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四之章

四之章(1)

 今宵のように月のない夜には、人をあやめる妖怪が出る。
 なぜなら、光のかせを失った人間が、普段は潜めている闇の心を解き放とうとするから……つまり、妖怪とは人間の持つ闇の心なのである、と。
 幼い頃は母に、長じてからは藤香とうかにも言われたが、どうやら己が相手するのは本当の妖怪らしい、と打ち明ければ果たして藤香は何と言うであろう。
 しかし彼女は、笑うことも、怒ることも、泣くこともできない、夢さえ見ぬであろう暗黒の世界の中にいる。紫道しどにとっても、それは暗黒の世界。
 しかし、紫道にはまだ暗黒の世界から戻る、つまり藤香を連れ戻すことが出来る力があるはずと、自らに言い聞かせる。
 言い聞かせるほど、心の隅に一抹の不安が生じるが、紫道が弱音を吐いたとき藤香がいつも見せる、えもいわれぬ微笑がふと頭の中に浮かぶ。くすぶる不安は、泡のように消え失せた。
 ……見てろよ、黒い鬼面の阿呆野郎。今の俺は、負ける気はさらさらしないぜ。
「かの須恵器すえき長頸瓶ちょうけいへいは、魂を抜き取り封じるための呪具であったそうだ。黒い鬼面の者から、長頸瓶を無事に取り戻し藤香にくわえさせれば、藤香を元に戻せるとある。問題は、その術と呪具について記された書物を書いた者の名が……御家の開祖、蘇芳山美音すおうざんよしねであるということだ」
 紫道は、息継ぎもなくまくし立てるように、一気に状況を説明すると、一呼吸を置く。
「説明していただこうか」
 紫道の表情は硬く、その発する声は吹雪のそれであった。
「私も、自ら調べたことをお話しいたしたく思っておりました」
 荏胡麻えごま油の薄暗い行灯に照らされながら、千歳ちとせは正座して対面する紫道に、静かな様子で応える。
 今二人がいるのは、蘇芳山家の別邸である。千歳が紫道の家に文を出し、別邸の方で話しをするように持ちかけたのである。本邸は鬼面の男や天幻に知られているだろう、という千歳の判断だった。
「おそらく、紫道様が御覧になったのは、こちらの書ではないかと思います」
 千歳は、一冊の書物を畳の上に置き、すっ、と滑らせるように差し出した。伊織が御書所で書写したその写本を、紫道は無造作に取り上げると何枚かめくり、また閉じて畳の上に戻す。
「この書物に相違ない。私に見せていただいた持ち主はいえぬが、な」
「最後の方になりますが、重大な禁忌の術についての説明がありました。御覧になっておりますか?」
 老人とともに、紫道もその書物の内容にはすべて目を通したが、とりわけ腰を抜かすようなものはなかったはずである。
 畳の上から千歳は書物を取り上げると、ある箇所を開いて指し示した。
「……こんなものは見ていないな、もしや」
 紫道が唸るように言う。思い起こせば、綺麗に切り取られていた部分があったことを思い出す。老人は「先代からある書だが、わしの手元にあった時分からこの状態じゃった」と言っていたのだが。
「まさに極めつけともいうべき禁忌きんきの術です。あまりの恐ろしさに、紫道様が御覧になった書では、意図的に切り取って処分してあったのかもしれません」
 続けて、千歳がその極めつけの禁忌の術の内容を読み上げる。それは、朱鳥の都にとってまさに禁忌の中の禁忌といえるものだった。
「式神≪紅飛鳥≫べにあすかは、一度生みし後は玉に戻すすべはなきものといえども、唯一の術として、≪紅飛鳥≫べにあすかを生みし式神使いの家に連なる者の魂を捧げば、式神≪紅飛鳥≫べにあすかを滅させることができよう。
 ……もし本当だとすれば、朱鳥あけみとりの都は朱華はねずの水に覆われた大地へと堕ち、我々は為す術もなく滅ぶことになります」
 しばしの間生まれた沈黙の空間では、荏胡麻油の古びた行灯が、ジジジ、と焦げる音を立てるのみ。
 伊織いおりが寝付けないほどの焦燥に駆られた、その因となった箇所でもあったが、そのようなことを紫道が知るはずもない。あまりの途方もないヨタ話ともいうべき内容に、紫道は返すべき言葉も見つからなかった。
 しかし、いけしゃあしゃあと説明する千歳に対し、紫道は静かな怒りがこみ上げて。
 ガッ!
 気づいた時には、身を乗り出して千歳の両肩を掴んで仰向けに押し倒すと、千歳の腰の上に跨りながら、左手で千歳の胸元を掴み、右手で腰帯に差してあった短刀を抜いて突き刺さんと構えていた。
「千歳殿の先祖の所行で、藤香は倒れたのだぞ あるいは、すべては千歳殿の差し金か」
 静かな怒りの口調で迫る紫道に対し、千歳は真っ直ぐに見つめて答える。
「私の差し金なら、私が襲われることはないでしょう」
「自演であろう。藍璃を消すためか」
「違います!」
 千歳も鋭い口調で言い返すと、再び静かな、諭すような口調に戻る。
「長女とはいえ、兄妹がいる私を殺めても、おそらく根本的な解決にはなりますまい。
 ですが、私の命を奪うことで、あるいは私の娘の証を奪うことで、紫道様のお気が済むというのでしたら、私は謹んでお受けしましょう。
 ただし、これだけは覚えておいてくださいませ。たとえ開祖であったとしても、親友の藤香や伊織君を、あのような目に遭わせた者を、私は決して許したりしないことを。
 そして、藤香が紫道様のことを話すとき、藤香は夢の中にいるような様子であったことを……」
 意を決した千歳の剣幕に、紫道は無言で動きを止めたかと思うと、ゆっくりと千歳から体を離し、短刀を鞘に収めた。
「どうやら、怒りに我を忘れて錯乱したようだ。
 蘇芳山美音の術を使う者が下手人であるというだけで、蘇芳山家が黒幕とは限らないのだからな。
 朱鳥の都を地に落とすことを企むとなると、相当な大物に相違ない。いずれにせよ、藤香の魂が封じられた長頸瓶を取り返す手だてを考えなけ」
 紫道は突然言葉を切ると、傍らにあった太刀を抜きはなってしとみを切り裂き、同時に左手で器用に短刀を抜いて、切り落とされた蔀の向こうへと投げ放つ!
 キィン!
 鋼鉄のぶつかる音が、蘇芳山の屋敷に鳴る。
「あなたは……」
風剣雅天幻ふうけんがてんげん……!」
 庭先に立つのは、翁の神楽面をかぶった漆黒の修験者、風剣雅天幻であった。

 


「蘇芳山家の長女、蘇芳山千歳殿の魂を拝領つかまつらんと参上した。
 ただし、私では封魂ふうこんの術は使えぬ故、我が主の元へ御同行いただくという形になるが」
 打ち払われ、地面に力なく落ちていた短刀を、天幻は拾い上げて二つにへし折り、放り捨てる。体はわずかに濡れているようにも見えるが、紫道にとってそれは、ひとまずどうでもいいことだった。
「捜す手間が省けて助かったよ、風剣雅天幻。
 俺は日に日にご機嫌が斜めでな。悪いが今宵が貴様の最期と知れ」
 まるっきし台詞回しが悪党だな、と思い、紫道は心の中で苦笑する。
「我の声に応えて出でよ、木の吉将にして平穏の賢者、春樹堂月白しゅんじゅどうげっぱく!」
 そして、天幻の口上の隙に呪を唱えていた千歳は、月白を呼び出した。
 空気が揺らぎ、光の帯が集まり、具現化したそれは、烏帽子えぼし青藤あおふじ色の狩衣を纏った賢者の姿。
藍璃あいり、来い!」
「さっきから側にいるってば紫道様」
 声は紫道の左手から。藍璃はいつの間にか紫道の傍らに佇んでいた。
「ってどこからわいて出た」
 藍璃は、見張りも兼ねて古びた門扉に待機させていたはずなのだが……側にいたことには全く気づかなかった。
「千歳様からもらった鬼饅頭もぜーんぶ食べちゃったし、門で立ってるの退屈だったんだもん。隣の部屋でこっそりと……紫道様が千歳様を押し倒して、とても健全とはいえない展開になりかけていたあたりから」
 言いつつ、藍璃は袖から御札を何枚も取り出し左手に構えると、右手には短刀を抜いて握りしめる。こちらも戦闘準備は整った。
「過日の決着をつけようぞ、緋衣紫道!」
 それが戦いの合図だったのか、天幻は直刀を抜き逆袈裟に一閃させる。
 ぶぅわ!
 刹那、紫道の周囲に一陣の烈風が巻き起こった。
「鋼鉄も切り裂く風の刃、符術≪持国刃≫じこくじんも、読んでさえいれば同じ持国刃で相殺するのはたやすいね」
 逆手に持った短刀を、顔の前に構えた姿勢で言い放つ藍璃。短刀の刃には符術≪持国刃≫の御札が一枚突き刺さっている。
 距離からして、天幻が≪持国刃≫を使ってこちらの出鼻を挫いてくる、と読んだ藍璃の読み勝ちである。烈風は、二つの風の刃がぶつかり、弾けることで生まれたものだった。
 紫道は、真っ二つにされる一瞬前だったかと思いヒヤッとすると同時に、太刀を握る手に汗がにじんでくる。悔しいが、実力では向こうが一枚も二枚も上手だ。
 両手に御札を持ち、千歳は静かな口調で言う。
「風剣雅天幻、貴方も調べはついています。貴方は、蓬樹陽姫弥ほうじゅようきみとともに当家の古記録にその名を刻む、六合りくごうの化身」
 千歳の言葉を引き継ぐようにして、月白が続ける。畏れを込めて。
「……風剣雅天幻は、蘇芳山飛鳥あすか・美音夫妻のみが使役し得たとされる最強級の式神……木の吉将、六合の化身です」
「ただの式神じゃないよ、あれは。かなりの力と、凶将きょうしょう以上の邪悪な気配を感じる」
 藍璃は唸るように言う。少なくとも藍璃よりは地力が上なのかも知れない。
 現に、藍璃は御札と短刀とを組み合わせることで≪持国刃≫を発動させたが、天幻は御札なしで同じ≪持国刃≫を発動してみせる、という符術の常識からすれば離れ業をやってのけている。
「だがな、藍璃。
 こいつをもってして、単なる使い走りか露払いでしかないということだぜ」
 紫道が不敵な調子で言うが、しかし余裕は感じられなかった。使い走りということはつまり、黒い鬼面の者は、天幻よりさらに強い可能性もあるのだ。
「いきますよ」
 千歳は凛とした声を発すると、両手に持った八枚の御札を宙に放り投げ、二言ほど呪を紡ぐ。御札は八つの炎の弾となって、天幻に襲いかかる。
 しかし、剛弓から放った矢にも比肩する速さで飛来する、炎の弾を前にしてもなお、天幻は一歩も動かず待ち受ける。
喝破かっぱ!」
 がごうんっ!
 天幻が大声で一喝の声を上げた途端、八つの炎の弾は天幻に直撃する手前ですべて爆発、四散した!
「まさか、声だけで符術≪毘沙門炎≫びしゃもんえんを打ち消すなんて……」
 千歳の声は動揺からか、ややかすれていた。
「人間の繰り出す符術など……その気になれば握り潰す必要すらない」
「なら、切り捨ててやるまでだ!」
 刃を寝かせて霞に構えると、一気に紫道は天幻との間合いを詰め、心臓に向けて突きを繰り出す。
「遅い」
 人間ならば、目にも映らぬ速さと評するであろう太刀筋を、難なくかわす天幻。しかし、紫道は最小限の挙動で刀を引き、続けて天幻の喉を狙う。
「おっと」
 今度は顔を反らせてかわす天幻。しかし三度、今度は天幻の水月すいげつを狙って、一歩踏み込んだ突きを紫道は繰り出してみせる。
「ぬっ……!」
 三段突きまでは予測していなかったのか、少し焦った気配を見せる天幻だが、それもほんの一瞬のこと。背中から倒れるようにして三の突きをかわすと、そのまま両腕を地面に付き足を開脚、腕を支点にして体を大きく捻る。
「ぐあっ!」
 地面を這うように振る左脚の踵で紫道の足を払いながら、振り上げた右脚で紫道の腹を打つ天幻。紫道は、縁側の近くまで吹っ飛ばされるが、何とか踏ん張って転倒だけは免れ、腹を押さえてうずくまる。
「足下に留守番がいなかったようだな」
 皮肉を込めて言いながら、天幻は立ち上がり直刀を構えて、紫道の元へと迫る。
「緋衣殿!」
「紫道様!」
 月白は符術≪毘沙門炎≫を、藍璃は符術≪持国刃≫を繰り出して牽制けんせいを試みるが、そのいずれも天幻は体をさばいてうまくかわす。紫道はまだうずくまったまま。
 既視感。
 藍璃の脳裏に、黒い鬼面の者と戦ったときの光景が蘇る。このままでは、また……
 思うや否や、藍璃は紫道の元へ駆け出す。符術も何も用意していないが、藍璃の頭の中にそれはなかった。
「決着だ、緋衣紫道!」
 直刀を霞に構える天幻。藍璃はまだ紫道の数歩前。
「ああ、勝負だ!」
 紫道は突然顔を上げる。その目は鬼気迫るものがあったが、紫道が見た天幻の体からも鬼気が噴き出し……そして、翁面の奥にある必死の目が一瞬見えたような気がした。
「美音様っ!」
「藤香ァッ!」
 意識せず発せられた、二人の魂の声が交錯する。
 霞の構えから踏み込み、紫道の鎖骨付近を狙い直刀を突き下ろす天幻。
 うずくまった姿勢から伸び上がるようにして、寝かせた太刀を右手一本で天幻に向け突き出す紫道。
 ずんっ!
 肉に異物か埋もれる鈍い音。双方とも全霊を込めた間合いなしの攻防。
 直刀は相手の左肩を貫いて砕き……太刀は相手の肋骨を縫い左胸を貫いていた。
「ぐっ……見事……」
 言葉とともに吐血する天幻。
「しかし……その腕では」
 どっ……
 最後の言葉を言い終えることなく、天幻はカッと目を見開くと、硬直したまま仰向けになって大地に伏す。


四之章(2)

「ぐううううっ……半端なく痛え」
 紫道しどは呻きながら、半身の姿勢のまま背中から仰向けに倒れかけるところを、藍璃あいりが右側からしっかりと受け止める。
 前のめりに踏み込んだことで、動きが居着いてしまった天幻に対し、紫道は伸び上がりながら右腕につられる形で半身になったため、かろうじて正面への直撃を免れたのだった。
 攻速の差が縮まる、間合いがない距離での攻防に、万に一つの勝機を賭けた紫道の勝ちである。
「着物が血で汚れるぞ藍璃……ってまた泣くのか」
「無事で……よかったよ……」
 紫道の顔をのぞき込みながら、藍璃は微笑みながら涙を流す。
「困った奴だ……」
 しかし、そんな藍璃を紫道は初めて、ちょっぴし可愛い奴だとも思い、そして藍璃の面影に、どこか藤香の面影を感じた。藤香の小さい頃と、顔つきがどことなく似ていることに、今初めて紫道は気づいた。
「だが、ありがとな……」
 紫道もまた、うっすらと藍璃に微笑み返すのだった。
「……で、この傷は何とかなるか、藍璃」
「無理。何ともなんない」
 表情は崩さずに即答。
 そんなことまで藤香に似なくてもいいのに、と紫道は急にげんなりとした気分になる。
「見せていただけますか」
 落ち着いた声で藍璃の後ろから現れたのは月白げっぱくだった。
「治せるか?」
「ええ。幸い、命に関わる傷でもありませんので」
 月白は紫道の左手側に回ると、どくどくと血を吐き出している左肩に御札を当て、呪を二、三言唱える。
 すると、御札から煙が上がり、もうもうと蒸気のようなものを上げ始める。
「ぐううううううううっ!」
 紫道の左肩に、酸でも掛けられたような激痛が一瞬走るが、それもすぐに収まると、徐々に傷口から痛みが引いてくる。
「これでよろしいはずです」
 蒸気のようなものが収まり、月白が御札を剥がすと、傷口は綺麗に塞がっていた。砕けたはずの肩関節も全く痛みはない。試しに動かしてみると、傷を負う前と全く変わらなく動いた。
「符術≪広目療≫こうもくりょうは初めて見たよ」
 藍璃は感心したように言う。どうやら藍璃は使えないらしいが、恐らく日頃の行いにしとやかさとか思いやりとかが足りないせいだろう、と紫道は勝手に思う。
「さて、使い走りは倒したが」
 紫道はゆっくりと起きあがると、滅して体が粉末状に風化しつつある天幻を見下ろし、その胸に刺さった太刀を抜く。
「大将を何とかしないと……?」
 門の方の慌ただしい様子に、四人は一斉にそちらを向く。すると、数人の見慣れた衣服の人間が縁側に現れた。
「……長官!」
 現れたのは、追捕使ついぶしの兵数名と長官であった。片膝をつき頭を垂れる紫道。他の三人は軽く会釈。
「おお、紫道。あちこち、えらいことになっておるわ」
 いつもの緊迫感のない様子とは違い、やや焦った様子で話す。見れば、追捕使の長官は甲冑を着て鉄扇を持ち、指揮刀を腰から提げている。長官のそんな真面目な格好は、勤めて以来初めて見る。
「つい今しがた、楊梅院あせんいん家と続けて紫苑寺しおんじ家が、何者かに襲われてな」

 


『……えっ!』
 同時に驚きの声を上げる千歳と紫道。
「お主の言うた通り、御神楽みかぐらで使いよる、黒い鬼面をつけとったそうな。
 近くにいた追捕使も十人ほど駆けつけたが、さっくりさくさくと全滅したとな……」
 追捕使の長官は肩を落とす。無理もない。紫道も怒りがこみ上げてくる。
「それで、両家の方々は」
 千歳は追捕使の長官に問いただす。その顔は半ば青ざめていた。
「あかん、あかん。忠持ただもち殿、公形くぎょう殿の御両名とも意識を失ってぐったりじゃわ。我が兵の他に大した怪我人もなかったのは幸いだが、気休めにもならぬ。
 命からがら逃れた兵から事態を聞いてな、これで残るは蘇芳山家だけよ。
 本邸に兵を率いて駆けつけたら、長女の千歳殿はこの別邸と聞き、少々気になってな……本邸には百名ばかり残し、手練れの者を十名ほど引き連れて、お迎えに参上した次第ということよ」
 千歳と紫道は平静な様子に戻るが、今度はすぐに渋い表情となる。つまるところ、蘇芳山以外の四家の魂は、既に黒い鬼面の者の手中にあるということを意味した。
「ところで千歳殿、この別邸に古井戸か池のようなものはございませんか?」
「古井戸か池、ですか?」
 紫道の問いかけに、千歳は小首をかしげる。
「天幻が現れたとき、わずかだが濡れていたような感じだった。ということは、水気のある場所から這いだしてきたことになる」
「あー、待て待て紫道。話が見えぬぞよ。何か掴んでおるのかえ?」
 追捕使の長官が口を挟む。確信ではないが、紫道には黒い鬼面の者は何者か判る気がしてきた。
「はっ……俄には信じていただけぬかと思われますが」
 千歳をチラリと見てから、再び追捕使の長官へと向き直り、答える。
「下手人は、風剣雅天幻を使役できる唯一の者……蘇芳山飛鳥あすかか、あるいは美音よしね
 既に死んでいるはずの年齢ながら、もはや他に心当たりが考えられませぬ」

 


 古風な寝殿造しんでんづくりの豪邸にしては珍しく、池ひとつない蘇芳山家の別邸だったが、敷地の奧まった一角、防風林に隠れるようにして、いかにも意味深な古井戸だけは何故かあった。
 石造りの井戸の口の上には、退魔の真言をびっしり彫った、やたら分厚い紫檀したんの板でしっかりフタをし、その上に井戸の口よりやや大きい平岩を乗せ、周囲を盛土で隠すという徹底ぶり。これを意味深といわずして何と言おうか。
「私も知りませんでした。別邸にこんなものがあったなんて……」
 心底驚く千歳だが、全員が駆けつけたときには、平岩は真っ二つに割れ、邪悪を寄せ付けぬはずの紫檀の板の中心には、人が通れるほどの穴が空いていた。
「大当たりのようだな」
 紫道は大してうれしくもなさそうに言う。
「これ、降りるの?」
 藍璃はげんなりした様子。底があるのかさえ怪しい気がしなくもないから、無理もないことだろう。
「あー、とりあえず割れとる岩と盛土をどかさんとな。さっさとやってしまえ」
 追捕使の長官は周囲の兵に命ずると、あっという間に古井戸の周りは同じ出で立ちの人間で溢れた。
 人海戦術で一刻も経たぬうちに、岩と土は撤去され、紫檀の板に空いた穴には太い縄のハシゴが下げられる。
 長さが違うハシゴが何度か下げられては引き上げられたが、一番長いものを下げると、兵は頷いて紫檀の板に打ち込みハシゴを固定する。
「底で何かに接触したような、硬い手応えがありました。このハシゴで大丈夫かと思われます」
「ご苦労であったな」
 兵の報告に追捕使の長官は頷き、下がらせる。
「長官、ここは私と藍璃、千歳殿と月白殿の四人にて潜行したく存じます」
 紫道は長官に頭を垂れる。追捕使の長官はしばし黙考。
「……うむ、左様せい。狭き場所じゃ、大所帯は向かぬであろうし、手練れの者がひとりも都の内におらぬでは、万が一のこともある。追捕使でも一番の手練れの紫道と、事情をよく知る蘇芳山家の方に任せるほかあるまい」
 追捕使の長官は、手に持った鉄扇をパチンと鳴らしながら答える。生半可な腕前の者では黒い鬼面の者……天幻の言葉に間違いなければ蘇芳山美音……に太刀打ちできないことは、既に証明済みである。
「では、参りましょう」
 千歳に促されて、四人は縄のハシゴを降りていった。