閉じる


三之章

三之章(1)

 活気に満ちあふれた老若男女のにぎやかな声は、平穏の証拠でもあろうが、今の紫道しど藍璃あいりにとっては、どうにも耳障りに聞こえる。
「んー……見たことないねぇ」
 露店の焼物売りのおっちゃんは、両手で掲げるようにして破片を見ながら、唸るように言う。
 千歳ちとせ達が手に入れた、須恵器すえきの破片の出所を調べるため、紫道は藍璃を連れて露店市の焼物売りを行脚あんぎゃしている最中である。
 茶屋や居酒屋を除けば、都で決まった場所にいつも開いている店などない。飲食物は屋台が出て売っていることも多いが、食料品や簡単な日用品などは、行商人が職人から仕入れて売り歩くのがほとんど。
 衣類に雑貨や刃物などは、決まった日にあちこちで開かれる露店市で買う場合が多く、焼物なんかはその典型。
「そうかい。忙しいところ邪魔したね」
 紫道は焼物売りのおっちゃんから、須恵器の破片を返してもらい立ち上がると、歩く隙間もないほど人に溢れた大通りの中を、さっさと次の露店へ向けて移動を始める。
「ところで紫道様ぁ」
「何だよ藍璃」
 足早に歩きつつも、藍璃は不平の声を上げる。
「寄る先々の店で、何か買うこともないと思うんだけど」
 藍璃が右腕に抱える小さな麻袋は、口から見えんばかりのお猪口ちょこやら徳利とっくりやら湯飲みやらで溢れ、がちゃがちゃ言わせている。ちなみに紫道は手ぶら。
「都で焼物に詳しいのは、何といっても見る目の利いた露店市の商人だからな。
 大抵、仕入れの関係から職人の住む場所とか、どの職人がどんな焼物をつくってるかとかは、頭に入ってる連中だ。
 もっとも露店の連中は、タダでいいことは教えてくれないからな。金を掴ませるか、売り物を褒めながら買ってやるのが一番確実なのさ」
「ふぅん……そういうものなんだねぇ」
 藤香とうかの式神らしく何かにつけて物知りな藍璃だが、紫道の答えに対し、感心したように相づちを打つ。
「そういえば、こうやって紫道様と買い物するのは初めてだねぇ」
 藍璃は、さっきの不平はどこへやら、少し弾んだ声を上げた。がちゃり、と麻袋から音が鳴る。
「それもそうか……ま、藍璃は藤香の式神だからな。俺と藤香が買い物中なら、お役ご免にもなるだろうよ」
 紫道はあっけらかんと言いつつ、視線を動かして焼物の露店を探している。
「つまり邪魔者じゃん」
 藍璃は頬をぷっ、と膨らませる。紫道は不思議そうな表情をして藍璃を見る。
「だろ? どこをどう見たって」
 それを聞いて藍璃は、何か言いたそうに口を開きかけるが、唇をすぼませて口を尖らせると、うつむき加減になりに戻り黙ってしまった。
 どこで気分を損ねたのか判りかねた紫道であったが、とりあえず慌てて藍璃の機嫌を取ろうとする。
「これ終わったら、何か食いたいものを好きなだけ食わせてやるから、もうちょっと我慢してくれ、な?」
 藍璃は顔を上げると、何か訴えるような視線を一瞬紫道に送るが、ゆっくりと表情を崩すと、首を縦に振る。
「……よし、そうと決まれば、さくさく露店当たってくぞ。お次はあそこだ、いくぞ藍璃」
「りょーかいだよ」
 愛想笑いを作って、無造作に売り物を並べてるおばちゃんの店へと接近する二人。
 しかし日が傾き、露店を回り尽くして藍璃の抱える麻袋が二つになっても、謎の須恵器の破片について、見たことのある者は見つからなかった。
 紫道にとっては、月俸の三割が使い道の少ない焼物に化けるし、帰りに食べた夕食が屋台のイナリ寿司数個だけだったことに、藍璃がマジ切れしてぶーたれるし、トドメのオマケに肝心の手がかりは何もなしと、散々な一日になったのだった。

 


 埃や塵というのは、何をせずとも自然に積もっていくのが、未だに不思議で仕方がない。
 千歳は、古書が立てる得体の知れない埃や塵に包まれながら、そのことをしみじみと噛み締めていた。
「ごほっ……んもぅ、年の瀬には一応掃除には来ていますのに」
 上品な悪態をつきながらも、灰色に染まった綿布めんぷを使い、手に取った古書の埃を軽く払うと、おもむろに中をめくりはじめる。
 古記録に何か手がかりがないかと思った千歳が来ているのは、都の外れにある蘇芳山家の別邸である。
 別邸、とは言っても別荘の類ではない。元々はこの別邸こそ、先祖代々から受け継がれた蘇芳山家の本邸だったのだが、都の中心からあまりに離れている不便から、千歳の曽祖父そうそふの代に今の本邸へと移り住んだのである。
 空に浮いている朱鳥あけみとりの都は、どこへ行っても四季や寒暖は同じな上、風流というよりは寂れた感がある地区にあるため、別邸として使うにはさほど魅力もない。今や蘇芳山家の倉庫代わりになっているのが実際だった。
 常に住んでいる使用人もおらず、年の瀬に蘇芳山家の者が総出で大掃除へと出かけることが、別邸を訪れる唯一の機会となっている始末である。
「もう少し整理しましょうよぉ、千歳様ぁ」
 情けない少年の声は、千歳の背中側から聞こえてくる。
伊織いおり君、あなた御書所ごしょどころにいるからこういう古書には強いんでしょう? 泣き言いわないで」
「だって、御書所みたいに整理整頓されてるわけじゃないんだもん。無茶言わないでよぅ」
 半泣きになりそうな少年は、千歳より年齢は少し下ぐらいだろうか。胡桃くるみ色の狩衣は無紋で生地も安っぽいが、太糸を用いた縫製はいかにも丈夫そうであり、いわゆる作業服なのだろう。千歳とさほど変わらない背丈と線の細さは、少し離れたところで作業している月白に比べるといかにも頼りないが、年齢相応な少年の体格といえなくもない。
 知的な顔立ちは、長兄の公形と似た面影がある紫苑寺伊織しおんじいおりは、しかしふた回りほど年上の長兄はじめ数人の兄姉とは違い、裏表がなく正直な性格のいい子、というのが千歳の評。 
 少々頼りないが、千歳にとって藤香とともに数少ない、式神使いの家での仲のいい友達である。
「とはいえ千歳様、これだけの書物の中から、須恵器のことを探し出すのは、少々骨折りですよ」
 月白は、やはり灰色に汚れた綿布で思わず顔を軽く拭ってしまい、しまったという表情で顔をしかめる。
 広間を見渡すと、胸の高さまで山積みされた書籍の山が、三十畳はある広間の七割方を埋め尽くしている。とても一日二日で全部を調べることは無理だろう。
「……あれ?」
 思わず出かけた千歳の溜息を止めたのは、膝立ちになりながら古書を食い入るように見ていた、伊織のさして大きくない声。
「どうしたの?」
「うん、この古書にある図柄、探してる長頸瓶のものに似てる気がするんだけど……ほら、ここ」
 伊織の左後ろに来て覗き込むようにする千歳に、伊織は見えるように左手に持った古書を動かしてから、右手で問題の部分に指を差して示す。
 そこには、長頸瓶の線画らしきものが描かれており、手元にある須恵器の破片に彫られた文字と似ているような……気はするのだが。
「こんなぼろぼろじゃ、どうしようもないわね」
 そう。
 伊織が手に持った古書は色褪せが激しい上、紙魚しみやら死番虫しばんむしにあちこち喰われまくっていた。到底まともに読める状態ではない。
「そうですねぇ、まめに樟脳しょうのうとかを置いて虫が寄らないようにしないと……そもそも、これ相当に古い紙のようだし」
「何とかならないかしら?」
 不安そうに伊織の顔を覗き込む千歳。女の子特有の甘いような匂いが伊織の鼻をつく。
 年下の伊織にとって、千歳から頼られるように見つめられるのは初めてだった。
「……この書物の奥付は無事みたいだから、題名とかも分かるし、御書所にある蔵書目録を調べて、同じものがないか探してみる」
 伊織は、気を入れるようにひとつ呼吸すると、小さく頷く。
「僕に任せといて、千歳様」

 


「こんな価値のなさそうな須恵器、そりゃ誰も知らんじゃろのぉ」
 須恵器の破片をかざして見ながら、追捕使の長官はやる気がなさそうに言った。
 八方塞がりになった紫道は、結局のところ追捕使の長官の知恵を借りようと思ったのだが、それがこの具合である。
 報告書は逐一提出しているので、事情はよく把握しているはずなのだが。
「価値があるとかないとか、そういう問題でもなさそうに思えますが……」
 いくら大して期待してなかったとはいえ、このあまりの反応に、紫道はたまらず声を上げる。
「んー、こりゃ完品でもぜに五十枚にもならぬよのぉ、たぶん」
 どうやら聞いてさえいないらしい。
「あの……」
「どうにも分からん。こりゃ紫道」
 紫道の声を遮るように、追捕使の長官は須恵器の破片をひょい、と紫道に向かって投げ返す。
「あわわわ」
 須恵器の破片を、あわてて両手で掴む紫道。落としたら割れかねない……が。
焼成しょうせい温度は、おそらく普通の須恵器よりもかなり高いわ。畳の上に落としたぐらいで割れはせん。今使われている都の窯で、焼かれたシロモノではなさそうじゃのぉ」
 追捕使の長官の、意外とマトモっぽい返答に、紫道は抗議の声を上げるのも忘れてキョトンとする。
「こういうものはな、露天商よりも古物に凝った隠居老人に聞くのが一番ぞよ。
 前の前に弾正台だんじょうだいの長官をやっておった方が、昔から古めかしい焼物に凝っておったわ。一筆したためる故、聞きにいくがよかろう」
 言うや否や、脇にどけてあった文机を自分の前まで引っ張ってくると、やる気の火縄に火がついたかのような、恐るべき手際の良さで、あれよあれよという間に紹介状を一筆したためてしまった。
「まあ心配はしておらんが」
 包み紙にくるんだ紹介状を、紫道に手渡しながら、追捕使の長官はやや声を潜めて紫道に言う。
「くれぐれも、追捕使の体たらくぶりとかを言うてはならぬぞよ」
 ……紫道がこれから聞きに行く老人が、昔いたという弾正台とは、役人の働きぶりを密かに調べて、みかどにチクる部署であった。

 


「むむぅ……この焼き具合、色、そして彫られた文字」
 須恵器の破片をじっくり見ながら、手入れされた白いあご髭がどうにも目立つ老人は、感心したように唸り、またしばらく黙り込む。
 追捕使の長官からの紹介状を持って、日暮れ前に指示された屋敷へと足を運んだ紫道であったが、紹介状を渡すと、あっさりと奥の間へと通された。
 案内してくれた家人の話によると、追捕使の長官と老人とは、呑兵衛のんべえ仲間として個人的な付き合いが結構あるとか。
「こいつのことかもしれんの」
 老人はすっと立ち上がると、部屋の隅にある書棚から、一冊の書物を取り出す。再び座布団の上へと戻ると、書物の中身を何度かめくり、ある箇所を紫道に示した。
「……これは」
 示されていたのは、長頸瓶の線画であったが、破片の部分に彫られた文字とよく似ている。完品を見ていない紫道であったが、藍璃の聞いたものと雰囲気は似ているような気がしなくもない。
 なお、追捕使の役所に出仕するということで、藍璃は桔梗林家で待機中。まだ先日の件を根にもっているのか、約束を反故にした罰として、今月中に鯛の尾頭付きをオゴらされることを約束させられた。どうしたものやら。
 少しの間、財布の中身を心配していた紫道だったが、老人の言葉によって現実に引き戻される。
「この書物は、大地が朱華はねずの水に覆われ、都が鳥の飛ぶ高さへと浮く前に書かれたものらしい。内容については察しがつくかな?」
「いえ……皆目見当もつきません」
 いきなり、長頸瓶だけが描かれている箇所を示されただけで、内容が分かろうはずもない。
「こいつはな、呪具を使った禁忌きんきの術について解説されたものらしい。
 つまりこの長頸瓶は、それに使う呪具ということかも知れん。むろん、わしも現物の破片は初めて見るがな」
 老人はなぜか声を潜めて言う。
「どのような術に使われたものでしょか?」
 紫道も老人に合わせて声を潜める。人払いをしてあるので、別に声を潜める必要もないのだが、人間がヤバい内容に触れてしまった時の、本能というやつだろう。
 符術でさえ、奇妙な妖術として忌み嫌う人が大半なのだ。藤香との付き合いで、符術を多少なりとも見ている紫道でも、人の手に余る術ではと心配することもあるのだから、禁忌の術ともなれば推して知るべし、である。
「これは……封魂ふうこんの術のようだな。人間の口から魂を吸い出し、この真言を彫った長頸瓶に魂を封じ込める、とあるな」
 紫道は思わず息を呑む。藍璃が言っていた状況そのままではないか。
「魂を戻すには、再び口から戻すとある。単にくわえさせるだけのようじゃな。ただし、魂が入った長頸瓶が割れれば、その魂は天に召される、とも書いてある」
 長頸瓶の書いてある本紙をひとつめくり、老人はその箇所をすらすらと解説する。そしてその内容を聞いて、紫道は血相を変えた。
「なら、戻せるのか 元に戻せるんだな」
 紫道は身を乗り出して老人の肩を掴むと、すぐにあっ、と声を上げて手を引っ込める。
「も、申しわけございませぬ……つい」
 平伏する紫道。老人は先程と少しも様子を変えることはなく、頭を上げるように促す。
「……若いの、何か訳ありのようじゃな。深くは聞かぬが」
 禁忌の術が絡んだことである。老人にとっては聞かぬというより、聞きたくないという方が正直なところだった。追捕使の長官なら事情を知ってもいようが、ああ見えて酒の勢いで事情を語ってくれるほど、口の軽い男ではない。
「ところで、その書物は何者が記したものでしょう?」
「うむ、奧付にでも書いてあるはずじゃがな。どれどれ」
 老人は、書物の本紙を一気に最後のところまでもっていく。
「発行は天鳥寺てんちょうじ……都では聞かぬ寺の名だな。都の外の地にあったのであろう。編者は」
 老人の声が一瞬止まる。そこに記されていたのは、紫道も聞いたことがある名字が記されていた。


三之章(2)

「まだ千歳ちとせ様起きてないかもしれないけど、とにかく急がなくっちゃ」
 薄暗く朝靄も晴れない大通りを、伊織いおりは急ぎ足で歩いていた。
『目録を調べた所、同じ書物は御書所に所蔵されておりました。但し、貴重書が故に外への持ち出しはならぬとのこと。伊織寝食惜しみ、違わぬよう書写致しました故、御安心いただきますよう……』
 三日がかりで寝る間も惜しんだ書写作業を終え、最後の力を振り絞って書いた文を千歳の元に届けさせ、これで一安心のはずだったが、疲労困憊ひろうこんぱいなのにあまり寝付けず、結局はこの刻限に写本を届けに行くことにしたのである。
 書写した古書の中身は、禁忌の術に関することだったので、極力何も考えずに。そして中身は覚えないように。淡々と書き写すように努めたものの。
 どうしても入り込んでくる内容から、とりあえず千歳が途方もなく危ない状況なことは理解できた。
 本当は伊織の実兄も危ないのだが、さほど仲がよくない兄姉のことより、伊織にとっては千歳のほうが心配になる。
「あらあら、こんな早くから朝駆けなんて、歳の割にずいぶんお盛んなのね坊や」
 揶揄するような女の声に、歩を止めて周囲を見渡す伊織。しかし、朝靄や薄暗さの向こうには、人の姿らしきものは見当たらない。
「誰だよぅ……隠れてないで、正々堂々と出てこいよぅ」
 伊織は不安と恐怖を隠しもせず、写本を包んだ布を懐にしまい、代わりに御札を一枚取り出す。とはいっても、伊織は符術があまり得意ではない。かといって腕っ節が強いわけでもない。小さい頃、いじめられているところを千歳や、藤香とうかという桔梗林家のお姉さんに助けてもらったことなど、一度や二度ではないのだ。
 喧嘩も弱ければ気も弱いのは、伊織自身も痛いほど分かっている。朝靄の向こうに、蘇芳山家の門扉ではなく花畑と三途の川が見えたような気がした。
「まあ、足が震えてるわ、情けないけど可愛い子……ふふふ、お姉さんがじっくりもてあそんであげる」

 


 昨夜遅くに届けられた文を思い返し、千歳は嬉しいような安堵したような気分で布団から起き上がった。これで手掛かりが掴めそうだという高揚感だけでなく、それとは出所が違う高揚感があるような感じもしたが、それが何なのかは千歳にも分からない。
「……まだお外は暗いわね。ずいぶん早く起きちゃったみたい」
 普段、母親や兄に起こされるのが常の千歳は、自分が誰よりも早く起きたことに自分で驚いたが、朝餉あさげにはまだ早すぎる。千歳は散歩でもしようと思い、着替えて音を立てないようにこっそりと外へ出た。
 こんなに朝早くに外を散歩するのは、生まれてこのかた初めてかもしれない、と思う。いつも人で溢れかえっている大通りは、動くものひとつなく別世界のように静かだった。朝市の時間にもまだ随分と早いらしい。
「あら?」
 誰もまだ歩いていないと思っていたのだが、朝靄の向こうから人影が見える。
「……?」
 しかし、その動きは歩いている風ではなく、頭は動かさず、肩から下を小さくやじろべえのように、ぶらぶら横へと動かしている。というより足が地面についてない。
 不審に思っているうちに、その妙な動きの人影のすぐ後ろ、もうひとつ人影が見えて。
「ひぃっ……! い、伊織君」
 千歳の裏返った声の先。
 衣装のあちこちが破れ、ぐったりと動かない伊織の頭をわしづかみにしていたのは、黒鳶くろとび色の小袖袴に身を包む姫面の女だった。
 姫面の女は千歳の姿を認めると、右手でわしづかみにしていた伊織を、無造作に千歳のほうへと放り投げる。
「伊織君!」
 とさっ、と軽い音を立てて地面へと叩きつけられた伊織に、千歳は慌てて駆け寄って仰向けにすると、泣きそうな顔になりながら、まだ息があるか確かめる。
「よかった……」
 弱いながら、心臓の音と脈はきちんとしている。しかし、全身にあざがあり完全に気絶してしまっていた。
「……何て酷いことを。狙いは私の魂のはず、この子は関係ないでしょう」
 千歳は伊織を静かに大通りの右脇へと動かすと、大通りの中央へ戻りながら鋭く姫面の女を睨み付ける。その声には、憎悪。
「ふふ、この写本はあまり私の趣向にはそぐわなかったわ」
 姫面の女の左手には、真新しい装丁の書物が一冊握られていた。伊織が書写したという例の破れた古書の内容なのだろう。遠目から見る限り、装丁の模様なども例の破れた古書によく似ている。伊織の、装丁に至るまで完璧な写本を作ろうとした努力が見てとれた。
「貴女の正体は掴んでいるのよ」
 静かに言った千歳の言葉に、姫面の女は一瞬ながら動揺した気配を見せる。
「月白は言っていたわ、姫面の女は自分と全く同じ気配を感じると……
 木の吉将たる月白と全く同じ気配、つまり貴女も木の吉将」
 千歳は右手を懐に入れながら、姿勢を低く身構える。
「我が蘇芳山家の古記録には、女姿の木の吉将は古に一人しかいないことになっていたわ……名前は、蓬樹陽姫弥ほうじゅようきみというそうね」

 


 姫面の女は、先程の動揺した気配から一変、今は開き直ったような余裕の気配。
「そうよ、よく調べたわねぇ千歳ちゃん。貴女はとても賢い子ね……ますます、その魂が欲しくなってきたわ。
 でも、もう気づいているのでしょう? 貴女の式神、私と同じ木の吉将では私には勝てぬと」
「月白に頼らなくたって、貴女の相手は私で十分よ……式神なら式神らしく、ぎょくに戻るがいい!」
 千歳は声とともに、手の平大の小さな巻物を懐から取り出すと、紐を解き地面に這わせるようにして投げる。
 びっしりと真言の書かれた白い直線が、地面を走り二間ほどの距離に真っ直ぐ引かれた。
「フン、何を……」
 千歳はそれを再び取り出すと、同じように白い直線を地面に引いていく。ちょうど、千歳を頂点に姫面の女、蓬樹陽姫弥をV字の真ん中に置くような位置である。
 千歳は左手に巻物二本、右手に御札を二枚取り出すと、左斜め前に走りながら、御札を宙に放り、炎の弾として姫弥きみに向けて放つ。
「この程度の符術」
 姫弥は嘲笑すると、右手で炎の弾を掴んで握りつぶす。
 千歳はその隙に、再び巻物を二本、同じようにV字に地面へと這わせた。
 地面に、四本の所々で交差する白い線の形を認め、姫弥はようやくその意図を理解した。
「式神戻しの真言を書き連ねた巻物を、退魔の五芒星に配し、その五芒星の中の式神を消滅させる法≪式滅陣≫しきめつじんか」
 以前に姫弥と出くわしたとき、自らの符術の力だけでは心もとないと感じた千歳が、秘策として用意していたのが秘術≪式滅陣≫である。
 式神は主の意思でのみ、具現化や一時消滅などの召喚行為ができるのだが、≪式滅陣≫は式神の主の意思に関係なく、強制的に式神を完全消滅させることができる。
 式神使いの家にのみ伝わる禁忌の術のひとつだが、強い式神を倒すにはうってつけの方法といえた。
「……っ!」
 しかし、対象の式神が五芒星の中にいないと意味がない。何の術か正体が分かってしまったら、術をかけるのは非常に難しくなる。千歳は唇をかみ締めた。
 それでも、符術で間髪いれず姫弥の足を止めながら、千歳は伊織のすぐそばまで駆けて、五芒星を描く最後の巻物を地面に放とうとする。
「そうはいかないわよ」
 姫弥はそう言うと、両手に四枚の御札を取り出し、目にも止まらぬ速さで両手を複雑に動かす。
 ザンッ!
「ッ」
 巻物を地面に放とうと身構えた千歳だったが、突然四肢の力が抜けたかと思った瞬間、両腕と太股に、この世のものとは思えない激痛が走る。
「うぁッ・・・・・・ぎゃあああああああっ!」
 千歳の両腕と両太股付近の衣装が、一気に赤く染まると同時に、甲高い悲鳴が朝靄の中にこだました。
 尻餅をついて、崩れ落ちるように倒れる千歳。まだ何とか五体満足ではあるようだが、どうやら骨まで届いているほど深く斬られたらしく、全く力が入らない。紐がついたままの巻物が、虚しく地面を転がる。
「ふふふ、符術  ≪持国刃≫じこくじんを四発同時に、四肢を狙って放つなんて、貴女にはできないわよねぇ」
 線が一本足りない未完の五芒星の中を、ゆっくりとした足取りで千歳に向かう姫弥。
「本当は、その細くて愛らしい四肢をちょん切っちゃってもよかったけど、出血と発作ですぐ死んじゃうと困るから、動けないようにだけしてあげたの……でも、その小股も閉じられない無防備な仰向け姿も、可愛らしくてなかなかよくてよ」
 千歳の前に迫ると、嬉しそうな声を上げた姫弥は、懐から長頸瓶を取り出す。
「ううぅぅっ……」
 四肢の痛みに耐えながらも、必死に姫弥を睨み返す千歳だが、五芒星が未完では≪式滅陣≫を発動させることもできず、腕が動かないでは月白を呼び出すこともできない。生まれてから今までの記憶が、走馬灯のように千歳の頭をぐるぐる駆け巡った。
「さあ、その魂をもらい……」
 長頸瓶を近づけようとした瞬間。
 ざっ!
 静かな音とともに、姫弥の足元を一本の白い線が、右から左へと駆けていく。
「なにっ」
 驚いた声を上げた姫弥が、線の走る方向とは逆方向に視線を動かす。
 その視線の先には、うつ伏せに這い蹲りながらも、右手をいっぱいに伸ばして巻物の端を持った伊織の姿!
 最後は勢いを失っていた巻物が、どうにか五芒星の最後の頂点へとたどり着き。
「……意ならざる式神、此方の世より立ち去るべし……式滅陣っ!」
 その姫面の下の表情は、驚愕か、あるいはは恐怖か。
 五芒星は青白い光を天に向けて放ち、未だ五芒星の端の三角形の中にいた姫弥を包み込む。
「ぐあああああああああああああああああああッ!」
 式神使いの家の者が、漏れなく教わるという秘術を受け、姫弥は苦悶の絶叫を上げた。
「ぐっ……あちこち、すごく痛いんだぞ……お返しだ」
 手足を使い、よろよろしながらも立ち上がった伊織が、光に包まれる姫弥を睨み付ける。
「ぐ……ぐぅ……おのれ……ただではすまさないわよ、ぼうや」
 苦悶を滲ませた声ながら、しかし姫弥は滅する気配はなく、伊織の方へと向き直ろうとする。
「そんな、確かに術はかかってるはずなのに……」
「ぼうやのちからぐらいで……わたしをめっするなど……かたわらいたい」
 姫弥は、苦悶で全身を震わせながらも、何とか足を踏み出そうとする。五芒星から抜け出そうとしているらしい。
「い・……織君……」
「ち、千歳様ぁ」
 五芒星の中で苦しむ姫弥に、勝るとも劣らないような苦痛の声を上げた千歳に、伊織はおぼつかない足取りで近寄る。
「わたくしと……もう一回二人で術をかけましょう……立てせてちょうだい」
「えっ、でも、どうやってですかぁ……今抱き起こしたら、千歳様バラバラになっちゃいそうだよぅ……」
 二の腕と太股から血を流す千歳を見て、伊織は泣きそうになっておろおろするばかり。
「もう……前から抱擁するように抱き起こせばいいでしょ……男の子らしく……頭使いなさい」
 苦しみながらも、伊織を叱咤する千歳。千歳を抱擁する自分を一瞬想像して顔を赤らめる伊織だが、恥ずかしがっている場合ではないことはすぐ理解できる。
「うん、わかったよ……痛かったら、痛いって」
「……今でも泣きたいぐらいに痛いわ……さあ、早く」
 伊織は一瞬千歳に上から覆いかぶさるようにすると、千歳の背中に腕をしっかりと回し、自分の身体で支えるようにして抱き起こす。千歳の頬を自分の頬に接するように乗せ、腕は自分の首に回すように、足は千歳の体重が乗らないよう、千歳の身体全体を自分の身体へと預けるように、強く抱きしめる伊織。
 千歳の柔らかい肉体の感触と体温を、伊織はしっかりと身体に受け止める。
「ぐううう……二人で、呼吸を合わせて呪を紡ぐのよ。さあ、いくわよ」
「うん」
 二人は目を瞑って呪を四、五言紡ぎ。
『意ならざる式神、此方の世より立ち去るべし、式滅陣っ』
 呪法の最後の一節に応え、五芒星の発する青白い光は、さらに強く輝きを増していく。
「ぐっ、ぐぎゃぎぐえええええぇぇぇぇぇ……ッ!」
 嘔吐にも似た断末魔と、青白い光が朝靄に吸い込まれて。
 千歳と伊織の側には、役目を終えて白い灰となった五芒星と、役目を終えさせられて赤い玉石となった、かつて蓬樹陽姫弥だったものの残骸が大通りに転がっているのみだった。
 式神は滅すると、体はみるみる風化して灰となり、式神を生む際の核となる玉や石が残るのだが、式滅陣が強力だったのか、灰はなく玉石と姫面、衣装と伊織から取り上げた写本だけが残っている。
「千歳様ぁ……大丈夫ですかぁ」
 伊織は、自分の腕の中で急にぐったりした千歳を、ゆっくりと地面に寝かせる。
「ぅぅ……頭が……くらくらするわ……」
 弱々しい声で訴える千歳。さすがに出血が多すぎるらしい。四肢の切り口からは、今でも血が止まらずに流れている。
「あわわ、待ってください、何とかしますから……ええとっ、これじゃないこれでもない……あった!」
 伊織は慌てて懐を探ると、御札を二枚取り出して、千歳の両腕の傷口に貼り付ける。
「符術≪広目療≫こうもくりょう……伊織君つかえるの……?」
 力を振り絞り、心配そうに声を上げる千歳。数ある符術でも相当に難しいもので、千歳にさえ使えない。
「何とかのひとつ覚えで、これだけはちゃんと小さい頃から練習したんです」
 目を瞑り、伊織は少し長い呪を唱える。
 すると、御札がうっすらと湯気のようなものを上げ始めた。
「きゃあああっ!」
 一瞬、傷口を再び切られたような激痛が走るが、すぐに収まると今度は急に痛みがひいていき、肉と肉、皮膚と皮膚が引っ付いていく感覚を千歳は感じる。
「だって、いつもいじめられて、怪我とかいっぱいしてましたから」
 伊織は静かに言いながら、千歳の両腕から赤く染まった御札をゆっくりと剥がす。
 まだ千歳の感覚では違和感が相当残るものの、あれだけ酷く切られていた傷口は、跡形もなく塞がっている。
 月白のような高位式神が使う≪広目療≫は、違和感もなく傷を治してしまうものだが、人間が使う≪広目療≫としては、上出来な部類といってよかった。
「ありがとう、伊織君……助かったわ」
 しかし伊織は、再び懐をまさぐるものの、途端に泣きそうな顔になる。
「うう、もう御札がないよぅ……両脚がまだ残ってるのに」
 全身をばたばたさせると、伊織の袖や裾からぱらぱらと数枚の御札が落ちてきた。
「うふふ……伊織君、真っ先に自分を治したのが、起き上がれたカラクリだったのね」
 そう。
 千歳と姫弥が戦っている間に、気絶から目を覚ました伊織は、身体の関節に片っ端から≪広目療≫の御札を貼り付け、まずは自分で動ける程度まで怪我を治したのである。
「うぅ、ごめんなさい、だってすごく痛かったんだもん……まだあちこち痛いけど」
「謝ることは何もないわ、そのおかげで蓬樹陽姫弥をやっつけられたんだもの……両腕が動くから、あとは大丈夫よ」
 千歳はそう言うと、両手を合わせて呪を唱え、月白を呼び出したのだった。
 具現化して早々に、衣装が血まみれの千歳を見て気を失った月白が、帰宅後に千歳からこっぴどく説教されたのは、また別の話である。