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ずっと生きているのに恋愛もなければ愛してくれる人も見つからないことは十分にありえることだよ


これは『スミス』のモリッシーの言葉である。

 これをみんなどういうふうに受けとるのだろう。一見、絶望的にも思えるその言葉を雑誌でみたとき、じつは高揚感をおぼえた。

ロックを好きになってJAPANをシコシコ読んでるようなボンクラは、孤独に打ちのめされているはずだ。自分はきっと誰からも愛されることはないだとか、そんな資格はないだとか、思っている。でも誰かが自分のことを分かってくれるはずなんだと希望をもっている。だからこそ絶望しているのだ。誰も現れず、そんな兆しもないからだ。そんな我々、ボンクラにこのモリッシーの言葉は最高だった。人生生きてて自分のこと肯定してくれる人が現れないことってあることなんだな、と教えてくれるからだ。

 

例えば、谷村新司が↓


例えば、谷村新司が山口百恵に提供した楽曲「いい日旅立ち」(一九七八年)という曲がある。そのなかでこう歌われる。

 

《過ぎ去りし日々の夢を叫ぶ時/帰らぬ人達熱い胸をよぎる/せめて今日から一人きり旅に出る/あゝ日本のどこかに/私を待ってる人がいる》

 

 主人公の周りの人間はどんどん離れていき、独りきりになっている。↓


《過ぎ去りし日々の夢を叫ぶ時/帰らぬ人達熱い胸をよぎる/せめて今日から一人きり旅に出る/あゝ日本のどこかに/私を待ってる人がいる》

 

 主人公の周りの人間はどんどん離れていき、独りきりになっている。旅に出て何かを探そうとするようすが描かれる。主人公は、絶望はしているが希望を失いきっていない。だが、絶望につつまれているという辛い状態だ。まさに、ボンクラの心情を写しきったような名曲である。

 

 それに似たような曲が神聖かまってちゃんにある。「仲間を探したい」だ。↓


それに似たような曲が神聖かまってちゃんにある。「仲間を探したい」だ。彼らの曲の場合は、自分で作り、自分たちで歌うので、曲提供とちがって、その意味あいはの子のパーソナルの部分と密接にからむこととなる。例えば、最初の歌詞はこうだ。

 

夕方には僕も終わりだ

クレヨンももう書けないのに

ブランコにゆらりゆられる

 

君が今となりにいるよ

 

 



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