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 ユードフェンリル大陸南部、オルジェス地方には魔境と呼ばれる場所がある。スフフォイル海の向こうに存在する、魔導王国ラミシス遺跡だ。今では立ち入ることもないこの島は、一年を通して常に濃霧がかかっており、大陸からはその様子をうかがい知ることは出来ない。
 魔物が徘徊するおぞましい大地だとか、硫黄と溶岩によって大地が蝕まれ瘴気が発生する地だとか人々の間では囁かれているが、いずれも噂の域を過ぎないものであり、現時点でこの島がどのようになっているのか、正確に確認した探索者はまだいない。

 ユードフェンリル大陸には、北部に二つのバイラルの王国がある。両国ともアズニール暦一〇〇〇年代初頭に建国された、まだ若い国家である。
 ひとつは、いにしえよりの都ガレン・デュイルを王都とするアズニール王国。
 もうひとつは、大都市イストゴーアを王都とするメケドルキュア王国である。
 この二国を興した初代国王、アズニールのカストルウェンとメケドルキュアのレオウドゥールは、若い時分より親交が篤く、二人の少年期にはユードフェンリル大陸南部のラミシス遺跡やエヴェルク大陸の世界樹を訪れるなどの冒険行を重ねていたと伝えられている。彼らの冒険について、正式に文書が記されたことはなく、吟遊詩人の数ある唄がその功績を今に伝えているのみである。
 それによるとカストルウェン達は、ラミシスの王都オーヴ・ディンデを取り囲む四つの塔に入り込み、それらに巣くっていた竜(ゾアヴァンゲル)達を退治して財宝を持ち帰った、とあるが正偽は確認できない。また、歌によれば、どうやら残念なことにカストルウェンとレオウドゥールは、結局のところ王都に入り込むことは叶わなかったらしい。

 魔導王国ラミシスがあった島は、正式な名称がない。
 はるか西方のフェル・アルム島よりなお広大なこの島には、かつて“魔導の時代”にラミシスという魔導王国があった。不死という禁忌を追い求めるラミシス王国と漆黒の導師スガルトは、魔導師シング・ディールと朱色の龍ヒュールリットによって滅ぼされ、以来この地は遺跡と化した。

・ミスティンキル:ドゥローム・五十歳
 炎の司。龍王イリリエンからは、将来ドゥール・サウベレーン(龍)になりうる試練を受けるだろうと言われている。体の中に膨大な赤い魔力を有し、魔導について継承した。しかし、魔導行使にあたって当然知ってしかるべき摂理等、根幹になる知識については全く無知である。

・ウィムリーフ:アイバーフィン・五十五歳
 ミスティンキルの恋人。風の司。今回のデュンサアルの一連の冒険行は、冒険家のたまごを名乗る彼女にとって初の冒険行となった。魔導の解放に際して、ミスティンキル共々立ち会った。ウィムリーフには魔導が備わってないようにも見受けられるのだが……。

・アザスタン:ドゥール・サウベレーン
 龍頭の衛士。金色の角を持つ蒼龍。龍王イリリエンの守護戦士であるが、龍王からの命令を受け、アリューザ・ガルドにやって来た。普段は身長五ラク弱の龍頭の戦士の格好をしている。ミスティンキルとはしょっちゅう憎まれ口をたたきあっている。

・エリスメア:バイラル(ベルドニースびと)・二十歳
 ハーンの娘。ディトゥア神と人間との間に生まれたが、彼女は母親と同じく、人間としての人生を歩むことを決意した。フェル・アルム島のハシュオン卿のもとで魔法の勉強をしていたが、今は魔法学の勉強のためにアルトツァーン王国におり、魔法使いとして生計を立てている。

・ハーン:ディトゥア神族
 またの名を、宵闇の公子レオズス。人間の身体を得てすでに百五十年以上経っているが、未だに若々しい姿を保っている。タール弾きであり、戦士。若干の術も心得ている。滅多なことではレオズスとしての本領は発揮しない。

(一)

 風をかき分け、空を疾駆する。
 ミスティンキルは、眼下に広がる平原が一面、新緑に色づいているのを見て取った。見上げると蒼天の空には純白の雲がいくつも浮かんでおり、それらは春のうららかな陽光を受けて輝いているかのようだ。

(世界ってのは、こんなに奇麗なもんだったのか)
 ミスティンキルは思った。普段見慣れているはずの色であるにもかかわらず、全く新鮮であるように感じ取れるのは、一時期アリューザ・ガルドの色が褪せたためなのだろう。
 普段あるべきものを失ったときの何とも言えぬ喪失感は消え失せた。色が甦ったことを実感出来た喜びといったら、なんと表現していいものだろうか。今のミスティンキルには、目に見える全てのものが網膜に鮮やかに映る。そしてこの山岳地帯の情景の壮大さは、深く胸に染みこむような感動を彼に与えた。

 ミスティンキルがウィムリーフ、アザスタンと共にデュンサアル山を後にしてからしばらく。最初のうちは物質界での翼の扱い方に四苦八苦していたミスティンキルも、ウィムリーフに教えてもらいながら、ぎこちないながらも何とか飛べるようになっていた。今は龍のアザスタンを中心に据えて横一列に並び、デュンサアルの町を目指して飛んでいるのだ。

 だが、何事もなくたどり着けるはずがないことは、先のウィムリーフの言葉からも明らかだ。現に、彼らの前方には幾人かの人影が見えるようになっているのだ。二人の炎の司と、幾人かの兵士達が。
 ミスティンキルとウィムリーフが聖地デュンサアル山に赴くに際して、ちょっとした騒ぎを起こしたのは事実だ。あの時、炎の司としての面子を完全につぶされた、見張り小屋の守人ジェオーレは、おそらく真っ先に、父であり司の長の一人であるマイゼークに事の次第をつぶさに告げたのだろう。

「おお、いるいる。やっぱりウィムの言うとおりだ。あのマイゼーク親子が、兵士を連れて待ちかまえてやがる」
 目の良いミスティンキルは、眼前に映る小さな人影が誰のものなのか、容易に見てとった。彼らもまた空中に浮いているが、こちらの様子にも気づいているためだろう、滞空したままでそれ以上さらに進んでくるつもりはないようだ。特にアザスタンの巨体は、一目見ただけで龍《ドゥール・サウベレーン》であると分かるだろう。
 いくら龍の末裔であるドゥローム族といえども、迫り来る龍に対して、刃を向けたまま突き進むなど愚の骨頂であることは分かっている。龍は彼らドゥロームにとって畏敬の念を払うべき存在なのだから。
 おそらく今の彼らは、予想だにしなかった龍の出現に対して、どのように対処すべきか考えつつ狼狽えているに違いない。

「万が一って事もあるから、風を整えておくわ」
 風の司であるウィムリーフが、空中に文字を描くように左から右へと細かに指を動かす。すると、風を切る音がぴたりと止んだ。もし相手が弓を射てきたとしても矢を逸らすようにと、彼女は風に働きかけたのだ。奇妙な静けさの中、三人はさらに飛んでいくのだった。
「……でも、このまま前に進んじゃって本当に大丈夫なんでしょうね? アザスタンも、ミストもまるで平気な顔をしているんだけど、なんでそんな平然としていられるの? あたしたち、デュンサアルの掟を破っちゃってるのよ?」
 ウィムリーフは心配げに龍の顔を見上げた。
【事はたやすく済む。ウィムリーフが心配することはなにもない】
 アザスタンは、ただそれだけ言った。


◆◆◆◆


 ミスティンキルとアザスタンの予想はたがわなかった。
 そして――デュンサアルのドゥローム達にとっては、龍の飛来など予想出来るはずもなかった。

 両者は、平原と岩山とを隔てている断崖にて対峙することになった。ちょうど真下には細長い吊り橋が架かっている。ミスティンキルとウィムリーフが“デ・イグ(炎の界)”に向かったあの晩、守人をつとめていたジェオーレを出し抜いたちょうどその場所で、皮肉にも再会することになったのだ。
 マイゼークとその息子、そして兵士達は表面上は落ち着き払ったさまを見せている。だが、彼らの胸に秘めた本当の感情は、隠そうとしても隠しきれるものではない。お互いの顔が見て取れるほどの距離にまで近づいた今、対峙する相手の顔には狼狽している様子がはっきりと現れている。おそらく、生きた心地はしていないだろう。アザスタンの巨大な翼の羽音と、しゅうしゅうという炎まじりの息づかいは、彼らに恐怖しかもたらさない。

 口火を切って話しかけてきたのは、マイゼークだった。
〔龍様。ここより先はわたくしどもドゥロームが住まう地でございます。わたくしめは炎の司の長のひとり、マイゼーク・シェズウニグと申す者。隣におりますのがせがれのジェオーレでございます〕
 顔色をうかがうような慇懃なさまで彼は挨拶をし、ジェオーレもぎこちなくではあるが深々と礼をした。
〔そしてこれに控えておりますのは、町の衛兵たちでございます。彼らは武器を携えてはおりますが、決してあなた様に危害をもたらすものではありません。……実は、あなた様の横におります若いドゥロームが、我らの掟を破ったのではないかという疑いがあります。ですので、その者と、後はそこの……アイバーフィンを我らの法の下において裁く必要がありますゆえ、どうかお引き渡し頂きたいと……〕
【ならぬな】
 背中に冷や汗をかきながら、それでも司の長としての体裁を何とか保ちつつ話すマイゼークだったが、蒼龍は彼に最後まで言葉を告げさせることなく、拒絶した。

 アザスタンの声を聞いた者の中には即座に失神した者もいた。龍の言葉は、それそのものが魔力を持つとも言われている。ドゥローム達の筆頭に立って交渉をしようとしていたマイゼークですら、ひっと小さな悲鳴を上げた。彼は額に脂汗をにじませ、なんとか次の言葉を紡ぎ出そうとしたが、出来なかった。
 あわれな司の長を見やりつつ、アザスタンは言った。
【デュンサアルの龍人よ。わしとて遡れば、かつてはドゥロームであり司の長の一人であった者だ。掟破りは、場合によっては厳罰に処されることも知っておるし、この者達がなにをしでかしたのかも承知している。そしてマイゼークよ、お前の立場と行動も理解出来る。だが、その咎《とが》を抱え込んだこの者達を、“デ・イグ”は迎え入れたのだ。――わしは“デ・イグ”にて、龍王様を警護する役をいただいておる、名をアザスタンという。我が名において、わしとこの者達をこのまま行かせてもらいたい】
 龍の言葉は誇りに満ちており、これを拒絶することは、一介の人間にはとうてい出来るものではなかった。ついにマイゼークは折れた。
〔し、しかしアザスタン様……。まことにもって恐縮ではございますが、ドゥール・サウベレーンは我らにとって神にも等しい敬意を払うべきお方であります。あなたのそのご立派なお姿をデュンサアルの町人たちが見れば、必ず驚きましょう。……その者達の犯した罪については不問といたしてもかまいません……ですが、もし差し支えないようでありましたら、アザスタン様はこのままお引き取り頂きたく……〕
【意外と聞けぬ男よな、お前は】
 アザスタンはそう言うと、天に向かって頭を向けると一声、大きく吼えた。

 轟くようなその音をまともに聞いてしまったドゥローム達は、再び恐怖に震えた。ついにはジェオーレすらも失神してしまい、父親マイゼークは彼を抱き留めた。
 もはや顔色《がんしょく》を無くしたマイゼークが再び、恐る恐る龍の様子を見ると、そこには巨体を誇る龍の姿はなく、五フィーレ弱ほどの身長を持つ龍頭の戦士がいた。
「この姿ではどうだ。――これでもまだ不服か? ならばドゥロームの姿に変化《へんげ》してもいいのだぞ」
〔お、お待ち下さい!〕
 慌てふためいた様子でマイゼークが取り繕うとする。
〔龍であるあなた様に、なにもそこまでして頂くことはございません! ……分かりました。マイゼーク・シェズウニグは、炎の司の長の名において、あなた様とそこなる二人をデュンサアルの町へお招き申し上げます」
「賢明な判断だ」
 アザスタンは言った。
〔ひとつお伺いしてよろしいでしょうか。なぜ、あなた様はそうまでして、そこなる者達をかばいなさるのでしょうか?〕

 アザスタンは口元を歪ませるように笑い、言った。
「この両名は“デ・イグ”の中心部まで赴き、龍王様より直々の命を承り、さらには月の界へと向かった。かの地で彼らが成し遂げたことによって、色褪せていたアリューザ・ガルドの色はすべて元に戻ったのだ。今日、目にするこのような景色にな。……この行いは、デュンサアルの掟破りを償ってなお余りあるものであるどころか、むしろ賞賛されてしかるべきものではないか? ミスティンキル・グレスヴェンドとウィムリーフ・テルタージ。これなる両名は、大事を成し遂げた者達なのだ。それゆえに司の長マイゼークよ。――龍王イリリエンの御名をお借りして、誉れ高き両名の身の安全をすべからく確保するよう、そなたに命ずる!」

 してやったり。
 ミスティンキルは腕を組み、余裕の笑みを浮かべてマイゼークを見やった。その視線に気づいたマイゼークは、さも悔しそうな様子で彼を一瞥すると身を翻し、まだどうにか平静を保っている残りの兵士達に告げた。
〔予定していた事項は……取り消しだ! 我々はかの方々を、“集いの館”へ――司の長の集う館へとお連れ申し上げることになった。……以上!〕
 デュンサアルのドゥローム達はこうして、ミスティンキル達を先導するかたちで町へと戻っていくのだった。


◆◆◆◆


「え?! ……ちょっと待てよ?」
 突然思い出したかのように、ミスティンキルは声をあげた。彼はウィムリーフの側まで飛んでいくと、彼女に問いかけた。
「今までお前の姓を聞いたことがなかったから、アイバーフィンってのは自分たちの姓を人に名乗らないもんなのかと思ってたけど……ウィムリーフ・テルタージ、さっきそう言ってたよな? なあ、アザスタン」
 アザスタンは頷いた。そういえば月の界で魔導を解き放つに際しても、ウィムリーフ自身が名乗っていたではないか。テルタージという姓を。

 冒険家テルタージの名は、アリューザ・ガルドに広く知れ渡っている。彼らは夫婦であり、前人未踏の地域を探索する冒険家として名を馳せた。とくにアズニール暦千百年代の初頭に世に出た「天を彷徨う城キュルウェルセ」の冒険行は、名著として今も広く知られているものだ。文字の読めないミスティンキルも、故郷の島を時たま訪れてくる吟遊詩人の歌を通して、幼い頃から彼らの冒険行を何度か聞いた覚えがある。

 ウィムリーフは照れくさそうに鼻の頭をかきながらミスティンキルに言った。
「この冒険が終わったら、あんたに明かそう、とずっと思ってたんだけどね。そう。あたしの姓はテルタージ。ひょっとしたら隠す必要なんてないのかも知れないとも思ったけど、『冒険家テルタージの孫娘』っていう色眼鏡を付けられて見られるのだけはいやだったから、名乗らなかっただけ。気を悪くしないでね、ミスト」
「いや、別に怒ったりはしねえけど……びっくりした。じゃあ、ウィムが冒険家を目指しているってのは、やっぱり冒険家テルタージの影響なんだな。しかし……そうか。おれはずっと、テルタージはバイラルだとばかり思っていたけど、アイバーフィンだったとはなぁ。まだ健在なのか?」
「今はお婆さまのふるさとで静かに暮らしてるっていうふうに聞いてる。あと、本当のところを言っちゃうと、お爺さまのほうはアイバーフィンじゃないらしいの。セルアンディルだっけな? 今のアリューザ・ガルドにはいないとされてる種族の末裔らしいんだけど、詳しいところはあたしはあまり知らないのよ。……でも、あたしがこうして大きな魔力を持っているのは、多分お爺さまお婆さまの血の影響なんじゃないか、っていうふうには言われたことがある。とにかく、あたしが冒険家になりたいと思ったきっかけは、あたしも“冒険家テルタージ”のように名を馳せたい、と思ったから。それは違いないわ」
「おれたちがやり遂げた冒険行ってのも、テルタージの冒険に負けないくらいすごいもんだろう?」
「そう! とてつもないことをあたしたちは成し遂げちゃったのよ! 帰ったら早速今回の出来事を思い出せるだけ思い出して、書き留めなきゃね! もちろんミスト、あんたにも手伝ってもらうからね!」
 熱い意志を秘めた口調で言った後、ウィムリーフはミスティンキルに、にこりと微笑んだ。その屈託のない微笑みから、これからしばらくの間こき使われることを予見したミスティンキルは、重い溜息をつくほかなかった。



(二)

 アルトツァーン王国の王都、ガレン・デュイル。
 その王立図書館に通い詰めていたエリスメアは、ようやく最後の本を写し終え、おもむろに原本を閉じると、窓から外の景色を見やった。

 小高い丘の上に建築されたこの図書館からは、城下町の様子がよく分かる。町の中心を流れるヘイネデュオン河は空の色そのままに青く映え、ファルビン様式の赤い屋根の家並みは日の光を受けて鮮やかに彼女の青い瞳に飛び込んでくる。時はすでに昼近くになっているため、家々の煙突からは煙が立ち上っている。そんないつもと変わらない情景が今、ようやく人々の暮らしに戻ってきていた。
(ふう……。平和っていいものねえ)
 エリスメアは、三日前までの市中が混乱した様を思い起こし、あらためてそう思うのだった。


◆◆◆◆


 この都市、ガレン・デュイルは、遡ること二千年近く前に作られた、いにしえよりの都である。
 古くはイクリーク王国の王都であったこの城下町は、無事平穏のまま今日まで続いてきたわけではない。二千年という歴史の中では、血みどろの戦乱や黒々とした陰謀が渦巻いていた時代もあったが、それすら色褪せてしまうような大惨事が過去の歴史には刻まれているのだ。

 今より千五百年ほど昔。この世界には統一王国であるイクリーク王朝があった。当時まさに文化の爛熟期にあったイクリークであるが、腐敗が蔓延していた王朝そのものの没落の兆しは隠しきれるものではなかった。偶然にも、それと時を同じくして、世界のありとあらゆる事物の色が薄れていったのである。
 アリューザ・ガルドにおける色褪せは、今回が初めてではなかったのだ。
 当時の人々はこの超常の現象に恐れを抱くが、魔術の研究がまだ行われていなかったこの時代では原因も掴めず、なすすべがなかった。やがて厭世の空気が世界を覆い尽くし、終末の退廃した雰囲気に満ちていったのだった。

 時のイクリーク国王であったアントス家のタイディアは、魔術の異端書に没頭し、ついには不死の研究という禁断の領域にまで足を踏み入れてしまった。酸鼻きわまりない禍々しい儀式の果てに、魔族のごとき異形と化したタイディアは、魔界の住人を喚び寄せてしまったのだ。そして神々の時代において暗黒の宙に封印されていた“黒き神”冥王ザビュールがついに呪縛から解き放たれ、人間の世界アリューザ・ガルドに降臨。さらにはかの神が本来住まうべき場所である魔界《サビュラヘム》に至り、アリューザ・ガルドとの次元の接点を解放してしまったのだ。
 人類史上において最大の惨禍である、“黒き災厄の時代”はここにはじまったのだ。

 事の発端を引き起こした国王タイディアを屠れば、ザビュールに一矢報いることが出来ると考えたイクリーク王朝の諸卿は、魔族と化した国王を暗殺したが、その報復たるやおぞましいものであった。麗しい王都ガレン・デュイルは、火山が直下で爆発したかのように一瞬にして吹き飛び、すぐさま襲来した魔の眷族によって地獄絵さながらの大殺戮が行われたのだ。流域のヘイネデュオン河は血のために真っ赤に染まり、見せしめのために杭で貫かれた死体は、廃墟と化したガレン・デュイルを取り囲むほどの数に至ったと伝えられている。

 それから三百年を経て、ディトゥア神の一人、“宵闇の公子”レオズスが聖剣ガザ・ルイアートを、アントス家の末裔であるイナッシュに渡した。彼ら二人は魔界《サビュラヘム》に乗り込み、ついにはザビュールを打ち破った。これは『イナッシュの勲』に語られるとおりである。

 ザビュールの暗黒の支配が終焉を迎えてから五百年経った後、イクリーク王朝の後継である東方イクリーク皇国によって現在の都市の基盤が形成され、今はアルトツァーン王国の王都となり大いに発展しているが、冥王による暗黒の時代の恐怖がどのようなものであったかというのは、人々に今なお語り伝えられるものである。


◆◆◆◆


 だからなのだ。ガレン・デュイルの住民達が、先頃の“色褪せ”について過敏なまでに反応し、恐れおののいたというのは。
 かの冥王が復活したのだ! と誰かが声高に叫ぶと、それはすぐさま町中に蔓延した。ガレン・デュイル中が恐慌状態に陥るのには一日とかからなかった。

 魔術をなりわいとする者達や、権威ある学者達の意見も二つに分かれた。アリューザ・ガルドの色が褪せたことがザビュール復活の遠因となると唱える一派と、それとは反対に、ザビュールとは全く関連性がないと唱える一派である。
 アリューザ・ガルドに現存するただ一人の魔導師ハシュオン卿に師事しているエリスメアは、今回の件は全くザビュールとは関係がないと考えた。師と同様に彼女も、色が失われた背景には魔導が絡んでおり、色褪せたというのはおそらくは“原初の色”のなにかしらが働かなくなったためだろう、と推測したのだ。そして結果として、今となってはそれが正しかったことが実証された。
 だが混乱のさなかにあった当時、いくら彼女が声高に、意見を異にする者達を相手に説得しても、「机上の論理に過ぎない」「確証がない」などと言われるだけだった。また、さらには町の人々を説得し、騒ぎを沈静化しようと必死になったが、恐るべき冥王からどのようにすれば身の安全を確保できるか、という考えのみにとらわれ怯えていた人々の心に届くはずもなかった。そうこうしているうちにエリスメア自身も、役人達やほかの魔術師達と同様、市中の秩序の回復に手一杯となってしまい、ここ二週間ばかりは魔導の勉強どころではなかった。もっとも、ガレン・デュイルの図書館で学ぼうと思っていたことの大半はすでに終えていたのではあったが。


 外の景色を見ていたエリスメアは、ふと真下を見下ろした。石畳をめぐらせた図書館の入り口には、こぢんまりとした噴水台がひとつおかれ、中央に座す婦人の彫像が抱え持つ大きな瓶からは水が流れ落ちている。そして、その噴水の傍らには、いかにも所在無さげに腰掛けている一人の金髪の青年の姿があった。“彼”はもうここに来ていたのだ。
(急がなきゃ……)
 そう思ったエリスメアは窓を閉め、『未踏の地ラミシス ~カストルウェンとレオウドゥールが行いし、魔導王国ラミシス遺跡の冒険行について――数多くの吟遊詩人の歌より~』と題された原本と、自分の写本を手に取ると、そそくさと読書室を後にした。


◆◆◆◆


 魔術師エリスメア・メウゼル - ティアーは、今年二十歳となったベルドニースびとである。彼女の母親は生粋のベルドニースびとであるが、父親は金髪碧眼こそ持ち合わせていたものの、同じ氏族ではなかった。いや、正確に言えば人間ではなかったのである。
 彼女の父親はディトゥア神族の一人。“宵闇の公子”の二つ名で世に知られる、闇を司る神レオズスなのだ。

 レオズスはかつて“魔導の暴走”の脅威を消し去ったが、その後にアリューザ・ガルドに恐怖を持って君臨したという過去を持つことから、未だに一部の人間達にはさも恐ろしい神であるかのように誤解されている節がある。しかし、その時のレオズスは太古の“混沌”の力に魅入られ、本来の自分を失っていたのだ。
 忘れてはならない。かつてイナッシュと共に魔界《サビュラヘム》に乗り込み、冥王と対峙したもう一人の英雄が誰であったかを。
 それに“闇”そのものも忌み嫌われることもあるが、闇無くして光もまた存在し得ないのも事実であるし、また闇の意味するものはけしておぞましいものばかりではない。夜の静寂、安らぎとなどといった事象をも闇は司っているのだ。

 エリスメアの父がレオズスその人であるということは、彼女の家族や、魔法の師匠であるハシュオン卿を除いては誰も知らないことである。彼女にしてみれば、“神の子供”という事実を知られたとしても別にかまわないと思っている。しかし人間達の中にはエリスメアを利用しようなどと考える輩がいないとも限らない。母と同じく人間としての生を選んだ彼女には、神としての力などないというのに。

 エリスメアは、アリューザ・ガルド北西部に位置する島、フェル・アルム島で生を受けた。彼女の母であるライニィ・メイゼルは、西方大陸《エヴェルク》のフィレイク王国からフェル・アルムに移り住んだ商家の娘だ。この一家はかねてよりハシュオン卿からの信頼を得ており、ライニィに娘が誕生した折りにはハシュオン卿直々に“エリスメア”という名前を授かったのだ。
 母ライニィはそれからも変わらずフェル・アルムにて商いを続けているが、父であるレオズスはあまり姿を現すことがない。彼は、失われた聖剣ガザ・ルイアートを見つけ出すという使命をその身に担い、常にアリューザ・ガルドやそれ以外の諸次元を彷徨しているため、なかなか家族と一緒に過ごす機会がないのだ。
 それでもこの一家は強い絆で結ばれている、というようにエリスメア自身は感じている。

 エリスメアに魔法の素質があると見抜いたのは、父レオズスだった。レオズスはエリスメアの家族と相談した後に友人のハシュオン卿に掛け合い、娘が学校を卒業した後には魔法を教えてやって欲しいと頼んだのだ。
 ハシュオン卿はバイラル族ではなく、森の民エシアルル族である。彼はすでに千年以上の長きに渡り生きてきたのだが、ついに老いの時期を迎え、近年では自らの後継者が欲しい、とレオズスにこぼしたこともあった。単なる一介の魔法使いではなく、魔導師としての知識を習得した人間にこそ自らのすべを継承させ、後世に魔導学を遺して欲しいというのが、アリューザ・ガルドに現存する唯一の魔導師ハシュオン卿の切なる願いだったのだ。
 それゆえにエリスメアの才能が魔法に突出していたという事は、ハシュオン卿にとっても大いなる朗報だった。彼はエリスメアを弟子とし、それから六年間かけて自らの手元で魔法について教えたのだった。彼が弟子に教え説いたのは魔法や魔導についての知識や発動法のみならず、魔法が世界においてどのような役割を果たすべきか、ひいては世界と魔法との力の相関関係をも含んだ非常に高度な内容であった。若い弟子は、時折師匠に反発しながらも、賢明に教えを吸収していき、十六歳になる頃には当代一の魔法使いとなっていたのだった。

 彼女はその後、師の元を離れて西方大陸《エヴェルク》へと渡り、魔法使いとして生計を立てて実社会に身を置きながら、魔法の修行に励む道を選んだ。フィレイク王国王都ファウベル・ノーエに二年間滞在した後、さらに海を渡り東方大陸《ユードフェンリル》のアルトツァーン王国王都ガレン・デュイルで生活をしていた。

 そろそろ師匠の元に戻り再び魔法についてさらに教えを請おう。彼女がそう思い始めた矢先のことだった。父レオズスから魔法を使った伝言が彼女の元に届いたのは。


 ~ エリスメア、元気かい? なかなか会える機会が無くて申し訳なく思ってる。
 さて、いきなり唐突なお願いとなってしまい申し訳ないのだが、父と一緒に旅に出てはくれないだろうか? 向かう先はユードフェンリルの南部、ドゥローム達が住むデュンサアルという場所だ。
 今回の件については、君の師であるハシュオン殿からも許しを頂いているし、何よりエリスにとってもいい修行の機会になる、と思う。
 この手紙が届いてからきっかり五日後の昼に、エリスの元に行くつもりだ。詳細はその時に話したいと思う。

 天土すべての聖霊たちが、君に祝福をもたらすことを願って。
 愛する娘エリスメアへ 父レオズス、またの名をタール弾きのティアー・ハーンより~


◆◆◆◆


 図書館の扉の前に立ったエリスメアは、高鳴る鼓動を少しでも抑えようとするかのように、これから待ち受ける旅への決意のほどを新たにするかのように、大きく息を吸い込み、そしてはき出した。
 そうして堅牢な扉をぎいっと開け、外へと一歩踏み出す。
 薄暗がりの図書館から一転して、外の景色は明澄で、目に映る全ての事物が日の光を反射しているかのようだ。一瞬エリスメアは眩惑されたが、すぐに目が慣れた。埃くさい図書館の匂いとは違い、外の空気は実にすがすがしい。
 真正面に目を向けると、そこには噴水がある。そして、久しく会ってなかった父の姿があった。思うより早く、エリスメアは彼の元へと駆けだしていった。
「父さま!」
 その声に父レオズスは振り返り、駆けてくる娘に笑顔で手を振って応えた。

 こうして、彼ら父娘の旅は始まったのだった。

(一)

 夢。
 眠りに就いている時、人はしばしば夢を見ることがある。たとえばバイラルの商人だろうと、数百年を生きているエシアルルの民だろうと関わりなく、誰しも夢を見るものだ。
 けれども朝起きた時、夢の内容をどれくらい把握しているかについては人それぞれだ。情景や登場人物などが薄ぼんやりとしか思い出せない者もいれば、夢物語の内容や夢の中の人物が喋った言葉まで的確に把握している者もいるのだ。

 ミスティンキルとウィムリーフは、この点において大きな違いがあった。まだ二人がアルトツァーン王国内に滞在中だった時分に、今朝見たお互いの夢の中身について何度か話題にしたこともあった。たいていの場合、ミスティンキルはほんの半刻前に自分が見ていた夢ですらあまり覚えておらず、逆にウィムリーフはどういった場所に誰が登場してどんなことを喋ったか、という詳細まで明確に覚えていたものだった。
 どのような夢を見たかを忘れがちなミスティンキルが、ある程度夢の内容を覚えている時というのは、決まって彼が悪夢にうなされた翌日のことだった。九ヶ月前、彼は辛い思いと共に故郷をあとにしたわけであるが、それまでに蓄積された心の傷はそう簡単にふさがるものではない。たまに“夢”というかたちをとって、自分一人の胸の内に抱え込んだ憤まんが傷跡から膿のようににじみ出てくるのだった。
 夢にうなされるという経験を持たないウィムリーフは、苦しむミスティンキルの様子をただ見守ったり、夢を見たあとに彼をなだめるほか無かったものだ。

 それが、ここ最近になって変わってきた。
 原因のひとつは、月からデュンサアルに帰ってきてからというもの、二人に対する待遇がそれまでと大きく変わったことだろう。デュンサアルに到着したばかりの時、彼らは冷たくあしらわれたものだ。ミスティンキルは“ウォンゼ・パイエ(海蛇の落人)”と司の長から罵られたし、ウィムリーフに至っては身の安全のために髪を黒く染め上げ、自らがアイバーフィンであることを隠していたのだ。
 だが今や二人はちょっとした英雄待遇だ。世界の色を取り戻すために冒険をした、という事実によってデュンサアルやその付近の村人達は彼らを歓迎し心を開くようになり、一緒に旅を続けてきた吟遊詩人からは、二人を讃える唄を作らせてほしいとせがまれるようになった。炎の司となったミスティンキルは、司の長の筆頭であるエツェントゥーから一目を置かれる存在になったし、ウィムリーフも銀髪であることを気にせずに出歩けるようになった。デュンサアルの住民は、外に住まう者に対してもっと心を開くべきだ、という意見がもっともらしく聞かれるようになったのもつい最近のことだ。
 “聖地を守護する選ばれた者”という事はデュンサアルに住むドゥロームにとって大いなる誇りであったが、その誇りは知らず知らずのうちに驕慢と化し、いつしか古いしがらみから抜け出せなくなってしまっていた。
 ミスティンキル達二人の存在は新たな風となり、凝り固まったデュンサアルに大きな波紋を起こした。新しいデュンサアルが、これからようやく形成されていくのかもしれない、そんな期待を大いに抱かせる昨今であった。

 そしてミスティンキルもまた、過去のしがらみから解き放たれたのだ。
 魔導の封印を解き放って月の界から帰還してから早二週間が過ぎようとしているが、およそウィムリーフの知る限りではミスティンキルは夢にうなされたことがない。ドゥロームとして“炎の司”という確固とした立場を自分の力で築き上げたことと、色の異変を正したという大きな事柄をやってのけた達成感が、彼に本当の自信をつけさせたのだろう。
 それまで忌むべきもの以外の何ものでもなかった赤い瞳は、今や彼の魔力をあらわす象徴であり、ミスティンキル自身の誇りとなった。
 ミスティンキルにとっての悪夢は終わりを告げたのだ。

 ウィムリーフは――変わらず夢にうなされることなどはなかった。しかし、それまでとは何かが違って来つつあるのを彼女自身認識していた。


◆◆◆◆


(……あの夢の……続きか……)
 自分でも気が付かないうちにいつしか机に伏していたウィムリーフは、ふとした拍子に目を覚ました。窓から差し込む光はすでに弱まっており、日が暮れて間もないことをウィムリーフに教えるのだった。気だるげな面持ちのまま部屋の周囲を見渡すが、ミスティンキルの姿はない。先刻、彼女が本を読んでいる時分には部屋にいて、所在なさげに椅子に腰掛けていた彼だったが、ウィムリーフが寝てしまったためだろう。おそらくはこの宿から外に出て、今頃は近くの酒場で気の合ったドゥローム同士と酒を酌み交わしているに違いない。
 これが冒険記の編纂中であれば、ミスティンキルに手伝ってもらうために有無を言わさずに彼を酒場から連れ帰ったこともしばしばあったが、編纂が無事に終わった今となっては、彼の憂さ晴らしをわざわざ邪魔しに行く必要もない、とウィムリーフは思い、再び机に突っ伏した。
 目を閉じると、先ほどまで見ていた夢の様子が再現されるようだった。生来、夢の内容をよく覚えているウィムリーフだったが、とくにここ最近の夢は、奇妙とまで言える現実感を伴っているように彼女には思えた。夢の情景や出来事は荒唐無稽なものではなく、きちんとした現実性を持っていたし、一日前の夢の続きを見る、などといったこともしばしば起こっていた。

 夢の中の彼女はどこかの宮殿にいるようだった。純白の壁と黒々とした床、銀の装飾物によって形成された、美しくもどこか寒々しさを感じさせるこの宮殿内部の情景は、ウィムリーフがこれまで実際見た覚えなどまったく無い。少なくともフィレイク王国やアルトツァーン王国、さらに彼女の生まれ故郷のティレス王国のどの建築様式とも異なっている。しかし奇妙なことにウィムリーフの意識は、どういうわけかこの情景に対して懐かしさ、親しみすらをも感じるのだった。この宮殿は、どこにあるのだろうか? 聞くところによると、西方大陸《エヴェルク》のファグディワイス王国などは、彼女が知っている国とは赴きを異にしているらしいが、この夢の舞台はその辺りなのだろうか?
 昨晩は、部屋にいたところを誰かに呼ばれて外に出るところで夢が終わったが、今し方はまさにその続きを見ていたのだ。

 居室から廊下へと出たウィムリーフの意識は、迷路のように複雑で曲がりくねったその回廊を、迷うこともなく目的の場所に向けて歩き続けた。途中、廊下を横にそれて階段を上ると再び回廊が延びている。渡り廊下ともなっているこの回廊はひたすら真っ直ぐ続いており、外の景色が見渡せるようにと大きめの窓がいくつもくり抜いてあるのだった。
 時は夕刻。間もなくすれば回廊に連なる豪奢な燭台には赤々と炎がともることだろう。大きなガラスの一枚板をはめ込んだ窓からは中庭の様子が一望でき、あたかも氷でこしらえたかのような透明で見事な彫刻が、庭の中央と四隅と合わせて五体、堂々と構えているのが見える。あれら、見たものに畏怖すら感じさせるかのような大きな彫刻は、どこに住まう動物達を象ったものなのだろうか? 彼女は皆目見当がつかなかったが、少なくともアリューザ・ガルドの生物ではないことは分かった。
 はたと、再び誰かに呼ばれた気がして視線を廊下に戻したちょうどその時――ウィムリーフは夢から覚めたのだった。

 なぜ、このような夢を見るようになったのだろう?
 その原因は分からないが、分かっていることがひとつだけあった。それは、夢を見始めた時期というのは、彼女がラミシス遺跡を訪れたいと願うようになった頃――二日前と、奇妙なことにちょうど一致する、ということだ。あの夢の情景はもしかすると、ウィムリーフの願望が創り出した、在りし日のラミシスなのかもしれない。
 ウィムリーフは体を起こし、ぼさぼさとなった髪の毛を手櫛で整えると、寝入る前に読んでいた本に手を伸ばし、再び続きを読み始めるのだった。彼女がここ二日ばかり夢中になっている本。その表紙にはこう題名が書いてあった。
 『未踏の地ラミシス ~カストルウェンとレオウドゥールが行いし、魔導王国ラミシス遺跡の冒険行について――数多くの吟遊詩人の歌より~』


◆◆◆◆


 ラミシス遺跡はその昔、魔導王国ラミシスとしてアリューザ・ガルドに存在していた。
 この王国が実際にあったのは今から遡ること九百年ほど昔。統一王国アズニール王朝がこのアリューザ・ガルドを統べていた時代のこととなる。
 デュンサアルよりさらに南下し、スフフォイル海を越えた先にひとつの大きな島があった。この島はもともと人が住まう地ではなかったが、漆黒の導師を名乗る魔法使いスガルトを筆頭に魔法使いが集まりだし、やがてこの地は魔法研究のひとつの拠点となった。だが、この王国の目指す目的とは、およそ人間が踏み込んではならない領域だったのだ。それは肉体と魂を永遠にあらしめること、すなわち不死であった。魔法という大いなる力を究極まで肥大化させることによって、神々の領域にまで近づくことこそを究極の命題とおいていたのだ。
 しかし過去の歴史という名の教訓に基づけば、神の領域を目指すことは禁忌に他ならない。さらに昔、冥王ザビュールが封印を破って降臨を果たした原因もそこにあるのだから。事実、この魔導王国においては、口に出すのもはばかられるようなおぞましい儀式が幾度と無く繰り返されていたし、王国中枢の魔法使い達は、常軌を逸したあの忌まわしきザビュール崇拝者達とも親しい関係にあったとすら言われている。

 とうとうラミシス打倒の軍勢が動き出した。その筆頭は魔導師シング・ディール。彼はスガルトの血族であるが、漆黒の魔導師の狂気から逃れるために離縁していた。ディールはアズニール王朝の諸卿より助力を受け、軍勢を引き連れてラミシスに攻め入るのだった。しかし、大陸とラミシスを隔てるスフフォイル海を渡る際、強力な魔力障壁に阻まれて戦力は壊滅、ディールは敗走することになる。
 ディールを助けたのはドゥール・サウベレーンのヒュールリットだった。“朱色(あけいろ)のヒュールリット”とも呼ばれるこの龍はもともとドゥロームであったのだが、“炎の界(デ・イグ)”に赴いて龍化の資格を得たために朱色の躯を持つ龍となったのだ。ヒュールリットは他の龍達を呼び起こし、彼ら龍達はディールらと共に行動を起こした。ディールとその軍勢は龍に乗り、ラミシスの魔法障壁を打破してついに魔導王国へと至った。
 戦いをくぐり抜けたディールはヒュールリットと共に、玉座の間に降り立った。魔法を極めた王スガルトも、龍と魔導師の力には敵わず、ディールの鍛えた闇の剣、漆黒の雄飛すなわち“レヒン・ティルル”によって葬り去られた。
 王を失ったラミシスは浮き足立ち、アズニール軍と龍達によってあっけなく滅び去った。以来この地は廃墟と化し、人を寄せ付けない孤島となった。
 これが魔導王国ラミシス興亡のあらましである。

 以来、遺跡となったラミシスには人が立ち入ることがなかったが、わずかばかりの例外があった。それが今なお吟遊詩人達の唄に詠まれている、カストルウェンとレオウドゥールによる冒険行である。
 この二人はその後、それぞれアルトツァーン王国とメケドルキュア王国の初代国王となったのだが、領土を持たない若い時分からの親友同士であり、共にアリューザ・ガルド各地を旅して巡ったという。彼らはこれらの冒険行を書物として遺すことはなかったが、後世に今なお語り伝えられているのは、ひとえに吟遊詩人達の紡ぐ唄の数々によるものである。
 そんな若き彼らの冒険行のひとつが、ラミシス遺跡巡りであった。吟遊詩人の語るところによると、カストルウェン達は、一匹の龍に乗ってラミシスの荒れ野に降り立ったとされる。さらにはかの王都オーヴ・ディンデを取り囲む四つの塔に入り込み、それらに巣くっていた竜《ゾアヴァンゲル》達を退治して財宝を持ち帰った、とある。だが、そんな彼らであっても王都にだけは入ることが出来なかったらしい。四つの塔の内側は常に濃い霧で覆われており、全くと言っていいほど視界が確保できないため、血気盛んで才気溢れる若者達とは言えども、王都の探索は断念せざるを得なかったと言われている。


 だったら、自分がその謎に包まれた王都、オーヴ・ディンデの有様を書き留めたい――。
 冒険家として自信をつけたウィムリーフがそう考えるのは至極当然との事とも言えた。
「あたしは……ここに行かなきゃならないのよ!」
 誰に言うでもなく、しかし強い意志を込めてウィムリーフはひとりごちた。


◆◆◆◆


 ウィムリーフは時の経つのを忘れて読書に没頭していた。冒険家としてラミシスの遺跡に行ってみたいという切なる願望はいや増すばかりだった。前人未踏とも言える地においそれと足を延ばすものではない、それは危険だと分かっていながらも、彼女の心はまだ見ぬ遺跡へとさらに傾いていく。
 本を読み終わった時にはすでに日はどっぷりと暮れ、机を灯すロウソクの光だけが部屋の明かりの全てとなっていた。

「でもあいつ……付いてきてくれるかなぁ……」
 ふとウィムリーフは無愛想な恋人のことを思った。これから行おうとしている冒険行は、全くの彼女の独断だ。ミスティンキル自身はすでに為すべきことは成し遂げて、さらに冒険記の編纂まで手伝ってもらったのだから、あえて彼を冒険に付き合わせる義理は無い、とも言える。
 だが同時に、彼だからこそ付いてきてほしいという全く相反する感情も芽生えていた。ミスティンキルは彼女以上の大きな魔力を持っているし、それを使いこなすことが出来る。彼が付いてきてくれれば、たとえ魔族があの島を占有していたとしても恐れることなど無いように思えた。何より――共に今までの苦労を分かち合った仲間であり、さらに自分の恋人だからこそ付いてきてほしかったのだ。

(よし! こうなったら……直接確かめてみるしかないわね!)
 酔っぱらっているかもしれないミスティンキルが、ウィムリーフの話を真面目に聞き入ってくれるか定かではないが、ともかく一刻も早くミスティンキルの答えを聞きたかった。彼女が一刻も早く新たな冒険行を開始するために。付いてこないと言われれば多少彼女の心は傷つくだろうが、それだからと言って彼との縁がすっぱりと切れるわけではないだろう。冒険から帰ってきたその日に何気なく再会の挨拶を交わせば、全ては元通りになるに違いない。
 ウィムリーフは決意すると、壁につり掛けてあるランプを手にとって灯をともした。そして本をしまい、机の明かりを消すと部屋の外へと出て行くのだった。




(二)

 ウィムリーフは、ランプの光で足下を確かめながら、急な坂道を息せき切って駆け上がっていった。空はすでに濃紺から黒へと色を変えつつある。もう間もなくすると周囲は真っ暗になってしまうだろう。走りながら何人かのドゥロームとすれ違ったが、彼らはランプを手にしてはいなかった。ドゥロームという種族は比較的夜目が利くのだろうか。
 アルトツァーンの商人達が寝泊まりする旅籠の平地からやや離れたところ、ドゥローム達の住んでいる山あいからもやや離れた場所に、酒場は軒を連ねている。普段は外で酒をたしなむという習慣のないデュンサアルのドゥローム達も、時にはバイラル達と混じって酒を酌み交わすこともある。そのために酒場は両者の住処の中間――岩山の麓あたりに集まっているのだ。とは言え、デュンサアルの慣習を知らない者にとっては不便きわまりない。他の地域であれば、宿屋が酒場を兼ねていたりするものだというのに。
 なぜわざわざ走る必要があるのか、なにが自分をこうまでせき立てているのか、もはやウィムリーフには分からなくなっていた。とにかくミスティンキルに、自分がラミシス遺跡へ旅立つことを伝えなければならない――その一心だけでウィムリーフは道を急ぐのだった。


◆◆◆◆


 酒場の建ち並ぶ界隈にたどり着いたウィムリーフは、この中から一軒の酒場に見当を付けた。たいていの場合この店か、そうでなければもう一軒隣の店かどちらかにミスティンキルが入り浸っているからだ。
 こぢんまりとした木扉を開けると、案の定ミスティンキルはいた。十人も入れば満席となってしまいそうなこの小さな酒場は、とくに装飾品はない質素な造りとなっており、壁に掛けられた二つのランプの光のみが部屋の中を薄暗く照らし出している。隣の店からは楽器の音色と共に浮かれた声が聞こえてきているが、この店には今のところミスティンキル以外の客の姿は見あたらない。
「……あ? ウィムじゃねえか。お先に飲ましてもらってるぜえ!」
 ウィムリーフがやってきたことに気づいたミスティンキルは、杯を片手に上げながらそう言った。顔がずいぶんと赤い。彼は杯に残っていた酒を飲み干して卓に置くと、大きく息をはいた。
「おあいにく様。飲みに来たわけじゃないわ」
 ウィムリーフは同じ机に自分の持ってきたランプを置く。癖の強い酒の匂いをかぎ取ったウィムリーフは、今のミスティンキルになにを言っても無駄だと知った。この地方の特産である火酒は、他のどの地方の酒よりも強いと言われる。火酒という名にふさわしく、それを飲めば龍の体内に宿る炎を得たかのように体が火照り熱くなる。寒さの厳しいデュンサアル地域の冬を乗り越えるためにと造り出された酒だ。
 そんな酒だというのに、ミスティンキルはすでに二杯ほど空けている。今の彼が酩酊しているのは火を見るより明らかだった。ウィムリーフは軽く溜息をついて、まずは店の主と挨拶を交わすと、酔っぱらいに話しかけた。

「今までたった一人で飲んでたっていうの? しようがないわねぇ」
「んん……。なんだよ。飲みに来たんじゃねえのか……。あ、じゃあなにか? まだ冒険誌の手伝いをしてほしいってのか? あと残ってんのは……紙にきちんと文章を書き上げることだけれど、それってウィムの役目だろう? おれはだめだ。文字なんかろくに書けやしないんだから! 今さら文字を覚えろって言われたってそうはいかねえ。それだけは勘弁してくれよなあ」
 ミスティンキルは両手を横に伸ばし、大げさに首を横に振った。ややろれつが回らなくなってきている彼は、いつになく饒舌だ。この調子では彼はたらふく酒をかっくらったあと、突っ伏して寝てしまうに違いない、とウィムリーフは思った。
「別にあんたを連れ戻す気で来たんじゃないって。……あのね。ちょっと別の話があったからここに来たってわけ」
 素っ気ない調子でウィムリーフは言葉を続けた。
「酔っぱらってるミストにあれこれたくさん言っても伝わらないだろうから簡単に話すけど……。あたし、また冒険をしてみるつもり。ここから南にずうっと行ったところに遺跡があるんだけど、そこに行きたくなってね」
「ラミシスの遺跡。……ってやつだろう?」
 酒場の主人から新しい杯を受け取ったミスティンキルは一口酒をあおり、半ば座った目でウィムリーフを見た。

「え? もうミストは知ってたの? ラミシス遺跡のこと」
「昔々の魔法王国、だっけか? そういう怪しげな所があるってのは、ここで飲んでる時に何度か聞いたことがあるからな」
「そう。なら話は早いわ!」
 ウィムリーフはぐっと身を乗り出した。
「なんだってそんなへんぴなところに行こうだなんて考えてるんだ?」
「それはなんと言ってもラミシス遺跡っていうのは、かつての魔法に大きく関わった場所だからよ。魔導を受け継いだ身だったら、その目で確かめたくはならない? それにわざわざ東方大陸《ユードフェンリル》の南の端まで来たんだから、この機会を逃したくない。そう、こんな機会は、望んだってなかなか来るもんじゃないわよ? あたしは今すぐにでも行きたい! って考えてる。……それでミストはどうするのかな、と思ってここまで訊きに来たわけよ」
「まだ、前の冒険誌のまとめだって完成してないってのに。なんでそんなに急ぐ必要があるんだ? もうしばらくはのんびりとしてかねえか?」
「……じゃあ、ミストは行く気にはなれないってわけね? ひょっとしたらこの前の冒険みたいに、予想も付かないとんでもないものが見られるかもしれないのよ?」
 ウィムリーフはミスティンキルの顔をのぞき込んだ。
 そして諦念。
 今までも、多少の憂さ晴らし程度に酒を飲むのであればウィムリーフも目をつぶってきていたが、今日の彼は飲み過ぎている。ミスティンキルの赤い瞳は酒のせいかやや濁ってすらも見える。本来は赤水晶《クィル・バラン》のように澄んだ色をしていたはずなのに。それまでの彼が確固として持ち続けていた、執念とも似た強い意志など今や微塵にも感じられない。
 炎の司になるというとりあえずの目的を果たした今の彼は、これからなにをすべきかを見失ってしまったのか――。このままデュンサアルに滞在したままでは、周囲にちやほやされるだけで堕落する一方だ。挙げ句の果てはただの飲んだくれになり果ててしまうに違いない。ウィムリーフは、そんなミスティンキルは見たくなかった。何が何でも事を為し遂げてやる、というどん欲なまでの強い意欲を持っていたからこそ、彼は彼自身であり続けたのだ。

「悪いけどな。おれはその遺跡とやらに用事はないし興味もない。それだったらまだここにいた方がずっといい。もし仮に行くにしてもだ。なにもそんなに焦ることはないと思うぜ? 準備だって色々あるだろうに。幸い時間だけはたっぷりとあるんだし、金についてもおれの持ってる赤水晶《クィル・バラン》を売っていけばいい。だからだ、ここはゆっくりと行かねえか? そうすればおれの気持ちも変わるかもしれないし」
 確かにミスティンキルの言いたいことも分かる。今のウィムリーフは明らかに急いでいるのだから。急ぐあまりに失敗を起こすよりは、ゆっくりと地道に事を構えた方がいいに決まっている。特にそれが前人未踏の地に赴くという、危険が伴う事態であれば、なおさらだ。
「そう……」
 ウィムリーフはしばし考える姿勢を見せた後、わかった、とだけミスティンキルに言って席を立った。
 それでもウィムリーフにとっては、まだ見ぬ地――ラミシスへの冒険行に馳せる想いのほうが勝ったのだ。

「ウィムリーフさん、この方を連れて帰るんじゃないのかね?」
 店主が声をかける。
「彼はまだまだ帰るつもりじゃないようだから、これで引き上げるわ。あたしから伝えたいことは伝えたし」
「なんだ。一緒に飲んでけばいいのに」
 主はやや残念そうに言った。アイバーフィンのウィムリーフに対しても、デュンサアルの住民達はようやく心を開いてくれた。そのことが嬉しくもあったが、ウィムリーフは木扉に手をかけた。
「そうねえ……申し訳ないけどミストに、飲むならあと一杯くらいにして宿に帰るようにと、うながしてくれません? あ、それからその時に伝言をお願いします。『ウィムリーフは遺跡に行きます』ってね!」
「……分かったよ。けれどお前さん、本当にひどく急いでるように見えるねえ。また何かがあったのかい? 司の長様から指示があったとか」
「いえ、特に長様からはお話を頂いたわけじゃないんです」
「それならばなにも焦ることはないよ。おれもこの酔っぱらいの言うことはもっともだと思うね。ましてラミシスなんざ、ここの住人だって行ったことのないような魔境だ。いくらお前さんが旅に慣れているとは言ってもだ。念には念を入れるに越したことはないと思うがね?」
 そうだ。旅に出ることについても、ミスティンキルが旅籠に戻ってきてから改めて話せば済む話だというのに。なにが自分をこうまで急がせているのだろうか? 冒険に対する憧憬、の一言だけでは片づけられないようにウィムリーフは直感した。急げ急げとせかすこの感情がなぜ突如として生じたのか、もはや分からないが。ただ明らかなのはひとつ。この衝動を打ち消すことはもはや出来なくなっているということだ。
「ありがとう。でもいいんです。あたしはもう、行くって決めたんだから……」
 伝言のほうをお願い、とだけ言うとウィムリーフは店主に軽くお辞儀をし、酒場をあとにした。
「出来ればあんたには付いてきてほしかったな……。どうかしてるわね、あたし。本当、なんでこんなに急いでるんだろう? 多分ミストの言ってることのほうが筋が通ってるってのに……」
 外に出たウィムリーフは、再び宿へ帰る道を急ぐのだった。


◆◆◆◆


 ミスティンキルは愕然とした。それまで酒に酔いしれて真っ赤だった顔が思わず青ざめるほどに。
 あれから半刻が過ぎ、彼が酒場から宿へと帰ってみたら、部屋の雰囲気ががらりと変わっていた。部屋からはウィムリーフの荷物だけがそっくり無くなっているのだ。これには狼狽えるほか無い。なにせ今まで二人で旅をしてきてこんな事は一度たりとも無かったのだから。
「ちょっと待てよ! あいつ本気で遺跡に行くなんて考えてたのか?! しかもたったひとりで!」
 まさかウィムリーフの残した言葉が彼女の本意だったとは。てっきりミスティンキルが一緒でないと行動を起こさないとばかり思っていただけに予想外だった。自分が思ってた以上に、彼女の意志は強固だったのだ。
 ミスティンキルは落ち着こうと、とりあえず椅子に腰掛けた。しかし焦りは募る一方。
「ああもう! なにを急いでるってんだ、あいつは?!」
 もはやいても立ってもいられなくなり、彼は悪態を付きながら足早に部屋から出て行った。すっかり酔いが回り、足下がおぼつかなくなっているというのに、意識だけは冴え渡っていた。いや、そうせざるを得ない状況だった。
「まったく……。いつもとは逆の立場じゃねえかよ……」
 ミスティンキルは宿から外に出るやいなや――見えない翼を広げて夜空へと飛び上がっていくのだった。




(三)

 今夜は新月。月が白銀の光を発しないために、地上はいつにもまして暗闇に閉ざされているかのようだ。しかし夜空に浮かびながらもふだん月光に遮られてきた星々の光は、それぞれの世界が存在することを今宵こそはアリューザ・ガルド中に告げんかとするばかりに輝く。ミスティンキルはどんよりと重くなった両の眼をこすると、青白く光るエウゼンレームの星を見いだそうとした。天空にあって、常に真南にて明るく瞬く星だ。幼い時分からよく知っている星だけに、彼はすぐに探し当てることが出来た。おおよそあの星の方向に向かって今回の騒ぎの主、ウィムリーフが飛んでいるのだ。

 ミスティンキルはウィムリーフの力――青い魔力が正確にどの辺りにあるのか、探し当てようとした。
 すると自然と、ミスティンキルの口からことばが発せられる。誰かが自分の身体を借りて喋っているかのような奇妙きわまりない感覚。自分でも全く解さないし聞いたことすらもない言語が、流暢に紡がれていくというのは何とも形容のしがたいものだ。自分の口から漏れているこのことばがおそらく魔法を発動させるためのことばであり、魔力の在処を探知するための魔法が放たれようとしているのだ、ということだけは何となく分かった。
 ミスティンキルは魔導解放の折り、魔導師ユクツェルノイレから魔導のすべを継承したわけだが、だからといってミスティンキルが魔法に通じるようになったわけではなかった。いま行っているように、呪文を唱えることは出来るが、それがどのような意味を持つのかということは理解できなかったし、魔法についての知識など相変わらず皆無だった。

 ともあれ、魔力は解き放たれた。ミスティンキルの身体の中から若干力が失われたのを感じ取る。失われた力は外部に放出されて原始の色を伴った魔力として顕現し、呪文といわれることばによって意味をなす。
 そして発動。
 暗闇に包まれていたはずの地表が、ほんのり色を帯びて見えるようになる。木の葉の色も、岩肌の色も、どれも一様に同じ色をしているわけではなく、非常に多彩な色をあらわしている。あそこの木にとまっている紫の小さな色は、フクロウが秘める色だろうか? あらゆる事物の中には“原始の色”という魔力を秘めた力が内包されているのだが、魔法の力によってミスティンキルに見えるようになったのだ。
 すぐさまミスティンキルは、それら多くの色の中から青い魔力を察知した。澄み渡った空のように真っ青な色をした強い魔力が、南東の方角に向けて進んでいるのを知った。ミスティンキルは東に位置する星イゼルナーヴを確認すると、ウィムリーフを追うために自らに鞭を打ち、空を駆るのであった。


◆◆◆◆


 この追跡行は、自分との戦い以外の何ものでもなかった。少しでも気を抜くと、追い払ったはずの眠気がすぐに迫り来る。酔いが回った体はなかなか思い通りにならない上に、飛ぶという行動そのものが彼にとって不慣れなのだ。もし睡魔に負けて精神が混濁の中に埋まり込んでしまえば、間違いなく翼は羽ばたきをやめるだろう。そうなってしまえばたちまち真下の岩場に叩きつけられてしまう。ミスティンキルは死に対する恐怖をあえてあおることで、正気を必死に押しとどめようとした。

 ウィムリーフはかなりの速度で飛んでいる。それを上回る速度を出さねば彼女に追いつけないわけだが、ミスティンキルにとってはかなり無茶なことである。否、不可能であった。風の司であるウィムリーフに比べたら彼の飛ぶ力などたかがしれている。生まれながらにして翼を得ていた彼女だったら、この速度を保ちながらも二、三刻も飛んでいられるのかもしれないが、翼に慣れていないミスティンキルにとってはそれはとうてい無理なことだった。
 早くも彼の身体が悲鳴を上げようとしている。血は沸き立ったかのように凄まじい勢いで全身を巡り、その脈打つ音は風切る音よりも大きく聞こえてくる。このままでは彼女に追いつくどころか力尽きてしまうことは必至だった。
 どうすればいいのだろうか?

 そう思ったと同時に、意味不明の言葉が再び口をついて出た。今度発動させようとしている魔法は、風の力を借りるもののようだ。やがて風を切る音が――空を飛んでいるというのに――ぱたりと止み、周囲がしんと静かになる。次の刹那、ミスティンキルの身体を押し出すように、後方から風が吹き始めた。やがて追い風はごうごうとうなりを上げるまでに強くなり、ミスティンキルが羽ばたくまでもなく、突風が前へ前へと彼を推し進めていった。
 ミスティンキルは他のことに気をとられることが無くなり、ただウィムリーフがどこにいるのかを常に把握していればいいのだ。青い魔力の持ち主との距離が、見る見る間につまっていくのが分かる。ウィムリーフは彼女の出し切れる最大限の速さで飛んでいるようだったが、ミスティンキルの起こした風の速さたるや、それをはるかに上回るものだった。


 程なくして、ミスティンキルの目はウィムリーフの姿を捉えるようになった。後方から突風が吹いていることに彼女も気づいたのだろう。ウィムリーフはその場で滞空した。振り返ることはない。時を同じくして、それまで猛烈な勢いで吹きすさんでいた風がぴたりと止んだ。ミスティンキルは不意に風を失ったことで落下しかけたものの、自分の翼をはためかせることで押し留まった。
 未だウィムリーフは前方――ラミシス遺跡の方角を見据えたまま動こうとしない。
「ウィム!」
 声が届く範囲にまで近づくと、ミスティンキルは声をかけた。だがウィムリーフは振り向こうとしない。もうろうとする意識を必至で振り払いながらもミスティンキルは近づき、また声をあげた。
 ようやくウィムリーフは彼の方に首だけを向けた。月の光を受けたかのように、彼女の群青色をした瞳はぎらりと輝いている。美しくもあやしく光るその双眼は、獲物をにらむ豹のそれを想起させるかのよう。今の自分の瞳も、赤く輝いているのだろうか? ミスティンキルは青い瞳に魅せられながらそう思った。ウィムリーフは頭のみをこちらに向けたまま、なにも言おうともしない。
 しばし二人は、お互いの顔をじっと見ながら対峙していた。
 何とも言えない静けさに耐えられなくなったミスティンキルは、ようやく口を開いた。
「……なあウィム。一人で行こうだなんて無茶にもほどがあるぜ。一体どういう……」

 次の瞬間。
 急にミスティンキルの脈がどくり、と大きく音を立てる。と同時にミスティンキルの身体は崩れ落ち、意識は暗転していくのだった。
 ウィムリーフの声が遠くから聞こえてくるようだったが、なにを言っているのかもはや聞き取ることが出来ない。突如押し寄せた圧力に抗うことが出来ず、ミスティンキルは落下していくほか無かった。


◆◆◆◆


 目に映るものは灰色。
 いつしかミスティンキルは、灰色をした石の壁――民家の天井を自分がずっと見続けているのに気が付いた。
 背中に感じるのはやや固いベッドの感触。さっきまでは空を飛んでいたはずだというのに、これは一体どういうことなのだろうか? 突然の状況変化に驚いた彼は、がばりと跳ね起きた。
 頭の中はずきずきと痛み、体は自分のものではないかのようにうまく動かない。明らかに宿酔だった。
 ミスティンキルはこめかみを右手で押さえながら、顔をしかめて周囲を見渡した。窓からは昼の陽光が差し込んできている。
 ここは間違いなく、二人が滞在している宿の一室だった。ミスティンキルが目覚めたことを察知して、ウィムリーフとそれにアザスタンがベッドの傍らまでやって来た。アザスタンはいつもであれば龍の姿をとりデュンサアル山近辺に棲んでいたはずで、この村に来ることは久しく無かったというのに、どういうことだろうか。
「ミスト! 起きたのね!」
 いつもと変わらぬ様子でウィムリーフが声をかけてくる。そのどこか奇妙な差異。ミスティンキルは、あの追跡行が夢の中の出来事だったのかと一瞬いぶかしんだ。ウィムリーフは申し訳なさそうな表情を浮かべ、彼の顔をのぞき込んだ。

「その様子だと、なんで自分がここで寝ているのか分かっていないようね。ごめん。あたしのせいで……だいじょうぶ?」
「……大丈夫なわけがあるかよ」
 声を出すのもおっくうだと感じるほどに、ミスティンキルの体は参っていた。
「ウィムらしくもない。過ぎちまったことにあれこれは言わねえけど。もっとよく考えてから行動してくれよな……。どうかしてたぜ、あの時のお前さんは」
「そうね。昨晩は……あたしはどうかしてたんでしょうね……たぶん」
 ウィムリーフはひとりごちるように言った。
「それで、なんでおれはここにいるんだ? おれは、空にいたはずだ」
「昨日のこと、どこまで覚えてる? ミストがあたしに追いついたところまで? アザスタンが駆けつけてくれたことは覚えてる? そう、それは覚えてないのね」
「たまたま居合わせたわけではなく、お前達を追ってきたのだがな」
 龍戦士のなりをしたアザスタンが言った。しゅるる、と彼の鼻から煙が漏れる。人間で言うところの溜息をついているのだろうか。
「もしわしがお前達の気配に気が付かなかったらどうなっていたことやら。陸が連なっているうちはいい。だが海は違う。およそドゥロームやアイバーフィンの翼で渡りきることが出来るほど、海は小さいものではないのだぞ」
「うん。ごめんなさい」
 ウィムリーフは頭を垂れる。そして昨日の顛末についてミスティンキルに語ったのだった。


 あの時――ミスティンキルが翼の揚力を失って落ちそうになった時のこと。
 ウィムリーフいわく、どこか意識がぼうっとしていた、ということらしい。そしてはたと気が付いた時にはミスティンキルの身体は地面に向けて落下し始めていた。驚いたウィムリーフは急降下してなんとかミスティンキルの腕をを掴み上げるが、ウィムリーフ自身も思いのほか疲労していたらしく、その場に滞空するのが精一杯だった。
 仕方がない、このまま下に降りて休息をとろうと思っていた矢先、龍の姿をとったアザスタンが現れて背中に乗るようにとうながした。ウィムリーフはミスティンキルの身体をアザスタンの背に乗せた。
「ありがとう。ミストを連れて帰ってくれるの?」
【ウィムリーフ。お前も来るのだ。ここからとって引き返せ】
「なぜ? あたしはこれから旅立たなきゃならないのよ?!」
【おのれを過信しているのに気づかない者には、知らずのうちに災厄が忍び寄る、というもの。今のウィムリーフはまさにそれだ】
「なにを言うの! あたしは自分をわきまえているつもりよ!」
【……今の自分の言葉が正しいかどうかすら、お前はまったく分かっていないようだ。ミスティンキルとともに戻り、少し頭を冷やせ。……三度目は言わぬぞ】
 アザスタンは、力を秘めた言葉をウィムリーフに浴びせた。龍の言葉とは、それそのものが魔力を持つのだ。ウィムリーフは渋々ではあるが龍の言葉に従わざるを得なかった。だが、龍の背中に乗りながらデュンサアルに引き返しているうちに、自分の行動がひどく軽率だったことがようやく分かりはじめた。一体なにをあれほどまでに急ぎ、いきり立つ必要があったというのだろうか? なにが自分をこうまで突き動かしていたのかもはや分からないが、ウィムリーフは龍に謝罪した。龍はそれ以上なにも言わず、彼らをデュンサアル村の入り口まで送り届けると、自らも龍戦士の姿に化身して村に入っていった。
 そして一晩が明けた。


「……とにかく、今はゆっくりお休みなさいな。あたしも軽はずみだった。きちんと前もって調べられるところを調べないとね」
「なんだよ。何だかんだ言って、結局お前はラミシス遺跡に行くつもりなんだな?」
 ミスティンキルの問いかけにウィムリーフは頷いた。
「昨日の夜も言ったけど、こんな機会はめったに来るもんじゃないもの! あたしは、ラミシス遺跡がどういったものなのか、また冒険誌を書きたい! きちんとしたかたちで世に伝えたいのよ」
「……頑固だな」
「おあいにくさま。あんたと同じにね」
 ウィムリーフは舌を突きだして軽口を叩いた。
「でもまだ前の冒険誌の編纂が終わってないだろう?」
「あれは、またここに帰ってきたら続けることにするわ。今は……遺跡への冒険のことしか頭にないもの」
「しかたねえ。おれもウィムに付いていくことにするか」
「ならばわしも付いていくぞ」
 最初からその言葉を言うつもりであったかのようにアザスタンが言うものだから、それを聞いたウィムリーフは驚いて目を丸くする。
「ミストも、それにアザスタンも? 嬉しいけど、どういうことなの?」
「昨日みたいに勝手に飛び出していくようなやつを放ってはおけねえだろうに。それに、一人で出かけるには危なっかしそうな場所だろう?」
 ミスティンキルはベッドにごろりと横になり、再び灰色の天井を見据えながら、ぶっきらぼうにそう言った。
「わしが動くのは、龍王様からのご命令ゆえ」
 アザスタンは言った。
「それに先ほども言った。人間の翼ではおよそ海を渡りきれるものではない。……だが龍は違う」
「……うん。ありがとう、二人とも」
 ウィムリーフは目を閉じて頭を下げるのだった。
「一週間。その間にラミシス遺跡の事について出来る限り調べ上げて……出発することにするわ。あたしたちは!」
 ウィムリーフの群青色した瞳は、きらきらと輝いているようだった。

(四)

 ミスティンキルが目覚めたこの日から、ウィムリーフはラミシス遺跡について調べ始めるつもりだった。しかし、今まで冒険誌の編纂を続けていた疲労が蓄積されていたのか、はたまた昨夜の飛行が思いのほかきついものだったのか、彼女は体調を崩してしまった。それにもめげずウィムリーフは行動しようとしたが、ミスティンキルに反対されて仕方なく日がな一日休むことになってしまった。
 一方のミスティンキルもこの日は動くことが出来なかった。彼の場合は宿酔だった。強い酒を何杯も飲み干したあげく慣れない翼をはためかせ空を飛び、さらには術を行使したのだから、こうなるのは当然のことだった。頭痛と嘔吐感に苛まれながら、ベッドに横になって唸るほか無かった。
 幸いにもこの旅籠のおかみはよく気が付く人だったため、彼らは煎じてもらった苦い薬湯を飲んで回復するのをただひたすら待つのだった。

 その甲斐あって彼らは共に気持ちよく翌日の朝を迎えることができた。心身共に快く感じることができ、差し込んでくる朝の日差しもまた心地のよいものとなった。
 二人は宿の食堂で女将に礼を言うと、軽い朝食をとりつつこの後どうするかを話し合った。
 ラミシス遺跡を冒険するという計画を思いついた当の本人――ウィムリーフは、食事を終えたらさっそく本をじっくりと読み返すことにした。
 この千年あまりの歴史において、かの島を訪れた者は二人しかいない。アルトツァーン王国のカストルウェンとメケドルキュア王国のレオウドゥールである。それぞれの王国の初代国王である彼らは、その若い時分にラミシスの島を冒険したと伝えられており、正式な文献こそ遺されていないものの、詩人達によって多くの唄が詠まれてきている。
 それらの唄をまとめた本、
『未踏の地ラミシス ~カストルウェンとレオウドゥールが行いし、魔導王国ラミシス遺跡の冒険行について――数多くの吟遊詩人の歌より~』
 と題された本をじっくりと読み、ためになりそうな箇所を写すことで、彼女なりのラミシス島のイメージを掴むつもりだった。

 朝食をとりおえて部屋に戻るやいなや彼女は本をひもとき、最初の頁から読み始めるのだった。
「今回はあたしが思いついた冒険だから、ミストが調べ上げる必要はないわ。旅を始めるまでの間、度が過ぎない程度であれば、デュンサアル周囲で遊んでいてかまわないから。もちろん、女遊びなんかは厳禁だけどね!」
 彼女はそう言うと、本につきっきりとなった。その様子は、役人の試験に打ち込むバイラルの学生でも、これほど熱心に打ち込むことはないのではないかと思わせるほどだったので、ミスティンキルは言葉を返す機会もなくただ部屋の中で手持ちぶさたになってしまった。少しでも暇つぶしになればと思い、前の冒険行の大ざっぱな下書きを読んでみることにしたが、彼が判読できるだけの単語は数箇所程度しかなく、茶一杯を飲み干す時間で文章の最後まで行き着いてしまった。
 どうやら部屋に閉じこもって読めもしない文字と格闘するという行為は、自分にとって苦痛に感じるだけで暇つぶしにすらならない。かといって文字をあらためて勉強するだけの気力などは持ち合わせていない。何かできないものだろうか。
 色を取り戻すための冒険を終えて、冒険誌の下書きを書く際にはウィムリーフの手伝いを強いられたが、この時はあまり乗り気がしないものだった。何せウィムリーフときたら、休むことなく一日中この作業を行っているのだから、ミスティンキルも休む機会をしばしば失ってしまって愚痴をこぼしていた。しかし人間の感情とは不思議なものだ。今回のように、何もしなくていいと言われるとかえって何かをしたくなるものだ。この部屋に留まったところで本を読むことなどできやしないし、読書に没頭しているウィムリーフが遊びに付き合ってくれるなど考えられない。
 ならば。
 ミスティンキルは思い立ち、ウィムリーフに声をかけた。
「ウィム。おれはちょっと外に出てくる」
 ウィムリーフは顔をミスティンキルの方に向けて小さく頷くと、再び机に向かった。

 ミスティンキルが宿の外に出ると、ちょうど戸口でアザスタンと出くわした。今まで空を滑空していたのだろう、アザスタンの翼はまだ広がったままだった。
「あんた、また来たのか。ご苦労さま。残念だけどな、ウィムに用事があるってんなら今は無理だぜ。あいつ、熱中しだすと他のことなんか目に入らなくなるからな」
「ぬしらの調子が元に戻ったというのならば問題ないのだが。まあ、お前もこれから自重することだ。無鉄砲に行動すればああいう目に遭うと、身にしみて分かっただろう」
 たしなめられたミスティンキルは、うるさいな、と言わんばかりに顔をしかめた。
「とにかくだ、この数日はあいつに近づこうとしても無駄だぜ。話し相手にするには無愛想きわまりないだろうしな。……そうだ、あんたが暇だっていうんなら、おれと一緒に来ないか?」
「わしはお前達の行動を見守る身だ。暇、という言葉にはひっかかるものがあるが……お前は何をしようとしている?」
「司の長の所に行ってみる」
 ミスティンキルは答えた。
 宿場の通りを共に歩いていると、人々の視線を感じる。アザスタンはまたもや龍戦士の格好をしているため、界隈の人々は敬意のまなざしを彼に向けているのだ。中にはひざまづいて頭を地面につける者すらいる。こういった雰囲気にミスティンキルは慣れていない。注目されている対象は龍戦士アザスタンのほうで、自分に向けられているわけではないのだが、衆目の視線が自分達に集中するというのは苦手だった。そんな人々の視線から逃げるように、ミスティンキルは上空へ舞い上がるのだった。アザスタンも遅れて飛び上がる。
「一体なにをしようというのか?」
「昨日ウィムが言ったとおりだ。ラミシス遺跡に行くための手がかりがないか、訊きに行くんだ」

 ミスティンキルは、岩山の頂にある司の長の居住区を目指した。かつて司の長を訪れた時には一刻近くもかけて登ったものだが、翼を得た今となってはそのような苦労をしなくて済む。
「ミスティンキルよ、もう少しはやく飛べんものか? この遅さでは翼をはためかすのにかえって気を遣うのだぞ、わしは」
「あんたにとっては遅いかもしれねえけどな、こっちは頑張って飛んでるんだ。だいたいさっきから文句ばっかり、たらたら言いやがって、龍ってのはあまり喋らないもんじゃあねえのかよ?」
「龍のことばはそれが魔力を持っているからともかく、共通語にはそう大した力があるわけでもない。だからこうして思う存分にお前に対して存分に文句が言えるというものだ。そら、早くしないとおいていくぞ」
「ああもう! あんたってやつは、どうしてこうも気の障ることばっかりぬかしやがるんだ。むかつく!」

 彼らが口げんかをしているうちにも、岩山の頂にたどり着こうとしていた。
 人が住まうアリューザ・ガルドにあって、ラミシス遺跡から最も近い場所がデュンサアルだ。そうであれば、デュンサアルの長達が何かしら遺跡についての事柄を代々継承して知っていてもおかしくはないだろう。あのマイゼークの面を見るかもしれないということはミスティンキルにとって嫌なことではあったが、エツェントゥー老であればこころよく自分達を迎えてくれるに違いない。
(ウィムに知ったふうな顔をされてあれこれ教えられるってのも、なんとなく癪だからな。あいつが本から知識を吸い出そうっていうんなら、おれのほうで調べられるところを調べておいて、いざとなったらあいつにすごいと思わせてやろうじゃないか)
 当初はまったく気乗りのしない冒険行であったが、いざ調べ上げることになると、彼が元来持っている負けん気の強さが顔を出すのだった。
 地面に降り立ったミスティンキルは咳払いをして、“集いの館”の扉を叩いた。


◆◆◆◆


 しばらく経って扉から顔を出したのは、はじめてここに来た時と同じく、司の長の一人で彼らの中ではもっとも若いファンダークだった。
〔アザスタン様。それにミスティンキルどの。ようこそおいで下さった。今回はどのようなご用向きかな?〕
 最初会った時と同一人物かと訝りたくなるほど、彼の言動は慇懃《いんぎん》だった。ミスティンキルは、ラミシス遺跡のことが知りたいのだが長達が何か知っているかどうかと尋ねた。ファンダークは二人に中に入るよううながすと、二人を先導するかたちで廊下を歩いていった。
〔ラミシス遺跡というと、ここから海を越えて南東の島にあるといわれる昔の国のなごり、ですな? かの国は魔法学に――忌まわしい魔法ではあったわけですが――長じていたのですから、ミスティンキルどのが興味をいだくのも分かる話です。残念ながら私には遺跡の詳細は分かりかねますが……〕
 最初にここを訪れた時とはまったく異なる対応だった上に、ファンダークがあまりにも丁寧な言葉遣いをするものだから、思わずミスティンキルは吹き出しそうになってしまった。
〔ですが、長老ならばきっと何か知っているはず。エツェントゥー老は今、自分の居室におられるはずですので、そこまでご案内しましょう〕

 三人は、会議室の扉の前まで着いた。するとファンダークは突き当たりを右へと曲がり、会議室に沿うようにして左に曲がりくねっている廊下を歩き始めた。程なくして彼らはひとつの扉の前に行き着いた。扉の上にある表札にはなにやら文字が書いてあるようだった。
「……エツェントゥー。そう書かれているな」
 アザスタンは言った。お前も文字を習得したらどうだ、とうながすような感情が込められているように感じられたので、ミスティンキルは憮然としてそっぽを向いた。文字などいまさら習わずとも十分に生活できるし、ウィムリーフのように本の虫になろうなどとは思いもしない。だいいち魔法にしても文字など知らずとも習得しており、すでに自分の力になっているではないか。
 そんな彼の感情など知らぬまま、ファンダークは扉を軽く二回叩いた。
〔エツェントゥー老。アザスタン様とミスティンキルどのがお見えになっています。部屋にお通ししてもよろしいでしょうか?〕
〔入っていただきなさい〕
 扉ごしにくぐもった声が聞こえてきた。ファンダークは古めかしい木の扉をぎいっと開けて、二人に中に入るように言った。二人が部屋の中に入ると扉は閉められ、ファンダークは立ち去っていった。

 エツェントゥー老は椅子から立ち上がり、両手を広げて二人を歓迎した。とくに龍であるアザスタンに対しては深々と頭を垂れて挨拶をした。
〔ようこそいらっしゃった〕
 そう言って老人は顔中にしわをつくった。
〔色が戻ってから早二週間、ようやくわしら長の仕事も落ち着いてきましてな。今日などは暇をもてあましていたところです。アザスタン様がわざわざお見えになったということは、また何かご相談ごとでもおありなのでしょうか?〕
〔わしではない。用事があるのはこっちのミスティンキルの方だ〕
 アザスタンはここに来た目的を言うようにミスティンキルにうながした。
〔しばらくです、エツェントゥー老。用事っていうのはですね、あなたがラミシスの遺跡について何か知っていることがないかどうか、訊きに来たってわけなんです〕
 ミスティンキルが簡潔にそう言うと、老人はミスティンキルの本意をはかるかのように目を細めた。
〔ほう。どうしてまたあんな場所なんかに? 確かにわしはまったく知らないと言うわけではないがな。それでもいいというのなら、わしの知りうる範囲で話そう〕
 司の長は穏やかな口調でそう言って、二人に席につくように勧めた。

〔お二方とも、こんなちっぽけな部屋で申し訳ないが、とりあえずくつろいでくだされ。……なにか喉を潤すものがあったほうがいいかな? それとも酒がよろしいかな?〕
〔酒はとうぶん見たくないです〕
 ミスティンキルはすぐさま言葉を返した。
〔ほっほう、その顔は酒に失敗した、と言ってるようじゃな。まあいい。ならば冷えた茶でも差し上げよう〕
 エツェントゥーは、二人が入ってきた扉とは別の扉を開けてその中に入っていった。がらがらという滑車の回る音と水音が聞こえてくる。どうやら井戸に吊していたなにかを引き上げようとしているようだ。しばらくして彼は水滴に覆われたガラス瓶を一瓶手にして戻ってきた。
〔地下水で冷やした飲み物ほどうまいものはない。それが酒であればなお上等じゃがな〕
 グラスに茶を注ぎながらエツェントゥーは言った。雪解け水のように冷たい飲み物というのは、平野に広がるバイラルの王国ではおよそ口にすることなど出来ない。冬の間か、さもなくばデュンサアルのような高地でなければ味わえない冷たさを、ミスティンキルは喉で堪能した。
 長老はアザスタンにも飲み物を振る舞おうとしたが、彼は断った。
〔飲食という概念は龍にはないのだ〕
 アザスタンは言った。
〔失礼。そうでしたな。高位の龍ともなれば食物を摂らずとも、空気の流れや大地から直接、活力を得ることができるという事を失念しておりました〕
〔それができないのは、幼い龍だけだ。あとは、ことばを知らない愚かなゾアヴァンゲル《竜》どもくらいのもの〕

〔さて、と〕
 長老は話題を転じた。
〔なにから話せばいいかな。いや、その前になぜラミシス遺跡のことを知りたいと思ったのか、聞かせてはくれぬか、ミスティンキル〕
 しばしミスティンキルは言葉に詰まった。この老人は自分に少なからぬ期待を寄せているようであり、他人に随行して行動をする、と正直にいうように言ってしまっていいものだろうか。それよりは、あたかも自分が主導権を握っているように話を作ってしまったほうが、長老の受けがいいように思えた。
〔ええと、そうですね。ご存じのとおり、おれは炎の司となったわけですが、そのう、炎を操るという能力は、術、いわゆる魔法に通じるところがあるんじゃあないかと思ったわけなんです。それにおれは魔法についても習得したわけですし、魔法の発祥の地であるラミシス遺跡に行ってみたい、と思い立ったわけなんです〕
〔正しく言えば魔法の発祥の地というわけではないがな〕
 とすかさず返したのはアザスタン。
〔……とにかく、ラミシスが魔法と深い関係にあったのは間違いがない。だからおれは行こうと思ったんです。ラミシスに〕
 暗示というのだろうか。こうして言葉に出して言うと、まるで本当に自分がラミシスに行きたがっているかのような感覚にすらとらわれた。確かに思い返してみれば今度の冒険では、未踏の地に乗り込んだはじめての人間として名を残すことが出来るかもしれないのだ。多少の困難が待ち受けているかもしれないが、それも帰ってきてみれば冒険譚の一部として唄に詠われることになるだろう。そう思うと自然とミスティンキルの気持ちは高揚していくのだった。だが。
〔行こうと思いついたのは、もとを正せばウィムリーフだろうに〕
〔……〕
 ミスティンキルのもくろみは早くも打ち砕かれた。彼はばつが悪そうな顔をしたまま龍戦士を睨みつける。

 長老はそんな彼らの間に入り、仲裁するようにゆっくりとした口調で問いかけた。
〔正直に話してみなされ〕
〔ラミシスに行こうと言い出したのはおれじゃない。連れのウィムリーフです〕
 ミスティンキルはそういって、今までの経緯を言葉足らずな説明ながらも長に打ち明けた。
〔……でまあ、あいつが本をもとにして調べるってんのなら、おれはおれなりにラミシスを知る手がかりを掴もうと思って、あなたの所に来たってわけです〕
〔なるほどな。じゃがわしも人から伝え聞いた知識をそなたに告げるに過ぎない。なにせ、かの遺跡に行った人間といえば、あの二人の国王を置いて他にいないのだからな〕
〔じゃあ、ここらへんのドゥロームでラミシスに行こうとしたやつはいないんですか?〕
〔おることはおる。特にそなたのように血気盛んな若者が、な。じゃがこの大陸とかの島を隔てる海を乗り越えることができるほど、ドゥロームの翼は長くは持ちこたえられぬ。そうそう。過去唯一もっとも島に近づいた者がおったのだが、その者とてついに願い叶わず辿り着くことはできなかった〕
〔力尽きて死んじまったのですか?〕
〔そうではない。彼は今でもデュンサアルにおるわ。若き頃のマイゼークなのだがな。彼を呼ぶか……いや、ぬしの顔はやめてくれと言っておるようじゃな。ではわしが話そう。なにがマイゼークの行く手を阻んだかというと――龍じゃ〕
 ミスティンキルは目を見開いた。
〔龍が、島の周囲に棲んでいるんですか?! ……アザスタン、それっていうのは誰だか分かるか?〕
〔わしとて久方ぶりにアリューザ・ガルドにやってきたのだ。それぞれの龍の住まいなど分かるわけもない〕
〔その龍がマイゼークに名乗った名は、ヒュールリット。そう、朱色《あけいろ》のヒュールリットじゃ〕
 エツェントゥーが返答した。

 朱色のヒュールリット。
 その名前は広く知れ渡っている。龍王の名を知らずとも、この龍の名は聞いたことがある者もいることだろう。かつて魔導師シング・ディールに協力をし、さらには眠れる龍達を覚醒させ、ディールらアズニールの軍勢と共にラミシス王国に乗り込んで漆黒の導師スガルトを討ち果たした龍だ。
〔龍が相手でも大丈夫だろう? あんたが何か言えば済むことだ〕
 ミスティンキルはアザスタンに言った。
〔龍は他の者の言うことなど耳も貸さぬ場合が多い。龍王様の命令ならばともかく、たとえばわしがそのヒュールリットとやらに立ち去るように命じても無駄だろう。確かに、わしがいたほうが交渉がはかどることは間違いがないが、確かなことはなにも言えぬ〕
 アザスタンは言葉を返した。
〔どうやらヒュールリットは、人間がおいそれと遺跡に立ち入らぬようにと、雲を住まいにして見張っておるようじゃ。龍を相手にするかもしれぬというのに、それでもミスティンキルよ、お主らは行こうと思うか?〕
〔はい〕
 ミスティンキルは決意した。
〔行きます。ラミシスに〕




(五)

 それからの一週間はそれこそ文字通り、あっという間に通り過ぎていった。

 ウィムリーフは宿の一室でラミシス遺跡に関する文献を読みふけり、かたやミスティンキルとアザスタンはエツェントゥー老から、この長老が知りうるかぎりの知識を聞き出していた。
 天高くそびえる守りの要衝、“壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼ。
 城を守護するように建造された四つの魔導塔。
 そして――魔導王国の王にして漆黒の導師たるスガルトや彼の弟子達が住み、邪悪な魔導の研究に没頭していた魔の王城、オーヴ・ディンデ。

 特に彼が関心を引かれたのは、王城オーヴ・ディンデである。今より九百年前、魔導師シング・ディールを筆頭にしたアズニールの軍勢が龍達と共に王城を陥落させて以来、誰もそこに足を踏み入れたことがないのだ。時を経て、ラミシスの島を冒険したカストルウェンとレオウドゥールも、その王城に立ち入ることはついに叶わなかったという。強力な結界か何かが行く手を阻んだというのだ。
 しかし、大いなる魔力を秘め、魔導を行使するすべを手に入れたミスティンキル達ならば、その結界を突破して王城に入ることが出来るのではないだろうか。
 いや、出来るに決まっている。なぜなら二人はついこの間、炎の界“デ・イグ”で、そして月の界で、想像を絶する冒険のはてに、魔導の解放というとてつもないことを成し遂げたばかりなのだ。あれは、赤と青というまったき色――膨大な魔力を秘めていた自分達だからこそ出来たことなのだ。
 超自然の現象と対峙した彼らだから、人間が作り出した結界ごときが破れないはずもない。二人の力を持ってすれば、結界の先にあるオーヴ・ディンデ城に立ち入るのは容易なことだと考えた。

(面白いな! その遺跡――オーヴ・ディンデの城とやらにはまだまだたくさんの魔導についてのなにかが隠されているに違いない。どうやら行ってみる価値は大いにありそうだ!)
 ラミシスの島に着いたら、真っ先に王城を目指そうとミスティンキルは考えた。そこには果たしてどのようなものが待ちかまえているのだろうか? 魔境とすら言われる島の様相を聞き出すにつれ、ミスティンキルの好奇心はいやがおうにも増していくのだった。
 しかし、ウィムリーフの前であからさまにその気持ちを表すのは控えようと思った。感情の高ぶりは、増長、過信に繋がることを知っているから。それに、自分の得た知識を知ったかぶりに披露するのは面白くない。それよりはここ一番、いざというときに披露して、ウィムリーフの感嘆を受けたいと考えていたのだ。

〔ミスティンキルよ。お前が手にした力というのは、司の長たるこのわしを凌ぐほどにまで強大なものじゃ。だからこそ自重するのだ。おのれを見失ってはいかん。これは、忘れるでないぞ〕
 四日目の夕方に、エツェントゥーはそうミスティンキルに釘を刺した。


 そして、旅支度の期限である七日目の朝。
 旅装束に身を包み、荷物を背に抱えたミスティンキルとウィムリーフは、待ち合わせ場所であるデュンサアル山への登山口にて、一週間ぶりに対面した。二人とも、ラミシス遺跡の持つ何か得体の知れない魅力、もしくは魔力に取り憑かれていたために、お互いをかまうことを忘れがちだった。それまでは寝食を共に過ごしてきたというのに、この一週間は部屋も別々にして、自分のしたいことだけに没頭してきたのだ。
 だけれども。
 そんなことは今まで共に旅をしてきた二人にとって、ほんの些細なことでしかない。その程度で関係がぎくしゃくするような間柄ではないのだ。
「さあミスト、いよいよ行くわよ!」
「おう」
 と、お互いに相づちを打ちさえすれば、二人の間の雰囲気は一瞬にして元通りに戻るのだ。そして今までどおりの空気が包む。がっちりと、絆が結びつけられる。

 ややあって、空から巨大な蒼龍がゆっくりと舞い降りてくる。
 二人は大地を蹴り上げるとおのが持つ翼を広げ、龍めがけて跳躍する。そして、アザスタンの背に飛び乗った時――。

 ――ミスティンキルの、そしてウィムリーフの新しい物語が紡がれ始める――。


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