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第三部~

アタラクシア:ゼノン先生、ありがとうございました。では、議論の準備がこれで完了したということで、これから第三部、オルガスマトンを規制すべきか否かに関する議論に移りたいと思います。どなたか、御意見のある方はいらっしゃいますか?
ハ ルトマン:はい、オルガスマトンは快楽殺人の発生件数を減少させ、治安を改善させました。快楽殺人犯とは暴力行為そのものから来る血管の拡張や発汗、心臓 の脈動の高まりなどを性的な興奮と誤認し、「暴力行為には性的な要素がある」と論理をひっくり返すことによって、暴行したり傷つけたり殺したりすることで 性的充足を得る犯罪者のことです。人間は恐ろしい事態、危険な状況に直面すると心拍数や血流が増え、呼吸が深くなり「闘争・逃避反応」を担当している交感 神経系が働きますが、この交感神経は実はオルガスムスも担当していることがわかっています。人が罪や暴力に性的興奮を覚えるのはこの交感神経が原因になっ ているということなんですね。食人鬼フリッツ・ハールマンや放火魔ヨアヒム・クロル、吸血鬼ペーター・キュルステンのような快楽殺人犯は人を殺めた瞬間や 放火した際に射精が起きたと証言しています。そしてこのような秩序型の快楽殺人者は加虐的な情景を空想しながら自慰を行い、その空想を実現すべく犯行に及 び、犯行現場から「記念品」を持ち帰ることで空想を強化、反復することが知られています。ノーマルな人間がオルガスムスを得たいという思いに動かされて、 意中の人と結ばれるように知恵を絞るのと同じように、狡猾な連続殺人犯のオルガスムスを得たいという思いは凶悪犯罪を計画し実行する原動力となるというこ となんですね。オルガスマトンはこのような凶悪犯罪を誘発するようなオルガスムス障害を治療することで事件を未然に防ぐことができます。さらに、オルガス マトンは凶悪犯罪以外の犯罪行為の抑制装置にもなっています。刑務所では当然オルガスマトンが禁止されているため、一般市民はみな軽犯罪すらしたがらなく なり受刑者が激減しましたよね。これが社会の治安をどれだけ改善し、どれほどの税金の節約になったかを鑑みればオルガスマトンを規制しようとは思わないは ずです。
グルジェフ:私もハルトマン先生に賛成です。オルガスマトンはドラッグの代用となり、その乱用を抑止する効果があるからです。現在でも発 展途上国では幼い子供を阿片やマリファナ、もしくはアルコールでおとなしくさせておく習慣が残っているのですが、オルガスマトンと同等の効果を一時的にも たらす「ワルキューレ・アップル」を子供に経口摂取させることでこのような習慣を無くすことができるのではないかと私は考えております。他にもオルガスマ トンはオリンピックにおいて選手の極度の不安、緊張を和らげるためにベンゾジアゼピン系の抗不安薬の代わりに使われるようになりましたし、モルヒネの代わ りに末期ガン患者の苦しみを取り除くことにも、戦場で負傷した兵士の鎮痛剤としても使用されるようになっています。モルヒネが市場に出回るルートの一つと して、医療用とされたものの流出があったのですが、オルガスマトンが鎮痛剤の役割を担うことによってモルヒネが薬物として転用される心配が無くなりまし た。また、出産の時にオルガスマトンを使い陣痛を大幅に緩和することで女性が出産する際の心理的ハードルを低くしたことも考慮すべき点だと思います。
ゼノン:しかし陣痛を緩和することによって母子関係の親密さに影響が出るのではないでしょうか?
グルジェフ:マックス・プランク研究所のベッティーナ・ヴィーゼの長期調査によれば全身麻酔で出産した場合でも母子関係の親密さには何の違いもないことがわかっています。
 た だし、オルガスマトンには若干問題もありまして、オルガスマトンはその鎮痛作用からドラッグの代用になることもありますが「エントリー・ドラッグ」にもな り得るということです。そもそも青少年はいきなり薬物に手を出すのではなく最初にビールかワイン、ギャンブルに手を出し、タバコや蒸留酒の階梯を上がり、 違法性薬物に手を染めることがわかっています。その意味においてD.カンデルらはアルコールを「エントリー・ドラッグ」と称したのですが、オルガスマトン はまさしくこれになってしまっています。実際に代表的な麻薬の三大ネットワークではオルガスマトン使用者がその延長として薬物に手を出しています。なぜな らコカインや覚醒剤はオルガスムスを長引かせ、強化する働きがあるからです。ただ、私としては現在のような開かれた民主主義社会においてはオルガスマトン を駆逐することは不可能であると思っています。ですのでハード・ドラッグと市場を分離することによってより深刻な副作用を伴うドラッグとの併用、癒着を防 ぐという考え方が有効であると考えます。
ハルトマン:さらに付け加えるならオルガスマトンは様々な依存症を解決するのにも役立ってきました。例え ば過食症ですが、ある程度のストレスがほ乳類の食欲を増進させ、暴食を引き起こすことがわかっています。なぜなら快楽回路である脳のVTAは糖や脂肪、塩 の摂取でも活性化するからです。過食によって起こる肥満によって糖尿病、ガン、睡眠障害、心臓病、高血圧が引き起こされるため、その治療としてアンフェタ ミンやフェンフルラミン、リモナバンがやせ薬として過去に流通していたことがありますが、これには深刻な副作用がありました。しかし、オルガスマトンには このような副作用がなく、ごく自然にダイエットすることができます。なぜなら、特に女性の場合には満腹中枢と性欲中枢が近接しているため、性的快楽が満腹 感をもたらすということなんですね。肥満しやすい人はそうでない人に比べて食事による背側線条体の活性化が有意に小さいことがわかっています。つまり、太 りやすい人は快楽回路が鈍感だということですね。快楽回路を鈍感にするTaqIA A1対立遺伝子を持つ報酬不全症候群は肥満傾向があるだけでなくニコチン依存症、アルコール依存症、ギャンブル依存症、ADHD、チック、病的買い物、薬 物依存、暴食の傾向があることがわかっています。A10神経のような報酬系が不全であるために快を感じにくく衝動的、強迫的な行動特性を持ちやすくなると いうことです。しかしオルガスマトンは副作用を伴うことなく依存症患者やその予備軍を充足させることができる。
グルジェフ:オルガスマトンは抗鬱 剤としても使われていますよね。それ以前の抗鬱剤、例えば米国で「エクスタシー」と呼ばれているSSRIなどですが、これは正常な人も元気で明るく積極的 な性格にしてセールス、勉強、社交に役立つというメリットがあったのですが自殺リスクを高めることや他人への攻撃性を高めることがわかり問題となったこと がありますが、今日ではオルガスマトンが危険性のない抗鬱剤として、鬱症状を緩和させるだけでなく脳下垂体からオキシトシンを放出させ打ち解けた安心感を もたらしてくれます。さらにオルガスマトンは前頭葉でのドーパミン神経の活動を活発にさせることからADHDの治療にも応用されています。かつては ADHDの特効薬としてリタリンが使用されていたのですが、「これを飲むとダイエットや仕事が捗る」という理由から大人で日常的にリタリンを飲む「リタ ラー」と呼ばれる人々が現れ社会問題となっていました。これも今日ではオルガスマトンに置き換わっています。それとオルガスマトンは快楽中枢のある中隔核 を刺激し、てんかんやパーキンソン病をも治療することができます。
ハルトマン:オルガスマトンは究極の健康器具、医薬品と言っても過言ではありま せん。その刺激的な感覚への没入によるリラックス効果から退屈、挫折感、怒り、抑鬱、不安、絶望などのストレスへの対処としてヒーリングやセラピーにも活 用されています。具体的に言うとオルガスマトンは鎮痛、快楽作用を持った精神的ストレスの解消役であるベータ・エンドルフィンを誘起し、ストレスが原因で 起こる胃潰瘍、十二指腸潰瘍、胸腺やリンパ節の萎縮、副腎皮質の増大を予防するということです。オルガスマトンを使用した際には性交の場合と同様に唾液が 溢れますが唾液には過酸化水素を消したり、活性酸素を消す成分が含まれています。これによって免疫力が向上し、発ガン物質が抑えられます。そもそもオルガ スマトンは口腔の免疫力だけでなく脳内麻薬、エンケファリン、ベータ・エンドルフィンによって体全体の免疫力であるNK(ナチュラルキラー)細胞の活動を 高め、癌を抑制することがわかっています。このNK細胞は免疫の一次防衛網の役割をしている自然免疫力であってストレスにより低下し、コメディやカラオ ケ、旅行などで上昇することが知られています。つまり楽しいことをすると自然免疫力や活性酸素除去能が増加するということです。悩み事がないストレートな 性格の人は免疫力が高く、それが「バカは風邪を引かない」と言われる所以になっているというわけです。加えてオルガスマトンは鎮痛剤として頭痛や肩こりを 緩和することにも応用されています。つまり、オルガスマトンはストレスを軽減し、国民の健康を増進することで医療費を軽減させているわけです。その結果と して医者の数が少なくて済み、医者になる予定だった人が他の分野での知的労働力になるということです。
アタラクシア:就職活動の面接や保険会社の 登録において「オルガスマトンを入れているか否か」を尋ねる会社があって問題になったことがありましたね。セクハラだと。オルガスマトン使用者はストレス 管理が上手く、離職率が低いというデータと病気や鬱病発症率が低いというデータに基づいているので、ある程度は妥当かと思いますが、プライバシーの問題も ありますし。
ゼノン:オルガスマトンが登場してから人は以前よりもプライバシーに敏感になったと思います。ほとんどの成人がオルガスマトンを脳内 に定着させていて影ではみなエクスタシーに浸っているのですが、それをおおっぴらに公表するのにはやはり抵抗がある。オルガスマトンはつまり、オナニーの 延長であるという意識があるんでしょうね。実際に「夫がオルガスマトンで性処理してしまい私を相手にしてくれない」という相談をしてくるSEXレス夫婦も かなりいることですし。
ハルトマン:いえ、オルガスマトンには催淫効果がありますので、SEXレスの夫婦をSEXへ誘う効果があります。SEXレスの原因となる女性の不感症をオルガスマトンは治癒しますし、男女ですれ違う絶頂のタイミングを合わせることも可能です。
ゼ ノン:そもそも本来女性はオルガスムスに到達するか否かでもって顔や体全体がシンメトリックになっている男性、HLAの相性がいい男性、自分を気遣い理解 してくれる男性、自分の身体の感情の波を敏感に感じ取り同期をはかるのが上手い男性を捜し当てているわけです。そういう自然の摂理とは関係なくオルガスマ トンは強引にその人にオルガスムスをもたらすわけですが、もともとオルガスムスには生殖価があり、相性のいい遺伝子の相手ほどオルガスムスに達しやすく、 精子を奥に誘導することがわかっています。オルガスムスの際には子宮内圧力が減少し、ヴァギナとの間に圧力差が生じて、もしそこに精子があれば、この圧力 差によって精子は子宮内に吸い込まれます。その際にヴァギナの粘液の酸性度は弱まり、子宮頸部はリズミカルに痙攣しながら下方に曲がり、子宮前に放出され た精液を吸い込み、受胎を促すという仕組みになっています。それによって女性はオルガスムスを介して精子戦争の結果に積極的に影響を与えることができると いうわけです。でもオルガスマトンにはその価値がないですよね。
 大量のドーパミン放出という報酬に慣れてしまうと根気のいる努力をして長期的な 利益を図るよりも、短期的な快不快を優先するようになる。脳内麻薬により人は恋をし、音楽や絵画に陶酔し、創造的な仕事に満足感を得ながら快適に暮らすこ とを望んでいる。それをオルガスマトンは抑制してしまうのではないでしょうか。実際にオルガスマトンにより先進主要国では少子化が進み、消極的で働かない 人が増え、社会が徐々に貧しくなっていきましたよね。現代においては趣味と仕事がSEX以上の快楽を提供していて、それが結婚に踏み切れない理由になって います。特にオルガスマトンの与える強烈な快楽によって。
エピクロス:オルガスマトンにより人の行動指向性が変わり、人口が抑制されるという懸念 に関してですが、それは人口増加による二酸化炭素排出、食糧危機を解決する上では良いことなのではないかと思います。オルガスマトンがあれば大勢の人が物 欲から解放され、贅沢品の購入に血道を上げることがなくなり公害、環境汚染、限られた資源の搾取、劣悪な労働環境、食糧不足が根絶されていきます。さら に、スロットよりもオルガスマトンのトリガーを操作していた方がはるかに心地よいということからギャンブルやカジノ娯楽産業が衰退しましたよね。このよう なドラッグや売春、マフィアと資金的に連結した施設が衰退したことは社会衛生上好ましいことだったとは思いませんか。オルガスマトンは公害も出さないし、 犯罪にも結びつかない。
ゼノン:いや、でもね、オルガスマトンは他の娯楽とは比べものにならない危険性を持っているんですよ。人類が今まで発見し てきた娯楽はどれも「飽き」や耐性によって弱まるものでしたが、このオルガスマトンの発明により永続的で圧倒的な快楽に浸れるものが登場したわけです。こ れによって実際に仕事中にオルガスマトンのことが頭から離れなくなってしまう人が多く出てしまったことは事実であって一日中オルガスマトンに浸ることので きるニートへの嫉妬によって行方不明者が多数出て労働人口が減りましたよね。快楽レバーを押し続けるラットは空腹だろうが、発情期の雌が居ようが、自分の 赤ん坊が居ようが、電気ショックの危険をもろともせずに自己刺激を続けたそうです。そのラットにとってはレバーを押すことが世界のすべてになってしまった というわけですが、オルガスマトン・フリークはこのラットとどこが違うのでしょうか? 水も食べ物も繁殖も衛生状態も、自分の赤ん坊さえも気にかけずにオルガスマトンを駆動させ続ける彼らをどう思われるのですか?
ハルトマン:いい え、オルガスマトンの使用は堕落ではなく、「男女の交合をもって即身成仏の秘術とする」という教理を持つタントラ仏教の理想であると解釈することもできま す。このような「性交のエクスタシーを解脱の手段とする宗教」によって当時の性風俗が乱れ、性病が蔓延し廃れたため、後世ではチベットぐらいにしか残って いませんが、今日、多くの新興宗教においてオルガスマトンが儀式などの用途に使用されています。なぜならオルガスムスの瞬間にはθ波という脳波が出るので すが、このθ波は瞑想中の僧侶にも出る一種の無我の境地を示す脳波パターンだということがわかっています。オーガズムや瞑想はともに運動中枢を活性化し、 運動誤差状態を引き起こすことが知られており、オーガズム中や瞑想中の浮遊感覚、コントロール不能感はこのために起こることだと考えられています。修道会 の祈りの究極目的とされる神との完全な合一感「ウニオ・ミスティカ」を彫刻したベルニーニ作「聖女テレザの法悦」が性的な快楽に悶えているようにも見える のは不思議なことではありません。ともかく仏教においては苦渋に満ちた日常生活に惑わされず、世間の欲から解脱し、穏和な心を持ち続け、悟りの境地に至っ た人が理想の人物であり、また理想の人生でもあるとされています。オルガスマトンはこのような精神状態をもたらすことができます。
ゼノン:そのよ うなショーペンハウアー的な処世術ではストレスは軽減されるかもしれないが本当の幸せは得られない。何かに情熱を捧げなければ、人生は生きるに値しないと いうアリストテレス的な心構えでなければならないと思います。オルガスマトンは今後も「刹那的な快楽に浸りながら無為に日々を送るゾンビのような未来を奪 われた人々」を増やしていき、その結果生まれた退廃や無気力感によって社会は徐々に衰退していくでしょう。先ほども話をしたのですが「快楽原則」と「現実 原則」の二つの原則の止揚としてあらゆる労働、生産、創造が行われてきたわけですがオルガスマトンはそれらの息の根を止めます。学習や長期記憶に優れた動 物の持っている「スーパーパワー」を減退させることになる。神経科学者リード・モンタギューのいうように人は抽象的な心的観念のみでも快楽が引き出される ようになっています。それによって原始的なセックスや食べ物などの刺激によって引き起こされる生来の快感は、経験によってより複雑な現象へと変容さること ができる。この「スーパーパワー」こそが芸術の起源でもあるわけですが、この「スーパーパワー」のために即時の満足ではなく将来の満足を求める結果として 人は努力し、堪え忍ぶわけですね。喜びは理性によって控えめに追求したほうが長続きするし達成感もあるということを学習していくわけです。つまりフーコー が言うように「快楽のためには節制が必要」だということです。快というものは本来は節制の中で求めなければならない、快は努力して得られなければならな い、快は自然に得られるものでなくてはならない、快を遠ざけなければ精神の成長はないという古典的なスキームはどれもこの「スーパーパワー」を担保するた めの処方箋であったと解釈できます。だからこそ人は宗教的な理由に基づいて性的な活動を慎み、また政治的、スピリチュアルな理由によってハンガーストライ キや苦行を行うことにより報酬系を活性化させているわけです。人間のあらゆる行動や文化はこの現象に立脚しています。そして前時代のように貞節さが美徳と された社会では女性が最も重要な快楽を握っていて、それを手にするためには女性の同意、了承を得る必要があるという事実がヨーロッパの文化、学問を推進し てきました。さらに言えば、報酬系が単独で活動しても色合いも深みもない無乾燥な快感が生じるだけです。快楽が深みを持つためには記憶、連想、感情、社会 的意味、光景、音、匂いで飾り立てられる必要があり、それが生き甲斐、達成感として実感されるということです。しかしオルガスマトン使用者にはそういった リンクが存在しないですよね?
ハルトマン:オルガスマトンを上手くマネンジメントすれば社会的に好ましいものと快楽を関連づけることが理論上は可 能です。例えば子供に快感を褒美として与えるなどして勤勉な方向にモチベーションを向けることができるのではないでしょうか。自己報酬システムが脳の主た る動因源だとすれば、これをコントロールする外的技術を教育者が利用することで課題の遂行にあたってすべての知的リソース、情動的資源を制御することがで きるのではないでしょうか。
ゼノン:いやいや、そんなのはマインドコントロールに他ならないでしょう。なにを考えているんですか。
グル ジェフ:ただ、ただですよ。オルガスマトンは人間の創造性を向上させることができるかもしれないんですよ。ドーパミンは快感、陶酔感、やる気、自発性、攻 撃性、創造性、統合失調症に深く関与していることが知られています。ここで重要なのはドーパミンが新しい脳内ネットワークを作る鍵になっているということ です。ドーパミンには記憶の速やかな定着、情報処理の効率化、新しい発想の思いつきを強める働きがあります。好きなことには色々と頭が働くし、よく覚えら れるのはこのためです。気持ちよさ、楽しさは我々が自発的に物事を考え新たな工夫をしていく上で極めて重要であり「好きこそものの上手なれ」とはまさしく これを言い当てているわけです。そしてオルガスマトンでA10神経を過剰活動させれば創造性に繋がる過大妄想が生じることがわかっています。前頭葉にドー パミンが溢れると統合失調症の陽性状態に近くなり、普通無関係と思えるところに因果関係を見いだせてしまうのですが、このように脳内を飛び交う連想が自己 組織化によって新たな思考を生じたとき、その結果が創造であるといえます。「狂気と天才は紙一重」という言葉の背景にはこのドーパミンがあるわけです。統 合失調症気質の天才は数え切れないほどいます。ウィトゲンシュタイン、カフカ、マーラー、ウェーベルン、ニュートン、アインシュタイン、ナッシュ、ムン ク、ヘンダーリン、アルトー、ニーチェ、シベリウス、ショパン、スメタナ、ドビュッシー、ヴォルフらが伝記を見る限りその気がありましたね。そして統合失 調症患者の家系は従来の家系に比べて平均知能の高さ、宗教や芸術への関心、科学的創造性、サイコパスが凝縮した形で見られることがわかっています。
ゼ ノン:いえ、私はこの装置の使用により二十億総白痴化が起こることを危惧しています。男女が結合し至福の瞬間、つまりオルガスムスに達したときにはアル コールやドラッグと同様に意識や思考を司る大脳皮質を含む脳全体に大幅な機能低下が起こります。また、判断や社会的推論の中枢である左腹内側皮質などの活 動も低下することがわかっています。オルガスムスの際に論理的評価や推測が保留されるのはこのためです。ともかく、オルガスマトンは人の頭を真っ白にす る。このようなオルガスムスが永遠に続いたらすぐに肉食獣の餌食になるか、ライバルに殺されるか、あるいは体液不足で死ぬことになります。そのため、この ような快楽により生物が外界の要求に適応できなくなる前に感情の平滑化作用により、どんな快楽や幸せも減衰していくというわけです。しかし、オルガスマト ンはこの快楽を持続させるわけで、この長期的な快感によってシンナーより緩慢に大脳皮質が萎縮し、脳室が拡大する危険性があります。そして無気力、集中力 低下、判断力低下、無為などの無動機症候群や痴呆などの脳器質性障害が引き起こされると私は予想しています。まだ、長期的な影響のデータがないため、断定 はできませんが、オルガスマトンは使い方によっては阿片戦争のときの阿片のように敵国を骨抜きにすることもできる。オルガスマトンは人類の慢性自殺、成長 阻害装置、歴史のピリオド、究極の兵器であるともいえます。実際オルガスマトンは兵器にも転用することができ、本来は大変危険なものだということを再認識 しておく必要があります。今のところセキュリティの強健性からオルガスマトンが乗っ取られることは考えにくいのですが、この装置は快感の大きさによっては 唾液と汗による脱水症状、呼吸困難、心臓発作、血管に関わる疾患などによって人を虐殺することができます。さらに他人にそれが制御できてしまうようになっ た場合にはその人に自分の好みをも操られてしまう可能性があるということです。具体的に言うならば外部からわずかにドーパミンレベルを調節されることに よってその人の嗜好がドーパミンレベルが高まる現象の周辺にある言語的シンボルと文化的パターンに関連した形で形成される。昔の言葉で言うのならば「パブ ロフの犬効果」によってその人の味、音楽、におい、人の好き嫌いといった嗜好が決まるということです。そして人は感情の高鳴りと状況の整合するような理屈 を人為的に作り上げるという性質があります。だからこそ人は吊り橋を異性と渡るだけで恋に落ちる。
 人類ははじめて麻薬と出会ってから、あらゆる 手段を使ってよりたくさんのより強力なドラッグを手に入れようとしてきました。サイコアクティヴ物質の歴史は軍拡競争に似ているといえます。技術革新が絶 え間なく人類の堕落や破滅を推進してしまう。そしてその終着点としてこのオルガスマトンがあると私は考えています。
アタラクシア:本日は皆様、貴 重なご意見をありがとうございました。今回、既に先生から幾つかご意見をいただいておりますけれども、引き続き先生からのご意見は書面でも受け付けますの でもし、よろしければ、あらかじめメールなり、文化娯楽福祉省のクラウドなりで我々に頂ければ、次回の審議に付したいと考えておりますので、是非、よろし くお願い申し上げます。それでは、第一回の意見聴取会はこれで終了とさせていただきます。どうもありがとうございました。



 夥 しい数の色胞がへばりついた光球ドームの像が消え、一瞬の暗黒が訪れる。そこに、とある個体が体皮の色素胞のきめ細やかさに呼応した画素数で曙光をてらて らと目映かせはじめるのであった。その明光は暗黒のプラネタリウムを埋め尽くすコウイカ目の子孫たちの視細胞を通じてラング-スティル-エクリチュール連 結を形成させる。
「これが…復元された電子文書です。私はこれがホモ・サピエンス絶滅の原因解明のための第一階層文書(レイヤー・ワン・テクスト)であると捉えています」
 ドーム内にそそり立つサルスベリの亜種に、発光体は五頭身を中刷りにして体重を預けている。
「こ の文書が見つかる以前にはホモ・サピエンス絶滅の原因は人口増加とそれによる資源の争奪や隕石の衝突、地軸逆転のようなもの、あるいはそれらの重畳が考え られていました。私自身はこの文書が見つかる前までは「ホモ・サピエンスはその誕生から約500万年後に訪れた氷河期に差し掛かった際の資源争いで反物質 爆弾を用いたホッブス的闘争によって絶滅した」という仮説を検証していたところでした。この”第二パンゲア”の地表を穿つ無数のクレーターの跡は反物質爆 弾の炸裂した跡ではないかと」
 発光体は粘着質の異様に長い、いくつもの触腕を機敏に三脚状に束ねて地面へと体重をかけはじめた。吸盤を噤んでできた肉球がそれをしなやかに吸収してみせる。
「し かし、この文書を精読し、彼らが単なる環境変化よりも遙かに込み入った理由で絶滅したのではないかと考えるようになったのです。彼らのような脊椎動物は私 たちのような無脊椎動物とは違い、脳内麻薬によってその行動の方向性を定めていたのです。快楽原則は脊椎動物の行動に関する万物理論であったといえるかも しれません。自然淘汰によって報酬系は生殖活動のモチベーションを高める感情を優遇し、反対にそれを無関心にさせる方向に働く遺伝子をシステマティックに 排除するようになったのです。そして自身の健康状態、子孫存続能力を香水、ルージュ、ダンス、歌によって修飾、模写することによって異性を惹きつけてきた というわけです」
 腹膜の小さな気孔はぷかぷかと定期的に空気を排出してはいるが声を発するようにはできていない。
「脊椎動物のなかでも 子供を両性で育てる脊椎動物の雌はオーガズムを多く感じる傾向にあったようです。特にホモ・サピエンスの場合には子供が未熟であるネオテニーの期間が長 く、夫婦の絆を担保する観点から他のほ乳類に比べて強いオルガスムスを得るようになったようです。そしてホモ・サピエンスは、ほ乳類では珍しく直立歩行を するため、性交後に雌が横たわったままじっとしている方がフローバックが少なく、受胎する確率が高かったということも関係しているかもしれません。ともか く、ほ乳類の中でも最も高い知性と最も強いオルガスムスを手にしたホモ・サピエンスがオルガスムスを自由に再現できる禁断の果実にたどり着いてしまった。 その際にどのような議論がなされたのかを皆様に本日ご紹介させていただいたということです。脊椎動物の長がどのようにして快楽原則に支配され、自滅して いったのかを」
 発光体の燐光が止むと、ドームに感謝を意味する単色の潮が満ちたのであった。

 


この本の内容は以上です。


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