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 俺は雨が嫌いだ。

 

 独立してタトゥースタジオを経営すると決めたときには、住居は別に構えるつもりでいた。

 しかし、そのとき俺にあった財産といえば、六畳の部屋が肩の高さまで埋まるほどの書籍と、彫師の仕事道具と、コンバーチブルの車一台だった。

 スタジオのテナント代の支払いも覚束なかったので『基本的には店舗・事務所として利用』という口約束を反故にして、ベッドを入れて寝起きするようになった。

 商売が軌道に乗るまでのつもりだったが、入手困難な稀覯本や、師匠の直筆原画の類だけ管理の行き届いた倉庫に預けてしまえば、通勤時間ゼロというのは実に快適で、契約以来、管理人が来ないのをいいことに、そのまま住みついてしまった。

 

 俺が目覚めるのは、大抵午後に入ってからだ。

泉は、「背中に梟がいるせい?」というようなことを言ったが、俺の生活が夜型なのと背中のタトゥーは無関係だ。

 目覚めて、コーヒーを入れ、ブラインドを上げて外を見ると雨が降っていた。

 鬱陶しい。俺は雨が嫌いだ。

 風呂はシャワーだけ、洗濯機を置くスペースさえないスタジオに住んでいるのは、防音がいいからという理由もある。

 目覚めて、窓の外を見るまで、激しい雨にも全く気づかなかった。

 携帯電話が鳴った。

 一見客に渡す名刺の電話番号は固定電話。携帯電話の番号入りの名刺を渡すのは三回以上通った客だけだ。

 出てみると、数年来の馴染客だった。「背中の焔肩仏の続きを彫って欲しい、今日の都合はどうだ」と尋ねられ、もう予約が入っていると言って断った。

 実は予約はなかった。

 雨のせいで仕事をする気になれない。

 世間のまっとうな勤め人に言ったら非難囂々だろうが、仕方ない。気が乗らないときの作品の出来がいいはずがない。まして俺は、人の肌に針や鑿を使って一生消えない絵を描くのだ。客が不出来なものを望むはずがない。

 雨はやみそうにない。

 こんな日は、何処にも行かず、何もせず過ごすことにしている。

 窓を閉め、ブラインドを下ろし、ドアには『CLOSED』のボードを掛けたまま。鍵もかけたままにしておこう。

 この部屋(スタジオ)は、雨の音が聞こえなくていい。

 インターフォンの音がした。

 これも切っておくべきだった。思わず舌打ちをした。

 しかし、注文した書籍や、著述や翻訳の方の仕事関連の資料が届いたのかもしれないのでチェーンを外してドアを開けてみた。

「こんにちは」

 ドアの前には、俺の恋人が立っていた。

「――」

 激しい雨のためだろう、傘を持っているのにずぶ濡れだった。

「征尊さん? どうかしました?」

 来栖は茫然とする俺を見上げた。

「――昼間に来るって珍しいから、驚いた」

 こいつは、ときどき、タイミングが良すぎる。

「仕事で近くまで来たんです。昼飯食うのに抜けて来ました」

 来栖は弁当の入ったコンビニの袋を胸の高さに上げて笑った。

「――もう御飯、食べちゃいました?」

 そう言われて、空腹に気づいた。もう午後一時過ぎだった。

「いや。さっき起きたばかりで、まだ何も食ってねぇ」

 来栖は、ほんとに夜型ですね、と言ってまた笑った。

 コーヒーを入れてやるべきだったのに、俺は来栖を抱きしめた。

「征尊さん?」

 来栖の髪からは雨の匂いがする。

「――あの、征尊さん?」

「じっとしてろ。暫くでいいから」

 お堅いスーツに、洒落気もないネクタイ、傘を差していたはずなのに、あちこち湿っている。

 来栖は清冽で――その癖熱い。

 ためいきをついて腕の力を緩めて見下ろすと、来栖は心配そうな顔をした。

「どうしたんですか?」

「なんでもない。ちょっと気分が悪かったんだ」

 そう言うと、来栖は顔色を変えて何か言いかけた。

「違う違う。体調じゃなく、本当に気分が悪かっただけだ。雨が鬱陶しくて」

 そう言うと、安堵の表情を浮かべる。

「急ぐんだろ。それ食おう」

「はい」

 来栖は笑った。

 食べている間に少しでもスーツを乾かせるようにハンガーを出してやった。

「仕事ってことは、この近くでまた物騒なことでも起きたか?」

 と尋ねると、首を振った。

「いえ、最近起きた事件の捜査じゃないです」

 それ以上は守秘義務に該当するのだろう。尋ねるのはやめておいた。つい先刻、俺に彫り物を頼んで来た男には前科がある。

お互いの仕事については深入りしない方がいい。

 言葉にして取り決めた訳ではない。

 彫師と刑事がつきあって行くためのルール――などというものじゃない。

 たとえば、お互い別の職業に就いていたとしても、同じだろう。

 仕事の話なんかより、キスしている方がずっといい。

 来栖は弁当を食べ終わると慌ただしく出て行った。スーツが乾く暇もない。

「それじゃ、また」

 ドアの前でキスだけして、来栖はまた雨の中に戻って行った。

 俺は、また外の物音の聞こえない部屋に一人になった。

 来栖は、雨の日の暗鬱を取り払ってくれたが、代わりに孤独を置いて行った。

 それでも、来栖のお陰で、もう気分は悪くなかった。

 

 

 

 

【了】

 

 

 


奥付

 

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著者 : 伊祖子久美
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