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忍ばない春


ずっと、気がかりだった生徒がいた。千葉は教室の片隅でいつも一人ぼんやりして、話しかけられてもまともに応じず、まるで友達を必要としていない、そんな雰囲気すら漂わせていた。

夏休みに入る前にはもう彼に話しかける生徒はいなくなり、彼は、本当に一人になった。千葉の容貌がきつめなのも、輪を外れた一因かもしれない。もともと、彼は近寄りがたかったのだ。上背はあるし、表情も豊かでない。たいてい無表情でいるか、たまにため息をつく程度だ。威圧感。一言で片付けてしまえば、きっとこの言葉に尽きるだろう。
――千葉は、……その、それでいいのか。
一度、ためらいながらも彼に尋ねたことがある。一回りは年上の教師といえど、あの人を寄せつけようとしない立ち振る舞いにはとまどってしまう。帰ろうとする千葉を呼び止め、面と向かって話すのは容易ではない。
「よくわからないので、か……」
あのとき、彼が曖昧に濁した答えをいまだに覚えている。とうとう、卒業式の今日まで彼は他人と交わらず、ひどく静かな高校時代を終わらせようとしている。ほのかに寂静をまとった彼の背中に、桜の花びらがいじらしく踊る。千葉に結局蝶はとまらなかった。彼自身がずっと明るい季節を受け入れなかったから、仕方がないといえばそうなのだが。
桜吹雪がけぶる。眼鏡のレンズを通してやけにくっきりした並木の景色が、風が吹くととたんにぶわっ、と霞んでしまった。
「千葉」
雲の少ない空を見上げる長身の生徒に、静かに声をかけた。午前中の式の予行に、彼だけ来なかったのだ。
ゆっくりとこちらを振り返る姿には、もうほとんど子どもの面影がない。
「大里先生」
「おまえ、どうして予行に出なかったんだ。ほかの先生も探して……」
「すみません」
思いがけず千葉の笑った顔を初めて見たせいで、言葉に詰まってしまった。案外、優しい表情を、彼はするのだった。目が離せなくなる。一年間、心配でたまらなかった生徒が相好を崩している。しかも、たった一度温情を見せただけの自分に。嬉しいような、申し訳ないような気持ちが胸を騒がす。
「千葉?」
小さく頭を下げた彼はこちらに近づいてきて、ぎゅっと大里の手を握った。学ランの袖に薄桃色の花びら。振り払えず、じっと彼の大きな手を見つめる。
「先生を見たら……泣きそうだと思った」
「ち、ば……っ」
千葉の声が、かすかにふるえていた。首をもたげると彼はやわらかに口許をゆるめ、そうして哀の浮かぶ瞳を細めた。目が離せなくなり、ぽかんと彼を見上げるばかりになる。腰に手が回った。ことさら丁寧な仕草で引き寄せられたのに、どうしても拒絶ができなくて、大里は千葉の胸になだれこんでしまった。
自分とは違う、がっしりした体躯の厚みにどきりとした。
「おい、千葉……放しなさい……」
「泣くな、と思って出ませんでした。本番も出たくないな。泣くのはかっこわるいね」
腰を抱いていないほうの手で顎を持ち上げられ、されるがままになって大里は千葉に上向かされた。唇を開いても声が続かない。訊きたい。どうして。言いたいことが多すぎて、「放せ」としか、口にできない。
先生にかっこわるいところは見せたくないなあ。耳元で、そんな苦笑いの告白。
「泣く、って」
「……やっぱり泣きそうです」
背中を千葉の手が撫でる。力が抜けて、彼に体重を預けてしまった。顔が近づいてくる。陽射しの匂い。体温が移って、身体の芯が竦む。重ねられた唇に、冷静さを吸い取られる。
「んっ、はあ……ちば……!」
「……ふ、先生。俺、友達とか、そういうの苦手なんですけど……大里先生だけはね」
耳を、ふさげたらよかっただろうか。その先を聞いてはいけないのをわかっている。胸が高鳴っているのだ。春は人が狂うという。それだったらいいのにと、そう切に願いつつ、反面、千葉が正気でないと悲しいとも思う。矛盾。この身体の火照りはなんだろう。抱きしめられて、キスされて、くらくらしている頭をどうしたらいいだろう。
生徒である千葉の胸を押し返せない、罪深さを自覚してさらにふらふらした。
「大里先生だけは、すごく、好きです」
真摯すぎる千葉の言葉が、じんわり胸に沁みて溶けていった。彼の腕の中は居心地がいい。彼が気がかりだった。そう、例えば誰か、好きな相手でも見つけてくれたらいいと思っていた。
誰か。誰でもいわけでは、なかった。
「……そうか」
自分でも驚くほど穏やかにつぶやき、大里は千葉の背中に腕をやった。明日から、彼は生徒ではなくなる。気持ちを教えられたのが昨日ではなくてよかった。忍ばない春。桜が、すべて散ってしまわない前に訪れてくれて、よかった。

この本の内容は以上です。


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