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それに似たような曲が神聖かまってちゃんにある。「仲間を探したい」だ。彼らの曲の場合は、自分で作り、自分たちで歌うので、曲提供とちがって、その意味あいはの子のパーソナルの部分と密接にからむこととなる。例えば、最初の歌詞はこうだ。

 

夕方には僕も終わりだ

クレヨンももう書けないのに

ブランコにゆらりゆられる

 

君が今となりにいるよ

 

 


夕方には僕も終わりだ

クレヨンももう書けないのに

ブランコにゆらりゆられる

君が今となりにいるよ

 

 この主人公は自分自身に対して少しあきらめている。自分の無限の力に憧れることが出来ないという悲愴感だ。ブランコというのは、自分の立っているところが非常に不安定なことを表している。それは精神の不安定さでもある。神聖かまってちゃんはデビューから怒涛のごとく事件をまきおこして、それが毎回ナタリーニュースになっていた。さらに、テレビアニメ『電波女と青春男』の主題曲を作り、ロックシーン以外のアニメ界隈でもその名前は知られるようになる。彼らはここまで上り調子だった。しかし、

 その後、タイアップの仕事がなくなってしまう。

 これはバンドファンとしては実はうれしい。なぜなら、へたにタイアップされるとロック界隈としてはクソくらえだからだ。↓


 しかし、そこから神聖かまってちゃんはロックシーンの浮いたトピックスではなくなっていく。

 この時期から、入れ替わるようにして、同世代のバンドが次々とマスメディアに出て行くことになる。ゴールデンボンバーはお祭りバンドとして音楽番組のSP放送に呼ばれていった。サカナクションはタイアップとTV出演で、独自の存在感を示していった。SEKAI NO OWARIはルックスの良さとキャッチーな曲でTV出演をし始めた。従来のロックバンドらしい真っ当な活動をおこなった結果、神聖かまってちゃんはニュース的なトピックがなくなっていった。ふつうはそういうものだと思うが、彼らの楽曲は最高に良いものの、デビュー当時から事件性とともに大きくなっていったというルーツがあったので、アルバムを出してライブがひと段落していったときファンはその後彼らに目立ったニュースがなかったとき妙にざわざわした気持ちになった。

 

 マスメディアに↓


マスメディアに出て行ったバンドは何かを引き受けたということだろう。二代目 市川左團次という歌舞伎役者が、表現と興業についてエッセイで語っている。

 

 

 「興業主の方にしてみれば、俳優の研究欲や芸術的希望ばかりを聞いているわけにはいきません。当人はたびたびで気がさしてようが、またあれかと古くなっていようが() 看客の入りがありそうなものだとなれば、どうしてもその狂言を撰定するようになるわけです。」


 表現を興業とする者は音楽や芝居という違いはあるもののみんな同じだということが分かる話である。マスメディアに上がっていった神聖かまってちゃんの同世代のバンドたちはきっと、興業という責任を背負ったのだろう。それは彼らにはやるべき使命のようなことを実行するためだ。

例えば、サカナクションは紅白歌合戦のコメントで、「日本のバンドを背負っているつもり」といっている。ロックバンドが、お茶の間にアイドルとはちがう、二一世紀に受けるような音楽を世間に流すことを使命と思っているという山口一郎のインタビュー読んだことがある。ゴールデンボンバーは、アンチテーゼだったお笑い芸人が体制側にいってドン詰まっていたマスメディアに、そのアンチテーゼという形で、どんどんお笑い芸をしていく。

SEKAI NO OWARIはバンドというていをとって、演出に工夫をこらすことでエンターテイメントを人に提供していく。それらには、市川左團次がいう、やりたくないことをやっているのだろう。

 

 左團次は正直に不満を書いている。↓



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