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 アルトツァーン王国最南部の都市、ナダステルより南は、丘陵地と山々が連なる高地となっていく。
 南部に住むバイラル達は少なく、山間部には主にドゥローム達が居住する。炎の事象界に最も近いとされる“龍の山”デュンサアルがあるためだ。

 ナダステルからデュンサアルに至るまで約一月の行程となるが、冬の間の往来は不可能である。ザルノエム荒野では横殴りの吹雪が連日吹き荒れ、旅人の行く道を阻む。また、海路においても冬のグエンゼタルナ海は大しけが続く上、「冬には魔物が姿を見せる」と船乗り達の間で言い伝えられているのだ。

 ユードフェンリル大陸中部の東側には、“黒き大地”と呼ばれる忌まわしき地がある。ここでは闇の力が強く集まっており、“黒き災厄の時代”に降臨した黒き神、冥王ザビュールの気配を濃厚に残しているとされている。そのためにこの地に足を踏み入れる者はザビュール信仰者を除いて滅多にいない。

 スフフォイル海を越えた南部の島は、今は人が立ち入ることなど無いとされている。
 はるか西方のフェル・アルム島よりなお広大なこの島には、かつて“魔導の時代”にラミシスという魔導王国があった。不死という禁忌を追い求めるラミシス王国と漆黒の導師スガルトは、魔導師シング・ディールと朱色の龍ヒュールリットによって滅ぼされ、以来この地は遺跡と化した。


・ミスティンキル:ドゥローム・五十歳
 ラディキア群島のドゥノーン出身であり、周辺の島を治める漁師の長、クレメンディアの次男。いずれドゥール・サウベレーン(龍)となる資格を得るドゥローム(龍人)の若者。純粋な赤い“原初の色”をその身に宿すゆえ、強大な力を有している。寡黙だが、ウィムリーフのことを大事に思っている。

・ウィムリーフ:アイバーフィン・五十五歳
 冒険行に憧れ、単身で世界を巡ろうと考えている女性。ティレス王国の王都ディナールで育った。アイバーフィン(翼の民)としては希有なことに生まれながらにして翼を有する、“風の司”でもある。カイスマック島でミスティンキルに出会ってから行動を共にするようになった。明朗で、人見知りしない性格。

・アザスタン:ドゥール・サウベレーン
 龍頭の衛士。金色の角を持つ蒼龍。炎の界“デ・イグ”にて、イリリエンを守護するが、ときおり龍の姿もしくは人間の姿をとってアリューザ・ガルドに現われる。

・イリリエン:ドゥール・サウベレーン(龍王)
 偉大なる深紅のドゥール・サウベレーン。デ・イグを守護し、炎を司る龍王。

 世界そのものが赤一色に染まったかのようである。
 紅蓮と灼熱が、いよいよこの島を支配したために。

 夜になったものの、なおもアズニール王朝の軍勢は熾烈な攻撃を仕掛けてきている。今また一匹のドゥール・サウベレーン(龍)が炎を放った。炎の帯を浴びた城壁は薄板のように脆く崩れ去り、城内から上がる火の手はさらに大きいものとなる。天まで届き、焦がさんとする業火を、女はなかば呆然としながら見ていた。

 ときおり、熱をともなった爆風が彼女のもとにまで届き、ぬばたまの黒く長い髪をなびかせるも女は微動だにしない。
 彼女の黒い瞳に映る光景はただ一つ。それは先ほどまで自らがいた城が燃えるさま。
 彼女の脳裏に浮かぶ情景もただ一つ。この魔導王国の王であり、“漆黒の導師”とも称される偉大な魔導師、そして女にとっては魔法の師匠であり愛焦がれる人――スガルトが、黒き剣に深々と胸を貫かれ、息絶えるさま。
 先ほどから耳元でぎりぎりと鳴る音が聞こえていたが、それが悲しさと悔しさと情けなさのあまりに食いしばっている自らの歯の音だとようやく気付いた。同時に、ふとまなじりが熱くなるのを感じとった。女は溢れる涙をこぼすにまかせ、瓦解していく城を見上げる。彼女の胸に去来するのは万感の想いに他ならなかったであろう。その想いはしかし、一つの負の感情によって蝕まれていく。
 女の瞳に映える紅蓮の炎は今や、憎しみに燃えたぎる彼女自身の炎と化したのを実感する。
(愛する師スガルト様――あなたを殺した魔導師を、ディールめを殺してやりたい――! でも私には力が及ばなかった。私にあなたほどの力があれば、あの魔導師を八つ裂きにできたのに!)

 いまわの際にスガルトが女に遺した言葉のひとつ、それは「逃げろ」というもの。そして自分は言われるままに逃げることしかできなかったのだ。城の裏手から丘を下っていく時、魔導師シング・ディールと朱色《あけいろ》の龍が天高く舞い上がっていくのが見えた。朱色の龍が鐘の鳴るような咆哮を勝ち鬨のように轟かせたその時、空を我が物顔で滑空するドゥール・サウベレーン達と、それに騎乗するアズニール王朝の兵士達が、とどめとばかりに城に炎を浴びせたのだ。
(――やはり妙だわ)
 女は訝しがった。王がこうもやすやすと倒されるものなのだろうか? たしかに魔導師ディールの実力は、スガルトに比肩するだろう。だが、暗黒と不死を追い求めていたスガルトにしては、あまりにあっけない最期であった。王は抵抗する素振りもみせず、黒い剣――レヒン・ティルル――をその身に受けたのだから。

『探せ!』
 それは、スガルトの遺したもうひとつの言葉。いったい何を探せというのか。だが、その言葉こそが王の死の謎を解く鍵に違いない、と女は思った。

 炎に照らされていた女の頭上が、急にすうっと暗くなった。
 涙を拭い、ゆっくりと見上げると、褐色のドゥール・サウベレーンが真っ赤に染めあげられた空から舞い降りてくるところであった。龍は大きな口を開き、体内に燃えさかる炎を今まさに標的に迸らせんとしている。燃えたぎる溶岩よりもなお熱いとすら伝えられる龍の息を浴びれば、人間など消し炭すら残らないであろう。
【魔導師の女よ。その命、忌まわしき力もろとも、我が消し去ってくれる】
 女の頭の中に直接、龍の言葉が入り込んでくる。と同時に褐色のドゥール・サウベレーンは躊躇することなく自らの息を女に吹きかけた。炎が女の身体に到達するまで極めて短い時間しかなかった。
 だが女にとってはそれで十分だった。たった一言ことばを紡ぐ時間があれば。魔導を発動させる言葉を女が紡ぐと、瞬時に青い色をした幕が目の前に現れ、巨大な盾のように燃えさかる炎を遮った。
 すぐさま反撃。女は右の腕を高く振り上げた。青い障壁はすぐさま球体と化し、今し方の龍の炎よりも鋭く立ち上っていく。
 自ら放った炎が魔法によってはねのけられたことを龍が知ったときには、既に青い球体は龍の身体を貫いていた。破壊の魔法によって自らが殺されたことを知るいとまもなく、龍の身体は瞬く間に霧散した。
「まだだ……。この程度ではまだ師の足元にすら及ばない……」

 しかしながら、女の命運もそこまで。
 ほとばしる炎と青い光は、アズニールの軍勢の目を引きつけるには十分すぎたのだ。怒声と甲冑の音が徐々に近づいてくるのが分かる。
 さらに、仲間を殺されたことに気づき、龍達は激しく憤った。忌まわしい魔法の匂いをかぎつけた龍達は、ついに女を見つけ、威嚇するようにまわりの空を取り囲む。その数は十匹はいようか。女が破壊の魔術に長じていたとしても、これだけの龍を相手に敵うはずもない。そもそも龍が有する魔力は、人間の比ではないのだから。

 女は見ていた。龍達の姿ではなく、その向こうに見える城を。だが、憎悪の感情にとらわれたその瞳はもはや虚ろ。
 やがて女は、嗚咽を抑えるような震える声で――自らの感情をさらけ出した。
「わが師よ。私はこの苦しみを忘れません。あなたが掴みかけた不死の魔法をこの手に……。それすらも超越する“魔法の極限”を掴み取ってみせる! どんなことをしてでも! ……そうすればまたあなたに会えるでしょう……スガルト様……!」
 女は理性を失ったように泣き――。
「さあドゥール・サウベレーンよ。私の体を焼いてみせろ! だが私は滅びぬぞ。いつの日か必ず力を手にしてみせる!」
 そして、憎しみを込めて笑った。

 龍達は業火を放つ。
 スガルトの最後の弟子、フィエル・デュレクウォーラは、こうして歴史から姿を消した。

――この体など、失ってもかまうものか! せめて、私の意識だけでも……残す!――


◆◆◆◆


 この広大な世界の名は、アリューザ・ガルドという。
 今よりさかのぼること九百年ほど昔―― まだ“魔法”という体系が確固として存在し、魔法使いによる研究が盛んであった時分。
 東方、ユードフェンリル大陸の最南端の島に一つの王国が興った。
 肉体と魂の不死を追い求めた魔導王国、ラミシスである。建国後数年間、この国の実情は不気味ながらもようとして知れないものであった。しかしやがて、ラミシスから命からがら逃亡してきた避難民達によって、この王国の狂気が明らかにされた。いわく、生け贄を使う禍々しき悪魔の儀式が毎夜のように行われているというのだ。さらに魔法学の見地からも、不死の研究とはそもそも魔法における禁断の領域にほかならない。その昔、かの冥王ザビュールを降臨させてしまったのも、時の王が不死の領域に触れてしまったことが大きな要因であったとされている。
 ついに、ラミシス打倒の勢力が決起した。この時代、世界中に版図を広げていた統一王国アズニール王朝は軍勢を集め、魔導師シング・ディールを筆頭としてラミシスに攻め入った。
 たとえ魔導に長けたディールであっても、魔導王国を取り囲む強力な魔法障壁を解くことは叶わず、緒戦は大敗を喫した。だが、龍達の協力を得た彼らは遂にラミシスに侵攻、ディールは漆黒の導師――スガルトをうち破り、魔導王国はとうとう滅びの時を迎えたのであった。



 それからさまざまな出来事と共に年月は過ぎ去り――アズニール暦一一九七年。
 魔導の力が封印されている今の時代において、魔導を巡る物語が幕を開けることとなった。
 ここに紡がれるは魔導復活の物語であり、多大な魔力をその身に有する龍人《ドゥローム》、ミスティンキル個人の物語である。


 赤のミスティンキル。
 赤とはミスティンキルにとって“炎”であるのかもしれない。
 時には激しく燃えさかり、またある時はちろちろとくすぶり、そしてほのかに暖かめるもの。それが炎。そしてそれはミスティンキルの人生そのものを象徴するものなのだろうか――。

(一)

 満天の星の中、南で一番明るいと言われるエウゼンレームがひときわ青白く煌めいて見える。街では目にすることの少ないツァルテガーンも、その横にはっきりと見える。やはりここが高地だけあって、空気も澄んでいるのだろう。砂の舞う乾ききった荒野を通り過ぎたあとだけに、この美しい夜空の情景は、今の世の平和を象徴しているかのよう。心の奥底にまで染み渡る星々の瞬き。

 空を見上げながら男はおもむろに、ほうっと息を出してみせた。春もまだ早いこの時期は、夜にもなると底冷えがするものだ。白い息はやがて夜の闇の中に溶け込んでいった。
 傭兵の男は、東方大陸《ユードフェンリル》南部へと向かう旅商達を護衛している。アルトツァーン最南部から目的地に至るまで、一月に及ぶ長旅である。この一隊は今日ようやく不毛の地、気候が厳しいことで有名な荒野を越し、夕刻には丘陵の麓へとたどり着いた。さらに丘を登っていきながら一週間を経ると、ようやくドゥローム(龍人)族の住む高地に到着する。
 アルトツァーン王国の産物の数々の到着を、ドゥローム達は今か今かと待っていることだろう。春に訪れる商人達は待ち遠しい客でもあるのだ。冬の間は荒野を猛烈な吹雪が襲うため、アルトツァーン王国への道が閉ざされていたのだから。春一番の商品は決まって高値がつくとはいえ、売れ残ることはない。
 六月にもなれば、あの荒れ狂うグエンゼタルナ海も静まるだろう。それまでの間、商人達は陸路を使い、南部との行商をするのだ。

 あたりはしんと静まりかえり、ただ聞こえてくるのは、篝火にくべた木が爆ぜる音のみ。真っ暗な草原の中では、この炎の赤はさらに美しく見えるようだ。少し離れた場所でぼうっと浮かびあがってくる白は、旅商達の天幕である。
 百人からなる商人達と数多の商品、商人の道先を守る護衛達。一列に並べば五フィーレを越す大隊商である。旅の吟遊詩人や芸人などが交じることは度々あるが、今回は彼らのほかにもさらに珍しい顔ぶれがいた。

 ――東の丘の稜線から半円状の月が顔を見せはじめた。
 あの月がすっかり姿を見せたら、今夜の護衛は次の者に任せることが出来る。故郷を離れて以来、九ヶ月もの長旅を続けてきたというドゥロームの若者に。
 任務の終わりを待ち望む彼にとって、本来白銀の光をほのかに放つはずの月の色が、ややくすぶって見えていることは、さしたる問題ではなかった。

(注釈:一フィーレは約四十五メートル)



(二)

 とりとめのない夢を見ながらも、自分の名前が呼ばれているのを意識したミスティンキルは、浅い眠りからゆっくりと覚醒していった。

 もそりと上半身を起こし、二、三度首を振る。両腕を突き上げ大きく伸びをしてから、彼は目を開けた。うっすらともやに覆われているとはいえ、あたりはずいぶんと明るくなっていた。日が昇って既に一刻は過ぎているのだろう。
 しかしなぜ天幕の中ではなく、草むらに寝そべっていたのだろうか? ゆったりとした白い旅装束にくるまるように寝ていたようだが、暖をとるにはいささか役不足であったようだ。ミスティンキルはくしゃみをひとつ豪快に放った。

 ぱさり、と肩に着物が落とされる感覚。それは雪豹の毛皮だった。
「よう、赤目の旦那。風邪ひくなよ。そいつを羽織っときな」
 ミスティンキルを起こし、毛皮を彼にかけたのは、あごひげを蓄えた中背の旅商だった。男はミスティンキルが寝転がっていた場所にどっかりと腰を落とす。
「お勤めご苦労さん。もう朝だぜ」
 それを聞いたミスティンキルは、ようやく自分の失態に気付いた。ぼさぼさになっていた黒い髪を手で整えながら、旅商の顔色を窺う。
「……すまねえ、ワジェット。思わず寝ちまったようだ」
 暖かい毛皮を羽織り、ミスティンキルは素直に謝った。故意ではないとはいえ、職務を途中で放棄してしまったのだから。
 ミスティンキルの目指す場所は、旅商達と同じ。ドゥローム達の聖地デュンサアルである。単身で荒野を越すのは危険だという相棒の忠告もあり、旅商達と行動を共にしているのだ。元来動き回るのが好きな彼は、食客に甘んじることなく、よく働いた。そして昨日の夜半過ぎから朝の刻に至るまでの間、旅商達を護る任に就いたのだが――突如襲いかかった睡魔には敵わなかった。
 ワジェットという名の旅商は、気にするなと言って、からからと笑った。
「ザルノエムの荒野越えはきついからな。ナダステルから旦那たちが旅をはじめてから三週間だ。おおかた旦那も疲れがたまってたんだろ。俺らだってこのエマクの丘あたりに着くとホッとしてよ。番をしながらたまに寝ちまったりするもんだ。……春も早いこの時期は、まだ盗賊どもや土着の悪鬼どももめったに姿を現さんし、まあ気になさんな」
「すまねえ。これから気をつける。――ところでワジェット」
「ん?」
「赤目ってのはともかく、旦那って呼び方だけはなんとかならねえかな? おれなんぞよりあんたのほうが人生経験ってやつを積んでるだろう? まあ、からかってんだったら話は別だけどな」

 背高の偉丈夫とも言えるミスティンキルの背丈は、四ラクを越すであろうか。ワジェットより頭半分ほど高い。体格も漁師のせがれらしく、浅黒い肌の腕や足はすらりとしていながらも鍛えられた強靱な筋肉がついている。彼の種族――ドゥローム――特有の切れ長の目と、縦に細い虹彩は、野生の猫や豹すらをも想起させる。
 そして――何かしらの畏怖を感じさせる、澄み渡った真紅の瞳。ミスティンキルには得体の知れない力が備わっているというのは、親族からも幼少期から言われ続けてきたこと。
 しかしながら同時に彼は、ようやく少年時代の域を脱したあたりの若者でしかない。また、ちやほやとおべっかを使われるほどにミスティンキルは身分が高いわけでもない。
「旦那って呼び方でいいんじゃねえかと思ってるんだけどよ。あんたが見た目若いからって、からかってるわけじゃねえ。銀髪の嬢ちゃんから昨日はじめて聞いたんだが、あんたは今年で五十歳だっていうじゃねえか」
 ミスティンキルは頷いた。
「けれどおれは、まだ成人したばかりだ」
「知ってる。旦那が成人する記念にこうして旅をしてるって事もな。けど……俺の村では、年上の人間は敬うものだって教えられてきた」
 ワジェットは続けて言う。
「俺はこう見えてもまだ三十二になったばかりだ。赤目の旦那、あんたよりずっと年下なんだぜ?」

 五十という歳はドゥロームにとっては一つの節目である。それは成人すること。
 ミスティンキルが故郷の島を離れてはや九ヶ月、はるばる龍人の聖地にまで旅をしてきたのも成人になるという名目があったからだ、実際にはこの旅は自分の意志にそぐわないものであり、成人というのは旅の表向きの言い訳でしかないのだが。
「そんなこと言ったら、あんたたち旅商が“銀髪の嬢ちゃん”と言ってるウィムだけど。……あいつは五十五だぜ?」
「何い?! 俺のお袋と、そう歳が変わらないってのかよ?! あの娘が?」
 予想していた通りの反応だったために、思わずミスティンキルは、にやりと笑った。
「おれたちドゥロームも、あいつの種族も寿命はさして変わらないって聞いてるからな。実のところはウィムだって、成人して間もないらしいけどな」
 ミスティンキルにそう言われても、歳の離れた妹のように捉えていたはずの人間が、じつは自分よりも年上だった事実はワジェットにとってやはり衝撃が大きかったようである。
「俺は長いことドゥローム相手にも商売をやってるから、あんたが実際は俺より年上かもしれないってのは想像がついたけど……アイバーフィンにお目にかかったのは今回がはじめてだったんだよなあ……そうかぁ、五十五かあ」
「……まあいいや。おれたちの呼び方自体は、あんたたちが今まで呼んでたとおりで構わねえよ。ウィムもおれと同じ意見だろうし。けど、あんましあいつの前で歳を話題にしないほうがいいけどな」
 先ほどと立場が逆転し、やや気落ちして肩を落とすワジェットを今度はミスティンキルが慰めることとなった。

「そういやさ、あんたがおれんところに来たってのは何でなんだ?」
 言われて、ワジェットは本来の目的を思い出した。
「ああそうだ! 朝飯が出来たってんでこっちまで知らせに来てやったら、旦那がぐうすかと心地よさそうに寝てたんだったよな。仕事ほっぽってよ!」
 ワジェットの言葉は明らかな軽口。ミスティンキルは笑いながらも肩をすくめてみせた。
「ああ、悪かったって。ウィムは何してるんだ?」
 この場所から少し離れたところにある旅商達の天幕からは、朝げの煙が立ち上っている。しかしミスティンキルの旅の相棒であり心を許せる恋人――銀髪の娘、ウィムリーフはどうやら今朝の炊事に携わっていないようだ。
「嬢ちゃんは……ほら、空飛んでるよ。久しぶりに緑の草原が見れて嬉しいんだろうな。髪を染めちまったことの気晴らしってのもあるんだろうけどな。……まあもうじき降りてくるだろうさ」
 ワジェットが指さした方向――すぐ真上の空にはウィムリーフがいた。まるで鳶《トビ》が滑空をする時のように、両の手を広げてゆっくりと漂っている。彼女の背中からは時折、かすかに光が放たれる。その様は彼女の均整のとれたすらりとした体に相まって、まるで翼をまとった天の使いであるかのよう。眼下に広がる丘陵地と、南に連なる山々。その光景とはさぞかし心地のいいものなのだろう。
「さあ、飯を食いに行こうぜ。腹ごなしが終わったら出発だ! 三週間が過ぎちまったけど、もうあと一週間の辛抱だ。そしたら旦那たちの目的地、デュンサアル山に着くからな!」
 ワジェットはそそくさと旅商の天幕へと向かう。ミスティンキルもまた、天を舞う娘に声をかけたあと、護衛用の槍を片手にして朝食の場へ向かっていった。


◆◆◆◆


 アリューザ・ガルドに住む人間は大きく四つの種族に分けられる。短命なバイラル族が国家を興し、アリューザ・ガルド全土に渡って勢力を誇る中、他の三種族は慎ましやかに暮らしていた。
 ドゥローム族もまたしかり。
 アリューザ・ガルドにおいて彼らは炎の加護を受ける人間である。彼らは長命種であり、短命なバイラル族が三世代を終える頃に、ようやくドゥロームの一世代が黄泉へ向かう眠りにつく。
 炎の界への試練に赴き、“炎の司”として認められたドゥロームは龍の翼をその背に得る。この翼は物質的な存在ではないため、アリューザ・ガルドでは目にすることが出来ない。
 なにより、彼らの特徴として特記すべきは龍化。おのが持つ力を龍王イリリエンに認められれば、その身体を龍と化すことが出来るのだ。ただし、今までの歴史の中でも、龍となれたドゥロームはごく少数に限られているというが。

 故郷から体よく追い払われたミスティンキルが目指しているのは、ドゥロームの聖地デュンサアル山である。炎の界との繋がりが最も密接とされているこの地から炎の界へと赴き、“炎の司”の資格を手に入れること。これこそがミスティンキルが望むことであった。自分を追いやった親族に対する、彼なりの復讐でもある。


◆◆◆◆


 ミスティンキルはもともと、アリューザ・ガルド南部、ラディキア群島のとある小島の出身である。彼の父は、その海域をなわばりとする漁師の長であり、ミスティンキルは次男として生まれた。
 “ミスティンキル”とは古い言葉で「まったき赤」の意であるという。持って生まれた真紅の瞳から付けられた名だ。
 瞳に宿す赤は美しく、深い。その瞳がすべてを見通すかのように澄み渡っているようにすら見受けられたので、得体の知れない力を秘めているのではないかと両親は期待し、また畏《おそ》れた。
 体格に恵まれたミスティンキルは父親の漁の仕事もよく手伝い、時として父親以上の釣果をあげることすらあったし、近所の島に住むバイラルの若者達とも親しく、彼らからよく大陸の華やかさを聞かされていた。

 だが、少年期も過ぎ去ろうとしていた頃に持ち上がったのが跡継ぎの問題である。ミスティンキルの兄は、ミスティンキル以上に両親の寵愛を受けていたが、こと漁の腕前に関してはミスティンキルのほうが一枚上手であった。
 バイラルの漁師仲間はミスティンキルをぜひ跡継ぎにと両親に推したが、ミスティンキルの親族とさらには両親までもがこぞって異を唱えた。あくまで後を継ぐのは長子である、と彼らは主張したのだ。
 ドゥロームの言い分はいちおう筋が通るものであり、ミスティンキルを推す漁師達も渋々納得したため、次期首領には兄がおさまることになった。しかしなによりドゥローム達はミスティンキルに内在する底知れぬ力を恐れたのだ。
 ミスティンキルは波止場で商売をするまじない師のように、魔法らしきものが使えていたのだ。それも、呪文の詠唱すらせずに。

 大きすぎる力は時として災いを呼び寄せるという。
 事実、歴史上においても力に魅せられたゆえに災禍を招いた例というのは数知れない。
 大いなる力を秘めた若者は、その力ゆえに徐々に疎んじられるようになっていった。成人も間近に迫った頃、ミスティンキルはついに、生まれ育った島をあとにすることを決意する。後継者候補であった自分がいなくなれば漁師同士の密やかな確執も無くなるだろう。何より親族が自分に対して向ける羨望や畏れ、特殊な者として仲間はずれにしようというような冷酷な雰囲気が堪えた。
 別れの晩餐はひっそりと、数人のドゥロームの友人とバイラルの漁師仲間によって催され、明くる朝ミスティンキルは西方大陸《エヴェルク》へと向かう船に乗り込んだのだった。両親から餞別として贈られたのはなんの皮肉だったろうか。ミスティンキルの瞳の色――赤く染まったそれは、ラディキア特産の赤水晶《クィル・バラン》であった。これを売ればどこでも土地を得て暮らしていくには十分すぎるほどの額を得るだろう。しかし、波止場には親族はもちろんのこと、兄も両親もついに姿を見せなかった。
(あんたたちが疎んじた力とやらを、おれは自分自身のものとしてやる! 龍にだってなってやるさ! そうして龍と化したおれの姿を見せつけてやるんだ!)
 船上、徐々に霞んでいく故郷の島を見ながらミスティンキルはそう決意したのだった。

 彼が目指すは、ドゥロームの聖地デュンサアル山。
 たとえ龍にはなれずとも“炎の司”の称号を得れば、ドゥロームとして高い地位を確立することになる。冷ややかな態度をとり続けた親族も、今度は一転してへつらうようになるだろう。それは大した見物《みもの》に違いない。ミスティンキルはもはや故郷に戻る気をとうに無くしていたものの、彼らの豹変した滑稽きわまりない姿だけは見てみたかったのだ。


 故郷ラディキア群島からエヴェルク大陸へ。さらに海を越してユードフェンリル大陸に至り――旅をはじめてから九ヶ月を経た今、ミスティンキルの目的地は間近に迫っているのだ。



(三)

 目に見えない翼を時折はためかせながら、ウィムリーフは優雅に空を舞っていた。昨日、仕方なく黒く染めてしまった自慢の髪のことも、空の心地よさが忘れさせてくれる。

 どこを向いても乾ききった大地がうんざりするほど広がっていたザルノエムの荒野とは違い、この丘には豊かな緑があり、雄大な山々が連なっている。その景色は彼女の生まれ故郷をも連想させ、郷愁の念すら感じさせるものであった。
 荒野では、冷たい風がいまだ強く吹き荒れていたため、なかなか空を飛ぶことが叶わなかった彼女であるが、今はこうして丘陵地帯の穏やかな風を受けながら空を漂っている。何も遮るものが無く、自由に飛び回ることが出来るというのは、本当に楽しいことだ。この格別な思いをミスティンキルと分かち合いたいと彼女は考えていた。ミスティンキルが“炎の司”となり龍の翼を得れば、二人は共に空を飛び回ることが出来るのだから。
 彼が受ける試練は、おそらく生半可なものではないのだろうが、力を持つミスティンキルなら難なく成し遂げるだろう事を彼女は予感していた。赤い瞳の彼が膨大な力を有していることに、ウィムリーフは感づいていたから。自身が多大な力を有するからこそ分かる、相手の力の大きさ。そう、彼女もまた大きな力を秘める者なのだ。


◆◆◆◆


 彼女の種族であるアイバーフィンは、“翼の民”の名で知られるように、風の加護を受ける人間である。主として西方大陸《エヴェルク》の北部に住む彼らは美しい銀髪を持ち、龍人ドゥローム同様に長命種である。
 また、風の界にて試練を乗り越えれば“風を司る者”として認められ、その背に翼を得るのだ。この翼は鳥の羽に似た形をしているらしいが、本来は物質的な存在ではないために、アリューザ・ガルドでは目にすることが出来ない。そのかわり、アイバーフィンが翼をはためかせて空を舞うときには、背中から時折光がほとばしるのを目にする事がある。

 ウィムリーフは生まれたときすでに翼を有しており、しかも風を自在に操る“風の司”でもあったのだ。それはアイバーフィンの中でも極めて稀である。おそらく出生に依るところが大きいのだろう、と彼女の両親は言っていた。ウィムリーフの祖父祖母の血筋が、彼女の代になって突如あらわれたのだろう。彼女の血統については、ミスティンキルにすらまだ明らかにしていなかった。彼にだけはいずれ近いうちに話すことにしようと、ウィムリーフは心に決めていた。

 すぐ真下から、ミスティンキルの低いながらもよく通る声が響く。自分の名を呼んでいることに気付いたウィムリーフは、にこやかに手を振って応える。対する彼は表情を現さないまま商人達が集う天幕を指さし、そのまま槍を片手にすたすたと歩いていってしまった。食事が出来ている、と言いたかったのだろう。そのぶっきらぼうな態度も最初は横柄にしか映らなかったものだが、五ヶ月近くもの間、彼と共に過ごしているうちに、いつの間にか不思議と嫌いではなくなっていた。
「まったく、あたしもなんであんな無愛想なやつとつるんでるのかしらね?」
 彼の後ろ姿を見ながら苦笑するものの、その無愛想な人間と共にいることが今となっては楽しいのだ。出会った当初は、彼女の冒険に対する好奇心を奮起させてくれる打ってつけの目的地――デュンサアル――へと向かう若者としか捉えていなかったというのに、不思議なものだ。

 これから先の行程は、日記に記す事柄もさぞかし多くなってくるだろう。うまくいけばミスティンキルと共に炎の界を見ることが出来るかもしれない。
 「炎の界“デ・イグ”への冒険記」――なんと胸おどる表題だろうか!
 冒険家たる彼女は、この旅が終わったら故郷に戻って日記をまとめるつもりなのだ。かの冒険家テルタージがそうしていたように、自分もこの旅を記録に残し、後世の人々の役に立てたい、と願っていた。また幼い頃の自分がそうだったように、本を読んだ人が好奇心に駆られ、魅入られたように次々と頁をめくり冒険行に没頭していき、最後になんとも言えぬ喜びを得て明日からの生活を希望を持って臨むようになる――そのような人の心に触れる冒険記を残していく事こそが、自分が心からやりたい事なのだ。


◆◆◆◆


 ミスティンキルから呼ばれたあとも、ウィムリーフはしばし空の散歩を楽しんでいた。しかしあの朴訥な若者は、ひょっとしたら彼女が降りてくるのを待ってくれているのかもしれない。彼女はそう思い、翼をいつものように大きく広げながらゆっくりと着地しようとした――。

「――え?」
 それは予想し得ぬ落下だった。彼女の翼は突如として揚力を失い、まるで翼をもがれた鳥のように彼女の体は急降下したのだ。
 とっさに周囲にいる風の精霊に語りかけ、次の瞬間にはなんとか体勢を持ち直したものの、彼女の背中からは一瞬だけ、翼の力が消え失せたのが明らかだった。
 生まれながらにして翼を持つウィムリーフにとって、翼を操るのは瞬きをするのと同じくらい当たり前の動作であり、間違えようがないはずなのだ。その自分がなぜ今、翼を操れなかったのだろうか?
 翼は目に見えないし、触わることすら出来ないのは分かっていながらも、ウィムリーフは不安げに後ろを見ながら手を背中にあてがう。翼がきらりと光るのを見て、ようやく彼女は安堵して再び降下をはじめた。

 降りる最中、あらためて注意深く周囲を見渡すが――ふと彼女の感性に訴えてくるものがあった。
 はたして山々の稜線というのはこんなにも薄ぼけて見えるものだったろうか? 空の色や草の緑すらもどことなく色あせて見えるのは、果たして気のせいなのか? 今し方までは思いに耽るあまり、注視していなかった景色が、どこかしら普段と違って見えていることに気付いたのだ。
 何も知らない旅人であれば、ユードフェンリル大陸のみが持つ独特の色合いだと説明されれば納得するかもしれない。が、彼女は冬の四ヶ月もの間、ミスティンキルと共にこの大陸に逗留していたのだ。そのようなことがあろうはずはない。このくすんだ色合いは、世界そのものに異変が起こりつつある兆しではないだろうか。冒険家として彼女はそう直感した。



(四)

 この朝、ミスティンキルは穀物商人達と朝げを共にしており、湯気の立つ麦粥を食らっていた。そして商人から麦酒の入った木杯を受け取ったとき、ウィムリーフが顔を覗かせた。
 途端、ウィムリーフの顔があきれ顔になる。
「なあにミスト、朝から酒なんて飲んじゃってさ。酔いつぶれてもあたしは知らない……あ……」
 当のミスティンキルは、ウィムリーフの言葉を最後まで聞かずに、麦酒を一気にあおり、心地よさそうに息をついた。
「ようウィム。そうカッカすんなって。ここに来てけっこう寒くなってきてるだろ。だけどこいつを一杯飲めば体が温まるんだぜぇ?」
 悪びれもせずに言ってのけるミスティンキルに、ウィムリーフは肩を落として見せた。普段のやりとりから考えても、彼女がそんなに怒っているふうではなさそうなので、ミスティンキルはそれ以上何も言わずに隣の場所を指さした。ウィムリーフは彼の横に腰掛ける。
 商人達はウィムリーフにも酒をすすめる。が、彼女はやんわりと断った。
「いいですよ、あたしは。ご飯を食べに来ただけなんだから」
「ありゃ、そいつは残念」商人の一人がおどけてみせる。
「ミストも、今朝はそれ一杯だけにしとくのよ?」
 とミスティンキルに釘を差し、ウィムリーフは粥をよそおうとした。
 しかし先ほどからミスティンキルが自分を――正確には自分の髪を注視しているのが気になり、やや不安そうな面もちでミスティンキルを見た。座った状態でミスティンキルのほうが彼女より頭半分ほど高いため、見上げるかたちになる。
「なに?」
「けっこう馴染んできたんじゃないかって。その髪の色」
 その言葉を聞いた途端、彼女の顔がやや渋った。襟首までの髪の毛を目の前まで持ってくると眉にしわを寄せて唸るのだった。
「……うーん……けっこうあたしも気になってるのよねぇ……」
 商人が彼女の分の粥をよそったのにも気付かず、ウィムリーフは自分の髪にじいっと見入っていた。
 彼女は、光を放つかのような見事な銀髪を昨晩、黒く染め上げたのだ。
 黒い髪はまるでバイラルの一氏族、カラカ・ダーナびとのよう。さすがに群青の瞳まで黒く染め抜くことは出来なかったものの、端から見て彼女のことをアイバーフィンだと気付く者はまずいないだろう。

 “デュンサアルに住むドゥロームは、アイバーフィンを快く思っていない。”
 旅の途中で彼女は何回かこの言葉を耳にしていたが、商人達からあらためてその言葉を聞いていた。実際に彼らと商売をしている商人達の言葉だけに聞きおけない。ドゥローム達の領域に入る前に、仕方なく彼女は自慢の髪を染めることにしたのだ。
 ――遙かな昔のこと。ドゥロームとアイバーフィンは翼を持つ者同士、空の領有を巡って争ったことがあると伝えられている。そのような遺恨など、歴史の激流の中にとうに埋もれて消え去っていたものとウィムリーフは考えていた。さらに当のドゥロームであるミスティンキルですらも。
 しかし、古くから聖地に住みつづけていたドゥローム達の考え方はどうやら違うらしい。特に聖地近くに居を構える“司の長”達は、商人達の言葉を借りると「考えが古い連中」なのだ。

「嬢ちゃんが銀髪のままでも、さすがに理由も無しに命を狙われるってことはないだろうけどね。なんにせよ、あんたらにとっちゃあそこは、はじめて足を踏み入れる場所だ。それにアイバーフィンはウィムリーフ、あんた一人だけで、あとはみんなドゥロームだ。なにが起こるか分からないから、念を入れておくに越したことはないよ。……それにさ、その髪だって似合ってるじゃないか。それに相変わらずかわいいよ。あたしが男だったら必死で口説きにかかってるもの」
 ウィムリーフを慰めるように、女商人が言った。
「……そうかな?」
「そう! あとは……ほら、そこでもう一杯飲もうとしてる旦那、ほんとはこういうことは、まず最初にあんたから言わなくちゃ!」

 ウィムリーフが髪の毛に魅入ってる隙をついて、密かに酒をつごうとしていたところを見とがめられたミスティンキルは、酒瓶をもとの場所に戻す。しかし、やはりウィムリーフからは小突かれた。
「痛ぇっ……。まあ、そうだな。似合ってんじゃねえか?」
 小突かれた脇腹を押さえつつ、いかにもぶっきらぼうに言ってのける。
 が、その感情を抑えた口調は、単なる照れ隠しに過ぎないことはウィムリーフには分かってしまっているだろう。
「それに黒く染めてるのもデュンサアルにいる間だけだ。ちょっとの間、辛抱してくれ」
「……ありがとう。まあ誰かに狙われたって、飛んじゃえばこっちのもんよ! それに、いざとなったらあたしのブーメランで蹴散らしちゃうしね!」
「はっは……ちがいねえ。嬢ちゃんのブーメランは百発百中だもんな。昨日の晩飯の見事な鹿肉! あの鹿だって嬢ちゃんが空から狙いをつけて倒したんだぜ……」
 そうして再び会話が弾んでいき、朝げの場は和やかな雰囲気に包まれていった。もう半刻もすればこの歓談の時間は終わり、再び旅がはじまる。


 ウィムリーフは商人達には語らなかったものの、ミスティンキルには自分の不安をそっと打ち明けた。色の異変のこと、そして翼の力が一瞬失せたことを。
 最初はミスティンキルも朝もやのせいだろうと考えていたのだが、言われてみれば空はからっと晴れ上がっているのに色がくすんで見えるのはなぜなのだろうか、という疑念に駆られはじめた。それと、ウィムリーフの翼が一瞬力を失ったというのに関係があるのか?
「大丈夫だろうよ、ウィム。なんとも言えない……変な感じだけどな。すぐにもとに戻るさ」
 相棒を不安に陥れないようにと、彼なりに注意を払いながらミスティンキルは言った。
「そう……デュンサアルの“司の長”たちだったら、なんかしら知ってんだろう。デュンサアルに着いたらすぐ、おれは訊いてみる」
 昼過ぎになって天候は一変し、濃い霧が立ちこめはじめたため周囲の景色は見えなくなった。しかし色が見えないという事が、かえってミスティンキルとウィムリーフを不安にさせた。


◆◆◆◆


 そして、彼らのひそかな不安は的中した。
 エマクを登りだしてから二日目には、景色の見え方が普通と違っていることに、全ての者が感づいていた。
 晴れ渡っているというのにも関わらず、山々はまるで霞がかかったように薄ぼけて見える。また草木が萌えるこの季節、エマクの草原は若々しい緑で満たされるはずなのに、自分達が目にしているのは灰ですすけたような色あせた緑でしかない。さらには紺碧であるはずの空すらも、くすんで見える。


 アリューザ・ガルドから、色の持つ艶やかさが徐々に失われようとしていたのだ――。

(一)

 自然の景色がおしなべて色あせて見えるのに対し、旅ゆく商人達の姿や衣服などは以前と何ら変わらなかった。雲一つない灰色の空から注ぐのは、太陽の鈍い光。それは春の暖かな陽光とはほど遠く、むしろ薄ら寒さすら感じさせる。

 くすんだ色合いの風景の中にあって、自分達の輪郭がやけにくっきりと見えるというのは不自然きわまりない。景色が変容してから二日ほど、商人達は声高らかにこの不気味さを言い合い、またそうすることで自分達の不安をうち消し合っていた。だが、三日目が過ぎ、風景の様子がいまだに戻らないことに、いよいよ恐怖を覚えた商人達は言葉数も少なくなり、黙々と丘陵地を登っていくようになった。
 ともすれば陰鬱になりがちな商人達を励ましたのは、明るさを失わないウィムリーフであり、音楽を奏でる旅芸人達であった。さらには愛想が悪いなりにミスティンキルも、しきりに商人達に声をかけるようになっていた。ミスティンキルの生まれは海のそばであるが、もともとドゥロームというものは山に居を構え空を友としていた人間である。今こうして山々に囲まれた高地にいること自体がミスティンキルの心を落ち着かせるのだ。
 周囲の山岳地帯の至るところにドゥロームの村落がある。この日は空を滑空して狩りをする住民をときおり見かけることがあったが、次の日からはぱったり見なくなった。


 エマクの丘を登りはじめて六日目、翌日にはデュンサアルに着くという日のこと。旅商達は道行く葬列に遭遇した。このあたりにしては大規模な葬儀だ。彼らは百人をゆうに越えており、三百名ほどにも達するかと思われた。葬儀に参加する者達はみな一様に赤い長衣をまとっていた。猛々しく立ち上る炎を象った刺繍が施された赤い衣装こそが、ドゥロームの正装である。葬列の衆は松明を手にしており、そこからは色あせた炎がちろちろと弱々しく、くすぶっていた。
 ミスティンキルは旅商の列から離れ、彼らの一人に声をかけてみた。
「なんだ、よそ者か? あんた」
 その男はミスティンキルの言葉遣い――抑揚の違いを訝しんでいるようであった。そしてなにより、赤い瞳も。
 ミスティンキルは男の物言いに憤りを感じたものの、死者の手前もあり怒りを収めた。
「……ああ、おれはラディキアの島からやって来た。ここに来るまで九ヶ月だ。……人が亡くなったのか。……ニーメルナフの力もて、汚れ亡き魂が、無事にかの地にて安らぎをえんことを」
 ミスティンキルの言葉は、死者の魂の冥福を祈る言葉。男は礼を述べると、死者のことを語りだした。
 棺の中にて眠るのは老夫婦。“炎の司”であり、この近くの村の長でもあった彼らは既に二百の齢を重ねていたが、残念なことに寿命による往生ではなかった。腕のいい狩人でもあった夫婦は昨日、普段どおり獲物を狙っていたが、どうあやまったのか二人共に空から落ちてしまったのだという。
「あれほどの名手が翼をいきなりたたむなんて考えられんし……この景色の不気味な色合いのせいだろう、と考えるほかない。まったく、この“色”は何なんだろうな? これこそ、なんかしらの呪いなのかもしれないと、俺たちは思っているんだが」
 男はそう言ってやりきれなさそうにかぶりを振る。
「おれたちもこの“色”には心底まいってるんだ」
 ミスティンキルは言った。お互いの抱いた第一印象から抜け出すことが出来ず、会話はいまだにどこかしらぎこちないものとなっている。
「……おれはこれからデュンサアルに行く。“炎の界”で試練を受けるために。ついでに、景色がくすんで見えることについて“司の長”たちに聞いてみようと思ってる。おれたちには分からない何かを、ひょっとしたら知ってるかもしれないしな」
「試練を受けるのならば、ぜひとも長たちには会うべきだろう。だが、俺も先ほどあんたに対して失礼を言ったが、デュンサアルの長たちも同じような事を言うかもしれん。こう言うのも何だが、海に住むドゥロームはドゥロームではないとすら考えているようだからな」
 離れゆく葬列に気付いた男は最後に「試練の成功を龍王様に祈る」と言い残して、ミスティンキルと別れた。
(あいつ、気に入らねえな。はなからよそ者扱いしやがって。でも長の連中ってのは、もっと気に入らねえかもな)

 ミスティンキルは隊商の列に戻った。憤りながらも彼は別のことを同時に考えていた。景色のくすんだ色合いは、世界そのものに何らかの影響を及ぼしているのだ、と確信したのだ。
 こういった考えに至る人間は数少ない。本当に偉大な魔法使い――魔導師とは、術を発動させる際にいつも、世界の運行そのものを視野に入れているものなのだ。しかし、今の世の中に魔導師と呼べる人間など皆無であろう。
 本人は未だ自覚していないものの、ミスティンキルはやはり生まれながらにして魔法使いの才覚を持っていた。


◆◆◆◆


 この夜、ミスティンキルは久々に護衛の任に就いた。深夜には満天に星々が瞬くものの、それはむしろ彼の心をかき乱す。夜の星々や月さえもが弱々しく光るように見えてならなかったからである。
 今日までであれば、高地にいること自体が彼の心をいくらか救ってくれていた。色はくすんだとはいえ、澄んだ空気と山々の雄大さは変わることがない。しかし昼間の葬列を見て以来、色あせた景色を見ること自体に嫌気が差していた。

「……眠っといたほうがいいんじゃねえのか?」
 ミスティンキルは後ろの気配に対して声をかけた。
「へえ、あたしだって分かった?」
 ミスティンキルは言葉に出さず小さく頷いた。ウィムリーフの体内に有する“力”が彼自身の“力”と共鳴するのか、これはウィムリーフの気配である、と分かってしまうのだ。
 また、彼女が今夜ここに来るだろうことを何とはなしに予感していた。このところ気丈に振る舞ってみせるウィムリーフだが、それは空元気に過ぎないことをミスティンキルは気付いている。またウィムリーフも、寡黙な若者が抱えている不安を知っている。だから彼らは今、こうしてたたずんでいるのだろう。自分を、そしてお互いを安心させるために。
「なんか……眠くなくなっちゃってさ。暇つぶしがてら、あんたのとこに来てあげたわけ。感謝なさい?」
 ほんの少しとはいえミスティンキルより年上の彼女は、ときおり彼に対して姉のように振る舞うことがある。当初は小やかましくも感じられたものだったが、五ヶ月の共同生活の中でミスティンキルも次第に慣れていた。
「……勝手にしろよ」
 といつものように素っ気なく言う。

 暖をとる炎と向かい合う彼らだが、火の色すらもあせている。この不自然な色合いを避けるようにするうち、二人はお互いの顔を見合わせるようになっていた。
「今日までの日誌をつけるのはまだ楽だったけど、明日からは日誌に書くことがもっと多くなりそうで大変かもね。でもはじめて見るドゥロームの聖地だもの。しっかりと目に焼き付けておかなきゃ!」
「……色のこと、やっぱり不安か?」
 口数の少ないこの若者は、前ふりをおかずに核心から話し始めることがままある。話を中断させられるかっこうとなったウィムリーフは苦笑をしつつ、彼の言葉に頷いた。
「うん。疲れるのよねぇ……。無理してがんばって見せてるっていうの、自分でも分かっちゃうから。気晴らしに飛んでやりたいところだけど、それをやっちゃったらせっかく髪を染めてる意味が無くなっちゃうし、それに……落ちるのは怖いし」
 ウィムリーフは明らかに、自分の翼が失われることを恐れている。ミスティンキルは彼女の肩をそっと抱くと、彼女の顔のそばで言った。
「……ウィムの力が無くなったわけじゃないだろ。これはおれの勘だけどな、色がおかしくなったことで自然の力が弱まってんじゃないかと思ってるんだ。……見ろよ。この火だって、これだけ薪を入れてるってのにたいして暖かくならねえ。じゃあ風の力はどうだ?」
「……そうね。風の流れ方が明らかにおかしくなってる。流れ方が遅くなっているというか滞ってるというか……」
 風の司でもあるアイバーフィンの娘は即座に答えた。
「な? おかしくなってんのは自然の力だ。あの時、翼が消えたのだってお前のせいじゃない。そこは安心しろよ」
 少々強引なこじつけであることが自分自身でも分かっていながら、ミスティンキルは言ってのけた。ウィムリーフの不安を追い払ってやりたい一心から。
「へええ」
 対するウィムリーフは、ミスティンキルの考察を見事と思ったのか、感嘆を漏らした。
「大したもんね、ミスト。そういう言い方、安心するわ……ずうっと昔、魔導師たちがいた頃の魔法学の講義を聴いてるみたいね。ひょっとしたらあんた、魔法使いとして食べていけるんじゃない?」
 ミスティンキルは笑った。
「馬鹿を言えよ。今いる魔法使いなんて、いんちきなまじない師と変わりねえだろう? そんなうさんくさいもんになるつもりはないね。おれには漁師のほうが向いてる……それに今のおれは“炎の界”のことしか頭にないんだ」
「“炎の界《デ・イグ》”での試練ね……どういったことをするのか、あたしも見てみたいな。冒険家のたまごとしては、すごく興味あるもの」
「やっぱり、ウィムも行きたい、か……」
 ウィムリーフは力強く頷いた。
 彼女が自分と一緒に“炎の界”に行きたがっているという事は前にも聞いたことがあるが、彼自身連れて行っていいものだか見当がつきかねた。ウィムリーフがついていてくれれば自分の心が安らぐし、彼自身としてはついてきて欲しかった。だが、アリューザ・ガルドとは全く様相を異にする世界へと連れて行くことは問題にならないだろうか。火に属する自分はともかく、風に属するアイバーフィンを果たして“炎の界”が受け入れてくれるのだろうか。なにより、デュンサアルの住民に見とがめられたらどうするのか。
「まあ、“デ・イグ”への入り方が分かるのはドゥロームだけなんだし。無理な話だと思ってるんだけどね……いつものあたしだったらごり押ししてただろうけどさ。……忘れてくれてもいいよ」
「悪いな。今のおれからはなんとも言うことができねえ」

 その後、二人は鈍く光る陽光が東の空を薄紅色に染めるまでの間、語り合った。商人達のこと。二人が歩んできた旅のこと。昔の自分のことなど。
 ミスティンキルとウィムリーフが出会ったのは五ヶ月ほど前のこと。西方大陸《エヴェルク》から東方大陸《ユードフェンリル》へ渡る途中の島で、ごく小さな出来事をきっかけに知り合い、以来行動を共にするようになっている。
 話し込むうちに眠気はもちろんのこと、いつしか不安は吹き飛んでいた。ミスティンキルにとってウィムリーフは、かけがえのない女性になっている。ウィムリーフもまた、同じようなことを考えているのだろう。種族の違いなど、もはや些細なことにしか過ぎない。


◆◆◆◆


 明くる日、やや急な斜面を登りきると、それまで左右に迫っていた大きな岩の壁も切れた。そして、望んでいた景色が広がる。この時、商人達にとっての旅はようやく終りをむかえた。そしてミスティンキル達にとっても。彼らはとうとう目的地にたどり着いたのだ。

 “炎の界”に最も近いとされるドゥロームの聖地デュンサアルをはじめに見たとき、ミスティンキルは少なからず落胆した。聖地と言うからには、アルトツァーン王国の王都ほどでないにせよ、地方の小都市ほどの華やかさくらいは持ち合わせているのだろう。もしくはまるで神殿のように、象徴たる炎が柱をかたどり、その柱が赤々と辺り一面を取り巻いているのかもしれない。そんな彼の想像とはおよそかけ離れていたのだ。
 拍子抜けしたのは彼だけではなく、ウィムリーフもまた同様であったろう。
「本当にここがデュンサアルなの? 聖地なの?」
 と、商人に念を押して訊いていた。

 森と山々とに守られた小さな盆地。素朴で閑静な村。それがデュンサアルだった。
 平地と呼べる場所はごく限られていたものの、そこには客を迎えるための宿や酒場といった施設が、質素ながらもあった。
 低いながらも急峻な岩山の斜面のそこかしこにへばりつくようにして、堅牢な石造りの家々が密集している。それらの集落からさらに上を見ると、山の頂に近いところにやや小綺麗な建物の集まりがあった。それが、“司の長”達が住む地域なのだろう。
 目指すデュンサアル山は――岩山同士を縫うように登っていき、その先にある平原を越えたところに存在している。山そのものは高くはないものの、どっしりと構えた雄大な姿は聖地として相応しいものだった。この山のどこかに、“炎の界”へと通じる門が存在するのだ。
(はやいとこ、炎の界――“デ・イグ”に行ってみたい!)
 ミスティンキルは、はやる気持ちを抑えながら、商人達と、そしてウィムリーフと共に旅籠へと向かう。夜を徹したこともあり、ウィムリーフのまぶたは重そうである。
 ミスティンキル自身もかなり疲労がたまっていることを自覚していたが、それに勝る意思があった。旅籠で一息入れたあと、すぐにでも“司の長”達に会いにいくのだ。




(二)

 炎を象徴した赤い長衣。それがドゥロームの正装である。司の長達に会うにあたって、ウィムリーフがミスティンキルに半ば押しつけるように着させたのだ。長という立場の人間に会うのだから、身なりを整えるべきだというのが彼女の考えであった。一方のミスティンキル本人はわざわざ着替えることもないだろうと考えていたのだが、「しゃんとしなさい」という彼女の言葉に一蹴されてしまったのだった。

 こうして赤い衣を身にまとって旅籠をあとにしたミスティンキルは、宿の女主人から教えてもらったとおりの道を辿り、“司の長”達が住む地域の麓までやって来た。
 しかしながら、そこから長達の住まいがある岩山の頂きに到着するまでは、思った以上に時間がかかってしまった。傍目から見て大した高さではなさそうだったのだが、そう簡単に事は運ばなかったのだ。山の頂へと向かう小径は狭く、岩山の緩い斜面をあちらに行き、またこちらに戻るといったふうに、つづれ折となりながら延々と続いていた。
「やっぱり……ウィムに頼んで、ここまで運んでもらえばよかったよなぁ……ああ、でもあいつ、翼を使うのを怖がってたんだっけ……」
 山道を登っている最中、何度もミスティンキルは思ったものだ。空を舞う翼さえあれば、このような苦労をせずに済んだのだから。かつて海と共に暮らし、鍛え抜いた体を持っているミスティンキルではあるが、昨晩の護衛のために一睡もしていないこともあって、今や疲労の極致にあった。ウィムリーフの言葉どおり今夜一晩は旅籠でゆっくり休めば良かったのだ、と心の声は囁くが、ミスティンキル本人は依怙地に否定した。

 息を上がらせながら、やっとのことで山道を登りきったその時、鐘の音が山の麓から春の風に乗るようにして聞こえてきた。
 ミスティンキルが泊まっている地域で打ち鳴らされているそれは、一刻ごとに時を告げる鐘である。ミスティンキルと商人達がデュンサアルに到着した時分にも折しも、鐘が鳴っていたことから察すると、この山道を一刻ちかくに渡って登り続けたことになるのだろう。
 流れる汗のために顔にまとわりつく黒い髪が疎ましい。ミスティンキルは汗を拭いながら、自分が歩いてきた道を振り返った。ちょうど見下ろした位置には、自分達が滞在する集落の屋根が見えていた。そして家々からそう離れていない広場に見えるのが灰色にくすむ天幕。その周囲で動き回る小さな影は、商人達であろう。
 天幕が貝殻ほどに小さく見える場所まで、また引き返さなければならないのかと思うと、気が滅入りそうになるが、あえて忘れおくことにした。
「翼を持つ長の連中にとっちゃあ、こんな山の上に住んでても何の不便もねえってことかよ!」
 悪態をついても何にもならないが、もとから気に入らない長達のことがさらに憎たらしく思えるようになっていた。
(海のドゥロームなんてドゥロームじゃねえだと? アイバーフィンが嫌い? ……はん! 高いところから人を見下ろして、偉そうに暮らしてる奴らなら、そうも思うだろうよ!)
 面倒なことはすぐに済ますに限る。早く長達に会って、そして早くウィムのもとに帰ろう。
 そう思い、ミスティンキルは息を整えると、目の前に立ち並ぶ建物の中でもひときわ大きく目立つ館――“集いの館”へと向かっていった。

(注釈:一刻は約一時間半に相当。一日は十六の刻に分割される)


◆◆◆◆


 そして、再び鐘の音が流れる。
 館の柱の一つに背を預けて座り込んでいるうちに、さらに一刻が過ぎたことをミスティンキルは知らされた。弱々しく光を放つ太陽は、既に西へと傾きはじめ、屹立する山々に夕刻を告げようとしている。

 今のミスティンキルは、不愉快と焦燥感の固まりと化していた。なにせ長達のいる“集いの館”に着いたはいいが、館を前にして聞く鐘はこれで二回目なのだから。
 彼は待ちぼうけを食らっていた。
 ミスティンキルは舌打ちをして、右横にある扉を恨めしそうに見上げる。石造りの立派な扉には、炎を象った大層な意匠が施されてある。しかしながら扉は今も固く閉ざされ、向こう側から人が現れる気配は全く感じられない。あとどれほど待てばいいというのだろうか?
 ミスティンキルが最初に扉を叩いたとき、館の中から顔を覗かせた男が「ちょっと待ってくれ」と言ってから、まるまる一刻もの時間が過ぎてしまったのだ。
 彼は腕を大きく上にあげて伸びをしたあと、疲れと眠さのあまりくっつきそうになる瞼をごしごしとこすり、そして再び背を壁に預けて座り込む。腹立ち紛れに目の前の地面を叩いたところで、けっきょく彼の憤りは収まるはずもない。
 元来ミスティンキルは、けして気の長い性分ではなかったものの、待つことに関しては辛抱強く耐えられた。それは彼がまだ漁師のせがれとして暮らしていたとき、自然と身に染みついたものである。ラディキア沖で魚の群がやってくるまで二刻も三刻も待つことはざらだったからだ。

 しかし今、彼は苛立っていた。長達は「会議中である」として、いっこうに姿を現そうとしない。いい加減にしびれを切らしたミスティンキルは立ち上がると、“集いの館”の周りを大股で闊歩した。
 この館はバイラルの国々に見られるような、宮殿の華麗さや城塞の威圧感は持ち合わせていない。ほんのごく小さな地方の領主が住まうであろう程度の造りである。それでも、デュンサアルにある建造物の中にあっては豪奢といえた。それはデュンサアルに住むドゥローム達がおしなべて質素かつ堅実な生活を送っているからに他ならない。
 ミスティンキルはぐるりと一周を回ってみたものの、館の窓はいずれもカーテンがきっちり降ろされており、中の様子を伺い知ることはできなかった。

 会議の内容は間違いなく“褪せた色”の件についてであろう。宿の女主人に聞いていたところでは、「長様《おささま》たちの館では、かれこれ三日三晩も話し合いが続いている」という。しかし彼らはなんと長いこと話し合えば気が済むというのだろう。ラディキアの漁師達も寄り合いをすることがあるが、長くても一刻以上はかからない。最後には決断権を持っている漁師の長の一声で決まるのだから。
(いまの事態が普通じゃねえってのは、おれにも想像がつくが。しかし、だらだらと話し合ったところで、答えなんか出るのかよ?)
 いくらなんでも休憩なしに会議を続行するわけはないだろう。
 ミスティンキルはそう思い、一刻前に取り次いでもらった龍人と話すために、扉を強めに叩いた。
 ややあって、中からくぐもった声が聞こえてきた。
〔誰だ?〕
 その言葉は、いまの世では滅多に使われなくなったドゥローム語。そしてこの声は、一刻前に言葉を交わしたドゥロームのものだ。
〔さっきの者……ミスティンキルです。あの、だいぶ前から待ってんだけど、会議が終わるのは、まだとうぶん時間がかかるんですかねえ?〕
 言葉を荒げながらミスティンキルは扉の向こう側に言った。

 しばしの沈黙のあと、扉がぎいっと音を立てて内側に開いた。扉から顔をのぞかせた者は青年のようであり、ミスティンキルよりやや年上である程度のようにもみえるが、その物腰から実際のところは相応の年を重ねたドゥロームであることが伺い知れる。彼はミスティンキルの頭からつま先までをじろじろと眺めた。長時間にわたる会議のためか、彼のやや虚ろとなった眼差しからは焦燥感が感じられた。
〔入れ。今ようやく俺達も休憩に入ったところだ。……お前の用向きは……何だ?〕
〔デ・イグに行って試練を受けたいのです〕
〔ならばついてくるがいい。俺はファンダークと言い、“司の長”の一人だ。お前を長たちに引き合わせよう。“デ・イグへ向かう者は炎を尊び、炎を司る者を尊べ。さすれば龍王の加護あらん”と、我らドゥロームの言うからには、な〕
 ミスティンキルは、その男に先導されて薄暗い玄関へと入っていった。
(長さまだか何だか知らんが、えらそうな口調をきくやつだ。だいたいおれの用件なんざ、一刻前もおんなじことを言ったじゃねえか。二度も言わせるなよ)
 と内心苛立ちながら。


◆◆◆◆


 会議室の扉が重々しい音を立てて両側に開けられた。
 大部屋を照らすのは、窓から入り込む弱い西日と、壁の燭台にたてられた幾本かのロウソクのみであり、やや薄暗かった。部屋の中央には円卓が置かれ、“司の長”と称される五人の龍人達が、卓を取り囲むようにして深々と座っていた。が、扉のそばに立つ見慣れぬ訪問者――ミスティンキルの姿を認めると、この訪問者へと視線は集中した。
 そのまとわりつくような視線を嫌うかのように、ミスティンキルは目を泳がせると、部屋の奥にあるものにふと目を留めた。そこには天上から吊され、床にまで届く大きな壁掛けが掛けられていたのだ。
 意匠もまた見事であり、真っ赤な躯を持ち大きく翼を広げている雄々しい龍を中心に据え、炎が龍のまわりを取り囲んでいる。この深紅の龍こそが龍王イリリエンに他ならない。炎の界“デ・イグ”を統べ、ドゥール・サウベレーンの頂点に立つ深紅の王。アリュゼルの神々によって人間達が創造されるよりさらに以前に、アリューザ・ガルドに顕現した最初の龍。イリリエンの力はディトゥア神族にも匹敵する。あるいはディトゥアより上位の神であるアリュゼル神族にすら肩を並べるかもしれない。かつて“黒き災厄の時代”に黒き神ザビュールが降臨した際にも、龍王は龍達の先陣を切って魔界に至り、忌まわしき冥王と相対したと言われている。

 そのイリリエンの壁掛けを背にするようにして腰掛ける老ドゥロームこそ、長の中でももっとも地位の高い者だろう。右奥、目を閉じて腕組みを崩さずにいる大男は、長老格の者よりもやや年若くもあるが、初老の域に達しているに違いない。そのほか、右手前には明らかに疲れ果てた表情をしている痩せた男、左奥のミスティンキルから目を離すことなく鋭い視線を投げかけている壮年の男と、同じくミスティンキルを見つめる左手前に座す男。彼らこそが、炎の事象にもっとも長じている“司の長”であった。
 ミスティンキルを案内してきた今一人の司の長――ファンダークも、もっとも手前の席に腰掛けると、扉を背にして棒のように突っ立ったったままのミスティンキルを一同に紹介した。
〔エツェントゥー老、それに皆さま方。……この若者は、試練を受けるためにデ・イグに行くそうです。その前に我ら”司の長”に挨拶したいとのことで、連れてまいりました〕
 エツェントゥーという名の長老は静かに頷いた。
〔我らを訪れたというのは賢明だな、若いの。そして我らもちょうど会議を休もうとしていたところで都合が良かったというものだ。さあ、名乗るがいい。そして、どこからやってきた?〕
 右前に座わる痩せた男が聞いてきた。
〔名はミスティンキル。ミスティンキル・グレスヴェンド。……ラディキアからやってきました〕

〔そうか、ラディキアか! ……はっは。あの海洋に浮かぶちっぽけな島のいずこかからお前は来たというわけだな?〕
 ミスティンキルの出身地を聞いた途端に笑い出したのは、右奥に腰掛ける初老の大男だった。歳を経たとはいえ戦士といっても差し支えない鍛えられた肉体を持つ偉丈夫は、豪快に笑った。
〔わざわざここデュンサアルを訪れ、試練を受けたいとはな。“ウォンゼ・パイエ”らにも、炎を尊ぶ心がまだ残っておるとは思わなんだ。ご大層にも我らドゥロームの真っ赤な正装で着飾りおって。俺はてっきり、海の者達の正装は、青――波打つ海を織り込んでいるものと思っていたぞ〕
 腕組みをしていたその男の言葉にはあからさまな侮蔑が込められていた。
〔ウォンゼ・パイエ……つまり、海蛇の落人《おちうど》だと?〕
 ミスティンキルは嫌悪の念をあらわにして、じろりとその男を見やった。

 海に住むドゥロームはドゥロームではない、と長は考えている――。

 事前にこの噂を聞いていただけに覚悟は出来ていたつもりだったが、こうして自分が実際に蔑みの言葉を浴びせられると、かあっと頭に血が上っていくのが分かる。
 男はミスティンキルの表情を気にも留めない様子で、さらに言葉を続けた。
〔さよう。龍でもない。海蛇よ。これはもう遠い昔のことであるが……我らドゥロームは、もともと翼を持ち、山を住まいとしていた龍の民であった。これくらいはお前でも知っていよう? しかし、鳥人達との戦いがあり、我らと鳥人は共に神の裁きを受けた。結果、我らの翼はもがれ、デ・イグでの試練を受けぬ限り、アリューザ・ガルドでは得難いものとなってしまった。翼を無くしたというのは、あの鳥人達も一緒だが……こともあろうにその後に連中はアイバーフィン、つまり“翼の民”であると名乗りおった。我らとて翼を持つ民であることには変わりないというのに……我らのことを差し置き、“翼の民”を名乗るとは、けしからん傲慢な連中よ! ……なあ、長の衆よ〕
 一同は、もっともだと言わんばかりに頷いた。男は言葉を続ける。
〔まあ、鳥人のことはさておいて、だ。……かの“天空の会戦”によって失われたのは翼のみにならなかった。アリューザ・ガルドとデ・イグとをつなぐ門をも我らは失ったのだ。その時から我らはもといた大地をあとにして、失われた門を再度見つけるために探求の放浪を続けた。そして長きに渡る流浪の末、とうとう新しい門を見つけたのだ。それがここ、龍人の聖地デュンサアルだ。門を見つけ、そしてここに住まうことを我らは誇りに思う。――だが、一部の者にとってはそうではなかったようだな。山への郷愁を忘れて放浪を止めてしまった者、海辺にて暮らす者。真摯な意志を捨てて安穏と暮らす落伍者……それがお前の祖先だ。海蛇の落人よ〕

 この言葉を聞いたとき、ミスティンキルは自分の抑えが効かなくなっていることに気付いた。そして気付いたときには既に言葉が出ていたのだった。
「落ちこぼれだと? おれたち海に住む者が?! ……このじじい、言わせておけば勝手なことを!」
 ミスティンキルは男に殴りかかろうとしたが、手前に座っていた長の二人に制止された。
「離してくれ! おれたちだって毎日一生懸命に働き、誇りをもって生活をしてるんだ!」
 ミスティンキルは強引に振り解こうとするがかなわなかった。
「なのに、あいつはおれを馬鹿にしやがったんだ! 許しておけねえ! それとも……あんたたちも所詮あいつと同じだっていうのか? そうなんだな? なんせ長の仲間うちだものなあ! おれのことなんざ、卑しいやつだって程度にしか考えてねえんだな?!」
 ミスティンキルは赤い瞳をめらめらと燃えたぎらせ、司の長達の顔を鋭くねめつけた。
〔……おまけに粗野ときたものだ。礼儀知らずめ。我ら長に対してよくそのような不敬な言葉をつかえるものだ。いや、ものをよく知らないと言うべきか?〕
 当の男はそしらぬ顔で肩をすくませるだけだった。
〔まあ、お前のドゥローム語は訛りがひどく、何を言っているのだか、我らには聞き取りづらいのだがな。ドゥロームの言葉よりも、バイラルの言葉をよく好んで話すようだ。所詮は気高き誇りをうち捨てた、海の者よ〕

 憎悪と怒りに包まれ、我を忘れそうになったその時。
 ミスティンキルは自分の中から何かが放たれたのを認知した。瞬時にして、彼の視界に広がるもの。それは霧のような赤い色だった。純粋なる赤い力、ミスティンキルが有する力の片鱗であった。
 彼自身が驚く間もないうちに、ミスティンキルのまわりを取り巻いていた赤い霧状のものは突如肥大化し、あたかもミスティンキルがそれを望んでいたかのように長達の姿をも飲み込んでしまった。




(三)

〔こやつ、もしや魔法使いか?〕
 ミスティンキルの動きを封じていた二人の司の長は、赤い色を解き放った若者に恐れを抱き、即座に手を離すと部屋の奥まで逃げ去った。
〔“術”を放とうというのか!〕
 奥の席に腰掛けていた二名の長達も、部屋を包む赤い色が尋常ならざる力を秘めているのを感じ取り、立ち上がった。司の長ほどの知識を持つ者であってすら、顕現した超常の現象を目の当たりにしてなすすべがない。ただ狼狽えるのみである。ある者は逃げまどい、ある者は怯えて机の下に隠れた。平然と落ち着き払った様子で椅子に腰掛けているのは、長老エツェントゥーただひとり。白い顎髭を蓄えた細身の老人は、ミスティンキルの力を見極めようとするかのように、正面から彼と対峙している。

 当のミスティンキルは呆然と立ちつくすのみ。自分の前には、恐れのあまり気高さをうち捨てた長達がいる。彼らの滑稽さをあざ笑ってやろうとも思うのだが、出来なかった。今のミスティンキルは内的思考に深くとらわれ、心は凪のように静まりかえっていたのだ。
(この赤い霧みたいなのは、なんなんだ? こんな……得体の知れないものがおれの体から出てくるなんて。ラディキアの親族達が忌み嫌っていた、おれ自身に秘められた“力”というのは、こいつなのか?)
(なぜ、こんなものが出てきたのか、それなら何となく分かっている。……抑えられないくらい、あのじじいを憎たらしく思ったからだ。あいつは……)
 ……気にくわねえ。
 そう思ったと同時に、色は鮮烈な紅色からどす黒い赤へと変貌した。この禍々しい赤は、ミスティンキル自身の憎悪の念をまとったものなのか。
 ふと気付くと、先ほど蔑みの言葉を放ったドゥロームが、苦悶の表情を浮かべて胸をかきむしりはじめているようだ。赤い色は明らかに、この長に対して力を流しているのがミスティンキルには分かる。

 その時、長老エツェントゥーはすくりと立ち上がると、ほっそりした老体からは想像できないほどの大声を放った。
〔そこまでだ! それから先は考えるでない! 赤目の若者よ、力を抑えるのだ!〕
 威厳に満ちた声が会議室に朗々と響き渡る。
 それを聞いたミスティンキルは、今まさに降りようとしていた内なる思考の深淵から、意識を戻した。
 彼が己を取り戻すのと同時に、忌まわしく濁った赤は徐々に小さくなっていき、色合いも鮮烈な赤へと戻っていく。ついに一点に凝縮した紅の光点は、矢のように鋭く放たれ、ミスティンキルの胸の中に埋まった。刹那、ミスティンキルの全身が赤く輝く。
 ミスティンキルは目を見開き、また、大きく息を吐く。流れる血潮の音すら聞き取れるほど、彼の鼓動は高まっていた。そして、今し方発動し、また取り込んだ得体の知れない力に対し、恐怖を覚えているのを知った。

 エツェントゥーは長達に叱咤した。
〔……そしてお前達、なんたるざまだ。炎を守護し司る者の頂点――司の長ともあろう者達が、魔力に怯えるとは! さあ、さっさと席につくがよい!〕
 長達は、ミスティンキルに怪訝な眼差しを投げかけながらも、各々の席に着いた。

 部屋はもとの薄暗さと静けさを取り戻した。この沈黙は重苦しい雰囲気を助長する。司の長達はミスティンキルを威嚇し咎めるように睨み、一方のミスティンキルは居心地悪そうに彼らの視線から目をそらした。だが、今し方の現象について誰も言葉にしようとはしなかった。

〔……以降、エツェントゥーの名において、無駄ないがみ合いはまかりならん。よいな、各々がた。しかと肝に銘じよ〕
 不自然な静けさが支配する会議室の空気を破ったのは、長老だった。
〔さて、若いの。先ほどはこちらのマイゼークが無礼を言ってしまったようじゃな〕
 先ほどまでの厳格な表情は消え失せ、エツェントゥーの物腰は柔らかなものとなっていた。彼はまず、先ほどの口喧嘩を仲裁するようだ。長老のみが先ほどの“赤い力”について何かしら知っているような素振りを見せていただけに、ミスティンキルはやや落胆した。エツェントゥーは言葉を続ける。
〔だがおぬしとて、我ら長に対して暴言を放ったこともまた事実。まずはそちらから詫びてくれ。さすればこちらも同様に詫びるとしよう。マイゼークよ、よいな?〕
 先ほどまでミスティンキルと言い争っていた無骨な龍人――マイゼークは決まりが悪そうに頷いた。
〔……確かにおれも口が悪くなってました。長たちを前にして申し訳ない〕
 ミスティンキルは小さく頭を下げた。
〔なにぶん長引く会議のために、俺も気が立っているのだ。まあ……済まなかったな〕
 こうしてマイゼークも、長老に催促されてしぶしぶながら謝罪した。が、この強情な偉丈夫の目は責めるように、じっとミスティンキルをねめつけている。
 忌々しいやつめが。お前は海蛇の毒を放って、俺を苦しめたのだ――マイゼークの目はそう語っていた。

〔……では話を戻そう。お前はデ・イグへ行くのだったな。だが、どうやら察するにデ・イグへの入り方などは知らぬようだな?〕
 長老エツェントゥーの問いにミスティンキルは頷いた。
〔長老。一つ訊いておきたい。あなたは知ってるんでしょう? さっきの……赤い霧みたいなものが、一体何なのか〕
 エツェントゥーは頷いた。
〔ふむ、ふむ。……力を放った当の本人がそのように言うか。やはりそうか。お前は自分の持つ力について何一つ知らないのだな?〕
〔ガキの頃から、なんかしらの力が宿ってることは知っている。けど、それが何なのか、分からなかった。もしかすると……〕
〔忌まわしい力だ……〕
 ミスティンキルは驚き、体をぴくりと震わせた。マイゼークが漏らした言葉こそ、自分が言わんとしていた言葉だったのだから。
〔マイゼークよ、口を慎めと言った! 今後そのような振る舞いをすることは、わしの名にかけて許さんぞ〕
 エツェントゥーの叱責を受けたマイゼークは肩をすくませた。一方のミスティンキルは、自分の過去を――大きな力を秘めるがゆえに疎んじられてきた過去を思い出し、わなわなと拳を震わせた。
〔やっぱり、あってはならない力だっていうのか? おれが持つ力とやらは……呪いなのか?〕
〔いや、赤い色を秘めた者よ。恐れることはない。あのような力は、実のところアリューザ・ガルドの住民であれば、多かれ少なかれ誰しもが持っているものなのだ。このわしも、そしてここに居並ぶ長達も。そして下の町に訪れている商人達もな。それはすなわち――魔力だ〕

 魔力。
 七百年もさかのぼる昔のこと。バイラル達は国をあげて魔法の研究に取り組んでいたとされている。その魔法を行使するための源こそが、魔力。
 ある時、制御を失った膨大な魔力が氾濫し、アリューザ・ガルドが危機に瀕したことから、もっとも強大な魔法――魔導は封印されたのだ。それ以来、力のある魔法使いは姿を消し、現在に至っている。
〔魔力だって? そんなものは、魔法使いの持ち物でしょう?〕
 ミスティンキルの問いに対し、白髭の長は静かに首を横に振った。
〔そうではない。魔法について全く不勉強ではあるものの、炎の司の長であるわしには分かるのじゃよ。魔力は確実に、わしらに宿っておる、とな。だが、先ほどの赤い色……鮮明なかたちを成すほどの魔力――。あれほどの力を発動できる人間は、我らドゥロームのみならず、今のアリューザ・ガルドを探してもいはしないだろう。おぬしはそれほど強大な魔力を持っているのだ〕
 それを聞いてミスティンキルは鼻で笑った。
〔おぬし、いま心の中で否定をしたな? まさか、自分はそんな大それた力を持っているわけでない、とな。否定してはならぬ。己が大きな力を持ち得ていることを確信するのだ。だが決して増長してもならぬ。過信こそが、おぬしを陥れるであろうから……それこそ呪いのごとく、な〕
〔長の言っていることが、さっぱり分かりません。おれは頭の出来がよくないから……〕
 エツェントゥーは、自分の孫を見るように目を細めて言った。
〔いまは分からずともいい。いずれお前にも分かるときがやってくるじゃろう。ただひとつ、わしと約束をしてくれ。今後どのようなことが起きようとも自分の力を否定せず、かつ増長しないことをな〕
 
 こうしてミスティンキルはエツェントゥーと約束を交わした。そしてあらためて長老は、炎の界への“門”の所在やデ・イグで用心すべき事をミスティンキルに教えるのであった。


◆◆◆◆


 西側の窓掛けごしに差し込んでいた西日がやや眩くなり、虚ろな橙色へと部屋を染めぬく。太陽がほのかな暖かさを伴って窓に顔を覗かせ、夕刻になったことを司の長達に知らせた。
〔エツェントゥー老。陽が落ちかけておりますし、そろそろ会議を再開しませぬか?〕
 手前右に腰掛けていた痩せぎすの長が言った。
〔そうじゃな。ならばミスティンキル、下がってくれぬか。あとはお前の望むときにデ・イグの門をくぐるがいい。門はいつでも開かれておるゆえに〕
 ミスティンキルは半歩後ずさりはしたものの、部屋から出ることを躊躇した。
〔あのう。最後に一つだけ、教えてもらえませんか? どうしても訊きたいことが、いや、訊かずにはおれないことがあるんです〕
〔なにか? わしに分かることであれば答えよう〕
 ミスティンキルはもうひとつ聞きたかったことを――色の変化について――語りはじめた。自分や旅商達がエマク丘陵に至り、そしてデュンサアルに到着するまでに経験したことを、覚えているかぎり洗いざらい述べた。
〔……おれは、あなたたち司の長であれば知ってるんじゃないかと思ってました。なんでこんなふうに、色褪せちまったんでしょうか? あの葬列の男が言ったとおり、呪いのせいなんですか? もしそうだとしたら、色を取り戻す方法など、知ってますか?〕

 ミスティンキルが言葉を切ったと同時に、ばん、と大きな音を立てて机を叩いた者がいた。左奥に座る長ラデュヘンであった。彼は憤慨した様子ですくと立ち上がるとミスティンキルに向き直った。
〔痴れ者か?! 我らが何のために会議を延々おこなっているというのか、場の空気を察することすら出来ないほどに! 出ていけ!〕
 ミスティンキルにとっては予想も出来ず、また謂われのない中傷であった。彼は言葉を失うが、やがて沸々と胸の奥から怒りが湧きだし、長老の制止も耳に入らず、ラデュヘンに言葉を叩き付けた。
「あんたたちが色について会議していたことくらい、俺にだって分かる! 分かんねえのは、なぜ出てけなどと言うのかってことだ!」
〔双方とも、やめい! わしが先ほど言った言葉をもう忘れたというのか〕
 長老の声と共に、喧嘩をしていた両名の足元から一瞬、小さな火柱が上った。驚いた両名はあわてて後ずさった。
〔今度このようなことがあれば、容赦なくおぬしらの舌を炎で包むぞ〕
 エツェントゥーは厳しい表情で両者を睨みつけると再び座した。長老の横でマイゼークはいやらしく薄笑いを浮かべている。彼なりに思うところがあるのに違いない。
 両隣の長を目で制止しながら、長老は語った。
〔残念ながら、いまだ対応策は出ていないのじゃ。バイラル達はどうなのだろうか。彼らもまたそれぞれの国でわしら同様、議論を戦わせているのだろうか?〕

〔……では、龍王イリリエンはどうなんだろう。神にも匹敵する力を持つというのなら、色について知っているはずでしょう? なんならおれがデ・イグに行ったときに、訊いてみるとしようか〕
 ミスティンキルの言葉を聞いて失笑を漏らしたのはマイゼークであった。
〔まったく、無神経もここまで来ると立派なものだ。ラデュヘンの怒りを買って業火で焼かれる前にここから立ち去るがいい。彼とクスカーンは先日、まさに色について訊くためにデ・イグを訪れておる。だが、さしもの彼らであっても力及ばず、龍王様にはついに会えなかったのだ。まして貴様のような者がイリリエンに会えるわけもない。デ・イグに入った途端に試練に敗れ、さらには炎に焼かれておのが存在を灼熱の中に消し去るのがおちだ〕
〔龍王様に対面するなどと大言壮語を吐きおって。お前などに出来るものか〕
 と、ラデュヘンも言った。

 ミスティンキルは気が付くと、怒りを込めた笑いを漏らしていた。
「おもしれえ。なら、あんたたちが出来なかったことを、おれはやり抜いてみせる。よし、イリリエンに会ってやろうじゃねえか。そして、色を元に戻す方法をおれ自身が探し出してやる。大言を吐いたなどと、いまは笑ってるがいいさ。……けど、こんな海蛇の落人がやり遂げたなら、あんたら司の長はそれ以下の存在だってことだぜ」
 この言葉をあからさまな侮辱と受け取った司の長の面々は怒り心頭、
〔ウォンゼ・パイエめが、身の程を知れ!〕
〔出て行け!〕
 と口々に罵るのであった。さしもの長老とて、この勢いを止めることは出来なくなっていた。
 ミスティンキルは、そんな長達を一瞥し、長老のみに一礼をすると、即座に会議室から出ていった。

 壊れんばかりの大きな音と共に会議室の扉が閉まる。床を踏みならす足音も徐々に遠ざかり――玄関の扉が乱暴に閉ざされると、“集いの館”は閑散とした陰鬱な空気に閉ざされた。
〔無礼な奴め。あのような者、水牢に幽閉してしまえ!〕
 怒髪天をついたラデュヘンは再び机を叩く。
〔なぜあのような者を招いたのだ。おぬしにも責任があるぞ?〕
 とクスカーンは、ミスティンキルと最初に対面したファンダークを責めた。ファンダークは返す言葉が見つからず、ただ小さくなって耐えている。
〔エツェントゥー老よ。本当にあのような者をデ・イグに行かせるのですか? 危険だ。奴は赤い魔力をもって、このマイゼークを害しようとしたのですぞ!〕
 マイゼークの言葉を長老は肯定した。
〔確かにぬしの言うとおり、あの者の力は底知れぬほど大きい。危険であるかもしれぬ。が、あの若者ならば世界の色を元に戻す手段を見つけるのではないか、とわしは直感したのじゃ〕
 マイゼークは首を振った。
〔まったく甘い。それほどに入れ込むとは厳格な貴方らしくもない。ならば私めは、あの者が危険だという自分の直感を信じて行動させていただきますぞ〕


◆◆◆◆


「あいつ、マイゼークと言ったか! 見ていやがれ、目にもの見せてやるからな!」
 館をあとしたミスティンキルは怒りの感情に身を委ね、大声を上げた。ひとしきり喚き叫んだあと、ようやく気が済んだミスティンキルは山を下りていった。頑なな決意を胸に抱きつつ。


「ウィム。寝ているところすまねえが、これから行くことにした。デ・イグへな!」
 ミスティンキルは宿の自室に戻るなり、毛布にくるまっているウィムリーフに開口一番で言った。
「……だって、もうじき夜になるっていうのよ? 明日にしましょうよ? ミストだって疲れてるでしょうに」
 先ほどまでぐっすりと寝入っていたウィムリーフは、いまだ気だるそうな顔をしている。
「いいや。なんと言われようと、おれは今すぐにでも山に登るって決めてるんだ。ウィムも十分寝たんじゃねえのか? 今起きないっていうんなら、置いてっちまうぜ」
 その言葉を聞いて、ウィムリーフはがばりとベッドから起きあがった。こういうときのミスティンキルは依怙地であり、梃子でも動かないのが分かっている。なにより彼女自身、体の疲れより好奇心のほうが勝った。
「分かったわよ、仕方ないなあ。今回はあたしのほうが折れてあげる。長旅の果てにようやくここまでたどり着いたっていうのに、置いてかれたんじゃ堪らないからね」
「……なんだよ。なんだかんだ言って乗り気なんじゃないかよ」
「当たり前じゃない。冒険家のたまごとしての血が騒ぐのよ」

 ウィムリーフが支度を整えるのを待ってから、彼らは宿をあとにした。目指すはデュンサアルの山。そして――炎の世界“デ・イグ”である。
 太陽は山の稜線に隠れ、ほのかに西の空が薄茜色に染まっていた。もうじきに日が暮れるだろう。


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