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1.移植二題

中国は古代から医学の発達していたところで、一般に漢方薬と鍼灸が知られていますが、意外と外科も進んでいました。もっとも、その系統は、発達はしなかったのですが。
 有名なのは『三国志演義』にも登場する華陀先生でしょう。彼は「麻沸散」という麻酔薬を用いて切開手術を行っていたとされます。患者の脾臓の半分を切除したという事例も記録されています。良く知られたエピソードは毒矢を受けた関羽の腕を切り開き骨を削る手術をし、関羽は麻酔をしていないのに、手術の間、平然と碁をさしていた、というものでしょう。また、実現には行っていないものの、曹操の頭痛を治すのに頭を切り開いて手術をしようとしました。華陀は、このことが原因で曹操に恨まれ、殺されてしまいます。
 もっとも、どちらも『三国志演義』の創作のようで、正史『三国志』にはそのような記述はありません。
  今回ご紹介するのは、ちょうど『三国志演義』の原型になる話ができあがりつつあった宋代のものです。
 まずは、徐鉉『稽神録』から一例。

◎陳寨  宋・『稽神録』
 陳寨は泉州晋江の祈祷師である。まじないの術に優れていて、人を治療すると、病は大抵好くなった。澶州の宿屋の主人・蘇猛は、子供が発狂し、誰も治療できなかったので、陳寨に頼むことにした。陳寨がやってくると蘇の子供は手を振り上げて罵った。陳寨は「この病は心臓に入り込んでいます」と言った。そして部屋の中に壇を設け、盗み見ないように戒めた。
 夜になると、その子どもをまっぷたつに斬って、部屋の東の壁に掛け、心臓は北の軒先にぶら下げた。陳寨が部屋で術を行っている間に、ぶら下げておいた心臓は犬に食われてしまった。陳寨は心臓を捜しても見つからないので驚きおののき、刀を手にして地面を転げ回ると、門から出ていってしまった。主人の蘇猛はそんなこととは知らず、術を行っていると思っていた。
 間もなく陳寨は心臓を持って戻ってきて、病人の腹に収めた。髪を振り乱ししきりに気合いをこめると、腹は閉じてしまった。蘇の子供は気がつくと、しきりに「逓舗、逓舗」と叫んだ。家族は訳が分からなかった。
 実はその日、蘇の家から十里離れたところで、駅亭の役人が公文書を持ったまま、道端で死んだのだった。そもそも南方の会堂では二十里に一つの駅亭(これを逓舗という)があって、役人が文書を持って次々に送り渡し、次の駅亭に近づくと、しきりに叫んで注意を促すのだった。つまり、陳寨は駅亭役人の心臓を取ってきて蘇の子供を生き返らせたのだった。蘇の子供はこうして元通りに治ったのであった。

 「胴体を真っ二つにしてくっつける」と言うのがそもそも無茶であり、多分に呪術的で、怪奇な術の一部として捉えられていると言えます。「部屋で術を行っている間に、ぶら下げておいた心臓が犬に食われてしまった」というのが何とも間抜けな話ですし、その日、蘇の家から十里離れたところで駅亭の役人が道端で死んだ」というのもご都合主義に過ぎますが、そもそも「物語」を作り上げようなどという意識概念が存在していないようなので、ご勘弁いただきたいです。
 この作者の徐鉉という人は、弟とともに、六朝の陸機・陸雲に比せられる、宋を代表する大学者なのですが、どうも同じく文人・官僚で「神道(超現実的な心理)」を明らかにするために『捜神記』を著した干宝と同じような心境で『稽神録』を編纂したようなのです。どうやらこれも誰かが話していたのを、徐鉉は「道」を明らかにする「信ずべき」事例として収録しただけのようで、お話を作り上げようなどという気はさらさら無かったものと思われます。

 次は、南宋の洪邁が著した『夷堅志』から一例引きたいと思います。この洪邁もその時代を代表する文人なのですが、恐ろしくパワーのあった人らしく、『容斎随筆』という随筆の大部な名著を著す一方で、晩年に『夷堅志』全420巻(!)を著しました。同じく小説を集めた北宋の『太平広記』(前の徐鉉も編纂メンバー)は500巻ありますが、こちらは人海戦術で作っています。それに匹敵するものを個人で作り上げてしまったというとんでもない人です。同じように個人で話を収集した『聊齋志異』四四五話(原稿の発見などで、元々はもっと多かったことが確認されている)の規模と比較すれば、すごさが実感できるかと思います。もっとも、今では散逸して207巻分しか残っていません。

◎邢氏補頤  宋・『夷堅志』巻19
 晏粛は字を安恭といい、河南の邢氏の娘を娶って、都に住んでいた。邢氏のおとがいに疽が出来、これが長引いて、おとがいは下顎や歯と一緒に切断したように腐り落ちてしまった。邢氏はすぐに死ぬと思って、色々と医者を訪ねた。ある医者が「これは簡単です。一万銭を頂ければ治して差し上げましょう」と言った。そこでその方法を尋ねると、「生きた人間のあごであなたに会うものを手に入れてくっつければよいのです」ということであった。晏氏の妻は怖くなってすぐに立ち去った。ただ、子供達や召使い達は、密かに医者に金を渡してその方法を試みてもらった。ある夜、医者が絹の包みを一つ持ってやって来た。見てみると、なんと女性のおとがいであった。肌の色や幅や長さなどは邢氏と寸分違わなかった。医者はおとがいを薬で接合して布で包んだ。ただ粥を啜るだけにして、半月後に布を開いてみると、もう治っていた。
 後に晏粛一家は乱を避けて会稽(今の紹興)に移り住んだ。唐信道は晏家とは姻戚関係で、かつて氏に会ったことがあった。邢氏は口端の所に赤い線が一本あって、ぼんやりと頬まで続いていた。二十年あまりして、邢氏は亡くなった。

 かなり控えめな感じで、前の話に較べれば、より「ありそう」ではありますし、実見の伝聞にしてリアリティを出そうとしています。もっとも、薬を付けただけで、半月間で神経までくっつくというのは無理がありますが、その程度の嘘はジョン・ウー監督の「フェイス/オフ」でもついてますから、大目に見ることにしましょう。「フェイス/オフ」の方は、そもそもニコラス・ケイジとジョン・トラボルタの顔の大きさからいって、とてつもなく無理があります。
 また、腹部の切開手術については『三国志』にもあると冒頭に少し紹介しましたが、これも単なるエピソードですから「事実」ではないかもしれませんけれども、唐代の医学書『諸病源候論』には、腸の結合手術と術後の療養について具体的に書かれているそうです。同じく『夷堅志』の「再補」所収「朱道人治脚攣」では脚部の複雑骨折を軍医が治療したことと、動かなくなった脚に朱道人が指導してリハビリテーションを施したことが見えます。これは記述も実に真実味があり、もともと『名医類案』という医師のエピソード集に引かれて残っていたものですから、かなり実話に近い物でしょう。
 そのようなわけで、唐宋の時代には切開手術などの高度な手術が神業では無くなっていたのは間違いないでしょう。そんなわけで、こちらの方は、時代的社会的状況と、描写と内容の真実味と併せて考えると、前者のように荒唐無稽として片づけるのは可哀想でしょう。まさに「現実の科学に基づいて、一歩空想の跳躍を行ったもの」といっていいかもしれません。


2.奇病二題

治療について見た後は、病について見てみたいと思います。
 ある日突然に、人の体が縮み始める。時たまSFに見られる発想です。手塚治虫『ブラック・ジャック』の中にも、こんな奇病が登場していました。それに共通する話を拾ってみましょう。

◎魏淑  『太平広記』巻220引『集異記』
 大暦中(766~779)、元察が州(四川省)刺史であったとき、卭州の武将に魏淑というものがいた。立派な体格をしており、年は四十になったばかりで、老いた親と若い妻がいた。あるとき俄に奇病にかかった。苦しいところはないが、ただ飲食することが日に日に損なわれ、体が縮んでゆくのであった。医者や術士もどうすることもできなかった。一年経たずに、嬰児ほどになってしまい、歩くことも座ることも言葉を話すこともできなくなってしまった。そこで、彼の母親と妻が、交代で彼を抱きかかえることになった。
 魏淑の誕生日になり、家の者は僧侶を招いて食事を振る舞った。妻がかんざしの股に食べ物を挟んで魏淑に食べさせると、すぐに小鉢一杯ほどを平らげた。この日から日を追うごとに食事の量が増えて体もだんだん大きくなり、半年経たずに元の大きさに戻った。
 元察は魏淑に元の官職を授けた。走ることも馬を駆ることも気力にあふれ、依然と何ら異なるところはなかった。後十年あまりして、勇猛果敢に陳の地で戦死した。

 発症も完治も全くの原因不明というのはものたりない感じがしますし、医師に重点が置かれた医学的説話ではないので、無力だった医師たちの治療過程についても全く触れられておらず、残念です。また、縮んでしまったことによって彼とその周りに一体どういう事態が引き起こされ如何なる事件が発生するのか、という点への着眼が全くないというのも発展性が無く、今日の我々から見ると面白味に欠けると言えます。
 この話の中の魏淑は幸いにも元に戻って武人らしい最期を迎えられたわけですが、後年、不幸にも同種の病にかかって死んでしまった人の記録も、宋の『夢溪筆談』や明の『五雑俎』に記されています。それによると、臨終の時には四、五歳児ほどの大きさになっていたといいます。

 さて、縮む病があれば、その逆もまた存在します。お次はある日突然からだがどんどん大きくなってしまった人のお話です。

◎皇甫及  『太平広記』巻220引『三水小牘』
 皇甫及という人の父親というのは、太原府(山西省)の少尹(副長官)を勤めた人で、及を大変可愛がっていた。及は生まれたときには普通の子供と変わらなかったのだが、咸通十三年(872)に十四歳になると、突然奇病にかかってしまった。肉を切り骨を断つというような苦しみは何もなかったが、急激に体が大きくなっていったのである。しばらくすると身長は七尺(約218cm)を越え、胴回りも数抱えに及んだ。飲食することも甚だしく、昔の三倍になった。翌年の秋、他の病気がないのに死んでしまった。

 数え年で十四歳という事は満でだいたい十三歳、いずれにしても成長期に当たるでしょうから、食事の量が増え、体が大きくなるのは自然なことですが、やはり数ヶ月で2メートルを超えるというのはさすがに異常と言うべきでしょう。
 ただ、最終的な体格は荒唐無稽な大きさではなく、常識的に言ってあり得る範囲であろうと思います。『三国志演義』で有名な関雲長は身の丈九尺を超えており、諸葛孔明も八尺という長身です。唐では一尺は約31cmですが、三世紀頃の度量衡では一尺は23~24cmですから、九尺でだいたい207~216cm、八尺で184~192cmというところになります。それに、秦の始皇帝の陵墓周辺から発掘された有名な「兵馬俑」の兵士の平均身長は180cmほどもあったといいます。そういった目で見れば、物語を作ろうという意識が希薄で、空想としての飛躍が今ひとつという印象が強く、先の『稽神録』同様、文言小説衰退期のものというのがうかがえます。明清時代であれば、もう少し空想として何とかなっていたのではないかと、惜しい気がします。


1.「蛍光」について

「蛍の光」とくれば「窓の雪」――そこで思い起こされる「蛍雪」といえば、晋の車胤と孫康が貧しくて油も買えないので蛍火や雪光によって苦学したいう有名な故事ですが、今回はこの本物の「蛍の光」ではなく、「蛍光」塗料と呼ばれるものについて考えてみたいと思います。

 中国人は蛍の光などの自然界における発光現象に興味を抱いていたようで、「南海に珠がある。すなわち鯨の目玉である。夜にも見ることができるので、これを〈夜光〉という」(『太平広記』巻402引『述異記』)や、「夜光芝は一株に九つの実が生り、実が地に落ちると七寸の鏡のようである。夜に見れば牛の目のようである。」(『酉陽雑俎』巻19)などの記述があちらこちらに見えます。これらは自然に発光している物ですが、物が変化して光を放つという例もあります。たとえば、『宋書』巻三十・五行志一の「木不曲直」に、

 宋の明帝の泰始二年五月丙午(29日、AD266年7月18日)、南琅邪郡臨沂(山東省)の黄城山の道士・盛道度がいる山寺で一本の柱が自然と夜になると光を発し室内を照らすようになった。この木はその本来の性質を失ったのである。或いは木は腐ると自ら光るのだというものもある。

 という話か見えます。腐った植物が光るということでいえば、『礼記』月令に「腐草が蛍になる」という、O・S・カード『死者の代弁者』を思わせる記述もありますが、J・ニーダムやロバート・K・G・テンプルは、これは古代人が腐った草の発光現象と蛍の光を結びつけた結果であるとしています(『中国の科学と文明』、『図説・中国の科学と文明』)。
 いずれにしても、これらは全くの自然現象であり、そこに人為的な操作が介入した形跡を認めることはできません。ところがニーダムやテンプルは、遅くとも十一世紀には「蛍光塗料」が存在したとして証拠をあげています。それが、以下に示す徐知諤の牛の絵に関する話です。

◎「徐知諤」  宋・釈文瑩『湘山野録』巻下
 江南の徐知諤は潤州節度使温の子供である。優れた資質の持ち主で、珍しいものを集めることを好んだ。蛮人の商人が鳳凰の頭を手に入れた。鳥の首の剥製であった。緑の羽(尾羽か?)は目を奪わんばかりで、朱色の冠や紺色の羽毛、金色の嘴は生きているかのようで、ちょうど大きな雄鳥に似ていた。幅が五寸、その頭は平らになっており、枕とするのに適していた。知諤は五十万銭で買った。
 また、一幅の牛の絵を入手した。昼には柵の外で草を食べているが、夜には柵の中に帰って寝るのである。知諤は後唐の後主・李煜に献上し、李煜は天子さまに献上した。太宗陛下は後苑において群臣に示したが、誰にも(秘密が)わからなかった。ただ僧の録賛寧が言うことには、
「南倭の海の水はある時には無くなり、海底がわずかに姿を見せます。すると倭人は方諸蚌(大蛤)を拾うのです。貝の中には涙粒(真珠のことであろう)が数滴あります。これを得て絵の具と混ぜて物に塗れば、昼には隠れ、夜には現れるのです。沃焦山(岷山の異名でもあるが、ここでは東海の南三千里にあるという山のことであろう)では激しい風が吹き荒れ、突然海岸に石が落ちることがあります。これを得て、水をたらし絵の具と摺り合わせて物を染めると、昼には明らかに夜には暗くなるのです。」
ということであった。諸学者たちはみな荒唐無稽だと思ったが、録賛寧は張騫の「海外異記」に見えると言った。そこで後に杜鎬が皇室図書館の書目を調べてみると、果たして六朝時代の古い写本の中に書かれてるのを見つけた。

 李煜は宋の開宝四年(971)に弟・李従善をして宋の太祖へ朝貢せしめています。その後、同八年(975)に都・金陵が宋軍によって陥落せられてより、太平興国三年(978)に薨るまで、李煜は汴京に幽閉せられていますから、この話自体はおよそ十世紀末の出来事と考えられます。
 「方諸蚌」の真珠というのがでてきます。「六朝時代の古い写本」云々は確認できないものの、唐代の『広異記』という書物にも、長安の至相寺にすむ賢者がお堂の下にいる蛇を長年かわいがっていたところ、ある夜、灯りもないのに堂内が明るいので調べてみると、蛇の住処で夜光珠を発見、西域から来ている商人に売ると、商人が「蚌珠は則ち貴し。此れ乃ち蛇珠なり。多く千貫に至る。」と言った、などとありますから、「方諸蚌」の真珠もそういった「夜光珠」なのでしょう。「夜光珠」は、隋の煬帝などの皇帝や、神仙などの宝としてしばしば名が上がり、「上なるものは夜光四十余里を照らし、中なるものは十里、下なるものは一里」というようにも描かれますが、実際に発光していたというよりは、半分は空想の産物、残り半分は輝きのすばらしさを表現する一つの方法といった方がいいのではないかと思われます。
 ともかく、蛍光塗料があったこと自体は確かでしょうが、「方諸蚌」の真珠を材料に蛍光塗料を作るという解釈は、真珠の輝きからの連想で、『礼記』月令の「腐草が蛍になる」のような一種の誤解であろうと思います。
 しかし、完全に否定してしまうこともまた難しいのではないかと考えられます。つまり、牡蠣の殻から作られた硫化カルシウムが西洋初の蛍光塗料〈カントンの燐〉だったことを考えると、真珠と牡蠣の殻と成分的に大した違いはないでしょうから、あながち非科学的とは言えなくなってくるの困ってしまいます。
 しかし、これまでのことはおおむね科学史の書物でも触れられていることであって、空想としての醍醐味がありませんから、やはり少しは不思議さのある話も紹介しておきたいと思います。『酉陽雑俎』巻2・壺史に見える話です。

 長慶の初め(821)、山人楊穏之は郴州にいて、いつも道を得た人を訪ねていた。唐居士という人がいて、土地の人は百歳だと言っていた。楊が彼に会いにいくと、彼は楊を引き留めて宿泊させた。夜になると、娘を呼んで、「下弦の月を一つ持ってきなさい」と言いつけた。すると娘は壁に月を貼り付けたが、一片の紙のようであった。唐がすぐに呪いをして、「今宵客が来ました、どうか光を賜りますよう」と言い終わるや、部屋の中が火を灯したように明るくなった。

 この「下弦の月」を貼るというのによく似た描写は、『宣室志』所収「王先生」にも見られます。こちらでは、「(王先生が娘の)七娘に、『おまえは私のために紙を今夜の月の形に切り、部屋の東の壁に貼っておくれ』と言いつけた。しばらくして、七娘は紙の月を壁の上に張り付けた。夕方になると奇妙な光が自然と発し、部屋を明るく照らしだした。細かなものまですべてみることができるほどだった」となっています。これらの話は後に、『聊斎志異』所収「労山道士」に見られる、「道士が二人の客と一緒に飲んでいて、日も暮れて暗くなったので鏡のように円く紙を切って月を作り、壁に貼り付けて明かりとした」というエピソードに利用されています。紙を切って作った月の象徴に、道術によって月の光を借りたとでも言うような感じですし、『酉陽雑俎』の著者・段成式は、徐知諤が手に入れた牛の絵の話より百年以上も前に死んでしまっていますが、紙そのものに蛍光塗料が塗ってあった、という〈種明かし〉も無理ではないでしょう。果たして蛍光塗料の明かりで、「部屋の中が火を灯したように明るくな」るかどうかは分かりませんが。


2.魔法瓶

暖かいものはいつまでも暖かく、冷たいものはいつまでも冷たく、鏡と真空によって伝導と輻射を妨げ、内部の温度を一定に保とうとする「魔法瓶」は、かつてはお茶の間の一角に確固たる地位を占め、いまは水筒などに技術的に発達し洗練された姿を示しています。この近代科学の産物の一つに通じる発想が、千年近く前の中国に認められるのです。

◎伊陽古瓶  宋『夷堅志』巻15
 張虞卿は、文定公・張斉賢の子孫である。彼は西京の伊陽県にある小水鎮に居を構えていたが、あるとき土の中から古い焼き物の瓶を掘り出した。色は真っ黒であった。彼はこれを大変気に入って、書斎に置いて花を生けていた。冬になり寒さが厳しくなった頃、ある夜に水を捨てるのを忘れてしまい、凍って割れてしまっただろうと諦めてしまった。翌朝見てみると、ほかのところの水は皆凍っているのに、この瓶の水だけは凍っていなかった。これを訝り、試みにお湯を注いでみると、丸一日経っても冷めなかった。張はある時、客と郊外に出かけたが、瓶を箱の中に入れておき、これで水を注いで茶をいれた。全く新しく沸かしたようであった。これから、彼はその珍しさを認識して瓶を惜しむようになった。後によった召使いが壊してしまった。その中を見ると普通の陶器と変わらなかったが、ただ二重底で厚さが二寸もあり、鬼が火をとって燃やしている絵が極めて精巧に描かれていた。これがいつ頃のものなのか知っているものは誰もいなかった。

 色が真っ黒では輻射熱を吸収してしまいますから、いささか「魔法瓶」としては問題があります。それから、二重底と解したのは原文では「夾底」で、辞書を引いてもよくわかりません。もしかしたら高台の事かも知れません。仮にこの解釈があっているとすると、科学的に言っても、ある丁度は伝導を抑える効果があったと言うことができるのではないでしょうか。故宮博物院の宝物の中には、壺の側面に開けられた窓から、内側にある少し小さい壺の側面が見えるという、二重にはめ込まれた壺など、どうやって作ったのか頭を悩まされる奇妙な、しかし高度な技術の産物である工芸品がいくつかありますから、二重底で熱伝導を抑えるような焼き物も、もしかしたら本当に焼けたのかもしれません。さすがに今日の魔法瓶から見ると科学的に言って首を傾げたくなるのは致し方ないですが、それにしても、こんな事を一応もっともらしい理由説明も含めて思いつくというのは大したものです。


3.蚊取り

夏の暑さには、我が国の先人達も大いに悩まされてきました。あの手この手で涼しくしょうと工夫してきました。江戸時代には手動の扇風機も考案されていました。しかし、暑さ以上に人々が辟易した、そして今も悩まされるものがあります。「蚊」です。
 蚊に悩まされて来たのは、我々だけではありません。東南アジアなどでは、マラリアの危険性がありますから、我々よりもずっと深刻と言えるでしょう。中国大陸でも事情は似たようなものです。当然どうすれば、蚊の災いから逃れることができるか、人々は考えたはずです。
 成都から北東へ250キロ、喜陵江と東游水が交わるところに位置する地方都市、四川省閬中県。南宋の書物は、この街を舞台にした、「蚊よけ」の願望から生まれた物語を記録しています。

◎閬州道人 宋・洪邁『夷堅丙志』巻18
閬州(今の四川省閬中県)はもともと蚊が多く、街で眠るものは終夜瞼を合わせることもできない有様であった。とある道人が一軒の宿に泊まった。主人は道人を大変厚くもてなした。しばしば呼んでは少し酒を飲ませる上に、金銭については一切気にしなかった。
 数ヶ月留まって後、去るにに及んで道人は主人に別れを告げ、再三感謝した。そして井戸の側に歩み寄った。
「私がここに長らく留まっている間、あなただけはよく面倒を見てくださいました。しかし、私にはそれに報いる手だてがありません。せめてあなたの家を永遠に蚊に煩わされないようにして差し上げたいと思います」
 瓢箪の中から薬を一粒取り出し程度に投げ入れ、「しっかりと蓋をして、三日過ぎてから汲むように」と戒めた。そしてそのまま去っていった。
 果たして、その言葉通りになった。夏になるごとに夕方には蚊が軒先でブンブンうなるけれども、そこから部屋の中には入ってこなくなった。
 張魏公が川陝宣撫使に任命されたとき、役所を閬州に置いた。士人や商人か数え切れないくらい訪れるようになったが、皆がこの宿に集まってしまい、戸外のあちこちに宿るものまで出る始末となった。おかげでこの宿の収入は他の宿屋の数倍にもなった。

 実にすばらしい蚊よけ効果が発揮されています。話の骨子は、昔話や説話によく見られる〈善行に対する異人による報恩〉のパターンです。しかし、その素朴さ故に、彼(蚊?)の地の人々がどれだけ苦しめられていたのかが伝わってきます。
 また、閬中県は山岳地帯に位置しており、緯度でも上海より少し北(約31.5度)、つまり鹿児島よりも南になりますから、蚊の被害の多いことは想像に難くありません。

 さて、我が国を例に、「蚊」を防ぐ手段を見てゆくと、長らく愛用されてきた「蚊帳」が、まず挙げられます。今でも使っているお宅があろうかと思います。なかなか風情があっていいものですが、万全とは言えません。こちらが中に入るときに、蚊まで入ってしまったのでは元も子もありません。しかし、蚊が入ってこれない眼の細かな檻の中に、人間が入る訳ですから、これ以上自然に優しい手段はないでしょう。
 次いで、一種の非常手段として用いられたのが、「蚊遣り」。松の葉などの煙で蚊を寄せ付けないようにするというものですが、如何せん人間まで燻されてしまいます。
 変わったところでは、もう今では姿を消してしまったガラス製の「蚊取り器」があります。二酸化炭素の発生源に群がる習性と、走光性を使った、一種の仕掛けでした。
 しかし、なんといっても「蚊取り線香」がもっとも革命的と言えるでしょう。現在の虫除けや殺虫剤は、全てここから始まっているのですから。
 ご存じのように、「蚊取り線香」の原料は、「除虫菊(Chrysanthemum cinerariaefolium Visiani)」です。原産地は地中海周辺や中央アジア地域で、ユ-ゴスラビアのダルマチア地方で発見されました。わが国では、明治19年(1886年)、大日本除虫菊の創始者・上山英一郎が慶応義塾の恩師・福沢諭吉の紹介で知遇を得たアメリカ人から種子を譲り受け、故郷の和歌山県で栽培したのが最初のようです。主として和歌山県で栽培されましたが、明治23年(1890年)の上山翁が広島県の向島町での栽培を開始後、瀬戸内島嶼部に広まり、大正6年(1917年)には広島県が和歌山県を栽培面積で凌ぎ、一大生産地となりました(今でも、広島県向島町の亀森八幡宮では、毎年五月に上山翁を偲ぶ「除虫菊祭り」が行われています)。
 このころになると、白い可憐な花を付ける除虫菊は単なる農作物ではなく、一般的な観賞用栽培植物ともなったようで、洋画家の黒田清輝も1915年5月5日の日記に、「午前中草花ノ種蒔ヲナシ(中略)夕刻除虫菊ノ苗ヲ植ウ」と記しています。
 そして、昭和10年代には世界の総生産額の98%を日本が占め、北海道産だけでも50%に達するまでなりました。しかし,その後は栽培面積も減少、昭和43年頃には作付けがほぼ無くなり、現在では、香川・岡山・広島の三県に約20ヘクタールが残るのみとなり、ケニア産除虫菊を輸入して使っています。
 殺虫成分はピレトリン。その特徴は、昆虫に対しては、極めて微量で速攻性の接触毒として作用しながらも、温血動物の体内に入ると速やかに解毒されるという、人間にとっては非常に都合の良いものです。もっとも、現在ではピレトリンに類似の合成ピレトロイドが使われていて、天然のピレトリンのみを含む製品は、ごく少数になっています。そして、日本の風物詩とも言える「蚊取り線香」自体がマット式、液体式の電気蚊取りの普及で姿を消しつつあります。
 さて、「閬州道人」の物語に登場する虫除け薬、「三日過ぎてから」という条件は付いているが、水が飲めるようになっているので、どうやら人には害が無くとも、蚊には効果覿面の様子。この点は、ピレトリンやピレスロイドに非常によく似ています。そして、水に溶かしてあるというところなどは、当世はやりの液体式電気蚊取りにも近い。しかも電気蚊取りが、いかにに蚊取り線香やマットに比べて便利になったとはいっても、せいぜい120日(もちろんこれだってすごいことには違いない)というのに、「閬州道人」の薬は宿全部をカバーしてなお半永久的に効果が持続し、手間は一切不要、使い勝手では、電気蚊取りを遙かに凌駕しています。もっとも井戸水全部が溶液という、とてつもない量なので、効果が長続きするのは当然かも知れません。
 しかし、ここで化学的に注意したいことが一つ。それは、ピレトリンやピレスロイドが水に対しては不溶性であるということ。金鳥(大日本除虫菊)は「水性」の電気蚊取りを発売していますが、これは、金鳥独自の特殊な処方でピレスロイド系のフラメトリンを水に溶かしているようです。
 昔の人々は、薬を溶かすには水かせいぜいが酒ぐらいしか思いつかなかったでしょうから、「閬州道人」が薬を井戸に投げ込んだのはむしろ、想像力の限界として仕方のないことかもしれません。しかし、それが結果としては現代の科学を先取りした格好になってしまっているところが面白いと言えましょう。複雑さを積み重ねてより高度なものを目指した結果として、もっともシンプルな発想に落ち着いたと言ってもいいでしょう。

 ちなみに、大日本除虫菊の「鶏(金鳥)」の商標は、明治43年に創業者の上山英一郎が司馬遷『史記』蘇秦伝に見える「鶏口と為るも牛後と為る無かれ」の故事に基づき、業界の「鶏口」となるべき自覚と気概を込めて、登録したということです。



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