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 朱鳥の都あけみとりのみやこ……
 いつの日よりか、触れた途端に生きとし生ける者の命の炎を、瞬時に消してしまう朱華の水はねずのみずは、此の世の大地に溢れ出した。
 朱華の水は、海のように大地を覆い、人々の営みを押し流し、為す術もない人々は、ただ怖れ、逃げまどい、そして水の餌食となって多くの者が、命を落としていった。
 そして朱華の水の恐怖が、都にも迫っていた。
 みかどに仕える式神使いは、朱華の水を避けるため、式神しきがみによって都とその周辺を宙に浮かせることにした。
 朱華の水を避けるようにして、鳥のように空に浮く都……いつしか人々は、朱鳥の都と呼ぶようになったという。
 そして、朱鳥の都が空での営みを始めてから、一三〇年あまりの月日が流れた。

 


「やれやれ……三日三晩、夜通いするのも楽ではないな」
 潤色うるみいろ狩衣かりぎぬに身を包んだ若い男は、溜息をつきながら、誰にともなく呟いた。
 滲みひとつない暗黒色の帳には、並みの絵師では描けないであろう、見事な待宵月まちよいづきがポツンとひとつ描かれている。
 その待宵月の明かりが照らす大通りは、人が行き交う刻限こくげんはとうに過ぎているためだろう。いかにも貴族風の溜息が絶えない若い男と、付き人らしき壮年の男がいるのみだった。
「はて……重将しげゆき様の夜這いのお相手は、我らが璃寛原家りかんばらけよりも、たいそう位階の高い御家の方だったはずですがな」
 付き人らしき壮年の男の、半ばからかうような問いかけに、重将と呼ばれた若い男はまたしても軽い溜息。
「私好みの娘ならいいが、位階が高いからといって、妻に相応しき娘とは限らんわ。
 しかも、位階どおりに淑女然としておるのは表のみ、本性が遊女のごとき好色な娘では……正直、疲れるだけよ」
 半ば嫌そうに答え、顔をしかめる重将。家の繁栄のため、心ならざる女と無理矢理にでも付き合わねばならない、ということが憂鬱に感じられるのだろう。
「何者ぞ」
 しかし、壮年の男は重将の愚痴には応えず、鋭い口調とともに歩みを止めて身構える。
「……?」
 つられて歩みを止めた重将が顔をあげると、気づかぬ間に何やら黒い人影が目の前に立っていた。
 明かりといえば待宵月の光ぐらいしかないが、その頼りない光量では、目の前の人物が狩衣をまとっていることと、奇妙な面を被っているらしい、という程度しか判らない。
 こんな刻限にいるのは物盗ものとりの類か、と重将が考えを巡らせたその時。
 ザンッ!
 質量のある物を切ったような、鈍い音が重将の右耳から入ってきた。
「……ッ!」
 腰刀を抜くどころか、悲鳴を上げる暇さえなく。
 壮年の男の身体には、脳天から股間までを線で引いたような、縦一文字の綺麗な切れ目が入れられていた。
 一瞬遅れて、背骨にまで届くほど深いであろう縦一文字の切れ目から、盛大に赤黒いものが吹き出たかと思うと、壮年の男の身体は大樹が倒れるがごとく、背中から仰向けに倒れ伏す。
 呼吸を一回する程度の合間に起こった、あまりにも現実離れしたような出来事に、重将は声を上げることさえできずに唖然とするのみ。
 そして、腹部に鈍い衝撃が走ったかと感じた瞬間、唖然としたままの重将の意識は、暗黒色の帳へと吸い込まれるように消えていった。


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