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一之章(1)

「やれやれ、三日も夜通いできなかったからな。藤香とうかのやつ、怒ってなきゃいいけど」
 緋衣紫道あけごろもしどは、土塀に挟まれるようにしてそびえ立つ、年季の入った木戸の前に立っていた。
 黒い総髪にそこそこ整った顔立ち、俊敏そうな体格に緋色の狩衣ひいろのかりぎぬと、そこまで見れば立派な青年武官なのだが、ヨレた狩衣を着てちょっぴり情けない表情をしていては、諸々台無しといえなくもない。
 紫道しどは意を決したように、木戸をゆっくりと押し開ける。
「とうっ!」
 開けた瞬間、安っぽい掛け声とともに、紫道の目の前に足袋たびを履いた生足が頭上から降ってきた。
「うっうわぁ」
 ぱしっ
 紫道は、とっさに両手で額スレスレまで迫っていた足袋の足首を掴んで、踵落としのどたま直撃を免れる。
「び、びっくりしたぁ! 何やってんだよ、藤香」
 踵落としの張本人は、脚をおよそ一二〇度ほどおっぴろげたままの姿勢で、きょとんとしている。
「あら、そろそろ来る頃だと思って、こうやって入り口まで来て待っててあげたんじゃない。
 もぅ、私ったら恋する乙女のカガミってやつよね」
 菖蒲あやめ色を基調とした小袖袴こそでばかまに身を包んだ、紫道と年の頃同じぐらいの女性は、さも当然のように言ってのける。
「いや待て、普通の恋する乙女は踵落としやらないだろ、多分。
 おとなしく待ってられんのかい」
「何よ、三日間もすっぽかしたくせによく言うわ。
 早く入ってちょうだい、母上来るとうるさいから」
 藤香は、紫道の手から足をふりほどくようにすると、くるっと屋敷の方へと振り向く。
 どこからともなく、ほーぅっ、という木菟みみづくの鳴き声が聞こえてきていた。

 


「それにしてもヨレた格好ねー。もっとピシッ! としてこようとか思わなかった……」
 藤香は一瞬考え、
「……あたりが、まあ紫道の紫道たる所以ゆえんよね」
「なんだよそりゃ」
 紫道は、箸でつまんだレンコンの煮付けを、ひょいっと口の中に放り込む。うまい。
 まだ何も食べてない、と藤香に言ったところ「こんな刻限に食べると太るわよ」といいつつも、少し面白そうな表情をして奥に下がり、お膳に適当に並べて部屋までもってきた。
 藤香お手製かどうかは不明だが、直感的に聞いてやらない方がいいような気がしたので、紫道は何食わぬ顔をして食っている。
「んー……敢えて言うなら無頓着むとんちゃくでガザツな子?」
「言いたい放題だな。まあそれが藤香の藤香たる所以だな」
「あら、それはどーいうことかしら?」
 紫道は最後に茶碗に残った米をはくりっ、と一口。
「んぐっ……敢えて言うなら図々しくて遠慮無し」
「……人の家のお膳を、さも当然のように平らげときながらよく言うわ。
 あと、ちゃんと御飯は噛んでから飲み込みなさい。
 ほら、膝とか米粒こぼしてるし」
 藤香は、紫道の膝についた米粒をひょいひょい拾い始める。
「いちいち小言が多いな……お前は俺の女房か」
 紫道の言葉に、藤香はさも当然のように、
「後々そうなるつもりよ?」
 藤香は紫道の顔を見上げて、にっこりと笑ったのだった。

 


 紫道が藤香の家に夜通いしているのは、小さい頃は隣家りんかだということと、気が合うから程度の理由だったのだが、お互い、最近はどうも特別な感情が芽生えているのも事実なようだった。
 桔梗林ききょうりん家という、都でも屈指の式神しきがみ使いの家の長女なんぞをやっている藤香と、二流止まりとはいえ武官の紫道の緋衣あけごろも家では、世間的な家格にこそ極端な差はなかったものの、諸々のキョーイクのシツ、というやつが段違い。
 何かにつけて有職故実ゆうそくこじつに詳しい藤香のところへ雑談に行くのが、紫道にとってここ数年の年中行事と化していた。
「……とすると、朱鳥の都を空に浮かべたのは藤香、お前のご先祖かよ」
「そういうことよ。都の中央に内裏だいりがあるでしょ? あそこの地中深くに、大地を天に浮かせる力を持たせた、特製の式神≪紅飛鳥≫べにあすかを埋めたって話よ」
「窒息するだろ埋めたら」
「人間の理屈は通じないわよ……周囲にそんな屁理屈言ったってね……位階は上げてもらえないわよっ、と」
 暗いしとみの向こうから聞こえる紫道の声に、藤香は行灯の明かりの下で、縫い針と格闘しつつ答える。
 あまりにほつれがひどい紫道の狩衣にあきれた藤香は、「明日までに私が少し何とかしてあげる」といって、紫道から狩衣を追い剥ぎ同然に脱がせ、只今夜なべの真っ最中。
 紫道は、藤香の裁縫欲の生け贄として、素直に一泊する羽目と相成あいなった。
「……ところで紫道さま?」
「……なんだよ」
 藤香がそういう風に呼ぶときは、大抵機嫌がよろしくない。
「何で三日間も夜通いすっぽかしたのか、きりきり白状してなかったわね?
 内容によっては容赦しないけど、白状しないともっと容赦しないわよ。
 もちろん嘘八百は論外」
 藤香は、口を細かく動かし、何かの呪法を唱えている。
「げっ……アレを出すとか」
「……我の声に応えて出でよ、金の吉将きっしょう、月光の守護者、永翔雲藍璃えいしょううんあいり!」
 藤香の声に応えて、空気が揺らいだかと思った瞬間、仰向けに寝ていた紫道の頭上に光の帯が集まり、具現化して少女の姿になると、いきなり紫道に馬乗り体勢となって上から見下ろす。
「藤香……フツーに白状するから、コイツ何とかならないか」
「えええええええ 緋衣の紫道様、おひさなのにそれはつれないよぉ」
 永翔雲藍璃と呼ばれた長い黒髪の少女は、大声を上げると紫道の首を絞め始める。
「ぐげげげげ! ぐるじい! ぐるじい!」
藍璃あいりやめなさい。それに声も大きいわよ」
 藤香の落ち着き払った声に、藍璃は紫道の首から手を離し、馬乗り体勢へと戻る。
「藍璃が呼ばれたってコトは、まぁた緋衣の紫道様は藤香様を怒らせたんだ? 色男だねぇこのこの」
 面白そうに言う藍璃を、紫道が見たのはこれで六度目ぐらいか。
 永翔雲藍璃は人間ではない。藤香が契約を交わした高位の式神、少女の姿をした十二天将太陰じゅうにてんしょうたいいんの化身、金の吉将・永翔雲藍璃。
 ……とまあ肩書きはエラそうなのだが、どうひいき目で見ても、人間以上の力のくせに精神年齢が低い藤香の妹にしか見えない、というのが紫道の見解である。
「三日も来れなかったのは、数日前に起きた、璃寛原りかんばら家の長男が襲われた件の調べだ。
 飲まず食わずで大変だったんだぞ」
 紫道は蔀の向こうにいる藤香に、神妙に答える。
 神妙にしないと、腹の上に乗っかっている妹風式神爆弾に締め上げられるのは目に見えていた。
「璃寛原家……桔梗林家と同じ、式神使いの家ね」
 藤香は、さっきまでとはやや様子が違う静かな声で答える。
「外傷はないが、意識が全くない。命に別状はないが昏睡状態というやつだ。
 どうやって昏睡にさせたのか、方法も不明。盗難物はないから物盗りじゃなさそうだ。
 ちなみに使役する式神は、あっけなく滅していたようだぜ」
 自分の上に乗っかっている藍璃を見上げて紫道は言う。もちろん冷やかし。
「マヌケな式神だねぇ。やっぱ、藍璃みたいに強くて賢くてスバラシイ式神でないと役に立たないと言うことだね、うんうん」
 ……藍璃あほな子を冷やかそうと考えた俺がバカだった、と紫道は少し後悔。まあ一応機嫌はとったからよしとはするが。
「まだ下手人げしゅにんは捕まらないわけ?」
「まあな……しかし、俺が一番気になるのは」
「何で式神使いの家の者を敢えて狙ったのか、ね」
 紫道の疑問に、藤香はよどみなく答える。
「無難なところで個人的な怨恨……とかじゃなさそうね。それなら、昏睡させるなんてまどろっこしいテはとらずに、バッサリ殺してるでしょうし。
 もっとも、そのセンで調べて行き詰まってなかったら、紫道が悩んだりはしないはずだし」
「……わからねぇな、ホントに」
「……そうね、式神使いの家の者が他人に狙われるのは、恐らく都が出来て以来前例がないわ。
 何せ、桔梗林、璃寛原、楊梅院あせんいん紫苑寺しおんじ蘇芳山すおうざんの式神使い五家は、式神≪紅飛鳥≫をお祭りする存在よ……朱鳥の都の人々から、尊敬はされても恨みをもたれるいわれはないはずよ。ウーン、狙いは何かしら」
 藤香が考えても答えは出ないなら仕方ない。が、都始まって以来、先例のないことなのは分かった。
 紫道は納得して眠りにつこうとしたが、大きな問題が残っている。
「ところで藤香、寝たいからコイツどけてくれないか」
 恨めしそうな紫道の視線の先には、いつの間にか馬乗りになったまま、器用にイビキかいて熟睡している、藍璃の姿があるのだった。


一之章(2)

 紫道しどを泊めてから数日後。
 綺麗な茜色あかねいろに染まった、朱鳥の都の通りを、藤香とうか藍璃あいりはどこへ向かうともなく歩いていた。
「藤香様も物好きだねぇ、こんな夕暮れ時に」
 藤香の横を歩く藍璃は、前を向いたまま嬉々とした表情で言う。
 碁盤目状になっている都の通りの中でも、裏通りではないが、さほど人通りの多い通りでもない道である。
 家の近所で散歩しているだけ、といえばそれまでだが、藍璃と話すわけでもなく藤香は無言。周囲への目配せを怠らない。
「物騒な下手人が出るのは、大抵夕暮れ時か夜と決まってるのよ」
 藍璃の言葉に応え、ようやく口を開いた藤香からは、あまり穏やかではない言葉が飛び出した。藤香は話を続ける。
「式神使い五家の人間が狙われているなら、遅かれ早かれ下手人とのご面会は避けられないわ。この通りはよく使うし、私もこの辺の土地勘もある。こっちから打って出る方が私は好きなのよ。
 だから、いざという時はアテにしてるわよ藍璃」
「藍璃は、アテにしてもらってもいいよ藤香様。
 式神使い五家は、木・火・土・金・水の五行の力をつかさどるっていうのに、璃寛原の土の式神ときたら、ずいぶんダラしのないことだったねぇ」
 脳天気な調子で言っているようだが、藍璃の語気にはどことなく鋭いものが混じっている。
「……そいつホントに狙ってたんだねぇ、藤香様のこと。
 どうやら来たみたい」
 藤香と藍璃は足を止める。二人の先には、尋常ならざる気配を隠そうともしない人影が、仁王像のごとく通りの真ん中に陣取っていた。
「私達に何かご用かしら?」
 立ち止まった藤香は、右手をさりげなく後ろに回しながら問いかける。
 空五倍色うつぶしいろの狩衣に身を包んでいることからして、男であろうか。そして、黒い鬼面で顔をすっぽり覆っている。その凍てついた鬼の形相には、神楽かぐらで見られるようなおごそかさは微塵も感じられない。
 黒い鬼面の男は無言のまま、懐から灰色のとつ字型をした須恵器すえき、いわゆる長頸瓶ちょうけいへいを取り出すと、ゆっくりと傍らの地面に置いた。
 何の意味があるのか、藤香にも藍璃にも判りかねたが、いずれにせよ友好的ではなさそうなことは確かである。
 すると突然、目の前にいた黒い鬼面の男が消えた。
「……えっ」
「藤香様、右!」
 藍璃の声に反応して右手を向くと、とっさに藤香は後ろに回していた右手を、振り上げるように一閃させる。
 ビュッ!
 鋭く引き裂かれた空気の悲鳴とともに、黒い鬼面の男が藤香の二歩ほど間合いを取った所に現れる。
 藤香は、白色の御札のようなものを、人差し指と中指で挟むようにして持っている。術で呪をかけられた御札は、刀をも切り裂くほどの鋭い切れ味をもつ。
「とっておきの符術≪増長刃≫ぞうちょうじんだったのに……」
 数歩下がって悔しがる藤香。手応えはなかったことからして、寸前のところでかわされたらしい。
 黒い鬼面の男が藤香に迫ろうとするが、しかし急に立ち止まって後ろに下がる。その刹那、黒い鬼面の男がそれまで立っていた場所に、高速で飛来した瓦が、けたたましい音を立てて地面で砕けた。
「まだまだ終わらないよ」
 声の主は藍璃。彼女の周りには、筒状の丸瓦が十数枚ほど、ふよふよと頭上を浮遊している。その辺の家のものらしい。
「いけ!」
 虚空に浮く丸瓦は、藍璃の掛け声と共に、それまでと一変して目にも映らぬほどの速さで黒い鬼面の男に迫りゆく。
 ごぅっ!
 しかし、黒い鬼面の男はわずかに宙へ跳んで、丸瓦の弾丸をうまくよけてみせた。
「よけた」
「かかった」
 藤香の驚愕の声と、藍璃の勝ち誇った声が交錯する。一旦かわされた丸瓦の弾丸は、ぐっと急上昇して黒い鬼面の男の頭上まで旋回、こんどは丸瓦の雨となって黒い鬼面の男に降り注ぐ!
 黒い鬼面の男の体は宙へと浮いたまま。よけることはできない。
 ずどどどどっ!
 くぐもった鈍い音とともに、丸瓦の雨は、黒い鬼面の男の背中へ次々と直撃、うつ伏せになった体は地面へとしたたかに打ちつけられる。
「ざっとこんなものだねぇ。えっへん」
 藍璃は大してありもしない胸を張ってちょっぴり自慢げ。
 しかし黒い鬼面の男は、丸瓦の破片の中からむくりと立ち上がると、両手で狩衣についた土をパンパンと払い、何事もなかったかのように藤香達へと向き直る。
「……全っ然効いてないみたいよ、藍璃」
「普通の人間の体じゃ、あり得ないよ藤香様。まさか」
 藍璃の動揺の声を遮るようにして、黒い鬼面の男は藤香の目の前まで瞬時に間合いを詰める。まるで、虚空を転移してきたかのような……音の奏でる空気の振動さえも見える藍璃の目にさえ、全く映らぬほどの速さ。
 どっ!
「うぐっ……!」
 黒い鬼面の男は、藤香の腹部に当て身を一撃。体の丈夫さは普通の女性と大差ない藤香には、ひとたまりもない。
「藤香様 よくも!」
 藍璃は左袖から、符術≪増長刃≫をかけた御札を取り出すと、軽く飛び上がり頭上から黒い鬼面の男に斬りかかる。
 ぱしっ!
「」
 しかし黒い鬼面の男は、藍璃の振り下ろされる右手首を易々と掴むと、力いっぱい握る。
「ぐあああああ!」
 ゴキゴキと手首の骨が粉砕される音は、藍璃の苦悶の声にかき消された。高位式神の骨を砕くなど、もはや人間技ではない。
 黒い鬼面の男は、そのまま頭上で藍璃の体をブンブンと振り回し、土塀へと放り投げた。
 どごぉんっ!
 あっさり砕ける土塀。気こそ失っていなかったが、藍璃は土塀の残骸にもたれるようにしてぐったりしている。
 藤香の体を抱えた黒い鬼面の男は、長頸瓶のところまで戻ると、瓶の口を藤香の口にくわえさせると、不気味な声で呪を唱え始める。
 しばらくして、藤香は目を見開き、体をビクン、ビクンと震えさせたかと思うと、再び目を閉じて体をぐったりさせる。
 藤香の口から長頸瓶を抜くと、黒い鬼面の男は瓶の口に丸めた紙らしき物を詰め、死んだように動かない藤香の体を地面に置いて、ふっと消えるように立ち去った。
「藤香……様……ごめん……なさい……」
 一部始終を見ていた藍璃は、力のない泣きそうな声を漏らすと、気を失う。
 土塀の砕ける音に反応したのか、人々が現れるのは、それからさらにしばらくしてのことだった。

 


「藤香……」
 自室の布団の上で眠ったままの藤香の顔を、傍らで紫道は暗澹とした気分で見つめていた。
 藤香が襲われた翌朝、藤香と藍璃が倒れた姿で見つかったとの知らせを受けて、紫道は大急ぎで桔梗林家に駆けつけたのである。
 医師によると、外傷は腹部の打撲だけで命に別状はないのだが、何故か気を失ったまま意識が戻らない。こればっかりは原因が判らずお手上げ、とのことだった。
 ちなみに藍璃は、並の式神だったらとっくに滅しているほどの重傷らしいが、こちらも何とか生きている。
「……必ず目を覚ましてやるからな。少しの間休んでてくれよ」
 紫道は藤香の耳元まで寄ってささやきながら、彼女の左手を両手で握った。柔らかい指先の所々にある、小さな傷の感触。先日狩衣のほつれを直そうとしたとき、誤って針を刺した痕であることは、紫道もよく知っている。藤香は裁縫が得意ではないのだ。
 ……どんな奴かはこれから見つけるが、とりあえず捕縛などせず冥土に送りつけてやる。
 決意を込めて部屋から出た紫道は、縁側でうずくまったままの藍璃に声を掛ける。
「藍璃、教えてくれ。藤香とお前を酷い目に遭わせた奴は、いったい何者だ?」
「うえ……うぐ……ひっくっ……」
 しかし、泣きっぱなしの藍璃は溶けて無くなりそうなほどにぐずぐずで、まともに受け答えが出来ない。
「何も出来なかったのは俺も同じだ。お前は命がけで十分に戦ってくれた。
 それよりも、命が助かったんだから、今はそいつに一発しっぺ返しを食らわすのが先決だ……」
 藍璃はようやく顔を上げる。目も真っ赤で人前に出られるような顔ではなかったが。
「……ひっ……あいつは……黒い鬼面の男は、恐らく人じゃないよ……」
「人じゃない……なら、式神か?」
 紫道の問いかけに、しかし藍璃は首を横に振る。
「純粋な式神の気配でもなかったよ……でも」
「でも?」
 藍璃は何とか縁側から立ち上がる。布で吊した右手が痛々しい。今度はしっかりと紫道を見上げる藍璃。
「純粋な人とも式神とも違う、違和感を覚える気配だったよ。
 あるいは、妖怪の一種かも」
 藍璃にも正体は判りかねる存在のようだった。
「いずれにせよ、厄介そうな奴であることと、他の三家の連中も危ないことは確かだ。
 手がかりはない以上、とりあえずは式神使い三家に赴くことからだ……付いてこれるか? 本当の主ではない俺だが」
「そうしても、藤香様も許してくれると思うよ。
 黒い鬼面のあいつに、やられっぱなしなわけにもいかないし」
 藍璃は、力強く頷いたのだった。


二之章(1)

「では、偶然ではないということかな、緋衣あけごろも殿」
 紫道しどよりもやや年長、世間では美形の男子と評判の楊梅院忠持あせんいんただもちは、縁側の上から見下ろして、冷ややかな口調で言い放った。
「我等、式神使いの家の者が狙われるなど……まさかとは思うが」
 半信半疑の口調で発した言葉の主は、忠持の傍らにいる紫苑寺公行しおんじくぎょう。忠持よりも線が細く地味な印象だが、知的な空気を感じさせる、まさに貴人然とした男である。たまたま私用があり、楊梅院家を訪ねてくれていたのは、紫道にとって好都合だったのだが。
 ……おんなじ式神使いの家でも、桔梗林ききょうりん家とはここまで違うものか。
 縁側の下で地べたに片膝を付いている紫道は、心の中で苦笑する。
 桔梗林家で地べたに這いつくばった経験は、些細なことから藤香とうかを本気で怒らせた関係で、土下座して謝ったのが一、二回ほどあるぐらい。
 紫道もれっきとした追捕使ついぶしの役人である以上、一般常識的には目下の者の礼をとる必要は全くないのだが、それを要求するということはつまるところ、気位が並の貴族階級よりも相当高いのであろう。
 お前ら何様だと言ってやりたいが、些細なことにこだわって面倒を起こすのもつまらないので、言われたとおり、おとなしく地べたに片膝をついているわけである。
 ちなみに藍璃あいりとは別行動。「よく藤香様と行っていたから」というので、蘇芳山すおうざん家の方へと行ってもらっている。
「璃寛原、桔梗林の両家の者、それも家督を継ぐかそれに準ずる者達が何者かに襲われたのです。
 いずれも命に別状はないものの、昏睡状態にさせられ目を覚まさない症状は同じ。御供おともに式神がいたにもかかわらず撃退できなかったことから、相当な手練てだれの者の仕業でございましょう。
 追捕使も都の見廻りを多くするなど、策は講じまするが……楊梅院様と紫苑寺様におかれましても、くれぐれもご油断召されぬよう、お願い申し上げまする」
 紫道はこういう言い方を苦手にしている。別に育ちが悪いせいではなく、単に四六時中呑んだくれな追捕使の長官が「丁寧にしゃべらんといかん殿中は面倒いのぅ」「あー、ええ、ええ。かまわんから普段通りにしゃべれ」が口癖だったりするので、慣れていないのである。
 今回の件についても、「あー、構わん構わん。皆それぞれ思うところの通りに探ってみるがよい」の訓示だけである。よほど信頼されてるのか、はたまた本気で面倒くさがっているだけなのか。
 ただ、紫道にとっては、そう言ってもらった方がやりやすいのは確かなので、感謝しきりではあるのだが。
「油断も何も、早く下手人を捕まえよ。我等の手を煩わせるなどもってのほかぞ」
 忠持は、追捕使の長官に負けず劣らず面倒くさそうに紫道に言う。
「……緋衣殿のご注進、うけたまわった。我等にすぐできることはなさそうだが、日頃心に留めておくことにしよう。それでよろしいかな?」
 したり顔をした公形の返答は、それっぽく聞こえるが、要は「これで用件が済んだのならさっさと帰れ」という意味であることは、雰囲気で伝わってくる。
 とはいえ、心構えをする以外に、すぐに打てる手はあるかと問い詰められれば、公形の言う通りほとんどないのも事実であろう。
 紫道は、この場ですべきことはもうないと判断した。
「では、私はこれにて失礼いたしますが、くれぐれも御用心下さいますよう、重ねてお願い申し上げまする」
 下げたくもない頭を下げて、足早に楊梅院家の門扉をくぐり、紫道は昼の賑わいを見せる通りの人混みへと、姿を消したのだった。

 


「いつ来ても大きいなあ……」
 藍璃は、薄い飴色に染まった樫の木の門扉を見上げてから、周囲をぐるりと見渡す。
 桔梗林家の門扉より造りが新しく、大きさはふた回りも大きい。土塀に覆われた屋敷の広さは、桔梗林家よりもやや手狭な感があるから、余計に門扉が目立つ。
 式神使い五家は、家格に上下はないことになっているのだが、それはあくまで建前上の話。
 蘇芳山家はなぜか、他の四家よりも明らかに一段低く扱われるのが常、とされており、付き合いを避ける式神使いの家もあるほどだった。
 もっとも、藤香はそんなことを気にするはずもなく、よく藍璃を引き連れて遊びに来ていたので、藍璃にとって蘇芳山家の屋敷もそれなりに見慣れた光景のはずなのだが。
 今日は、心なしか大きく見えるのは気のせいだろうか?
「まあ、藍璃ちゃんじゃないのっ」
 いささか戸惑っていた藍璃の後ろから、やや高い女性の声がした。
「あ、どうもこんにちは」
 振り返った藍璃が目にした女性は、年のころからして藤香の母親と同じぐらい。上等な衣装を着てないと、その辺にいる元気な平民のおばちゃんと見分けが付かない雰囲気も、また藤香の母親とそっくりな、蘇芳山家の正室せいしつ様。
「今日はおひとりかしら? 千歳ちとせなら家の中にいるから、遠慮なくお入りなさいさあさあさあ」
「えっ……は、はあ、ありがとうございます」
 蘇芳山家の正室は、小走りで藍璃の背中を両手で押すようにして、藍璃を家の中にさっさと入れてしまうと、隣家にも聞こえそうなほどよく通った声で、家中の女使用人を呼びつける。
 一言二言、使用人と小声で何か話したかと思うと、自分は家の奥へと小走りに入っていってしまった。動きにくそうな衣装なのに、その飛び跳ねるように軽快な動きと足の速さは、歳を全く感じさせない。
「ささ、お方様がすぐに千歳様をお呼びするそうですので、藍璃様は客間のほうへ」
 こちらも愛想がいい中年女性の使用人に案内され、藍璃は廊下をひとつ右に曲がったところにある客間へ通されると、既に一人の女性が正座して待っていた。
 歳は藤香と同じだが、やや小柄で楚々とした所作は、年齢以上に大人びた雰囲気を感じさせる。真っ直ぐ腰の上まで伸びた黒髪といい、本当の貴族の淑女とはまさに千歳のことだろう、と藍璃は思う。
 千歳は蘇芳山家の長女ではあったが、彼女の上には実兄が三人おり、家の跡目のことを心配する必要はなかった。一人娘の藤香に比べれば、ずいぶんと楽といえば楽な身分ではあるが、気が合うのか藤香とは小さい頃から、とりわけ仲のいい間柄だったりする。
 藍璃から事情を聞いた蘇芳山千歳すおうざんちとせは、しばらく沈痛な面持ちで黙り込んでいた。
「しかし遅かれ早かれ、蘇芳山家の者も狙われることに、疑いはないわけね」
 重苦しい沈黙を破り、ゆっくりと顔を上げた千歳の表情は、意を決したものに変わっていた。
「これは一刻を争いますが、蘇芳山家だけでどうにかできる問題ではありません。他の二家とも協力しないと……兄様達は出仕していて留守ですので、私が参りましょう」
「え? 参るってどちらへ」
「とりあえず、楊梅院様のお屋敷には紫道様が行かれているのでしょう? 私達は紫苑寺様のお屋敷に向かいましょう」
 千歳はすっ、と静かに立ち上がると、すぐに呪法を唱え始める。
「……我の声に応えて出でよ、木の吉将にして平穏の賢者、春樹堂月白しゅんじゅどうげっぱく!」
 光の帯が集まって人型の形を成すと、烏帽子えぼし青藤あおふじ色の狩衣をまとった、二十歳過ぎぐらいの長身で細身の男性の姿となって具現化した。
「御用でしょうか、千歳様」
 春樹堂月白と呼ばれた式神は、学者然とした見た目以上に穏やかな様子で千歳に問いかける。
「これから、そこの永翔雲藍璃さんとともに、紫苑寺様のお屋敷へと向かいます。お供なさい」
「かしこまりました」
 月白は静かに一礼すると、今度は藍璃の方へと向き直る。
「よろしくお願いしますよ、金の吉将・永翔雲藍璃殿」

 


 萌葱もえぎ色の上等な生地の小袖袴に着替えた千歳は、二人の式神を従えて、多くも少なくもない人通りの道を歩いていく。
 昼の賑わいも終わりに近づき、徐々に大通りの人波も収まりつつあった。
「むぅ。今日は帰っちゃったわね……」
 通りの右側をチラりと見た千歳は、一瞬口をへの字にする。
「どうかなさったんですか、千歳様?」
 藍璃は、自分の右側を並んで歩く千歳に問いかける。
「千歳様は、あの通りにいつも出ている屋台の鬼饅頭が大好物なのです」
 藍璃の疑問に、間髪入れず即答したのは月白だった。
「私も何度か頂いたことがありますが、いや実に美味で」
「月白」
 前を向いたまま、千歳は小さく冷たい声を放つ。
「これはこれは、私としたことがおしゃべりが過ぎました」
 あわてて長烏帽子に右手を当てる月白。
 ……あのおいしい鬼饅頭、そこの屋台で買ってたのね。
 千歳が桔梗林家に遊びに来る際、たまに持ってきていた鬼饅頭の正体を藍璃は初めて知った。藤香は千歳に売っている場所を聞こうとしては、なかなか教えてくれないと毎回ぶんむくれていたが、さすがに貴族の娘が屋台で鬼饅頭を買っているとは言いにくかったのだろう。
 もっとも藤香なら、出仕用の十二単じゅうにひとえ姿でも大股走りで買いに行きそうな気もしたが、そんな婿の来手がなくなりそうな主の行動の想像図は、とりあえず心の中にしまっておくことにする藍璃であった。
「さ、そこの角を左へ曲がれば、あと少しですから」
 まだ少し不機嫌なのか、ぶっきらぼうに角を指差す千歳。
 大通りを左へ曲がると、寺院の高く分厚い土塀が両側にあり、実際以上に狭い錯覚に陥る道が一直線。大通りの喧騒も分厚い土塀に音が吸収されるためか、一気に遠いものとなる。
 夕餉ゆうげのころになると、人ごみを避けて大通りに出られる生活道だけあり、まばらとはいえ人通りも絶えないが、この刻限では歩く人の姿もない。少し先にある土塀の左隅に、小さなむしろの上に長頸瓶ちょうけいへいを置き、頭からすっぽりと黒布を被って正座している、物乞い風の人間がひとりいる程度。
「……?」
 藍璃がその光景に違和感を覚えた刹那。
 物乞い風の人間は、被った黒布を跳ね上げるようにして立ち上がる!
 何か言葉を発する間もあればこそ。
 藍璃はとっさに右側にいた千歳と月白を、押し倒すようにして横へと思いっきり飛ぶ。
 自分の立っていた場所を通った、強烈な風の塊の気配を背中で感じながら、藍璃は千歳と月白を巻き込むようにして地面へと倒れる。
「きゃっ!」
「うわっ」
 驚いたような声を上げて、尻餅をつく千歳と月白。
「不意をついたつもりだったけど……よくよけたものね」
 低い女性のような声の主、物乞い風の人間を一斉に見やる三人。
 上下とも黒鳶くろとび色の小袖袴をまとい、顔には神楽で使われる姫面きめんをつけている。
「あんたは……」
 立ち上がりながら、憎悪を込めた声を発する藍璃。しかし、前に藤香と自分を襲った黒い鬼面の男とは、面と雰囲気が違うのにすぐ気づく。
「あんたの狙いは千歳様ね」
 千歳と月白もすぐ立ち上がり、衣装についた土埃を払いながら姫面の女と対峙する。
「しかし、私は蘇芳山家の長女ではあっても、世継ぎではありませんよ?」
 千歳の誰何すいかにも、しかし姫面の女は動じる様子はない。
「凡庸な貴女あなたの兄より、貴女にこそ強く美しい魂の力を感じるわ……さあ、その魂をよこしなさい!」
 姫面の女は澱みなく答えると、御札を三枚左手より取り出して、空中に放り投げると同時に右手を上に伸ばす。
 右手で千歳達のほうを指差すと、宙にあった御札は 御札は炎に包まれ、間髪入れず炎の弾となって三人めがけ襲いかかる!
 しかし真っ直ぐに襲いかかる炎の弾は、幸いにもそれほど速くはなかった。三人は避けようと体を横に捻る。
 ごうんっ!
「ぐっ」
「うわっ」
「きゃあっ」
 しかし、ちょうど避けようかという瞬間、炎の弾は勢いよく爆発。地面から土煙を巻き上げるほどの爆風に吹き飛ばされ、千歳と月白は左、藍璃は右の土塀に、それぞれ背中から叩きつけられてしまった。
「フン……人間や並みの式神が使う、単調な符術と一緒にされては困るわね」
 姫面の女は余裕の声を上げると、千歳の方へと向かって歩を進めようとする。
「……言葉を返すようですが、並みの式神と一緒にされてもらっては困りますね」
「なにっ……」
 姫面の女が数歩前に出たところで、落ち着いた声を上げながら、ゆっくりと立ち上がったのは月白。
 そして、人差し指と中指を立てて右手を頭上にかざすと、切り払うような勢いで下へと振り下ろす!
「……ッ」
 見上げて姫面の女が見たものは、宙をふわりと舞っている、縦長の鳥のような形に折られた御札。
 折り紙のように折られた御札は、宙で四散したように砕けると、一陣の風の塊を生み出した!
 慌てて後ろに軽く退がろうとする姫面の女。
 しかし、一陣の風の塊は姫面の女の頭上……さらにその後ろを掠め過ぎる。
「しまっ……!」
 姫面の女が、その意図を汲みとったときには既に遅く。
 ガシャン!
 風の塊によって、甲高い音を立てて砕かれたのは、小さな筵の上にある長頸瓶。
「……これで、千歳様をどうすることもできまい」
 月白は、勝ち誇ったというよりも安堵の混じった声を上げた。
 土煙を立てる爆風で吹き飛ばされながらも、少しの間だけ滑空するよう折ってあった御札を、月白はとっさに空中へ飛ばしていたのである。
「本来の符術≪持国刃≫じこくじんは、御札を刃に刺して呪を紡ぎ、風の刃を生み出すもの。
 しかし、符術を得手とする高位式神ならば、このような芸当もできよう」
 姫面の女の足元には、地面に小さく光る縫い針が突き刺さっている。刃の代わりに縫い針を御札に刺し、空中で符術≪持国刃≫を発動させる……その器用さに、姫面の女は内心舌を巻いた。
「この場は私に不利なようね……」
 そう言い残すと、後ろに大きく跳躍しながら姿を消そうとする姫面の女。一瞬追おうとした月白だったが、その一瞬のうちに姫面の女の姿は、いずこかへと消えてしまった。
「助かりました、月白さん」
 ようやく立ち上がった藍璃は、月白に向かって軽く一礼。
「いえ、藍璃殿も大事なさそうで何より」
「う……」
 呻いて後頭部を押さえ、足元がややおぼつかないながら、千歳も何とか立ち上がる。
「千歳様、お怪我はございませんか」
 いつもの落ち着いた様子はどこへやら、千歳の様子に慌てる月白。
「まだ少し頭がくらくらするけど、他は何ともないわ……それより」
 千歳は小さな筵の上に散らばっている、灰色の残骸の方へと視線を向けた。
「あれが、藍璃さんの言っていた長頸瓶かしら」
「そのようです……確信はありませんでしたが、あの長頸瓶には言い様もない違和感がありましたので、もしやと思い」
 千歳の疑問に答える月白。正直、≪持国刃≫で姫面の女を狙うつもりだったのだが、上手く避けられるのでは、という嫌な予感がしたため、とっさの判断で長頸瓶に狙いを変えたのである。
「炎の弾を生む符術≪毘沙門炎≫びしゃもんえんを、任意の位置で炸裂させるようなことは、私でもようやくできるかどうか、といった芸当です。
 あの姫面の神楽面をつけた女、とても並みの人間の手に負える相手ではないでしょう」
 月白は淡々と語りながら、筵のほうへと歩み寄って長頸瓶の残骸を拾い集める。
「とにかく、この道を通ることが知れている以上、このまま進んでもまた別のところで待ち伏せされている可能性もあります。
 別の近道がありますので、そちらの方から回りましょう」
 長頸瓶の残骸を拾い集め、懐紙にひとつひとつ包み終えると、三人は再び大通りに出た。


二之章(2)

「さて……出てきたようだな」

 賑わう刻限はとうに過ぎ、日が頂点からやや傾いてきた頃。

 楊梅院あせんいん家の門扉からやや離れた場所にいた、珍しい石を売る行商を冷やかしていた紫道しどは、古い木材の擦れる音を立てて、しばらく前に自分が出てきた門扉が開くのを見逃さなかった。

 出てきたのは、やや上等な衣装を着た男が二人。片方は、衣装から紫苑寺公行しおんじくぎょうに違いないが、もう片方は見覚えがない。供の従者か、あるいは式神か。

 紫道は、行商に適当なことを言って話を切る。石といえば幼少の頃、都の外まで二人で探検した際に拾った翡翠ひすいの原石を、藤香はどこへやったのか、紫道はふと気になった。初めて身につける硬玉こうぎょくに喜んでたくせに、ここ数年身につけてる様子がない。目が覚めたら締め上げてでも聞いてやろう。

 しかし、余所事よそごとを考えていたのはほんの一瞬。紫道はお決まりの行動を開始した。

「気配を消して、適当な距離を取って尾ければ、相手が式神でもそうそうは、な……」

 紫道は、まばらな人の流れの中に紛れ、公形達を尾行する。

 なるべく通行人の影、向こうが振り向いても死角になりそうな位置へと、さりげなく動きながら。

 公形達が振り向く気配はない。しかし通りを幾つか曲がり、通行人がいない通りへと入っていく。もっとも紫道の調べだと、方向的には紫苑寺家に最短距離で向かっている。紫道に気づいて誘い出しているわけではなく、いわゆる近道というやつなのだろう。

 これで、気づかれずに尾行するのが難しくなったことは確か。仕方なく紫道は、公形達が角を曲がったのを見計らってから移動、さらに距離を取る。

 三回目ぐらいだろうか。角を右に曲がったのを見て、紫道が早足で移動するが、通りの半分を行ったところで、急に紫道は立ち止まる。

「ほう……気配を察するとは、人間の割には鋭いな」

「じゃあ、お前は人間じゃないってか」

 背後からした黒い声に応え、紫道が振り向く。

 山を五つほど制覇してきた修験者しゅげんじゃ、というのが似合うような格好。裾が破れた灰色の修験衣の上に、こちらも使い込んだ感がある、漆黒の貫頭衣かんとうい風の布をみののようにまとっている。

 しかし、結びもしない総髪に翁の神楽面を被り金剛杖こんごうじょうを右手に持った、その姿から噴き出す気配は、研ぎ澄まされた刀のように鋭く、紫道に向かって一点に絞られている。

「用事は俺の方でいいのかい? そこの角を曲がった優男じゃなくて」

 ゆっくり左足を引いて半身になる紫道。地面が草履ぞうりと擦れてジャリッ、と音を立てる。

「ネズミ退治が私の趣味でしてな」

 翁面の男は微動だにしない。その声には余裕と自信。

「妖しい出で立ちで都を徘徊されると迷惑である……追捕使の緋衣紫道が、珍妙翁面男ちんみょうおきなめんおとこ、貴様を少々尋問するが、よろしいな?」

 捕縛の時に言う紋切り型の台詞が、とても通用する相手ではなさそうだが、紫道の狙いは別にある。

「我は風剣雅天幻ふうけんがてんげん理由わけあって追捕使の尋問は受けられぬ。我を変な呼び方にしたこと後悔せよ、緋衣紫道」

 声とともに、風剣雅天幻は金剛杖の端を持つと、一直線に紫道に向かってくる。

 ギィン!

 抜きはなった紫道の腰の太刀と、金剛杖に仕込まれた細い直刀が鋼鉄のぶつかる音を立てる。

「我の風の剣に反応するとは……人間にしては離れ業といってよいな」

十間じゅっけんもあった距離を瞬きする間もなく詰めるとは……風剣雅天幻、名前を聞いておいてよかった。生け捕りにして尋問すべきだな! 一体何者だ」

 鍔迫り合いを押し返す紫道。天幻はふわりと宙に浮くと、少し離れた位置で着地する。

「そうか、我に名乗らせるために挑発して自らも名乗ったか。まあ、いい。所詮は冥土の土産だ」

「冥土の土産か、それは失念していた。残念ながら、急な話で俺からは貴様に何も用意できぬが」

「ほざけ!」

 天幻は再び間合いを詰めて横薙ぎに斬りかかる。

「二度も同じ動きが」

 口の中で軽く言いつつ、紫道はぐっと身を屈めると、腕立て伏せのような姿勢となって両手を地面つきつつ、腕を巧く使って伸ばした両脚を横から大きく振る。

 どっ!

「なぬっ」

 天幻は視界から紫道が消えたと思った瞬間、脚をしたたかに払われ、前につんのめるが、肩を丸めてうまく前転し受身を取る。

「足下に留守番がいなかったようだな」

 紫道の声に、素早く立ち上がり直刀を構える天幻。しかし構えを取った時、紫道の姿はその目の前。太刀を蜻蛉とんぼの構えから袈裟けさ切りに振り下ろす所だった。

 再び、鋼鉄の悲鳴が通りにこだまする。

「……っ」

 敵の剣ごと叩き折るつもりで打ち下ろした渾身の一撃は、しかし易々と受け止められた。仕込み杖の細い直刀にしては、思ったよりずっと強度が高い。

「三千世界の底さえも切り裂く、といわしめる蜻蛉の構えからの一撃、非の打ち所のない太刀筋だ。

 その歳で剣の流派ひとつを極めるとは大したものだが……しかし」

 天幻は後ろに大きく跳び退ると、直刀を上向きに一薙ぎ。いやな予感を感じた紫道は、大きく左へと跳び退る。

 その鼻先を、剃刀が通ったような鋭い風圧がかすめていった。

「所詮、人間が編み出した剣技ではその程度よ」

 天幻の左手には、紋様の書かれた御札が四枚。二言ほど呪を紡ぐと、天に向かって放り投げる。

 御札は炎に包まれたかと思うと、一瞬空中で静止し、炎の弾となって紫道へ一直線に向かってくる!

「舐めるなよ!」

 紫道は声とともに、炎の弾を身軽にかわし、よけきれないと判断した一発に向かい、太刀を下から上へと振り上げて切り払う。

 ぼしゅっ。

 切り払われた炎の弾は、空中で四散、霧消する。

「むっ……符術の炎を刀で切り払うなど……」

 天幻は動揺の声を上げる。符術の炎を、普通の太刀で切り払っても無駄なことは紫道も知っている。

「こいつは、追捕使の長官から下賜されたちょっとした銘刀に、符術好きな自称俺の嫁がちょっとした細工を施したシロモノだ。そんじょそこらの太刀とはひと味違うぜ」

 紫道が油断なく八相に構える、さほど反りが深くない太刀の刀身には、びっしりと真言が書き込まれ、鍔にも真言と魔を祓う五芒星が彫り込まれている。

「邪気を払う退魔の真言を入れた太刀か。面白い仕掛けだが……」

 天幻の言葉を遮らせたのは紫道ではなく、通りの奥から紫道の頭上を越えて飛来する二つの炎の弾!

「ちっ!」

 再び左手に、今度は御札を二枚取り出すと、慌てて空中に放り投げる。

 生まれた炎の弾は、天幻に向かってくる炎の弾を迎撃、空中で炎の華が咲いた。

「紫道様!」

 通りの奥から駆けてくるのは、藍璃と見慣れぬ男女一組。

「……どうやら我の不利のようだ。ここは退かせてもらうが、この決着は必ず」

 天幻は悔しさを隠しもせず言い放つと、風のような速さで駆けてゆく。とても人の足では追いつけない。

「紫道様、ご無事でしたか」

「……ああ、おかげで助かった藍璃。ところで、そちらは?」

 見慣れぬ男女一組を目で指すと、萌葱もえぎ色の上等な生地の小袖袴をまとった少女の方が一礼する。

「蘇芳山家の長女、蘇芳山千歳すおうざんちとせと申します」

 青藤色の狩衣をまとった、二十歳過ぎぐらいの男性の方も続けて一礼。

「千歳様にお仕えする式神、木の吉将青龍せいりゅう春樹堂月白しゅんじゅどうげっぱくと申します。

 金の吉将の永翔雲藍璃殿から、事情は聞き及びました」

 見た目以上に穏やかな様子は、紫道にはまるで学者のように見えた。

「紫苑寺様のお屋敷へ向かう、って千歳様が言うから向かっていたんだけど、途中で……」

「現れたのか 藍璃が見たという黒い鬼面の男が」

 紫道は藍璃の両肩をつかんで問いかける。

「ううん、あいつとは別口……月白さんのおかげで、何とか切り抜けたんだけど」

 藍璃の話を引き取るように、千歳が一歩進み出る。

「割ってしまったのですが……藤香にくわえさせたという長頸瓶は、これではないかと」

 千歳は懐から、須恵器の破片を取りだして紫道に見せる。首の部分は粉砕してしまったようだが、胴の部分らしき文字が書かれた部位は、それなりに大きな破片となって残っていた。

「とりあえず、この須恵器の出所を調べれば、何か判ってくるでしょう」


三之章(1)

 活気に満ちあふれた老若男女のにぎやかな声は、平穏の証拠でもあろうが、今の紫道しど藍璃あいりにとっては、どうにも耳障りに聞こえる。
「んー……見たことないねぇ」
 露店の焼物売りのおっちゃんは、両手で掲げるようにして破片を見ながら、唸るように言う。
 千歳ちとせ達が手に入れた、須恵器すえきの破片の出所を調べるため、紫道は藍璃を連れて露店市の焼物売りを行脚あんぎゃしている最中である。
 茶屋や居酒屋を除けば、都で決まった場所にいつも開いている店などない。飲食物は屋台が出て売っていることも多いが、食料品や簡単な日用品などは、行商人が職人から仕入れて売り歩くのがほとんど。
 衣類に雑貨や刃物などは、決まった日にあちこちで開かれる露店市で買う場合が多く、焼物なんかはその典型。
「そうかい。忙しいところ邪魔したね」
 紫道は焼物売りのおっちゃんから、須恵器の破片を返してもらい立ち上がると、歩く隙間もないほど人に溢れた大通りの中を、さっさと次の露店へ向けて移動を始める。
「ところで紫道様ぁ」
「何だよ藍璃」
 足早に歩きつつも、藍璃は不平の声を上げる。
「寄る先々の店で、何か買うこともないと思うんだけど」
 藍璃が右腕に抱える小さな麻袋は、口から見えんばかりのお猪口ちょこやら徳利とっくりやら湯飲みやらで溢れ、がちゃがちゃ言わせている。ちなみに紫道は手ぶら。
「都で焼物に詳しいのは、何といっても見る目の利いた露店市の商人だからな。
 大抵、仕入れの関係から職人の住む場所とか、どの職人がどんな焼物をつくってるかとかは、頭に入ってる連中だ。
 もっとも露店の連中は、タダでいいことは教えてくれないからな。金を掴ませるか、売り物を褒めながら買ってやるのが一番確実なのさ」
「ふぅん……そういうものなんだねぇ」
 藤香とうかの式神らしく何かにつけて物知りな藍璃だが、紫道の答えに対し、感心したように相づちを打つ。
「そういえば、こうやって紫道様と買い物するのは初めてだねぇ」
 藍璃は、さっきの不平はどこへやら、少し弾んだ声を上げた。がちゃり、と麻袋から音が鳴る。
「それもそうか……ま、藍璃は藤香の式神だからな。俺と藤香が買い物中なら、お役ご免にもなるだろうよ」
 紫道はあっけらかんと言いつつ、視線を動かして焼物の露店を探している。
「つまり邪魔者じゃん」
 藍璃は頬をぷっ、と膨らませる。紫道は不思議そうな表情をして藍璃を見る。
「だろ? どこをどう見たって」
 それを聞いて藍璃は、何か言いたそうに口を開きかけるが、唇をすぼませて口を尖らせると、うつむき加減になりに戻り黙ってしまった。
 どこで気分を損ねたのか判りかねた紫道であったが、とりあえず慌てて藍璃の機嫌を取ろうとする。
「これ終わったら、何か食いたいものを好きなだけ食わせてやるから、もうちょっと我慢してくれ、な?」
 藍璃は顔を上げると、何か訴えるような視線を一瞬紫道に送るが、ゆっくりと表情を崩すと、首を縦に振る。
「……よし、そうと決まれば、さくさく露店当たってくぞ。お次はあそこだ、いくぞ藍璃」
「りょーかいだよ」
 愛想笑いを作って、無造作に売り物を並べてるおばちゃんの店へと接近する二人。
 しかし日が傾き、露店を回り尽くして藍璃の抱える麻袋が二つになっても、謎の須恵器の破片について、見たことのある者は見つからなかった。
 紫道にとっては、月俸の三割が使い道の少ない焼物に化けるし、帰りに食べた夕食が屋台のイナリ寿司数個だけだったことに、藍璃がマジ切れしてぶーたれるし、トドメのオマケに肝心の手がかりは何もなしと、散々な一日になったのだった。

 


 埃や塵というのは、何をせずとも自然に積もっていくのが、未だに不思議で仕方がない。
 千歳は、古書が立てる得体の知れない埃や塵に包まれながら、そのことをしみじみと噛み締めていた。
「ごほっ……んもぅ、年の瀬には一応掃除には来ていますのに」
 上品な悪態をつきながらも、灰色に染まった綿布めんぷを使い、手に取った古書の埃を軽く払うと、おもむろに中をめくりはじめる。
 古記録に何か手がかりがないかと思った千歳が来ているのは、都の外れにある蘇芳山家の別邸である。
 別邸、とは言っても別荘の類ではない。元々はこの別邸こそ、先祖代々から受け継がれた蘇芳山家の本邸だったのだが、都の中心からあまりに離れている不便から、千歳の曽祖父そうそふの代に今の本邸へと移り住んだのである。
 空に浮いている朱鳥あけみとりの都は、どこへ行っても四季や寒暖は同じな上、風流というよりは寂れた感がある地区にあるため、別邸として使うにはさほど魅力もない。今や蘇芳山家の倉庫代わりになっているのが実際だった。
 常に住んでいる使用人もおらず、年の瀬に蘇芳山家の者が総出で大掃除へと出かけることが、別邸を訪れる唯一の機会となっている始末である。
「もう少し整理しましょうよぉ、千歳様ぁ」
 情けない少年の声は、千歳の背中側から聞こえてくる。
伊織いおり君、あなた御書所ごしょどころにいるからこういう古書には強いんでしょう? 泣き言いわないで」
「だって、御書所みたいに整理整頓されてるわけじゃないんだもん。無茶言わないでよぅ」
 半泣きになりそうな少年は、千歳より年齢は少し下ぐらいだろうか。胡桃くるみ色の狩衣は無紋で生地も安っぽいが、太糸を用いた縫製はいかにも丈夫そうであり、いわゆる作業服なのだろう。千歳とさほど変わらない背丈と線の細さは、少し離れたところで作業している月白に比べるといかにも頼りないが、年齢相応な少年の体格といえなくもない。
 知的な顔立ちは、長兄の公形と似た面影がある紫苑寺伊織しおんじいおりは、しかしふた回りほど年上の長兄はじめ数人の兄姉とは違い、裏表がなく正直な性格のいい子、というのが千歳の評。 
 少々頼りないが、千歳にとって藤香とともに数少ない、式神使いの家での仲のいい友達である。
「とはいえ千歳様、これだけの書物の中から、須恵器のことを探し出すのは、少々骨折りですよ」
 月白は、やはり灰色に汚れた綿布で思わず顔を軽く拭ってしまい、しまったという表情で顔をしかめる。
 広間を見渡すと、胸の高さまで山積みされた書籍の山が、三十畳はある広間の七割方を埋め尽くしている。とても一日二日で全部を調べることは無理だろう。
「……あれ?」
 思わず出かけた千歳の溜息を止めたのは、膝立ちになりながら古書を食い入るように見ていた、伊織のさして大きくない声。
「どうしたの?」
「うん、この古書にある図柄、探してる長頸瓶のものに似てる気がするんだけど……ほら、ここ」
 伊織の左後ろに来て覗き込むようにする千歳に、伊織は見えるように左手に持った古書を動かしてから、右手で問題の部分に指を差して示す。
 そこには、長頸瓶の線画らしきものが描かれており、手元にある須恵器の破片に彫られた文字と似ているような……気はするのだが。
「こんなぼろぼろじゃ、どうしようもないわね」
 そう。
 伊織が手に持った古書は色褪せが激しい上、紙魚しみやら死番虫しばんむしにあちこち喰われまくっていた。到底まともに読める状態ではない。
「そうですねぇ、まめに樟脳しょうのうとかを置いて虫が寄らないようにしないと……そもそも、これ相当に古い紙のようだし」
「何とかならないかしら?」
 不安そうに伊織の顔を覗き込む千歳。女の子特有の甘いような匂いが伊織の鼻をつく。
 年下の伊織にとって、千歳から頼られるように見つめられるのは初めてだった。
「……この書物の奥付は無事みたいだから、題名とかも分かるし、御書所にある蔵書目録を調べて、同じものがないか探してみる」
 伊織は、気を入れるようにひとつ呼吸すると、小さく頷く。
「僕に任せといて、千歳様」

 


「こんな価値のなさそうな須恵器、そりゃ誰も知らんじゃろのぉ」
 須恵器の破片をかざして見ながら、追捕使の長官はやる気がなさそうに言った。
 八方塞がりになった紫道は、結局のところ追捕使の長官の知恵を借りようと思ったのだが、それがこの具合である。
 報告書は逐一提出しているので、事情はよく把握しているはずなのだが。
「価値があるとかないとか、そういう問題でもなさそうに思えますが……」
 いくら大して期待してなかったとはいえ、このあまりの反応に、紫道はたまらず声を上げる。
「んー、こりゃ完品でもぜに五十枚にもならぬよのぉ、たぶん」
 どうやら聞いてさえいないらしい。
「あの……」
「どうにも分からん。こりゃ紫道」
 紫道の声を遮るように、追捕使の長官は須恵器の破片をひょい、と紫道に向かって投げ返す。
「あわわわ」
 須恵器の破片を、あわてて両手で掴む紫道。落としたら割れかねない……が。
焼成しょうせい温度は、おそらく普通の須恵器よりもかなり高いわ。畳の上に落としたぐらいで割れはせん。今使われている都の窯で、焼かれたシロモノではなさそうじゃのぉ」
 追捕使の長官の、意外とマトモっぽい返答に、紫道は抗議の声を上げるのも忘れてキョトンとする。
「こういうものはな、露天商よりも古物に凝った隠居老人に聞くのが一番ぞよ。
 前の前に弾正台だんじょうだいの長官をやっておった方が、昔から古めかしい焼物に凝っておったわ。一筆したためる故、聞きにいくがよかろう」
 言うや否や、脇にどけてあった文机を自分の前まで引っ張ってくると、やる気の火縄に火がついたかのような、恐るべき手際の良さで、あれよあれよという間に紹介状を一筆したためてしまった。
「まあ心配はしておらんが」
 包み紙にくるんだ紹介状を、紫道に手渡しながら、追捕使の長官はやや声を潜めて紫道に言う。
「くれぐれも、追捕使の体たらくぶりとかを言うてはならぬぞよ」
 ……紫道がこれから聞きに行く老人が、昔いたという弾正台とは、役人の働きぶりを密かに調べて、みかどにチクる部署であった。

 


「むむぅ……この焼き具合、色、そして彫られた文字」
 須恵器の破片をじっくり見ながら、手入れされた白いあご髭がどうにも目立つ老人は、感心したように唸り、またしばらく黙り込む。
 追捕使の長官からの紹介状を持って、日暮れ前に指示された屋敷へと足を運んだ紫道であったが、紹介状を渡すと、あっさりと奥の間へと通された。
 案内してくれた家人の話によると、追捕使の長官と老人とは、呑兵衛のんべえ仲間として個人的な付き合いが結構あるとか。
「こいつのことかもしれんの」
 老人はすっと立ち上がると、部屋の隅にある書棚から、一冊の書物を取り出す。再び座布団の上へと戻ると、書物の中身を何度かめくり、ある箇所を紫道に示した。
「……これは」
 示されていたのは、長頸瓶の線画であったが、破片の部分に彫られた文字とよく似ている。完品を見ていない紫道であったが、藍璃の聞いたものと雰囲気は似ているような気がしなくもない。
 なお、追捕使の役所に出仕するということで、藍璃は桔梗林家で待機中。まだ先日の件を根にもっているのか、約束を反故にした罰として、今月中に鯛の尾頭付きをオゴらされることを約束させられた。どうしたものやら。
 少しの間、財布の中身を心配していた紫道だったが、老人の言葉によって現実に引き戻される。
「この書物は、大地が朱華はねずの水に覆われ、都が鳥の飛ぶ高さへと浮く前に書かれたものらしい。内容については察しがつくかな?」
「いえ……皆目見当もつきません」
 いきなり、長頸瓶だけが描かれている箇所を示されただけで、内容が分かろうはずもない。
「こいつはな、呪具を使った禁忌きんきの術について解説されたものらしい。
 つまりこの長頸瓶は、それに使う呪具ということかも知れん。むろん、わしも現物の破片は初めて見るがな」
 老人はなぜか声を潜めて言う。
「どのような術に使われたものでしょか?」
 紫道も老人に合わせて声を潜める。人払いをしてあるので、別に声を潜める必要もないのだが、人間がヤバい内容に触れてしまった時の、本能というやつだろう。
 符術でさえ、奇妙な妖術として忌み嫌う人が大半なのだ。藤香との付き合いで、符術を多少なりとも見ている紫道でも、人の手に余る術ではと心配することもあるのだから、禁忌の術ともなれば推して知るべし、である。
「これは……封魂ふうこんの術のようだな。人間の口から魂を吸い出し、この真言を彫った長頸瓶に魂を封じ込める、とあるな」
 紫道は思わず息を呑む。藍璃が言っていた状況そのままではないか。
「魂を戻すには、再び口から戻すとある。単にくわえさせるだけのようじゃな。ただし、魂が入った長頸瓶が割れれば、その魂は天に召される、とも書いてある」
 長頸瓶の書いてある本紙をひとつめくり、老人はその箇所をすらすらと解説する。そしてその内容を聞いて、紫道は血相を変えた。
「なら、戻せるのか 元に戻せるんだな」
 紫道は身を乗り出して老人の肩を掴むと、すぐにあっ、と声を上げて手を引っ込める。
「も、申しわけございませぬ……つい」
 平伏する紫道。老人は先程と少しも様子を変えることはなく、頭を上げるように促す。
「……若いの、何か訳ありのようじゃな。深くは聞かぬが」
 禁忌の術が絡んだことである。老人にとっては聞かぬというより、聞きたくないという方が正直なところだった。追捕使の長官なら事情を知ってもいようが、ああ見えて酒の勢いで事情を語ってくれるほど、口の軽い男ではない。
「ところで、その書物は何者が記したものでしょう?」
「うむ、奧付にでも書いてあるはずじゃがな。どれどれ」
 老人は、書物の本紙を一気に最後のところまでもっていく。
「発行は天鳥寺てんちょうじ……都では聞かぬ寺の名だな。都の外の地にあったのであろう。編者は」
 老人の声が一瞬止まる。そこに記されていたのは、紫道も聞いたことがある名字が記されていた。



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