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おもな登場人物

◎ハルカ……私立麗宝学園高等部の2年生。この物語の語り手

◎マヒル……同3年生。心霊研究クラブの部長

◎サキ………同1年生

◎ヤヨイ……同3年生

◎マヨ………麗宝学園高等部・国語科の教師。心霊研究クラブの顧問


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プロローグ

 正門に向かって校庭を歩いているとき、小さく歌声のようなものが聞こえた。

 気のせいかなって思ったけど、たしかに聞こえる。注意を払わなければ、かき消されそうなほど小さい声。

 あたりを見まわす。

 校舎のわきに小さい建物がある。たしか物置小屋として使われているところ。その裏でだれかが歌っているんだと思う。

 ──だれだろう?

 歌っている人の顔が見たくて、声のするほうへ足を向けていた。

 思わず吸いよせられるような魅力がその歌声にはあったから。

 建物の間のせまい道を縫うようにして歩いていく。

 少し開けたところに出たと思ったら、目の前にベンチがあった。

 わたしはこの麗宝学園に入学して2年目になるけど、ここへ来たのは初めてだった。

 ──こんなところがあったなんて……。

 ベンチにひとりの生徒が座っている。顔は反対側を向いていてだれかはわからない。

 

〈愛〉って言葉が大切ならば

いろんな人に分けてあげたい

〈愛〉って魔法で癒されるなら

あなたにもかけてあげたい

 

 ギターの旋律とともに素敵な声がわたしの耳にとどいた。さっき聞こえた歌の主がベンチに座っている。

 そして──。

 顔を見なくても、わたしにはだれかわかる。

 ──マヒルさん!

 心臓が鼓動を早める。息も苦しくなってきた。

 なぜなら──。

 ずっと憧れている人だから。いつか告白しようと心に決めた人だから。

 でも、マヒルさんは学校一の人気者。恋敵はたくさんいる。自分なんか相手にしてもらえない。

 それでもいい。だれかを好きになるって、それだけで素晴らしいことだって思うから。

 「あ、センセイ……」マヒルさんがそう言って振りむいた。わたしの顔を見て、先生じゃなかったことに驚きの表情を浮かべた。

 「あ……ごめん……」

 一瞬マヒルさんががっかりしたような顔をする。でも、すぐにいつもの笑顔になった。

 「えっと……ハルカ?」

 自分の名前を不意に呼ばれ、胸に衝撃がきた。

 「あっ、はいっ……わたしの名前、覚えててくださったんですね!?」

 「あたりまえだよ。おんなじクラブなんだし」

 感動。あんまりしゃべったことないのに、マヒルさんの頭にわたしの名前が刻まれていたなんて……。

 「こんなところがあるなんて知りませんでした」

 「知っている人はあんまりいないかも。だから、歌をつくるのにちょうどいいんだ」

 「ご、ごめんなさい。お忙しいところ、お邪魔してしまいまして」

 「いいよ。他人と話すのも刺激になるからね」

 「今度のライブも観させていただきます……っていうか、毎回、観させていただいてます!」

 「知ってるよ。ステージからハルカの顔、見えるから」

 「ほんとですか!?」

 体が興奮のあまりガタガタと震えだした。顔がものすごく熱くなってる。

 もう立っていられない。マヒルさんの前で冷静でいられない。

 「あの、それでは、失礼します。歌づくりがんばってください!」

 「ありがとう」

 マヒルさんが満面に笑みを浮かべ、右手をあげた。

 わたしにだけ向けられた笑顔。一生の宝物だ。

 踵を返して、ベンチをあとにする。

 ──やっぱり告白したい。

 この胸の高鳴りをおさめるにはそれしかない。

 きっとダメだ。付きあってなんてくれない。それでもいい。気持ちがマヒルさんに伝われば、わたしは満足できると思う。

 そうだ。いまはマヒルさんも忙しいと思うから、学園祭がおわったら、自分の想いを伝えよう。

 ふわふわした足どりで校門に向かっていた。

 けれど──。

 このときの願いが叶うことはなかった。

 なぜなら──。

 わたしがマヒルさんに会ったのは──いや、ほんとうのマヒルさんと話をしたのは、この日が最後だったから……。

 


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1 センパイの部屋で

「カヤコ様……ヤヨイさんの好きな人の名前を教えてください」

 〝霊媒師〟のサキが〝霊〟に呼びかける。

 わたしは5人の〝参加者〟のひとりとしてテーブルに座っていた。

 テーブルには、ひらがなを1文字ずつ書いた紙が円を描くように並べられている。その中央に伏せたグラス。〝参加者〟がグラスの底に人差し指をのせていた。

 そのグラスがゆっくりと動きだす。不規則な速度でテーブルの上を滑り、一直線にひとつの紙をめざす。

 〝霊〟が指ししめした最初の文字は「マ」。

 わたしは力を入れていない。いちおうほかの人もグラスを自分の意思で動かさないよう言われている。

 いったん停止したグラスが、ふたたびゆっくりと動きはじめる。

 ──わたしは動かしてない。でも、だれかが……。まさかほんとうに〝霊〟ってことはないよね?

 グラスが次に向かう先は、ここにいるだれもが「ヒ」だとわかっていた。

〈ヤヨイさんの好きな人はマヒルさん〉

 公然の秘密だった。ヤヨイさんは自分の気持ちはまわりに知られていないと思っているみたいだけど……。

 ──ぜったいわたし以外のだれかが面白半分にグラスを動かしているんだ。

「はいっ、おわりっ、終了っ」少し離れたところで見ていたヤヨイさんが立ちあがった。それと同時に、グラスは止まった。

 〝参加者〟たちが顔を見合わせながら、笑いをこらえていた。

 ──やっぱり……ヤヨイさん、ごめんなさい。

 わたしたちがやっているのは〝降霊術〟。もちろん、本物じゃない。ここ麗宝学園の学園祭に向けて、クラブの出し物のリハーサルをしているのだ。

 わたしが所属するこのクラブの名は〈SDK〉(Sinrei Daisuki Ko:心霊大好きっ子)。いわゆる心霊研究クラブだ。

「よっし、本番もこんな感じでがんばろっ!」ヤヨイさんが声を張りあげる。

 でも、わたしにはカラ元気のように思えた。

 マヒルさんは体調不良で学校を休んでいる。わたしはすごく心配だったし、それはヤヨイさんもおなじはずだから。

「あの……本番では、サキの役はマヒルさんがやるんですよね?」

「そうだよ……」いつも元気なヤヨイさんが浮かない顔をしている。やっぱりマヒルさんのことが気になっているんだ。

「もう5日目です……お見舞いに行ったほうがいいんじゃないでしょうか?」

 それを聞いたヤヨイさんは、そばにいたサキと顔を見合わせた。

「ハルカはただマヒルに会いたいだけだろ?」

「そんな……」

 たしかにわたしもマヒルさんが好きだけど、まだ学校中にいるセンパイのファンのひとりに過ぎない。でも、ヤヨイさんは……ヤヨイさんは親友なのだから、もっと心配してあげてもいいと思う。

 ほんとうは自分の気持ちを知られないために、わざと冷たくしているのかな……。

「じゃあハルカ行けば? マヒルん家に」

「え……?」

「たしかにボクもちょっと心配かも……」そう言ってサキがうつむいた。

「ヤヨイさんたちは……?」

「ウチは行かないよ。風邪がうつったら嫌だから」

「ボクも今日は予定が……」

 サキはマヒルさんのことをどう思っているか知らないけど、クラブの部長がずっと欠席しているのに、なんとも思わないの?

 わたしだけだ……マヒルさんをほんとうに心配しているのは……。

 でも──。

 これはチャンスかも。マヒルさんがわたしのことをもっと注目してくれるかも。

「わかりました。わたし行ってきます」思わず弾んだ声になってしまった。

 クラブの時間がおわり、ヤヨイさんからマヒルセンパイの住所を聞いて教室を出た。

 ──マヒルさんは病気かもしれないのに、「チャンス」だなんて……。

 校門を出たところで、少し自己嫌悪に陥った。

 

 

 雨足が強くなっていた。

 雨の日は嫌いじゃない。今日みたいに外を出歩くのでなければ、だけど。

 こんな日は部屋に閉じこもって、雨音をずっと聴いていたいと思う。雨の雫が、屋根とか、庭の緑とか、地面にあたる音を耳にしていると、心が安らぐ気がする。

 マヒルさんの家の最寄り駅は、川の上にホームがあった。駅そのものが橋のようになっている。めずらしいつくり。

 わたしといっしょにたくさんの人がおりたと思ったけど、駅前のロータリーには人の姿がなかった。そもそもバスやタクシーが止まっていない。まわりにお店があるけど、すべてシャッターが閉まって営業していない。

「なにここ? ゴーストタウン?」

 これがシャレにならない冗談だったなんて、そのときは思いもよらなかった……。

 ロータリーを見下ろすようにして、マンションが3棟建っている。電灯の点いている窓もあるから、人が住んでいるのはまちがいない。

 マヒルさんのマンションをめざして歩きはじめた。

 さっきまで電車の発着する音がしていたけど、駅から遠ざかるにつれて聞こえなくなっていた。車が行き来する音もしない。

 パラパラと雨が傘にあたる音。少し水を含んだわたしのローファーが立てるクチャクチャという音だけが響いている。

 見上げるとモノクロ写真のような空。

 ──やっぱりこんな日に歩くのは嫌だな。

 マンションの住人だけが利用する細い道をひたすら歩いていく。

 ──え!?

 視界の端で赤いものが動いた。

 最初は、赤いレインコートを着ている人だと思った。赤といってもあざやかな色じゃない。黒ずんだような、血のような、赤錆のような……。

 頭にフードを被っていて、顔の下半分だけが見えている。口元は心なしか笑っているような……。

 そして──。

 その目はわたしに注がれている。そんな錯覚を覚えた。

 嫌な予感がした。なんとなくだけど、関わってはいけないと思った。

 目をそらして、歩きつづけた。知らず知らずのうちに早足になっていた。

 赤い人が目の前にいた。

 ──いつの間に!?

 目を離したのは数秒。こんなに早く移動できるはずがない。

 歩みを止めず──いや、恐怖を覚えたからこそ止められず、赤い人の横をとおりすぎる。

「ふふ……」

 笑った!?

 恐怖感は一挙に膨れあがった。頭より体が先に反応して、走りだしていた。

 走りながら、足にまるで力が入っていないことに気づいた。早くこの場から逃げ去りたいと思っているのに、足元がおぼつかない。

 手に持っている傘が空気を含み、パラシュートみたいになって、わたしを後方にひっぱる。

 傘なんて差さなければいいのに──と頭の片隅で思いながら、一方で放さないようにしなければという奇妙な使命感もわいた。

 何秒か、何分か……。

 走っているうちに、頭が冷静になり、足を止めた。

 思いきって振りかえる。

 さっき赤装束がいたところにはだれもいない。

 ものすごく息が苦しかった。心臓も激しく鼓動している。

 ──早くマヒルさんに会いたい。

 センパイに会えば、いま心のなかにある不安感は消える。マヒルさんなら打ち消してくれる……。

 

 

 ヤヨイさんの描いてくれた地図を頼りに、マヒルさんのマンションのめぼしをつけた。

 マヒルさんは高校生でありながら、親元を離れ、ひとり暮らしをしているらしい。

 エントランスホールに入る。

 新しそうな建物なのに、なかは薄暗い。照明が壊れているのか、こういうデザインの空間なのか……。

 あたりを見まわす。

 戦慄が走る。

 いる!?

 あの赤い人が。

 わたしを見てる。

 いや、見張ってる。

 そいつはエントランスホールの隅にじっと立っていた。

 人じゃない。

 この世の者じゃない。

 ポン。

 チャイムの音とともに、エレベーターの扉が開いた。

 おりてくる人はいない。

 扉が閉まりかける。

 駆けだした。扉の隙間に滑りこんだ。

 エレベーターのなかも暗い。その暗さで恐怖感が増していく。

 ボタンをおすと、エレベーターが上昇する気配。

 ──早く開いて。

 数秒後、その願いを聞きいれたかのように扉が開く。

 目の前に廊下が一直線にのびていた。その両側にドアが並んでいる。

 やっぱり薄暗い。

 エレベーターをおりる。

 もうすぐマヒルさんに会える──とても嬉しいはずなのに、なぜか足が重かった。

 静寂があたりを支配している。

 それなのに──。

 人の気配がする。

 マンションだからあたりまえ──そう思えなかった。

 あきらかにこの廊下にだれかがいる。それも大勢。でも、視界にはなにも入らない。

 早足になる。わたしの足音が異様に甲高く響いた。

 マヒルさんの部屋の番号をたしかめて、インターフォンをおす。

 音がしない。もう一度おす。やはりなにも聞こえない。壊れてるの?

 そう思ってドアのノブに手をのばしたとき──。

 ガチャ。

 ドアがゆっくり開いた。

 驚いて、一歩うしろにさがる。

 廊下のわずかな光がドアのむこうにいる人物を照らす。

「マヒルさん……!?」

 笑顔だった。

 でも──。

 心がこもっていない。

 ──なぜそう思う?

 目の焦点が合っていない。

 顔はわたしに向けられているのに、わたしを見ていない。そんな気がする。

「こ、こんにちは……具合はどうですか?」

 恐る恐る話しかけてみる。

 センパイはなにも答えない。

 わたしとマヒルさんの間に沈黙が流れる。時間がしばらく止まってしまったみたい……。

 ふいにマヒルさんが奥に消えた。

 少しためらいながら、玄関に足を踏みいれた。

 すでにマヒルさんの姿は見えなくなっている。

「おじゃまします……」意を決して靴を脱ぎ、部屋にあがった。

 まっすぐにやや長めの廊下がのびている。左側にドアが2つ。

 突きあたりにガラス張りのドアがある。リビングルームになっているみたい。

 そこをめざして歩きだす。

 ぴちゃ。

 音がした。水が滴るような……。

 ぴちゃ。

 シンクでもあるのかな。それらしいものは見えないけど。

 ぴちゃ。

 おなじ音。あたりが静かなだけに、少し気になった。

 雨の音が外から聞こえているのかも……。

 リビングルームのドアに手をかけ、ゆっくりと内側に開く。

「失礼します……」

 部屋の主というよりも自分自身を納得させるように小さい声でそう言いながら、なかへ入った。

 綺麗な部屋だった。よく整頓されているし、置かれているものの趣味もいい。マヒルさんのセンスのよさを感じさせた。

 背後に気配がした。肩がびくっと痙攣する。

 その自分の反応に驚きながら振りかえる。

 マヒルさんがすぐ目の前に立っていた。息がかかるくらい、ものすごく近くに。

「マ、マヒルさん……!?」

 全身が一気に熱くなり、汗が噴き出した。

 マヒルさんがゆっくり両手をあげる。そして、その手をわたしの背中にまわす。

 マヒルさんにわたしの体が包まれた。

 ──え!?

 頭のなかが一瞬で真っ白になった。なに? なにが起こっているの?

 体が硬直して動かない。

 とてもいい匂いが鼻をついた。マヒルさんのシャンプーの匂いかと思ったけど、それとはちがうという気もする。

 駅におりてから、ずっと不安感がまとわりついていた。マヒルさんに抱きしめられ、それが薄まっていく。

 マヒルさんの手が、わたしの背中を優しく撫でる。ゆっくりとお尻のほうへ動いていく。

「あ、あの、マヒルさん、わたし、今日はこんなつもりじゃ……」

 嘘。そのつもりだったんでしょ? ヤヨイさんもサキも「行かない」って言ったとき、ちょっと嬉しかったんでしょ?

「ちょ……」

 ちょっと待ってください──そう言おうとしたのに、声にならなかった。

 それでもなんとかマヒルさんから逃れようとして体を離した。

 後ずさりをする。

 センパイは笑顔のまま立っている。

 ──ちゃんと……ちゃんとマヒルさんとお話をしてから……。いまだ。いましかない。

「えっと、あの、わたし、センパイのこと、ずっと前から──」

 センパイの姿がない。

 ──え!?

 背中に気配がする。

 思わず振りむいた。

 マヒルさんがそこにいる。

 ──なに!?  どうして!?

 頭が混乱して、体に力が入らなくなって──。

 気がつくと、わたしの体は仰向けに倒されていた……。

 こんな形で……こんな形でセンパイとこうなりたくなかった──。

 そんな想いが頭をよぎったけど、抗う気力は残っていなかった。

 いや、そんなものは最初からなかったのかも。

 そう。マヒルさんに最初に出会ったときからずっと──。


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2 赤い人たち

 目が覚めた。いつの間にか眠ってしまっていたみたい。

 わたしはベッドに寝ていた。

 裸だった。知らない間に毛布にくるまっていた。

 脱いだ覚えのないわたしのブレザーがベッドの下におちていた。

 体を起こし部屋を見まわす。マヒルさんの姿はなかった。

 たぶんわたしは……わたしは、マヒルさんと愛しあった──愛しあってしまった。

 思い出そうとしても、その記憶がない。でも、とてつもなく幸せな時間だったことは、実感としていまでも残っている。

 どうしてセンパイはわたしと……?

 わたしのこと好き……だったの?

 それとも、だれとでもこういうことするの?

 ヤヨイさんとも……?

 すごく嬉しい気持ちがあるのに、その一方で混乱もしている。

 胸の高鳴りがおさまらない。

 センパイはコンビニかなにかに買い物に出たのかもしれない。そう思って、しばらく部屋で待つことにした。

 ベッドをおりて、制服を着る。

 目の前に本棚があった。

 ──マヒルさん、どんな本が好きなんだろう? センパイと趣味を共有できたら、楽しいかも。

『高校教師入門』

 目に飛びこんできたのはそのタイトル。

 ──センパイ、先生をめざしているのかな?

 そのとなりに赤いブックカバーのかけられた本があった。ほんとは見ちゃいけないんだと思う。でも好奇心には勝てない。

『テンシが貴女を幸せの世界へ導く本 S・タカコ/著』

 ──なんの本?

 そう思ってページをめくろうとしたとき──。

 カタ。

 物音がしたほうに目をやる。おしゃれな机があって、その上で写真立てのようなものが倒れている。

 なにげなくそれを手にとった。

 ──!?

 息を飲んだ。

 マヒルさんが写っている。

 その横に女の人。

 ふたりとも裸。

 しかも、マヒルさんといっしょに写っているのは──。

 わたしのよく知っている人。

 ──マヨ先生。

 麗宝学園の国語の先生と生徒が裸で抱きあっている写真だった。

 写真立てを持つ手が小刻みに震えていた。

 ぴちゃ。

 水がおちるあの音。

 ぴちゃ。

 写真の上に水滴がおちた。

 ぴちゃ。

 そこにまた別の水滴がおちる。

 天井を仰ぎ見る。

 人がそこに張りついていた。

 白髪の老婆。

 わたしを睨んでいる。その目は赤く光っていた。

「ひぃっ」声が出た。

 駆けだした。

 リビングルームから飛び出した。

 玄関から廊下へ出て、エレベーターに突進する。

 ボタンをおす。

 エレベーターの動く音がかすかに聞こえた。

 ──なにあれ? なに? なんなの?

 頭はパニック状態だった。

 カチャ。

 どこかのドアが開く音。

 どこか──。

 さっきまでわたしがいた部屋に決まってる!

 振りかえる。

 白装束の人がこちらに向かって走っていた。

 その人は両手を床につけていた。

 四つ足の動物のようだった。

 ピン、ポン。

 エレベーターの到着する音がして、わたしの背後で扉が開くのがわかった。

 エレベーターに飛びこみ、急いで〈閉〉ボタンをおす。

 白い老婆は目の前に迫っている。

 扉が閉まる。

 閉まりかけの扉の隙間から、白いバケモノが立ちあがったのが見えた。

〈1〉階のボタンをおす。

 エレベーターが動きだす。

 ドン。

 なにかが衝突した音。

 ドン。ドン。ドン……。

 断続的に聞こえていた音が上のほうへ消えていく。

「ふうっ……」息を大きく吐き出した。

 気づくと、バッグとブレザーと靴を胸に抱えていた。自分では拾った覚えがない。

 それらを身につけたところで、エレベーターが到着して、扉が開く。

 エレベーターホールを出て、急ぎ足でエントランスホールに入る。

 ──マヒルさんの家に、あんなバケモノがいたなんて……。

 あいつがなんなのか見当もつかない。

 でも、センパイの様子がおかしかったのは、あの白いお婆さんのせいだ。

 まさか、マヒルさんはあいつにつかまって……。

 ──!?

 だれかが背後からわたしの体をおさえつけた。次に口がふさがれた。

 反射的に体をひきはがそうとしたけど、強い力で抱きすくめられていた。

(いやああっ)

 声が出なかった。

「ふふふ。つかまえた」

 頭のうしろで女の声がした。口をふさいでいるのは、ゴム手袋をした手だった。

「さあ、はやくやっつけよう!」

 別のところから叫び声が聞こえた。

 あの赤いやつだ! それもひとりじゃない。5〜6人がこのエントランスホールにいる。

「ちょっと待て!」わたしをおさえつけていた人が焦りの混じった声を出した。「こいつは〈天使〉じゃない」

 次の瞬間、体が自由になった。

「ごほっ、ごほっ」わたしは胸をおさえてせきこんだ。

「えっ? 人間の女の子?」

「〈天使〉が着ているのは白い服だ。それに外見は老婆の姿だと聞いている」

 ──白い服? 老婆? それって上にいるやつじゃない?

「きゃあっ!」甲高い悲鳴があがった。赤い人のひとりが放ったものだった。

 声の主が床に倒れていた。

 なにかが別の赤装束に衝突し、その人も吹っ飛んだ。

 ぶつかったのは人間だった。

 正確には麗宝学園の制服を着た人だった。

「このバケモノ!」また別の赤装束の人が怒号を放った。

 制服を着た人がすばやく移動する。スカートがひらりと舞う。そこから長くのびた脚がやけに白い。

 気づくと、4人の赤いやつらが床に転がっていた。

 その傍らに立つ制服を着た人──。

 それは、マヒルさんだった。

「しまった、おまえか!?」

 わたしのうしろにいた残りのひとりが怯えを含んだ声を出していた。

 その人はなにか道具を手にしていた。

 銃──のようにわたしには見えた。

 銃を赤装束がかまえる。

 銃口から白い線が飛んだ。発射されたのは液体のようだ。

 ──水鉄砲!?

 白い水を連射するけど、マヒルさんにはあたらない。華麗なステップで、それをかわした。

 センパイが敵との間合いを一気に詰める。

 次の瞬間、最後のひとりが床にくずれた。

 その人に目をやった。胸のあたりが上下しているので、息はしているんだと思う。気絶しただけみたい。

「マヒルさん……これって……?」

 顔をあげると、センパイの姿はなかった。

「マヒルさん……?」

 わたしの声がむなしくエントランスホールに響く。

 ──部屋にもどったのかな?

 そう思ったけど、ふたたびエレベーターに乗る勇気はわたしにはなかった。

 ──救急車を呼んだほうがいい? でもケガをしているわけではないし……。

「うう……」

 ひとりが息を吹きかえした。

 考えるより先にわたしの足が動いていた。

 マンションから飛び出し、駅に向かって一目散に走った。


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3 センパイがわたしの部屋に

「で、マヒルさんはどうだったんですかぁ?」

 サキの声で我に返った。

 どこまでみんなに話せばよいかを昨日からずっと考えていた。電車に乗っているときも、自分の部屋に帰ったあとも、ベッドに入ってからも……。

 赤い人たちや幽霊のことはどうでもよかった。

 マヒルさんは、わたしにしてくれたのとおなじことをマヨ先生にも……。

 考えないようにしようとすればするほど頭にまとわりついてくる。

 やっと消えた──そう思ったときには、すでに夜が明けていた。

 いつの間にか放課後になっていて、気づいたときには〈SDK〉の部室にいた。朝登校してきたこととか、授業を受けたことはまったく記憶にない。

「風邪じゃないけど、ちょっと疲れたから、寝てたみたい……」

 口から出まかせで切りぬけるしかなさそう……。

「マヒルさん、バンドもやってるからたいへんですよねぇ。もうよくなりそうなんですか?」

「いや……もう少しかかりそう」

「困りましたねぇ……マヒルさんがいないんじゃ〈降霊術〉が……」

「ねぇ、学園祭のことじゃなくて、センパイの体を心配してよ」

「え?」サキが面食らったような顔をする。わたしもなぜきつい口調になってしまったのか不思議だった。

「……病気とかじゃ……ないんですよね?」

「そうだけど……」

「じゃあ問題ないじゃないですかぁ」

「なんで、サキはそんなふうにしていられるの? マヒルさんに万が一のことがあったらどうするの!」

 サキは目を見開いてわたしの顔を凝視している。

「……センパイ、大丈夫ですか?」

 涙がこぼれそうになって、顔をそむけた。

 涙の原因は、ひとつはサキに対するいらだち。もうひとつはマヒルさんにもう二度と会えないのではないかという不安感。このふたつの感情が渾然一体となっていた。

 ふたりの間に気まずい空気が流れはじめた。サキがよそ見をしたのを見計らって指先で涙を拭った。

「どうした? なにがあった?」

 背中から声がする。

 マヨ先生! ……振りむけなかった。どんな顔をして先生を見ればいいの?

「あ……先生……いつからそこに?」サキが笑顔をつくって答えた。

「最初から……ハルカ……昨日、マヒルとケンカでもしたの?」

 意を決してうしろを向いた。マヨ先生が微笑みを浮かべて立っている。

 でも──。

 顔がひきつっているようにも見える。

〈生徒と関係を持っている教師〉

 その先入観がわたしの目を曇らせているの?

「いえ……どうしてです?」

「哀しそうな顔をしてるから」

「なんでもありません……」

 ケンカ……。マヒルさんとそんなことになるのはあり得ないけど、でも、そうだったらどんなによかっただろう。

 知りたくなかった。たとえセンパイと先生がそんな関係だったとしても、知らなければこんな思いをすることはなかった。

 でも、わたしは見てしまった──。

「昨日のこと、話してくれる? みんなマヒルのことが気になってるし」

 

 

「ハルカ、昨日の状況を報告せよ」ヤヨイさんが〈降霊術〉の小道具をつくりながらたずねる。

 なんとなく心のなかにモヤモヤしたものがあって、喉が詰まった。唾を飲みこんで話を始めた。

「マヒルさんのマンションに向かう途中、不気味な人を見ました」

「不気味……?」

「真っ赤な血みたいな色のレインコートを着て、立ってるんです。わたしのほうをずっと見て……」

 作業をしていたヤヨイさんの手が止まる。サキはマヨ先生の顔を見た。

「昨日は雨だったし、レインコートを着ている人がいてもいいだろ?」ヤヨイさんがそう言いながら作業を再開する。

「でも、マンションのなかにもいたんですよ? エントランスとか……。おなじ色だし、形もおなじ……そんな格好の人が何人も……」

 昨日の光景が甦ってきて、身震いした。

「……幽霊だって言いたいのか?」

 3人がわたしの顔を不審そうに眺めている。

 わたしだって、自分が突拍子もない話をしていることはわかってる。

 でも、実際に見たし、体験したことだから。

「その赤い人たちに……わたし襲われたんです」

 ヤヨイさんたちが息を飲むのがわかった。

 わたしの話を信じたんじゃない。「ハルカはどうかしている」。3人はそんな目でわたしを見ている気がした。

「体をつかまれて、すごく怖かった……でも、マヒルさんがたすけてくれたんです……」

「マヒルに会ったのか?」ヤヨイさんが驚いた声で言う。

「でも、なんか様子が変で、わたしが話しかけても返事をしてくれなくて……」

 クラブの部屋では、ほかのメンバーも準備に勤しんでいて、楽しい雰囲気に包まれている。

 わたしたち4人のまわりにだけ、暗いムードが漂っていた。

 話をしながら、わたしの心のなかにあったモヤモヤの正体がわかった。

〈マヒルさんが危ない〉

 心の奥底で、そう感じていたから、サキに声を荒らげ、涙がこぼれたんだ。

 だから、話さないと。あの白い老婆の霊のことも。

「それに……」喉の渇きを覚え、ペットボトルのお茶をゆっくりと口に運んだ。「マヒルさんはお婆さんの霊に取り憑かれています!」

「ええっ!?」3人が素っ頓狂な声をあげた。

 部屋が一瞬静まりかえる。みんなの視線がわたしたちに集まる。

 サキが笑顔でまわりに手を振る。「なんでもないよ」という意味をこめて。

 メンバーたちはすぐに目の前の作業に没頭しはじめた。

「ハルカ、霊なんていないんだって、さんざん言ってたじゃないか」ヤヨイさんが少し笑いを含んだ声で言う。

「わたし見たんです! ……早くなんとかしないと……」

「マヒル先輩はお婆さんといっしょに住んでるってだけじゃ……」

「そんなわけないじゃない! そのお婆さんは天井に張りついていたんだから!」

 その場が凍りついたようになる。

 3人はお互いに顔を見合わせた。

「まあ、おちつけよ、ハルカ。おまえが見たお婆さんが幽霊かどうかはわからないけど、まあ天井に張りついていたというのは、どう考えてもふつうじゃない……っていうより、怪奇現象そのものだ。たとえば、ハルカがそのとき夢うつつの状態だったとして──」

「どういう意味です!? ヤヨイさん、なにか知ってるんですか?」

 夢うつつ……ほんとうのことを言われた気がして動揺した。

 先輩に対してきつい口調になってしまい、後悔の念に襲われた。

 ヤヨイさんが少し物怖じしたような表情を見せた。

「いや、だから、たとえばの話だよ。夢を見ているなら、なんでもありなわけだから、婆さんが天井にいても不思議じゃないだろ?」

「まあ、お婆さんというのも、幽霊モノの定番ですよねぇ」

「サキ! ふざけないで」それを聞いたサキが哀しそうな表情を浮かべた。

 わたしはサキに対して怒ってるんじゃない。

 あの幽霊。

 マヒルさんに取り憑いているあの白いバケモノが憎いんだ。

「ほかに気づいたことは?」ことの成り行きを見守っていたマヨ先生がたずねる。思わず目を見開いて先生のほうを見てしまった。

 ──「ほかに」って、先生とセンパイのこと? それをここで言っていいの?

 いいはずがない。いや、わたしは言いたくない。大切なセンパイを汚すようなことはしたくないから……。

「……わたしにはわけがわかりません」

 そう。頭のなかはまだ混乱している。

「あ、そういえば、赤い人たちがわたしのことを『〈天使〉じゃない』って言いました」

 それを聞いた先生は──冷静を装っていたけど──動揺したように見えた。

 

 

「ハルカ」昇降口で靴を履きかえていると、だれかに背中をたたかれた。

「ヤヨイさん!?」先輩は音もなくわたしに近寄っていた。

 いつものヤヨイさんではなかった。なにか思いつめている。そんな深刻な雰囲気を漂わせていた。

「マヒルの家で、見つけたんだよな?」

「え?」

「ハルカも知ってるんだろ? マヒルと先生のこと」

 え!? ということはヤヨイさんも?

「なにも見なかったか?」

 ヤヨイさんがわたしを凝視する。目が血走っている気がする。その気迫に圧倒され、なにも答えられない。

「〈開かずの間〉ってあるよな?」

「はい?」

「あそこには幽霊がいて、メールが送られてくるって噂、聞いたことあるか?」

〈開かずの間〉。学校によくある七不思議のひとつで、いまは使われていない別館の教室のことをみんなはそう呼んでいた。

「メールが来たんだよ。『マヨ先生とマヒルは同棲してる』って……」

 そんな……。幽霊からメールなんて……。そんなことあるはずない。どうしちゃったの? ヤヨイさん……?

 でも──。

 マヒルさんとマヨ先生が恋人同士なのはたしか。だとすると「同棲してる」っていうのも事実だと思う。

 マヒルさんの本棚にあった本──あれは先生のだったんだ……。

 わたしは自分の部屋に置いてある〈写真立て〉のことを思い浮かべた。

 そう。

 持って帰ってしまった。あのバケモノから逃げるときに。無意識のうちにバッグに入れてしまった。

 言えない。たとえ、マヒルさんと先生のことを知っているとしても、ヤヨイさんに写真のことは。

「話してくれ」

「なにも見てません……」

「そう……」ヤヨイさんががっくりと肩をおとした。

 ──いつも明るいヤヨイさんがこんな顔をするなんて……。

 それだけマヒルセンパイに対する想いが強いんだ。そんな人と張りあおうなんて、そんな人を差しおいて告白しようなんて考えた自分が愚かに思えてきた。

「これだけは正直に答えて……マヒルとは愛しあったのか?」

「な……!?」思わずヤヨイさんの顔を見る。先輩は薄ら笑いを浮かべている。

 そういえば──。

 わたしがマヒルさんの家にお見舞いに行こうと言ったとき、むしろヤヨイさんはわたしひとりを行かせようとしていた気がする。

 でも、わたしとマヒルさんがそういうことするのは……ヤヨイさんにとって、それは不都合なことのはず。

 それとも先輩は望んでいたの? わたしとマヒルセンパイが愛しあうことを……。

「いいえ……」わたしはうつむいて首を振りながら、なんとかそれだけを口にした。

「明日、ウチもマヒルに会いにいく。ハルカもいっしょに来てくれるか?」

 

 

 その日の夜──。

 夕食を食べ、お風呂に入った。その間もずっと頭のなかをいろんなものがグルグルしていた。

 ベッドに横になる。昨晩はほとんど眠れなかったから疲労は限界。でも、体は疲れているのに、頭は冴えてしまっている。

 雨の降る音が耳にとどく。

 体を起こして窓を開けた。ひんやりとした空気がゆっくりと部屋のなかへ流れこんでくる。体に粘りついていた水分がさっと消えていく感じがして心地よかった。

 夜の匂いがする。山とか海とか、自然のなかでかぐのとはまた一味ちがう。街の夜には独特の香りがあると思う。

 ふと──。

 視界の下のほうで、白いなにかが動いた気がした。

 目を凝らすと、電柱に据えつけられた電灯が、電線にぶらさがる白くて大きな袋を照らしていた。

 ──ゴミ袋……?

 そんなばかな。なんで電線にゴミ袋が……!?

 袋の形がいきなり変わった。

 袋じゃない!?

 人間だ!

 人が電線にぶらさがっている!

 レスキュー隊員がロープを伝って移動するように、手足をすばやく動かしている。

 それは、白い服を着た人だった。

 ──あの老婆!? マヒルさんの部屋で見た……。

 白い人の動きはすばやかった。電線にぶらさがりながら、こちらに向かってくる──というのは気のせいかもしれない──いや、ちがう。絶対、わたしを狙っている。ここまで追いかけてきたんだ!

 あわてて窓を閉め、鍵をかけて、カーテンをひく。

 ベッドに潜りこみ、布団を頭から被る。

 でも、すぐに思いなおした。

 ──なんで逃げるの?

 ホラー映画なんかを観ていて、いつも思う。よけいに怖いじゃない。こういうときは相手に向きあえ。戦うんだ。マヒルさんの部屋で会ったときだって、逃げださなければ、きちんとたしかめていれば、悶々としなくてすんだかもしれないじゃない? よし、今度こそ、あいつの正体をあばく。夢うつつで見た幻覚だったかどうかたしかめる──。

 あれ? なんか今日のわたし、ずいぶんと勇敢じゃない? 自分でも驚いた。

 こういう場面での、映画とかの展開はこう。勇気を振りしぼってカーテンを開けると、なにもいない。結局、見まちがい、思いこみだから。

 わたしはカーテンに手をかけた。そして、一気に開く。

 ほら、やっぱり、だれもいな──。

 いた!

 窓のむこうに人が立ってる!

「ひゃああああっ!」

 自分でも滑稽だと思うくらい大きな声をあげていた。

 ベッドからずりおちるようにして、床に逃げる。

 コン、コン。

 窓をたたく音。

 やめろ! 幽霊が窓なんかたたくな!

「ハルカ、開けて」

 え?

 声が聞こえる。

 窓のほうを見た。

 やっぱり白装束を身にまとった人が外にいる。

 でも──。

 知っている人だった。

 ──マヒルさん!?

「お願い。開けて」

 わたしはゆっくりと窓に近づいた。

 あとから思えば、軽はずみな行動だったかも。だって、こんなのマヒルさん本人のはずないし、悪霊がわたしをだまそうとしていたのかもしれないし。

 でも、わたしはマヒルさんに操られるように、窓を開けていた。

「セン……パイ?」

 マヒルさんは笑顔だった。でも、なぜか哀しみが伝わってくる。

 ゆっくりとマヒルさんが部屋に入ってきた。「ゆっくり」というより、センパイは宙に浮いているようだった。服はまるでお姫さまの着る白いドレスみたい。裾がゆらゆらと風になびいているように見えた。

 マヒルさんはわたしに覆いかぶさってきた。そのままおしたおされて──いや、ほんとは自分で横たわったのかも──ベッドの上で抱きあう格好になった。

 センパイの唇とわたしの唇が重なる。

 頭の奥に電流が走った。

 マヒルさんには聞きたいことが山ほどある。でも、それはあとまわしでいいと思った……。

 

 

 どのくらい時間が経ったのだろう?

 体から熱がゆっくりひいていく感じがして、睡魔が襲ってきた。

 ──マヒルさんの部屋で愛しあったときも、こんな感じだった……。

 まぶたがゆっくりとおりていくのを自覚しながら、それに逆らえなかった。

 マヒルさんがわたしのすぐそばに横たわる気配がした。わたしの髪をゆっくりと撫でる。

「センセイに……気をつけて……」

 マヒルさんが耳元でそうささやいた──ような気がした。

 先生って……マヨ先生?

 そうだ! マヒルさんとマヨ先生って、ほんとに恋人同士なの?

 そう聞こうとして目を開けたときには、センパイの姿はなかった。

「マヒルさん……」

 もういないとわかっているのに、名前を呼ばずにはいられなかった。

 パジャマを身につけると、仰むけになった。

 窓のほうに目をやる。

 雨はやみ、雲の切れ目から月が見えた。

 その月がぼやけた。涙があふれ、耳のほうへ伝う。

 でも、拭いたりしなかった。流れるままにしていた。

 ──わたし、なぜ泣いているの?

 あらためて月の美しさが身に沁みる。

 ほんとうは無意識のうちに感じていたのだと思う。

 

〈わたしの想うセンパイはもういない〉

 

「ひっ、ひっ、ひっく……」

 嗚咽が漏れた。

 うつぶせになって枕に顔をうずめる。

 こうすれば、大声で泣いてもいいと思った。



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