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知らず手

 

 


ある寺の境内の片隅に、右手と左手が落ちている。


なぜそこにあるのか、どうして手だけが存在するのか参拝客は誰も知る由はない。


なぜならそれは、本堂の脇にある五大尊池の叢に隠れているから、また、そのせせらぎが余りに美しいからだ。よく見ると、人差し指から親指にかけた水かきの部分に、マジックで描かれた目玉が二つと上唇、親指の横腹に下唇が描かれている。


左手が、拳を作り口を動かした。


「腹減ったなあ」


すかさず、右手も拳を作り赤いマジックで描かれた口を動かした。


「腹が減ったなんて、腹がないのにどうしてお腹がすくのかしら」


「この手が欲しているんだよ」


「目が欲しがるというのは聞いた事あるけど、手が欲しがるなんて聞いた事ないわ」


ふと右手が本堂のほうに目をやると、僧侶が箒を手に持ち、ため息をついている。右手は、何かを思い出したように人差し指と親指で輪っかを作ると、


「そういえば僧侶って、昔蕎麦屋をやっていたらしいわよ。参拝客が噂しているのを聞いたもの」


と、最後には半開きの口をしてうっとりとした言い方で、僧侶のほうを見た。


「ほう、それは知らなかった。しかしなぜ君はそんなにうっとりしているんだ」


「あら、僧侶って素敵じゃない。私随分前に一度だけ触らせて貰った事があるの、あのツルツルとした滑らかな坊主頭。蕎麦もきっとあの頭に似て、ツルツルとした喉越し豊かな味だったに違いないわ」


右手は言い終わるとまた本堂のほうに目をやった。僧侶は箒を柱に立て掛けると畳の上に座禅を組み、静かに目を閉じていた。


左手は僧侶の姿を見て言った。


「僧侶も暇なのかねえ」


「そうね、寺なんて暇人しか集まらないところでしょうに」


「ところで僧侶が俺達にマジックで顔を描いてくれたけど、本当は性別はなんだろうか。俺は僧侶が髭を描いてくれたから、なんとなく男の気分でいたが」


「そうねえ、貴方武骨な手をしてるから、貴方の本体はきっと土木関係の大柄な男だったんじゃないかしら」


「君はおそらく女だろう。あかぎれがひどい。きっと水関係の仕事をしていたんだ」


右手はその言葉を聞くと、やはり人差し指と親指で輪っかを作り口を大きく開けた。


「まあひどい! 水関係だなんて。私が水商売してたって言うの? だったら貴方の皺に入り込んでいる白い粉はなに? 貴方の本体はヤクでもキメてたんじゃないの?」


今度は左手が驚く番だった。口を大きく開け水かき部分が今にも裂けそうなほど驚いて見せる。


「失敬な! 君と俺は絶対に恋に落ちないだろう」


「そうね、手社会が途絶えてしまうけれど貴方とセックスは出来そうにないわ」


「そもそも、セックスも何もないだろう、手だけでどうやってやるんだ」


「あら、僧侶が言ってたわ。手と手を合わせれば小さな手が沢山生まれて幸せになれるって」


「そんなに手ばかり増やしても社会に役に立つのだろうか


「さあ」


「さあ」


右手と左手はしばし、手の平を伸ばし休憩した。ここまでしゃべっていると親指の脛が痛くなってくるのだ。


右手が目だけを本堂のほうにやると、僧侶が立ち上がり、うつむきながらブツブツと独り言を言って、奥へと入っていく姿が見えた。


右手は心配になり後を追って声をかけてあげたい衝動にかられた。しかし足がない。僧侶がここに来てくれない限り近づくことはできないのだ。


右手はぐっと拳を強く作り、自分の気持ちを押し殺した。


左手はそんな右手の恋心を知らず、好奇心だけをみなぎらせていた。


「俺達、深大寺から出た事がないが、一体外の世界はどうなっているのだろう」


「だめよ。僧侶に外に出てはいけないってきつくお灸を据えられているもの。それに足がないから外になんて出れやしないわ」


「大丈夫さ。こうやって人差し指と中指を交互に動かしていけば」


左手はそう言うと、最初はゆっくりと動かしていたが、次第にそれは早くなっていき、右手の「ちょっとあんたどこ行くのよ」という言葉を背に、すたこらさっさと呆気なく境内から出てしまった。


 


右手はしばらく左手の残像を追っていたが、やがて諦め、手の平を伸ばし天を仰いだ。


そもそも私はどうして深大寺の、しかもこんな奥まったところにいるのかしら。あの身勝手な左手は一体誰? 私達の本体は今頃どこで何をしているのだろう。


そう思ったが、空は答えてくれない。ただ薄い雲がゆったりと流れ、爽やかな水しぶきがひんやりと伝わるのみだった。


そうしてぼんやりと空を見ていると、遮るように、さっきまでいた左手とは違う新しい左手が現れた。


右手は思い切り全部の指の水かきを伸ばし切り驚くと、新しい左手が、


「驚かせてしまってすみません」


と頭を下げてきた。


右手はその誠実で爽やかな左手に、一瞬にして心を奪われ恥ずかしそうに指をよじった。


よじりながら右手は、斜目で左手を見てみた。それは右手より一回り大きかったが、指の一本一本はまっすぐに伸び、肌は滑らかできめ細かく、手首に向かってつながる筋はしなやかに美しい体をなしていた。


「なんて美しい手」


右手は思わず感嘆の声を漏らした。しかし新しい左手はため息をつき、うなだれた。 


「美しい手などと。こんなに醜い手は、この世に存在してはいけないのです」


新しい左手は、自分の手を痛めつけるように近くの小石に何度もぶつけた。みるみるうちに手は血で赤く染まっていく。右手は慌てて新しい左手と小石の間に自分を滑り込ませた。


「なんて勿体ない。美しい手が台無しだわ」


「いや、こんな手は存在してはいけない」


右手と新しい左手がもみくちゃになっていると、さっきまでいた左手が、華麗な指さばきで戻ってきた。


 


左手は、人差し指と親指を閉じたり開いたりして、息を切らしながら、


「大変なことがわかった」


と新しい左手の下敷きになっている右手に、勢いよく話しかけた。


新しい左手は、戻ってきた左手に気がつくと、さっきの態度とは打って変わって、すぐに手の平を返した。


「どうも初めまし手」


「初めまし手。新人さんかい。随分怪我をしているようだが」


「気にしないでください、大したことはありません」


新しい左手は、親指で人差し指の汚れを取ると、律儀に頭を下げた。


「それより大変なんだ」


「何がよ」


右手はうるさそうに言ってため息をついた。


「実は深大寺の近くに蕎麦屋があった。行列が出来ていたから、一度食べてみようと思って店に入ると、なんとそこのご主人と奥さんは義手なんだ。ひょっとして俺達の体はあの人達なんじゃないか」


「まさか。じゃあなぜ私達は、こんなところにいるの? 寺の、しかもこんな奥まったところに」


その時、新しい左手が小刻みに震えだした。手首の部分が小石にぶつかり、鈍い音をたてている。


右手と左手は顔を見合わせ、慌てて新しい左手に声をかけた。


「どうしたの? 何かあった?」


「俺の話を知ってるのかい?」


「この手が覚えているんだ。あの感触を、嫉妬に狂ったこの手が」


新しい左手は、青く震えながらもその重い口を開いた。


「申し訳ないことをしました。そうです、貴方達はあそこの蕎麦屋のご主人と奥様の手なのです。私はここに来る前、蕎麦屋をやっていました。しかし、あそこのご主人と奥様がやってきて、私の店の隣に暖簾を掲げると、みるみるうちに参拝客はみな、隣の店に行くようになったのです。経営は苦しくなり、私は絶望と悲しみが押し寄せ、それはいつしか隣のご主人と奥様への恨みと変わりました。あの二人の利き手を切り落とせば、あの店はだめになる。そうすればまた、私の店に参拝客が戻ってきてくれるだろうと。そして、私は―」


そこまで言い終わると、新しい左手は悲しそうに本堂のほうへと目をやった。


右手と左手もつられて、本堂のほうへ目をやると、そこには箒ではなくナタを持った僧侶が、血をポタポタと垂らしながら、ふらふらと左手を探していた。


 


右手は驚愕し声も出なかったが、次第に顔は曇り憐れんだ目で、新しい左手のことは見ず、僧侶に向かって言った。


「私はあの人の作る蕎麦、本当に食べてみたかったのよ」

 


この本の内容は以上です。


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