跡と思しき草むした遺構もところどころ見分けられるのだった。
 老婆は、かつての光景の幻を見ているかのように夕闇に沈みかけた街道の先を見遥かし、低く語りはじめた。
「遠い昔、この道の向こうから、騎馬の軍勢がやってきたのだよ――」



    ◇


 かつて、ここには、城壁に囲まれた小さな都があった。小さいけれど文化の栄えた古い都で、古い血を引く王もいた。年若い王で、未だ正妃を持たず、ただ一人の愛妾を一途に慈しんでいた。妾姫は名立たる舞姫で、その美貌と舞の上手の評判は、草原の西の果てから東の果てまで隈なく鳴り響くほどだった。王と妾姫は幸せだったが、雅な文化を誇る古い王国は既に昔日の勢いを失い、熟れすぎた果実が自ら地に落ちようとするように、すっかり力衰えて緩慢な滅びの中にあった。
 そんな頃、草原の北に台頭してきた蛮族が、この道を通って都に攻め寄せてきたのだ。
 迎え撃つすべも持たぬ文弱の王は、民を城壁の外に逃がして後に城門を閉ざした。
 涙ながらに都を捨てた人々のどれほどがどこかで生き延びることができたのかは知らない。
 城門を閉ざした都は、騎馬の蛮族に包囲された。城壁の中には、王と家臣たち、そして、都と運命を共にすることを選び取った一部の民たちが残った。城壁を乗り越え、打ち壊して蛮族が攻め込んでくるのは時間の問題と思われた。
 そんな中、蛮族の首領は、城壁越しに舞姫に呼びかけてきた。明日の朝までに自ら出てきて自分のものになれば命は助けてやろう、と。王たちにも、止め立てせずに舞姫を通せば都の陥落の後に多少の情けはかけてやろう、と。
 陥落後の情けなどという約束が嘘であるのは明らかだったし、情けをかけられたいとも思わなかったが、舞姫の命を取らないという約束は本当だろうと思われた。舞姫はその絶世の美貌を草原中に謳われていたから、蛮族の首領がまだ見ぬその美姫を一目見たいという好奇心に駆られ、さらには己がものにしてみたいという好色な野心と執心を抱いても、何ら不思議はない。
 王は、我が身を断ち切る思いで、己が愛妾にこの呼びかけに応じることを勧めた。が、舞姫は、王と共に、都と共に滅びることを自ら選んだ。
 諸共の死を覚悟した王は、その夜、蛮族たちの包囲の中で、この都の最後の舞の宴を催したのだった。
 煌びやかに着飾った王に家臣、やはりできうる限りの盛装に身を包んだ民たちの全員が、赫々と篝火を焚いた王城の中庭につどった。残り少ない備蓄食糧の洗いざらいが宮廷料理人の矜持にかけて山海の珍味であるかのごとく技巧を凝らして調理され、洗練の限りを尽くした器に美しく盛られ、酒蔵の美酒も一甕残らず運び出されて、身分の分け隔てなく供された。料理の量は少なかったが、折りしも盛りの甘扁桃アーモンドの花びらの舞う中庭にしつらえられた宴席は、まるで栄華の盛りの優雅な花遊びの夜宴のよう。夜風に白い花びらが流れ、金の火の粉が夜空を焦がして舞い上がる中、篝火に照らされて、舞姫は舞った。滅び行く故国のために、愛した王のために。そして最後に舞台を降りて、中庭の真ん中の深い井戸にその身を投げた。死した後にさえ己が身に、蛮族の手が指一本たりと触れぬよう。それを見届けた王と家臣たちは、みな、その場で刺し違えて息絶えた――。



    ◇


「翌朝攻め入ってきた蛮族たちはどうなったかって? 全部死んだよ。一人残らずね。何故なら、井戸に身を投げたわたしは、舞衣の懐に毒を抱いていたのだから。色も匂いも味もなく、水に良く溶ける強い毒をね。しかも、飲んですぐ効く毒じゃあない。最初に飲んだものがその場で死んだら、他のものたちは水を飲まぬもの。一刻ほどたってから、ゆっくりと効く毒であったのさ。――ああ、そんなぎょっとした顔をおしでない。たしかにこの井戸がそうじゃが、あれはもう、遠い、遠い、昔の話じゃもの、毒など、とっくに消えたよ。折り重なった屍も、都の跡さえ砂に埋もれ、草に埋もれて消え果てる――それくらい、長い、長い時がたったのじゃよ。……そうではない? ぎょっとしたのは毒が怖かったからではなく、妾がその舞姫であったからと? 妾が常の人ではないことなど、そなたはとうに察しておったろうに。だからこそ、こうして昔語りをしたのじゃに。……そうでもなく、絶世の美女であったはずの舞姫がこのような老婆であることに衝撃を受けたと? ……失礼な」
 そう言いながら、老婆の口調は笑いを含んでいた。
 あたりには、いつしか深い闇が落ちていた。
「堅固な石造りの城でさえ崩れ果てて砂に還り、跡形もなく草に埋もれるほどの長い長い年月のうちには、いかなる美女も老婆になろうというもの。じゃが、話を聞いてくれた礼に、昔日の美女の舞姿を見せてやろう。さあ、楽を奏でておくれ……」
 そう言って老婆が、被いていた衣をするりと肩に落とし、袖を通しながら立ち上がると、曲がっていた背がすっくと伸びて、そこには金糸銀糸の舞衣を纏った、臈長ろうた けた美女。
 しなやかな指先が中空に軌跡を描いて天に伸べられ、ゆるやかに舞が始まった。幾重にも重ねられてきらめく玉飾りがしゃらしゃらと鳴り、滑るような足取りを追って華麗な裳裾がさんざめく。ふいに身を翻せば五色ごしき の絹布が宙を流れ、螺鈿の髪挿かざ しが火影に映える。
 はじめはゆったりと、しだいに早く激しく、舞姫は舞った。
 舞は語った。過ぎし日の愛を、誇りを、恨みを、憎しみを、哀しみを――。
 いつしか、金砂のように闇を彩る火の粉に混ざって、白い花びらが降っていた。
 旅人は夢を見ている心地で、降り惑う花びらと耀かがよ う火の粉に彩られた幽遠の舞を眺めていた。
 本当に夢を見ていたのかもしれない。旅人はいつのまにか演奏の手を止めていたのに、楽の音は続いていて、小さな焚き火は赤々と燃え盛る篝火に変わり、立ち並ぶ篝火の向こうには、装いも美々しい若き王と居流れる廷臣たちのおぼろな影が、ほむら の揺らめきにつれてつかのま浮かびあがっては、儚く闇に沈むのだった。楽の音に混じって、遠く人馬のざわめきも流れてくる。
 陶然のあまり、しだいに夢も現も判らぬようになり、目を開けて舞を見ていると思っているうちにいつのまにか目を閉じて、ただ夢寐むび のうちに舞の続きをみつめつづけていたのだろうか。夢の中で、舞い終えた美女が、眠る自分の上に身を屈めて手を取り、髪から引き抜いた螺鈿の髪挿しをそっと握らせる場面を見たような気もする。
 夢の中の美姫は囁いた。良い伴奏であった。おかげで心置きなく舞うことができた。消え残っていた想いの全てを舞い尽くすことができた。伴奏と、話を聞いてくれたことの礼に、これを進ぜよう。そなたが自分で持っていても良いし、人にやっても、売ってしまってもかまわない。ただ、そなたは、妾のことを、そして滅びた都のことを、憶えていておくれ。忘れずにいて、語り伝えておくれ。そしてこの髪挿しを人に譲るときには、必ずや、その相手に、妾と都の話を語り、髪挿しと共にこの物語を語り伝えてゆくようにと頼んでおくれ。さすれば妾は安んじて、ここを離れることができる。天へと続く道の途中で妾を待ってくれている愛しい王の元に、旅立つことができる。旅人よ、伝えておくれ、滅びし都の、名は繭羅《マユラ》 ――。




 はっと気がつくと、旅人は、心安らぐ鳥の体臭と柔らかな羽毛で満たされた心地よい薄暗がりで目覚めたところだった。砂鳥の翼の下で、その羽毛と体温に包まれて寝入っていたのだ。旅人の手の中には、古びてはいるが見事な細工の螺鈿の髪挿しがあった。
 目覚めた合図にそっと砂鳥の胴を叩くと、砂鳥は頭上から翼をどけて静かに立ち上がり、長い頸を下げて頭を擦り寄せてきた。旅人が頼れる相棒への感謝をこめて顎の下を掻いてやると、愛鳥は心地よさげに目を細めて、咽の奥でクゥ、と啼いた。
 あたりは朝で、老婆の姿はなく、ただ崩れかけた古い枯れ井戸があるだけだったが、水袋にはちゃんと、昨晩井戸から汲んだ澄んだ水がいっぱいに入っていて、朝日を受けて砂鳥と共に出立すれば、街道はいつのまにか見慣れた佇まいに戻り、ほんの数十歩も歩いて振り返ると、そこにはもう、古井戸の影も形も見えなかったのだった――。



    ◇


「そして、これが、その髪挿しだ。どうだい? 砂に埋もれた古い都の、王の寵姫の髪飾りだよ」
 賑わう市の片隅で、旅の楽師兼物売りは、砂鳥に括りつけた袋から取り出した髪挿しを恭しく掲げて見せた。そうしながら、遠巻きに群がる子供たちに声をかけるのも忘れない。
「ああ、ぼうやたち、砂鳥は大きいが優しい生き物だから、怖がることはない。ほら、可愛い眸をしてるだろ? 名前はサヌザと言うんだ。触ってみるかい? 頸を撫でてやると喜ぶよ。ただし、気をお付け、もしも、お母ちゃんへのお土産に羽を一本、なんて悪戯心を起こして引っこ抜こうとでもしたら、この大きな嘴で、頭からばくっと齧られてしまうよ」
 騎乗用の砂鳥は東方では珍しいから、こんな田舎の市では、傍らに立たせておくだけで恰好の客寄せになる。
 楽師は人垣の中から、赤い頬をつやつやさせた頑丈そうな女に目をとめて差し招いた。
「ねえ、そこの美しい奥方。そう、あなただよ。この髪挿しを買わないかい? あなたのような美しいご婦人になら、きっと似合うと思うから、安くしとくよ。儲けより、似合う人に挿してもらうのが一番だからね。ああ? そんな、井戸に身を投げた悲運の姫の髪挿しなんて、呪われているのじゃないかって? 祟るんじゃないかって? まさか。とんでもない。あれはたしかに亡霊の類ではあったと思うが、悪いモノじゃあなかったよ。ただ、自分たちのことを誰かに憶えていて欲しかっただけなんだ。自分たちのことを語り伝えてくれる人が欲しかったんだ。だったら、そうしてくれる相手に害を成すわけがないだろう。古き繭羅とその舞姫の物語を語り伝えてゆく限り、髪挿しを持っているものは、むしろその伝え手として守護してもらえるはずさ。奥さんに、娘はいるかい? じゃあ、その娘さんが嫁に行くときに、この髪挿しを、由来を話して持たせておやりよ。そうして、娘さんは、そのまた娘さんに、物語と共に髪挿しを伝える。そうすれば、繭羅の舞姫は深く満足して、この髪挿しは、あなたとその娘、そのまた娘を代々守ってくれるだろう。……しかも、この髪挿し」と、物売りはここで、秘密めかして声を潜める振りをした――実際には声色が変わっただけで、声は小さくなっていなかったが。
「ここだけの話、あの舞姫が、石造りの城が砂に還るほど長いこと絶世の美貌を保っていられたのは、これのせいじゃないかと思うんだ。だって、舞姫が私に渡そうと髪挿しを抜いたとたん、みるみる縮んで、萎びた老婆の姿に戻り、ふっと消えてしまったんだからね。実はこの髪挿しにこそ、若さと美貌を保つ不思議な力があったんじゃないか? もしかすると、生前の舞姫の美貌も、多少はこの髪挿しのおかげだったのかも……? ねえ、あなたのその健やかな美しさが、これ一本でいや増した上にいつまでも保たれるとしたら、私はとても嬉しいんだけどな……」



    ◇


「そう言って、物売りは、招きよせたあたしの手に髪挿しを載せて、あたしをじっとみつめながら優しげに笑ってね、その手を両手でそっと包みこんだんだ。それがまあ、うっとりするようないい男だったんだよ……。金の髪に翠の目の、珍しい西域の美貌でさ。煙るような金色の睫毛の長いことといったら!」
 たまさか訪れた下界の市で髪挿しを購った高地の村の女は、そう言って、井戸端に集った女たちに髪挿しを見せびらかすのだった。
 衣を濯ぎながら笑いさざめく賑やかな女たちの頭上には、純白の雪を頂く峻嶺が厳しくも清らかに聳え、光明るい高嶺の空を清澄な風が吹き渡る。
「その物売りの綺麗な顔とお世辞につられて、ふらっと買っちまったわけかい? 挿してるだけで美人になれる髪挿しなんて、そんな莫迦げた話があるもんかね!」
 どっと笑われて、女は頬を膨らます。
「別にそんなのは嘘だっていいんだよ! だって、ほら、見事な細工じゃないか。物売りの話が嘘でも本当でも、値打ち物には間違いないよ。それに、あの綺麗な西域の物売りが、あたしのことをじっとみつめて、美しい奥方って言ってくれたんだよ。嘘でも嬉しいじゃないか。これを見るたびに、そのことを思い出して楽しくなれるじゃないか」
「でもさ、そんなものに大枚はたいて、あんたの亭主がなんて言うかね」
「ふん! 亭主になんか何も言わせやしないよ! だってこれは、あたしが山に入って採ってきた薬草をあたしが自分で市に降りて売った金で買ったんだからね。あたしが稼いだ金で何を買おうと、あたしの勝手さ! ねぇえ、ラサ、あんたが嫁入りするときには、この髪挿しをあげるからね。古い繭羅の都の、王の寵姫のご加護がある、特別の髪挿しなんだよ」
 女たちの足元で遊んでいた泥に汚れた裸足の小娘は、突然名を呼ばれ、きょとんと指を咥えて母親を見上げる。
 幼子の手を引き堂々たる尻を揺らして立ち去る健やかな女の髪で、螺鈿の髪挿しはからりと明るい山の陽にきらめき、空はどこまでも澄み渡って白い稜線を抱くのだった。


 その頃、同じ空の下、純白の峰々に見下ろされて街道をゆく旅人は、翼持つ相棒の頸の付け根を優しく叩いて呟いていた。
「ねえ、サヌザ、あのひとは、いまごろ髪挿しを挿してくれているだろうかね。サヌザ、お前にわかるかな。もしもあのひとが私の頼み通り、髪挿しとともに古き繭羅の物語を本当に語り伝えてくれるなら、その時、髪挿しは本物なのだよ」
 旅人は夢見るように微笑んで、高地の女の面影を胸に、背後の山並みを振り返る。
 砂鳥は小首をかしげて賢しげな眸を瞬かせ、訳知り顔でクゥ、と啼いた。
「サヌザ、わかってくれるのかい?」
「クゥ」
「そうか、わかってくれるのか」
「クゥ」
「綺麗な女だったね。美人ではないが、私はあのひとを綺麗だと思ったよ」
「クゥーゥ」
 サヌザは幾度でも機嫌よく主人の声に応えながら、長い脚を悠然と繰り出して歩を進める。
 こうして旅の楽師兼物売りは、今日も愛鳥サヌザと共に、草原の道を、いずこへともなく旅しているのであった。

 

 

……『サヌザと共に ~草原の道~』 完……



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