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四之章(1)

 今宵のように月のない夜には、人をあやめる妖怪が出る。
 なぜなら、光のかせを失った人間が、普段は潜めている闇の心を解き放とうとするから……つまり、妖怪とは人間の持つ闇の心なのである、と。
 幼い頃は母に、長じてからは藤香とうかにも言われたが、どうやら己が相手するのは本当の妖怪らしい、と打ち明ければ果たして藤香は何と言うであろう。
 しかし彼女は、笑うことも、怒ることも、泣くこともできない、夢さえ見ぬであろう暗黒の世界の中にいる。紫道しどにとっても、それは暗黒の世界。
 しかし、紫道にはまだ暗黒の世界から戻る、つまり藤香を連れ戻すことが出来る力があるはずと、自らに言い聞かせる。
 言い聞かせるほど、心の隅に一抹の不安が生じるが、紫道が弱音を吐いたとき藤香がいつも見せる、えもいわれぬ微笑がふと頭の中に浮かぶ。くすぶる不安は、泡のように消え失せた。
 ……見てろよ、黒い鬼面の阿呆野郎。今の俺は、負ける気はさらさらしないぜ。
「かの須恵器すえき長頸瓶ちょうけいへいは、魂を抜き取り封じるための呪具であったそうだ。黒い鬼面の者から、長頸瓶を無事に取り戻し藤香にくわえさせれば、藤香を元に戻せるとある。問題は、その術と呪具について記された書物を書いた者の名が……御家の開祖、蘇芳山美音すおうざんよしねであるということだ」
 紫道は、息継ぎもなくまくし立てるように、一気に状況を説明すると、一呼吸を置く。
「説明していただこうか」
 紫道の表情は硬く、その発する声は吹雪のそれであった。
「私も、自ら調べたことをお話しいたしたく思っておりました」
 荏胡麻えごま油の薄暗い行灯に照らされながら、千歳ちとせは正座して対面する紫道に、静かな様子で応える。
 今二人がいるのは、蘇芳山家の別邸である。千歳が紫道の家に文を出し、別邸の方で話しをするように持ちかけたのである。本邸は鬼面の男や天幻に知られているだろう、という千歳の判断だった。
「おそらく、紫道様が御覧になったのは、こちらの書ではないかと思います」
 千歳は、一冊の書物を畳の上に置き、すっ、と滑らせるように差し出した。伊織が御書所で書写したその写本を、紫道は無造作に取り上げると何枚かめくり、また閉じて畳の上に戻す。
「この書物に相違ない。私に見せていただいた持ち主はいえぬが、な」
「最後の方になりますが、重大な禁忌の術についての説明がありました。御覧になっておりますか?」
 老人とともに、紫道もその書物の内容にはすべて目を通したが、とりわけ腰を抜かすようなものはなかったはずである。
 畳の上から千歳は書物を取り上げると、ある箇所を開いて指し示した。
「……こんなものは見ていないな、もしや」
 紫道が唸るように言う。思い起こせば、綺麗に切り取られていた部分があったことを思い出す。老人は「先代からある書だが、わしの手元にあった時分からこの状態じゃった」と言っていたのだが。
「まさに極めつけともいうべき禁忌きんきの術です。あまりの恐ろしさに、紫道様が御覧になった書では、意図的に切り取って処分してあったのかもしれません」
 続けて、千歳がその極めつけの禁忌の術の内容を読み上げる。それは、朱鳥の都にとってまさに禁忌の中の禁忌といえるものだった。
「式神≪紅飛鳥≫べにあすかは、一度生みし後は玉に戻すすべはなきものといえども、唯一の術として、≪紅飛鳥≫べにあすかを生みし式神使いの家に連なる者の魂を捧げば、式神≪紅飛鳥≫べにあすかを滅させることができよう。
 ……もし本当だとすれば、朱鳥あけみとりの都は朱華はねずの水に覆われた大地へと堕ち、我々は為す術もなく滅ぶことになります」
 しばしの間生まれた沈黙の空間では、荏胡麻油の古びた行灯が、ジジジ、と焦げる音を立てるのみ。
 伊織いおりが寝付けないほどの焦燥に駆られた、その因となった箇所でもあったが、そのようなことを紫道が知るはずもない。あまりの途方もないヨタ話ともいうべき内容に、紫道は返すべき言葉も見つからなかった。
 しかし、いけしゃあしゃあと説明する千歳に対し、紫道は静かな怒りがこみ上げて。
 ガッ!
 気づいた時には、身を乗り出して千歳の両肩を掴んで仰向けに押し倒すと、千歳の腰の上に跨りながら、左手で千歳の胸元を掴み、右手で腰帯に差してあった短刀を抜いて突き刺さんと構えていた。
「千歳殿の先祖の所行で、藤香は倒れたのだぞ あるいは、すべては千歳殿の差し金か」
 静かな怒りの口調で迫る紫道に対し、千歳は真っ直ぐに見つめて答える。
「私の差し金なら、私が襲われることはないでしょう」
「自演であろう。藍璃を消すためか」
「違います!」
 千歳も鋭い口調で言い返すと、再び静かな、諭すような口調に戻る。
「長女とはいえ、兄妹がいる私を殺めても、おそらく根本的な解決にはなりますまい。
 ですが、私の命を奪うことで、あるいは私の娘の証を奪うことで、紫道様のお気が済むというのでしたら、私は謹んでお受けしましょう。
 ただし、これだけは覚えておいてくださいませ。たとえ開祖であったとしても、親友の藤香や伊織君を、あのような目に遭わせた者を、私は決して許したりしないことを。
 そして、藤香が紫道様のことを話すとき、藤香は夢の中にいるような様子であったことを……」
 意を決した千歳の剣幕に、紫道は無言で動きを止めたかと思うと、ゆっくりと千歳から体を離し、短刀を鞘に収めた。
「どうやら、怒りに我を忘れて錯乱したようだ。
 蘇芳山美音の術を使う者が下手人であるというだけで、蘇芳山家が黒幕とは限らないのだからな。
 朱鳥の都を地に落とすことを企むとなると、相当な大物に相違ない。いずれにせよ、藤香の魂が封じられた長頸瓶を取り返す手だてを考えなけ」
 紫道は突然言葉を切ると、傍らにあった太刀を抜きはなってしとみを切り裂き、同時に左手で器用に短刀を抜いて、切り落とされた蔀の向こうへと投げ放つ!
 キィン!
 鋼鉄のぶつかる音が、蘇芳山の屋敷に鳴る。
「あなたは……」
風剣雅天幻ふうけんがてんげん……!」
 庭先に立つのは、翁の神楽面をかぶった漆黒の修験者、風剣雅天幻であった。

 


「蘇芳山家の長女、蘇芳山千歳殿の魂を拝領つかまつらんと参上した。
 ただし、私では封魂ふうこんの術は使えぬ故、我が主の元へ御同行いただくという形になるが」
 打ち払われ、地面に力なく落ちていた短刀を、天幻は拾い上げて二つにへし折り、放り捨てる。体はわずかに濡れているようにも見えるが、紫道にとってそれは、ひとまずどうでもいいことだった。
「捜す手間が省けて助かったよ、風剣雅天幻。
 俺は日に日にご機嫌が斜めでな。悪いが今宵が貴様の最期と知れ」
 まるっきし台詞回しが悪党だな、と思い、紫道は心の中で苦笑する。
「我の声に応えて出でよ、木の吉将にして平穏の賢者、春樹堂月白しゅんじゅどうげっぱく!」
 そして、天幻の口上の隙に呪を唱えていた千歳は、月白を呼び出した。
 空気が揺らぎ、光の帯が集まり、具現化したそれは、烏帽子えぼし青藤あおふじ色の狩衣を纏った賢者の姿。
藍璃あいり、来い!」
「さっきから側にいるってば紫道様」
 声は紫道の左手から。藍璃はいつの間にか紫道の傍らに佇んでいた。
「ってどこからわいて出た」
 藍璃は、見張りも兼ねて古びた門扉に待機させていたはずなのだが……側にいたことには全く気づかなかった。
「千歳様からもらった鬼饅頭もぜーんぶ食べちゃったし、門で立ってるの退屈だったんだもん。隣の部屋でこっそりと……紫道様が千歳様を押し倒して、とても健全とはいえない展開になりかけていたあたりから」
 言いつつ、藍璃は袖から御札を何枚も取り出し左手に構えると、右手には短刀を抜いて握りしめる。こちらも戦闘準備は整った。
「過日の決着をつけようぞ、緋衣紫道!」
 それが戦いの合図だったのか、天幻は直刀を抜き逆袈裟に一閃させる。
 ぶぅわ!
 刹那、紫道の周囲に一陣の烈風が巻き起こった。
「鋼鉄も切り裂く風の刃、符術≪持国刃≫じこくじんも、読んでさえいれば同じ持国刃で相殺するのはたやすいね」
 逆手に持った短刀を、顔の前に構えた姿勢で言い放つ藍璃。短刀の刃には符術≪持国刃≫の御札が一枚突き刺さっている。
 距離からして、天幻が≪持国刃≫を使ってこちらの出鼻を挫いてくる、と読んだ藍璃の読み勝ちである。烈風は、二つの風の刃がぶつかり、弾けることで生まれたものだった。
 紫道は、真っ二つにされる一瞬前だったかと思いヒヤッとすると同時に、太刀を握る手に汗がにじんでくる。悔しいが、実力では向こうが一枚も二枚も上手だ。
 両手に御札を持ち、千歳は静かな口調で言う。
「風剣雅天幻、貴方も調べはついています。貴方は、蓬樹陽姫弥ほうじゅようきみとともに当家の古記録にその名を刻む、六合りくごうの化身」
 千歳の言葉を引き継ぐようにして、月白が続ける。畏れを込めて。
「……風剣雅天幻は、蘇芳山飛鳥あすか・美音夫妻のみが使役し得たとされる最強級の式神……木の吉将、六合の化身です」
「ただの式神じゃないよ、あれは。かなりの力と、凶将きょうしょう以上の邪悪な気配を感じる」
 藍璃は唸るように言う。少なくとも藍璃よりは地力が上なのかも知れない。
 現に、藍璃は御札と短刀とを組み合わせることで≪持国刃≫を発動させたが、天幻は御札なしで同じ≪持国刃≫を発動してみせる、という符術の常識からすれば離れ業をやってのけている。
「だがな、藍璃。
 こいつをもってして、単なる使い走りか露払いでしかないということだぜ」
 紫道が不敵な調子で言うが、しかし余裕は感じられなかった。使い走りということはつまり、黒い鬼面の者は、天幻よりさらに強い可能性もあるのだ。
「いきますよ」
 千歳は凛とした声を発すると、両手に持った八枚の御札を宙に放り投げ、二言ほど呪を紡ぐ。御札は八つの炎の弾となって、天幻に襲いかかる。
 しかし、剛弓から放った矢にも比肩する速さで飛来する、炎の弾を前にしてもなお、天幻は一歩も動かず待ち受ける。
喝破かっぱ!」
 がごうんっ!
 天幻が大声で一喝の声を上げた途端、八つの炎の弾は天幻に直撃する手前ですべて爆発、四散した!
「まさか、声だけで符術≪毘沙門炎≫びしゃもんえんを打ち消すなんて……」
 千歳の声は動揺からか、ややかすれていた。
「人間の繰り出す符術など……その気になれば握り潰す必要すらない」
「なら、切り捨ててやるまでだ!」
 刃を寝かせて霞に構えると、一気に紫道は天幻との間合いを詰め、心臓に向けて突きを繰り出す。
「遅い」
 人間ならば、目にも映らぬ速さと評するであろう太刀筋を、難なくかわす天幻。しかし、紫道は最小限の挙動で刀を引き、続けて天幻の喉を狙う。
「おっと」
 今度は顔を反らせてかわす天幻。しかし三度、今度は天幻の水月すいげつを狙って、一歩踏み込んだ突きを紫道は繰り出してみせる。
「ぬっ……!」
 三段突きまでは予測していなかったのか、少し焦った気配を見せる天幻だが、それもほんの一瞬のこと。背中から倒れるようにして三の突きをかわすと、そのまま両腕を地面に付き足を開脚、腕を支点にして体を大きく捻る。
「ぐあっ!」
 地面を這うように振る左脚の踵で紫道の足を払いながら、振り上げた右脚で紫道の腹を打つ天幻。紫道は、縁側の近くまで吹っ飛ばされるが、何とか踏ん張って転倒だけは免れ、腹を押さえてうずくまる。
「足下に留守番がいなかったようだな」
 皮肉を込めて言いながら、天幻は立ち上がり直刀を構えて、紫道の元へと迫る。
「緋衣殿!」
「紫道様!」
 月白は符術≪毘沙門炎≫を、藍璃は符術≪持国刃≫を繰り出して牽制けんせいを試みるが、そのいずれも天幻は体をさばいてうまくかわす。紫道はまだうずくまったまま。
 既視感。
 藍璃の脳裏に、黒い鬼面の者と戦ったときの光景が蘇る。このままでは、また……
 思うや否や、藍璃は紫道の元へ駆け出す。符術も何も用意していないが、藍璃の頭の中にそれはなかった。
「決着だ、緋衣紫道!」
 直刀を霞に構える天幻。藍璃はまだ紫道の数歩前。
「ああ、勝負だ!」
 紫道は突然顔を上げる。その目は鬼気迫るものがあったが、紫道が見た天幻の体からも鬼気が噴き出し……そして、翁面の奥にある必死の目が一瞬見えたような気がした。
「美音様っ!」
「藤香ァッ!」
 意識せず発せられた、二人の魂の声が交錯する。
 霞の構えから踏み込み、紫道の鎖骨付近を狙い直刀を突き下ろす天幻。
 うずくまった姿勢から伸び上がるようにして、寝かせた太刀を右手一本で天幻に向け突き出す紫道。
 ずんっ!
 肉に異物か埋もれる鈍い音。双方とも全霊を込めた間合いなしの攻防。
 直刀は相手の左肩を貫いて砕き……太刀は相手の肋骨を縫い左胸を貫いていた。
「ぐっ……見事……」
 言葉とともに吐血する天幻。
「しかし……その腕では」
 どっ……
 最後の言葉を言い終えることなく、天幻はカッと目を見開くと、硬直したまま仰向けになって大地に伏す。


四之章(2)

「ぐううううっ……半端なく痛え」
 紫道しどは呻きながら、半身の姿勢のまま背中から仰向けに倒れかけるところを、藍璃あいりが右側からしっかりと受け止める。
 前のめりに踏み込んだことで、動きが居着いてしまった天幻に対し、紫道は伸び上がりながら右腕につられる形で半身になったため、かろうじて正面への直撃を免れたのだった。
 攻速の差が縮まる、間合いがない距離での攻防に、万に一つの勝機を賭けた紫道の勝ちである。
「着物が血で汚れるぞ藍璃……ってまた泣くのか」
「無事で……よかったよ……」
 紫道の顔をのぞき込みながら、藍璃は微笑みながら涙を流す。
「困った奴だ……」
 しかし、そんな藍璃を紫道は初めて、ちょっぴし可愛い奴だとも思い、そして藍璃の面影に、どこか藤香の面影を感じた。藤香の小さい頃と、顔つきがどことなく似ていることに、今初めて紫道は気づいた。
「だが、ありがとな……」
 紫道もまた、うっすらと藍璃に微笑み返すのだった。
「……で、この傷は何とかなるか、藍璃」
「無理。何ともなんない」
 表情は崩さずに即答。
 そんなことまで藤香に似なくてもいいのに、と紫道は急にげんなりとした気分になる。
「見せていただけますか」
 落ち着いた声で藍璃の後ろから現れたのは月白げっぱくだった。
「治せるか?」
「ええ。幸い、命に関わる傷でもありませんので」
 月白は紫道の左手側に回ると、どくどくと血を吐き出している左肩に御札を当て、呪を二、三言唱える。
 すると、御札から煙が上がり、もうもうと蒸気のようなものを上げ始める。
「ぐううううううううっ!」
 紫道の左肩に、酸でも掛けられたような激痛が一瞬走るが、それもすぐに収まると、徐々に傷口から痛みが引いてくる。
「これでよろしいはずです」
 蒸気のようなものが収まり、月白が御札を剥がすと、傷口は綺麗に塞がっていた。砕けたはずの肩関節も全く痛みはない。試しに動かしてみると、傷を負う前と全く変わらなく動いた。
「符術≪広目療≫こうもくりょうは初めて見たよ」
 藍璃は感心したように言う。どうやら藍璃は使えないらしいが、恐らく日頃の行いにしとやかさとか思いやりとかが足りないせいだろう、と紫道は勝手に思う。
「さて、使い走りは倒したが」
 紫道はゆっくりと起きあがると、滅して体が粉末状に風化しつつある天幻を見下ろし、その胸に刺さった太刀を抜く。
「大将を何とかしないと……?」
 門の方の慌ただしい様子に、四人は一斉にそちらを向く。すると、数人の見慣れた衣服の人間が縁側に現れた。
「……長官!」
 現れたのは、追捕使ついぶしの兵数名と長官であった。片膝をつき頭を垂れる紫道。他の三人は軽く会釈。
「おお、紫道。あちこち、えらいことになっておるわ」
 いつもの緊迫感のない様子とは違い、やや焦った様子で話す。見れば、追捕使の長官は甲冑を着て鉄扇を持ち、指揮刀を腰から提げている。長官のそんな真面目な格好は、勤めて以来初めて見る。
「つい今しがた、楊梅院あせんいん家と続けて紫苑寺しおんじ家が、何者かに襲われてな」

 


『……えっ!』
 同時に驚きの声を上げる千歳と紫道。
「お主の言うた通り、御神楽みかぐらで使いよる、黒い鬼面をつけとったそうな。
 近くにいた追捕使も十人ほど駆けつけたが、さっくりさくさくと全滅したとな……」
 追捕使の長官は肩を落とす。無理もない。紫道も怒りがこみ上げてくる。
「それで、両家の方々は」
 千歳は追捕使の長官に問いただす。その顔は半ば青ざめていた。
「あかん、あかん。忠持ただもち殿、公形くぎょう殿の御両名とも意識を失ってぐったりじゃわ。我が兵の他に大した怪我人もなかったのは幸いだが、気休めにもならぬ。
 命からがら逃れた兵から事態を聞いてな、これで残るは蘇芳山家だけよ。
 本邸に兵を率いて駆けつけたら、長女の千歳殿はこの別邸と聞き、少々気になってな……本邸には百名ばかり残し、手練れの者を十名ほど引き連れて、お迎えに参上した次第ということよ」
 千歳と紫道は平静な様子に戻るが、今度はすぐに渋い表情となる。つまるところ、蘇芳山以外の四家の魂は、既に黒い鬼面の者の手中にあるということを意味した。
「ところで千歳殿、この別邸に古井戸か池のようなものはございませんか?」
「古井戸か池、ですか?」
 紫道の問いかけに、千歳は小首をかしげる。
「天幻が現れたとき、わずかだが濡れていたような感じだった。ということは、水気のある場所から這いだしてきたことになる」
「あー、待て待て紫道。話が見えぬぞよ。何か掴んでおるのかえ?」
 追捕使の長官が口を挟む。確信ではないが、紫道には黒い鬼面の者は何者か判る気がしてきた。
「はっ……俄には信じていただけぬかと思われますが」
 千歳をチラリと見てから、再び追捕使の長官へと向き直り、答える。
「下手人は、風剣雅天幻を使役できる唯一の者……蘇芳山飛鳥あすかか、あるいは美音よしね
 既に死んでいるはずの年齢ながら、もはや他に心当たりが考えられませぬ」

 


 古風な寝殿造しんでんづくりの豪邸にしては珍しく、池ひとつない蘇芳山家の別邸だったが、敷地の奧まった一角、防風林に隠れるようにして、いかにも意味深な古井戸だけは何故かあった。
 石造りの井戸の口の上には、退魔の真言をびっしり彫った、やたら分厚い紫檀したんの板でしっかりフタをし、その上に井戸の口よりやや大きい平岩を乗せ、周囲を盛土で隠すという徹底ぶり。これを意味深といわずして何と言おうか。
「私も知りませんでした。別邸にこんなものがあったなんて……」
 心底驚く千歳だが、全員が駆けつけたときには、平岩は真っ二つに割れ、邪悪を寄せ付けぬはずの紫檀の板の中心には、人が通れるほどの穴が空いていた。
「大当たりのようだな」
 紫道は大してうれしくもなさそうに言う。
「これ、降りるの?」
 藍璃はげんなりした様子。底があるのかさえ怪しい気がしなくもないから、無理もないことだろう。
「あー、とりあえず割れとる岩と盛土をどかさんとな。さっさとやってしまえ」
 追捕使の長官は周囲の兵に命ずると、あっという間に古井戸の周りは同じ出で立ちの人間で溢れた。
 人海戦術で一刻も経たぬうちに、岩と土は撤去され、紫檀の板に空いた穴には太い縄のハシゴが下げられる。
 長さが違うハシゴが何度か下げられては引き上げられたが、一番長いものを下げると、兵は頷いて紫檀の板に打ち込みハシゴを固定する。
「底で何かに接触したような、硬い手応えがありました。このハシゴで大丈夫かと思われます」
「ご苦労であったな」
 兵の報告に追捕使の長官は頷き、下がらせる。
「長官、ここは私と藍璃、千歳殿と月白殿の四人にて潜行したく存じます」
 紫道は長官に頭を垂れる。追捕使の長官はしばし黙考。
「……うむ、左様せい。狭き場所じゃ、大所帯は向かぬであろうし、手練れの者がひとりも都の内におらぬでは、万が一のこともある。追捕使でも一番の手練れの紫道と、事情をよく知る蘇芳山家の方に任せるほかあるまい」
 追捕使の長官は、手に持った鉄扇をパチンと鳴らしながら答える。生半可な腕前の者では黒い鬼面の者……天幻の言葉に間違いなければ蘇芳山美音……に太刀打ちできないことは、既に証明済みである。
「では、参りましょう」
 千歳に促されて、四人は縄のハシゴを降りていった。


五之章(1)

「じっとりじとじとして、やだなぁ」
 紫道しどの足下から、藍璃あいりのふてくされた声が聞こえてくる。
「仕方ないだろ。止まってると頭踏んづけるぞ」
「むぅ」
 紫道達四人は、音もない真っ暗な世界を、地道に降りている真っ最中。先頭は本人たっての希望で千歳ちとせ月白げっぱく、藍璃と続いて、殿しんがりが紫道である。
 古井戸の底をチラリと見れば、ぼんやりとした黄色の点が見える。降りる前に落下させた松明が、古井戸の底を照らしているのだ。
 ハシゴを伝い、何事もなく古井戸の底へ降りると、最後に降りた紫道が左手で松明を取り上げ、全員の姿を確認する。
 水が張っているかと思い、薬剤を染み込ませた耐水松明たいまつを用いたが、底は湿っている程度……なのだが。
 松明の炎が揺れている。
「普通の井戸には横道なんてないわな」
 紫道が、揺れる松明の先端を壁際へ向けて照らしたのは、土の壁ではなく先の見えない、長方形の横穴。横幅はそこそこあるが、天井は体の小さな藍璃でも、頭が着きそうなほどのものでしかない。
「頭をぶつけるようにしなければ、何とかなるだろ……大丈夫か?」
 顔を向けて、紫道が促した相手は月白。背の高い美丈夫びじょうぶな彼では正直きつそうな横穴だ。
かがむことは苦にしません、大丈夫でしょう……だた、これは外した方がよさそうですが」
 そう言いつつ、月白は丁寧な仕草で烏帽子えぼしを取る。確かに烏帽子は邪魔だろう。
「さて、今度は降りた順番とは逆で、松明を持った俺が先に進むとするが、異存はあるかい?」
 今度は三人を見渡して促す紫道だが、問われて三人は首を軽く横へ振る。紫道は首を軽く縦に振ると、松明を斜め下気味にかざしながら、横穴へと入ってゆく。
「……水がぼたぼた垂れてくるんだけど」
 藍璃が上げた声は、不機嫌もたけなわといったところ。
 いざ横穴を進んでしばらくすると、上からは冷たい水滴がポツリポツリと降ってくる。紫道は少し右手で横の土壁を触ってみたが、薄い泥の膜が覆っているような感触。足下はやや湿った足音を立てている。
「井戸の底を満たすほどではないのでしょうが、まだ水脈がわずかに生きているのでしょう。風剣雅天幻も、きっとここを通ったのですね」
 落ち着いた声は千歳のもの。紫道以外は、水滴によって着物がだいぶ濡れてきている。ひとりだけ、兵から追捕使用の甲冑を借りて装着してきた紫道も、甲冑部品の保護がないももや腕の部分はやはり濡れ始めていた。
 幾つか横に曲がりつつ半刻ほど進むと、一本道となりぼんやりとだいだい色の光が見えてきた。誰かの、喉が鳴る音が後ろで聞こえたと思ったが、それが自身のものであることにさえ紫道は気づかない。
 かがり火という偽りの太陽に照らされた部屋は、特大の寺院の中かと思わせるほどに、天井が高く、そして広かった。

 


紅飛鳥べにあすか……』
 同時に声を上げたのは千歳と月白。
 部屋の中央にぼんやりと浮かび上がっているのは、人の背の五倍近くはあろうかという、巨大なあか鳳凰ほうおうの像。
 紫道も同じ姿の図柄は見たことがあった。そして、その図柄の鳳凰こそが、都を天に浮かせる力を持つ式神≪紅飛鳥≫であることも、藤香とうかに教えてもらったことがある。
 その紅飛鳥が今、目の前にある。
 紅飛鳥の前には、空五倍子うつぶし色の狩衣をまとい、左手に黒い鬼面、右手に四尺ほどの長さの杖を持った、ひとりの人間。
「見つけたよ……!」
 藍璃の敵意むき出しの声に、空五倍子色の狩衣姿はゆっくりと振り返る。
 長く艶やかな髪、観音像のような美貌。男装ともいうべき狩衣姿には、奇妙な違和感を感じるほど美しい女性がそこにいた。
蘇芳山美音すおうざんよしね……なのか?」
 信じがたいような声で問いかける紫道。
「百年以上の前の人物が、このような姿のはずがない……そう言いたいのだな?」
 美しくも透き通った声には、何の感情もこもっていないように聞こえた。
「左様。美音様は既に鬼籍に入られ、眠っておられる。
 私は、美音様の姿形と記憶を植え付けられた式神に過ぎない。
 しかし、姿も記憶も生き写しなら、美音様の名を騙るのも許されよう。現に、私に名を与えたもう前に、美音様は息絶えてしまわれた」
 蘇芳山美音を名乗る式神は、一歩前に踏み出して言葉を続ける。それだけでも、紫道は無言の圧力を感じる。同じ蘇芳山家の高位式神なのであろうが、式神にして式神にあらずともいうべき威圧感は、天幻とはケタが違う。強い。
「理由を聞こう。紅飛鳥を生み出した蘇芳山美音様が、紅飛鳥を滅ぼさんとする理由を」
 月白は、少し身構えながら誰何する。
「理由……? そう、そうね。都に住まうこいつらの祖先は、そんなことはお構いなしのはずよね」
 紅飛鳥の前にある八足祭壇に並べられた、四つの長頸瓶ちょうけいへい一瞥いちべつをくれながら発せられる冷酷な声には、憎悪と怒りがにじみ出ていた。
「見なさい! この……」
 何かが堪えきれなくなったのか、蘇芳山美音を名乗る式神は一瞬押し默り俯くと、キッと顔を上げて叫ぶ。
「この、蘇芳山飛鳥の、私が此の世で命も運命も捧げた夫の、哀れな姿を!」
蘇芳山美音を名乗る式神の瞳には、大粒の涙が溢れていた。
「……朱華はねずの水が、次々と大地を飲み込んでいたある日のこと、都に五人の式神使いが呼ばれたわ」
 何かを抑えているような表情は、爆発しそうな感情であろうか。
楊梅院あせんいん紫苑寺しおんじ桔梗林ききょうりん璃寛原りかんばら、そして蘇芳山……他の四家は都に元々住み、帝に仕える者だったけど、私達はもとから都に住んでいたわけではなかった。
 私達が住んでいた天鳥寺てんちょうじは、とっくに朱華の水の中へと没し、私達夫婦は姉の夫婦とともに、都へ逃れてきたに過ぎなかった」
 四人は押し默って聞いている。恐らく、その姉夫婦とやらが今の蘇芳山家なのだろう。千歳は蘇芳山家が都の外から来たことに、少し驚いた表情を見せる。知らなかったらしい。
「少し不自由だったし、子宝にも恵まれなかったけど、幸せだったわ。
 しかし、私達が朱華の水から逃れた方法、つまり空を飛べる式神を創生する技……まり、火の凶将である朱雀すざくの化身を、人型ではなく鳳凰型として、飛翔に全ての力を注ぐ式神を生み出す技を、帝は欲したのよ。
 しかし、火を司るべき楊梅院の式神使いにはそれができなかった。だから私達も呼ばれてしまった」
 蘇芳山美音を名乗る式神から、ふつふつと殺気が沸きつつあるのは気のせいだろうか。紫道の肌にチリチリとした感覚が走る。
「いかに飛翔の力を持つとはいえ、人を乗せて飛翔するのがせいぜいよ。いかなる玉や石をもってしても、都とその周囲を丸々浮かせるなんて、そんな式神を生み出せるはずはないのに」
「禁忌の法……硬玉でもなく石でもないものから、式神を……まさか」
 ある知識に思い至ったのか、月白の顔は、名前通り満月のように白く血の気が引いている。
「……ええ、そうよ。霊力を帯びた玉や石よりも強力な式神を生み出すには、無機質な石よりもはるかに強い、霊力を帯びた有機質でもって式神を生み出す。そしてその有機質は、動かなくても構わない。石のごとき状態でいい」
 ここまで言われて、紫道も意味を理解し始め、身も毛もよだつ感覚になり始めた。千歳に至っては、ウッと呻いて屈み込みんでいる。
 紫道は上を見上げ、朱雀の化身こと紅飛鳥を見る。そういえば、知らなかったような気がする。なぜこの式神が紅飛鳥という名前なのかを。
「式神使い達はよってたかって、私の夫を家畜のように殺し、その骨をもって式神を生む核とし、私は、散々な辱めを受けた挙げ句にこの古井戸へ閉じこめられた」
 蘇芳山美音を名乗る式神は、再び下を俯いた。声は、既に泣いている。
「何で……! こんな……!」
 ひとしきり泣いたかと思うと、ゆっくりと顔を上げ、右手の杖を構え、左手に持つ黒い鬼面を顔につけ始める。
「式神使いの連中も、都の連中も、帝も、己のみ助からんとする欲望のために……飛鳥様と美音様の無念、今晴らしてくれよう!
 美音様が死の間際に生み出した、この十二天将の主将、天乙貴人てんおつきじんの化身≪蘇芳山美音≫が、このような薄汚い都、さっさと朱華の水の中へ叩き落としてくれる!」
 殺気が膨れあがり、部屋を満たしてゆく。蘇芳山美音を名乗る式神、否、蘇芳山美音から黒い何かが立ち上っているのが、全員の目に見えていた。
「蘇芳山夫妻のことには同情するがな」
 紫道は、太刀を抜いて青眼せいがんに構える。
「それに、俺も、一族も、藍璃も、千歳殿も月白も、長官も、帝も、藤香も……今都に住む皆が、蘇芳山夫妻に助けてもらったような命。ここで都を落としたら、それこそ蘇芳山飛鳥殿は犬死にだ。恩人の命を無駄にしてなるものか」
 藍璃も、短刀を抜いて≪持国刃≫じこくじんの御札を何枚も刃に突き通す。
「どんな理由があったって、私は藤香様と……紫道様を酷い目に遭わせた奴は許さないんだからね!」
「同感です」
 千歳も、目を腫れぼったくしながらも、御札を構える。
「ご先祖様のお悲しみは、察するにあまりありますが、だからといって罪も無き人々を滅ぼすことが正道とは思えません」
「藤香を返してもらうぜ。さもないと、あいつと添い遂げる俺の人生の予定が狂うからな」
 しかし、蘇芳山美音はククク、と低く笑うのみ。
「人の愛の屍を踏みしめて育む愛に何の美しさがあろう……冥土で添い遂げるがよいわ!」


五之章(2)

「黙れ!」

 叫びつつ、紫道しどは青眼から右蜻蛉みぎとんぼへと構え直して蘇芳山美音すおうざんよしねに斬りかかる。

 一瞬で間合いを詰め、大地をも切り裂かんとする一撃を放つが、太刀が蘇芳山美音の体を捕らえると思った刹那、その姿がかすみのように消え失せる。

「ほほ、明後日を向いているわよ」

 余裕に満ちた死神の声は、紫道の背中から聞こえた。

「……この!」

 紫道は膝を落としつつ、体を振り向かせて太刀を横薙ぎに食らわそうとするが、そこには誰の姿もない。

 戸惑い、わずかに動きが居着いた紫道の背中に、強烈な蹴りが叩き込まれた!

「ぐあっ!」

 前傾姿勢のまま二間ほど吹っ飛ばされる紫道。何とか受け身を取り立って青眼に構え直すが、背中はズキズキと痛む。単なる蹴りでこの衝撃なら、甲冑など全く役に立ちそうもない。

「人間の言う神速しんそくの剣技など、遅すぎてあくびが止まらぬわ」

 蘇芳山美音の余裕に満ちた声が、空洞内にこだまする。

 一瞬の攻防に、他の三人は割り込む余地もなかった。

「だめだ、紫道様。やっぱりあいつの動きが捕らえきらない。まるで霞のように消えているみたい」

 紫道の前に立ち、短刀を油断なく構える藍璃あいり。符術≪持国刃≫じこくじんの用意はできているが、動きが捕らえきらない以上、うかつには放てない。

「なら、このようにするまでです」

 千歳ちとせ月白げっぱくは、二人同時に御札を宙に放り投げ、それを炎の塊とする。

 二人同時で放った二十発近い符術≪毘沙門炎≫びしゃもんえんは、蘇芳山美音の全方位から隙なく襲いかかる!

 しかし、普通なら回避不可能なはずのその攻撃を、炎の弾のわずかな隙間を縫ったのか、瞬きする間もなくすり抜ける。

 虚しく広がる炎の華を背に、蘇芳山美音は千歳と月白との間合いを瞬時に詰める。

 ぎぃん!

「千歳様には触れさせませぬ」

 千歳の前に身を乗り出した月白は、短刀を即座に抜き、蘇芳山美音の杖の一撃を辛うじて受け止める。その間に千歳は蘇芳山美音の間合いの外へ。

「もらった」

「!」

 蘇芳山美音は、己が今吐こうとした台詞を背中から受ける。紫道は蘇芳山美音の後ろに回り、背中を袈裟切りに斬りかかった。

「甘いわ」

 紫道の斬撃はまたしても虚空を薙ぐ。瞬時に左真横へと身を動かした蘇芳山美音は、お返しとばかりに紫道の頭上から、鉄の金剛杖を振り下ろす。

 鍛鉄と鋼鉄の噛み合う音が空気を震わせる。

 両手で太刀を構えて杖を受け止めた紫道だったが、圧力に耐えかねてそのまま片膝をつく。猛烈な力で押さえ込まれ、虫ピンで留められた虫のように、紫道は身動きが取れない。

「紫道様!」

 声とともに、蘇芳山美音の右手に回った藍璃が≪持国刃≫を解き放つ。

「ちっ」

 三枚の不可視の刃の気配を感じ取り、蘇芳山美音は即座に後方転回バクテンして≪持国刃≫をかわす。

「これを使って!」

 藍璃は、手に持った短刀を紫道の方へと放り投げて、蘇芳山美音から距離を取る。紫道は左手で短刀をうまく受け取る。

 蘇芳山美音へと向き直ると、再び間合いを詰めて杖を振り下ろさんとするところ。受け止めてはさっきの二の舞だが、今度は二刀。紫道はしゃがんだ姿勢のまま、左手の短刀で杖を何とか受け流し、右手の太刀を蘇芳山美音の水月を狙って突き出す。

「無駄なこと」

 半身になって太刀をかわした蘇芳山美音は、杖を変幻自在に繰り出して紫道に迫る。幾重もの金属が噛み合う音。

「うっ……」

 伸びては縮み、あらゆる場所を狙い繰り出される、目にも映らぬ光速こうそくの杖術の前に、紫道は防戦一方となる。大小の刀を使う二刀流も免許皆伝の腕前で自信はあるのだが、凌ぐのに手一杯でなかなか攻勢に移れない。二刀をもってしてもこれだけの差がある……天幻の、人間の編み出した剣技ではその程度、という言葉が脳裏をよぎった。

 がすっ!

 そして杖の先端が、紫道の水月を捕らえた。

「がふっ!」

 杖の先端は甲冑に易々と丸い穴を開け、紫道の体をしたたかに突く。

 吐血とけつ吐血して仰向けに崩れ落ちる紫道。

「死ぬがよい」

 死神の杖が、頭上に迫る。防御態勢を取ろうにも、意識が白濁はくだくし体が思うように動かない。

 ……ダメか!

 目を瞑る紫道。しかし、杖の衝撃は伝わってこない。

 恐る恐る目を開けると、目の前には豊かな黒髪が広がっていた。

「うっ……よかった……間に合いました」

 紫道の横から覆い被さるような体勢。左腕を地面につき体を支え、振り上げた右手に持った≪増長刃≫ぞうちょうじんの御札で、杖を受け止めているのは、千歳であった。

 間一髪の所で間に合ったものの、全身は既に震えており、いつ崩れ落ちるか判らない状態。

「おのれ、千歳様と紫道殿から離れろ」

 しかし、月白にはそのわずかな時間で十分だった。藍璃とともに、≪毘沙門炎≫や≪持国刃≫を乱れ打ちにして、蘇芳山美音を二人から引きはがそうとする。

 蘇芳山美音は、紅飛鳥べにあすかの近くへと大きく飛翔。符術は二人の頭上を通り過ぎた。

「千歳殿……助かりました。大丈夫ですか?」

「ええ……私は平気。紫道様こそ大丈夫なのですか?」

「何とか」

 千歳は、紫道の体を起こすのを手伝う。紫道はどうにか立ち上がると、太刀と短刀を拾い上げる。月白と藍璃も二人のもとへ駆け寄る。

「次に勝負を賭けたいが……」

 紫道は再び二刀を構え、他の三人は符術を交互に、あるいは同時に繰り出して、蘇芳山美音を牽制する。

 何とか間合いを詰められることだけは免れているが、しかし御札が切れるのも時間の問題。攻め手を見つけないとジリ貧なことには変わりがない。

「千歳様、月白さん。

 さっきみたいに、符術≪毘沙門炎≫をたくさん打って奴の動きを絞れますか?」

 焦りながら紫道が攻め手を思案していたところ、藍璃が千歳と月白に問いかける。何か策があるらしい。

「ええ、できると思います。ですが、どうするのです?」

 千歳が答えている間は、月白が牽制を続けている。

「……私が攻撃を一瞬だけ封じる。その一瞬で紫道様が決着をつけてくれるはず」

 紫道へと振り向く藍璃。その瞳の光は意を決したように強かった。なぜか、彼女の言わんとすることが分かったような気がした。

「よし、それに賭けよう……頼むぞ藍璃」

 短刀を藍璃に返し、紫道は鞘を腰から抜き左手に持ち、太刀を収める。千歳と月白に軽く耳打ち。頷く二人。

「いきますよ!」

 掛け声と共に、千歳と月白は二十枚近い御札を空中に放ると、一斉に炎の塊を生み出して蘇芳山美音へと解き放つ。

「二度も同じ手が通ずるものか」

 蘇芳山美音は失笑すると、全周囲を覆う炎の雨のうち、わずかに開いた一角へと軽く前に出てそれを逃れる。そこを狙って千歳が放った一発の≪毘沙門炎≫も、杖でもって打ち払う。

「かかったね」

 声は、打ち払った炎の華のすぐ向こう側。

 ≪毘沙門炎≫の陰に隠れて接近した藍璃は、短刀も抜かずに丸腰のまま。

「愚かな」

「後でもその言葉を言えるかしら?」

 蘇芳山美音の余裕の声に、藍璃も引きつりながら返す。

「死ぬがいい」

 右手の杖を左肩の上まで振り上げ、蘇芳山美音は腰をわずかに落としつつ、藍璃をしたたかに打ち据える。

 ぼぐごきっ!

 肉が波打ち、骨が砕け散るような嫌な異音が鳴る。

「ぐううっ」

 体の臓器と骨を砕かれながらも、藍璃は両手で自らの体にめり込んでいる杖を、両手で抱えるように強く握りしめる!

「……ぬっ!」

 予想もしていなかったのか、杖の動きを戒められた蘇芳山美音は一瞬動きが凍り付く。真っ青な顔で杖を離さない藍璃のすぐ後ろ、今度は太刀を三分の二ほど鞘から抜いた紫道が、蘇芳山美音に迫る。

「今だ、頼む!」

 紫道の叫びに、千歳と月白は少しお互いの距離を離し、それぞれ短刀を抜き、御札を一枚刺して大きく振るう。

 同時に繰り出された≪持国刃≫は、それぞれ斜めに紫道の背中へと迫り、そのすぐ後ろでちょうどV字の頂点のようにぶつかり相殺され、烈風を巻き起こす。

 烈風が起きた瞬間に軽く飛び上がり、乗り勢いを増した紫道は、蘇芳山美音の左手側に回る。蘇芳山美音は、杖を封じられ予想外の速度で迫る紫道に反応できない。

 そして、抜きかけの太刀の刃の根本が、ついに蘇芳山美音の脇腹をとらえた!

「土へと還れ、蘇芳山美音!」

 叫びとともに、紫道は全身のバネを使って体を捻り、抜きかけの刃を力いっぱい抜き放つ。

「なんと……」

 驚愕の声を上げる蘇芳山美音。太刀は根本から切っ先までその体を捕らえ、脇腹を切り裂き背骨をも断ち切った!

 どっ!

 勢い余って前のめりに地面に叩きつけられる紫道。

「がはっ……!」

 赤黒い塊を盛大に吐く蘇芳山美音。

 鉄の金剛杖が、ゴロンと重々しい音を立て、赤黒く染まりつつある地面へと転がった。

「ぐっ……都の者どもは……」

 膝から崩れ落ちながらも、蘇芳山美音は両腕で身体を辛うじて支える。

「飛鳥様と……美音様に行った……むごい仕打ちを……腫れ物のように……忘れ去る……卑劣……己等の犯した罪に背を向けるは……あまりに卑怯……」

 途切れ途切れに、そして口惜しそうに、血とともに言葉を漏らす。

「人間とは、多くの過ち、誤り、罪を繰り返して生きるものです。

 しかし、その全てを抱え込んで生きられるほど、人間は強くありません……それほど、出来のいい生き物ではないはずです」

 歩み寄りながら、千歳は蘇芳山美音の怨嗟えんさの声に応える。

「物心ついてから死ぬまで、全てのしでかした過ちや罪を自覚して背負い一生を生きるなど、常人の精神力では到底持たない。できっこないだろうよ……

 そして、一生のうちに過ちや罪を犯さない人間などいない。自覚して背負って生きろなど、誰にだって言う資格はないぜ……お前はどうなんだ、真っ新まっさらな人間か、ってことになるからな」

 何とか、太刀を杖のようにして起きあがりながら、紫道は続ける。

「こうやって生きてる以上、誰もが己の人生を幸福のうちに全うしたいと思うもの。  その幸福に生きられる者をも、己の恩讐に引きずり込み潰さんとすることも、また卑劣だと思うぜ」

「人の世には、人の数だけそれぞれが信ずる正道があり、数多の正道と正道とのぶつかり合いによって、人の世は成り立つ……

 そして、活人の心を見失った正道を、人は邪道と呼びます」

 達観したような最後の言葉は、月白が呟いたもの。

「我が正道……お主達の正道に……敗れたということ……か」

 蘇芳山美音はピクン、と上半身を痙攣させ、一瞬硬直したと思うと、大地を抱くように倒れ伏した。

 紫道は、大地に伏した蘇芳山美音には目もくれず、仰向けに倒れ伏したもうひとりの式神、藍璃のもとへと駆け寄る。

「おい、藍璃! しっかりしろ!」

 右肩から頭を抱え起こそうとするが、藍璃は痙攣を繰り返すのみ。口からは、ごぼごぼと血を吐き出している。

 紫道の声にようやく反応したのか、藍璃はうっすらと目を開ける。

「……げふっ……紫道様……あいつは……」

「ああ、やっつけたぞ。お前が奴の動きを一瞬封じてくれたおかげだ」

 励ますように声を掛けるが、反応は薄い。駆け寄ってきた月白が符術≪広目療≫を施そうとする。

「……月白さん、いいよ……藍璃は、助からないから……」

 藍璃は、急いで呪を唱えようとした月白を見やる。既に、藍璃の体には亀裂が走り、粉末状になりつつあった。再び紫道を見つめる藍璃。その顔は目を細めてうっすらと笑っていたが、しかし目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。

「こんど……うまれかわったら……あいりは……ほんとうの……」

 言葉は言い切らぬうちに沈黙し、笑顔がそのまま、刻が止まったように張りつく。体はみるみる粉になってゆき、そして紫道の手には着物のみが残る。

「藍璃……? いたずらがすぎるぞ……? 変な冗談はよせよ……おい、藍璃……」

 呆然と呟く。頭では分かっているのだ。しかしすぐに信じることはできなかった。

「――!」

 しばらくして、その着物を抱え込むように紫道はうずくまる。

「紫道様」

 千歳は、握った右手を紫道の目の前に差し出し、ゆっくりと開いてみせた。

「……これは……!」

 わずかに目を上げて千歳の掌を見ると、そこに在るのは碁石のような翡翠ひすい色の石。

 その硬玉には見覚えがあった。いや、忘れるはずもない。それは幼少の頃、藤香と都の外まで二人で探検した際に拾った翡翠の原石。磨いて首飾りとし、藤香が初めて身につけた硬玉。

 ここ数年、身につけている様子がないと思っていたが、紫道はようやくその理由を理解した。身につけられるはずはなかったのだ。

「式神使いにとって式神とは、己が死ぬまで一生付き合っていかなくてはいけない相手です。そのため、式神使いは特別な理由を持つ石でもって、式神を生み出すことが常なのです」

 千歳は静かに言葉を続ける。

「藤香はよく言っていました。藍璃ちゃんは式神だけど、自分と紫道様、二人の妹だと。

 自身の式神を生み出すのに、もっとも思い入れのある石として選んだのが、紫道様との思い出の硬玉だった……藤香は、藍璃ちゃんを生み出すことで紫道様、貴方と運命をともにすると決意したのではないでしょうか」

 白い掌の上に載った硬玉を、じっと見つめる紫道。そして、ゆっくりと手を伸ばし、その硬玉を握りしめた。


「ご無事でよかったです、千歳ちとせ様」
 伊織いおりは、自分でてたお茶を飲みながら、嬉しそうに饅頭を頬張る。符術≪広目療≫こうもくりょうのおかげか、先日負った怪我はすっかり良くなっている。
「伊織君もお怪我が治ったみたいで安心したわ……本当に美味しいわねこの饅頭、ありがとう」
 正面に座っている千歳も、同じように自分で点てたお茶とともに、饅頭をはくりと一口。
 饅頭といっても、安い屋台の鬼饅頭などではない。白い皮に漉し餡が入った、貴族しか食にできない上等な饅頭である。伊織の実兄・公形くぎょうから、蘇芳山すおうざん家に行く伊織へ持たされたものだったが、蘇芳山家の正室様からは千歳への贈り物と勘違いされたらしく、二人で食する幸運を得ることに相成った。
「んぐっ、こんな上等な饅頭、僕も食べたことないですよ……本当にお茶に合うなあ」
「それにしても伊織君、あなたもそろそろ式神を持ってもいい年頃よね」
 話しながらも、千歳は饅頭を手に取る手を休めない。
「そうですよねぇ、でも千歳様の月白げっぱくさんみたいに、上手に扱えるか心配で……」
 自信なさげに、声が萎んでいく伊織。
「伊織君」
 千歳はようやく饅頭を取る手を休め、伊織の方へと少し鋭い口調で声を投げかける。一瞬考えるように目を瞑ったがすぐに見開き、伊織を真っ直ぐ見つめる。
「……私も、いつまでも月白に頼りっぱなしなわけにはいかないわ。早く、あなたも私が頼れるような男の子になってちょうだい」

 


 朱鳥あけみとりの都は、いつにも増してよく晴れていた。
 遠くからは、人々が行き交う声がしとみを通しても聞こえてくる。都の活気もいつも以上のようである。
 だが紫道しどの気持ちは、都の空ほど晴れ渡っておらず、都の人々ほど元気に満ちたものではなかった。
 正座して佇むその前には、暗黒の眠りについている藤香とうか藤香の姿。枕元には栓をしたままの長頸瓶。
 確かに書物には、長頸瓶をくわえさせれば魂は肉体に戻るとあったが、それが本当であるという確証はない。
 心臓の音が聞こえてくるような気がする。もし、もし藤香が目を覚まさなかったら……
 そう考え、紫道は頭を横に強く振る。そして、藤香の右手に藍璃の硬玉を祈るような気持ちで握らせた。
 ……考えるな、考えるな。
 紫道は自分の心に言い聞かせながら、ゆっくりと右手で長頸瓶を手に取る。
 桜色の柔らかい唇に左手の指をかけ、栓をしたまま長頸瓶を口の中へとくわえさせる。そのまま指は口の中へ入れ、栓にかける。
 目を瞑る。そして、人差し指と中指で栓を挟み、力を込める。
 一瞬鈍い手応えがあり、すぐ緩くなる。即座に指を藤香の口から引っ張り出す。
 その途端、藤香の身体はピクン、ピクンと痙攣を起こしはじめる。
「藤香……!」
 紫道は藤香の両肩を抱いて前かがみになり、その震える顔をじっと見つめる。しばらくすると痙攣は止まった。
 長頸瓶を口から抜き取る。まだ藤香は目を覚まさない。紫道には果てしなく長く、まるで刻が止まったように感じた。
 ぴくん。
 膝に、何かが脈打つような感覚。紫道の心臓がとくん、と大きくはねる。前のめりの姿勢になっている膝は、藤香の右手と接していた。
 期待と、まだわずかに残る不安。しかしその不安は、目の前の少女の顔に、二つの光る黒点が少しずつ生まれてくる度に、かき消えていく。まるで、覆い尽くしていた夜の闇が、地平線を昇る朝日の光に駆逐されていくように。
 表情が崩れるのが自分でも分かる。何とか涙は堪えたいと思うのだが、緩みを止めない涙腺は、いかなる難敵よりも手強かった。
「おかえり」
 藤香は、見開いていた瞳をうっすらと細める。
「ただいま」
 その真っ直ぐな瞳に、光るものが溢れ出していた。

 

 

朱鳥あけみとり神楽かぐら 完)



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