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「ご無事でよかったです、千歳ちとせ様」
 伊織いおりは、自分でてたお茶を飲みながら、嬉しそうに饅頭を頬張る。符術≪広目療≫こうもくりょうのおかげか、先日負った怪我はすっかり良くなっている。
「伊織君もお怪我が治ったみたいで安心したわ……本当に美味しいわねこの饅頭、ありがとう」
 正面に座っている千歳も、同じように自分で点てたお茶とともに、饅頭をはくりと一口。
 饅頭といっても、安い屋台の鬼饅頭などではない。白い皮に漉し餡が入った、貴族しか食にできない上等な饅頭である。伊織の実兄・公形くぎょうから、蘇芳山すおうざん家に行く伊織へ持たされたものだったが、蘇芳山家の正室様からは千歳への贈り物と勘違いされたらしく、二人で食する幸運を得ることに相成った。
「んぐっ、こんな上等な饅頭、僕も食べたことないですよ……本当にお茶に合うなあ」
「それにしても伊織君、あなたもそろそろ式神を持ってもいい年頃よね」
 話しながらも、千歳は饅頭を手に取る手を休めない。
「そうですよねぇ、でも千歳様の月白げっぱくさんみたいに、上手に扱えるか心配で……」
 自信なさげに、声が萎んでいく伊織。
「伊織君」
 千歳はようやく饅頭を取る手を休め、伊織の方へと少し鋭い口調で声を投げかける。一瞬考えるように目を瞑ったがすぐに見開き、伊織を真っ直ぐ見つめる。
「……私も、いつまでも月白に頼りっぱなしなわけにはいかないわ。早く、あなたも私が頼れるような男の子になってちょうだい」

 


 朱鳥あけみとりの都は、いつにも増してよく晴れていた。
 遠くからは、人々が行き交う声がしとみを通しても聞こえてくる。都の活気もいつも以上のようである。
 だが紫道しどの気持ちは、都の空ほど晴れ渡っておらず、都の人々ほど元気に満ちたものではなかった。
 正座して佇むその前には、暗黒の眠りについている藤香とうか藤香の姿。枕元には栓をしたままの長頸瓶。
 確かに書物には、長頸瓶をくわえさせれば魂は肉体に戻るとあったが、それが本当であるという確証はない。
 心臓の音が聞こえてくるような気がする。もし、もし藤香が目を覚まさなかったら……
 そう考え、紫道は頭を横に強く振る。そして、藤香の右手に藍璃の硬玉を祈るような気持ちで握らせた。
 ……考えるな、考えるな。
 紫道は自分の心に言い聞かせながら、ゆっくりと右手で長頸瓶を手に取る。
 桜色の柔らかい唇に左手の指をかけ、栓をしたまま長頸瓶を口の中へとくわえさせる。そのまま指は口の中へ入れ、栓にかける。
 目を瞑る。そして、人差し指と中指で栓を挟み、力を込める。
 一瞬鈍い手応えがあり、すぐ緩くなる。即座に指を藤香の口から引っ張り出す。
 その途端、藤香の身体はピクン、ピクンと痙攣を起こしはじめる。
「藤香……!」
 紫道は藤香の両肩を抱いて前かがみになり、その震える顔をじっと見つめる。しばらくすると痙攣は止まった。
 長頸瓶を口から抜き取る。まだ藤香は目を覚まさない。紫道には果てしなく長く、まるで刻が止まったように感じた。
 ぴくん。
 膝に、何かが脈打つような感覚。紫道の心臓がとくん、と大きくはねる。前のめりの姿勢になっている膝は、藤香の右手と接していた。
 期待と、まだわずかに残る不安。しかしその不安は、目の前の少女の顔に、二つの光る黒点が少しずつ生まれてくる度に、かき消えていく。まるで、覆い尽くしていた夜の闇が、地平線を昇る朝日の光に駆逐されていくように。
 表情が崩れるのが自分でも分かる。何とか涙は堪えたいと思うのだが、緩みを止めない涙腺は、いかなる難敵よりも手強かった。
「おかえり」
 藤香は、見開いていた瞳をうっすらと細める。
「ただいま」
 その真っ直ぐな瞳に、光るものが溢れ出していた。

 

 

朱鳥あけみとり神楽かぐら 完)