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◆清らかな花、スノーフレークは嘘がお嫌い

清らかな花、スノーフレークは嘘がお嫌い

 

あと十日足らずで今年も終るという暮れも押し迫った金曜日。夜の七時から始まった会社の忘年会も二次会、三次会と場所を変えて、零時きっかりにお開きになった。

「シンデレラじゃないんだから、十二時になったからってみんな、そんなに急いで帰らなくたっていいじゃない!」

あともう一軒、と酔いのまわった声で誘う里中千春(さとなかちはる)の声は誰の耳にも入らないらしい。男たちは皆、若くて可愛い女の子たちを「俺が送る」、「いや、俺が送る」と、先を争って送っていく。
 ――わたしのことなんかここにいるのが見えないみたいに、だれひとり送るなんて言ってくれやしない……そう、毎年のことだけどね――

既婚者や若くも可愛くもない女たちはみんな一次会で帰ってしまい、誰ひとり千春の声に耳を貸すものもいない。千春も毎年早く帰ろうと思うのだけれど、ついつい飲み過ぎて遅くなってしまうのは、内向的な彼女が唯一、飲んだときだけはちょっとばかり楽しくなって、なにかいいことがありそうな気がするからにほかならない。

しかし、今年もいいことなどなにも起こりはしなかった……。

千春は今年三十六歳になるが、これまで一度も異性と付き合ったことがない。顔もスタイルもいたって普通の彼女だが唯一欠点がある。それは幼い頃から非常に暗かったという性格。家族旅行の折など、あまりに大人し過ぎて、いなくなったことにも気づかなかったら大変だ、と母はいつも千春の手を離さなかったというから半端ではない。

中学生の頃に、

「千春ちゃん、もう少し明るくなったほうが男の子に受けると思うよ。なんか、いつも下を向いていて暗いから」

と、同じように暗い友人に言われたことがある。いくらなんでもわたしはこの子ほどネクラではない、と密かに思っていた彼女はそれを言われたときにはかなりショックで、しばらく落ち込んだのを覚えている。

二、三年前、卒業以来会ったことのなかったその友人が、デパートの帽子売り場で買い物をしているのを見かけた。夫と娘だろう、家族に囲まれての幸せそうな様子につい声をかけそびれてしまい、千春は思わず隠れてしまった。
 なにも悪いことをしているわけでもないのに身を隠した自分が情けなく、そのことがいまだに深い後悔となって、心の底に(おり)のように重く沈んでいる……。

――わたしよりネクラな子や、不細工な女や、性格の悪い女がいくらでも結婚しているのに――
 それなのに、恋人どころかボーイフレンドさえできたためしがない。

千春は九人兄弟のちょうど()(なか)

二十代の終り頃まで、長野県のC市に住む母親から恋人はまだか、結婚はまだか、とうるさいくらいに催促されていたものだが、三十を境にそれもぱったりと途絶えた。ここ数年、その九人いる兄弟のうちの七人が、やれ結婚だ、出産だ、病気だ、事故だ、と立て続けにあれこれとあったせいもあるだろうが。

年中行事や盆暮れは、特にひとり身の(わび)しさからか、酒の量が増える。

――こればっかりは縁があってのことだから、もし一生結婚できなくても仕方がないわ――

最近はそう思うようにしている。

年を重ねたせいだろうか、あきらめがよくなったらしい。

ついさっきまで騒がしかった歩道がいつものように静けさを取り戻した。行きかう車のヘッドライトが降り始めた牡丹雪(ぼたんゆき)を美しく照らしだす。
 普通ならここで帰る気になるのだろうけれど、頬に降りかかる雪が、帰ってもひとり暮らしの冷たいベッドを思い起こさせて彼女の足を引き止める。鼻の奥がツーンと痛くなった。飲んだときだけ、少しばかり陽気になれる。まだ、帰りたくはない……。

――いいわよ。ひとりでも……ひとりで忘年会の続きをやってやる――

(から)元気を出して彼女は歩き出した。しばらく歩くと街はずれの公園の前に来た。繁華街に行くはずが方向を間違えたらしい。

千春は就職のため生まれ育った群馬県のC市をあとにして、県境にあるここH市でひとり暮らしを始めてもう十八年になる。しかし、アパートと会社の近所くらいしか馴染みはない。このH市きっての繁華街に足を運ぶのも、課の行事や歓送迎会くらいで、年に五、六回あるかないかだろう。それに少し酔った頭では間違えるのも無理はない。

大木の生い茂った公園に寄り添うように、ひっそりと(たたず)んでいる小さなバーが眼に入った。扉の上にある〝BAR スノーフレーク〟と書かれたプラスチックの看板が風に(あお)られて、カタカタと耳障りな音をたてている。
 間口二メートル足らずの小さな店だ。二階は住まいになっているのだろうか、真っ黒な窓のガラスが(あるじ)の留守を告げている。千春は、いまどき珍しい古めいた彫刻の施された焦茶色のドアを押した

「いらっしゃいませ」

カウンターの中にはマスターひとり。

スナックにつきものの若い女の子もいない。それに真夜中のせいもあるだろうが、忘年会のシーズンだというのに客ひとりいないのも、小心者の不安を駆り立てるには十分なシチュエーションである。

半分以上は身体がうしろに引けて、帰ろうかと逡巡(しゅんじゅん)している千春に、

 

「こちらへどうぞ」


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 と、マスターがグラスを拭く手を止めてにこやかに笑いかけ、自分の前の席を優雅に指し示した。

――暴力バーだったらどうしよう――

しかし、テレビで摘発される場面をたまに見るけれど、そういうのはたいてい若い(あん)ちゃん風の男である。

――こんな熟年の、渋いマスタ―が暴力バーなんてやるわけないわよね――

無理に自分にそう納得させながらカウンターのスツールに腰をかけた。変な店だったら一杯だけ飲んで帰ればいい……そう思った。

「おひとりですか?」

「ええ……」

蝶ネクタイにベストという、昭和初期の映画に出てきそうなファッションのマスターが穏やかに話しかける。見まわすと、店のそこかしこに、ブリキのクラシックカーやトランペットを吹く黒人の陶器の人形など、洒落た小物も置いてある。BGMのイージーリスニングジャズが店の雰囲気と(あい)()って落ち着く店だ。

「なにをお飲みになりますか?」

温かいおしぼりを差し出しながらマスターがくぐもった声で訊く。

「ウイスキーの水割りを……」

アイスピックで割った氷を三つ四つグラスに落とし、ウイスキーを注いでミネラルで割る。その動作のひとつひとつが粋で、マスターが越してきた年輪を感じさせる。

――たまに、こんなバーでひとり飲むのも悪くはないわね――
「おひとりですか?」

ちょっと小首をかしげるところに少年っぽさが残っている。

「ええ、今日は忘年会だったんだけど、酔っぱらってみんなとはぐれてしまって……」

本当のことを言うのが恥ずかしくて思わず嘘が口をついて出た。どこからか〝ドン〟という音がした。

「マスター。今の音はなに?」

「なあに、すぐ慣れますよ。いつものことですから」

「マスターは、いつもひとりでお店されてるんですか?」

「ええ、この不景気ですからね。女の子を雇っても給料を払えませんよ」

マスターがそう言った途端に、なんともいえないいい香りがした。

「お客さまはいつもおひとりで飲まれることが多いんですか?」

「そうね。わたしがとても暗い性格なものだから会社の連中は誘ってくれないし、ひとりが多いわね。今日は随分飲んだから少しおしゃべりになってるけれど……本当言うと、恋人もいないし友達もいないわ。たいていアパートでひとり酒……外で飲むこともめったにないわね」

またなにかのいい香りがした。

――どこかでお香でも焚いているのかしら――
「そうですか? お綺麗な方だからさぞプライバシーもお忙しいかと……」

最後まで言い終らないうちに今度は天井から〝ドーン!〟と大きな音がした。マスターは大仰に首をすくめると、話をやめてまたグラスを磨き出した。

「このお店落ち着きますね。もう長いんですか?」

話の接穂(つぎほ)にありきたりな質問をする。
「かれこれ三十年以上になりますか。ずっと女房とふたりでやっていました。去年、女房が死んでしまって……店の名前の〝スノーフレーク〟は女房の好きな花だったんですよ。ヨーロッパあたりに咲くスズランの一種の可憐な花で、スミレのような香りがします。花言葉は純潔、汚れなき心……小さなランプシェードのような花の形が可愛いくて、清らかな純白の花びらを見ていると心が洗われるような気がするって、女房がいつも言っていました……嘘つきばかりの、こんな汚い世の中ですからね……若い頃、女房のやつ、旅の本かなんか見て、その花をすっかり好きになったらしくて……こちらでも手に入るのでたまには鉢物も買っていました。いつか、本場のスノーフレークを見に行くんだって張り切っていたんですけどね。ヨーロッパには連れて行ってやれないままでした。女房も、スノーフレークみたいに清純で可憐な女でした。いくつ年を重ねても……はっは、こりゃ、すみません。のろけちゃいましたかね……お客さまはひとりが多いって、バツイチですか?」
「えっ? ええ。わたしも主人に先立たれちゃって……今はひとり……」

またもや天井から〝ドーン!〟と大きな音がした。マスターがニヤリと笑った。 

――上の住人が帰ってきたのかしら。音楽がうるさくて、上から棒かなんかで突ついて嫌がらせをしていたりして……でも、マスターが全然平気そうな顔をしているところを見るとそうでもなさそうだし。お店が古くて木がきしんでいるだけかもね――

それにしても一年の終りにいい店を見つけたものだ。マスターは上品で気さくだし、この店なら安い居酒屋みたいに、酔って(から)んでくる客もいないだろう。ときおり響く大きな音も慣れればなんということもない。万が一、変な客に絡まれたとしても、このマスターなら守ってくれそうな気がする。

彼女はこの店の常連になるのも悪くはないと思った。

――大人の女としては、こんなお洒落な行きつけのバーが一軒くらいあってもいいわよね。いつも会社とアパートの往復だし、来年からは生活にちょっと変化がつくかもね――

〝ドーン!〟と鳴る音といい香りが偶然ではないことに気づいたのは、千春が〝スノーフレーク〟に通うようになってしばらくたってからのことだった。

どういうわけかは知らないが嘘をつくと音が鳴るのだ。

 

小さな嘘なら小さく〝ドン〟と、大きな嘘なら〝ドーン!〟という大きな音が鳴る。本当のことを言ったときはなんともいえないいい香りが漂ってくる。少年っぽいマスターの考えた仕掛けなのだろう、と千春は気軽に考えていた。


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今年は春が遅い。冬には老木ばかりだと思っていた〝スノーフレーク〟の隣の公園の木々が小さな蕾をつけ始めた頃、千春は以前から秘かに片想いをしていた営業の(いけ)()(まさ)()という男に交際を申し込まれ付き合うようになった。

映画や食事だけの高校生のようなデートは二回で終り、三回目の夜に千春は()()の痛みを知った。

ひとつ年上の池田はバツイチだが子供はいない。十人ほどいる営業の中でも成績抜群の池田は女子社員にも評判が高い。デートのたびに千春の瞳を見つめて愛を囁く池田の腕の中で、彼女は歓喜に震えた。

しばらくぶりにC市に住む母親に電話をかけた。相変わらずのんきで陽気な母の声。千春とは真反対の、ポジティブ思考の権化(ごんげ)のような母の声はいつ聞いてもほっとする。
 好きなひとができたと報告する千春に、

「ホントに? ホントにホントなの? 兄弟の中で結婚していないのは末っ子とあんただけだったから、あたし……」

母はたたみかけるようにそう言うと、電話の向こうでいきなり(せき)を切ったように泣きだした。母が千春の結婚問題に触れなくなって久しいけれど、内心では千春のことをよほど心配していたのだろう。女三人男六人の、九人いる兄弟のなかで独身はニューハーフになった末っ子と、千春だけだったから無理もない。ポジティブ思考も、こと千春に関しては影をひそめるらしい。

「休暇を取って彼氏を見せに来てね」

と繰り返す母に、ゴールデンウィークには必ず行くと約束して電話を切った。

 

四月のはじめに千春は池田からのプロポーズを受けた。そういえば、池田に告白されて以来、一度も〝スノーフレーク〟には足を運んでいない。

店に何度か通ううち、マスターには、結婚したこともなければ異性と付き合ったこともないと正直に打ち明けている。母親から結婚を催促されていたけれど、今はそれさえもなくなったといい香りに包まれながら、寂しい話もした。そのときの、早くおかあさんを喜ばせてあげられるといいですね、と心配そうに言ってくれたマスターの顔を思い出した。

――そうだ。マスターにも会わせないと――
さっそく千春は池田を〝スノーフレーク〟に誘うことにした。

「いらっしゃいませ。おや、千春さん。珍しい! カップルで」

「ええ、マスターにも色々愚痴を言って心配かけたけれど、今度結婚することになったから、彼を紹介しようと思って」

「いやあ、そうなんですか? とうとう結婚決まったんですか?」

マスターがうれしそうにカウンター席に座ったふたりの顔を交互に見た。

「はじめまして。池田です。千春さんとは同じ会社で働いています。以前から千春さんに恋していたんですが」

〝ドーン!〟

音が鳴ったとたん池田はビクッとしたようにあたりを見まわした。
「ああ、なんでもありません。店が古いもんですからね。木がきしんで音が鳴るんですよ。耳触りで申し訳ありません」

〝ドーン!〟

「ほらね」

「そうなんですか。そういえばインテリアもアンティーク調でいい感じですね」

池田がそう言うと、どこからともなくいい香りが漂ってきた。

「千春さんの結婚が決まったなんてうれしい限りですよ。お祝いに私のおごりでシャンパンを抜きましょう」

「マスターったら。まだお式の日も決まってないのに」

「そうですよ。もっとも僕の中ではもう決まっていますけどね。実は僕、バツイチなんですけど、千春さんとこうなってわかりました。僕は千春さんと結婚するために生まれてきたんだって! 僕は死ぬほど千春さんに惚れてるんですよ」

〝ドーン!〟

それから店をあとにするまでの二時間足らずのあいだ、池田が甘い言葉を並べ立てるたびに天井から〝ドーン!〟という音が鳴り響いた。

千春は、次第に疑惑の念が湧いてくるのをどうすることもできなかった。次のカップルが来店したのを(しお)に店を出た。公園に差しかかったところで、どうしても彼の気持ちを確かめずにはいられなくなった。

「ねえ、雅樹さん、本当にわたしと結婚したいと思ってるの?」

「えっ? どうしてそんなこと言うの?」

「ごめんなさい。あなたとこうなってとってもうれしいんだけど、どこかで雅樹さんを信じきれないわたしがいるの……」

「…………」

――どうして黙っているの? どうしてすぐに、本当に君を愛してるんだ、って言ってくれないの?――
「千春さん、ごめん……実は……」

池田は彼女の視線を避けるように、遠くを見ながらポツリと言った。

「みんなで賭けをしたんだ」

「カケ? カケって?」

「営業の連中と君の部の何人かで、君と結婚できるかどうか賭けたんだ。千春さんは性格が暗くて誰とも付き合ったことがないから、騙すのはチョロイだろうって! 株で儲けた金と会社で働いた金を合わせて五千万円以上は貯めているという噂だから、結婚できたら儲けもんだし。俺は断られるほうに賭けたから、プロポーズを断られたら賭け金を貰えるし。どっちに転んでも俺にはいい話だと思って……今、元女房から、貸した金を早く返せと責められているし、競馬や競輪であちこちのサラ金から借金してしまって……金が欲しかったんだ。でも、やっぱりずっとだまし続けるなんて、俺には無理だ」

千春は思わず池田の頬を殴った。
 ――こんな嘘で固めたような男を、短いあいだでも本気で愛した自分が情けない……好きになった自分が許せない――

もっとも、まともな恋愛さえしたことのない彼女に、金に困ったあげく、ひと芝居打った男の嘘など見抜けるはずもあるまいが。

株で儲けたなどと誰がそんなでたらめな噂を流したのか……。

この策略を企てた者……それは、池田を賭けに加担させ、千春をだまそうとした悪意に満ちた人間であることは明白だろう。

心当たりなら山ほどいる。なにを根拠に、あんなに自信たっぷりの顔ができるのかわからないけれど、女王様然とした顔で千春を見下す女たち。性格が暗くて美人でもない女は生きている資格がない、とでもいうかのような男たち。

いずれにしても、自分は誰にも好かれていない……無垢(むく)な身体を捧げた男にさえ愛されてはいなかった。そんな、冬の荒野にひとり取り残されてしまったかような()(そう)(かん)にうちのめされた。

彼女は公園の中に駆けこむと、一番大きな木の陰で声をあげて泣いた。

すると、まだ固かった桜の蕾が可愛いピンクの色を帯びはじめ、ゆるゆると花びらを広げながら、(ふく)(いく)たる香りで千春の全身をふわりと抱きしめた。

 

 


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それから三ヶ月ほどして千春は、総務部の、社内でも一番地味で平凡な(ます)()(こう)()という男に居酒屋に誘われた。そして、少しの酒で酔ってしまった増井からずっと昔から好きだったと告白された。

嫌なタイプの男ではない。ただ、あまりに()(もく)で目立たないせいか、今まで一度も男として意識したことはなかった。
 経理部に籍を置く千春が、一階上の総務部に資料やコピーを届ける折などに、たまに顔を見かけては挨拶を交わす程度の間柄。身長は高からず、低からず。薄くなりかけている七三分けの髪にグレーのスーツ。どこと言って特徴のない顔に黒縁メガネ。どこにでもいるサラリーマンのタイプである。

増井と付き合うようになってしばらくした頃に、酔って池田雅樹への憎悪と失恋の痛みをしたたかぶちまけた日も、彼は黙って頷きながら千春の涙を拭いてくれた。

手ひとつ握らずに、傷心が癒えるまで待つという千春を思いやる逢瀬のなかで、次第に彼女も増井を愛するようになっていった。けれど〝スノーフレーク〟には、彼をまだ一度も誘っていない。

――もし、増井さんの言葉が嘘だったら……ついこのあいだ、ひどい失恋をしたばっかりだし……考えてみたら、わたしはいままで男のひとに本気で好きだなんて言われたことがない。自信がない。それなのに、彼がわたしを好きだなんて信じられない――

彼女は悩んだ挙げ句〝スノーフレーク〟にひとりで出かけた。そしてマスターに増井の話をした。本心を訊きたいけれど、怖い、とっても怖いのだ、と……。

マスターはひとしきり話を聞いたあと、静かに言った。

「本心を知りたいのであれば連れていらっしゃい。もし、嘘なら嘘でもいいじゃないですか? 嘘とわからずに騙されるよりも、嘘とわかって騙されるほうがずっといい! ひとは、嘘だとわかっていながら騙されるってことも、ときには必要なんです。好きだというのが本心だとわかったら、なおよろしいじゃないですか? どちらにしてもグッドなんだから、連れてらっしゃい。悶々と悩む方がよろしくない」

千春はさんざん迷った末〝スノーフレーク〟に彼を連れて行くことにした。

増井は店のドアを開けた途端、直立不動で、

「はじめまして、わたくし増井浩二と申します。マスターのお噂は、千春さんからかねがね伺っております」

そうマスターに挨拶したあと、深々と頭を下げた。

「いやいや、ご丁寧に。ささ、そんなところに立っていないで、どうぞこちらに座ってください」

酒に弱い増井はいつものように、店に入って三十分もしないうちに酔ってしまった。

「千春さんからいつも、〝スノーフレーク〟さんの話を聞いていました。でも、ここは自分だけの大好きな秘密の場所だからって、なかなか連れてきてくれなかったんですよ。今日やっと紹介してくれるっていうから嬉しくて、嬉しくて! あはっ! 駄目ですね。もう、酔っちゃいました。面目(めんぼく)ないです! 千春さんがいつもここは人生のオアシスだって言っていました。マスターには、なんでも本当のことが言えるからうれしいって。兄弟は多いけれど、マスターほど打ち解けて話せる兄弟はいないって! だから、千春さんが信頼しているマスターにお願いします。僕は彼女にプロポーズしているんですが、なかなかOKをもらえなくって……本当に愛してるっていうのに信用してもらえないんですよ。僕は、彼女の自然体のところが好きなんです。いまどきの女みたいに化粧を塗ったくっていない薄化粧の顔も、シャイな性格も、ここぞというときに見せる頑固なところも、なにもかも大好きなんです。ねえ、マスターからなにか言ってくださいよぉ。僕は千春さんを一生大事にしますから」

増井がそう言い終ったと同時に、とろけるような甘い香りが店いっぱいに広がった。カウンターの中のマスターがにっこりと微笑んで、千春にウインクを寄こした。

 

二ヶ月後、ふたりは結婚式の招待状を持って〝スノーフレーク〟を訪れた。店は閉まっていた。次の日も行ってみたけれど閉まったままだ。いままでこんなことはなかったのに……。マスターはいったいどこへ行ってしまったのだろう。
 三日目、胸騒ぎを覚えた千春は、公園を挟んだ向かいの美容室のオーナーにマスターの安否を尋ねにいった。

「ああ〝スノーフレーク〟さん? おととしの春ごろだったかしらね。心不全で突然亡くなった奥さんのあとを追うようにして、一週間もしないうちに、マスターがカウンターの中で亡くなっていたのは……ママもマスターも真っ正直で、嘘が大嫌いで、いまどき珍しいくらい裏表のない、とってもいいひとたちでね。そうそう、ふたりとも、独身の男女をくっつけてあげるのが大好きだったわ。あそこで結ばれたカップルはみんな幸せになっているんだって!」

ふたりは店の前に佇んで(もく)(とう)した。

――マスター、そして会えなかったけれど、いつもマスターが話してくれていたママさん、ありがとう。〝スノーフレーク〟楽しかったです。お店は幻だったけれど、わたしは本物の幸せを掴みました。本当に、本当にありがとう――

 

やがて、ふたりを祝福するかのように、どこからともなくスミレのようなほのかに甘い香りが漂ってきて、あたり一面に広がっていった。


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奥付



天空から降りてきた世にも奇妙なお話 Part 1(Renewal)


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著者 : サラ・シリウス
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/happy123/profile


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