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 リスナーのことを考えているのは彼らのほうではないか。

 現に、会場ではカメラや写メで会場やステージが取り放題という。

ライブが始まってメンバーが出てきも自由にステージの写真を撮っていい。これも最近ほとんど聞いたことがない。海外では公然と行われているらしい。

 マナーとか、ネタばれとか、肖像権とか、いろんな制約やルールがあって、会場内ましてやステージやメンバーの写真を撮るなんてもってのほかというのが当たり前のルールの日本。

 彼らのライブは自由なのである。記念写真にして友達に送ったり、ラインやツイッターやブログにアップしたりしていいのだ。

 


 ロックバンドは「みんな、自由にしててくれ」と掲げつつカメラがあることを許さない。

 それを考えると、カメラを許していた“SEKAI NO OWARI”の方がずいぶん自由である。

 現実とロマンを語ることによってリスナーの心を解放していこうとするロックバンドよりも、ファンタジー(幻想)を緻密に演出してその瞬間だけでも一二〇パーセント心を解放させる“SEKAI NO OWARI”の方にロマンがないだろうか。

 

 

圧倒的なエンターテイメントを現実世界にぶつけることが、↓


圧倒的なエンターテイメントを現実世界にぶつけることが、今の時代に戦いを挑む一番の戦闘方法な気がする。

 

例えば、二〇一四年に活動を再開した銀杏ボーイズの峯田も最近のインタビューでそのようなことを語っている。

「エンターテイメントがドキュメントを食い潰すところを見せてやりたいと思った」「そのカタルシスをもう1回作り出したいんだ」「今はみんな裏側を見ようとするけど、そこに真実なんてない。真実は作品の奥にあるんだよ」といっていた。

 

“神聖かまってちゃん”は自身の姿を↓


“神聖かまってちゃん”は自身の姿をさらす、ネット配信を行うバンドだ。

ファンタジーとは真逆である。ネットにアップされ続けるその映像はドキュメンタリーといえる。

 

 

 

の子はときには爆笑したり、ときには号泣したり、ときにはメンバーと殴り合いのケンカを↓


の子はときには爆笑したり、ときには号泣したり、ときにはメンバーと殴り合いのケンカをノーカットでリスナーに届けるからだ。

“神聖かまってちゃん”の裏側は、バンドの裏側であり、人間の裏側でもある。そのドキュメンタリー性が彼らを物語として構築していく。

 

 

 

ドキュメンタリーは所詮ドキュメンタリーの粋を出ないと思われる。峯田のいうように、真正面からぶつかれば、エンターテイメントに負けてしまう。

 しかし、“神聖かまってちゃん”を追っていくと、彼らの姿に心を打たれる。

 奇跡が約束されないのがドキュメンタリーだが、彼らのそれはエンターテイメントに満ちていた。

 

 

千葉県のかつてひきこもりだった少年が



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