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第一章 デュンサアルへの旅

(一)

 満天の星の中、南で一番明るいと言われるエウゼンレームがひときわ青白く煌めいて見える。街では目にすることの少ないツァルテガーンも、その横にはっきりと見える。やはりここが高地だけあって、空気も澄んでいるのだろう。砂の舞う乾ききった荒野を通り過ぎたあとだけに、この美しい夜空の情景は、今の世の平和を象徴しているかのよう。心の奥底にまで染み渡る星々の瞬き。

 空を見上げながら男はおもむろに、ほうっと息を出してみせた。春もまだ早いこの時期は、夜にもなると底冷えがするものだ。白い息はやがて夜の闇の中に溶け込んでいった。
 傭兵の男は、東方大陸《ユードフェンリル》南部へと向かう旅商達を護衛している。アルトツァーン最南部から目的地に至るまで、一月に及ぶ長旅である。この一隊は今日ようやく不毛の地、気候が厳しいことで有名な荒野を越し、夕刻には丘陵の麓へとたどり着いた。さらに丘を登っていきながら一週間を経ると、ようやくドゥローム(龍人)族の住む高地に到着する。
 アルトツァーン王国の産物の数々の到着を、ドゥローム達は今か今かと待っていることだろう。春に訪れる商人達は待ち遠しい客でもあるのだ。冬の間は荒野を猛烈な吹雪が襲うため、アルトツァーン王国への道が閉ざされていたのだから。春一番の商品は決まって高値がつくとはいえ、売れ残ることはない。
 六月にもなれば、あの荒れ狂うグエンゼタルナ海も静まるだろう。それまでの間、商人達は陸路を使い、南部との行商をするのだ。

 あたりはしんと静まりかえり、ただ聞こえてくるのは、篝火にくべた木が爆ぜる音のみ。真っ暗な草原の中では、この炎の赤はさらに美しく見えるようだ。少し離れた場所でぼうっと浮かびあがってくる白は、旅商達の天幕である。
 百人からなる商人達と数多の商品、商人の道先を守る護衛達。一列に並べば五フィーレを越す大隊商である。旅の吟遊詩人や芸人などが交じることは度々あるが、今回は彼らのほかにもさらに珍しい顔ぶれがいた。

 ――東の丘の稜線から半円状の月が顔を見せはじめた。
 あの月がすっかり姿を見せたら、今夜の護衛は次の者に任せることが出来る。故郷を離れて以来、九ヶ月もの長旅を続けてきたというドゥロームの若者に。
 任務の終わりを待ち望む彼にとって、本来白銀の光をほのかに放つはずの月の色が、ややくすぶって見えていることは、さしたる問題ではなかった。

(注釈:一フィーレは約四十五メートル)



(二)

 とりとめのない夢を見ながらも、自分の名前が呼ばれているのを意識したミスティンキルは、浅い眠りからゆっくりと覚醒していった。

 もそりと上半身を起こし、二、三度首を振る。両腕を突き上げ大きく伸びをしてから、彼は目を開けた。うっすらともやに覆われているとはいえ、あたりはずいぶんと明るくなっていた。日が昇って既に一刻は過ぎているのだろう。
 しかしなぜ天幕の中ではなく、草むらに寝そべっていたのだろうか? ゆったりとした白い旅装束にくるまるように寝ていたようだが、暖をとるにはいささか役不足であったようだ。ミスティンキルはくしゃみをひとつ豪快に放った。

 ぱさり、と肩に着物が落とされる感覚。それは雪豹の毛皮だった。
「よう、赤目の旦那。風邪ひくなよ。そいつを羽織っときな」
 ミスティンキルを起こし、毛皮を彼にかけたのは、あごひげを蓄えた中背の旅商だった。男はミスティンキルが寝転がっていた場所にどっかりと腰を落とす。
「お勤めご苦労さん。もう朝だぜ」
 それを聞いたミスティンキルは、ようやく自分の失態に気付いた。ぼさぼさになっていた黒い髪を手で整えながら、旅商の顔色を窺う。
「……すまねえ、ワジェット。思わず寝ちまったようだ」
 暖かい毛皮を羽織り、ミスティンキルは素直に謝った。故意ではないとはいえ、職務を途中で放棄してしまったのだから。
 ミスティンキルの目指す場所は、旅商達と同じ。ドゥローム達の聖地デュンサアルである。単身で荒野を越すのは危険だという相棒の忠告もあり、旅商達と行動を共にしているのだ。元来動き回るのが好きな彼は、食客に甘んじることなく、よく働いた。そして昨日の夜半過ぎから朝の刻に至るまでの間、旅商達を護る任に就いたのだが――突如襲いかかった睡魔には敵わなかった。
 ワジェットという名の旅商は、気にするなと言って、からからと笑った。
「ザルノエムの荒野越えはきついからな。ナダステルから旦那たちが旅をはじめてから三週間だ。おおかた旦那も疲れがたまってたんだろ。俺らだってこのエマクの丘あたりに着くとホッとしてよ。番をしながらたまに寝ちまったりするもんだ。……春も早いこの時期は、まだ盗賊どもや土着の悪鬼どももめったに姿を現さんし、まあ気になさんな」
「すまねえ。これから気をつける。――ところでワジェット」
「ん?」
「赤目ってのはともかく、旦那って呼び方だけはなんとかならねえかな? おれなんぞよりあんたのほうが人生経験ってやつを積んでるだろう? まあ、からかってんだったら話は別だけどな」

 背高の偉丈夫とも言えるミスティンキルの背丈は、四ラクを越すであろうか。ワジェットより頭半分ほど高い。体格も漁師のせがれらしく、浅黒い肌の腕や足はすらりとしていながらも鍛えられた強靱な筋肉がついている。彼の種族――ドゥローム――特有の切れ長の目と、縦に細い虹彩は、野生の猫や豹すらをも想起させる。
 そして――何かしらの畏怖を感じさせる、澄み渡った真紅の瞳。ミスティンキルには得体の知れない力が備わっているというのは、親族からも幼少期から言われ続けてきたこと。
 しかしながら同時に彼は、ようやく少年時代の域を脱したあたりの若者でしかない。また、ちやほやとおべっかを使われるほどにミスティンキルは身分が高いわけでもない。
「旦那って呼び方でいいんじゃねえかと思ってるんだけどよ。あんたが見た目若いからって、からかってるわけじゃねえ。銀髪の嬢ちゃんから昨日はじめて聞いたんだが、あんたは今年で五十歳だっていうじゃねえか」
 ミスティンキルは頷いた。
「けれどおれは、まだ成人したばかりだ」
「知ってる。旦那が成人する記念にこうして旅をしてるって事もな。けど……俺の村では、年上の人間は敬うものだって教えられてきた」
 ワジェットは続けて言う。
「俺はこう見えてもまだ三十二になったばかりだ。赤目の旦那、あんたよりずっと年下なんだぜ?」

 五十という歳はドゥロームにとっては一つの節目である。それは成人すること。
 ミスティンキルが故郷の島を離れてはや九ヶ月、はるばる龍人の聖地にまで旅をしてきたのも成人になるという名目があったからだ、実際にはこの旅は自分の意志にそぐわないものであり、成人というのは旅の表向きの言い訳でしかないのだが。
「そんなこと言ったら、あんたたち旅商が“銀髪の嬢ちゃん”と言ってるウィムだけど。……あいつは五十五だぜ?」
「何い?! 俺のお袋と、そう歳が変わらないってのかよ?! あの娘が?」
 予想していた通りの反応だったために、思わずミスティンキルは、にやりと笑った。
「おれたちドゥロームも、あいつの種族も寿命はさして変わらないって聞いてるからな。実のところはウィムだって、成人して間もないらしいけどな」
 ミスティンキルにそう言われても、歳の離れた妹のように捉えていたはずの人間が、じつは自分よりも年上だった事実はワジェットにとってやはり衝撃が大きかったようである。
「俺は長いことドゥローム相手にも商売をやってるから、あんたが実際は俺より年上かもしれないってのは想像がついたけど……アイバーフィンにお目にかかったのは今回がはじめてだったんだよなあ……そうかぁ、五十五かあ」
「……まあいいや。おれたちの呼び方自体は、あんたたちが今まで呼んでたとおりで構わねえよ。ウィムもおれと同じ意見だろうし。けど、あんましあいつの前で歳を話題にしないほうがいいけどな」
 先ほどと立場が逆転し、やや気落ちして肩を落とすワジェットを今度はミスティンキルが慰めることとなった。

「そういやさ、あんたがおれんところに来たってのは何でなんだ?」
 言われて、ワジェットは本来の目的を思い出した。
「ああそうだ! 朝飯が出来たってんでこっちまで知らせに来てやったら、旦那がぐうすかと心地よさそうに寝てたんだったよな。仕事ほっぽってよ!」
 ワジェットの言葉は明らかな軽口。ミスティンキルは笑いながらも肩をすくめてみせた。
「ああ、悪かったって。ウィムは何してるんだ?」
 この場所から少し離れたところにある旅商達の天幕からは、朝げの煙が立ち上っている。しかしミスティンキルの旅の相棒であり心を許せる恋人――銀髪の娘、ウィムリーフはどうやら今朝の炊事に携わっていないようだ。
「嬢ちゃんは……ほら、空飛んでるよ。久しぶりに緑の草原が見れて嬉しいんだろうな。髪を染めちまったことの気晴らしってのもあるんだろうけどな。……まあもうじき降りてくるだろうさ」
 ワジェットが指さした方向――すぐ真上の空にはウィムリーフがいた。まるで鳶《トビ》が滑空をする時のように、両の手を広げてゆっくりと漂っている。彼女の背中からは時折、かすかに光が放たれる。その様は彼女の均整のとれたすらりとした体に相まって、まるで翼をまとった天の使いであるかのよう。眼下に広がる丘陵地と、南に連なる山々。その光景とはさぞかし心地のいいものなのだろう。
「さあ、飯を食いに行こうぜ。腹ごなしが終わったら出発だ! 三週間が過ぎちまったけど、もうあと一週間の辛抱だ。そしたら旦那たちの目的地、デュンサアル山に着くからな!」
 ワジェットはそそくさと旅商の天幕へと向かう。ミスティンキルもまた、天を舞う娘に声をかけたあと、護衛用の槍を片手にして朝食の場へ向かっていった。


◆◆◆◆


 アリューザ・ガルドに住む人間は大きく四つの種族に分けられる。短命なバイラル族が国家を興し、アリューザ・ガルド全土に渡って勢力を誇る中、他の三種族は慎ましやかに暮らしていた。
 ドゥローム族もまたしかり。
 アリューザ・ガルドにおいて彼らは炎の加護を受ける人間である。彼らは長命種であり、短命なバイラル族が三世代を終える頃に、ようやくドゥロームの一世代が黄泉へ向かう眠りにつく。
 炎の界への試練に赴き、“炎の司”として認められたドゥロームは龍の翼をその背に得る。この翼は物質的な存在ではないため、アリューザ・ガルドでは目にすることが出来ない。
 なにより、彼らの特徴として特記すべきは龍化。おのが持つ力を龍王イリリエンに認められれば、その身体を龍と化すことが出来るのだ。ただし、今までの歴史の中でも、龍となれたドゥロームはごく少数に限られているというが。

 故郷から体よく追い払われたミスティンキルが目指しているのは、ドゥロームの聖地デュンサアル山である。炎の界との繋がりが最も密接とされているこの地から炎の界へと赴き、“炎の司”の資格を手に入れること。これこそがミスティンキルが望むことであった。自分を追いやった親族に対する、彼なりの復讐でもある。


◆◆◆◆


 ミスティンキルはもともと、アリューザ・ガルド南部、ラディキア群島のとある小島の出身である。彼の父は、その海域をなわばりとする漁師の長であり、ミスティンキルは次男として生まれた。
 “ミスティンキル”とは古い言葉で「まったき赤」の意であるという。持って生まれた真紅の瞳から付けられた名だ。
 瞳に宿す赤は美しく、深い。その瞳がすべてを見通すかのように澄み渡っているようにすら見受けられたので、得体の知れない力を秘めているのではないかと両親は期待し、また畏《おそ》れた。
 体格に恵まれたミスティンキルは父親の漁の仕事もよく手伝い、時として父親以上の釣果をあげることすらあったし、近所の島に住むバイラルの若者達とも親しく、彼らからよく大陸の華やかさを聞かされていた。

 だが、少年期も過ぎ去ろうとしていた頃に持ち上がったのが跡継ぎの問題である。ミスティンキルの兄は、ミスティンキル以上に両親の寵愛を受けていたが、こと漁の腕前に関してはミスティンキルのほうが一枚上手であった。
 バイラルの漁師仲間はミスティンキルをぜひ跡継ぎにと両親に推したが、ミスティンキルの親族とさらには両親までもがこぞって異を唱えた。あくまで後を継ぐのは長子である、と彼らは主張したのだ。
 ドゥロームの言い分はいちおう筋が通るものであり、ミスティンキルを推す漁師達も渋々納得したため、次期首領には兄がおさまることになった。しかしなによりドゥローム達はミスティンキルに内在する底知れぬ力を恐れたのだ。
 ミスティンキルは波止場で商売をするまじない師のように、魔法らしきものが使えていたのだ。それも、呪文の詠唱すらせずに。

 大きすぎる力は時として災いを呼び寄せるという。
 事実、歴史上においても力に魅せられたゆえに災禍を招いた例というのは数知れない。
 大いなる力を秘めた若者は、その力ゆえに徐々に疎んじられるようになっていった。成人も間近に迫った頃、ミスティンキルはついに、生まれ育った島をあとにすることを決意する。後継者候補であった自分がいなくなれば漁師同士の密やかな確執も無くなるだろう。何より親族が自分に対して向ける羨望や畏れ、特殊な者として仲間はずれにしようというような冷酷な雰囲気が堪えた。
 別れの晩餐はひっそりと、数人のドゥロームの友人とバイラルの漁師仲間によって催され、明くる朝ミスティンキルは西方大陸《エヴェルク》へと向かう船に乗り込んだのだった。両親から餞別として贈られたのはなんの皮肉だったろうか。ミスティンキルの瞳の色――赤く染まったそれは、ラディキア特産の赤水晶《クィル・バラン》であった。これを売ればどこでも土地を得て暮らしていくには十分すぎるほどの額を得るだろう。しかし、波止場には親族はもちろんのこと、兄も両親もついに姿を見せなかった。
(あんたたちが疎んじた力とやらを、おれは自分自身のものとしてやる! 龍にだってなってやるさ! そうして龍と化したおれの姿を見せつけてやるんだ!)
 船上、徐々に霞んでいく故郷の島を見ながらミスティンキルはそう決意したのだった。

 彼が目指すは、ドゥロームの聖地デュンサアル山。
 たとえ龍にはなれずとも“炎の司”の称号を得れば、ドゥロームとして高い地位を確立することになる。冷ややかな態度をとり続けた親族も、今度は一転してへつらうようになるだろう。それは大した見物《みもの》に違いない。ミスティンキルはもはや故郷に戻る気をとうに無くしていたものの、彼らの豹変した滑稽きわまりない姿だけは見てみたかったのだ。


 故郷ラディキア群島からエヴェルク大陸へ。さらに海を越してユードフェンリル大陸に至り――旅をはじめてから九ヶ月を経た今、ミスティンキルの目的地は間近に迫っているのだ。



(三)

 目に見えない翼を時折はためかせながら、ウィムリーフは優雅に空を舞っていた。昨日、仕方なく黒く染めてしまった自慢の髪のことも、空の心地よさが忘れさせてくれる。

 どこを向いても乾ききった大地がうんざりするほど広がっていたザルノエムの荒野とは違い、この丘には豊かな緑があり、雄大な山々が連なっている。その景色は彼女の生まれ故郷をも連想させ、郷愁の念すら感じさせるものであった。
 荒野では、冷たい風がいまだ強く吹き荒れていたため、なかなか空を飛ぶことが叶わなかった彼女であるが、今はこうして丘陵地帯の穏やかな風を受けながら空を漂っている。何も遮るものが無く、自由に飛び回ることが出来るというのは、本当に楽しいことだ。この格別な思いをミスティンキルと分かち合いたいと彼女は考えていた。ミスティンキルが“炎の司”となり龍の翼を得れば、二人は共に空を飛び回ることが出来るのだから。
 彼が受ける試練は、おそらく生半可なものではないのだろうが、力を持つミスティンキルなら難なく成し遂げるだろう事を彼女は予感していた。赤い瞳の彼が膨大な力を有していることに、ウィムリーフは感づいていたから。自身が多大な力を有するからこそ分かる、相手の力の大きさ。そう、彼女もまた大きな力を秘める者なのだ。


◆◆◆◆


 彼女の種族であるアイバーフィンは、“翼の民”の名で知られるように、風の加護を受ける人間である。主として西方大陸《エヴェルク》の北部に住む彼らは美しい銀髪を持ち、龍人ドゥローム同様に長命種である。
 また、風の界にて試練を乗り越えれば“風を司る者”として認められ、その背に翼を得るのだ。この翼は鳥の羽に似た形をしているらしいが、本来は物質的な存在ではないために、アリューザ・ガルドでは目にすることが出来ない。そのかわり、アイバーフィンが翼をはためかせて空を舞うときには、背中から時折光がほとばしるのを目にする事がある。

 ウィムリーフは生まれたときすでに翼を有しており、しかも風を自在に操る“風の司”でもあったのだ。それはアイバーフィンの中でも極めて稀である。おそらく出生に依るところが大きいのだろう、と彼女の両親は言っていた。ウィムリーフの祖父祖母の血筋が、彼女の代になって突如あらわれたのだろう。彼女の血統については、ミスティンキルにすらまだ明らかにしていなかった。彼にだけはいずれ近いうちに話すことにしようと、ウィムリーフは心に決めていた。

 すぐ真下から、ミスティンキルの低いながらもよく通る声が響く。自分の名を呼んでいることに気付いたウィムリーフは、にこやかに手を振って応える。対する彼は表情を現さないまま商人達が集う天幕を指さし、そのまま槍を片手にすたすたと歩いていってしまった。食事が出来ている、と言いたかったのだろう。そのぶっきらぼうな態度も最初は横柄にしか映らなかったものだが、五ヶ月近くもの間、彼と共に過ごしているうちに、いつの間にか不思議と嫌いではなくなっていた。
「まったく、あたしもなんであんな無愛想なやつとつるんでるのかしらね?」
 彼の後ろ姿を見ながら苦笑するものの、その無愛想な人間と共にいることが今となっては楽しいのだ。出会った当初は、彼女の冒険に対する好奇心を奮起させてくれる打ってつけの目的地――デュンサアル――へと向かう若者としか捉えていなかったというのに、不思議なものだ。

 これから先の行程は、日記に記す事柄もさぞかし多くなってくるだろう。うまくいけばミスティンキルと共に炎の界を見ることが出来るかもしれない。
 「炎の界“デ・イグ”への冒険記」――なんと胸おどる表題だろうか!
 冒険家たる彼女は、この旅が終わったら故郷に戻って日記をまとめるつもりなのだ。かの冒険家テルタージがそうしていたように、自分もこの旅を記録に残し、後世の人々の役に立てたい、と願っていた。また幼い頃の自分がそうだったように、本を読んだ人が好奇心に駆られ、魅入られたように次々と頁をめくり冒険行に没頭していき、最後になんとも言えぬ喜びを得て明日からの生活を希望を持って臨むようになる――そのような人の心に触れる冒険記を残していく事こそが、自分が心からやりたい事なのだ。


◆◆◆◆


 ミスティンキルから呼ばれたあとも、ウィムリーフはしばし空の散歩を楽しんでいた。しかしあの朴訥な若者は、ひょっとしたら彼女が降りてくるのを待ってくれているのかもしれない。彼女はそう思い、翼をいつものように大きく広げながらゆっくりと着地しようとした――。

「――え?」
 それは予想し得ぬ落下だった。彼女の翼は突如として揚力を失い、まるで翼をもがれた鳥のように彼女の体は急降下したのだ。
 とっさに周囲にいる風の精霊に語りかけ、次の瞬間にはなんとか体勢を持ち直したものの、彼女の背中からは一瞬だけ、翼の力が消え失せたのが明らかだった。
 生まれながらにして翼を持つウィムリーフにとって、翼を操るのは瞬きをするのと同じくらい当たり前の動作であり、間違えようがないはずなのだ。その自分がなぜ今、翼を操れなかったのだろうか?
 翼は目に見えないし、触わることすら出来ないのは分かっていながらも、ウィムリーフは不安げに後ろを見ながら手を背中にあてがう。翼がきらりと光るのを見て、ようやく彼女は安堵して再び降下をはじめた。

 降りる最中、あらためて注意深く周囲を見渡すが――ふと彼女の感性に訴えてくるものがあった。
 はたして山々の稜線というのはこんなにも薄ぼけて見えるものだったろうか? 空の色や草の緑すらもどことなく色あせて見えるのは、果たして気のせいなのか? 今し方までは思いに耽るあまり、注視していなかった景色が、どこかしら普段と違って見えていることに気付いたのだ。
 何も知らない旅人であれば、ユードフェンリル大陸のみが持つ独特の色合いだと説明されれば納得するかもしれない。が、彼女は冬の四ヶ月もの間、ミスティンキルと共にこの大陸に逗留していたのだ。そのようなことがあろうはずはない。このくすんだ色合いは、世界そのものに異変が起こりつつある兆しではないだろうか。冒険家として彼女はそう直感した。



(四)

 この朝、ミスティンキルは穀物商人達と朝げを共にしており、湯気の立つ麦粥を食らっていた。そして商人から麦酒の入った木杯を受け取ったとき、ウィムリーフが顔を覗かせた。
 途端、ウィムリーフの顔があきれ顔になる。
「なあにミスト、朝から酒なんて飲んじゃってさ。酔いつぶれてもあたしは知らない……あ……」
 当のミスティンキルは、ウィムリーフの言葉を最後まで聞かずに、麦酒を一気にあおり、心地よさそうに息をついた。
「ようウィム。そうカッカすんなって。ここに来てけっこう寒くなってきてるだろ。だけどこいつを一杯飲めば体が温まるんだぜぇ?」
 悪びれもせずに言ってのけるミスティンキルに、ウィムリーフは肩を落として見せた。普段のやりとりから考えても、彼女がそんなに怒っているふうではなさそうなので、ミスティンキルはそれ以上何も言わずに隣の場所を指さした。ウィムリーフは彼の横に腰掛ける。
 商人達はウィムリーフにも酒をすすめる。が、彼女はやんわりと断った。
「いいですよ、あたしは。ご飯を食べに来ただけなんだから」
「ありゃ、そいつは残念」商人の一人がおどけてみせる。
「ミストも、今朝はそれ一杯だけにしとくのよ?」
 とミスティンキルに釘を差し、ウィムリーフは粥をよそおうとした。
 しかし先ほどからミスティンキルが自分を――正確には自分の髪を注視しているのが気になり、やや不安そうな面もちでミスティンキルを見た。座った状態でミスティンキルのほうが彼女より頭半分ほど高いため、見上げるかたちになる。
「なに?」
「けっこう馴染んできたんじゃないかって。その髪の色」
 その言葉を聞いた途端、彼女の顔がやや渋った。襟首までの髪の毛を目の前まで持ってくると眉にしわを寄せて唸るのだった。
「……うーん……けっこうあたしも気になってるのよねぇ……」
 商人が彼女の分の粥をよそったのにも気付かず、ウィムリーフは自分の髪にじいっと見入っていた。
 彼女は、光を放つかのような見事な銀髪を昨晩、黒く染め上げたのだ。
 黒い髪はまるでバイラルの一氏族、カラカ・ダーナびとのよう。さすがに群青の瞳まで黒く染め抜くことは出来なかったものの、端から見て彼女のことをアイバーフィンだと気付く者はまずいないだろう。

 “デュンサアルに住むドゥロームは、アイバーフィンを快く思っていない。”
 旅の途中で彼女は何回かこの言葉を耳にしていたが、商人達からあらためてその言葉を聞いていた。実際に彼らと商売をしている商人達の言葉だけに聞きおけない。ドゥローム達の領域に入る前に、仕方なく彼女は自慢の髪を染めることにしたのだ。
 ――遙かな昔のこと。ドゥロームとアイバーフィンは翼を持つ者同士、空の領有を巡って争ったことがあると伝えられている。そのような遺恨など、歴史の激流の中にとうに埋もれて消え去っていたものとウィムリーフは考えていた。さらに当のドゥロームであるミスティンキルですらも。
 しかし、古くから聖地に住みつづけていたドゥローム達の考え方はどうやら違うらしい。特に聖地近くに居を構える“司の長”達は、商人達の言葉を借りると「考えが古い連中」なのだ。

「嬢ちゃんが銀髪のままでも、さすがに理由も無しに命を狙われるってことはないだろうけどね。なんにせよ、あんたらにとっちゃあそこは、はじめて足を踏み入れる場所だ。それにアイバーフィンはウィムリーフ、あんた一人だけで、あとはみんなドゥロームだ。なにが起こるか分からないから、念を入れておくに越したことはないよ。……それにさ、その髪だって似合ってるじゃないか。それに相変わらずかわいいよ。あたしが男だったら必死で口説きにかかってるもの」
 ウィムリーフを慰めるように、女商人が言った。
「……そうかな?」
「そう! あとは……ほら、そこでもう一杯飲もうとしてる旦那、ほんとはこういうことは、まず最初にあんたから言わなくちゃ!」

 ウィムリーフが髪の毛に魅入ってる隙をついて、密かに酒をつごうとしていたところを見とがめられたミスティンキルは、酒瓶をもとの場所に戻す。しかし、やはりウィムリーフからは小突かれた。
「痛ぇっ……。まあ、そうだな。似合ってんじゃねえか?」
 小突かれた脇腹を押さえつつ、いかにもぶっきらぼうに言ってのける。
 が、その感情を抑えた口調は、単なる照れ隠しに過ぎないことはウィムリーフには分かってしまっているだろう。
「それに黒く染めてるのもデュンサアルにいる間だけだ。ちょっとの間、辛抱してくれ」
「……ありがとう。まあ誰かに狙われたって、飛んじゃえばこっちのもんよ! それに、いざとなったらあたしのブーメランで蹴散らしちゃうしね!」
「はっは……ちがいねえ。嬢ちゃんのブーメランは百発百中だもんな。昨日の晩飯の見事な鹿肉! あの鹿だって嬢ちゃんが空から狙いをつけて倒したんだぜ……」
 そうして再び会話が弾んでいき、朝げの場は和やかな雰囲気に包まれていった。もう半刻もすればこの歓談の時間は終わり、再び旅がはじまる。


 ウィムリーフは商人達には語らなかったものの、ミスティンキルには自分の不安をそっと打ち明けた。色の異変のこと、そして翼の力が一瞬失せたことを。
 最初はミスティンキルも朝もやのせいだろうと考えていたのだが、言われてみれば空はからっと晴れ上がっているのに色がくすんで見えるのはなぜなのだろうか、という疑念に駆られはじめた。それと、ウィムリーフの翼が一瞬力を失ったというのに関係があるのか?
「大丈夫だろうよ、ウィム。なんとも言えない……変な感じだけどな。すぐにもとに戻るさ」
 相棒を不安に陥れないようにと、彼なりに注意を払いながらミスティンキルは言った。
「そう……デュンサアルの“司の長”たちだったら、なんかしら知ってんだろう。デュンサアルに着いたらすぐ、おれは訊いてみる」
 昼過ぎになって天候は一変し、濃い霧が立ちこめはじめたため周囲の景色は見えなくなった。しかし色が見えないという事が、かえってミスティンキルとウィムリーフを不安にさせた。


◆◆◆◆


 そして、彼らのひそかな不安は的中した。
 エマクを登りだしてから二日目には、景色の見え方が普通と違っていることに、全ての者が感づいていた。
 晴れ渡っているというのにも関わらず、山々はまるで霞がかかったように薄ぼけて見える。また草木が萌えるこの季節、エマクの草原は若々しい緑で満たされるはずなのに、自分達が目にしているのは灰ですすけたような色あせた緑でしかない。さらには紺碧であるはずの空すらも、くすんで見える。


 アリューザ・ガルドから、色の持つ艶やかさが徐々に失われようとしていたのだ――。