閉じる


昔日のポートレート

 

 短く息を吐いてハサミで封を切った。中に入っていたA4サイズの紙片を取り出す。形式的な挨拶や作品の応募数といった文章を飛ばし、自身の結果が目に飛び込んでくる。

 顔を上げ、今度は長く息を吐いた。あと何度この気持ちを味わえばいいのだろう。水中でもがいている自身の姿が思い浮かんだ。足をどれだけ動かそうとも、いっこうに前に進まない滑稽な光景だ。

 紙くずとなったものを思い切り振り上げ、下ろす。もちろん勢いよく床に叩き付けられるわけもなく、それは僕を馬鹿にするようにひらひらと殺風景な床に舞い落ちた。

 何かのスイッチが押されたかのように素早い動作で机の引き出しから今まで撮りためた写真の束を無造作につかみ、やみくもにフリスビーを投げるようにばらまいた。もう何もかも、どうでもよかった。こんなことはやめよう。二度と同じ思いは味わいたくない。もう一人の自分がヒステリックに叫び声をあげる。

 写真で部屋が埋めつくされたところで片付けのことを考え、やめた。こんな状態に陥っても、くだらないことを気にする自身にさらにいらついた。蝉の鳴き声がやけに耳障りで、ぬるりとした額の汗を手の甲で乱暴に拭った。

 携帯が鳴った。ディスプレイには「父」と表示されている。無視することにした。三十秒ほどしても切ってくれなかったので、こちらから切断する。五秒もたたないうちに再度携帯は着信を知らせた。僕は舌打ちをして電話に出る。

「なんね」

「おう、おれおれ」

「わかったとうよ。用はなに」

「どがんしたか。なんか怒っとっと?」

「怒っとらん」

 ぶっきらぼうに応える。

「写真はどうね。頑張いようか」

「……ぼちぼちよ」

 父は少し間を置いたあと、まああんまり気張りすぎんで焦らずに頑張りんしゃい、と励ました。そのやり取りは何度となく行われ、すり切れている。そのたびに気遣いを強制しているようで、胸にどす黒い澱がたまっていく。

「今日電話したとは、お母さんのことさ」

「うん」

「今バイトしよっやろ? そいば頑張りすぎてからこの前過労で倒れたもんね」

「え? 大丈夫やっと?」

 一瞬で先ほどのことが吹き飛んだ。

「今は家で休んどる。まあ、お母さんも歳やけんね。お前どがんか、ちょっとこっちに帰ってこんね。元気づけてやってよ」

 考えよりも、言葉が先に口をついて出た。とにかく僕は逃げ出したかったのだ。

「明日そっち行く」

 

「あらーお帰り。ちょっと痩せたっちゃなか?」

 リビングに入るなり、ピンクのタンクトップとハーフパンツ、髪をヘアバンドでアップにして、片足で立ち、フラミンゴのような奇怪なポーズをとった汗だくの母が出迎えてくれた。

「……どういうこと」

「ホットヨガ。よかよー、これは。すごい汗かいて、どんどん痩せる。あ、このポーズはガルダ・アーサナ――」

「いや、入院しとったっちゃなかと」

「うそよ」

「は?」

 背後に気配を感じ、振り返ると父が必死で笑いをこらえていた。

「お母さんのお前に会いたかって言いよったけん、一芝居うったと。お父さんの演技うまかったやろ」

「……」怒りを通り越して脱力し、そのまま座り込んだ。「心配したとよ」

「あらーありがとう。まあよかやん。せっかく休みとったとやけん、ゆっくりしていけば。あ! 友達に頼まれてY神社まで安産祈願ば買いにいくばってん、ドライブいかん?」

「なんでついていかんといけんと」

「よかやんね。あんたは寝とっだけでよかけん」

 最後の言葉に少なからず必死さが含まれていて、僕は何となく目をそらす。思えばしばらく帰省していなかった。

「分かったよ。行こう」

 

 母の愛車である年季が入った白の軽自動車は、心なしか日向ぼっこをしているおばあちゃんのように見えた。二つのライトが愛くるしく、おじいちゃんでなくおばあちゃんに見えるのかもしれない。地球を何周かできるほど走行しているはずだ。

 車に乗り込んで、締めたドアの音が思いのほか大きく耳に響く。なぜかあの結果を知らせるA4サイズの紙切れを思い出した。僕は頭を軽く振った。

「なんばしよっと」

「いや、なんも」

「そ。じゃあ、出発進行!」

 母のかけ声と共に車はのっそりと発進する。

「ドライブ久しぶりね。覚えとる? あんたが小さかときに寝れん、て言うていつも車に毛布ば持ってきて夜中走いよったこと」

「うん」

 何度も聞かされた話だし、僕自身もふわりとした記憶があるが、今回はなぜか蜃気楼のようにおぼろげな光景が眼前に立ち上がる。

 ――お母さん、ねむることのできん。どっかつれてって――

 ――またや。しょうがなかねえ。毛布持ってきんしゃい――

 夜の世界は僕にとってまだ得体の知れないものだったが、心地よい車の振動やシートを倒して仰向けになった僕の目に、窓ガラス越しに飛び込んでくる街路灯や星が過ぎ去る光景は眠りの世界への近道だった。

「毎日のように行きよったもんね。もう今は身体の疲れてできん」

 静かに笑みを浮かべる母の横顔を見る。皺が増えた。少しやつれてもいる。それもそうだ。僕もいい歳なのだ。

「写真は、どがんね」

 窓ガラス越しの景色に目をやる。ランドセルを背負った子供たちが走っていた。

「まあ、ぼちぼちかな」

 成功するまで、そう応えることに決めていた。成功したことしか報告したくなかった。

「そうね。はよう有名になって家買ってよ」

「分かった分かった」

 これも何度も繰り返された会話だった。苦笑するほかない。

 母と僕を乗せた車は左手に海がのぞめる道を走っている。窓を下げると潮の匂いが混じった風が、伸ばしすぎた髪や着古したシャツと遊ぶ。僕は目を閉じ、いらない物を全て吐き出すように努めてゆっくりと深呼吸をした。

 突然目の前に仲の良かった友人が現れた。僕とその友人は簡素な鉄製のデスクを挟んで向かい合って座っている。あたりは暗闇で、デスクに置かれた小さな卓上ライトが見慣れた顔を薄ぼんやりと浮かび上がらせていた。

『このコンクールには何度も最終候補に残っていたけど、ようやくだよ』

 あのときの言葉だった。僕は当時吐いた表面的な祝福の言葉をそのまま友人に贈ろうとしたが、口を動かすことはできても自分の声が聞こえてこない。それをいいことに、無理矢理押し込めていた言葉が溢れてくる。なぜかその声ははっきりと聞き取ることができた。

 ――コンクールの傾向をよく研究していたお前の勝利だ。でも、そんな模範解答のどこがおもしろいんだ?――

 ――どっかのポスターとかCMで見たようなものばかりだな。だからお前の写真は大学のサークルの誰からも評判がよかったんだ。クソみたいに大衆的で無個性で、どこにでも転がっているような代物だよ。本当に運がよかったんだな――

 つばを飛ばし、一気にまくしたてた。相手を批判することが目的ではない。暗闇が手招きしている崖に立ち、嫉妬や、羨望で引きちぎれそうになっている自身を守るため、自滅しないように友人の実力で勝ち得たものでないと懸命に言い聞かせていた。

 後悔と嫌悪感がすぐに押し寄せたが、気持ちがよくて爽快で、胸のつかえがとれたような気がして、悲しかった。

 何度も朝まで酒を飲みながら、写真はもちろん当時の彼女の性癖といった様々なことを語り合ったかつての仲間は忽然とその姿を消していた。

 驚いたことに目の前で消えたのか、そもそも現れてさえいなかったのか、判然としない。

 その友人とは僕のほうから連絡を絶った。独りよがりでくだらない決断だ。

 少しすると今度は、無精髭を生やした熊のような顔をした男がぼうっと現れた。カメラに詳しくない者も名前ぐらいは知っているほどのカメラマンだ。以前大学のワークショップで指導を受けた縁で今は写真の批評をお願いしている。

『いい写真には、一瞬で見る者の心をつかむ輝きがある。だがお前の作品には――』

 決まりきった台詞のように聞かされた言葉だった。何度も言われたことがあるため、そらんじることができるくらいだ。それでも彼のもとに通い続けているのはいつか賞賛の声を聞けると信じていたからだ。そして彼から認められることが、いつかコンクールの受賞といった栄光の道へ導いてくれると盲信していた。

 先ほどの激情は鳴りを潜め、僕は壊れたステレオのようにただただ繰り返される彼の言葉を受け止めるしかなかった。言い返すことができない。彼の言葉の通りだからだ。

 夢をあきらめない。

 ともすれば笑われてしまいそうな使い古された言葉を僕は純粋に信じていた。

 継続することを忘れなければ、まばゆい光に少しだけでも触れられる。そう自身を奮い立たせでもしないと、背後から追いかけてくる正社員だった頃の僕に追いつかれてしまう。横に並んだとき、彼に言われることは分かりきっている。それはどこから見てもピカピカの正論だ。

 反論は口でなく、行動で示さないといけない。だがその意気は全力疾走からやがて肩で息をしながらかろうじて、ただ「走る」体を成している状態へと変わり消沈してしまった。

 一位でゴールするという目的から目をそらし、「自分は頑張っている」ということを確認したいだけのレースにもはや意味はない。

 惰性で日々を過ごしているうち、ぴきっ、という音がした。必死で耳をふさいでもそれは日に日に複数の断続的な音になり僕に襲いかかる。気がつくと写真について考えることを避けるようになっていた。

 まるでそこまでたどり着くための回線を切断されたように、街中で、自室で、派遣先の職場で、作品が生まれるときの興奮を伴った幸せなイメージはことごとくその翼を広げる前に霧散した。

 思考を拒絶し続けた。逃げに逃げた。

 カメラマンはずっと同じ言葉を繰り返している。

〝お前の作品はお前の作品はお前の作品はお前の作品はお前の作品は……〟

 突然どこからか誰かが歌を口ずさむ声が聞こえてきた。母の声だ。馴染みのある曲だった。母はそのバンドの大ファンで車ではそのバンドの曲しか流さなかった。

〝悲しみにさよなら〟〝ほほえんでさよなら〟

 幼い頃の記憶がよみがえる。助手席のシートを倒し僕は仰向けになって目をつぶっている。心地よい振動と、この音楽と母のかすかに口ずさむ声と共に意識が遠ざかっていく……。

 ボーカルの少しかすれていて、そっと寄り添うような歌声が印象的だった。様々な曲を流していたがどれも少しどこか悲しさを抱えていた。

 だがなぜかそれは、ときに優しい手触りで、抱きしめると頭のてっぺんから爪の先まで温かい液体がじんわりと体内に入りこんでくるのだった。

 目を開くと天井が見えた。クリーム色のなんの変哲もないものだ。例によって眠ったしまったらしい。軽く伸びをする。

「ごめん起こしてしもうた?」

「いや、大丈夫」

「あ、そうだ。あんたの前にあるボックスを開けて。写真のあっけん」

「写真?」

「いいから、はよう」

 言われるがまま、僕は前方のグローブボックスを開き写真を探した。すぐに定期入れのようなぼろぼろの皮のケースに入った写真を見つけた。

 若き日の母がそこにいた。慌てた様子で手を伸ばしている。面白い写真だが、丸みを帯びた影は――。

「あんたが最初に撮影した写真よ。レンズに指があったけん、急いでわたしが教ゆーでしてから行こうでしたところをパチリってしたと。でもよか写真ねえ。天才カメラマンになったら高く売るっちゃっなか?」

「なんば言いよっと」

 僕は母にそう言いながら不思議な感覚にとらわれていた。こんな風に写真を撮ればいいのではないか。深く考えず、自身の感覚に任せてシャッターを切る。

 写真はそのとき感じた喜びも悲しみも一瞬を切り取る。その一瞬に想いを乗せられると感じたら、そのままに指を動かせばいいのだ。

 写真を手に取ったまま自然と笑みがこぼれた。いい写真だ。そのときの状況が伝わってくる。そこには物語がある。

 トンネルに入った。オレンジの灯りが車内を包む。前方には小さく出口が見え、そこには太陽の光が母と僕を待っていた。

 一枚で勝負する作品にするかそれとも組写真にするか、立ち上がってくるストーリー、シャッター速度は? おびただしい数の透明なイメージが目の前に出現する。無意識に手がカメラを探していた。言いようのない嬉しさがこみ上げる。

 まだ、衝動が残っている。

 全身を七色の風が吹き抜け、色あせた景色が咆哮し、世界を少しの間変えてくれる情動が身体の内側から痛みを感じるほどに激しく叩く音がする。

 どんなに気力を失っても、人にけなされようとも、あきらめようとさえしても、ちっぱけな僕の存在を写真が証明してくれると確信している。

 ほどなくして、目的地に着いた。

「降りるね? ここで待っとく?」

「一人で行くの寂しかろうもん。降りっよ」

 行けるところまで、ゆっくりと行こう。ときには休憩でもしながら。

 僕はドアを開け、足を踏み出した。


この本の内容は以上です。


読者登録

鬼風神GOさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について