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黒孔雀は知っている。

 

 (せん)は擬態が巧みだ。

 本人も「割と何処でも上手くやって行く自信はあるかも」と認めるが、「割と」と「かも」は明らかに謙遜だ。

 オフィスでは地味で無駄口を叩かない。しかし、営業成績グラフでは常に上位を走っている。おとなしくて育ちの良いお坊ちゃまが、お坊ちゃまに相応しい大学を出てそのまま大人になった風を見事に装っている。大学を卒業してから四年ほどのブランクに関しては「親の奨めで留学してました」と答えて全く違和感がない。

 エリアが違うので、泉と大垣が一緒に外回りに行く機会は殆どない。一度だけ、泉が初めて訪問する先の担当者と面識があったので、付き添ったことがある。

 通された応接室で「後輩の東風(こち)(せん)です」と紹介した後何もすることがなくなってしまった。商談に入ってからの泉の弁舌は実に爽やかで、大垣が先輩としてフォローできる隙は何処にもなかった

 そして、夜の街に飲みに行けば、初めて入った居酒屋でも古い馴染みのバーでも場慣れした様子を見せる。見る人が見れば、泉は地味で堅いスーツ姿で、ネクタイの結び目さえ緩めずに座っていても、一目で『玄人』だと解るらしい。勿論、極道という意味ではない。泉は大学に入ったばかりの十代からバイトでバーテンダーを始め、卒業後もそのまま水商売の世界に棲んでいた。

勿論、会社の飲み会は別で、そういうときに『玄人』だと見破られたことは一度もない。

「自分、余り飲めなくて」と言って隅で猫をかぶっている。

 

 

 ある日、同期の女子社員が、休憩室で不味い紙コップのコーヒーを飲んでいる大垣のところにやって来て、何気ない素振りで、その癖、明らかになんらかの意図を感じさせようとしている口調で言った。

「最近、東風さんと仲いいよね」

 思わず紙コップを落としそうになった。

 会社では必要以上に会話しないことにしよう、と泉に言われている。

「前みたいに仲悪そうにしてくれてもいいけど、それやってると、外で二人でいるの見られたときに却って疑われるから、まあ、同僚として普通と、疎遠の間くらいで」というのが泉からの提案だった。

 正直、そんなに神経質にならなきゃいけないものか? と思った。

 泉と二人きりでいるとき、一人になって泉の美点を数えるとき、泉は自分の恋人だ、と世界中に宣言したい衝動に駆られる。

 しかし、今、人から「仲いいね」と言われた程度で狼狽している自分がいる。

 泉に好きだと言い、それが受け入れられたと解った瞬間から、腹は括っていたつもりだったのに。

 ゴシップの種になるのが問題ではない。その結果、今現在、上手く行っている泉との仲に影が差すのは絶対に嫌だ。

 大垣は、一瞬で理論武装の準備を整えた。

 それは、自分が理論と称したいだけで、理論などと言えるものではない。

もし、「男同士なのに、そういう意味でつきあってるの?」とでも言われたら、大垣の口から出るのは「だったらどうした? 何か君に迷惑かけてるか?」といった類の過剰で攻撃的な言葉だっただろう。

 しかし、彼女の言葉の意図は、大垣が予想したのとは全く違うものだった。

「私――東風(こち)さん、ちょっといいなって……思うの

「――え?」

 今度は危うく紙コップを握り潰してしまうところだった。冷めていて良かった。

「だから――東風さんって、いいじゃない? 彼女とか――いるって聞いてる?」

 大垣は目を見開いた。

「東風?」

「そう、東風さん」

 大垣は茫然とした。茫然としながら、頭の半分は超高速で二十数年のうちに蓄積した語彙の中から、この場で最適なものを探している。

「なんで東風? 地味じゃん」

 出て来た言葉は最適ではない。が、最悪というほど酷くもない。

「地味じゃないよ」

 同僚は即答した。

 大垣は、社内でそれに気づく人間が自分以外にもいるとは思っていなかった。

「何気にスーツとか、いいの着てるよ? ネクタイとか靴も凄く高いやつだし」

 ――そういう意味か、と少し安堵した。しかし、いるんだな、男物のブランドに詳しい女って、と思う。

 この同僚は好きでも嫌いでもなく、仕事仲間としか思っていなかった。同期で入社したので、それなりに雑談はするが、プライベートなことを話すのはこれが初めてだ。

「それに、東風さんって、感じがいいじゃない?」

 ――やっぱりそれにも気づくか。

 泉がおとなしそうと言われるのは、そう見えるように演じているからだ。

 しかし、いくら地味な振りをしても、オフィスに貼り出してあるグラフを見れば、仕事が出来るのは一目で解る。しかし、泉は、妬まれる寸前の絶妙なタイミングで全員分のドーナツを買って来て、それを回避する。

殊更に愛想が良い訳ではない。下世話な噂話に加わったりはせず――しかし、黙って耳には入れておく。

 泉は、『感じがいい』。まさにそれだ。

 そこまで気づくほど観察していたなら、この同僚は、きっと、泉の顔立ちが端正なことにも気づいたのだろう。本来なら眼鏡をかけた位で隠せるような美貌ではないのだ。

「いるよ。彼女」

 大垣は言った。正確には彼女ではなく、彼氏で、他ならぬ俺だけど――とは、言えない。

「――そうなの?」

「いる」

「ラブラブ?」

「ラブラブ――らしいよ」

「……そう」

「うん。だから、やめといた方がいい」

 暫く、沈黙の時間があった。

元々美味くない上に冷めてしまったコーヒーを無理矢理飲み干してでも、この話を切り上げてしまおうと思った瞬間、同僚の目の縁から涙が零れ落ちた。

「あ、ごめんなさい。違うの。何でもないの」

 いや、現に泣いてるし。俺が泣かせたみたいになってるじゃないか。

 大垣は小銭入れを出した。

「砂糖とミルク要る?」

「ミルクだけ」

 大垣は、二人ずついる姉と妹に鍛えられたので、女の涙に、そうそう狼狽えたりはしない。泣き出した女に温かい飲み物を差し出す程度のことも出来る。

 しかし、紙コップを捨てて休憩室を出るときには、深いためいきを堪えられなかった。

 まだ終業まで二時間はあるのに、疲れ果てた気がする。

 

 

 しかし、その日は、それだけでは終わらなかった。

 休憩室から戻ると、同じ課で同じ仕事をしている泉が大垣の席にやって来た。

「先輩、すみません、今よろしいですか?」

 妙に丁寧に声をかけ、一枚の紙を差し出した。何も書いてない白紙のコピー用紙に、付箋が一枚。

端正な筆跡で、『十五分後 屋上階段の踊り場』とだけ書いてある。

なんだ?

訝って見返すと、泉は目だけで笑った。

 屋上に出るドアには施錠されていて、そこに続く階段には普段、全くと言っていいほどひと気はない。

 指定された時間に行ってみると、そこにいたのは泉だけではなかった。

「来たよ」

 泉が、隣にいる女子社員に言った。

「あ、あの……」

 泉と一緒にいたのは、一年下の後輩だった。

 嫌な予感がした。

「じゃ、自分はこれで」

 泉は後輩に優しく微笑みかけ、後輩は「ついて来てくれてありがとうございます」と言った。

 ちょっと待て。何だ、今日は?

 泉は大垣の肩にさりげなく手を置いて、静かに階段を降りて行った。

「おい」

 ちょっとあんまりだろう、と思って低い声で呼び止めると、泉は一瞬振り返り、口許に笑みを浮かべた。

 ――こいつ……!

 泉の足音が遠ざかると、後輩の女子社員は切り出した。

 この後輩は、先刻、泉のことが気になっている、と言った同僚とプライベートでも仲がいい。恐らく、偶然ではない。ガールズトークが何かの拍子に盛り上がって、同じ日に告白しよう、ということにでもなったのだろう。

「仕事中に呼び出して、すみません」

 大垣は、男とつきあうのは泉が最初だが、女とは無縁に生きてきた訳ではない。

「良かったら、今度、一緒に――私、大垣さんが、好――」

「ごめん、俺、彼女いるから」

 大垣は話を早く終わらせたくて、最後まで聞かずに簡潔に言った。

 実は彼女ではなく、彼氏で、その彼氏というのは今、俺を此処に呼び出したあいつだけど、とは言えない。

「……ごめんね。凄く嬉しいし、君が嫌いな訳じゃないけど」

 四人の姉妹に揉まれて育ったので、この程度の思いやりを示すのに苦労したりもしない。

 ――しかし。

どうして、職場で、一日に二回も仕事と無関係なことで、女子社員に泣かれなければならないんだろう?

 

 

 今日の仕事が終わったら覚えてろよ、泉。

 大垣は、納得いくまで問い質してやると決意したが、終業時まで待つ必要はなかった。

 後輩の女子社員を宥めた後、自分の席に戻ろうと階段を降り、角を曲がると、ドアが細く開き、そこから伸びて来た手に引き摺り込まれた。

 その部屋は、大掃除のとき以外は誰も出入りしない資料室だった。保管してある書籍の劣化を防ぐために常に黒いカーテンを引いているため真っ暗だが、こんなことをするのは社内では一人だけだ。

「泉」

 殆ど真っ暗な部屋に微かに響いた笑い声は予想通り泉のものだった。

泉は電気をつけ、後ろ手でドアの鍵を締めた。

「お前――何考えてんだ」

 文句を言うと、泉は艶やかに笑った。

「え? なんのこと?」

「とぼけんな」

「年下とはいえ、職場の先輩から相談されちゃったし」

 涼しげな顔で泉は言った。

「解ってて呼び出したんだろ」

「うん」

「お前な」

「で? なんて言われて、どう答えたの?」

 泉の瞳がきらきらしている。

 なんて奴だ。

「何か言われる前に断った!」

 そう言うと、泉は目を細めて笑い、大垣のネクタイを掴んで引き寄せた。

「そう? 嬉しかった?」

「嬉しくねぇ」

 これは本当だった。泉が間に立ったのでなければ、男として自尊心を擽られたかもしれない。

 けれど、答えは同じだったし、答えた後の気まずさも同じだっただろう。

「泣かれた?」

 感じがいい? こいつの何処が!

 大垣は、泉を睨みつけた。

「……最低だな、お前」

「だって――しょうがないでしょ? 頼まれちゃったし」

「しょうがなくねぇだろ」

「――あんたは断るって、解ってたから連れてったんだよ」

 泉は口許に笑みを浮かべたまま軽く眉を上げた。

「ねぇ、キスして」

 大垣の表情など意にも介さず、泉は囁いた。

「あー! くそっ……」

 誰も来ないのは間違いないのに、大垣はドアの外から物音がしないのを確認してから、泉の唇にキスした。

 自分の不快と罪悪感を知って愉悦を隠さない泉の残酷さも堪らなく好きだ。

 唇を離した後、泉は大垣の首に手をかけたまま、また幸せそうに笑った。

「何?」

 泉は大垣の顔を見て、僅かに首を傾げた。

「――橘さんが、お前のこと好きだってさ」

 胸に仕舞っておくつもりだったが、少しは俺の気持ちを解れ、と思って告げると、泉は事もなげに言った。

「ああ、知ってる」

「――知ってる?」

 泉は頷いた。

「どうでもいい」

 大垣は唖然とした。

「どうでもいい?」

 泉は眼鏡の奥の目を煌めかせて笑った。

「あんたと俺のこと以外は、どうでもいいよ」

 泉は、鍵を開けて資料室を出て行った。

 

 

 少し前、三人で飲んだときに鐘淵は言った。

「距離を取れば取るほど、泉はいい奴になるんだ」と。

 バーテンダーと客として出逢った頃は、こんな奴だとは思わなかった、と鐘淵は忌まわしいものでも見るような目で泉を指差した。

「何の因果か、俺は一応友達ってことになってるけどな、こいつ、色々ひでぇぞ。恋人になるなんて俺なら御免だ」

 あの言葉は、大垣が鐘淵に脅威を感じていると察して、安心させるために言ったのだと思っていたが――確かに泉は酷い。

 しかし、恋人でいるのは御免だ、とは思わない。

 泉の性格の悪さに嫌悪を感じるどころか、そういうところも含めて、泉は魅力的だと思ってしまった。

 

 

 

 

【了】


奥付

 

黒孔雀は知っている


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著者 : 伊祖子久美
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