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それから三ヶ月ほどして千春は、総務部の、社内でも一番地味で平凡な(ます)()(こう)()という男に居酒屋に誘われた。そして、少しの酒で酔ってしまった増井からずっと昔から好きだったと告白された。

嫌なタイプの男ではない。ただ、あまりに()(もく)で目立たないせいか、今まで一度も男として意識したことはなかった。
 経理部に籍を置く千春が、一階上の総務部に資料やコピーを届ける折などに、たまに顔を見かけては挨拶を交わす程度の間柄。身長は高からず、低からず。薄くなりかけている七三分けの髪にグレーのスーツ。どこと言って特徴のない顔に黒縁メガネ。どこにでもいるサラリーマンのタイプである。

増井と付き合うようになってしばらくした頃に、酔って池田雅樹への憎悪と失恋の痛みをしたたかぶちまけた日も、彼は黙って頷きながら千春の涙を拭いてくれた。

手ひとつ握らずに、傷心が癒えるまで待つという千春を思いやる逢瀬のなかで、次第に彼女も増井を愛するようになっていった。けれど〝スノーフレーク〟には、彼をまだ一度も誘っていない。

――もし、増井さんの言葉が嘘だったら……ついこのあいだ、ひどい失恋をしたばっかりだし……考えてみたら、わたしはいままで男のひとに本気で好きだなんて言われたことがない。自信がない。それなのに、彼がわたしを好きだなんて信じられない――

彼女は悩んだ挙げ句〝スノーフレーク〟にひとりで出かけた。そしてマスターに増井の話をした。本心を訊きたいけれど、怖い、とっても怖いのだ、と……。

マスターはひとしきり話を聞いたあと、静かに言った。

「本心を知りたいのであれば連れていらっしゃい。もし、嘘なら嘘でもいいじゃないですか? 嘘とわからずに騙されるよりも、嘘とわかって騙されるほうがずっといい! ひとは、嘘だとわかっていながら騙されるってことも、ときには必要なんです。好きだというのが本心だとわかったら、なおよろしいじゃないですか? どちらにしてもグッドなんだから、連れてらっしゃい。悶々と悩む方がよろしくない」

千春はさんざん迷った末〝スノーフレーク〟に彼を連れて行くことにした。

増井は店のドアを開けた途端、直立不動で、

「はじめまして、わたくし増井浩二と申します。マスターのお噂は、千春さんからかねがね伺っております」

そうマスターに挨拶したあと、深々と頭を下げた。

「いやいや、ご丁寧に。ささ、そんなところに立っていないで、どうぞこちらに座ってください」

酒に弱い増井はいつものように、店に入って三十分もしないうちに酔ってしまった。

「千春さんからいつも、〝スノーフレーク〟さんの話を聞いていました。でも、ここは自分だけの大好きな秘密の場所だからって、なかなか連れてきてくれなかったんですよ。今日やっと紹介してくれるっていうから嬉しくて、嬉しくて! あはっ! 駄目ですね。もう、酔っちゃいました。面目(めんぼく)ないです! 千春さんがいつもここは人生のオアシスだって言っていました。マスターには、なんでも本当のことが言えるからうれしいって。兄弟は多いけれど、マスターほど打ち解けて話せる兄弟はいないって! だから、千春さんが信頼しているマスターにお願いします。僕は彼女にプロポーズしているんですが、なかなかOKをもらえなくって……本当に愛してるっていうのに信用してもらえないんですよ。僕は、彼女の自然体のところが好きなんです。いまどきの女みたいに化粧を塗ったくっていない薄化粧の顔も、シャイな性格も、ここぞというときに見せる頑固なところも、なにもかも大好きなんです。ねえ、マスターからなにか言ってくださいよぉ。僕は千春さんを一生大事にしますから」

増井がそう言い終ったと同時に、とろけるような甘い香りが店いっぱいに広がった。カウンターの中のマスターがにっこりと微笑んで、千春にウインクを寄こした。

 

二ヶ月後、ふたりは結婚式の招待状を持って〝スノーフレーク〟を訪れた。店は閉まっていた。次の日も行ってみたけれど閉まったままだ。いままでこんなことはなかったのに……。マスターはいったいどこへ行ってしまったのだろう。
 三日目、胸騒ぎを覚えた千春は、公園を挟んだ向かいの美容室のオーナーにマスターの安否を尋ねにいった。

「ああ〝スノーフレーク〟さん? おととしの春ごろだったかしらね。心不全で突然亡くなった奥さんのあとを追うようにして、一週間もしないうちに、マスターがカウンターの中で亡くなっていたのは……ママもマスターも真っ正直で、嘘が大嫌いで、いまどき珍しいくらい裏表のない、とってもいいひとたちでね。そうそう、ふたりとも、独身の男女をくっつけてあげるのが大好きだったわ。あそこで結ばれたカップルはみんな幸せになっているんだって!」

ふたりは店の前に佇んで(もく)(とう)した。

――マスター、そして会えなかったけれど、いつもマスターが話してくれていたママさん、ありがとう。〝スノーフレーク〟楽しかったです。お店は幻だったけれど、わたしは本物の幸せを掴みました。本当に、本当にありがとう――

 

やがて、ふたりを祝福するかのように、どこからともなくスミレのようなほのかに甘い香りが漂ってきて、あたり一面に広がっていった。


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奥付



天空から降りてきた世にも奇妙なお話 Part 1(Renewal)


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著者 : サラ・シリウス
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