目次
登場人物
登場人物
【プロローグ】
プロローグ
【第一部 ナツミ】
【第一部 ナツミ】のあらすじ
第1章 郡上八幡
1 美人女将の観光案内
2 出会い
3 哀しい妄想
4 郡上おどりの夜
5 旅館の部屋で
6 告白
第2章 汐留と横浜
1 天使のカウンセリング
2 他人行儀
3 バケモノ退治
第3章 雄蛇ヶ池
1 テンシのいざない
2 別れ
3 愛にあふれる世界
【第二部 マヒル】
【第二部 マヒル】のあらすじ
第1章 麗宝学園
1 もうひとりの女(ひと)
2 あのときのように
3 下心
4 マンションの秘密
5 キス
6 恋人同士
第2章 心霊研究クラブ
1 女のまなざし
2 お姉ちゃん
3 開かずの間
第3章 幽霊マンション
1 会えてよかった
2 もうひとつの選択肢
【第三部 麗宝祭】
【第三部 麗宝祭】のあらすじ
第1章 殲滅
1 奇妙な使命感
2 胸騒ぎ
3 放課後のワナ
4 お見送り
第2章 餌食
1 さまよう少女の魂
2 アジトへ
3 決行前夜
第3章 降霊術
1 集ったものたち
2 叶えられた願い
3 魂の帰還
4 天使との再会
【エピローグ】
エピローグ
参考文献
参考文献
『天使の街〜ハルカ〜』のご案内
『天使の街〜ハルカ〜』のご案内
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1 美人女将の観光案内

〈郡上八幡旧庁舎記念館(観光案内処)〉のテラスにあるイスに腰かけ、吉田川を眺めながら、おだんごを頬張っていた。

 時刻はお昼どき。当初の計画では、昼食には鰻を食べる予定だった。吉田川の清流で育った鰻の味は格別だという。しかし、気がつくと、なぜか〈みたらしだんご〉を6本も買いこみ、ここに座っていたのだった。

 頭のなかはついさっき見た光景で占められていた。

 満面の笑みの少女。画面に映りこんだ奇妙な人影。それが頭から離れない。

 不思議というか、尋常でない出来事だと思う。異境の地にやってきたという昂揚感が妙なモノを見せているの? あるいは、疲れて頭が働いていないのか……。

 ──少し早いけど、旅館へ行こう。

 そう決心した。

 郡上八幡の見どころはまったくまわっていない。ただ、今日泊まる予定の旅館のサイトに「美人女将による観光案内つき」とあった。「美人」というところにひっかかったわけだけど、まあ、美人といっても、ずっと年長の女将さんなのだろうな。それでも、地元の人に案内してもらうのは、とても有意義な気がする。うん。善は急げ。さっさと旅館へ向かおう。

 

 

 大きな看板が見えたので、旅館の場所に迷うことはなかった。和風の情緒ゆたかな建物ではあるけど、古さは感じない。

 玄関に近づくと、なかから箒を持った中年の女性が出てきた。

「こ、こんにちは。今晩お世話になります」

「あら? ようこそ。早いわねえ。もう街を見てまわったの?」

 女性は一瞬驚いたような表情を見せたけど、すぐに愛想のよい言葉を返してきた。この人が「美人女将」なのかな?

「あの……まだ早かったですか?」

「いいの、いいの。さ、どうぞなかへ。あそこで記帳をお願いしますね」

 女将さんは館の奥のほうを指ししめした。

「失礼します……」

 そこは純和風といったたたずまいの玄関になっていた。

 昼間なので灯は点いておらず、少し薄暗い。壁や柱には高級な木材が使われているみたい。重厚な色合いが空間全体の暗みを増すのに一役買っている。さらに一歩なかへ入ると、ひんやりとした空気が肌に触れた。もちろん、冷房が利いているわけじゃない。風が建物のなかを吹きぬけ、熱気を外へ逃がしているという感じ。

 靴を脱いで、下駄箱へ入れる。目の前に小窓があり、そこが受付になっているようだ。でも、人影はない。

「こ、こんにちは!」受付の奥までとどくように、声を張った。

「あれ? おかしいわね」女将さんが玄関の掃き掃除を中断し、こちらに近づいてくる。

「フユミ〜っ、お客さんだよ〜」

「は〜〜い」なかから若い女性の返事が聞こえた。

 声の主はすぐに現れた。半分は眠っているようだった私の頭が、その瞬間、にわかに働きだした。

 ──美人。

 その形容が少しの疑問もなしにあてはまるような容姿だった。

「あ……」思わず小さい声を漏らしていた。「あの……お世話になります」

「ようこそ。この旅館の女将です」

「え……女将? さっきのかたは……?」

「あれは母です。大女将ですね」

 この人が女将さん? 失礼ながら、女将さんという風情の人ではないと思う。なんか、この和風の旅館に似つかわしくないというか……。ナチュラルメイクだけど、目鼻のつくりがはっきりしている。口紅だけがやけに赤いのが印象的。有名企業の社長秘書といったオーラを感じさせる。Tシャツにジーンズというラフな格好なんだけど(それもこの旅館のイメージにそぐわない)、スタイルがいいだけに、妙に似合っている。歳は30ちょっと前といったところ?

 フユミさんにうながされるまま、記帳をした。

 ──美人女将って、この人のこと?

 うん。きっとそうだ。だれがどう見ても美人だし。ということは、この人に観光案内してもらえるってこと?

 帳面に目をおとしながら、口元がほころぶのが自分でもわかった。

「あの……『観光案内』を申し込んだんですけど……」

「はい。承っています。どうします? すぐに出発されますか? それとも、少しお休みになります?」

「すぐに行きます。はい、いますぐに」はやる気持ちをおさえきれず、変な言葉づかいになった。フユミさんが小さく「くす」と笑ったので、恥ずかしくなってしまった。

 荷物を置くために、フユミさんが部屋まで案内してくれた。入口の戸は木の格子になっていて、その奥にもう1枚ふすまがある。そこを開けると、なかの畳が見えた。中央にちゃぶ台。その上にポットや湯呑みなどの「お茶セット」がのっている。壁際に小さいテレビがあり、まさに和風旅館といった趣。部屋の隅に置かれた盛り塩もそれっぽい雰囲気を醸し出している。

 特筆すべきは、窓からの景色だ。この旅館は川に隣接していて、せせらぎが部屋のなかまで聞こえてくる。岸に生える緑と水面の色彩のコントラストもいい。

 このまま眺めていたいけど、観光もしたい。なんという贅沢な悩み。

 受付でフユミさんに声をかけた。さっきはまだチェックインの時間ではなかったから、ラフな格好をしているのかと思ったけど、Tシャツ、ジーンズのままだ。顔だちの印象とは裏腹に、じつはざっくばらんな性格なのかな?

「これ、どうぞ」フユミさんから小さい団扇をわたされた。「外は暑いから」

 団扇には〈郡上おどり〉という文字が書かれ、浴衣姿でおどる女性たちが描かれていた。

「あの……今日も盆おどり、やるんですよね?」

「ええ。毎晩おどりがあるんです。いまはお盆だから朝まで」

「朝まで!?」

 この街の最大の見どころは〈郡上おどり〉と呼ばれる盆おどりだ。7月中旬の「おどり発祥祭」から9月初旬の「おどり納め」まで、2か月33夜にわたって、盆おどりが繰りひろげられる。盂蘭盆会(お盆)の時期には〈徹夜おどり〉といって、午後8時ごろから翌朝5時ごろまでずっと催しがつづく。

「もちろん、マヨさんもおどるでしょ?」

「は?」フユミさんからいきなり下の名前を呼ばれ、不意を突かれた。

「そうしたいんですけど……浴衣を忘れてしまって……」

「大丈夫。浴衣はレンタルしてますし、ふだん着でも全然かまわないんですよ。そうだ! あとで〈おどり教室〉に参加したらどう?」

 おどりの教室まであるの? う〜ん。興味がわいてきた。やっぱりおどろうかな。せっかく来たんだし。友だちにおどりかたを教えたりして、優越感を味わうのもいいかも。

 

 

 私も女子のなかでは背は高いほうだけど、フユミさんは私よりさらに身長があった。友だちはみんな小柄だから、自分より大きい人と歩くのは変な気分。

 道を歩いていると、ちらほら浴衣姿の人が目につくようになってきた。この時期は、その格好のほうがふだん着なのかも。ますます浴衣を忘れてきたことを後悔する。せっかくお気に入りの逸品を買ったのに……。

「これが〈郡上おどりの像〉です」

 街の片隅に、頬被りをしておどっている姿の銅像があった。

「盆おどりのルーツって知ってる?」

「ルーツ……? 先祖の霊を迎える儀式とか?」

「盆おどりはね、もともと恋人を見つけるためのイベントなの。現代でたとえるとお見合いダンスパーティーみたいなものかな」

 ──え……そんなロマンチックなものなの?

「マヨさんみたいに可愛い人は、ひくてあまたになるんじゃない?」

 フユミさんの手が私の肩に置かれる。そのまま優しく滑るように、指が私の二の腕へ移動する。そっと撫でてから、ゆっくりと手を離した。

 思わず身震いする。心地よさを感じてしまった自分に驚いた。

「え? そんな……。そんなことありません……」取り繕うように答えた。

 その言葉は本心だった。私はいつも片想い。相手が振りむいてくれることなんてない。

 ここへ来てからそのことは意識にのぼらなかった。いや、あえて考えないようにしていた。フユミさんのひとことで自分のみじめさが思い出されてしまった。

 盆おどりが始まったころの大昔に生まれていればよかった。公然と出会いの場が設けられていたのだから。いや、私はそんな時代でも、取りのこされてしまうのかも……。

「あの……ほんとにそういうことするんですか? 相手を見つけて……そのあと……」

「ふふ。マヨさんもお年ごろねえ。いまはふつうのおどりのイベントですよ。もちろん、望むなら相手を見つけてもいいけど。それは自由なんだし」

 半分は残念に思い、もう半分は安堵した。期待をするぶんだけ、裏切られたときに絶望が深くなる。ならば、最初から期待しなければいい──。

 ピピピピピ。

 突然、音がした。〈電話〉の着信音に聞こえた。その音で我に返った。

「あ、ちょっとごめんなさい」フユミさんが〈電話〉を取り出しながら、頭をさげた。

「いいですよ」私はそう言いながら、フユミさんから顔をそむけ、目頭に指をあてた。

 知らない間に涙がたまっていたらしい。

「ちょっと、いまご案内中。電話しないでっていつも言ってるでしょ!」

 フユミさんの口調がきつくなる。これは少し意外だった。なんとなくおちついているイメージがあったけど、実際はちがうのかな……?

「じゃあ、ナツミにやってもらうしか……」

 フユミさんは手早く〈電話〉をしまうと、つくり笑顔──さっきまでの強い口調からそう思えた──を私に向けた。

「ほんとうに申し訳ありません。ちょっとトラブルがあって、旅館にもどります。このあとは妹がご案内しますから」

「あ、大丈夫です。気にしないでください」

 電話の相手は妹さんだったらしい。これは想像だけど、姉妹の仲はあまりよくないのでは?

「ほんとにごめんなさい」

 私はかえって恐縮しながら、フユミさんのあとを歩いた。

〈郡上おどりの像〉から10分ほどの距離だった。小道に入り、地面が石畳になっているところに出た。目の前は急な下り坂だった。

 坂道をおりると小さい橋が見えた。アーチ状で、中央が盛りあがっている。深紅の欄干が独特の雰囲気を醸し出している。橋の下に細い川が流れているようだ。

 橋の真んなかに人がひとり立ちすくんでいた。

 顔を見て、私は息を飲んだ。

 さっき出会ったあの少女だった。


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2 出会い

 少女はじっとこっちを見つめていた。顔は笑っていなかった。かといって、憂い顔というわけでもない。強い意志を内に秘めているという感じ。

 橋の上にいるのはその女の子だけだった。いや、だけだったと思う。ほかの人は目に入らなかったから。

 私たちが近づいていっても、そのコは表情を崩そうとはしなかった。むこうから近づいてくるそぶりも見せなかった。

 フユミさんが少女に声をかけ、なにかを話していた。

「マヨさん。ほんとうにごめんなさいね。あとはナツミがご案内しますから」

 フユミさんは、頭をさげると、足早にその場を去っていった。

 フユミさんの妹──ナツミと私はしばらくそこに立ち尽くしていた。ふたりの間に気まずい沈黙が流れた。

 フユミさんの妹だから美形だとは思う。しかし、お姉さんとちがって愛嬌がない。

「……さっきは、どうも……」沈黙に耐えきれず私は口火を切った。

「さっき……?」

「あ、いや、先ほどお会いしましたよね? あそこの川で……」

「川……?」ナツミはほんの少しだけ顔をしかめる。

 別人なの? 白いワンピースの少女とは……。あらためてナツミを見ると、顔はそっくりだけど、服がちがっている。それに川では中高生くらいに思えたのに、目の前に立っているのは私とおなじくらいの年齢の女にも見える。

 ──もっと笑ってくれたらはっきりするのに。

 頭に焼きついているのは、満面の笑みだ。ナツミの笑顔を見れば、人ちがいかどうかわかる。

「そうぎすい……」ナツミが唐突に口を開いた。そして、私の後方を指差した。それにつられて振りかえると、視線の下に、小さい水路。その先に注連縄が飾られた祠のようなものがある。

「宗祇水は、1985年に、環境庁が、名水百選に選んだわき水で……」またしてもナツミが突然しゃべりはじめた。「室町時代の……えっと、あの……」

「ひょっとして、緊張してる?」

「え……? すみません……まだ慣れていなくて……申し訳ありません」ナツミが深々と頭をさげた。そのしぐさはフユミさんにそっくりだった。

「ぷっ」思わず吹き出してしまった。「あっ、ごめんなさい」

「わたしのほうこそ……美人女将の観光案内なのに……姉ができなくなってしまって……」

「いや、でも……女将さんじゃないけど、美人には変わりないから……」

 自然に出た言葉だったけど、言ったあとに「はっ」となった。社交辞令のつもりだったのに、ほんとうに美人だと思っただけに、気恥ずかしくなってしまったのだ。

「いや、そんなことはないです……」ナツミが小さい笑みを浮かべながら、そっぽを向く。その顔を見るかぎり、ますます川べりの少女にしか思えないんだけど……。

「えっと……」ナツミはおもむろにバッグから手帳を取り出し、ページをめくりはじめた。

「私はマヨです」

「え?」

「いま私の名前を探してたんじゃない? その手帳にメモしてあるんでしょ?」

「あ……すごい、よくわかりましたね」

「昔からそういう勘は冴えてるの」

「よろしくお願いします。マヨさん」

「マヨでいいよ」

 それを聞いたナツミが呆気にとられている。

「あ、その……たぶんナツミさんは私と歳が近いから、友だちみたいな感覚で案内してもらったほうが、気がラクというか、そのほうが楽しいっていうか……」

「……じゃあ、わたしもナツミって呼んで……マヨ?」

「わかった、ナ……ナツミ?」

 私たちはしばらく顔を見合わせ、そして笑いはじめた。

「あ……こんなことしてちゃダメ……お仕事しないと」ナツミがにわかに真顔になった。

もっとナツミのことを知りたい気持ちもあったけど、それはあとのお楽しみにしてもいいかな。

「はい。じゃあ、お願いします」

「近くに行ってみよ?」

 ナツミのあとについて階段をおりていく。

 祠からわき水が出ていて、幅1メートルぐらいの溝を流れている。その水は橋の下を流れる細い川に注いでいた。

「宗祇水の宗祇ってなに?」

「室町時代の飯尾宗祇っていう歌人のこと。その人がここに庵をつくったのが由来とされてる」

「へ〜。たしかにこの街の水はきれいだよね」

 ナツミが浮かない顔をしている。私といるのが楽しくないのだろうか……。

「マヨ……お姉ちゃんから変なこと聞かされなかった?」

「変なことって……?」

「盆おどりが出会いの場だとかなんとか……」

「うん、聞いたよ。お見合いダンスパーティーみたいなものだって」

「そんな生やさしいものじゃないよ。もっと、なんというか、おぞましいもの」

「……だって、ただおどるだけでしょ?」

「なんのためにおどるか知ってる?」

 ナツミの表情はさらに強張っていた。なぜそんな顔をしているのか、まったく理解できず、不安になった。

「なんのためって……そのほうが盛りあがるじゃない?」

「おどりはね、自分たちをトランス状態にするため」

「それって、興奮状態ってこと?」

「ようするに、えっちな気分になるためだよ」

 ナツミの口から「えっち」なんて言葉が出ると、なんでもない単語なのに、妖しく響いた。

「お姉さんはいまはそんなことないって……」

「でも、一部にはそういう風習が残ってる」

 私はこのあと〈おどり教室〉に参加する予定であることを思い出した。

「盆おどりには行かないほうがいいってこと?」

「いや……それはいいと思うよ。ここの名物だし、想い出にはなると思う。でも、わたしの言いたいのは『気をつけて』ってこと」

「なにに気をつけるの? ひょっとして、私がナンパされちゃうとか思ってる? 言っとくけど、そんな軽い女じゃないわっ!」

 ふたりの間に流れていた重苦しい雰囲気を変えたくて、あえておどけた口調で言ってみた。ナツミが表情を崩す。

「たしかに、マヨはモテそうだしね……それだけの、あれだもん」

「あれ?」

「綺麗ってこと」ナツミは早口でそう言うと、下を向いた。私たちはお互いに「美人」「綺麗」と言いあっては、頬を赤らめているのだった。

 その気恥ずかしさを打ちけしたかった。いや、好きなコにちょっといたずらをしたくなる子どものような気持ちになった。

 わき水に静かに片手を浸け、水をすくうと、それをナツミの頭に振りかけた。

「えいっ」

「ひいっ」

 ナツミが驚きのあまり悲鳴を放った。立ちあがって、急いで私から離れる。頭をかきむしるようにして、水を払おうとしている。

「ごほ、ごほ、ごほ、ごほ」

 ナツミがむせて、苦しみはじめた。私はナツミに近づき背中をさすった。

「ごめん。そんなにびっくりするなんて……」

 セキはおさまったけど、まだ苦しそうに胸をおさえている。

「……この水って……毒なの?」

 ナツミがふうっと、大きく息を吐いた。少しおちつきを取りもどしたようだ。

「水はなんでもない……髪が濡れるのが……」

「髪……?」

 ナツミはなにかの病気なのだろうか。アレルギーとか?

「ここでは……髪を濡らしてはいけないの」ナツミがようやく顔をあげ、私のほうを見ながら答えた。

「どういうこと?」

「こんなこと言っても信じてもらえないと思うけど……」

 ナツミがなにかを考えこむように下を向く。私はその様子を緊張した面持ちで見ていた。

「やっぱり、ダメ。こんなこと話したらお姉ちゃんに叱られちゃう」

 ナツミがなにを言いたいのかはまったくわからなかったけど、興味がわいてきた。

「お姉さんには絶対言わない。だから教えて」

 ナツミは答えなかった。私の顔をじっと見つめている。私に話すかどうか迷っているみたいだった。

「ねえっ! なんなの?」自分でも嫌になるくらいきつい口調になってしまった。

 ナツミが意を決したように口を開いた。

「来て」

 

 

 ナツミは私の存在を忘れたかのように進んでいく。あとをついていくのに、駆け足気味に歩かなければならなかった。向かっているのは、街の東側にある八幡山の方角。郡上八幡城が頂に見えた、あの山だ。

 ──ねえ、どこに行くの?

 そう話しかけたかったけど、ナツミが全身から発してる雰囲気がそうさせなかった。宗祇水のそばに立っていたときとおなじ堅苦しい顔つき。それがいまも感じられる。

 ふもとから山道を歩く。このままお城まで行こうというの?

 私たちはせまい道を入っていった。舗装されていないところを見ると、地元の人しか使っていないのかも。

5分ほど進んだところで、ナツミが唐突に立ちどまった。傍らに小さな祠が見える。ほんとうに小さい。高さは1メートルほど。かなり古いものだと思われる。

「ねえ、なにこれ?」

 話しかけづらい雰囲気はあいかわらずだったけど、重苦しさに耐えきれなかった。「ここも郡上八幡の観光スポットなの?」

「いいえ。ここには地元の人もほとんど来ない」

 ナツミが祠を見つめたまま答える。

「ここに祀られているのは〈テンシ〉と呼ばれるもの……」

「天使? ……あの羽の生えた?」

「羽は生えてない。白い服は着てるけど……」

「この街に天使がいるって、なかなか面白い組みあわせだよね。ミスマッチというか、それが逆に情緒があるというか……」

「〈テンシ〉のことを知っている人は、この街にもほとんどいなくなってしまった。わたしの家の人たちと、あとは何人かのご老人だけ」

「なんかもったいないね。せっかくの伝統が受けつがれてないんだね」

「わたしはね、正直、こんな伝統なくなってしまえばいいと思ってる」

「え?」

「マヨに水をかけられたとき、わたし、すごく驚いたでしょ?」

 そうだ。そのことをすっかり忘れていた。ナツミが水を異様に怖がる理由を知りたかったのだ。

「水が髪にかかるとね、寄ってくるのよ、〈テンシ〉たちが」

「寄ってくる?」

「ねえ、お風呂で髪を洗っているとき、だれかの視線を感じることない?」

「それはあるけど、もちろん、だれもいないよ。気のせいに決まってるわけだし」

「気のせいもあるけど、ほんとにいることもある」

 背中から頭のうしろにかけて電流が走った。同時に、ひんやりとした風が吹いてきた気がした。いや、実際に吹いたのかも。まわりの枝や葉っぱががさがさと音を立てたから。

「ちょ、ちょっと、やめてよ。私はホラー映画とか大好きだけど、それは怖いのが好きなんであって、つまり、怖がりってことで……」

「ごめん。ただ、理由を知ってほしいだけ」

「でも、お風呂にいたとして、それは幽霊でしょう? 天使じゃなくて」

「みんなが幽霊と思っているものが、〈テンシ〉なのよ」

「いや、それは変。天使だったら怖くないはず」

「〈テンシ〉は怖いんだって。だから、水がかかってびっくりしたんだって」

なるほど──。

 ようするに、ナツミは私とおなじ怖がりなのだ。私は怖い映画が好きだけど、幽霊の存在には否定的。もっともらしく語られる怪談も全部つくりものだと思っている。でも、ナツミは幽霊がいると信じている。そういうことだ。

 そんなナツミはなんだか愛らしい。乙女ちっくというか……。

「ナツミは幽霊を見たことがあるの?」

「だから幽霊じゃなくて〈テンシ〉なんだけど……あるよ。というより、うちは代々〈テンシ〉を祀ってきた家系なの」

「それじゃこの祠は……?」

 ナツミは祠の小さい扉に手をかけた。静かに扉を開け、なにかを取り出した。それを私の目の前に掲げる。

 白い折り紙でつくった着物のように見える。

「ここに〈テンシ〉の魂がこめられてる」

「これが天使なんだね。可愛いじゃない」

「いいえ。これは〈テンシ〉を滅したあとの姿」

「『滅した』って……」

「うちの家系はね、この〈テンシ〉を亡きものにする役目を負わされていた。でも、それはわたしのおばあちゃんの世代までで、お母さんやお姉ちゃんは、全然ダメ。逆に〈テンシ〉をもっと積極的に利用しようとしている」

「え? お姉さんも?」

 お姉さんたちはたぶん本気じゃない。異様に怖がるナツミを母と姉がからかっている。そんな光景が目に浮かぶ。

「マヨ、お姉ちゃんになにかされなかった?」

「なにかって?」

「たとえば……」ナツミはそう言いながら、私のほうへ手をのばす。そのめざす先は私の……胸!?

「な、なに?」思わずあとずさりをする──いや、しようとしたところで、ナツミの手が止まった。その手はすばやくひっこんだ。

「たとえば、体をさわるとか」

 驚きのあまり、心臓が高鳴っていた。

 ──いや、待って。これはびっくりしたから? もっと別の理由があるような気もするけど……。

「ねえ? どう?」ナツミが私の顔を覗きこむ。

 ちょっと、待って。急かさないで。考えるから。えっと……そういえば、フユミさんは、私の肩に手を置いた。そして、そのまま二の腕のほうへ指を滑らせて……。

 さっきの感覚を思い出して、身震いした。そうだ。なんか変な気分になったんだ。

 ナツミにそのときのフユミさんの様子をありのままに話した。

「で、マヨはどんな気持ちになった?」

 気持ち? そうあらためて聞かれると恥ずかしい。ほんとうのことはとても言えない。

「えっちな気分になったりしたんじゃない?」

 内心を見透かされるようなことを言われて動揺した。しかも、またナツミの口から「えっち」っていう言葉が……。

「う……うん。嫌な感じはしなかったよ」自己嫌悪に陥るぐらい顔が火照っていた。それをナツミに悟られないように、顔をそむける。

「それが手なの。お姉ちゃんの」

「へ?」

「〈テンシ〉を呼びよせる方法はふたつ。ひとつは髪を濡らすこと。もうひとつは性的に興奮すること」

「え? なに?……お姉さんは天使を私のところに呼ぼうとしたってこと?」

「お姉ちゃんは『〈テンシ〉は発情した女に誘われる』ってことを知ってるから、なるべくいろいろな人をそういう気分にさせようとしているの。深く考えているわけじゃない。もう習慣のようになっているだけ」

そんなことして、お姉さんになんの得があるの?

「つまり、お姉ちゃんは恋をしてほしいと思ってる。そうすることで人は幸せになれる。いろいろな人を目覚めさせることが自分の役目だと考えてる」

「あ……」思わず小さい声を漏らした。

 ということは、いま私がナツミに恋してるのは、お姉さんのせい?

 ……ん? あれ? 私、ナツミに恋してるの? 自分でそう思ったよね?

 ──私、ナツミが好き……なの?

 どうして? ついさっき会ったばかりなのに……。

 いやいやいや。冷静に。冷静になろう。ナツミに恋してるかどうかは、置いておこうよ。う……。置いておける? 本人が目の前にいるのに……。

「あの……ちがうよ。誤解だからね」ナツミがなぜかあわてた口調で言う。

「ちがうって、なにが?」

「いや……あの、〈テンシ〉はえっちな気持ちになったから来るとは限らなくて、そんな気分じゃなくても現れることもあるし、そのへんのことはわかっていなくて……」

 ナツミがなぜ急に取り乱したのか、しばらくわからなかった。ちょっと考えて「あっ」とひらめいた。

 私が水をかけたときにナツミが怖がったのは、天使が寄ってくると思ったから。ナツミの話では、髪を濡らしたり、淫らな気分になったりすると天使が現れる。つまり、あのときナツミはいやらしいことを考えていたってことになってしまう。

 言い訳しなければ私は気づかなかったのに。まさに墓穴を掘ったってところ。

 そんなナツミがとてつもなく愛おしく思えてきて、ナツミのほうへゆっくり手をのばす。

 私の指がナツミの指に触れる。

 それまでなにかを一生懸命しゃべりつづけていたナツミが、その瞬間、黙る。

 ふたりの視線が交差する。

 私は微笑む。

 ナツミが私の手を握る。

 それにこたえるように、私も強く握りかえした。


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3 哀しい妄想

 私たちは来た道をもどった。

 今度はナツミが先を行くことはない。私のすぐ横を歩いている。

 幸せを感じていた。ナツミの温もりがつないだ手から伝わってくるから。

 私はナツミを好きになっている。それは認めるしかない。でも、ナツミはどう思っているのだろう? 手をつないでくれているから、もちろん私のことを嫌いではないだろうし、ただの旅館のお客さんというつもりでもないと思う。友だち……にはなれたのかな?

「今夜の盆おどりだけど……いっしょにおどってくれるよね?」少し不安になってたずねた。ナツミは、ここの風習を快く思っていないみたいだから……。

「うん。いいよ」ナツミが明るい口調で答えたので、胸を撫でおろす。

「誤解しないでね。わたしは盆おどりをやめさせたいと思っているわけじゃないの。その……なんていうか、いろいろな人と同時に付きあうとか……なんか節操がないのが嫌なだけで」

「え……? そんなに一晩にいろんな人と……するの?」

「いや、だから、いまはもちろんそんなことはなくて……でも、ほら、モテる人もいるでしょ? マヨみたいに」

「な、なに言ってるの? 私なんか全然なんだから……どっちかっていうと、ナツミのほうでしょ? みんなに好かれるのは?」

 第一印象こそ「美人だけど愛嬌がない」とマイナスイメージだったけど、こうして笑顔で話しているのを見ていると、ナツミはとても愛くるしい。それだけでなく、気丈さも持っているから、気軽に触れてはいけないような、清純な雰囲気が漂っている。

「まあ、自分でも、他人から嫌われるタイプではないとは思うけど」ナツミが照れくさそうに言う。「だからって、とっかえひっかえっていうのは……」

「一途ってことだね。それって、ふつうでしょ?」

「ふつうじゃないから困る。お母さんなんか『もっと恋をしなさい。いろいろな人と愛しあいなさい』って言うし」

 大女将さんも、ずいぶんとあけすけだなあ。まあ、そんな感じの人ではあったけど。

「お姉ちゃんも『ナツミはもっといろいろな経験をしなさい。そのために〈テンシ〉様がいるんでしょ』って言ってる」

「ねえ。天使って、愛のキューピッドみたいなものなんじゃないかな。ハートの弓矢を持って、愛を射止めるみたいな」

「マヨは実際見たことないからそんなことが言えるの!」

 あらら。またナツミが妄想モードに入っちゃった。

「ようするに、だよ。ナツミが言いたいのは『浮気はいけない』ってことでしょ? うん。それは私も賛成」

「そう! 一度、愛を誓いあったら、その人と一生添いとげる覚悟をしなくちゃダメ!」つないでいたナツミの手に力が入るのがわかった。

 昼間から「愛」だの「浮気」だの言ってるなんて、冷静に考えれば、恥ずかしい。だけど、なぜかこの街では違和感がないから不思議。街全体に漂うお祭の前の浮ついた雰囲気がそう思わせるのかも。

「で、ナツミには、愛を誓いあった人は……?」

なんの計算もなかった。話の流れから自然に出た言葉だった。でも、言ったあとに、全身から汗が噴き出すのを感じた。

 それに反応したはずはないけど、ナツミが私の手を放した。

「あ……いや、それは……ご想像におまかせします」ナツミがうつむき加減に答えた。

いる。残念だけど、これはいるな。ナツミには、相手が。こういうとき、いないなら「いない」って言うはず。こんなふうに答えをはぐらかすのは、恋人がいる証拠。

「そういうマヨは……?」ナツミが真顔で聞きかえす。

 いるわけないじゃない。もしそうだったら、もっと幸せな人生を送ってる。自分でも外見はそれほど悪くないと思う。お世辞もあるだろうけど、容姿を褒められることもあるし。だけど、見た目と、幸福度は比例しない。その真実をこの歳になって悟りはじめていたところ。

「私はフリー。恋人募集中。いや、応募中。相手はナツミ」

「え?」

 冗談で言ったつもりなのに──いや本心だけど、それを口に出したという行為そのものはおふざけなのに──ナツミは深刻そうに私を見かえした。

〈うそ、うそ。忘れて、忘れて〉

 その言葉が喉まで出かかったけど、結局言わなかった。茶化してしまうのは、ナツミに悪いと思ったから。それに、否定したら可能性がほんとうになくなってしまうと思ったから。

「マヨ……」ナツミが私から視線をはずし、前を向きながら話しはじめた。「あのね、お姉ちゃんがマヨの体にさわって、その気にさせたのは、可能性があるからだよ。いろんな人がマヨのことを好きになると思ったから、えっちな気持ちを引き出そうとしたの。お姉ちゃんとはあまりうまくいってないけど、他人を見る目はたしかだよ。こう言ったらアレだけど、マヨがまったくモテなそうな、冴えない女の人だったら、お姉ちゃんはなにもしなかったはず。わたしも初めて見たときに思ったもの。『あ、この人は愛にあふれている人。そして、その愛を他人に分けてあげられる人だ』って」

 なに言ってるの、ナツミ? 褒めてくれてるんだろうけど、ずいぶんとまわりくどいじゃない? ……いや、たぶんナツミは純粋な気持ちで話している。だから、その言葉は素直に受けとるべきなのだ。

「ありがとう……」ナツミの手をとり、両手で握りしめた。この上ない感謝の意をこめて。

「愛する人は必要だけど、たったひとりいればいい。たくさんの人から愛されなくても」

「だけど、ここではそうはいかないかも。もし、〈テンシ〉が現れたら……」

 ナツミはとても真面目なんだと思う。私をからかおうとしているわけではない。それはよくわかる。でも、少し常軌を逸している気がする。

「盆おどりは、性的な興奮を得るための手段。愛が欲しい。そんな気持ちになった人のところに〈テンシ〉は現れる」

「ナツミの家の人は、その天使様をどうするの? さっき『亡きものにする』とかって……」

「いや……」そう言ってナツミは下を向く。

「うちの旅館に盛り塩があったのに気づいた?」しばらく黙ったあと、そう切り出した。

「うん……」

「あれは、〈テンシ〉が現れたときに退治するために使うの。だから、館のあちこちに置いてるんだけど…… お母さんとお姉ちゃんは、逆に〈テンシ〉に来てほしいと思っているぐらいだから、盛り塩をしようとしない。おばあちゃんから言われたはずなのにね。わたしのやることを止めはしないけど……」

「なんで退治するの? だって天使って歓迎すべきでしょ?」

「〈テンシ〉が連れていくのは、この世でない世界。つまり、死の世界ってこと」

 天使に出会ったら死ぬ……ってこと?

「ねえ、なんか怖いよ……もう、やめよ、この話。ナツミさえよければ……」

「うん、わかった……」

 私が怖いのは天使ではなくナツミ。このままでいいのかな……。なんとかその信念を変えさせたほうがいいのではないか。ナツミの〝信仰〟はナツミ自身に不幸をもたらす。そんな予感がする。

 

 

 街までおりると、私たちは、浴衣をレンタルしてくれる呉服屋さんへと足をのばした。盆おどりの浴衣なんて古めかしいイメージを抱いていたけど、なかなかおしゃれなデザインのものがそろっていた。最近は、観光客を呼びよせるために、有名なデザイナーが手がけた浴衣も用意されているらしい。

 私はお気に入りを決め、着替えた。

「あ……綺麗……」私の浴衣姿を見たナツミが潤んだような目で見つめる。「やっぱマヨが着るとなんでも似合っちゃうんだなあ」

 それは旅館のお客さんに対する社交辞令? それとも友だちとしての本心? 私は後者だと信じたい。信じさせて。

「よし。次は下駄だね」そう言いながら、ナツミは私の手をひっぱっていく。

 下駄屋さんでは、素材や形、サイズなどが自分の好みで選べた。鼻緒もその場で取りつけてくれる。

 こうしていつでもおどりに参加できる用意ができた。

 ちょっと長身の私よりも、ナツミのほうが浴衣は似合うと思う。

 ──早く見たいな。ナツミの浴衣姿……。

 

 

〈郡上八幡旧庁舎記念館〉にたどりつく。ここで、〈郡上おどり教室〉が開かれている。ナツミは旅館に用事があるとかで、いったん帰ることになった。姿が見えなくなると、急に心細さが襲ってきた。

 会場に入ると、20〜30人ぐらいの人がいた。参加者は、家族連れや恋人同士、まさに老若男女。ひとりで来ているのは私だけかもしれない……。

 おどりの講習会が始まった。郡上おどり保存会のおばさんが実演する。それを見ながら、手足を動かしていく。最初はきちんとおどるのは大変なんだけど、見よう見まねでやっているうちに、楽しい気分になってくる。まわりの人も笑顔になっている。さっき感じた心細さが嘘みたい。

 40分ほどの講習をおえ、〈旧庁舎記念館〉をあとにした。

 

 

 盆おどりの本番が始まるのは夜だし、旅館に帰るのにもまだ早い。浴衣姿のまま少し歩くことにした。

〈旧庁舎記念館〉のすぐ北に〈新橋〉がかかっている。それほど大きな橋ではないけど、人々の往来が激しく、車も頻繁にとおっていく。

 道を歩く人たちは浴衣姿の割合が高くなってきた。仲よさそうに歩く人たちにどうしても注目してしまう。

 ──浴衣姿のナツミといっしょにあんなふうに歩いてみたい……。

 橋の真んなかあたりでそう思いながら川のほうへ目をやると、不思議な光景が広がっていた。

 川岸に灯が並んでいる。電灯ではない。オレンジ色の小さな光が、ゆらゆらと揺れている。そんな無数の光が遠くのほうまで連なっている。その灯に視線が吸いこまれた。これも祭を盛りあげる演出のひとつなのだろう。

 空の色が変わり、山の緑も深くなってきた。川の流れも、昼間見たのとはちがっている気がする。人だけでなく自然までもが夜を迎える準備をしているようだ。夜になるにつれ静けさを増していくのではなく、反対に活気づいているように思える。あたりが暗くなることでかえって街全体の息吹が強調される。

 だからこそよけいに、私のやせ細った心がかき消されそうになる。

 好き好んでひとりでいるわけじゃない。いつの間にか、孤独になっているだけ。そして、自分で自分のみじめさに気づかないように──いや、気づかないふりをするために、平気を装う。ほんとうは私だって、さびしいんだ。でも、それを紛らす方法がわからない。……いや、方法は知っている。横にだれかがいてくれるだけでいい。でも、その夢がなかなか叶わない……。

「なにしてんの?」背後から声がして、我に返る。「遅いじゃない」

 振りむくと、ナツミが立っていた。

 薄い黄色を基調とした浴衣。下駄の赤い鼻緒が絶妙なアクセントになっている。手には小さい団扇を持ち、ヒラヒラと動かしている。風を送っているのではなく、形式的にあおいでいるようなしぐさだ。

「ナツミ……」

 あまりの可愛らしさに、駆けよって、抱きしめたい衝動にかられた。でも、私にはその資格がない。

「あれ? その顔……おどり教室、つまらなかった?」

「え? いや、そんなことないよ。楽しかったよ。ただ……」

 ちょっとさびしかっただけ。そう言おうとして、言葉を飲みこんだ。

「疲れちゃって……」

「だったら少し早いけど、ご飯食べようよ。もう用意できてるよ」

 ナツミの表情は明るかった。黄色い浴衣だから、よけいにそう思えた。ナツミ自身も浴衣に着替えたことで、昼間とはちがう気分になっているのかもしれない。

「ほら」ナツミが私の手を握る。手をつなぐのは、自然なことになっていた。ナツミの手の温もりが私の凍った心を溶かしていくみたい。ゆっくりと、少しずつ、確実に……。

 

 

 部屋にもどると、窓のほうへ近づいた。川岸に並んだオレンジの灯がここからも見える。あたりはさらに暗さを増し、灯の美しさが際立った。

「おまちどおさま」ノックの音がしたかと思うと、料理をのせたお盆を持って、ナツミが部屋に入ってきた。浴衣の上にエプロンをしている。この和風の旅館に似つかわしい格好だ。

 ナツミは慣れた手つきで料理を並べていく。

「わお!」鮎の塩焼き、飛騨牛の焼き肉、お刺し身、うどんの小鉢、魚のフライ、茶わん蒸し、おみそ汁、おひたし……。さまざまな料理が所狭しと並べられた。

「鮎はね、今日捕れたばかりだから、美味しいよ」手際よく配膳をおえたナツミが言う。

 ナツミといっしょに食べたら、どれほど美味だろう。でも、ナツミは「じゃあ、あとでね」と言いのこすと、そそくさと部屋を出ていってしまった。まだ仕事が残っているだろうし、ふたりで食事なんて、無理だよね……。

「いただきます……」さっそく鮎の塩焼きから箸をつける。まだ焼きたてで、口のなかをやけどしそうになる。でも、香ばしさと白身のやわらかさが、なんともいえない風味を醸し出している。無意識のうちに箸がどんどん進む。夢中になって口に運んだ。そういえば、お昼におだんごしか食べてないんだっけ。自覚はしていなかったけど、体は空腹を感じていたのかも。だから、よけいに料理が美味しい。

「ふう……ごちそうさま」自分でも驚くぐらいの早さで、たいらげてしまった。和食だから、太ることはないと思うけど。それに、これからおどるんだから、体力をつけないとね。

 

 

 夕食をおえ、満足感に浸りながらメイクを直したりしていると、フユミさんがやってきた。郡上おどりに行くなら、ほかの宿泊客といっしょに、会場まで車で連れていってくれるという。私は、夜の街を歩きたいからと、その申し出を断った。

 観光雑誌には書いてなかったけど、郡上八幡は夜のほうが面白そう。

 部屋を出て玄関に向かう。館内は静まりかえっていた。昼間も騒がしかったわけではないけど、なんとなくほかのお客さんの気配はあった。それがいまはない。みんな会場に行ったのだろう。

 受付にただひとり大女将さんがいた。「いってらっしゃい」と声をかけられる。

「あの……ナツミさんは……?」

「みんなといっしょに車に乗っていったと思うけど……」

 そうだよね。私にばかりかまっていられないよね。ナツミはお仕事中なんだし……。

 

 

 すっかり夜が更けていた。人気も少なくなっている。

 吉田川までやってきたので、川のほうへおりていった。真っ暗闇ではないけど、慣れない下駄を履いているから、足もとがおぼつかない。転びそうになりながらも、遊歩道にたどりつく。オレンジ色のカンテラの灯が、さっきより間近に迫る。

 橋の上はおどりの会場へ向かう人が多く歩いていたけど、この遊歩道には人影がなかった。自分ひとりだけの世界に入りこんだみたい。私は川下に向かって歩きだす。

 カランカランと下駄が鳴る。私と、うしろを歩く人の音が重なった。

「マヨ」名前を呼ばれ、振りかえった。

 ──ナツミ!?

「あれ……みんなと会場に行ったんじゃ……」

「またお姉ちゃんとケンカしそうになって車をおりちゃった。マヨの浴衣が見えたから、追いかけてきた」

 なるほど。ナツミをよく見ると、息があがっているようだった。そう。私を追いかけてくれたんだ……。

「ねえ。私といっしょに、ここを歩いてくれない?」意を決して、自分の願望を口にしてみた。

「うん。まだ時間あるし」ナツミは快くOKしてくれた。

 自分ひとりだけだったはずなのに、そこは私とナツミのふたりの世界になった。実際、このとき遊歩道を歩いていたのは、私たちだけだったと思う。

 カンテラは3メートルぐらいの間隔で置かれている。炎は空気の流れに沿ってなびく。照りかえす光で浮かぶナツミの姿も幻想的に揺れていた。

「綺麗……」ナツミがひとりごとのようにつぶやいた。

「そうだね。東京にもイルミネーションはあるけど、これはそういうのとはまたちがうね」

「いや、わたしが言ってるのは、マヨのことなんだけど」

「ちょっと、やめてよね」

 悪い気はしなかった、ナツミに褒められるのは。「ナツミだって綺麗だよ」って言いたかったけど、そんなひとことがいまの私にはとても重く感じられた。だから、口に出すことができなかった。

「マヨは大学3年生だよね。もう、進路は決まってるの?」

「うん。高校の教師」

「わああ。学校の先生かあ。いいなあ。うん。なんかわかる気がする。マヨって、貫禄あるもの。頼れるお姉さんって感じ」

「ナツミは……?」

 途端にナツミの表情が曇った。

「秋から東京の会社に……」

「いいじゃない。なんでそんな顔してるの?」

「わたしには……」そこまで言って、ナツミは口をつぐんだ。

「言いたくなければ、無理には聞かない。ごめんね」

「わたしには、〈テンシ〉を倒すという使命がある。だから、会社はやめようと思う」

 え? 私は驚きを隠せなかった。なんてこと……。ナツミの抱く信念が不幸を招くような予感がしたけど、すでに現実になりかけている……。

「びっくりしたでしょ? わたしのこと変だと思ってるでしょ? わかるよ。マヨの考えていること」

「変というか……」二の句が継げなかった。

「非常識なのは自分でもわかってる。だから、このことはだれにも話してない。お姉ちゃんたちには適当に言い訳して誤魔化すつもり……」

「ナツミにとって、天使を退治することが、それだけ大事ってことだよね……」

「〈テンシ〉は、この街だけじゃない。日本中にいる。ひょっとしたら外国にも」

「外国……?」

 宗教? ナツミは新興宗教かなにかにはまっているのでは? そう思うと、とてつもない不安感が襲ってきた。

「いま、わたしが変な宗教に入信しているんじゃないかって思ったでしょ?」

「い、いや……」ナツミにはすべてを見透かされているようで、ますます不安感が募った。

「たしかに宗教といえば宗教かもしれない。でも、〈テンシ〉の存在は真実だし、実際わたしは何人も救ってきた」

 私になにかできることはある? なんとかしなくちゃ。ナツミをたすけなくちゃ。そんな強い想いがわきあがってきた。

「天使退治って、具体的にはどうするの?」

「〈テンシ〉はやっぱり人が多いところに現れる。それだけ、恋をする人が多いわけだから。〈テンシ〉が出現する情報を集めて、そこを襲撃するの」

「情報は、どうやって集めるの?」

「おばあちゃんのときは、口コミに頼るしかなかったみたいだけど、いまはネットがあるじゃない?」

「あの……私が手伝えることってある?」

「え……?」ナツミは黙りこんだ。私の申し出を予想していなかったのだろう。

「マヨを巻きこむわけにはいかないよ。命をおとすかもしれない」

 いくらなんでもそれはないんじゃない? ナツミがそう思いこんでいるだけ。

 ナツミが真剣な表情で語るたびに、切なくなってくる。もっと、ふつうの人生を送ってほしい。よけいなお世話かもしれないけど、そんな想いで頭がいっぱいになり、哀しみに襲われた。

 ふたりの間にしばらく沈黙の時間が流れる。

 対岸のほうへ目をやると、そこにも灯が並んでいた。カンテラだけでなく、川沿いに建つ家々の窓から漏れる光もある。紺色の空とおなじ色に染まった川。そこに光が揺れながら映っている。

 その光はとてもはかなげだった。夜にしか灯されない光。数時間しか輝いていない光。まるで私とナツミの関係を象徴しているみたい……。

 ふと、視界にナツミの姿が入ってきた。ゆっくりと近づいてくる。両手を私のほうへのばし、そして私の肩を包みこんだ。ふたりの体が密着する。ナツミの髪から立ちのぼる香が私の思考を麻痺させた。

「ありがとう……」耳元でつぶやくようにナツミが言う。

「わたしのこと、心配してくれてるんだね。やっぱりマヨってすごい人。すごく優しい人。ふつうだったら、わたしの話を聞いたら、逃げ出しちゃうのに……」

 私もナツミの肩を抱きたかった。体を包んであげたかった。だけど、できなかった。体が固まって、動けなかった。心のどこかでナツミを拒んでいるの? 奇妙な信念を持っている人だから? いや、ちがう。私は受けいれている。だからこそ、放っておけないと思ったのだ。だけど、ナツミを救う方法がわからない。それがいまはとても哀しい。

「大丈夫だよ、マヨ。わたしは自分の考えが、他人から見ればとても変だってことは十分にわかってる。それに、だれかに迷惑をかけたり、傷つけたりは絶対にしない。それだけは守るから。心配しないで」

「それはわかってる……わかってるんだけど」私の目に涙がたまっているのに気づいた。

「さ。行こ。これから楽しい〈郡上おどり〉が始まるんだから」ナツミが私から離れる。

 私たちは手をつなぎ、会場をめざして歩きはじめた。


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4 郡上おどりの夜

 郡上おどりの会場は〈城下町プラザ〉。そこへ向かう人々で道はあふれていた。浴衣を着ている人も多いけど、Tシャツにジーパン姿の人もいる。おどりには、そんな格好でも参加できるのだ。

 道のあちこちに、祭を盛りあげるためのギミックがほどこされている。

 たとえば、頭上にある大きな提灯。直径は2メートルほど。「郡上踊」と大書きされている。昼間にも目にしたけど、夜は淡い光を放ち、幻想的な空間を彩るのに一役買っている。

 はやる気持ちがおさえきれなくて、足どりが軽くなる。でも、慣れない下駄を履いているので、なんだかもどかしい。ナツミは履きなれているはずだけど、歩幅を私に合わせてくれているみたい。

〈城下町プラザ〉には人だかりができていた。まだおどりは始まっていない。かき氷ややきそばなど、祭には欠かせない出店が並ぶ。

 会場の中央に太鼓がのった屋形が見えた。トラックの荷台くらいの大きさで、屋根がついている。そこで三味線や笛を持った人が準備を進めている。あそこがおどりの中心となるわけだ。

 会場の背後には山があり、頂に郡上八幡城が見える。影絵のような山のシルエットに、ライトアップされたお城が浮かぶ。城下町ならではの光景だ。

「ねえ、なんか食べる? 買ってきてあげる」

「いや、いまはいいよ」夕食を食べたばかりで満腹だったし、これからおどると思うとなんだか緊張して食欲がわかない。

「じゃあ、輪のなかに入ろう」ナツミはそう言って、中心へ進んでいく。私もそれを追う。

 ざわめいていた会場の空気が少し変わった。

「始まるね」私がそう言うと、ナツミは微笑みで返した。

 郡上おどりは、1曲をおどりつづけるのではない。「かわさき」「春駒」「三百」「やっちく」「げんげんばらばら」「猫の子」「さわぎ」「郡上甚句」「古調かわさき」「松阪」という10曲が演奏される。

おどりが始まった。「かわさき」。毎回1曲目はこの曲と決まっているそうだ。

 昼間練習したはずなのに、すでにうろ覚えで、出遅れてしまった。ナツミのステップを見ながら、なんとか形にする。

 はたから見れば不格好だったかもしれないけど、だれかが私に注目しているわけでもないし、べつに気にならなかった。

「あ、うまいじゃない。ちゃんと練習したんだ」ナツミがおどりながら笑う。

 ナツミはさすが地元の人、旅館の娘だけあって、様になっている。

 ──かっこいいな、ナツミ。

 まだ「かわさき」が奏でられているのか、それとも別の曲に移っているのかは、よくわからなかった。笛や太鼓や三味線で演奏されているから、音色は純和風なのに、リズムやメロディーはポップスを聴いているみたいだった。

 音楽に合わせて体を動かすのが、これほど楽しかったとは。大げさに言えば、カルチャーショック。

 ここまでくると、昼間マスターしたはずの振りつけは完全に消しとんでいて、ナツミやまわりの人を見ながら、むりやりそれに合わせているという感じ。でも、ここにいる人がみんな慣れているわけではないから、私だけが特別目立っていることはないはず。

「大丈夫? 疲れてない?」

「うん。平気」ナツミの気遣いが嬉しい。

 始まってからどのくらい時間が経ったかわからなくなってきた。もはや体が勝手に動いている。体中から汗が噴き出しているけど、それがむしろ心地いい。頭が考えるのをやめてしまっているみたい。いつまでも音楽に、そしてこの人の輪のなかに身を委ねていたい……。

 やっぱり私はさびしかったんだと思う。それをずっと誤魔化していたんだ。自分自身を──。

 頬に冷たい感触があった。

 水滴がおちてきたような……。

 もう一度、頬に水がかかる。

 手にも同じ感覚を覚えた。

「雨だ」だれかの声が聞こえた。

 演奏はつづいている。でも、みんなのおどりの動きが少し鈍った。

「雨」「降ってきたね」そんな声があちこちであがる。

「ナツミ、雨……」そう言おうとして、ナツミがそばにいないことに気づく。

 ──どこに行ったの?

 異様な孤独感が急激に心を支配する。なぜそこまで強烈な感情がわいてくるのか自分でも不思議だった。

 雨足は急に強まった。演奏が途切れた。スピーカーからアナウンスが聞こえる。いったん祭を中断するようなことを言っていると思うけど、アナウンスに注意が向かず、うまく聞きとれない。

 ナツミの姿を必死で捜す。

 おどっていた人たちがその場から移動しはじめた。

 私はナツミを捜しながら、とりあえず会場から離れようと思った。

「ひゃあっ」「うわああ」悲鳴のような声がする。

 雨が本降りになってきた。建物の屋根を水滴が激しくたたく音がする。

 傘を取り出す人もいたけど、ほとんどの人が手を頭にやったり、手ぬぐいを被ったりして、しのいでいる。そうしながら、雨宿りのできる場所を求めて右往左往していた。

 会場近くの民家やお店の軒下に避難している人もいた。もちろん、それほど大きなスペースはないから、みんながそこに入ることはできない。乗ってきた車に逃げこむ人の姿もあった。

 ──ナツミ、どこ?

 私は会場から旅館のほうへ向かって歩きだした。ナツミはひと足先に旅館にもどったのかも。私を置いていってしまうなんて考えられないけど、あり得ないと思えば思うほど、焦燥感が高まってくる。

 雨は完全に浴衣に染みこんでしまっていた。早くこの状況から脱したいと思っているのに、浴衣が体に張りついて動きづらい。それがもどかしくてしょうがない。髪の毛からも水が滴っている。

 ──髪?

 昼間の光景が甦ってきた。ふざけてナツミに水をかけたら、異様に驚いた。ナツミは雨を恐れるあまり、私のことも忘れて、一目散に逃げてしまったのでは? 私より、自分の髪を守ったの? その可能性もなくはないのだけど、なんとなくナツミの人柄にそぐわない気がした。そうであってほしくないという自分の願望が含まれているのだとしても……。

 おどりの会場と旅館はそれほど離れていない。歩いて10分くらいの距離のはず。道をまちがえてしまったのか、なかなかたどりつかなかった。道を行く人の姿もほとんどない。道幅も狭くなっている。いつの間にかどこか裏通りに入ってしまったのかもしれない。

 ──最悪。見知らぬ土地で、それも夜に道に迷うなんて……。

 このときはまだ能天気にかまえていた。郡上八幡はそれほど広い街ではない。歩きまわっていれば、いつか見覚えのある場所に出られる。

 ふふふふふ。

 女の笑い声がした。

 私のまわりには、もちろんだれもいない。でも、自分の耳のそばでだれかが笑った。

 近くの家から聞こえたのかもしれない。

 ふふふふふふふ。

 まただ。

 きゃああああああああああああああああ。

 唐突に甲高い声が響きわたった。驚いて思わず歩みを止める。まわりを見わたしても、なにも変わったところはない。

 ふふふふふふふ。きゃああああああああああああああああ。

 笑い声と悲鳴のような声が不協和音を奏でている。何人もの女の声が重なりあっているようだ。

 音は、ヘッドホンで音楽を聴いているときみたいに、頭のなかで鳴っている気がした。

 どっちにしても、ここには長くいたくない。

 私は駆けだした。

 不協和音は、ときどきおさまったり、小さくなったりしている。頭のなかで音がしているように聞こえるのは変わらず、声が私を追いかけているように思えた。

 だれかに肩をたたかれた。

 ──え? そんなばかな。私は走っているのに、どうやって……。

 たしかめるため、立ちどまって、振りかえる。

 だれもいない。

 うしろを向いた私の背中にだれかがぶつかった。

 たしかにぶつかった感触はあったのに、背後に人がいる気配はない。

 私は震えていた。濡れた体が冷えたせいかもしれない。でも、恐怖感もあったと思う。

 ──人間ではないなにかが私のまわりにいる。

 錯覚かもしれない。でも、感覚的には確実に何者かに私は追われている。

 ゆっくりと首を動かして、うしろのほうを見ようとした。

 白い影が視界の端に入った。

 正体をたしかめようと、影が見えたほうに視点をずらした。

 民家の壁があるだけで、とくに異常はない。

 そのとき──。

 民家と民家の間に白い影が現れたり隠れたりしているのが見えた。

 白い布きれがふわふわ舞っているように思える。

 布きれはひとつではなかった。

 遠くのほうにも2〜3枚の布が動いている。

 いや5〜6枚……ん? もっと?

 きゃああああああああ。

 女の悲鳴が頭に響く。

 布きれは浴衣のように見えた。

 風もないのにゆらゆら揺れている。これも祭の余興なの?

 いや、浴衣じゃない。

 人だ。

 人が風になびいている。

 え?

 おかしい。そんなことあるはずが──。

 きゃああああああああ。

 悲鳴はあの人たちが発している──としか考えられなくなっていた。

 いくつかの白い人影が私に近づいてきている。

 道をまともに進んでくるものはなく、民家の壁や屋根を伝ってきていた。

 どう見ても、人間のできる芸当ではない。

〈羽は生えてない。白い服は着てるけど……〉

 ナツミの言葉が頭に浮かぶ。

 もしかして、これが天使?

 私の二の腕がだれかにつかまれた。

 ──遅かった! もっと早く逃げればよかった……。

 ふふふふふふふ。

 私の耳元で笑い声がする。

 うしろからだれかが私の肩を抱きしめている。

 腕が胸のほうへまわる。その腕は見えない。

 私は決意を固め、走りだした。腕や肩にあった感触はいつの間にか消えていた。

 人影のほうへ突っこむことになる。でも走りぬければなんとかなると、理由もなく確信していた。

 ふふふふふ。きゃああああああああ。

 白い人影が発する声があたりに響く。

 腕や足、背中に感触がある。たくさんの人が私のほうへ手をのばし、それがあたっている感じ。私をつかまえようとしている。でも走っているからうまくいかない。そんな状況を想像した。実際には手なんか見えないけど……。

 角を見つけたらとにかく曲がる。これであの人影をまけるはず。

 道がだんだん細くなっていく。

 息があがり、苦しくなってきたので、走るのをやめた。立ちどまらずに、早足で歩いた。

 水が激しく流れる音が聞こえる。街のあちこちにある溝に雨が流れこんでいるのだ。

 むこうのほうで車が横切った。あそこが大通りだ。あそこまで行けば……。

 またしてもだれかが背後から私の肩をたたく。

 ──つかまってたまるか!

 ふたたび走りだそうとすると、腕を力強くつかまれた。

 ──しまった!

「マヨ!」

 背後から声がした。なぜ私の名前を?

「ちょっと、マヨ! なにしてるの!」

 うしろを見た。

 ナツミが傘を差し、もう片方の手で私の腕をつかんで立っている。民家の窓から漏れたほのかな光がナツミの険しい顔を照らしている。

「傘をとりにいってる間にいなくなっちゃって……どこ行ってたの?」

 それはこっちのセリフ!

「こんなに濡れちゃって」ナツミが私を傘のなかに入れながら、タオルを差し出した。私はそれを受けとり、頭や顔を拭う。タオルのやわらかい感触がそのままナツミの優しさを象徴しているみたい。私は少し涙ぐんでいた。それもあわててタオルで拭きとる。

「白い影が……」安心感のためか、私の声はかすれていた。

「見ちゃったんだね……この街の秘密……」ナツミの顔は厳しいままだった。

「私、死んでたの? あいつらにつかまったら……」

「〈テンシ〉に襲われたら、まず意識を失ってしまう。そのまま亡くなってしまう人もいるし、たすかる人もいる」

「死ぬわけじゃない……?」

「でも、マヨが無事でよかった。あんな恐ろしい姿を見たら、ふつう足がすくんじゃうもの」

 恐ろしい? 姿そのものには恐怖は感じなかった。むしろ未知の存在、理屈で説明のつかない相手に対する不安感のほうが大きい。

「さ。宿にもどろ? お風呂に入って体を温めないと風邪ひいちゃうよ」

 私の右腕にナツミの左肩が密着した。その腕をそのままナツミの右肩へまわす。強すぎず弱すぎない力で肩を抱く。

 ナツミが私にもたれかかったような気がした。


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5 旅館の部屋で

 視界があいまいになるほど湯気の立ちのぼる大浴場に足を踏みいれる。玄関や廊下とおなじように、煌々と灯が灯っていることはなく、薄暗い。床はタイルだけど、湯船は岩でこしらえてあり、天然の温泉をイメージさせた。

 シャワーのコックをひねり、頭からお湯を浴びる。自宅のシャワーとくらべてちょっと温めだけど、かえってそれが気持ちいい。

〈お風呂で髪を洗っているとき、だれかの視線を感じることない?〉

 タイミングの悪いときに、よけいなことを思い出しちゃったな。するじゃん。だれかに見られている感じが……。

 カタ。

 いま、音がした? たぶん脱衣場のほう。

 シャワーの湯を頭から浴びたまま、顔を音のしたほうへ向けた。

 脱衣場とお風呂場は磨りガラスで仕切られている。

 そのガラス戸の向こう側に白い影が立っていた。

 ──天使!? ここまで追いかけてきた?

 ガラガラ。

 ガラス戸が開き、人影が入ってきた。

 ほかのお客さんではない。裸ではないみたいだから。

 ──どうしよう?

 さっきの恐怖感がにわかに甦る。

 温かいお湯を体に浴びながら、鳥肌が立っていた。

「お客さん、お背中流しますよ」明るい女の声がした。

 ──え……?

 近づいてくるのは、ナツミだった。

 白い影に見えたのは、白いTシャツに黄色いショートパンツを穿いているからだった。

 すらりとのびたナツミの脚の白さに目が釘づけになる。

「……背中を流すサービスなんてやってるの?」平静を装いながらたずねた。

「うん。ほんとは前もって聞いておくんだけど、マヨだったらいいかなって……嫌?」

「嫌なんてそんな……」

 背中をナツミに向ける。

「わあ……すごい綺麗」

「え?」

「マヨの肌。すごいスベスベ。なにこれ? お手入れとかしてんの?」

「とくになにもしてないけど……」

 どんなささいなことでも、ナツミに褒められると、強烈に心に響いた。

 背中に妙な感触があって、体がびくっと反応する。

「なに? なにしてるの?」

「あ、ごめん。思わずさわっちゃった」ナツミの指が背中を撫でたのだとわかった。その指はすぐにひっこめたみたいだ。

 いや。いいんだけど。さわっても。というより、もっとしてほしいかも……。

 ふいに別の感触が私を襲う。

「あ……」思わず声が漏れる。

「ごめん、痛かった? まだ慣れてなくて」

 いや、いままで味わったことのない感覚に驚いただけ。

 ナツミのタオルが私の肌の上を滑るように動いていく。

「あふ……」なんでこんな声が出てしまうのか、自分でも不思議だった。

「ちょっと! 恥ずかしいから変な声出さないでよね」ナツミの言葉に少し笑いが含まれていた。

 ──恥ずかしいとか言わないで。というより、ナツミ、わざとやってない?

耐えきれずに自分の胸を両手で隠した。ナツミからは胸は見えないけど、自分だけが裸でいることに妙な違和感を覚えた。

 ──ここでは、えっちな気分になっちゃいけないんじゃなかった?

「ねえ、天使に襲われても、死なない人もいるって言ったよね?」自分の気持ちを変えたくて、むりやり話を振った。

「うん……」

「死ぬ人と死なない人、どんなちがいがあるんだろう?」

「おばあちゃんの話では、たすかった人は、あの世で元の世界にもどりたいと思ったんだって」

「あの世ってどんなとこなのかな?」

「自分の想っている人と一生愛しあいつづけることができるって言ってた」

「なんか私のイメージしている死後の世界とちがうな」

「だからもどりたいって思う人のほうが少ないらしいの」

「でも、ナツミはやめさせたい。天使の活動を」

「うん……」

 ナツミの声が暗くなってしまった。この話題を出したのは失敗だった。

「はい、おしまい」ナツミが私の背中にお湯をかけ、泡を洗いながす。

「ほかのところは……洗ってくれないの?」

「え……?」軽い冗談のつもりだったのに、ナツミは絶句した。

「やだ。やめてよね」そう言いながら、そそくさと脱衣場のほうへもどっていってしまった。

 ナツミを怒らせちゃったかと一瞬不安になった。でも、最後にちらりと見せた横顔は笑っていた。

 

 

 部屋にもどると、すでに布団が敷かれていた。おそらくナツミの用意してくれたものだろう。

 布団の上に勢いよく寝転がり、手足をのばした。日本間独特の木目の天井が目に入った。

 激しく雨の降る音が聞こえてくる。

 体を横たえると、一気に疲労感が襲ってきた。同時に、これまでの出来事が甦ってくる。

 郡上八幡のあちこちを流れる水の風景と音。深紅の欄干の橋に立っていたナツミ。郡上おどりのあと出現した天使──。

 すべて今日一日で見聞きしたものなのだ。

 友だちに絶好の土産話ができた。ちょっと脚色したりして話すと面白いかも。そう思うと、心のなかに陽が差してきたような気持ちになった。

 ──でも、ナツミのことは話すべき?

 ……そもそも「ナツミのこと」ってなに? 旅館に美人姉妹がいたこと? 妹さんに観光案内してもらったこと? そのコは天使と呼ばれるバケモノと戦うことに人生を賭けようとしていること?

それとも私がナツミを好きになってしまったこと……? それをすでにおわってしまったこととして話すの?

明日の朝、旅館をあとにするとき、ナツミともさよならをしなければならない。あたりまえだ。私は旅館の泊まり客、ナツミは仲居さんなのだから。

 でも、それでいいの? 私はそれで納得できる? すっきりとした気分で東京へ帰れるの……?

 

 

 いつの間にか、寝入ってしまっていたらしい。記憶にはまったくないけど、部屋の電灯を消し、布団のなかに入っていた。

 雨の音はあいかわらずつづいている。

 ぽた。

 顔に水滴がおちた感触があった。

 ぽた。

 畳の上にも水滴はおちた──そんな音がした。

 ──雨漏り?

 この旅館はたしか2階建てで、この部屋は1階。そもそもお客の泊まる部屋が雨漏りするなんて、考えられるかな……?

 真実をたしかめようと目を開けた。部屋は真っ暗でなにも見えない。かろうじて、天井の中央にある電灯の形だけがうっすらと見てとれる。

 数秒ののち、目が闇に慣れたせいなのか、白いなにかが天井にあるのがわかった。布のようなものが貼りつけてある。

 ──あれ……あんなの天井にあったっけ?

 突然、白い布が動いた。

 天井を移動し、壁際に迫った。

 ──え? まさか!?

 ここで、ようやくあの白い影のことを思い出し、一気に目が覚めた。

 布団から飛び出し、白い布とは反対側の壁際まで退避した。

 そこまでは無意識のうちに体が動いた。壁まで来た途端に全身の力が抜けた。恐怖感が一気に襲ってきて、行動する気力をごっそり奪っていった。

 自分のなかにわずかに残っていた勇気を使って、勢いよく立ちあがり、電灯を点けようと手をのばした。

 電灯のヒモは見えない。手がなにもない空間を動きまわる。

 ヒモが手にあたる感触があったので、しっかり握りこむと、力強くひっぱった。

 一瞬の間のあと、部屋の中が光で満たされる。

 それと同時に、白い影は姿を消して──ない。

 いる。

 まだ。

 壁のところに。

 それは布ではなかった。肉体を持っていた。

 しっかりと存在感のある肉体を白い布が包んでいるのだった。

 よく見ると、それは白髪の人間だった。

 四つん這いの格好で壁に張りつき、ヤモリのように床のほうへゆっくりと動いている。

 白くて長い髪が垂れさがり、顔を覆いかくしていた。

 どん。

 なにかが床におちた。

 おちたのは、私自身で、布団の上で尻餅をついていた。

 白い人の両手が床にとどいた。そのまま両膝を床に置く。

 私は這いずるようにして、壁際へ移動した。

 白い人が顔をあげて、私を見た。

 老婆だった。

 醜い皺が顔に刻みこまれている。

 その目は赤く光っていた。

 いずれにしても、人間ではない。

 私の手になにかがあたった。たぶん枕だと思う。

 一縷の望みに賭けた。この枕を投げつければ、あの人は消える。なぜならこれは幻覚だから。脳がそう認識すれば、目の前の光景は現実のもの──白い人など存在しない──になるはず。

 白い老婆の顔を的にして、枕を投げた。

 枕が白い人を素通りするのを脳が知覚し、幻覚はすうっと消え──ない。

 消えなかった。

 枕は老婆の顔にぶつかり、そのまま下におちた。

 これは幻覚じゃない。

 しゃがんだ姿勢のままうしろにさがる。

 私の背中が壁につく。

 もうこれ以上さがれない。

 老婆が大きく口を開けた。

 口のなかに牙のようなものが見えた。

 きゃあああああああああ。

 あの不快な声が木霊した。

 たすけて。

 部屋まで来ちゃった。

 たすけて。

 早くどっかへ行って。

 たすけて。

 私を襲ってもなんの得にもならないよ。

 たすけて。

 まだまだやりたいことはあるんだから。

 たすけて。

 あなたはだれ?

 たすけて。

 なんのために私を追いかけてきたの?

 たすけて。

 なにも悪いことしてないのに。

 たすけて。

 これはなにかの罰? 報いなの?

 たすけて。

 死にたくない。

 たすけて。

 たすけて。

 たすけて。

 どん。

 左後方で衝撃音がした。

 勢いよくだれかが部屋に入ってきた。

 なにかを老婆にたたきつけた。白い粉か液体があたりに飛び散る。

 きゃあああああああああああ。

 鋭い悲鳴が部屋中に響きわたる。

 老婆が突然立ちあがり、窓のほうへ突進した。

 窓は開いていなかったのに、老婆の姿は消えた。

 部屋の中央に立つ人物を凝視した。

 窓のほうを向いているので顔は見えない。

 その人がその場にしゃがみこんだ。力が一気に抜けたようだった。

 肩で呼吸をしている。息があがっているようだ。

「なんで〈塩〉を使わないの? なんで枕なんか投げてるの?」

 息も絶え絶えに、つぶやくように言った。その声でナツミだとわかった。

「しっかりしてよね……」ナツミが私のほうを見る。疲労が表情に浮かんでいたけど、口元は笑っているように見えた。

「ナツミ!」思わずナツミに抱きつく。体を両腕でしっかりと抱きしめる。ナツミの存在がとても頼もしく思えた。安心感が私のなかに広がった。

「怖かった……ダメかと思った……」私は泣きべそをかいていた。

 突然、ナツミの体が小刻みに震えだした。驚いて、ナツミから体を離す。

「わたしだって、怖かったんだから」ナツミも涙声になっていた。

「だって、何人も救ってきたって……?」

「〈テンシ〉と戦ったのは今日が2回目。前のときはおばあちゃんもいたし」そう言いながら、今度はナツミのほうが体を預けてきた。ふたたびナツミの体を包みこむように両腕を背中にまわす。

 私たちはなにも言わないまま、しばらくその状態でいた。ときどき私やナツミが鼻をすする音だけが部屋に響いた。

「ねえ……」やがて私のほうから口を開いた。「このままじゃ怖くて眠れない。いっしょにこの部屋で寝て?」逡巡するより先に、言葉が出ていた。

「うん……」ナツミは消えいるような声で答えた。

 

 

 ナツミは押し入れにあったもう一組の布団を取り出し、私の布団の横に敷いた。私もその作業を少し手伝ったけれど、ふたりの間に会話はなかった。

「じゃあ、おやすみなさい」ナツミはそっけなく言うと、そそくさと布団に潜りこんでしまった。

「おやすみ……」私は部屋の電灯を消し、布団に入った。

 鼓動がまだ激しく脈打っていた。興奮はおさまっていなかった。

 ナツミのほうに目をやる。暗い部屋のなかで、目をつむっているのか、開けているのかわからない。顔はまっすぐ天井のほうを向いていた。

 私は起きあがって、ゆっくりとナツミのほうへ近づいていった。

 そのとき私は、目が覚めていたけど、やっぱり夢を見ていたのだ。自分でなにをしているのか理解していなかったのだと思う。ほんとうは「たすけてくれてありがとう」と、お礼を言おうとしたはずなのに……。

 私が実際にとった行動はちがっていた。

 自分の唇をナツミの唇に重ねた。

 長い時間ではない。ほんの一瞬。ちょっと接触しただけ。

 でも、ナツミのやわらかい唇の感触は十分に伝わってきた。

 唇を放すとき、ナツミが小さく息を吸いこんだ。しばらく間があり、ナツミは体をそむけてしまった。

「ごめん……怒った?」ナツミがそっぽを向くのを見て、後悔の念が襲ってきた。なんでこんなことをしたの? 自己嫌悪に陥った。

 ナツミから返事はなかった。自分の布団にもどった。

 私は目を開けたまま、天井を見ていた。

 目をつむるのが怖かった。

 一方で、ナツミがそばにいるという安心感もあった。

 ──ナツミがいるから大丈夫。いざとなったら〈塩〉を投げればいい。

 そう思いながら目を閉じたとき──。

「怒ってない」

 ナツミがきっぱりとした口調で言った。



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