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二之章(1)

「では、偶然ではないということかな、緋衣あけごろも殿」
 紫道しどよりもやや年長、世間では美形の男子と評判の楊梅院忠持あせんいんただもちは、縁側の上から見下ろして、冷ややかな口調で言い放った。
「我等、式神使いの家の者が狙われるなど……まさかとは思うが」
 半信半疑の口調で発した言葉の主は、忠持の傍らにいる紫苑寺公行しおんじくぎょう。忠持よりも線が細く地味な印象だが、知的な空気を感じさせる、まさに貴人然とした男である。たまたま私用があり、楊梅院家を訪ねてくれていたのは、紫道にとって好都合だったのだが。
 ……おんなじ式神使いの家でも、桔梗林ききょうりん家とはここまで違うものか。
 縁側の下で地べたに片膝を付いている紫道は、心の中で苦笑する。
 桔梗林家で地べたに這いつくばった経験は、些細なことから藤香とうかを本気で怒らせた関係で、土下座して謝ったのが一、二回ほどあるぐらい。
 紫道もれっきとした追捕使ついぶしの役人である以上、一般常識的には目下の者の礼をとる必要は全くないのだが、それを要求するということはつまるところ、気位が並の貴族階級よりも相当高いのであろう。
 お前ら何様だと言ってやりたいが、些細なことにこだわって面倒を起こすのもつまらないので、言われたとおり、おとなしく地べたに片膝をついているわけである。
 ちなみに藍璃あいりとは別行動。「よく藤香様と行っていたから」というので、蘇芳山すおうざん家の方へと行ってもらっている。
「璃寛原、桔梗林の両家の者、それも家督を継ぐかそれに準ずる者達が何者かに襲われたのです。
 いずれも命に別状はないものの、昏睡状態にさせられ目を覚まさない症状は同じ。御供おともに式神がいたにもかかわらず撃退できなかったことから、相当な手練てだれの者の仕業でございましょう。
 追捕使も都の見廻りを多くするなど、策は講じまするが……楊梅院様と紫苑寺様におかれましても、くれぐれもご油断召されぬよう、お願い申し上げまする」
 紫道はこういう言い方を苦手にしている。別に育ちが悪いせいではなく、単に四六時中呑んだくれな追捕使の長官が「丁寧にしゃべらんといかん殿中は面倒いのぅ」「あー、ええ、ええ。かまわんから普段通りにしゃべれ」が口癖だったりするので、慣れていないのである。
 今回の件についても、「あー、構わん構わん。皆それぞれ思うところの通りに探ってみるがよい」の訓示だけである。よほど信頼されてるのか、はたまた本気で面倒くさがっているだけなのか。
 ただ、紫道にとっては、そう言ってもらった方がやりやすいのは確かなので、感謝しきりではあるのだが。
「油断も何も、早く下手人を捕まえよ。我等の手を煩わせるなどもってのほかぞ」
 忠持は、追捕使の長官に負けず劣らず面倒くさそうに紫道に言う。
「……緋衣殿のご注進、うけたまわった。我等にすぐできることはなさそうだが、日頃心に留めておくことにしよう。それでよろしいかな?」
 したり顔をした公形の返答は、それっぽく聞こえるが、要は「これで用件が済んだのならさっさと帰れ」という意味であることは、雰囲気で伝わってくる。
 とはいえ、心構えをする以外に、すぐに打てる手はあるかと問い詰められれば、公形の言う通りほとんどないのも事実であろう。
 紫道は、この場ですべきことはもうないと判断した。
「では、私はこれにて失礼いたしますが、くれぐれも御用心下さいますよう、重ねてお願い申し上げまする」
 下げたくもない頭を下げて、足早に楊梅院家の門扉をくぐり、紫道は昼の賑わいを見せる通りの人混みへと、姿を消したのだった。

 


「いつ来ても大きいなあ……」
 藍璃は、薄い飴色に染まった樫の木の門扉を見上げてから、周囲をぐるりと見渡す。
 桔梗林家の門扉より造りが新しく、大きさはふた回りも大きい。土塀に覆われた屋敷の広さは、桔梗林家よりもやや手狭な感があるから、余計に門扉が目立つ。
 式神使い五家は、家格に上下はないことになっているのだが、それはあくまで建前上の話。
 蘇芳山家はなぜか、他の四家よりも明らかに一段低く扱われるのが常、とされており、付き合いを避ける式神使いの家もあるほどだった。
 もっとも、藤香はそんなことを気にするはずもなく、よく藍璃を引き連れて遊びに来ていたので、藍璃にとって蘇芳山家の屋敷もそれなりに見慣れた光景のはずなのだが。
 今日は、心なしか大きく見えるのは気のせいだろうか?
「まあ、藍璃ちゃんじゃないのっ」
 いささか戸惑っていた藍璃の後ろから、やや高い女性の声がした。
「あ、どうもこんにちは」
 振り返った藍璃が目にした女性は、年のころからして藤香の母親と同じぐらい。上等な衣装を着てないと、その辺にいる元気な平民のおばちゃんと見分けが付かない雰囲気も、また藤香の母親とそっくりな、蘇芳山家の正室せいしつ様。
「今日はおひとりかしら? 千歳ちとせなら家の中にいるから、遠慮なくお入りなさいさあさあさあ」
「えっ……は、はあ、ありがとうございます」
 蘇芳山家の正室は、小走りで藍璃の背中を両手で押すようにして、藍璃を家の中にさっさと入れてしまうと、隣家にも聞こえそうなほどよく通った声で、家中の女使用人を呼びつける。
 一言二言、使用人と小声で何か話したかと思うと、自分は家の奥へと小走りに入っていってしまった。動きにくそうな衣装なのに、その飛び跳ねるように軽快な動きと足の速さは、歳を全く感じさせない。
「ささ、お方様がすぐに千歳様をお呼びするそうですので、藍璃様は客間のほうへ」
 こちらも愛想がいい中年女性の使用人に案内され、藍璃は廊下をひとつ右に曲がったところにある客間へ通されると、既に一人の女性が正座して待っていた。
 歳は藤香と同じだが、やや小柄で楚々とした所作は、年齢以上に大人びた雰囲気を感じさせる。真っ直ぐ腰の上まで伸びた黒髪といい、本当の貴族の淑女とはまさに千歳のことだろう、と藍璃は思う。
 千歳は蘇芳山家の長女ではあったが、彼女の上には実兄が三人おり、家の跡目のことを心配する必要はなかった。一人娘の藤香に比べれば、ずいぶんと楽といえば楽な身分ではあるが、気が合うのか藤香とは小さい頃から、とりわけ仲のいい間柄だったりする。
 藍璃から事情を聞いた蘇芳山千歳すおうざんちとせは、しばらく沈痛な面持ちで黙り込んでいた。
「しかし遅かれ早かれ、蘇芳山家の者も狙われることに、疑いはないわけね」
 重苦しい沈黙を破り、ゆっくりと顔を上げた千歳の表情は、意を決したものに変わっていた。
「これは一刻を争いますが、蘇芳山家だけでどうにかできる問題ではありません。他の二家とも協力しないと……兄様達は出仕していて留守ですので、私が参りましょう」
「え? 参るってどちらへ」
「とりあえず、楊梅院様のお屋敷には紫道様が行かれているのでしょう? 私達は紫苑寺様のお屋敷に向かいましょう」
 千歳はすっ、と静かに立ち上がると、すぐに呪法を唱え始める。
「……我の声に応えて出でよ、木の吉将にして平穏の賢者、春樹堂月白しゅんじゅどうげっぱく!」
 光の帯が集まって人型の形を成すと、烏帽子えぼし青藤あおふじ色の狩衣をまとった、二十歳過ぎぐらいの長身で細身の男性の姿となって具現化した。
「御用でしょうか、千歳様」
 春樹堂月白と呼ばれた式神は、学者然とした見た目以上に穏やかな様子で千歳に問いかける。
「これから、そこの永翔雲藍璃さんとともに、紫苑寺様のお屋敷へと向かいます。お供なさい」
「かしこまりました」
 月白は静かに一礼すると、今度は藍璃の方へと向き直る。
「よろしくお願いしますよ、金の吉将・永翔雲藍璃殿」

 


 萌葱もえぎ色の上等な生地の小袖袴に着替えた千歳は、二人の式神を従えて、多くも少なくもない人通りの道を歩いていく。
 昼の賑わいも終わりに近づき、徐々に大通りの人波も収まりつつあった。
「むぅ。今日は帰っちゃったわね……」
 通りの右側をチラりと見た千歳は、一瞬口をへの字にする。
「どうかなさったんですか、千歳様?」
 藍璃は、自分の右側を並んで歩く千歳に問いかける。
「千歳様は、あの通りにいつも出ている屋台の鬼饅頭が大好物なのです」
 藍璃の疑問に、間髪入れず即答したのは月白だった。
「私も何度か頂いたことがありますが、いや実に美味で」
「月白」
 前を向いたまま、千歳は小さく冷たい声を放つ。
「これはこれは、私としたことがおしゃべりが過ぎました」
 あわてて長烏帽子に右手を当てる月白。
 ……あのおいしい鬼饅頭、そこの屋台で買ってたのね。
 千歳が桔梗林家に遊びに来る際、たまに持ってきていた鬼饅頭の正体を藍璃は初めて知った。藤香は千歳に売っている場所を聞こうとしては、なかなか教えてくれないと毎回ぶんむくれていたが、さすがに貴族の娘が屋台で鬼饅頭を買っているとは言いにくかったのだろう。
 もっとも藤香なら、出仕用の十二単じゅうにひとえ姿でも大股走りで買いに行きそうな気もしたが、そんな婿の来手がなくなりそうな主の行動の想像図は、とりあえず心の中にしまっておくことにする藍璃であった。
「さ、そこの角を左へ曲がれば、あと少しですから」
 まだ少し不機嫌なのか、ぶっきらぼうに角を指差す千歳。
 大通りを左へ曲がると、寺院の高く分厚い土塀が両側にあり、実際以上に狭い錯覚に陥る道が一直線。大通りの喧騒も分厚い土塀に音が吸収されるためか、一気に遠いものとなる。
 夕餉ゆうげのころになると、人ごみを避けて大通りに出られる生活道だけあり、まばらとはいえ人通りも絶えないが、この刻限では歩く人の姿もない。少し先にある土塀の左隅に、小さなむしろの上に長頸瓶ちょうけいへいを置き、頭からすっぽりと黒布を被って正座している、物乞い風の人間がひとりいる程度。
「……?」
 藍璃がその光景に違和感を覚えた刹那。
 物乞い風の人間は、被った黒布を跳ね上げるようにして立ち上がる!
 何か言葉を発する間もあればこそ。
 藍璃はとっさに右側にいた千歳と月白を、押し倒すようにして横へと思いっきり飛ぶ。
 自分の立っていた場所を通った、強烈な風の塊の気配を背中で感じながら、藍璃は千歳と月白を巻き込むようにして地面へと倒れる。
「きゃっ!」
「うわっ」
 驚いたような声を上げて、尻餅をつく千歳と月白。
「不意をついたつもりだったけど……よくよけたものね」
 低い女性のような声の主、物乞い風の人間を一斉に見やる三人。
 上下とも黒鳶くろとび色の小袖袴をまとい、顔には神楽で使われる姫面きめんをつけている。
「あんたは……」
 立ち上がりながら、憎悪を込めた声を発する藍璃。しかし、前に藤香と自分を襲った黒い鬼面の男とは、面と雰囲気が違うのにすぐ気づく。
「あんたの狙いは千歳様ね」
 千歳と月白もすぐ立ち上がり、衣装についた土埃を払いながら姫面の女と対峙する。
「しかし、私は蘇芳山家の長女ではあっても、世継ぎではありませんよ?」
 千歳の誰何すいかにも、しかし姫面の女は動じる様子はない。
「凡庸な貴女あなたの兄より、貴女にこそ強く美しい魂の力を感じるわ……さあ、その魂をよこしなさい!」
 姫面の女は澱みなく答えると、御札を三枚左手より取り出して、空中に放り投げると同時に右手を上に伸ばす。
 右手で千歳達のほうを指差すと、宙にあった御札は 御札は炎に包まれ、間髪入れず炎の弾となって三人めがけ襲いかかる!
 しかし真っ直ぐに襲いかかる炎の弾は、幸いにもそれほど速くはなかった。三人は避けようと体を横に捻る。
 ごうんっ!
「ぐっ」
「うわっ」
「きゃあっ」
 しかし、ちょうど避けようかという瞬間、炎の弾は勢いよく爆発。地面から土煙を巻き上げるほどの爆風に吹き飛ばされ、千歳と月白は左、藍璃は右の土塀に、それぞれ背中から叩きつけられてしまった。
「フン……人間や並みの式神が使う、単調な符術と一緒にされては困るわね」
 姫面の女は余裕の声を上げると、千歳の方へと向かって歩を進めようとする。
「……言葉を返すようですが、並みの式神と一緒にされてもらっては困りますね」
「なにっ……」
 姫面の女が数歩前に出たところで、落ち着いた声を上げながら、ゆっくりと立ち上がったのは月白。
 そして、人差し指と中指を立てて右手を頭上にかざすと、切り払うような勢いで下へと振り下ろす!
「……ッ」
 見上げて姫面の女が見たものは、宙をふわりと舞っている、縦長の鳥のような形に折られた御札。
 折り紙のように折られた御札は、宙で四散したように砕けると、一陣の風の塊を生み出した!
 慌てて後ろに軽く退がろうとする姫面の女。
 しかし、一陣の風の塊は姫面の女の頭上……さらにその後ろを掠め過ぎる。
「しまっ……!」
 姫面の女が、その意図を汲みとったときには既に遅く。
 ガシャン!
 風の塊によって、甲高い音を立てて砕かれたのは、小さな筵の上にある長頸瓶。
「……これで、千歳様をどうすることもできまい」
 月白は、勝ち誇ったというよりも安堵の混じった声を上げた。
 土煙を立てる爆風で吹き飛ばされながらも、少しの間だけ滑空するよう折ってあった御札を、月白はとっさに空中へ飛ばしていたのである。
「本来の符術≪持国刃≫じこくじんは、御札を刃に刺して呪を紡ぎ、風の刃を生み出すもの。
 しかし、符術を得手とする高位式神ならば、このような芸当もできよう」
 姫面の女の足元には、地面に小さく光る縫い針が突き刺さっている。刃の代わりに縫い針を御札に刺し、空中で符術≪持国刃≫を発動させる……その器用さに、姫面の女は内心舌を巻いた。
「この場は私に不利なようね……」
 そう言い残すと、後ろに大きく跳躍しながら姿を消そうとする姫面の女。一瞬追おうとした月白だったが、その一瞬のうちに姫面の女の姿は、いずこかへと消えてしまった。
「助かりました、月白さん」
 ようやく立ち上がった藍璃は、月白に向かって軽く一礼。
「いえ、藍璃殿も大事なさそうで何より」
「う……」
 呻いて後頭部を押さえ、足元がややおぼつかないながら、千歳も何とか立ち上がる。
「千歳様、お怪我はございませんか」
 いつもの落ち着いた様子はどこへやら、千歳の様子に慌てる月白。
「まだ少し頭がくらくらするけど、他は何ともないわ……それより」
 千歳は小さな筵の上に散らばっている、灰色の残骸の方へと視線を向けた。
「あれが、藍璃さんの言っていた長頸瓶かしら」
「そのようです……確信はありませんでしたが、あの長頸瓶には言い様もない違和感がありましたので、もしやと思い」
 千歳の疑問に答える月白。正直、≪持国刃≫で姫面の女を狙うつもりだったのだが、上手く避けられるのでは、という嫌な予感がしたため、とっさの判断で長頸瓶に狙いを変えたのである。
「炎の弾を生む符術≪毘沙門炎≫びしゃもんえんを、任意の位置で炸裂させるようなことは、私でもようやくできるかどうか、といった芸当です。
 あの姫面の神楽面をつけた女、とても並みの人間の手に負える相手ではないでしょう」
 月白は淡々と語りながら、筵のほうへと歩み寄って長頸瓶の残骸を拾い集める。
「とにかく、この道を通ることが知れている以上、このまま進んでもまた別のところで待ち伏せされている可能性もあります。
 別の近道がありますので、そちらの方から回りましょう」
 長頸瓶の残骸を拾い集め、懐紙にひとつひとつ包み終えると、三人は再び大通りに出た。


二之章(2)

「さて……出てきたようだな」

 賑わう刻限はとうに過ぎ、日が頂点からやや傾いてきた頃。

 楊梅院あせんいん家の門扉からやや離れた場所にいた、珍しい石を売る行商を冷やかしていた紫道しどは、古い木材の擦れる音を立てて、しばらく前に自分が出てきた門扉が開くのを見逃さなかった。

 出てきたのは、やや上等な衣装を着た男が二人。片方は、衣装から紫苑寺公行しおんじくぎょうに違いないが、もう片方は見覚えがない。供の従者か、あるいは式神か。

 紫道は、行商に適当なことを言って話を切る。石といえば幼少の頃、都の外まで二人で探検した際に拾った翡翠ひすいの原石を、藤香はどこへやったのか、紫道はふと気になった。初めて身につける硬玉こうぎょくに喜んでたくせに、ここ数年身につけてる様子がない。目が覚めたら締め上げてでも聞いてやろう。

 しかし、余所事よそごとを考えていたのはほんの一瞬。紫道はお決まりの行動を開始した。

「気配を消して、適当な距離を取って尾ければ、相手が式神でもそうそうは、な……」

 紫道は、まばらな人の流れの中に紛れ、公形達を尾行する。

 なるべく通行人の影、向こうが振り向いても死角になりそうな位置へと、さりげなく動きながら。

 公形達が振り向く気配はない。しかし通りを幾つか曲がり、通行人がいない通りへと入っていく。もっとも紫道の調べだと、方向的には紫苑寺家に最短距離で向かっている。紫道に気づいて誘い出しているわけではなく、いわゆる近道というやつなのだろう。

 これで、気づかれずに尾行するのが難しくなったことは確か。仕方なく紫道は、公形達が角を曲がったのを見計らってから移動、さらに距離を取る。

 三回目ぐらいだろうか。角を右に曲がったのを見て、紫道が早足で移動するが、通りの半分を行ったところで、急に紫道は立ち止まる。

「ほう……気配を察するとは、人間の割には鋭いな」

「じゃあ、お前は人間じゃないってか」

 背後からした黒い声に応え、紫道が振り向く。

 山を五つほど制覇してきた修験者しゅげんじゃ、というのが似合うような格好。裾が破れた灰色の修験衣の上に、こちらも使い込んだ感がある、漆黒の貫頭衣かんとうい風の布をみののようにまとっている。

 しかし、結びもしない総髪に翁の神楽面を被り金剛杖こんごうじょうを右手に持った、その姿から噴き出す気配は、研ぎ澄まされた刀のように鋭く、紫道に向かって一点に絞られている。

「用事は俺の方でいいのかい? そこの角を曲がった優男じゃなくて」

 ゆっくり左足を引いて半身になる紫道。地面が草履ぞうりと擦れてジャリッ、と音を立てる。

「ネズミ退治が私の趣味でしてな」

 翁面の男は微動だにしない。その声には余裕と自信。

「妖しい出で立ちで都を徘徊されると迷惑である……追捕使の緋衣紫道が、珍妙翁面男ちんみょうおきなめんおとこ、貴様を少々尋問するが、よろしいな?」

 捕縛の時に言う紋切り型の台詞が、とても通用する相手ではなさそうだが、紫道の狙いは別にある。

「我は風剣雅天幻ふうけんがてんげん理由わけあって追捕使の尋問は受けられぬ。我を変な呼び方にしたこと後悔せよ、緋衣紫道」

 声とともに、風剣雅天幻は金剛杖の端を持つと、一直線に紫道に向かってくる。

 ギィン!

 抜きはなった紫道の腰の太刀と、金剛杖に仕込まれた細い直刀が鋼鉄のぶつかる音を立てる。

「我の風の剣に反応するとは……人間にしては離れ業といってよいな」

十間じゅっけんもあった距離を瞬きする間もなく詰めるとは……風剣雅天幻、名前を聞いておいてよかった。生け捕りにして尋問すべきだな! 一体何者だ」

 鍔迫り合いを押し返す紫道。天幻はふわりと宙に浮くと、少し離れた位置で着地する。

「そうか、我に名乗らせるために挑発して自らも名乗ったか。まあ、いい。所詮は冥土の土産だ」

「冥土の土産か、それは失念していた。残念ながら、急な話で俺からは貴様に何も用意できぬが」

「ほざけ!」

 天幻は再び間合いを詰めて横薙ぎに斬りかかる。

「二度も同じ動きが」

 口の中で軽く言いつつ、紫道はぐっと身を屈めると、腕立て伏せのような姿勢となって両手を地面つきつつ、腕を巧く使って伸ばした両脚を横から大きく振る。

 どっ!

「なぬっ」

 天幻は視界から紫道が消えたと思った瞬間、脚をしたたかに払われ、前につんのめるが、肩を丸めてうまく前転し受身を取る。

「足下に留守番がいなかったようだな」

 紫道の声に、素早く立ち上がり直刀を構える天幻。しかし構えを取った時、紫道の姿はその目の前。太刀を蜻蛉とんぼの構えから袈裟けさ切りに振り下ろす所だった。

 再び、鋼鉄の悲鳴が通りにこだまする。

「……っ」

 敵の剣ごと叩き折るつもりで打ち下ろした渾身の一撃は、しかし易々と受け止められた。仕込み杖の細い直刀にしては、思ったよりずっと強度が高い。

「三千世界の底さえも切り裂く、といわしめる蜻蛉の構えからの一撃、非の打ち所のない太刀筋だ。

 その歳で剣の流派ひとつを極めるとは大したものだが……しかし」

 天幻は後ろに大きく跳び退ると、直刀を上向きに一薙ぎ。いやな予感を感じた紫道は、大きく左へと跳び退る。

 その鼻先を、剃刀が通ったような鋭い風圧がかすめていった。

「所詮、人間が編み出した剣技ではその程度よ」

 天幻の左手には、紋様の書かれた御札が四枚。二言ほど呪を紡ぐと、天に向かって放り投げる。

 御札は炎に包まれたかと思うと、一瞬空中で静止し、炎の弾となって紫道へ一直線に向かってくる!

「舐めるなよ!」

 紫道は声とともに、炎の弾を身軽にかわし、よけきれないと判断した一発に向かい、太刀を下から上へと振り上げて切り払う。

 ぼしゅっ。

 切り払われた炎の弾は、空中で四散、霧消する。

「むっ……符術の炎を刀で切り払うなど……」

 天幻は動揺の声を上げる。符術の炎を、普通の太刀で切り払っても無駄なことは紫道も知っている。

「こいつは、追捕使の長官から下賜されたちょっとした銘刀に、符術好きな自称俺の嫁がちょっとした細工を施したシロモノだ。そんじょそこらの太刀とはひと味違うぜ」

 紫道が油断なく八相に構える、さほど反りが深くない太刀の刀身には、びっしりと真言が書き込まれ、鍔にも真言と魔を祓う五芒星が彫り込まれている。

「邪気を払う退魔の真言を入れた太刀か。面白い仕掛けだが……」

 天幻の言葉を遮らせたのは紫道ではなく、通りの奥から紫道の頭上を越えて飛来する二つの炎の弾!

「ちっ!」

 再び左手に、今度は御札を二枚取り出すと、慌てて空中に放り投げる。

 生まれた炎の弾は、天幻に向かってくる炎の弾を迎撃、空中で炎の華が咲いた。

「紫道様!」

 通りの奥から駆けてくるのは、藍璃と見慣れぬ男女一組。

「……どうやら我の不利のようだ。ここは退かせてもらうが、この決着は必ず」

 天幻は悔しさを隠しもせず言い放つと、風のような速さで駆けてゆく。とても人の足では追いつけない。

「紫道様、ご無事でしたか」

「……ああ、おかげで助かった藍璃。ところで、そちらは?」

 見慣れぬ男女一組を目で指すと、萌葱もえぎ色の上等な生地の小袖袴をまとった少女の方が一礼する。

「蘇芳山家の長女、蘇芳山千歳すおうざんちとせと申します」

 青藤色の狩衣をまとった、二十歳過ぎぐらいの男性の方も続けて一礼。

「千歳様にお仕えする式神、木の吉将青龍せいりゅう春樹堂月白しゅんじゅどうげっぱくと申します。

 金の吉将の永翔雲藍璃殿から、事情は聞き及びました」

 見た目以上に穏やかな様子は、紫道にはまるで学者のように見えた。

「紫苑寺様のお屋敷へ向かう、って千歳様が言うから向かっていたんだけど、途中で……」

「現れたのか 藍璃が見たという黒い鬼面の男が」

 紫道は藍璃の両肩をつかんで問いかける。

「ううん、あいつとは別口……月白さんのおかげで、何とか切り抜けたんだけど」

 藍璃の話を引き取るように、千歳が一歩進み出る。

「割ってしまったのですが……藤香にくわえさせたという長頸瓶は、これではないかと」

 千歳は懐から、須恵器の破片を取りだして紫道に見せる。首の部分は粉砕してしまったようだが、胴の部分らしき文字が書かれた部位は、それなりに大きな破片となって残っていた。

「とりあえず、この須恵器の出所を調べれば、何か判ってくるでしょう」


三之章(1)

 活気に満ちあふれた老若男女のにぎやかな声は、平穏の証拠でもあろうが、今の紫道しど藍璃あいりにとっては、どうにも耳障りに聞こえる。
「んー……見たことないねぇ」
 露店の焼物売りのおっちゃんは、両手で掲げるようにして破片を見ながら、唸るように言う。
 千歳ちとせ達が手に入れた、須恵器すえきの破片の出所を調べるため、紫道は藍璃を連れて露店市の焼物売りを行脚あんぎゃしている最中である。
 茶屋や居酒屋を除けば、都で決まった場所にいつも開いている店などない。飲食物は屋台が出て売っていることも多いが、食料品や簡単な日用品などは、行商人が職人から仕入れて売り歩くのがほとんど。
 衣類に雑貨や刃物などは、決まった日にあちこちで開かれる露店市で買う場合が多く、焼物なんかはその典型。
「そうかい。忙しいところ邪魔したね」
 紫道は焼物売りのおっちゃんから、須恵器の破片を返してもらい立ち上がると、歩く隙間もないほど人に溢れた大通りの中を、さっさと次の露店へ向けて移動を始める。
「ところで紫道様ぁ」
「何だよ藍璃」
 足早に歩きつつも、藍璃は不平の声を上げる。
「寄る先々の店で、何か買うこともないと思うんだけど」
 藍璃が右腕に抱える小さな麻袋は、口から見えんばかりのお猪口ちょこやら徳利とっくりやら湯飲みやらで溢れ、がちゃがちゃ言わせている。ちなみに紫道は手ぶら。
「都で焼物に詳しいのは、何といっても見る目の利いた露店市の商人だからな。
 大抵、仕入れの関係から職人の住む場所とか、どの職人がどんな焼物をつくってるかとかは、頭に入ってる連中だ。
 もっとも露店の連中は、タダでいいことは教えてくれないからな。金を掴ませるか、売り物を褒めながら買ってやるのが一番確実なのさ」
「ふぅん……そういうものなんだねぇ」
 藤香とうかの式神らしく何かにつけて物知りな藍璃だが、紫道の答えに対し、感心したように相づちを打つ。
「そういえば、こうやって紫道様と買い物するのは初めてだねぇ」
 藍璃は、さっきの不平はどこへやら、少し弾んだ声を上げた。がちゃり、と麻袋から音が鳴る。
「それもそうか……ま、藍璃は藤香の式神だからな。俺と藤香が買い物中なら、お役ご免にもなるだろうよ」
 紫道はあっけらかんと言いつつ、視線を動かして焼物の露店を探している。
「つまり邪魔者じゃん」
 藍璃は頬をぷっ、と膨らませる。紫道は不思議そうな表情をして藍璃を見る。
「だろ? どこをどう見たって」
 それを聞いて藍璃は、何か言いたそうに口を開きかけるが、唇をすぼませて口を尖らせると、うつむき加減になりに戻り黙ってしまった。
 どこで気分を損ねたのか判りかねた紫道であったが、とりあえず慌てて藍璃の機嫌を取ろうとする。
「これ終わったら、何か食いたいものを好きなだけ食わせてやるから、もうちょっと我慢してくれ、な?」
 藍璃は顔を上げると、何か訴えるような視線を一瞬紫道に送るが、ゆっくりと表情を崩すと、首を縦に振る。
「……よし、そうと決まれば、さくさく露店当たってくぞ。お次はあそこだ、いくぞ藍璃」
「りょーかいだよ」
 愛想笑いを作って、無造作に売り物を並べてるおばちゃんの店へと接近する二人。
 しかし日が傾き、露店を回り尽くして藍璃の抱える麻袋が二つになっても、謎の須恵器の破片について、見たことのある者は見つからなかった。
 紫道にとっては、月俸の三割が使い道の少ない焼物に化けるし、帰りに食べた夕食が屋台のイナリ寿司数個だけだったことに、藍璃がマジ切れしてぶーたれるし、トドメのオマケに肝心の手がかりは何もなしと、散々な一日になったのだった。

 


 埃や塵というのは、何をせずとも自然に積もっていくのが、未だに不思議で仕方がない。
 千歳は、古書が立てる得体の知れない埃や塵に包まれながら、そのことをしみじみと噛み締めていた。
「ごほっ……んもぅ、年の瀬には一応掃除には来ていますのに」
 上品な悪態をつきながらも、灰色に染まった綿布めんぷを使い、手に取った古書の埃を軽く払うと、おもむろに中をめくりはじめる。
 古記録に何か手がかりがないかと思った千歳が来ているのは、都の外れにある蘇芳山家の別邸である。
 別邸、とは言っても別荘の類ではない。元々はこの別邸こそ、先祖代々から受け継がれた蘇芳山家の本邸だったのだが、都の中心からあまりに離れている不便から、千歳の曽祖父そうそふの代に今の本邸へと移り住んだのである。
 空に浮いている朱鳥あけみとりの都は、どこへ行っても四季や寒暖は同じな上、風流というよりは寂れた感がある地区にあるため、別邸として使うにはさほど魅力もない。今や蘇芳山家の倉庫代わりになっているのが実際だった。
 常に住んでいる使用人もおらず、年の瀬に蘇芳山家の者が総出で大掃除へと出かけることが、別邸を訪れる唯一の機会となっている始末である。
「もう少し整理しましょうよぉ、千歳様ぁ」
 情けない少年の声は、千歳の背中側から聞こえてくる。
伊織いおり君、あなた御書所ごしょどころにいるからこういう古書には強いんでしょう? 泣き言いわないで」
「だって、御書所みたいに整理整頓されてるわけじゃないんだもん。無茶言わないでよぅ」
 半泣きになりそうな少年は、千歳より年齢は少し下ぐらいだろうか。胡桃くるみ色の狩衣は無紋で生地も安っぽいが、太糸を用いた縫製はいかにも丈夫そうであり、いわゆる作業服なのだろう。千歳とさほど変わらない背丈と線の細さは、少し離れたところで作業している月白に比べるといかにも頼りないが、年齢相応な少年の体格といえなくもない。
 知的な顔立ちは、長兄の公形と似た面影がある紫苑寺伊織しおんじいおりは、しかしふた回りほど年上の長兄はじめ数人の兄姉とは違い、裏表がなく正直な性格のいい子、というのが千歳の評。 
 少々頼りないが、千歳にとって藤香とともに数少ない、式神使いの家での仲のいい友達である。
「とはいえ千歳様、これだけの書物の中から、須恵器のことを探し出すのは、少々骨折りですよ」
 月白は、やはり灰色に汚れた綿布で思わず顔を軽く拭ってしまい、しまったという表情で顔をしかめる。
 広間を見渡すと、胸の高さまで山積みされた書籍の山が、三十畳はある広間の七割方を埋め尽くしている。とても一日二日で全部を調べることは無理だろう。
「……あれ?」
 思わず出かけた千歳の溜息を止めたのは、膝立ちになりながら古書を食い入るように見ていた、伊織のさして大きくない声。
「どうしたの?」
「うん、この古書にある図柄、探してる長頸瓶のものに似てる気がするんだけど……ほら、ここ」
 伊織の左後ろに来て覗き込むようにする千歳に、伊織は見えるように左手に持った古書を動かしてから、右手で問題の部分に指を差して示す。
 そこには、長頸瓶の線画らしきものが描かれており、手元にある須恵器の破片に彫られた文字と似ているような……気はするのだが。
「こんなぼろぼろじゃ、どうしようもないわね」
 そう。
 伊織が手に持った古書は色褪せが激しい上、紙魚しみやら死番虫しばんむしにあちこち喰われまくっていた。到底まともに読める状態ではない。
「そうですねぇ、まめに樟脳しょうのうとかを置いて虫が寄らないようにしないと……そもそも、これ相当に古い紙のようだし」
「何とかならないかしら?」
 不安そうに伊織の顔を覗き込む千歳。女の子特有の甘いような匂いが伊織の鼻をつく。
 年下の伊織にとって、千歳から頼られるように見つめられるのは初めてだった。
「……この書物の奥付は無事みたいだから、題名とかも分かるし、御書所にある蔵書目録を調べて、同じものがないか探してみる」
 伊織は、気を入れるようにひとつ呼吸すると、小さく頷く。
「僕に任せといて、千歳様」

 


「こんな価値のなさそうな須恵器、そりゃ誰も知らんじゃろのぉ」
 須恵器の破片をかざして見ながら、追捕使の長官はやる気がなさそうに言った。
 八方塞がりになった紫道は、結局のところ追捕使の長官の知恵を借りようと思ったのだが、それがこの具合である。
 報告書は逐一提出しているので、事情はよく把握しているはずなのだが。
「価値があるとかないとか、そういう問題でもなさそうに思えますが……」
 いくら大して期待してなかったとはいえ、このあまりの反応に、紫道はたまらず声を上げる。
「んー、こりゃ完品でもぜに五十枚にもならぬよのぉ、たぶん」
 どうやら聞いてさえいないらしい。
「あの……」
「どうにも分からん。こりゃ紫道」
 紫道の声を遮るように、追捕使の長官は須恵器の破片をひょい、と紫道に向かって投げ返す。
「あわわわ」
 須恵器の破片を、あわてて両手で掴む紫道。落としたら割れかねない……が。
焼成しょうせい温度は、おそらく普通の須恵器よりもかなり高いわ。畳の上に落としたぐらいで割れはせん。今使われている都の窯で、焼かれたシロモノではなさそうじゃのぉ」
 追捕使の長官の、意外とマトモっぽい返答に、紫道は抗議の声を上げるのも忘れてキョトンとする。
「こういうものはな、露天商よりも古物に凝った隠居老人に聞くのが一番ぞよ。
 前の前に弾正台だんじょうだいの長官をやっておった方が、昔から古めかしい焼物に凝っておったわ。一筆したためる故、聞きにいくがよかろう」
 言うや否や、脇にどけてあった文机を自分の前まで引っ張ってくると、やる気の火縄に火がついたかのような、恐るべき手際の良さで、あれよあれよという間に紹介状を一筆したためてしまった。
「まあ心配はしておらんが」
 包み紙にくるんだ紹介状を、紫道に手渡しながら、追捕使の長官はやや声を潜めて紫道に言う。
「くれぐれも、追捕使の体たらくぶりとかを言うてはならぬぞよ」
 ……紫道がこれから聞きに行く老人が、昔いたという弾正台とは、役人の働きぶりを密かに調べて、みかどにチクる部署であった。

 


「むむぅ……この焼き具合、色、そして彫られた文字」
 須恵器の破片をじっくり見ながら、手入れされた白いあご髭がどうにも目立つ老人は、感心したように唸り、またしばらく黙り込む。
 追捕使の長官からの紹介状を持って、日暮れ前に指示された屋敷へと足を運んだ紫道であったが、紹介状を渡すと、あっさりと奥の間へと通された。
 案内してくれた家人の話によると、追捕使の長官と老人とは、呑兵衛のんべえ仲間として個人的な付き合いが結構あるとか。
「こいつのことかもしれんの」
 老人はすっと立ち上がると、部屋の隅にある書棚から、一冊の書物を取り出す。再び座布団の上へと戻ると、書物の中身を何度かめくり、ある箇所を紫道に示した。
「……これは」
 示されていたのは、長頸瓶の線画であったが、破片の部分に彫られた文字とよく似ている。完品を見ていない紫道であったが、藍璃の聞いたものと雰囲気は似ているような気がしなくもない。
 なお、追捕使の役所に出仕するということで、藍璃は桔梗林家で待機中。まだ先日の件を根にもっているのか、約束を反故にした罰として、今月中に鯛の尾頭付きをオゴらされることを約束させられた。どうしたものやら。
 少しの間、財布の中身を心配していた紫道だったが、老人の言葉によって現実に引き戻される。
「この書物は、大地が朱華はねずの水に覆われ、都が鳥の飛ぶ高さへと浮く前に書かれたものらしい。内容については察しがつくかな?」
「いえ……皆目見当もつきません」
 いきなり、長頸瓶だけが描かれている箇所を示されただけで、内容が分かろうはずもない。
「こいつはな、呪具を使った禁忌きんきの術について解説されたものらしい。
 つまりこの長頸瓶は、それに使う呪具ということかも知れん。むろん、わしも現物の破片は初めて見るがな」
 老人はなぜか声を潜めて言う。
「どのような術に使われたものでしょか?」
 紫道も老人に合わせて声を潜める。人払いをしてあるので、別に声を潜める必要もないのだが、人間がヤバい内容に触れてしまった時の、本能というやつだろう。
 符術でさえ、奇妙な妖術として忌み嫌う人が大半なのだ。藤香との付き合いで、符術を多少なりとも見ている紫道でも、人の手に余る術ではと心配することもあるのだから、禁忌の術ともなれば推して知るべし、である。
「これは……封魂ふうこんの術のようだな。人間の口から魂を吸い出し、この真言を彫った長頸瓶に魂を封じ込める、とあるな」
 紫道は思わず息を呑む。藍璃が言っていた状況そのままではないか。
「魂を戻すには、再び口から戻すとある。単にくわえさせるだけのようじゃな。ただし、魂が入った長頸瓶が割れれば、その魂は天に召される、とも書いてある」
 長頸瓶の書いてある本紙をひとつめくり、老人はその箇所をすらすらと解説する。そしてその内容を聞いて、紫道は血相を変えた。
「なら、戻せるのか 元に戻せるんだな」
 紫道は身を乗り出して老人の肩を掴むと、すぐにあっ、と声を上げて手を引っ込める。
「も、申しわけございませぬ……つい」
 平伏する紫道。老人は先程と少しも様子を変えることはなく、頭を上げるように促す。
「……若いの、何か訳ありのようじゃな。深くは聞かぬが」
 禁忌の術が絡んだことである。老人にとっては聞かぬというより、聞きたくないという方が正直なところだった。追捕使の長官なら事情を知ってもいようが、ああ見えて酒の勢いで事情を語ってくれるほど、口の軽い男ではない。
「ところで、その書物は何者が記したものでしょう?」
「うむ、奧付にでも書いてあるはずじゃがな。どれどれ」
 老人は、書物の本紙を一気に最後のところまでもっていく。
「発行は天鳥寺てんちょうじ……都では聞かぬ寺の名だな。都の外の地にあったのであろう。編者は」
 老人の声が一瞬止まる。そこに記されていたのは、紫道も聞いたことがある名字が記されていた。


三之章(2)

「まだ千歳ちとせ様起きてないかもしれないけど、とにかく急がなくっちゃ」
 薄暗く朝靄も晴れない大通りを、伊織いおりは急ぎ足で歩いていた。
『目録を調べた所、同じ書物は御書所に所蔵されておりました。但し、貴重書が故に外への持ち出しはならぬとのこと。伊織寝食惜しみ、違わぬよう書写致しました故、御安心いただきますよう……』
 三日がかりで寝る間も惜しんだ書写作業を終え、最後の力を振り絞って書いた文を千歳の元に届けさせ、これで一安心のはずだったが、疲労困憊ひろうこんぱいなのにあまり寝付けず、結局はこの刻限に写本を届けに行くことにしたのである。
 書写した古書の中身は、禁忌の術に関することだったので、極力何も考えずに。そして中身は覚えないように。淡々と書き写すように努めたものの。
 どうしても入り込んでくる内容から、とりあえず千歳が途方もなく危ない状況なことは理解できた。
 本当は伊織の実兄も危ないのだが、さほど仲がよくない兄姉のことより、伊織にとっては千歳のほうが心配になる。
「あらあら、こんな早くから朝駆けなんて、歳の割にずいぶんお盛んなのね坊や」
 揶揄するような女の声に、歩を止めて周囲を見渡す伊織。しかし、朝靄や薄暗さの向こうには、人の姿らしきものは見当たらない。
「誰だよぅ……隠れてないで、正々堂々と出てこいよぅ」
 伊織は不安と恐怖を隠しもせず、写本を包んだ布を懐にしまい、代わりに御札を一枚取り出す。とはいっても、伊織は符術があまり得意ではない。かといって腕っ節が強いわけでもない。小さい頃、いじめられているところを千歳や、藤香とうかという桔梗林家のお姉さんに助けてもらったことなど、一度や二度ではないのだ。
 喧嘩も弱ければ気も弱いのは、伊織自身も痛いほど分かっている。朝靄の向こうに、蘇芳山家の門扉ではなく花畑と三途の川が見えたような気がした。
「まあ、足が震えてるわ、情けないけど可愛い子……ふふふ、お姉さんがじっくりもてあそんであげる」

 


 昨夜遅くに届けられた文を思い返し、千歳は嬉しいような安堵したような気分で布団から起き上がった。これで手掛かりが掴めそうだという高揚感だけでなく、それとは出所が違う高揚感があるような感じもしたが、それが何なのかは千歳にも分からない。
「……まだお外は暗いわね。ずいぶん早く起きちゃったみたい」
 普段、母親や兄に起こされるのが常の千歳は、自分が誰よりも早く起きたことに自分で驚いたが、朝餉あさげにはまだ早すぎる。千歳は散歩でもしようと思い、着替えて音を立てないようにこっそりと外へ出た。
 こんなに朝早くに外を散歩するのは、生まれてこのかた初めてかもしれない、と思う。いつも人で溢れかえっている大通りは、動くものひとつなく別世界のように静かだった。朝市の時間にもまだ随分と早いらしい。
「あら?」
 誰もまだ歩いていないと思っていたのだが、朝靄の向こうから人影が見える。
「……?」
 しかし、その動きは歩いている風ではなく、頭は動かさず、肩から下を小さくやじろべえのように、ぶらぶら横へと動かしている。というより足が地面についてない。
 不審に思っているうちに、その妙な動きの人影のすぐ後ろ、もうひとつ人影が見えて。
「ひぃっ……! い、伊織君」
 千歳の裏返った声の先。
 衣装のあちこちが破れ、ぐったりと動かない伊織の頭をわしづかみにしていたのは、黒鳶くろとび色の小袖袴に身を包む姫面の女だった。
 姫面の女は千歳の姿を認めると、右手でわしづかみにしていた伊織を、無造作に千歳のほうへと放り投げる。
「伊織君!」
 とさっ、と軽い音を立てて地面へと叩きつけられた伊織に、千歳は慌てて駆け寄って仰向けにすると、泣きそうな顔になりながら、まだ息があるか確かめる。
「よかった……」
 弱いながら、心臓の音と脈はきちんとしている。しかし、全身にあざがあり完全に気絶してしまっていた。
「……何て酷いことを。狙いは私の魂のはず、この子は関係ないでしょう」
 千歳は伊織を静かに大通りの右脇へと動かすと、大通りの中央へ戻りながら鋭く姫面の女を睨み付ける。その声には、憎悪。
「ふふ、この写本はあまり私の趣向にはそぐわなかったわ」
 姫面の女の左手には、真新しい装丁の書物が一冊握られていた。伊織が書写したという例の破れた古書の内容なのだろう。遠目から見る限り、装丁の模様なども例の破れた古書によく似ている。伊織の、装丁に至るまで完璧な写本を作ろうとした努力が見てとれた。
「貴女の正体は掴んでいるのよ」
 静かに言った千歳の言葉に、姫面の女は一瞬ながら動揺した気配を見せる。
「月白は言っていたわ、姫面の女は自分と全く同じ気配を感じると……
 木の吉将たる月白と全く同じ気配、つまり貴女も木の吉将」
 千歳は右手を懐に入れながら、姿勢を低く身構える。
「我が蘇芳山家の古記録には、女姿の木の吉将は古に一人しかいないことになっていたわ……名前は、蓬樹陽姫弥ほうじゅようきみというそうね」

 


 姫面の女は、先程の動揺した気配から一変、今は開き直ったような余裕の気配。
「そうよ、よく調べたわねぇ千歳ちゃん。貴女はとても賢い子ね……ますます、その魂が欲しくなってきたわ。
 でも、もう気づいているのでしょう? 貴女の式神、私と同じ木の吉将では私には勝てぬと」
「月白に頼らなくたって、貴女の相手は私で十分よ……式神なら式神らしく、ぎょくに戻るがいい!」
 千歳は声とともに、手の平大の小さな巻物を懐から取り出すと、紐を解き地面に這わせるようにして投げる。
 びっしりと真言の書かれた白い直線が、地面を走り二間ほどの距離に真っ直ぐ引かれた。
「フン、何を……」
 千歳はそれを再び取り出すと、同じように白い直線を地面に引いていく。ちょうど、千歳を頂点に姫面の女、蓬樹陽姫弥をV字の真ん中に置くような位置である。
 千歳は左手に巻物二本、右手に御札を二枚取り出すと、左斜め前に走りながら、御札を宙に放り、炎の弾として姫弥きみに向けて放つ。
「この程度の符術」
 姫弥は嘲笑すると、右手で炎の弾を掴んで握りつぶす。
 千歳はその隙に、再び巻物を二本、同じようにV字に地面へと這わせた。
 地面に、四本の所々で交差する白い線の形を認め、姫弥はようやくその意図を理解した。
「式神戻しの真言を書き連ねた巻物を、退魔の五芒星に配し、その五芒星の中の式神を消滅させる法≪式滅陣≫しきめつじんか」
 以前に姫弥と出くわしたとき、自らの符術の力だけでは心もとないと感じた千歳が、秘策として用意していたのが秘術≪式滅陣≫である。
 式神は主の意思でのみ、具現化や一時消滅などの召喚行為ができるのだが、≪式滅陣≫は式神の主の意思に関係なく、強制的に式神を完全消滅させることができる。
 式神使いの家にのみ伝わる禁忌の術のひとつだが、強い式神を倒すにはうってつけの方法といえた。
「……っ!」
 しかし、対象の式神が五芒星の中にいないと意味がない。何の術か正体が分かってしまったら、術をかけるのは非常に難しくなる。千歳は唇をかみ締めた。
 それでも、符術で間髪いれず姫弥の足を止めながら、千歳は伊織のすぐそばまで駆けて、五芒星を描く最後の巻物を地面に放とうとする。
「そうはいかないわよ」
 姫弥はそう言うと、両手に四枚の御札を取り出し、目にも止まらぬ速さで両手を複雑に動かす。
 ザンッ!
「ッ」
 巻物を地面に放とうと身構えた千歳だったが、突然四肢の力が抜けたかと思った瞬間、両腕と太股に、この世のものとは思えない激痛が走る。
「うぁッ・・・・・・ぎゃあああああああっ!」
 千歳の両腕と両太股付近の衣装が、一気に赤く染まると同時に、甲高い悲鳴が朝靄の中にこだました。
 尻餅をついて、崩れ落ちるように倒れる千歳。まだ何とか五体満足ではあるようだが、どうやら骨まで届いているほど深く斬られたらしく、全く力が入らない。紐がついたままの巻物が、虚しく地面を転がる。
「ふふふ、符術  ≪持国刃≫じこくじんを四発同時に、四肢を狙って放つなんて、貴女にはできないわよねぇ」
 線が一本足りない未完の五芒星の中を、ゆっくりとした足取りで千歳に向かう姫弥。
「本当は、その細くて愛らしい四肢をちょん切っちゃってもよかったけど、出血と発作ですぐ死んじゃうと困るから、動けないようにだけしてあげたの……でも、その小股も閉じられない無防備な仰向け姿も、可愛らしくてなかなかよくてよ」
 千歳の前に迫ると、嬉しそうな声を上げた姫弥は、懐から長頸瓶を取り出す。
「ううぅぅっ……」
 四肢の痛みに耐えながらも、必死に姫弥を睨み返す千歳だが、五芒星が未完では≪式滅陣≫を発動させることもできず、腕が動かないでは月白を呼び出すこともできない。生まれてから今までの記憶が、走馬灯のように千歳の頭をぐるぐる駆け巡った。
「さあ、その魂をもらい……」
 長頸瓶を近づけようとした瞬間。
 ざっ!
 静かな音とともに、姫弥の足元を一本の白い線が、右から左へと駆けていく。
「なにっ」
 驚いた声を上げた姫弥が、線の走る方向とは逆方向に視線を動かす。
 その視線の先には、うつ伏せに這い蹲りながらも、右手をいっぱいに伸ばして巻物の端を持った伊織の姿!
 最後は勢いを失っていた巻物が、どうにか五芒星の最後の頂点へとたどり着き。
「……意ならざる式神、此方の世より立ち去るべし……式滅陣っ!」
 その姫面の下の表情は、驚愕か、あるいはは恐怖か。
 五芒星は青白い光を天に向けて放ち、未だ五芒星の端の三角形の中にいた姫弥を包み込む。
「ぐあああああああああああああああああああッ!」
 式神使いの家の者が、漏れなく教わるという秘術を受け、姫弥は苦悶の絶叫を上げた。
「ぐっ……あちこち、すごく痛いんだぞ……お返しだ」
 手足を使い、よろよろしながらも立ち上がった伊織が、光に包まれる姫弥を睨み付ける。
「ぐ……ぐぅ……おのれ……ただではすまさないわよ、ぼうや」
 苦悶を滲ませた声ながら、しかし姫弥は滅する気配はなく、伊織の方へと向き直ろうとする。
「そんな、確かに術はかかってるはずなのに……」
「ぼうやのちからぐらいで……わたしをめっするなど……かたわらいたい」
 姫弥は、苦悶で全身を震わせながらも、何とか足を踏み出そうとする。五芒星から抜け出そうとしているらしい。
「い・……織君……」
「ち、千歳様ぁ」
 五芒星の中で苦しむ姫弥に、勝るとも劣らないような苦痛の声を上げた千歳に、伊織はおぼつかない足取りで近寄る。
「わたくしと……もう一回二人で術をかけましょう……立てせてちょうだい」
「えっ、でも、どうやってですかぁ……今抱き起こしたら、千歳様バラバラになっちゃいそうだよぅ……」
 二の腕と太股から血を流す千歳を見て、伊織は泣きそうになっておろおろするばかり。
「もう……前から抱擁するように抱き起こせばいいでしょ……男の子らしく……頭使いなさい」
 苦しみながらも、伊織を叱咤する千歳。千歳を抱擁する自分を一瞬想像して顔を赤らめる伊織だが、恥ずかしがっている場合ではないことはすぐ理解できる。
「うん、わかったよ……痛かったら、痛いって」
「……今でも泣きたいぐらいに痛いわ……さあ、早く」
 伊織は一瞬千歳に上から覆いかぶさるようにすると、千歳の背中に腕をしっかりと回し、自分の身体で支えるようにして抱き起こす。千歳の頬を自分の頬に接するように乗せ、腕は自分の首に回すように、足は千歳の体重が乗らないよう、千歳の身体全体を自分の身体へと預けるように、強く抱きしめる伊織。
 千歳の柔らかい肉体の感触と体温を、伊織はしっかりと身体に受け止める。
「ぐううう……二人で、呼吸を合わせて呪を紡ぐのよ。さあ、いくわよ」
「うん」
 二人は目を瞑って呪を四、五言紡ぎ。
『意ならざる式神、此方の世より立ち去るべし、式滅陣っ』
 呪法の最後の一節に応え、五芒星の発する青白い光は、さらに強く輝きを増していく。
「ぐっ、ぐぎゃぎぐえええええぇぇぇぇぇ……ッ!」
 嘔吐にも似た断末魔と、青白い光が朝靄に吸い込まれて。
 千歳と伊織の側には、役目を終えて白い灰となった五芒星と、役目を終えさせられて赤い玉石となった、かつて蓬樹陽姫弥だったものの残骸が大通りに転がっているのみだった。
 式神は滅すると、体はみるみる風化して灰となり、式神を生む際の核となる玉や石が残るのだが、式滅陣が強力だったのか、灰はなく玉石と姫面、衣装と伊織から取り上げた写本だけが残っている。
「千歳様ぁ……大丈夫ですかぁ」
 伊織は、自分の腕の中で急にぐったりした千歳を、ゆっくりと地面に寝かせる。
「ぅぅ……頭が……くらくらするわ……」
 弱々しい声で訴える千歳。さすがに出血が多すぎるらしい。四肢の切り口からは、今でも血が止まらずに流れている。
「あわわ、待ってください、何とかしますから……ええとっ、これじゃないこれでもない……あった!」
 伊織は慌てて懐を探ると、御札を二枚取り出して、千歳の両腕の傷口に貼り付ける。
「符術≪広目療≫こうもくりょう……伊織君つかえるの……?」
 力を振り絞り、心配そうに声を上げる千歳。数ある符術でも相当に難しいもので、千歳にさえ使えない。
「何とかのひとつ覚えで、これだけはちゃんと小さい頃から練習したんです」
 目を瞑り、伊織は少し長い呪を唱える。
 すると、御札がうっすらと湯気のようなものを上げ始めた。
「きゃあああっ!」
 一瞬、傷口を再び切られたような激痛が走るが、すぐに収まると今度は急に痛みがひいていき、肉と肉、皮膚と皮膚が引っ付いていく感覚を千歳は感じる。
「だって、いつもいじめられて、怪我とかいっぱいしてましたから」
 伊織は静かに言いながら、千歳の両腕から赤く染まった御札をゆっくりと剥がす。
 まだ千歳の感覚では違和感が相当残るものの、あれだけ酷く切られていた傷口は、跡形もなく塞がっている。
 月白のような高位式神が使う≪広目療≫は、違和感もなく傷を治してしまうものだが、人間が使う≪広目療≫としては、上出来な部類といってよかった。
「ありがとう、伊織君……助かったわ」
 しかし伊織は、再び懐をまさぐるものの、途端に泣きそうな顔になる。
「うう、もう御札がないよぅ……両脚がまだ残ってるのに」
 全身をばたばたさせると、伊織の袖や裾からぱらぱらと数枚の御札が落ちてきた。
「うふふ……伊織君、真っ先に自分を治したのが、起き上がれたカラクリだったのね」
 そう。
 千歳と姫弥が戦っている間に、気絶から目を覚ました伊織は、身体の関節に片っ端から≪広目療≫の御札を貼り付け、まずは自分で動ける程度まで怪我を治したのである。
「うぅ、ごめんなさい、だってすごく痛かったんだもん……まだあちこち痛いけど」
「謝ることは何もないわ、そのおかげで蓬樹陽姫弥をやっつけられたんだもの……両腕が動くから、あとは大丈夫よ」
 千歳はそう言うと、両手を合わせて呪を唱え、月白を呼び出したのだった。
 具現化して早々に、衣装が血まみれの千歳を見て気を失った月白が、帰宅後に千歳からこっぴどく説教されたのは、また別の話である。


四之章(1)

 今宵のように月のない夜には、人をあやめる妖怪が出る。
 なぜなら、光のかせを失った人間が、普段は潜めている闇の心を解き放とうとするから……つまり、妖怪とは人間の持つ闇の心なのである、と。
 幼い頃は母に、長じてからは藤香とうかにも言われたが、どうやら己が相手するのは本当の妖怪らしい、と打ち明ければ果たして藤香は何と言うであろう。
 しかし彼女は、笑うことも、怒ることも、泣くこともできない、夢さえ見ぬであろう暗黒の世界の中にいる。紫道しどにとっても、それは暗黒の世界。
 しかし、紫道にはまだ暗黒の世界から戻る、つまり藤香を連れ戻すことが出来る力があるはずと、自らに言い聞かせる。
 言い聞かせるほど、心の隅に一抹の不安が生じるが、紫道が弱音を吐いたとき藤香がいつも見せる、えもいわれぬ微笑がふと頭の中に浮かぶ。くすぶる不安は、泡のように消え失せた。
 ……見てろよ、黒い鬼面の阿呆野郎。今の俺は、負ける気はさらさらしないぜ。
「かの須恵器すえき長頸瓶ちょうけいへいは、魂を抜き取り封じるための呪具であったそうだ。黒い鬼面の者から、長頸瓶を無事に取り戻し藤香にくわえさせれば、藤香を元に戻せるとある。問題は、その術と呪具について記された書物を書いた者の名が……御家の開祖、蘇芳山美音すおうざんよしねであるということだ」
 紫道は、息継ぎもなくまくし立てるように、一気に状況を説明すると、一呼吸を置く。
「説明していただこうか」
 紫道の表情は硬く、その発する声は吹雪のそれであった。
「私も、自ら調べたことをお話しいたしたく思っておりました」
 荏胡麻えごま油の薄暗い行灯に照らされながら、千歳ちとせは正座して対面する紫道に、静かな様子で応える。
 今二人がいるのは、蘇芳山家の別邸である。千歳が紫道の家に文を出し、別邸の方で話しをするように持ちかけたのである。本邸は鬼面の男や天幻に知られているだろう、という千歳の判断だった。
「おそらく、紫道様が御覧になったのは、こちらの書ではないかと思います」
 千歳は、一冊の書物を畳の上に置き、すっ、と滑らせるように差し出した。伊織が御書所で書写したその写本を、紫道は無造作に取り上げると何枚かめくり、また閉じて畳の上に戻す。
「この書物に相違ない。私に見せていただいた持ち主はいえぬが、な」
「最後の方になりますが、重大な禁忌の術についての説明がありました。御覧になっておりますか?」
 老人とともに、紫道もその書物の内容にはすべて目を通したが、とりわけ腰を抜かすようなものはなかったはずである。
 畳の上から千歳は書物を取り上げると、ある箇所を開いて指し示した。
「……こんなものは見ていないな、もしや」
 紫道が唸るように言う。思い起こせば、綺麗に切り取られていた部分があったことを思い出す。老人は「先代からある書だが、わしの手元にあった時分からこの状態じゃった」と言っていたのだが。
「まさに極めつけともいうべき禁忌きんきの術です。あまりの恐ろしさに、紫道様が御覧になった書では、意図的に切り取って処分してあったのかもしれません」
 続けて、千歳がその極めつけの禁忌の術の内容を読み上げる。それは、朱鳥の都にとってまさに禁忌の中の禁忌といえるものだった。
「式神≪紅飛鳥≫べにあすかは、一度生みし後は玉に戻すすべはなきものといえども、唯一の術として、≪紅飛鳥≫べにあすかを生みし式神使いの家に連なる者の魂を捧げば、式神≪紅飛鳥≫べにあすかを滅させることができよう。
 ……もし本当だとすれば、朱鳥あけみとりの都は朱華はねずの水に覆われた大地へと堕ち、我々は為す術もなく滅ぶことになります」
 しばしの間生まれた沈黙の空間では、荏胡麻油の古びた行灯が、ジジジ、と焦げる音を立てるのみ。
 伊織いおりが寝付けないほどの焦燥に駆られた、その因となった箇所でもあったが、そのようなことを紫道が知るはずもない。あまりの途方もないヨタ話ともいうべき内容に、紫道は返すべき言葉も見つからなかった。
 しかし、いけしゃあしゃあと説明する千歳に対し、紫道は静かな怒りがこみ上げて。
 ガッ!
 気づいた時には、身を乗り出して千歳の両肩を掴んで仰向けに押し倒すと、千歳の腰の上に跨りながら、左手で千歳の胸元を掴み、右手で腰帯に差してあった短刀を抜いて突き刺さんと構えていた。
「千歳殿の先祖の所行で、藤香は倒れたのだぞ あるいは、すべては千歳殿の差し金か」
 静かな怒りの口調で迫る紫道に対し、千歳は真っ直ぐに見つめて答える。
「私の差し金なら、私が襲われることはないでしょう」
「自演であろう。藍璃を消すためか」
「違います!」
 千歳も鋭い口調で言い返すと、再び静かな、諭すような口調に戻る。
「長女とはいえ、兄妹がいる私を殺めても、おそらく根本的な解決にはなりますまい。
 ですが、私の命を奪うことで、あるいは私の娘の証を奪うことで、紫道様のお気が済むというのでしたら、私は謹んでお受けしましょう。
 ただし、これだけは覚えておいてくださいませ。たとえ開祖であったとしても、親友の藤香や伊織君を、あのような目に遭わせた者を、私は決して許したりしないことを。
 そして、藤香が紫道様のことを話すとき、藤香は夢の中にいるような様子であったことを……」
 意を決した千歳の剣幕に、紫道は無言で動きを止めたかと思うと、ゆっくりと千歳から体を離し、短刀を鞘に収めた。
「どうやら、怒りに我を忘れて錯乱したようだ。
 蘇芳山美音の術を使う者が下手人であるというだけで、蘇芳山家が黒幕とは限らないのだからな。
 朱鳥の都を地に落とすことを企むとなると、相当な大物に相違ない。いずれにせよ、藤香の魂が封じられた長頸瓶を取り返す手だてを考えなけ」
 紫道は突然言葉を切ると、傍らにあった太刀を抜きはなってしとみを切り裂き、同時に左手で器用に短刀を抜いて、切り落とされた蔀の向こうへと投げ放つ!
 キィン!
 鋼鉄のぶつかる音が、蘇芳山の屋敷に鳴る。
「あなたは……」
風剣雅天幻ふうけんがてんげん……!」
 庭先に立つのは、翁の神楽面をかぶった漆黒の修験者、風剣雅天幻であった。

 


「蘇芳山家の長女、蘇芳山千歳殿の魂を拝領つかまつらんと参上した。
 ただし、私では封魂ふうこんの術は使えぬ故、我が主の元へ御同行いただくという形になるが」
 打ち払われ、地面に力なく落ちていた短刀を、天幻は拾い上げて二つにへし折り、放り捨てる。体はわずかに濡れているようにも見えるが、紫道にとってそれは、ひとまずどうでもいいことだった。
「捜す手間が省けて助かったよ、風剣雅天幻。
 俺は日に日にご機嫌が斜めでな。悪いが今宵が貴様の最期と知れ」
 まるっきし台詞回しが悪党だな、と思い、紫道は心の中で苦笑する。
「我の声に応えて出でよ、木の吉将にして平穏の賢者、春樹堂月白しゅんじゅどうげっぱく!」
 そして、天幻の口上の隙に呪を唱えていた千歳は、月白を呼び出した。
 空気が揺らぎ、光の帯が集まり、具現化したそれは、烏帽子えぼし青藤あおふじ色の狩衣を纏った賢者の姿。
藍璃あいり、来い!」
「さっきから側にいるってば紫道様」
 声は紫道の左手から。藍璃はいつの間にか紫道の傍らに佇んでいた。
「ってどこからわいて出た」
 藍璃は、見張りも兼ねて古びた門扉に待機させていたはずなのだが……側にいたことには全く気づかなかった。
「千歳様からもらった鬼饅頭もぜーんぶ食べちゃったし、門で立ってるの退屈だったんだもん。隣の部屋でこっそりと……紫道様が千歳様を押し倒して、とても健全とはいえない展開になりかけていたあたりから」
 言いつつ、藍璃は袖から御札を何枚も取り出し左手に構えると、右手には短刀を抜いて握りしめる。こちらも戦闘準備は整った。
「過日の決着をつけようぞ、緋衣紫道!」
 それが戦いの合図だったのか、天幻は直刀を抜き逆袈裟に一閃させる。
 ぶぅわ!
 刹那、紫道の周囲に一陣の烈風が巻き起こった。
「鋼鉄も切り裂く風の刃、符術≪持国刃≫じこくじんも、読んでさえいれば同じ持国刃で相殺するのはたやすいね」
 逆手に持った短刀を、顔の前に構えた姿勢で言い放つ藍璃。短刀の刃には符術≪持国刃≫の御札が一枚突き刺さっている。
 距離からして、天幻が≪持国刃≫を使ってこちらの出鼻を挫いてくる、と読んだ藍璃の読み勝ちである。烈風は、二つの風の刃がぶつかり、弾けることで生まれたものだった。
 紫道は、真っ二つにされる一瞬前だったかと思いヒヤッとすると同時に、太刀を握る手に汗がにじんでくる。悔しいが、実力では向こうが一枚も二枚も上手だ。
 両手に御札を持ち、千歳は静かな口調で言う。
「風剣雅天幻、貴方も調べはついています。貴方は、蓬樹陽姫弥ほうじゅようきみとともに当家の古記録にその名を刻む、六合りくごうの化身」
 千歳の言葉を引き継ぐようにして、月白が続ける。畏れを込めて。
「……風剣雅天幻は、蘇芳山飛鳥あすか・美音夫妻のみが使役し得たとされる最強級の式神……木の吉将、六合の化身です」
「ただの式神じゃないよ、あれは。かなりの力と、凶将きょうしょう以上の邪悪な気配を感じる」
 藍璃は唸るように言う。少なくとも藍璃よりは地力が上なのかも知れない。
 現に、藍璃は御札と短刀とを組み合わせることで≪持国刃≫を発動させたが、天幻は御札なしで同じ≪持国刃≫を発動してみせる、という符術の常識からすれば離れ業をやってのけている。
「だがな、藍璃。
 こいつをもってして、単なる使い走りか露払いでしかないということだぜ」
 紫道が不敵な調子で言うが、しかし余裕は感じられなかった。使い走りということはつまり、黒い鬼面の者は、天幻よりさらに強い可能性もあるのだ。
「いきますよ」
 千歳は凛とした声を発すると、両手に持った八枚の御札を宙に放り投げ、二言ほど呪を紡ぐ。御札は八つの炎の弾となって、天幻に襲いかかる。
 しかし、剛弓から放った矢にも比肩する速さで飛来する、炎の弾を前にしてもなお、天幻は一歩も動かず待ち受ける。
喝破かっぱ!」
 がごうんっ!
 天幻が大声で一喝の声を上げた途端、八つの炎の弾は天幻に直撃する手前ですべて爆発、四散した!
「まさか、声だけで符術≪毘沙門炎≫びしゃもんえんを打ち消すなんて……」
 千歳の声は動揺からか、ややかすれていた。
「人間の繰り出す符術など……その気になれば握り潰す必要すらない」
「なら、切り捨ててやるまでだ!」
 刃を寝かせて霞に構えると、一気に紫道は天幻との間合いを詰め、心臓に向けて突きを繰り出す。
「遅い」
 人間ならば、目にも映らぬ速さと評するであろう太刀筋を、難なくかわす天幻。しかし、紫道は最小限の挙動で刀を引き、続けて天幻の喉を狙う。
「おっと」
 今度は顔を反らせてかわす天幻。しかし三度、今度は天幻の水月すいげつを狙って、一歩踏み込んだ突きを紫道は繰り出してみせる。
「ぬっ……!」
 三段突きまでは予測していなかったのか、少し焦った気配を見せる天幻だが、それもほんの一瞬のこと。背中から倒れるようにして三の突きをかわすと、そのまま両腕を地面に付き足を開脚、腕を支点にして体を大きく捻る。
「ぐあっ!」
 地面を這うように振る左脚の踵で紫道の足を払いながら、振り上げた右脚で紫道の腹を打つ天幻。紫道は、縁側の近くまで吹っ飛ばされるが、何とか踏ん張って転倒だけは免れ、腹を押さえてうずくまる。
「足下に留守番がいなかったようだな」
 皮肉を込めて言いながら、天幻は立ち上がり直刀を構えて、紫道の元へと迫る。
「緋衣殿!」
「紫道様!」
 月白は符術≪毘沙門炎≫を、藍璃は符術≪持国刃≫を繰り出して牽制けんせいを試みるが、そのいずれも天幻は体をさばいてうまくかわす。紫道はまだうずくまったまま。
 既視感。
 藍璃の脳裏に、黒い鬼面の者と戦ったときの光景が蘇る。このままでは、また……
 思うや否や、藍璃は紫道の元へ駆け出す。符術も何も用意していないが、藍璃の頭の中にそれはなかった。
「決着だ、緋衣紫道!」
 直刀を霞に構える天幻。藍璃はまだ紫道の数歩前。
「ああ、勝負だ!」
 紫道は突然顔を上げる。その目は鬼気迫るものがあったが、紫道が見た天幻の体からも鬼気が噴き出し……そして、翁面の奥にある必死の目が一瞬見えたような気がした。
「美音様っ!」
「藤香ァッ!」
 意識せず発せられた、二人の魂の声が交錯する。
 霞の構えから踏み込み、紫道の鎖骨付近を狙い直刀を突き下ろす天幻。
 うずくまった姿勢から伸び上がるようにして、寝かせた太刀を右手一本で天幻に向け突き出す紫道。
 ずんっ!
 肉に異物か埋もれる鈍い音。双方とも全霊を込めた間合いなしの攻防。
 直刀は相手の左肩を貫いて砕き……太刀は相手の肋骨を縫い左胸を貫いていた。
「ぐっ……見事……」
 言葉とともに吐血する天幻。
「しかし……その腕では」
 どっ……
 最後の言葉を言い終えることなく、天幻はカッと目を見開くと、硬直したまま仰向けになって大地に伏す。



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