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叱られる心得

 

 他人を思いやって叱るというのは非常に難しい行為だ。叱られた相手は、自分自身を肯定したいがために耳を貸さなかったり、下手をするといらぬ恨みを買うことになる。傷つきやすい私などは、叱られることに対してとても抵抗がある。

 

 そんな私が、あるきっかけによって、叱られることの大切さを思い直した。そのきっかけというのは、あるデパートに短期間勤務した時のことだ。冬のある朝、いつも通り出勤し、他の派遣社員と共に事務所に入ろうとドアを開けた時だった。開けた途端、罵声が飛んできた。「ばかもん!職場に来る時はコートぐらい脱いで入ってくるもんだ!親はどんな育て方をしてきたんだ!」ぼんやりしていた頭が飛び起きた。朝一番、仕事前から怒鳴られ、気分の良い者はいない。皆一様に少し不服気味にコートを脱ぎ、それぞれ仕事先へ別れていった。私はというと、そういえば、それがマナーだったかもしれないと思ったが、何より親を否定された事がカンに障り、しばらく事務所に入る度ひきずっていた。

 

 それから時間が経つにつれ、怒りは薄れていったが、次第に毎朝意識してコートを脱ぐようになった。そしてそのデパートの仕事が終わりに近づくにつれ、気持ちの中に変化が現れた。「そういえば、特に大人になってから面と向かって叱られたことがない。あれはとても貴重な経験だったのではないだろうか。」そう思い始めてから、あの上司を探すようになった。お礼を言うために。

 

 とうとう最終日になり、やっとあの上司を見つけたと思ったら、すれ違いで事務所を出て行ってしまった。最後までお礼を言えずじまいかと思いつつ、外へ向かう階段を降りた。と、そこでばったりあの上司に出くわした。思わず声をかけた私に、上司は少し怪訝そうだった。大量に派遣社員やアルバイトが働きに来ては辞め、の繰り返しである。覚えていないのは当たり前だろう。私は「以前、職場に入る時にはコートを脱げとお叱りをいただいた者ですが・・・」と切り出し、「大人になってからは特に、どなたかに叱っていただく機会がなかったので、大変貴重なご意見をいただけて、感謝しています。一言お礼をと思いまして・・・」と言いかけたのだが、言い終わる前にその上司は思いきりの笑顔で私の頭をくしゃくしゃに撫でた。「お前わかっとるじゃないか!」と言いながら。そして、照れくさかったのだろう、そそくさと去って行ってしまった。取り残された私は、少し不思議な気持ちと心の奥から熱い物が込みあがってくるのを感じていた。その上司が去って行くのを見送り、ゆっくり帰路に着いた。

 

 それからは、一期一会という言葉が座右の銘になった。また、縁という物の存在も信じるようになった。必然的に我が身を振り返る機会が与えられ、またお礼を言う機会も与えられたと感じた。この出来事以来、叱られる心得は忘れてはいけないといつも自戒するようにしている。

 

 

 

 

 


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最終更新日 : 2014-06-26 16:46:28

この本の内容は以上です。


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