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 ワー!

 

 人々は両手を打ち鳴らし、喝采をあげた。
 闇に包まれた開場の中、唯一ライトアップされたステージに佇んでいるのは、大小様々な楽器を持った楽師達。喝采に沸いた会場に向かって同時に頭を下げると、一人、また一人と裏手へとはけて行く。
 ステージを照らしていたライトが消えると、自然と喝采も収まり、暗闇と静寂が場を支配した。
 なのにも関わらず、開場の人々の視線はステージ上から動かない。
 それもそのはず。まだ公演の全ては終わってはおらず、まだとりが控えている。そしてそのとりこそ、人々が待ちわびていたもの。
 再びステージにライトがつけられた。先ほどのように全体を照らすのではなく、中央の一点のみを照らす、最小限のもの。
 舞台袖から、一人の小柄な影が姿を現した。人々の視線が、現れた影に一斉に集まる。
 ライトアップされた中央に現れたのは、小さな少女だった。襟首で切り揃えられた黒髪に、若干緊張した面持ちを宿した黒い瞳。純白の衣装に覆われた右腕とは裏腹に、肩から先が露になっている左肩は、とても華奢で細く頼りない。
 初めて公演を見た者はそろって眉間を寄せる。
 こんな小さく華奢な少女が歌うのか。己が望んでいる至高の歌を本当に聞かせてくれるのか。
 しかし左右非対称な純白の衣装こそが、彼女がとりを勤める最高の歌い手『神鳥』であることを意味している。それでも過ぎる不安を抱いてしまうほど、舞台に立つ少女は儚い雰囲気を纏っていた。
 少女が大きく息を吸い込む、そして――

 

「――」

 

 紡がれた歌声に人々は大きく目を見開いた。華奢な身体から発せられたとは思えないほどの声量が、広い開場を所狭しと駆け巡る。高音を発しているというのに、とても耳に心地良い。音程の変化もはっきりわかるほどメリハリがあり、なのに上擦るということもなく。開場全ての人間がうっとりと聞き惚れるのに時間はかからなかった。
 『神鳥』が全ての歌を歌い上げると、静寂が再び場を支配する。しかし、少女が客席に向かってペコリと頭を下げた途端、我に返った客達は一斉に両手を叩き始めた。まばらだった拍手が合わさり、次第に大きくなっていく。

 

 ビタン!

 

 が、それは一つの有りえない音と共に突然ピタリと止まってしまった。その音の発生源はステージ上。先ほどまで高々と歌い上げた『神鳥』の少女が、顔を抑えながら蹲っている。

 

「――!」

 

 少女は慌てて立ち上がると、客席に向かって一度頭を下げ、顔を抑えながら舞台袖へとはけていく。
 何もない舞台上で彼女は転んだのだと気づいたときには、既に開場に明かりが灯され、すっかり明るくなってしまった後だった。

 

 

 

 

 

(ま……またやっちゃったよ……!)

 

 リーベはずきずきと痛む額を押さえながら、焦りや羞恥の入り混じった複雑な感情と合わさって泣きたくなるのを寸でで堪えていた。衣装を脱ぐのも忘れたまま、楽屋の片隅で膝を抱えて蹲る。

 

「リーベ。いい加減落ち込んでないで、早く着替えな。落ち込む気持ちもわからなくはないけど、衣装係に迷惑がかかってしまうよ」
「ううううう……」

 

 頭上から注がれる少し呆れの混じった声を聞きながらゆっくりと首を動かすと、案の定そこにはよく見知った長身の幼馴染が、腰に手を当てながらこちらを見下ろしていた。

 

「フォクノぉ……」
「ほら、立つ。着替えはここにあるから、衣装脱いでちゃんと畳んで返さないと」
「うん……」

 

 友人フォクノに促され、リーベは徐に立ち上がり、手渡された着替えを近くのテーブルの上に置いて、着替え始める。明日もまた公演があるのだから、すぐに返さなければ衣装を管理している係りの者に迷惑をかけてしまうだろう。舞台上で転んでしまうという失態を犯したのだから、これ以上の迷惑は避けたい。
 ひらひらとした純白の衣装を脱ぎ、普段着慣れたベージュのワンピースに身を通す。それだけで、腹の中に溜まっていた窮屈な空気が抜けていくような気がした。幾分か気分が楽になる。

 

「じゃあ衣装返しに行こうか」
「うん」

 

 背の高い彼女の傍に並んで楽屋を出る。すれ違う楽団員達と会釈を交わしながら、衣装室へと辿り着いた。

 

「失礼しまーす」
「あら、フォクノにリーベ」

 

 衣装室の扉を開けると、そこには楽団の先輩達が備え付けの椅子に腰掛け、世間話に花を咲かせていたようだ。衣装ではなく既に私服で、化粧も落としている。完全にリラックスしているようだった。

 

「お疲れ様、姉さん達」
「お疲れ様です」
「二人もお疲れ様。特にリーベ、今日の歌もよかったわよお」
「あ、ありがとうございます」

 

 彼女達はリーベと同じ歌い手であり、少人数でのアンサンブルやカルテットをメインに歌う、精鋭達だ。そんな先達に褒められて、リーベは頬を紅潮させながらペコペコと頭を下げる。

 

「まあ、最後に転んだのはいただけないけどねぇ」
「うう……!」

 

 容赦のない一言に、リーベは言葉を詰まらせた。しかし正論である。舞台上で転ぶだなんて、本来あってはならないことなのだ。なのにリーベはまた、やらかしてしまった。それを咎められて、文句など言えるはずもない。

 

「何もない舞台上を歩くだけで転べるのって、リーベだけよねぇ。ある意味すごいことだわ」
「そうよねー。そういえば常連客の間では、公演でリーベが転ぶか否かの賭けが流行ってるそうよ」
「それ本当? なら、転ばないに駆けた人は大損したってわけね」
「え……え?」

 

 まさか己が賭けの対象になっているだなんて。それも失態に関することで。さあっと顔が青ざめる。一体、どれだけの人に舞台上の失態が伝わってしまっているのだろう。

 

「や、やっぱり無謀すぎたんだよ……わたしが、わたしが『神鳥』だなんて……!」

 

 何度も舞台上で転んでしまうような人間に『神鳥』など勤まるはずがない。
 『神鳥』とは、音楽を披露する場所であるミュージアムのとりを勤める、ミュージアムが誇る至高の歌い手への称号だ。
 元々『神鳥』とは、大昔に信仰されていた神の心を癒すために唄ったとされる鳥のことである。至高の歌声を持つ神鳥の歌声は神のためだけにあり、何処へと飛び去ってしまわないよう、羽は片羽しかない。神鳥の衣装が左右アンバランスなのはそのためだ。
 かつて信仰が盛んだった頃は人間達も神の心を癒すためにと、多くの歌を作曲し、天へと捧げた。しかし時が流れるにつれて信仰そのものは失われ、神に捧げた歌だけが現代に残っている。
 神を楽しませるために作られた歌が、今では一般の人々を楽しませるものへと姿を変えた。そして歌や演奏を披露する会場はミュージアムと呼ばれ、その中でも最も歌の上手い歌い手を神の鳥から肖り、『神鳥』と呼ばれるようになったのだ。

 

「ユナフィアオーナーに言ってこないと……やっぱりわたしに神鳥はムリですって」

 

 神鳥の質は、そのままミュージアム全体の質といわれている。そんな重大な役目を、入団してから一年も経っていないリーベが担うなど、やはり無謀以外の何者でもなかったのだ。何度も舞台上で転び、あまつさえ賭け事の対象になってしまう者など、神鳥に相応しいわけがない。

 

「え、ちょ、ちょっとリーベ!」
「待ちなってリーベ……姉さん達、からかいすぎ」

 

 オーナーがいるであろう部屋へ行こうとするも、フォクノに肩を掴まれて阻まれる。じわりと熱くなる目尻を懸命に堪えながら振り返ると、先輩達はあたふたと慌てていた。

 

「ごめんなさいね、まさかそこまで気にしてるなんて思ってなくて……」
「あたし達ちゃんと知ってるのよ、リーベが舞台上で転ばないように、毎日練習してるの」

 

 リーベとて、ただ毎度毎度転んでいるわけじゃない。ヒールのある靴に慣れるべく、毎日履いて慣らそうとしたり、何度も舞台上を行ったりきたりして転ばなくなる練習を重ねている。

 

「ちゃんとその成果は出てるじゃない。最初の頃なんて出だしから転んでたのに、今転ぶのは終わった後だもの」
「歌ってる最中は一回も転んだことないのは流石よねぇ」
「それに転ばなかったこともあったじゃない。……まだ三回くらいだけど」

 

 初めの頃は、舞台袖から出た直後に転んでしまい、お客さんをとても不安にさせてしまったと思う。今でもまだ転ぶものの、出だしでは転ばなくなったのは事実だ。それに、まだ数は少ないが転ばずに終わらせられたこともある。いずれは転んでいたことが嘘のように、転ばなくなる日もそう遠くはないかもしれない。

 

「ほらリーベ、あなたの好きなトンツェルの焼き菓子よ。お客さんからの差し入れだから、遠慮しないで食べて」
「トンツェルの焼き菓子……! いただきます!」

 

 トンツェルとは、この街フォーリエストに昔からある、老舗の焼き菓子店だ。昔ながらの味を守り続け、毎日のように行列が出来ている人気店でもある。フォーリエストに住んでいる人間ならば、きっと知らぬ人はいないだろう。
 リーベは甘いものが好きだ。だから当然、トンツェルの焼き菓子も大好物である。トンツェルの焼き菓子を食べることが出来たのは、フォーリエスト唯一のミュージアムであるカーテュアリーミュージアムに所属して、たくさんのお客さんから拍手をもらったことの次に感動したことだ。人気店であるが故に、並んでも売り切れてしまうことも多々あるため、実際に食べることが出来たのは、入団してからが初めてだったのだ。
 焼き菓子を口に運ぶと、さくっとした食感と共に、ふわりとした甘さが口いっぱいに広がる。自然と口元が緩むのを感じた。
 そして焼き菓子に夢中なリーベには、先輩達がお互い親指を立てあっていることに気づかない。

 

「焼き菓子一つで簡単に機嫌が直るもんだから、からかわれ続けてるんだろうな……」
「ん? フォクノ何か言った?」
「いんや、なにも」
「ほら、リーベもっと食べていいわよ」
「! ありがとうございます!」

 

 先輩に勧められ、もう一つ手にとり口へと運んだ。幸せそうに焼き菓子を食べるリーベの姿に、先ほどまでの悲哀な表情は微塵もない。
 さらにもう一つ食べようと焼き菓子に手を伸ばしたとき、衣装室の扉が開いた。先輩達は突然口元を引きつらせるが、背を向けているリーベには誰が入ってきたのかわからない。

 

「……あら、こんなところで何をしているの? 『神鳥』さん」
「!」

 

 口調は丁寧だがヒヤリとした声音に、リーベはビクリと背筋を震わせる。恐る恐る振り返ると、そこにいたのは想像していた通りの、豪奢な銀の長い巻き毛と黄金色の瞳を持った華美な美少女の姿。口角はニコリとつりあがっているのに、黄金色の双眸はとても冷たい色を放っている。

 

「こ、こんにちはメリージア、さん……」

 

 恐々と彼女に向かって頭を下げる。先ほどまで焼き菓子で浮き足立っていた心が急速に萎れていくのを感じた。

 

「随分呑気な神鳥さんだこと。舞台で大失態を犯したことなんて、もう気にも留めていないのかしら」
「そ……れは」

 

 リーベは俯きながら胸部の服をぎゅっと掴む。

 

「舞台上で何度も転ぶなんて、やっぱり貴女には神鳥としての自覚がないのではなくて? このカーテュアリーミュージアムに泥を塗っていると気づいていないの? ――何故貴女なんかが神鳥なのかしら」
「っ……」

 

 リーベが神鳥らしくないことは、己が一番理解している。先ほども、自分からオーナーに神鳥を辞することを伝えに行こうかと思っていたところだ。

 

「舞台経験が全くない素人を神鳥に据えるだなんて、本当にどうかしてますわ。神鳥は歌だけでなく洗練された動作も求められるというのに。リーベ、貴女歌さえ歌えればいいと軽んじているのではなくて?」
「か、軽んじてなんて……」

 

 いないという言葉は尻すぼみになって消えていく。
 リーベがカーテュアリーミュージアムに入団したのは、数ヶ月前のこと。昨年度、玉砕覚悟でカーテュアリーミュージアムの入団試験を受け、運良く合格したのだ。それまでのリーベはただ歌が好きな、どこにでもいる極普通の娘だった。当然舞台に立った経験はなく、歌も特別な訓練を受けていたわけでもない。
 そんな自分を知っているからこそ、メリージアの言葉に強く反論することなどできなかった。むしろ、彼女の言う通りだとさえ思う。

 

「――どうしてリーベが神鳥なのかって? そんなの決まってる、リーベがカーテュアリーミュージアムで一番歌が上手いからだよ、お嬢様」

 

 リーベとメリージアの間に、長身の女性が割り込んでくる。フォクノだ。長身の彼女がリーベの前に立つと、メリージアの姿は完全に見えなくなる。

 

「リーベを神鳥に据えるとき、ほぼ全員賛成で決まったと思ったけど。お嬢様がどうしても気になるというのなら、最終決定権のあるユナフィアオーナーに言えばいいじゃないか。彼女ならあたし達とは違って公平な意見をくれるだろうから」

 

 フォクノの言葉に、リーベはだいたい一月ほど前に行われたメリージアとの神鳥の座を賭けた勝負を思い出す。
 そう、メリージアはカーテュアリーミュージアムで、リーベの前に神鳥を務めていた元神鳥だ。
 リーベはミュージアムに入団してからまだ数ヶ月しか経っていない新米である。それなのにミュージアムで最高の歌い手が務める神鳥をしているのかといえば、メリージアと神鳥の座を賭けて勝負をし、勝ってしまったからだ。

 

「お前ね、わたくしの神鳥を狙う愚か者は」

 

 ある日舞台が終わってフォクノと共に差し入れの焼き菓子を食べてリラックスしているところに、彼女は突然そんなことを言ってリーベの前に現れた。

 

「え……?」
「惚けても無駄よ。先ほどわたくしはこの耳で、しっかりと聞いたのだから」

 

 惚けるもなにも、リーベは全く身に覚えがない。それどころか、今回の公演から初めて舞台に立ったばかりだ。合唱の一人として混ざり、大勢のお客さんの前で歌うことができると毎日感動の連続である。
 新米の身で舞台に立たせてくれたことだけでも充分なのに、更に神鳥を狙うなどと、痴がましい。そして恐れ多すぎる。
 何とかメリージアの誤解を解こうと説得するが、彼女は黄金の瞳をつり上げたまま、こちらを睨みつけてくるばかりだ。そしてその場を収めたのは、リーベを庇ってくれたフォクノだった。

 

「なら、オーナーに言ってどっちが神鳥に相応しいか勝負するっていうのはどう? それなら公平にどっちが神鳥に相応しいかわかるだろうよ」

 

 フォクノのその言葉にメリージアは納得し去っていったが、変わりにリーベは全身から冷や汗が流れた。神鳥であるメリージアと勝負することもまた、恐れ多くてできるわけがない。
 あわあわと慌てるリーベをよそに、神鳥を掛けての勝負の舞台は日々順当に整ってしまう。先輩達からは応援していると激励されたが、リーベは直前まで逃げ出したい思いでいっぱいだった。
 リーベは神鳥など望んではいないし、美しいメリージアこそ神鳥に相応しいと心から思っていたのもある。どうして彼女はリーベが神鳥を狙っていると誤解してしまったのか、さっぱり検討もつかないくらいだった。
 そして勝負が始まる直前フォクノに泣きつくと、彼女はこういった。

 

「別に勝とうが負けようが、どっちでもいいじゃん。リーベはただ、いつもみたいに歌えばいいだけだよ」

 

 勝ち負けは関係ない。いつも通り歌えばいい。その言葉にリーベの心は漸く落ち着きを取り戻す。
 そうだ、勝負だなんだと考えるから怖く思ってしまうのだ。ただ特殊な舞台で、いつも通り歌うだけと考えれば、別段怖いことなどなにもない。
 そしてリーベはその舞台で課題曲を独り熱唱する。観客席側からはリーベの姿が見えない特殊な舞台の上、いつものようにのびのびと歌ってみた。
 勝つつもりなど全くなかったリーベであったが、なんと全員一致でリーベの勝利という結果に終わる。

 

 この結果に一番驚いたのはきっとリーベであろう。負けたいと思って歌ったわけでもなかったが、まさかメリージアに勝てるだなんて微塵も思っていなかったのだ。

 

「……! フォクノ・サラサ……! 雑用ごときがわたくしに意見をするつもり? リーベ共々、忌々しい娘ね……!」

 

 メリージアの声のトーンが明らかに低くなり、苛立ちが混じる。フォクノがリーベの眼前にいるとはいえ、彼女の敵意はリーベにも向けられているのだとすぐにわかった。思わずフォクノの背中の後ろで小さく縮こまる。

 

「その雑用がいることで、歌い手は歌うことだけに集中できていることをお忘れなく。下の人間を見下してると、いつか足元掬われるよ」
「口の聞き方が相変わらずなってませんこと……! このわたくしを誰だと思って」
「優雅な暮らしなんてしたことがないもので。お金持ちの人への言葉遣いなんて、学んだことないんだよ。悪いね、コントクト商家のお嬢様」

 

 コントクト商家とは、今から一年程前にフォーリエストに勢力を伸ばしてきた、大手の商家のことである。
 フォーリエストは大国リファラムド王国に属する、豊かな自然に恵まれた、長閑な田舎街だ。それ故に、数年前から王都に住まう貴族達の保養地として利用されてきた。カーテュアリーミュージアムが建設されたのも、その時期である。空いた時間を持て余す貴族のため、充実した余暇を過ごしてもらうために、カーテュアリーミュージアムは建てられた。
 それでも利用者の大半はフォーリエストの住民達だ。元々娯楽が少なかったこの地に出来た、音楽を楽しめるミュージアム。入場料は決して安くはないが、一般市民でも手が出ないほど高額なわけでもない。たまの休暇に家族で訪れるフォーリエストの市民は多く、今でも賑わいを見せている。貴族がフォーリエストに滞在する期間は限られているのだから、彼らの為だけに公演していては採算が合わないのだ。だからカーテュアリーミュージアムで演奏される曲目は、誰でも楽しめるような明るい曲調のものが大半を占める。


 しかし一年程前にコントクト商家がやってくると、少し事情が変わってしまった。彼らは率先してフォーリエストの開発を進め、貴族の為の保有地を増やし始めたのである。貴族がフォーリエストを訪れる機会は増えに増え、最近ではしっとりとした、上品な曲調の歌を増やすようになっていた。
 今はまだ貴族よりも市民の方が客の数は勝ってはいるが、更に開発が進めばもっと貴族の客は増える一方だろう。それは同時に、一般市民がミュージアムを利用できなくなる可能性を秘めていた。
 それ故に、フォーリエスト住民は開発を推し進めていくコントクト商家を、快く思っていない者が多い。リーベも、できるだけ多くの人に歌を楽しんで欲しいと思っているため、特定の者達だけしか音楽を楽しめなくなるのは嫌だなぁと思っていたりもする。

 

「本当に口の減らない……っ!」

 

 メリージアは、息を詰まらせると、勢いよく踵を返し、憤りを露にしながら、バン、と衣装室の扉を開けた。そして閉めることなくドスドスと足音を立てながら去っていく。

 

「リーベ、大丈夫?」

 

 メリージアの姿が見えなくなった直後、先輩達がリーベの周りに集まって心配そうに顔を覗き込んでくる。

 

「あ、はい……大丈夫、です」
「全く……漸くリーベの意気を浮上させたっていうのに、余計なことしかしてくれないお嬢様だ」
「フォ、フォクノ……!」

 

 面倒くさそうに頭を掻きながら呟くフォクノに、思わずリーベは慌てた。呟くと言っても潜めるには音量が大きすぎる。メリージアに聞こえてしまっていたら、彼女はまた怒るかもしれない。しかしフォクノはもう近くにはいないから大丈夫だと、カラカラと笑った。

 

「でもフォクノの言ってることも本当よねぇ。楽都のセーレーンでも神鳥をやってたからって、誰に対しても高圧的だし」
「そうそう。でも、実力も確かなのも腹立つわ。前々神鳥の姉さんに向かって実力がある方が神鳥に相応しいとか言ってさ。まあ、同じ理由でリーベに神鳥をとられたときはスカっとしたけど」
「ほんとほんと。だから本当にリーベには感謝してるわ。あいつから神鳥を勝ち取ってくれたんだもの」

 

 誰に対しても上から目線なメリージアではあるが、彼女の細い喉から放たれる歌声もまた素晴らしいの一言である。艶やかな声音に溢れる声量。音楽の聖地である楽都セーレーンでも神鳥を勤めていたという言葉に、偽りなしの実力だ。
 そんな彼女のことを、リーベはこっそり憧れたりしているのだが、メリージアからは嫌われているようで悲しい。舞台で転ぶことがなくなれば、少しくらいは認めてくれるだろうか。

 

「リーベ、あんたは実力で神鳥をお嬢様から勝ち取ったんだ。だからもっと胸を張りな。そこは自信持つべきなんだからね」
「う、うん……」

 

 正直なところ、今でもリーベは自分なんかよりも、メリージアの方が神鳥に相応しいと思っている。見た目も美しく、誇りを持って堂々と歌う彼女の姿はリーベの理想通りの神鳥そのものだ。それに何より、彼女はステージ上で転んだりはしない。

 

「そうね、フォクノの言うとおりよ。リーベはむしろあのお嬢様を少しは見習うべきね。あそこまで傲岸不遜になられたら嫌だけど」
「堂々としてるリーベなんて全然想像できないけどね」

 

 思えば、リーベはいつも転びやしないかとビクビク怯えるばかりで、おどおどしている。メリージアが輝いて見えるのは、彼女はいつも堂々と前を向いているからだろう。

 

(転ばないようになったら……わたしも、メリージアさんみたいになれるかな)

 

 彼女のような素敵な神鳥になる。リーベは胸の前でぐっと両手を握り締めた。

 

「わたし、今から転ばない練習してくる!」

 

 善は急げだ。今までの練習もきちんと身についているのだから、もっと練習して絶対に転ばないようになりたい。いや、ならなければ。
 リーベは先輩達に向かって軽く頭を下げてから、バタバタと衣装室を後にした。

 

「よし、これで完全に浮上したな」
「今日のところは大丈夫ね。あ、フォクノも焼き菓子食べる? 落ち込みやすいリーベの軌道修正、いつもご苦労様」
「あ、食べる食べる。ありがと、姉さんたち。リーベとはちっさい頃から一緒だから、今に始まったことじゃないし、大変なことでもないよ」

 

 リーベが去った後の衣装室で交わされた言葉を、リーベが知る術はない。


 憎い。憎い。憎らしい。


 メリージアは大きく足音を立てながら、廊下を早足で歩いていく。すれ違う雑用達がこちらをぎょっとした目で見るが、今のメリージアにそんなものは映らなかった。


(あんな小娘に……あんな田舎臭い小娘に神鳥の座を奪われるだなんて……!)


 自身の楽屋の扉を勢いよく開くと、中でおしゃべりにでも興じていたのか、家から連れてきた侍女達が、驚いたような顔をこちらに向ける。特にそのことを追求するでもなく、専用の己の椅子にドカリと座ると、彼女達は慌ててメリージアの髪を梳かし始めた。


「メ、メリージアお嬢様、失礼いたしますね」
「お、お嬢様、お飲み物は何か召し上がりますか?」
「ち、父君様からの差し入れもございますよ。とっても美味しそうなフルーツです」
「……紅茶を淹れなさい。淹れたて以外は認めないわ。フルーツは結構よ。今は何も食べたくはないの」
「は、はい。かしこまりました」


 一人が湯を取りに行くべく楽屋を出て行くのを横目で見つつ、残りの侍女にマッサージを促す。一人は肩を、もう一人は足を念入りに揉んでいく。


(全く……マッサージさせる相手もわざわざ家から連れてこないといけないなんて、これだから田舎のミュージアムは)


 以前メリージアが所属していたのは、ここリファラムド王国内でも有数の楽都と呼ばれるセーレーンの一流のミュージアムだ。歌い手はもちろん、歌い手一人一人を丁寧にケアする人間も、数多く在席していた。喉が渇いたと言う前に飲み物を用意し、差し入れのフルーツは食べ易くカットされ、マッサージ専用のスタッフまで揃っている。
 なのにこのカーテュアリーミュージアムときたら、最高の歌い手である神鳥にすら、公演後の労いをしてくれる専門のスタッフが存在しない。
 雑用は無駄に多くいるくせに、彼らがすることといったら会場の掃除や、設備や楽器の点検などと、どうでもいいことばかりだ。


 それをわざわざ進言したにも関わらず、責任者であるオーナーのユナフィアから返ってきたのは、そんなことをするための費用はない、の言葉だけ。今まで必要としていなかったのだから、これからも必要ないと。更には、そんなに必要ならば自分で用意してくれとのたまう始末。


 そもそも、メリージアがこんな片田舎の街に来るはめになったのは、父の仕事の都合である。更なる利益を得るべく、未だ発展途上なフォーリエストに目をつけ、家族揃ってやってきた。


 本当ならば、こんな田舎臭いミュージアムなどこちらから願い下げではあるが、フォーリエストにあるミュージアムは、このカーテュアリーミュージアムただ一つ。メリージアの高貴なる歌声を披露できる場所は、ここしかないのだ。他にミュージアムが存在しない以上、責任者の言葉を呑むしかない。


(やっぱりわたくしが最も輝けるのは楽都しかないわ……! いつになったら戻れるのかしら)


 独りでフォーリエストに行くのは寂しいと父に言われてしまったら、ついて行かないわけにもいかず、楽都を離れたのは半ば仕方なくだ。決して好んで来たわけではない。


(洗練されたわたくしの歌よりも、田舎娘の歌の方がいいだなんて、この街の人間は耳まで田舎臭いのだから嫌になる。そうでなければ、わたくしがあんな小娘なんかに負けるものですか……!)


 沸々と苛立ちが湧き上がり、自然と手に力が篭ってギリリと握り締める。当時の記憶が甦った。


 メリージアがフォーリエストにやってきたばかりの日、彼女が真っ先に向かったのは唯一のミュージアムだ。こんな片田舎の神鳥よりも、楽都で神鳥をしていたメリージアの方が高い実力の持ち主だということは、自明の理。だからこそメリージアは言ったのだ、実力がある方が神鳥をするべきだと。
 しかしここで神鳥をしていた娘はとても頑固で、神鳥を譲るつもりはないと言ってきた。誰がどう見てもメリージアよりも劣っているにも関わらず。メリージアと彼女の口論は平行線で、終わりが見えなかった。


 そこでユナフィアは二人を勝負させることにした。一般で審査員を公募し、姿を現さず歌声だけでどちらがよかったかを比べてもらう。数の多い方が勝ちという極めて単純明快な勝負方法だ。
 そして当然ながら、メリージアは圧勝した。結果が判明したときの悔しそうに顔を歪ませる彼女の顔は、実に見物だったことをよく覚えている。初めから大人しくメリージアに神鳥を譲っていれば、そんな屈辱は受けなかったものを。


 後日、彼女がミュージアムを辞したと聞いたときも、特に感慨は抱かなかった。


 神鳥を見事に勝ち取ったメリージアは、多少とは言えない不備に不満はあれど、大勢の観客の喝采を受けて満足していた。田舎者が多いと聞いていたため、マナーの心配をしていたのだが、そこは杞憂に終わる。
 状況が変わってしまったのは、数ヶ月前。一人の少女が新しく入団したときのこと。


 見た目はどこにでもいるような、ちっぽけな娘だった。背は低いし、髪と目も地味な黒色。おまけに動きが鈍くとろくさいときた。はっきり言って、見とめる価値もない小娘としか思えず、視界に納めるということはしなかった。どうしてこんな少女が入団試験に受かったのかなんて、考えもせず。
 基本、入団したばかりの歌い手は、日々発声練習に精を出すもの。舞台に立てるのは充分な実力を身につけてからだ。なのに、その少女は入団して日が浅いにも関わらず、もう舞台に立つということを耳にした。
 舞台に立つと言っても、大勢が一斉に歌う合唱に参加するだけだ。少し素質のある人間ならば、それくらいは別に珍しくはないし、何よりここは田舎のミュージアムだ。多少レベルが低くとも充分と見なされた可能性もある。
 だから、このときもまたメリージアは、少女のことに見向きもしなかった。
 そして事態は今から大体一ヶ月程前に遡る。いつものように公演を終え、リラックスしようと、楽屋へ向かう最中のことだった。


「――よね!」
「うんうん、あたしもそう思うわ。リハーサルでも、あたしあの子の歌に思わず聞き惚れちゃったし」


 ある楽屋から聞こえてくる歌い手達の他愛ない世間話。特に興味も沸かず、そのまま楽屋を素通りしようとしたそのときだった。


「このミュージアムで一番歌が上手いのは、やっぱりリーベよ。あの子が神鳥をやるべきじゃないかしら」
「今度ユナフィアオーナーに言ってみる? あの子を採用したのオーナーなんだし、素質はオーナーもわかってるはずだもの」
「そうよね。一番歌が上手い人が神鳥だもの、リーベが神鳥をするべきだわ」


 聞き捨てならない言葉が聞こえたのは。


(誰が神鳥をするべき、ですって……? わたくし以外に神鳥に最も相応しい者なんて、いるわけがないわ!)


 メリージアは身体を翻し、話し声が聞こえた楽屋に乗り込んだ。彼女達はメリージアの姿を見るなり顔を顰めさせるが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


「誰? わたくしの神鳥を虎視眈々と狙っているという愚か者は」


 口ごもる彼女達から、メリージアの神鳥を脅かす存在の名を聞きだすと、メリージアはすぐさまその少女の元へ向かった。
 リーベという名前の少女が、春先に入ったばかりの新人だと知ったのはこのときだ。
 メリージアは彼女の大人しそうな外見にすっかり騙されてしまっていた。恐らく彼女は、入団してから虎視眈々と神鳥の座を狙っていたのだろう。田舎臭い小娘が何ともおこがましい限りだ。ここはメリージアが存在する限り、彼女が神鳥になるのは夢のまた夢であることを、強く自覚させねばならない。
 彼女のいる控え室へとわざわざ赴いたとき、リーベはメリージアの姿を見るや否や、ポカンと大きく目と口を開けて驚きを露にする。唇に差し入れの焼き菓子のカスがついたその姿は、どう見ても間抜けだとしか思わなかったが、その姿に騙されてはならないと、メリージアは己に強く言い聞かせた。


「お前ね、わたくしの神鳥を狙う愚か者は」
「え……?」
「惚けても無駄よ。先ほどわたくしはこの耳で、しっかりと聞いたのだから」


 強い口調で問い詰めると、彼女は困惑気に首をフルフルと横へ振った。だが、そんなことは信じない。それに、心なしか表情が青ざめているのは、図星を差されたからに決まっている。


「わ、わたしはまだ新人ですし……その、神鳥なんてわたしに勤まるはずがない、ですし……とても畏れ多いです」
「そうよ。お前なんかに勤まるはずがないわ。このカーテュアリーミュージアムで神鳥が勤まるのはこのわたくし、メリージア・コントクトのみですもの」
「なんだよ、結論出てるじゃんか」


 突然割り込んできたのは、スラリと背が高い少女だった。彼女がリーベの前に立つと、すっかり彼女の姿が隠れてしまうほどの。柔らかいブロンドの髪を短くまとめ、つり気味な碧の瞳は呆れが多分に含まれている。なかなか顔立ちが整った娘ではあるが、メリージアの美貌の前ではそれも霞むというもの。


「つーかさ、どこからそんな情報仕入れてきたか知らないけど、リーベが神鳥を狙うわけないじゃん。舞台の上に立てただけで毎回大満足してるヤツだよ、こいつは。あんたの聞き違いだろ?」
「……! わたくしをあんた呼ばわりするなんて……! わたくしはここの神鳥よ。それ相応の態度や言葉遣いというものがあるのではなくて!?」
「……あー、そりゃどうもスンマセン。こちとらろくな教育が受けられない孤児院で育ったもので。こんなしゃべり方しかできなくて申しわけないね、お嬢様」


 長身の少女は全く悪びれた様子がなく、メリージアは憤りを募らせた。明らかに彼女はメリージアを舐めてかかっている。メリージアの神鳥の座を狙う娘も腹立たしいが、彼女の態度もまた苛立ちを覚える。


「えと……その……わたしが神鳥を狙ってないって、ど、どうしたら理解し、してくれますか?」
「リーベ、怖いなら下がってな」
「で、でも……!」
「白々しい。そうやってわたくしを騙そうとしてもそうはいかないわ」
「ああもう、これじゃあ平行線だ」


 平行線も何も、メリージアの中でリーベが神鳥の座を狙っているというのは確定済みである。ブロンドの少女は眉間を寄せながら手を当てると、小さくそうだと呟いた。


「なら、オーナーに言ってどっちが神鳥に相応しいか勝負するっていうのはどう? それなら公平にどっちが神鳥に相応しいかわかるだろうよ」
「フォ、フォクノ!?」


 その言葉で思い出したのは、かつて前の神鳥から神鳥を勝ち取ったこと。今回もまた、圧倒的な力の差を見せ付ければ、彼女がメリージアを差し置いて神鳥になろうという痴がましいことを思うこともなくなるはず。


「いいでしょう。その勝負、受けて立ちますわ。圧倒的な実力の差というものを見せてさしあげる」
「決まりだね。なら、お嬢様の方からオーナーに言ってもらっていい? あたしら一応まだしたっぱなんでね」
「フン、いいわ。挑戦を受けて立つのも上に立つ者の勤めですものね」


 メリージアは二人に背を向け、オーナーのいるところへ向かった。リーベと正式に神鳥を掛けた勝負をするために。


 思えばこれがいけなかった。メリージアに神鳥を掛けた勝負をさせることこそが、彼女達の策略だったのだろう。
 勝負は、以前に行われた方法と全く同じ方法がとられた。先にメリージアが歌い、その後にリーベが歌う。
 リーベの歌は、確かに素人離れしていた。小さな身体から発せられたとは思えないほどの声量に、滑らかな高音。神鳥の座を狙うだけの力量はあると、素直に思った。
 だがそれだけだ。メリージアの方が高音に力強さがあるし、何より高貴な雰囲気は田舎臭い小娘には出せまい。
 今回もまた勝利を確信していたメリージアは、下された結果に驚愕することとなった。
 審査員として招かれた市民達が選んだのは、リーベの歌の方だった。メリージアの歌を選んだ市民は一人もいない。以前行った勝負のときでさえ、ほんの数人かは前の神鳥の歌を選んだ者がいたにもかかわらず。


「勝者、リーベ。よって、カーテュアリーミュージアムの神鳥はリーベに決まったわ」
「……!」


 オーナーのその言葉に、メリージアは脳天を貫かれたような衝撃を受けた。メリージアはたった今から神鳥ではなくなる。楽都セーレーンでも神鳥を勤めていたメリージアの大事な神鳥が、隣にいる少女へと奪われてしまった。


「リーベすごぉい! まさか本当に勝っちゃうなんて!」
「おめでとう、リーベ!」


 次々とリーベを祝福する声と喝采が会場を響かせる。しかし、メリージアの耳にそんなものは入らなかった。


(わたくしが、あの小娘に負けた……? あんなただの田舎娘に、わたくしが……!?)


 そんなこと、認められるわけがない。何故経歴のない素人同然の小娘に、ずっと神鳥を務めてきたメリージアが負けるのか。どう見てもおかしいではないか。


(そうよ……ここは田舎だったわ。集められた市民も、田舎者ばかり。洗練された高貴なわたくしの歌よりも、田舎臭いリーベの歌声を好む傾向にあるのよ。そうでなければ、わたくしがこんな小娘になど負けるものですか……!)


 そしてハッと気づく。あのブロンドの娘は、このことに気づいていたのではないだろうか。フォーリエストの人間の耳は田舎染みていると。だからこそ、メリージアに勝負を持ちかけたのだ。メリージアから神鳥の座を奪うために。メリージアの美貌や才能を妬んでいる者は大勢いる。彼女がその一人だとしても、なんらおかしくはない。


「――この勝負は無効ですわ!」


 メリージアは声を張り上げ、フォクノという少女に自分は嵌められたのだと力説した。歌い手に関しては実力主義を念頭に置いているユナフィアならば、きっとメリージアの言い分を理解してくれると信じて。


「なんでリーベに負けたのがあたしのせいになるのさ。あのときは単にその場をどうにかしたかっただけだっつーに……勝とうが負けようが、リーベに損はないくらいの考えしかなかったよ」


 煩わしげに頭をボリボリと掻きながら呟く彼女に、悪びれた様子は微塵もない。メリージアは更にそのことを指摘し、オーナーに勝敗の無効を訴え掛けるが、彼女の首は縦に振られなかった。


「お客様を侮辱するような人を神鳥に据えておくことはできないわ。それにもしあなたの言う通りだとしても、大事なのはただ上手いだけの歌ではなく、お客様を満足させられる歌、よ」
「……っ!」


 侮辱も何も、本当のことではないかと告げるも、ユナフィアは決して勝敗の結果は変えないとの一点張りだった。何度も自分はフォクノに嵌められただけ、田舎者の客しかいなかったためだと力説しても、頑なに彼女はメリージアの言葉を跳ね除ける。それだけでなく、これを機に自分自身を見つめ直すといいと、よくわからないことを言い出す始末だ。
 残ったのは、リーベに神鳥を奪われたという事実。
 なんという屈辱だろうか。ここが気品ある貴族たちが集う楽都セーレーンだったならば、こんなことは起きなかっただろう。審査員として呼ばれた街の人間が皆田舎者だったせいで、メリージアの生きがいは完全に奪われてしまったのだ。
 初めはカーテュアリーミュージアムを辞めようかとも思ったが、フォーリエストに他にミュージアムはなく、父の仕事もまだ当分は落ち着きそうにない。辞めてしまったら、スポットライトを浴びる機会が完全になくなってしまう。それだけは絶対に嫌だった。
 神鳥として舞台に立てなくなってしまったメリージアが選んだのは、とりとは真逆の一番手である。開幕と同時に一人舞台を彩り、盛り上げる。苦渋の思いで決断した妥協点だ。
 それに、メリージアは神鳥の座を諦めたわけではない。開幕時点でインパクトを残せば、観客に「何故彼女が神鳥ではないのだろうか」と思わせられるだろう。その疑問が広がれば田舎者の観客たちも、メリージアこそ神鳥に相応しいと思い直すはず。
 そしてメリージアが神鳥を辞してから、初の公演が現在行われている。ことは順調に進んでいるだろう。何より、リーベは舞台上で転ぶなどという大失態を、一度ならず何度も繰り返し犯している。こんな小娘が神鳥に相応しいなど、一体誰が思うだろうか。
 それなのにユナフィアの意向は全く変わっていなかった。昨日、これだけ失態が続いているのだから、リーベから神鳥を取り上げようとするだろうと期待して彼女の元へ訪れたのに、メリージアはまたしても全く取り合ってはもらえなかった。
 彼女曰く、リーベの歌は転ぶという失態を犯してもプラスになるほど好評であると。今回の公演は今まで以上にチケットの売れ行きがよく、千秋楽まで既に完売済みな上に、立ち見席まで新たに設けたのだとか。
 神鳥が変わったら、チケットの売上が伸びた。それはまさしく今の神鳥が前の神鳥よりも好評であることを意味していると、彼女は理不尽なことを告げる。


(あの娘がいなければ神鳥はわたくしのものだったのに……!)


 田舎街の人間好みの歌を歌う少女の存在。彼女さえいなければ、メリージアの神鳥の座は揺るぎないものだった。彼女の存在こそが、メリージアから何より大切な神鳥の座を奪い去った。


(今に見ていなさい、リーベ。わたくしから神鳥を奪ったこと、後悔させてあげますわ……!)


 金色の瞳に渦巻いているのは、薄暗い嫉妬の炎だった。


 

「フウ……大分暑くなったね」


 リーベは雲一つない青空を見上げる。サンサンと注ぐ夏の日差しは強く、頬から顎にかけて汗がつたい落ちた。


「これから夏本番だから、もっと暑くなるだろうね……にしても、皆元気そうでよかったよ」
「うん。そうだね」


 隣を歩くフォクノも、暑そうに手をパタパタと団扇替わりにしているが、その効果はほとんどなさそうだった。
 昨日千秋楽を迎え、公演に一区切りがついた。そして今日は、次の公演に向けての練習が始まる前の、休息の日である。
 リーベとフォクノは、フォーリエストにある孤児院出身だった。病気や不慮の事故など、親を失い独りになってしまう子供は決して少なくはなく、各街に最低一つは必ず設けられている。
 住み込みでカーテュアリーミュージアムで働いている二人は、こうした偶の休日に孤児院を訪れていた。孤児院にいるのは、リーベ達よりも年少の子供たちばかりだ。適齢期になれば、仕事を探して出ていかなければならないため、必然的に小さな子供ばかりが孤児院に残る。たまに卒業した先輩たちが、リーベ達と同じように様子を見に来ていたため、二人もそれに習っていた。


「皆といっぱい歌って楽しかったなぁ……ね、シロ」


 リーベは顔を左に向け、左肩に止まっている小さな小鳥に話しかけた。すると小さくぴぃと可愛らしい返事が返ってくる。


「シロも大分元気になったよね。拾ったときはボロボロで、一時はどうなることかと思ったけどさ」


 フォクノがリーベの左肩に止まっている小鳥に向かって手を伸ばし、軽く指でそっと背を撫でる。
 この小鳥は、リーベが神鳥になる少し前に、ミュージアムの近くでボロボロになっていたところをリーベが拾ったのだ。怪我の手当をし、食事のパンを分け与えて介抱しているうちに、小鳥は次第に回復していった。そして小鳥はリーベにとてもよく懐いてくれたため、リーベは完全にこの小鳥に情が移ってしまったのだ。
 ユナフィアに許可をとり、フォクノと二人で面倒を見ている。今ではこうしてリーベの肩に乗って外出することも多くなった。


「うん……でも、毟られちゃった羽、全然生えてこないね……」


 羽毛の色艶もよくなり、もう完全に回復したと思ってもよさそうではあるのに、何故か右の羽は拾ったときの肩羽しかない状態のまま、新たに生えてくる気配が全くない。左の羽は既に新しく羽毛が生え変わり、シロという名前の由来になった純白の色も相まって、とても綺麗だ。だからこそ、余計に片羽しかない状態のシロの様子が気になって仕方がない。


「こればっかりはどうもねぇ。鳥に詳しい知人もいないから聞きようがないし」
「悪い病気じゃないといいんだけど……」
「それは気にしても仕方ないんじゃない? 今元気ならそれでいいじゃん。シロは頭がいいから、自分に何か異変を感じたら何らかの形で伝えてくれるよ、きっと」


 フォクノがそういうと、シロはフォクノの手に乗り、小さな足を交互に動かしながら彼女の肩へと移動する。そしてどこか誇らしげにぴぃと鳴いた。彼は人の言葉を理解しているような節がある。とても利口な鳥だった。


「それに、真っ白な片羽の鳥って神鳥みたいでかっこいいんじゃない? ね、シロ」
「あはは……羽のある方向逆だけどね」


 かつて天界の創造神の心を癒したと伝わっている『神鳥』は、純白の片羽の鳥である。羽がある方は右側とされていて、何気ないことだが全てのミュージアムがそれを忠実に守っている。リーベが身につける衣装も、右腕はたっぷりとした袖に覆われているが、左腕は肩から指先まで露出されているものであり、これが右の翼と存在しない左の翼を表現していた。
 シロの翼があるのは左翼であり、ないのは右翼。つまり神鳥の翼とは正反対だ。


「そういうことよりも、わたしは片方しか翼がないから、自由に空が飛べないのが可哀想だなって……」
「リーベ……」


 片方しか翼のないシロは、当然というべきか空を自由に飛びまわることはできない。できることといえば、低い位置で跳ねるくらいか。本来ならば、翼を広げて空を飛び回れただろうに、今ではそれができない。それを一番歯がゆく思っているのは、きっとシロだろう。


 ――ピィ


「え?」


 シロが小さく鳴いたかと思えば、片方しかない羽を大きく広げ、フォクノの肩からリーベの肩へと飛び移ってきた。再びリーベの肩へと戻ってきたシロを、目を大きく見開きながら見つめる。


「――心配するな、って言ってるんじゃない?」
「あ……」


 フォクノに同意を示すかのように、シロは短くピ、と鳴いた。


「ごめんね、わたしが弱気になっちゃダメだよね。ありがとうシロ、励ましてくれて」


 シロの方が大変だというのに、リーベのことを気遣ってくれている。これでは一生懸命生きているシロに申し訳がない。リーベはにっこりと微笑みながら、そっとシロの身体を撫でた。


「これからも、外に行くときはできる限りシロを連れてこっか。シロ一人じゃ踏み潰されないか心配だけど、こうして肩に乗せれば、いくらでも外を見せてあげられるし」
「うん、そうだね」


 歌の練習で忙しいときは厳しいが、合間にある休日を、こうしてシロと一緒に外で過ごすのも悪くない。


「せっかくだし、今日は普段行かないようなところ行ってみない? ――貴族街とかさ。お貴族様が構えてる別荘って庭とか綺麗って聞くし、見るだけなら楽しめそうじゃん。お貴族様も、遠目で観るくらいは許してくれるだろうよ」
「わ! それいいね。わたし、一回行ってみたいなって思ってたんだ」


 フォーリエストは緑豊かな自然に恵まれた土地だ。昔から王都の貴族が静養目的の別荘を建てていたが、最近はコントクト商家がそれを後押ししているため、貴族の邸は増えに増えた。一般市民が暮らしている一帯からは離れた区画に、貴族の邸が集中している貴族街がある。特別用もない限り、そこへ足へ踏み入れることはほとんどないが、一般市民が近づくことを別段禁止されてはいない。


(きっと綺麗なんだろうなぁ……)


 貴族のために用意された邸は、その目を楽しませるために整えられた広い庭があると聞いた。季節の花やフォーリエストでは見られない貴重な花など、色とりどりの花が使われていると。
 フォクノと他愛ない話をしながら、貴族街の方へと歩みを進めていく。現在地からそう離れたところではなく、気づけばあっと今にたどり着いていた。


「うわあ……立派な建物がいっぱい……!」
「無駄に金がかかってる家はやっぱ違うわなー」


 その区画からは、街の雰囲気ががらりと変わった。
 素朴な家々が連なっていた街並みから、大きく豪奢な家が点々と存在する街並みへと。家々の間から伸びる特に手入れがされていない木々が、等間隔に揃えられたものへと。


「そんじゃ行こっか」
「う、うん!」


 リーベは少し気後れしながらも、貴族街へと一歩を踏み出す。


「わー……」


 見渡す限りに広がる家々や庭。リーベの目を特に惹いたのは、庭に咲いている花だ。赤白黄色だけでなく、可愛らしい桃色の花や、珍しい青や紫色をした花もある。


 ――ピィピィ!


「ん? シロも楽しいの? よかったね」


 リーベの肩の上で元気よく鳴くシロを軽く撫でながら、リーベは別の場所へと移動していく。
 とある庭に目を凝らせば、今度は池に浮かぶ花の姿を見かけた。あれは一体何という花なのだろう。


「ねえ、フォクノ。あの花なんて……」


 振り返ったリーベは続けるはずだった言葉を飲み込んだ。
 フォクノがいない。反対の方を振り返るが、そこにもまた彼女の姿はなかった。


「え、え……フォクノ?」


 慌てて周辺を見回すが、フォクノはどこにも見当たらない。ポツポツと人が歩いているのは見えるが、その中にフォクノはいなかった。


「ど、どうしよう……はぐれちゃった……」


 さあっと全身から血の気が引いていく。庭を観ることが楽しくて、つい夢中になってしまったが、フォクノとはいつはぐれてしまったのだろう。


 ――ピィピィ!


「あ……シロはもしかして、わたしがフォクノから離れちゃったのを知らせようとしてくれたの?」


 ――ピィ!


 先ほどから元気よく鳴いているとしか思ってなかったリーベは、ごめんねと小さく謝りながら、シロの背中をそっと撫でた。シロの警告に初めから気づいていれば、こうしてフォクノとはぐれてしまうこともなかっただろうに。


「と、とりあえず、フォクノを探さなくっちゃ……!」


 きっとフォクノもリーベがいないことに気づいて、探してくれているはず。そして多大な心配をかけてしまっているだろう。彼女は口調は軽いが、とても面倒見がよく根は真面目だ。見つかるまでずっと探し続けてくれるに違いない。


「フォ、フォクノー! わたしはここだよー! フォクノー!」


 リーベは声を張り上げてその場を離れるが、近くにフォクノらしき人物の影はない。ならば人に訪ねてみようと近くにいる人に声をかけようとするが、近づくと彼らは面倒臭そうな顔をしながら、ふいっとリーベから急ぎ足で離れてしまう。着ている服からして、貴族に仕える召使い達だろう。彼らは彼らで急ぎの仕事があるのかもしれない。
 だが困った。迷ったところから進んだはいいが、フォクノの姿は一向に見つかる気配がない。一度貴族街を出てみようと思ったが、前後左右、整然と整えられた区画はどの道も同じようにしか見えず、方角がわからなかった。


(ど、どうしようどうしよう……!)


 あわあわと慌てるリーベの頭は、どんどん混乱していく。気持ちばかりが焦り、目頭がじわりと熱くなってきた。そのときだった。


 ――ピィ。


「え、シロ……! あ、だめ!」


 突然シロが片羽を大きく広げたと思ったら、リーベの肩から飛び降りる。空へ舞い上がれはしないものの、地面へと着地するだけならばできるのだ。
 人の往来が激しい場所ではないが、皆無なわけでもない。シロが踏み潰されてはいけないと、リーベはシロを捕まえようとするが、シロは颯爽とリーベの手を躱してしまう。


「あ! 待って!」


 それどころか、小さな二つの足を忙しなく動かし、リーベから離れようとしていた。リーベは捕まえようと奮闘するが、伸ばす手は全て虚しく空ぶるばかり。
 焦りながら追いかけ続けると、突然シロは方角を変更する。がさっと小さな音を立てて入っていったところは――とある貴族の敷地の中だった。リーベの身長と同じ高さの木々がたくさん植えられており、庭の様子が外から見えない造りになっている。


「シ、シロ!」


 リーベは囲いの外から、中へと入ってしまったシロの様子を伺う。おいでとそっと腕を伸ばすが、シロはピィと小さく鳴くと、さらに奥へと行ってしまった。


(い、いつもなら乗ってくれるのに……!)


 植え込みの隙間から焦り混じりに様子を伺っているリーベとは裏腹に、シロは楽しそうに飛び跳ねていた。


(フォクノともはぐれちゃったのに……どうしよう)


 囲いの外からいくら手を伸ばしても、シロはこちらに見向きもしてくれない。一度手を戻して立ち上がり、周囲を見渡した。近くにフォクノがいるかもしれないという僅かな期待を込めて。しかし、案の定というべきか、やはりフォクノの姿はどこにもない。


(ど、どうしたら……あ)


 キョロキョロと首を動かしていると、庭の裏口とでもいえる小さな扉がついていた。シロを捕まえてすぐに戻れば大丈夫、と己を言い聞かせながらとってを握る。が、鍵がかかっていて開かなかった。リーベはへなへなとその場にしゃがみこむ。


(うううううう……どうすればいいの……)


 肩を落としながら俯くと、ピィと可愛らしい鳴き声が聞こえてくる。顔を上げると、囲いの隙間からシロがリーベの様子を伺っていた。あの場所から離れたリーベのことを気にして、様子を見に来たのかもしれない。


「……シロ、その庭が気に入ったの?」


 ――ピィ!


 元気に鳴いているシロの真意はわからないが、この場所をいたく気に入ったのは間違いないだろう。彼はリーベの様子を伺うことはしても、この場を離れようとはしない。


(確かに木とか瑞々しく感じるけど……)


 今まで見てきた庭の木々や草花も、とても綺麗で美しかった。ここには花がついていない木々しかないにも関わらず、どこか生き生きとした、爽やかな雰囲気を感じる。
 もしかしたら、生命力の息吹のようなものを、シロは感じているのかもしれない。あくまでリーベの勝手な想像のため、事実はわからないが。


(……動かずにじっとしてたら、フォクノは見つけてくれるかな?)


 闇雲に慣れない貴族街を探し回るよりか、一箇所で大人しくしていた方が遭遇率は高いかもしれない。


(よーし、それなら……)


 リーベはシロをじっと見つめた後、一度息を全て吐き出し、そして大きく吸い込んだ。


「――」


 シロはリーベの歌を気に入ってくれている。気に入った場所にお気にいりの歌で満足させてあげられれば、リーベのところへと帰ってきてくれるかもしれない。確証はないが他にやることもないため、リーベはしゃがみこんだまま、しゃべる程度の音量で、軽快な歌を唄い始める。
 時折シロが音頭をとるようにピィと鳴いた。まるで唄っているかのように合わせてくれるシロに気分が高揚したリーベは、楽しくなっているのを感じる。色濃く生い茂っている草木が影になって暑さが和らいで心地よくなっていたのもあるかもしれない。すっかり気分がよくなったリーベは、シロと共に唄い続ける。


 わたしは今日も歌を唄う

 全てに心をくだく偉大なあなたのために

 あなたの心を癒したい

 あなたの心をほぐしたい

 わたしは唄うよ何度でも

 わたしの歌であなたが幸せになってくれるのならば

 それがわたしの最高の幸せ


 幼い頃から繰り返し歌い続けていた童謡を口ずさむ。神のために歌を唄い続けたという神鳥の気持ちを表現してみた歌らしい。
 この童謡は幼い頃からリーベがよく好んで歌っていた歌だ。神鳥が唄うのは神のため。ミュージアムで最高の歌い手を指す由来となった、神の幸せを願って唄い続けるという神鳥に、幼いリーベは憧れた。自分も、歌うことで誰かを幸せにすることができたなら、きっとリーベ自身も幸せな気持ちになるだろう。
 だからこそ、ミュージアムに入団できたときはとても嬉しかった。自他共に認める鈍臭い自分が、入団試験に合格できるとは正直思ってはおらず、試験を受けることすら尻込みしていたのだ。
 背中を押してくれたのはフォクノだった。リーベの「歌で誰かを幸せな気持ちにしたい」という思いを彼女は汲み取ってくれて、それをしたいならミュージアムに絶対入団するべきだと、強く勧めてくれた。そして裏方として自分もサポートするからと、一緒に試験を受けてくれたのだ。
 結果としてリーベとフォクノは無事入団試験に合格した。リーベは歌い手として、フォクノは裏方として。
 舞台の上に初めて立ったとき、たくさんのお客さんが会場にいるのを見て、リーベは圧倒された。緊張しながらも歌を唄い、歌い終わった後の観客からの盛大な拍手に、じわりと目頭が熱くなった。決して自分一人だけが歌ったわけではないのに、多くの人に受け入れてもらえたのだと、感動した。そして改めてミュージアムに入団することを勧めてくれたフォクノに感謝した。フォクノが勧めてくれなければ、リーベはきっと今頃ミュージアムに入団なんてしていなかっただろう。


 ――ピィ。


 シロが楽しそうに鳴きながら、ぴょんぴょんと庭の中で跳ねている。リーベはまた別の歌を唄おうと、息を大きく吸い込んだ。


「――誰だ、そこにいるのは」
「!」


 突如聞こえた低めの男性の声音に、リーベの身体がビクっと震えた。そのせいで息が喉に詰まり、ゲホゲホとむせ返る。


「……」


 姿を現した人物に、リーベは涙目のままさあっと顔が青ざめていくのを感じた。
 若干のあどけなさを残した容貌に、どこか無機質な光の宿った琥珀色の瞳がリーベを見下ろしている。短く整えられた赤茶の髪が風に吹かれて揺れるが、無表情とも言える表情から、新たに言葉が飛び出す様子はない。


「す、すいません……その、わたし……」


 あまり大きな声で歌わないように自制していたつもりだったが、それでも中の人たちに聞こえてしまっていたのだろう。きっと彼は五月蝿いと怒りに来たのだ。


(どうしようどうしようどうしよう!)


 騒がしくしたことをどう謝るべきか混乱していると、不意に彼の視線がリーベから逸らされた。まるで地面を見ているかのような彼の視線の先にいたのは、いつの間にか彼の足元に移動していた、シロ。


 ――ピィ。


「……」


 彼は徐にその場にしゃがみこむと、シロに向かって手を伸ばした。するとシロは、嬉しそうに小さく鳴き、彼の手にちょこんと飛び乗る。


(し、知らない人にシロが懐くなんて……!)


 リーベは衝撃を受けた。シロは基本人懐こい小鳥ではあるが、流石に初めて会う人間に対しては警戒を顕にする。リーベやフォクノがこの人は大丈夫だよ、と言って初めて警戒を解くのだ。今まで一度だって、知らない人間の手に自分から飛び乗ったことはなかったのに。


「……お前か、歌を歌っていたのは」
「! は、はい!」


 リーベは肩を竦ませながら、ピシ、と固くなる。怒鳴られるのを覚悟して、両手をぎゅっと握り締めた。


「……ありがとう。草木がとても喜んでいる」
「え……?」


 彼の口から出たのは、まさかのお礼の言葉だった。五月蝿いと怒られるのを覚悟していたリーベは、ポカンと口を開けた。


「もしよければ、もう一度歌ってはくれないか。草木たちがそれを望んでいるんだ」
「え、えっと……」


 そして歌を所望されるとも思わず、リーベは面食らう。頭が混乱していて、自分はどうすればいいのかがよくわからない。


 ――ピィ。


 シロが少年の掌の上から、リーベに向かって小さく鳴いた。歌えばいいじゃん、とでも言ったのだろうか。だが、おかげで心が落ち着いてくる。
 彼はリーベに歌って欲しいといってくれた。どんな理由であれ、歌い手として歌を所望されるのはとても嬉しい。己の歌を気に入ってもらえたということなのだから。


「えっとじゃあ……リクエストは、ありますか?」
「いや……歌には詳しくない。だからどんな歌でも構わない」
「あ、はい……わかりました」


 どんな歌でもいいというのならば、もう一度神鳥の童謡を歌ってみようか。
 どきどきと、舞台に立つときのような緊張が走る。それは決して不快なものではない。人に己の歌を聞いてもらえるのだという、歓喜の印。リーベは彼に向かって軽く一礼した後、胸に手を当て息を大きく吸い込んだ。


「わたしは今日も歌を唄う――」


 ――ピィピィ。


 リーベが歌いだすと、シロもまたそれに合わせて唄うように鳴いた。一人と一羽の合奏は、曲の短さも相まってすぐに終わりへと近づいていく。そして最後の一節を歌い、曲は終わった。
 ふうと軽く息を吐いた後顔を上げると、琥珀色の瞳とばっちり目が合う。彼は何も言うでもなく、拍手するでもなく、ただ一心にリーベを見つめていた。


「ご、ご静聴、ありがとうござました!」


 真っ直ぐ見つめられて恥ずかしくなったリーベは、深々と頭を下げることでそれを回避する。胸が先ほどとは別の意味でどきどきと高鳴っていた。今まで男性にまっすぐ見つめられた経験など、リーベにはない。


 元々男性を苦手としているのもある。昔から鈍臭かったリーベは、孤児院の男の子たちから詰られることも多かったのだ。フォクノと仲良くなってからは、言われる回数は減ったが、植えつけられた苦手意識は今でも直ることがない。


「……そこで待っていてもらえるか」
「え……?」


 顔をあげられずにいると、突然少年が一言言い残してその場を後にした。一緒にシロも連れて行ってしまったため、ポツンとリーベだけが残される。


(な、なんだったんだろう……)


 歌い終わって拍手や歓声のようなものをあげるでもなく、かといって不満の声をあげるでもない。


(ま、満足してもらえたのかな……?)


 今更になって、その部分が気になった。確かに文句は言われなかったが、逆に満足したとも彼は言っていない。


 一度考えると深みにはまりやすいリーベは、途端に不安が胸中に広がる。童謡はあまり好きではなかったとか、もっと別の歌がよかったとか。もしくはリーベの歌自体が気に入らなかったとか。考え出すと際限なく悪い方向へと思考が沈んでいく。そしてこの場にリーベ以外がいない以上、その思考を止めてくれる人もまたいなかった。


(ど、どうしよう……シロ、あの人に乗ったままだし……!)


 今すぐ逃げだしたい衝動に駆られたが、彼はシロをつれたまま、奥へと行ってしまった。シロを置いて自分だけ逃げ出すわけにはいかない。


(どうしようどうしようどうしよ……!)


「待たせた」
「うわぁ!」


 思考に耽っていると、突然声をかけられてリーベは悲鳴をあげた。心臓がバクバクと鳴り響いている。


「……驚かせたか」
「す、すいません……! ち、ちょっと考え事してまして……!」


 いつの間にか彼が戻ってきたと思ったら、鍵のかかっていた裏口の扉を開けて、リーベの背後に立っていた。全く気づかなかった。


 間近に立つ彼の背は、とても高かった。すらりとした細身の身体に、長い手足。シロは彼が奥に行っている際に移動したのか、手の上から肩へと移っている。そして変わりに彼の手にあったのは、おしゃれな花柄の、それほど大きくはない長方形の箱だった。


「これで礼になるかわからないが、受け取ってくれ」
「ふぇ……?」


 小さな箱を差し出され、リーベはそっとその中を覗き――黒の瞳を大きく見開いて輝かせる。


「や、焼き菓子!」


 その箱の中には、こんがりといい色に焼けた焼き菓子が幾つも入っていた。


「こ、これ、貰っていいんですか!?」
「そのために持ってきた。気に入るかはわからないが」


 そこまで言われてようやく、彼は歌のお礼として焼き菓子を自分にくれようとしているのだと理解する。こうしてお礼をくれるということは、歌を気に入ってくれたということだろうか。無表情気味の表情は、一体何を考えているのかがわかりにくい。


「そ、それじゃあいただきます……」


 リーベはそっと箱の中の焼き菓子に手を伸ばす。一口大の大きさである焼き菓子を、パクリと口の中へと収めた。


「――!」


 さくさくとした触感、広がる控えめな甘さ。バターの香りが鼻腔をくすぐる。シンプルではあるが、素朴な味わい。とても美味しい焼き菓子だ。


「美味しい……! とっても美味しいです!」
「そうか。ならよかった」


 リーベは箱からもう一つ焼き菓子を掴んで口へと運ぶ。幸せな甘さが口いっぱいに広がった。


「この焼き菓子、どこで売ってるんですか?」


 こんなに美味しい焼き菓子なのだ、きっと有名なお店の一品なのだろう。できるならば、自分でも買ってみたいと思った。


「……」


 しかし彼はリーベから視線を外し、押し黙る。リーベは首を傾げながら三つ目の焼き菓子をもぐもぐと咀嚼していると、彼は徐に口を開いた。


「これは店で買ったものじゃない――俺が作った」
「ええ!?」


 リーベは四つ目を口に運ぼうとしていた手を止める。

 丸い形はどれも全く同じ大きさで、美味しいだけではなく見た目も綺麗だ。だからこそ店で買ったものだとばかり思ったのだが、まさか目の前の彼による手作りだなんて。


「すごい! すごいです! こんなに綺麗で美味しい焼き菓子が作れるなんて……!」


 リーベも昔、孤児院で焼き菓子を作ったことがある。だが、生来不器用なせいで形は不揃いでバラバラなうえに、真っ黒に焦がしてしまった。

 

 製作途中も、砂糖を入れすぎてしまったり、混ぜるのに時間がかかったりと、失敗ばかりだった。材料を全て無駄にしてしまい、とてもいたたまれない気持ちになったのを覚えている。


「こんなに美味しい焼き菓子が作れるなんて――あ、あの、名前を伺っても……?」


 彼の名前を呼ぼうとして、ふとお互い名乗っていないことを思い出した。それは彼も失念していたのだろう、琥珀色の瞳を一度見開き、耳触りのいい低い声が名前を紡ぐ。


「ケルトだ」
「ケルトさん……わたしはリーベです」


 名乗ってくれたケルトに返すように、リーベもまた己の名前を告げる。そして改めてリーベはケルトに訊ねた。


「ケルトさんはパティシエさんなんですか?」
「いや。俺は庭師だ」
「ええ!?」


 まさかの返答に、リーベは驚愕を隠せない。こんなに美味しい焼き菓子が作れるのだから、てっきりお抱えのパティシエだとばかり思ったのに。
 それに彼の着ている服も、白いブラウスに紺色のベストという、小奇麗なもの。そこから庭師を連想するなんてできるだろうか。


「あ、でも、庭師さんだから草木が喜んでいるとか、わかったんですね」


 ケルトがリーベに歌ってほしいと言ったのは、ここに植えられている植物が望んでいるからと。庭師だったからこそ、草木の気持ちがわかるのかもしれない。


「ここの植物が生き生きとしてるのは、ケルトさんが手入れをしているからなんですね! お仕事ができて、焼き菓子も作れるなんてすごいです!」


 庭師なのに美味しい焼き菓子を作れることもさながら、木々の一つ一つが生命力に満ちている。庭師としての才能もあり、手先も器用なのだろう。歌うことしか取り柄のないリーベとは、比べるべくもない。
 ふとケルトが再びリーベから僅かに視線を逸らした。


「……主がこの邸を訪れるより前に、庭を整えていた。その仕事は既に終わったため、来るべき主や仲間達と何かつまめるものを用意しようと作っていた。それがこれだ」
「そ、そうだったんですか……って、それをわたしが貰ってよかったんですか!?」


 口へと運ぶタイミングを逃した四つ目を手にしながら、リーベは慌てた。既に三つは胃袋の中だ。返すことなどできない。


「問題ない。まだ厨房に大量に残っている。気に入ったのなら、もう少しばかり持ってきても構わないが」


 ケルトの淡々とした言葉に、リーベは慌てるのをやめた。考えれば、人にあげてはまずいものを、こうしてくれたりはしないだろう。リーベは手にした焼き菓子をパクリと口に入れる。


 ――ピィ。


 ずっとケルトの肩の上で大人しくしていたシロが、小さく鳴いた。ケルトはシロの方を見遣った後、リーベの肩に向けて手を伸ばしてくる。シロはケルトの腕を小さな足で歩きながら、リーベの肩へと移った。


「あ、おかえり、シロ」


 ――ピィ。


 ただいま、と言わんばかりに、シロはリーベの頬にすりすりと擦り寄ってくる。やっと戻ってきてくれたことが嬉しくなって、リーベはそっとシロの背中を撫でた。


「……そろそろ戻った方がいい。きっとはぐれた友人がリーベを探している」
「……! そ、そうだった! フォクノ!」


 リーベは今まではぐれてしまったフォクノを探していたのだった。はぐれたことに気づいてから、既に相当な時間が経っている。きっと心配しているだろう。


「……残りは箱ごと持っていくといい」
「え、でもこの箱高いものじゃ……?」


 焼き菓子を入れている箱は、陶器で出来た、とても綺麗な花柄が描かれている。小さいながらもしっかりとした淵のつくりは、素人目に見ても職人が丹精込めて作った高級な一品だとわかる。焼き菓子だけならともかく、こんな高そうな箱までもらうわけにはいかない。


「主からの賜り物の一つだが、今まで特に使うことがなかった。だから別に構わない」
「えと……その……」


 いくら使わないからと言われても、高価なものをいただくのは気が引ける。ケルトは箱をリーベに差し出したまま、まっすぐこちらを見ていた。受け取らないということは、彼の気持ちを無下にしてしまうということになる。それもまた嫌だ。


(あ、そうだ!)


 リーベはふとあることを思いついた。


「そのっ……! わたし、この箱洗って返しに来ます! い、いただく変わりにお借りします! そ、それではダメ……ですか?」
 これならばケルトの気持ちを無下にすることもなく、リーベも気持ちよく受け取れる。若干尻つぼみになりながらも、リーベは恐る恐るケルトの返答を待った。
「……リーベがそれでいいなら、構わない」
「あ、ありがとうございます!」


 ケルトから了承を得ると、リーベはケルトの手から焼き菓子の入った箱を受け取る。底についていた蓋を外して口を塞ぐと、思わず笑みが溢れた。きっとフォクノもケルトが作ってくれた焼き菓子を気に入るだろう。


「あの道をまっすぐ進んでいけば、貴族街から出ることができる」
「本当ですか!? 何から何まで、ありがとうございます……」


 はぐれてしまったフォクノと合流するならば、貴族街の入口で待っていた方が確実に会えるだろう。フォクノも一度戻っているかもしれない。


「気にするな」


 ふとケルトの顔を見上げると、無機質だった琥珀色の双眸に穏やかな光が宿っているのを感じた。心なしか、口元も僅かにつり上がっている。今彼は、微笑んでいるのだろうか。


「それではケルトさん、また!」
「ああ」


 リーベは片手を大きく振りながら踵を返した。足取りは軽く弾んでいる。きっとケルトの微笑みを見ることができたからだろう。


 彼は怖い人ではない、優しい人だ。草木の心を理解し、何より初対面であるのにシロが懐いたのだ。悪い人であるはずがない。


「ふふ……シロ、また一緒にケルトさんに会いに行こうね」


 ――ピィ!


 手に持っている小さな箱。これを返しに行くときが、今から楽しみだった。わくわくと胸が弾む。


(あれ……でもどうしてケルトさん、わたしがフォクノとはぐれちゃったってわかったんだろう……?)


 おまけに貴族街を抜ける道まで教えてくれた。リーベは一言も友人とはぐれてしまったなどと、口にしてはいないにも関わらず。


(あうう……もしかして口にする必要がなくても迷子に見られちゃったのかなぁ……だったら恥ずかしいよう……)


 迷子であることに変わりはないが、一般的に大人の仲間入りである十六にもなって迷子になってしまうなど、呆れられてはいないだろうか。


(こ、今度は絶対迷わないようにしなきゃ……!)


 次はシロの案内がなくてもケルトのところへ行けるように、リーベはほぼ一本道を、注意深く観察しながら歩き続けた。


 

 不思議な少女と出会った。一見すると、気弱そうな少女にしか見えなかったのに、小さな唇から紡がれる歌声は耳に心地よく、また心をとても穏やかにしてくれる。
 この日は夕方頃に到着する予定である主や仲間達のため、大量に焼き菓子を作り置きし終わった後のことだった。


(……庭が騒がしい)


 庭から聞こえる、草木たちの騒ぎ声。喧嘩をしているのかと思えば、そうではない。一言でいうなら「はしゃいでいる」だろうか。わあわあと楽しげな声が聞こえてくる。


 しかしよくよく聞いてみれば、その声がするのはとある一角の方だけだった。他の場所にある草木は、特に普段と変わりがない。


(何かあったのか……?)


 騒がしくしている草木達の方へと向かうと、よりそれが顕著になった。


『あ、ケルト! ケルトもこっちおいでよ!』
『早く早く!』


 ケルトの存在に気づいた木々が、明るい調子でケルトを誘う。本当に、一体何が起きているのだろう。


「――」


 足を奥へと踏み入れて行くと、明らかに草木たちとは違う、人間の声が聞こえてきた。普通にしゃべっているのではない。これは、旋律を奏でているのだろうか。


『キャー! もう一曲、もう一曲!』
『素敵な歌声だなぁ……』


 どうやら、草木たちが騒いでいる原因は、この調(しらべ)にあるらしい。耳を劈くような甲高さはなく、心地よく響く高音。刻まれる旋律に、気づけばケルトも耳を澄まして聞き入っていることに気づいた。歌や音楽といったものに、今まで興味も関心もなかったというのに。


(これが……歌か)


 ピタリと歌声が聞こえなくなってから、ケルトは止まっていた足を再び動かし、歌声が聞こえた方へと移動する。歌を歌っていたらしき人物の影は、あっさりと発見することができた。


「――誰だ、そこにいるのは」


 いくら草木たちを喜ばせてくれた歌い手だとしても、庭の中への不法侵入を許すことはできない。しかし、歌い手の姿がはっきりと視界に収まると、その心配はどうやら無用だった。その人間がいたのは柵の外側で、裏口に設置された扉近くにいたものの、しゃがみこんだその体勢では、どう考えても庭の中へと侵入することはできない。
 そこにいた人間は、ケルトよりも年下と思われる少女だった。襟首で切り揃えられた黒髪に、同じ色の大きく丸い瞳。その瞳を見遣ると、少女はビクリと肩を震わせる。おまけに白い肌が徐々に青ざめていった。誰がどう見ても、怯えているとしか思えない。


「す、すいません……その、わたし……」


 ビクビクと、一体何に対して怯えているのかよくわからない。彼女は庭の中へと入ったわけではないのだから、別に叱られる理由などないだろうに。


『やあ! 君がここの庭師さん?』
「……」


 少女とはうって変わり、底抜けに明るい声が下方から聞こえてくる。視線を向ければ、そこにいたのは一羽の白い小鳥だった。しかし普通の鳥とは違い、左の羽しかなく、右の羽は肩羽から先がない。これでは自由に空を飛ぶことなどできやしないだろう。
 徐に手を伸ばすと、小鳥はちょんとケルトの手に飛び乗ってくる。


『僕はシロ! よろしくね! この子はリーベっていうんだけど、見てのとおり臆病なんだ。歌は抜群に上手いのにね!』


 シロと名乗った小鳥は、主人であろう少女のことを教えてくれる。成程、臆病だからこうも怯えているのか。


「……お前か、歌を歌っていたのは」


 シロの言葉からその情報を得てはいたが、正直なところこの小さな少女が本当に歌を歌っていたのか疑問に思ったために、改めてケルトは少女、リーベに問うてみた。


「! は、はい!」


 彼女はビクリと震えながらも、しっかりと返事をした。本人がそうだと言ったのだから、これで確定だろう。ならば――


「……ありがとう。草木がとても喜んでいる」


 礼を言うのが筋というもの。草木たちの声が聞こえているのはケルトだけなのだ。彼女に彼らの声を聞く術はない。今も『もう一曲!』と騒いでいる草木達の気持ちを伝えられるのも、ケルトだけだ。


「もしよければ、もう一度歌ってはくれないか。草木たちがそれを望んでいるんだ」


 草木たちは、彼女にもう一度歌ってほしいとねだっている。正直に言えば喧しいくらいだ。彼女にまた歌ってもらえば、少しは大人しくなるかもしれない。
 彼女は初めは戸惑っていたが、シロが促すように鳴くと、何かリクエストはあるかと訪ねてくる。歌の知識は全くないため、何でも構わないとケルトは告げた。
 リーベは軽くこちらに一礼すると、胸に手を当て大きく息を吸い込んだ。


「――」


 それは先ほど庭先で聞こえてきた唄と全く同じもの。どんな題名なのかはわからないが、歌声が心に染み込んでいくのがわかる。周りの草木も、先ほどまで騒がしかったにも関わらず、彼女が歌い始めた途端シンと静まり返った。
 そして歌はあっさりと終わりを告げてしまう。元々短い歌だったのだろう。少し長めのものを歌ってもらえばよかったかもしれないと、今更なことを思った。そしてケルトは歌い終わった少女を見据える。


(こんな小さな身体をしているのに、よく大きな声量が出るものだな……)


 歌い終わった後の少女は、やはりどう見てもただの華奢な少女にしか見えなかった。豊かな声量と音域は、その小さな唇から紡がれたもの。それが不思議に思えて、ケルトは暫く彼女をじっと見つめていた。


「ご、ご静聴、ありがとうござました!」


 彼女が突然勢いよく頭を下げた。そこではっと思った。彼女に歌ってくれと依頼をした以上、何か謝礼となるものを渡さなければならないと。


(金銭的なもの……あの方から幾つか賜ったが、それでいいだろうか)


 働いている報酬として、ケルトは金品を幾つかもらってはいるが、使う機会など全くなく、そのほとんどはしまわれたままだ。そこから礼になりそうなものを見繕えばいいだろう。


「……そこで待っていてもらえるか」


 リーベに言い置いてから、邸の方へと戻る。


『どこへ行くの?』


 掌の上に乗っているシロが、不思議そうな顔をしていた。そんな彼に、リーベに謝礼となりそうなものを邸に取りに行くのだと伝える。


『それなら、甘いものがいいよ。リーベは甘いお菓子が大好きなんだ』
「甘いもの……? 俺が作った焼き菓子なら、たくさんあるが……」
『ならそれをあげてよ。リーベ、きっと喜ぶよ!』


 謝礼がそんなもので本当にいいのだろうかと思ったが、シロはしきりに焼き菓子を推奨する。草木たちも喜んでいたし、ケルト自身も不思議な心地よさに包まれたため、できれば喜ばれるものを渡したい。
 そこで、主から賜った小箱の中に焼き菓子をいれようと思いつく。ケルトに使い道はないが、花柄の入った小さな箱は、女性に好まれるかもしれない。
 作業を妨害しないためか、シロは手から腕を伝って肩へと移動した。人に慣れているだけでなく、彼はとても賢い小鳥のようだ。
 焼き菓子を持って戻り、裏口の扉を開ける。間近で見たリーベは、やはり小さかった。ケルトよりも頭一つ分は背が低い。
 彼女に向かって箱に入った焼き菓子を差し出すと、彼女は表情に喜色を浮かべた。シロの言うとおり、甘いものが好きらしい。主や仲間にも美味しいと褒められたことがあるから、味は元々悪くはないと思っている。だが、店で買ったものと思われるとは思わなかった。彼女は、ケルトの作った焼き菓子をとても気に入ってくれたらしい。


「こんなに美味しい焼き菓子が作れるなんて――あ、あの、名前を伺っても……?」


 ケルトはシロから彼女の名前を聞いていたため、こちらが名乗っていないことをすっかり失念してしまっていた。


「ケルトだ」
「ケルトさん……わたしはリーベです」


 短く己の名を告げると、彼女もまた自身の名を告げる。あえて知っているとは告げなかった。


『僕、そろそろリーベのところに戻るね。リーベの友達がリーベを探してるんだ。実は僕たち道に迷っちゃってさ』


 リーベの元へ戻るというシロのため、彼女の肩先に向かって手を伸ばす。


 帰ろうとする彼女に箱ごと残りの焼き菓子を差し出すが、彼女はそこで初めて難色を示した。焼き菓子は遠慮することなくパクパクと食べていたのに、箱を受け取ろうとしない。彼女はうんうんと唸った結果、借りて洗って返しにくるという結論を下した。こちらとしても彼女が納得すればそれでいいため、異論はない。


「それではケルトさん、また!」
「ああ」


 大きく手を振りながら返っていくリーベを見送り、ケルトは裏口から庭へと戻った。


『珍しい、ケルト笑ってた』
『ほんとだ。貴重だね、うん』
「……笑ってた?」


 草木たちに問い返すと、皆揃って『ケルト、笑ってた』と返してくる。草木たちは嘘をつかない。そんな嘘をついたとしても意味もない。
 つまり、自分は本当に笑っていたのだろう。気づかないうちに表情に出ていたのかと、己の頬に手を触れる。


「また……か」


 彼女は箱を返すために、再びここまでやってくる。そのことを思うと、口元が自然に緩むのを感じた。


『あ、また笑った!』
『ケルトが笑った! あの子すごいね!』


 草木たちが嬉しそうに騒ぎ出した。確かに自分はあまり表情に変化がないと言われているが、こうも騒ぐほどのことだろうか。思わず憮然とした気持ちになる。草木の声がケルト以外の人間の耳には届かないことが唯一の救いか。こんな騒がしい声を主に聴かせるわけにはいかない。


 邸へと戻ると、主がいつ到着してもいいようにポットを温め始める。湯を沸かすのは来てからでも遅くはないだろう。
 ケルトは屋敷の中を見回る。主が到着するにはまだ時間があるため、それまでに不手際がないかの最終確認をするためだ。手抜かりがある邸に滞在させるなど、主に申し訳ない。
 念入りに確認をしたが、不手際なところはどこにもなかった。これで安心していつでも主を受け入れることができる。
 再び庭へと足を運ぶと、空は朱色に染まりつつあった。


『ケルト! 来たよ!』
『きたきた! 主様がきた!』
「!」


 草木たちのざわめきを耳にした直後、ケルトは邸の正面に向かって走っていた。草木たちの野次はもう耳には入らず、一心不乱に走る。
 ケルトの視線の先に、炎の様に鮮やかな紅が映った。こちらに気づいて向けられる眼差しもまた同じ色。なのに宿る光はとても穏やかで温かく、熱すぎるということがない。


「サフィラス様!」
「やあ、ケルト」


 彼の名を呼ぶと、主であるサフィラスは相好を崩し、赤い瞳を細めながらケルトの名を呼んでくれる。


「特に変わったことはなかったかい?」


 主の問いかけに、ケルトは脳裏にリーベの姿がよぎる。しかし心の中で頭を振る。彼女との邂逅は、サフィラスにとって益になることでも損になることでもない。わざわざ報告する必要もないだろう。彼女にあげた焼き菓子も、大した量ではないのだから。


「いいえ、ありません」
「そうか。ならいいんだ」


 ケルトは外と庭を隔てる門扉を開け、サフィラスを邸へと迎え入れた。


 

「お疲れ様です」
「お疲れさま」


 すれ違った裏方の青年に挨拶を交わしたユナフィアは、手にある資料に目を通しながら事務所の扉を開けた。
 備え付けのテーブルの上には、数十枚を超える紙が無造作に散らばっており、床にも数枚散乱していた。
 ふと窓の方を見ればがらりと開いていて、風が書類を飛ばしてしまったのだと口元を歪める。軽く嘆息したのち、散らばっている紙を集めた。


 これは一昨日まで行っていた公演でかかった経費などを纏めたもの。そして次の公演でかかるであろう費用を算出したものも混ざっている。
 今回の公演は今までにないほど盛況した。理由は考えるべくもない、新たに神鳥となったリーベの歌を聞くために、チケットは売れに売れた。新たな神鳥の噂を聞きつけた人々のおかげで初日から満席御礼となり、千秋楽まで全てのチケットを捌くのに時間はかからなかった。もっと多くの客に披露すべく、新たに立ち見席まで設けたほどだ。そしてその立ち見席もまた、全て完売してしまった。


(リーベが神鳥になったら売上は伸びると思っていたけど……想像以上だったわ)


 入団試験を受けに来たリーベの歌を聞いたときから、彼女から天性の素質を感じていた。彼女はいずれ確実に神鳥になると。
 だからといって彼女を即神鳥にするのは早計すぎる。リーベは素晴らしい歌声の持ち主ではあるが、いきなり独りで舞台に立つような度胸はないどころか、彼女には臆病な一面がある。


 それにまず、メリージアがそんなことを許すはすがない。プライドの高い彼女が自分以外の神鳥の存在を許すことなどありえないだろう。彼女は実力は確かなのだが性格に難があり、幾度も頭を悩まされた。


 まず、やってきた当初から自身が神鳥を務めると言って聞かなかった。いくら楽都で神鳥をしていたとはいえ、来たばかりの彼女は所謂「余所者」。突然やってきた余所者が神鳥をすると主張する。ミュージアムの仲間達が彼女に対して悪感情を抱いてしまうのは自明の理だ。


 そして神鳥になったらなったで今度は、こちらが想像もつかないようなことを要求してくる。やれ自分専属のマッサージ師はいないのか。身の回りの世話をする者はどこだ。こんな狭い部屋で気持ちよく練習などできない。


 彼女がかつて在籍していたミュージアムがどんな所だったのかは知らないが、神鳥一人をちやほやする為の人員を割く余裕など、カーテュアリーミュージアムには存在しない。それ以前に、そんなことをしていたら経費がかかる一方で経営が成り立たなくなる。


 ただでさえメリージアに団員達はいい感情を抱いてはいないのに、彼らに彼女の世話をさせるのは気が引けた。だからそんな人員が欲しいのならば、実家から連れてくるといいと提示するに止めた。もし彼女がそれに腹を立てて辞めたとしても、まだ公演を行う前のことであったため、ミュージアム側にダメージはない。前の神鳥を勤めていた子も辞めてしまったが、新たに別の神鳥を選出するだけだ。
 結局メリージアはこちらが提示した言葉を呑んだ。しかし練習に顔を出しもしなければ、団員達と親睦を深めようとすることもしない。一応家で練習をしているようではあるが、衣装合わせで姿を現したときは、ほぼ毎回衣装係の者と口論が勃発する。やれ、この飾りが気に食わない。やれ、もっと華美にはできないのか、などなど。
 確かにメリージアの歌は独特な艶やかな響きがあり、聞くものを魅了する。だが、こうも他の団員達と不仲であると、運営に支障が生じるだろう。否、既に彼女との諍いは頻繁に発生しており、軽視できない問題となっている。
 そんな状態だからこそ、団員達がメリージアに変わる神鳥としてリーベを推すようになるのも、半ば必然的なことだった。
 リーベが他の歌い手と共に舞台に立つ練習に加わるようになってから、ほぼ毎日のように誰かしらが、ユナフィアの元へとやってくる。そして皆同じことを言った。


「リーベを神鳥にしたらどうでしょう!」


 憎らしいが実力は確かなメリージア。そしてそんな彼女に変わる神鳥となれる素質を持った少女の存在が、団員達の目にどう映ったのか。
 メリージアが本当に口だけの人間だったならば、カーテュアリーミュージアムの神鳥は以前と変わらぬままのはず。もしくは、彼女が自身の才能を鼻にかけることなく、謙虚で慎ましやかであったならば、団員達も反感を覚えたりはしない。
 本音を言えば、ユナフィアもリーベに神鳥をして欲しいと願っていた。だが、リーベはまだ入団したばかりの新米である。どんなに歌が上手くとも、経験が全くないリーベにとって神鳥は荷が重過ぎるだろう。
 いずれリーベに神鳥を渡すことはほぼ決定事項ではあるが、それは当分先のことだと言ってユナフィアは団員達を諭した。完全に不満を消すことはできないが、少し冷静になれば、彼らもリーベに神鳥はまだ早いと気づくはず。
 しかしある日、ある人物がとんでもないことを言い出した。


「オーナー! リーベという小娘と勝負させてくださいませ! あの生意気な小娘に、神鳥はわたくししかいないということを思い知らせなければなりません!」


 突然私室に乗り込んできたメリージアが、突飛なことを言い出した。ぐらりと揺れる頭を押さえながら、興奮しているメリージアを落ち着かせて詳しい事情を聞く。
 私情を一切抜いて要約すると、メリージアは団員の会話を聞いてリーベが神鳥を狙っていると勘違いをしてリーベに詰め寄り、そして丁度傍にいたフォクノが、ならば神鳥を賭けて勝負すればいいと提案してきた、ということだった。
 リーベとメリージア、勝負して勝つのはどちらかと言われれば、ユナフィアはリーベと断言する。これでも多くの歌い手を見てきたのだ。どちらの歌い手が客の心を掴むのかは明らかだった。


(……でも、公演中に神鳥が変わるのはよくないわね。それに、リーベにももっと舞台に慣れてもらわなければ困るし)


 メリージアが聞いたら憤慨しそうなことを考えながら、彼女の申し出にどう応えようかと頭を巡らせる。


「……いいでしょう。貴女が言うのであれば、以前行った方法と同じ手法で勝負してもらいましょう。ただし、今は大事な公演中よ。そちらに専念してくれないと困るわ。勝負の場を設けるのは公演を全て終えてから。それでいいかしら」
「――ええ、それで結構ですわ」


 メリージアから同意を得た後、広報担当と相談し、公演が終了した翌日に審査員の募集をかける。以前にも行った為か反応がよく、あっという間に公募した人数に到達した。
 そして迎えた当日。結果は予想以上だった。
 リーベが勝つだろうと予測はしていたが、まさか公募した一般審査員全員がリーベの歌を選ぶとは思っていなかったのだ。前の争いでも、メリージアを選ばなかった審査員が数名いたにも関わらず。


(才能があると思っていたけど……これほどまでとは)


 ユナフィアを含めた団員達は、メリージアにいい感情を持っていないこともあって、二人の歌を客観的に比べることができないでいた。わざわざ審査員を公募して判定を行ったのは、それも理由に含まれている。気に食わないからという理由でメリージアを神鳥から降ろすのは、絶対にしてはいけないことであると。
 だがこうして、街の人たちからもリーベの歌声が望まれていることが判明した。だから臆することなく宣言することができる。


「勝者、リーベ。よって、カーテュアリーミュージアムの神鳥はリーベに決まったわ」


 ユナフィアの言葉に、会場全体がワッと歓声をあげた。大きな拍手も聞こえてくる。公募して集まってくれた審査員の人々。そしてカーテュアリーミュージアムの団員達。この場にいる者達が、揃ってリーベの勝利を祝福していた。
 ただ一人を除いて。


「――この勝負は無効ですわ!」


 切り裂くような鋭い声音が、歓声を打ち消す。苛立ちが募った黄金の瞳が、まっすぐユナフィアへと向けられる。


「わたくしは嵌められたのです! そこのフォクノという背の高い金髪の娘に! わたくしから神鳥を奪うためにこの女は、審査員として選ばれる人々がリーベの歌を好むと知っていて、わざとわたくしとリーベを勝負させる方向へと持っていったのですわ! 高貴なわたくしの歌を、フォーリエストの田舎者である住民が理解するはずがないと!」


 騒ぎ出したメリージアに、客席がざわめいた。それは決していいものではなく、むしろよくないざわめきだ。
 ユナフィアは頭を抱えたくなるのを寸でで堪えた。何故観客の前でそんなことを大声で言ってしまうのか。彼女の言葉はリーベ達はもちろんのこと、今ここに集まってる審査員の街の人々をも侮辱している。


「……、…………」


 げんなりと頭を掻くフォクノが何かをぼやいている。大きい声量ではないためユナフィアの耳にははっきり届かないが、メリージアの耳にはしっかり届いてしまったようだ。メリージアがふるふると震えながら拳を握りしめている。


「綿密にわたくしから神鳥を奪う計画を立てていたくせに、なんて態度……! これでお分かりになったでしょう、オーナー! 全てはこの女の策略なのですわ!」


 メリージアが敗れた場合、あっさりと引くことはないだろうとは思っていた。だが、彼女も実力の確かな歌い手の一人であることに変わりはない。だから最終的には敗北を、リーベの歌を認めるだろうと思っていた。潔く負けを認めることも、矜持を保つことに必要なのだから。
 なのに彼女は、その敗因を周囲の者に押し付けようとしている。それが自身の価値を下落させていることに、全く気づいていない。


(……今まで、彼女を負かせられた人がいなかったのね)


 彼女の傲慢な態度は、自分より上の存在などいないという驕りからくるものだったのだろう。だから彼女は、自身の敗北を受け入れようとしない。いや、受け入れることができないのだ。


「――神鳥はリーベ。これはもう決まったことだわ」


 メリージアからしたら、無慈悲な言葉だろう。だが、もう彼女に神鳥をさせるわけにはいかなかった。


「お客様を侮辱するような人を神鳥に据えておくことはできないわ。それにもしあなたの言う通りだとしても、大事なのはただ上手いだけの歌ではなく、お客様を満足させられる歌、よ」


 ミュージアムで一番大切なのは、公演を楽しみにしてくれる観客だ。観客を楽しませる為に存在するのがミュージアムだ。だというのに観客を田舎者扱いするようであるならば、最早メリージアに神鳥でいる資格はない。それがわからない様であるなら尚更だ。
 しかし神鳥がリーベに決まった後も大変だった。想像通り、リーベは神鳥になったことを嬉しいと思うより重圧を感じ、毎日のように自分には無理だと深く落ち込む。その都度フォクノや他の歌い手達がフォローに回った。初めは励ますのに四苦八苦したものだが、リーベは落ち込みやすい分立ち直りも早いことがわかった。特に焼き菓子のような甘いものを出せば、一発で機嫌が浮上する。必死で励ましていた歌い手達も、今ではリーベをからかって遊ぶくらいの余裕ができるほど、慣れたものとなった。
 そして神鳥ではなくなったメリージアは、今度は前座を務めると言い出した。勝手な言い分ではあるが、彼女に合唱をさせる方が無理があるため、それを了承する。実際、メリージアの歌唱力は高く、前座を任せることに関して不都合はない。
 しかし、大変なことはこれで終わりはしなかった。
 公演後、貴族の使いと思われる輩が、ユナフィアを訪ねてきた。何でも、リーベの歌を気に入ったため、彼女を自分の専属の歌い手としたいと。
 当然のごとく、丁重にお断りをさせてもらった。リーベほどの歌い手を、そう易々と手放すわけがない。それにリーベ自身も、頷くことはないだろう。貴族の元へ行くということは、故郷であるフォーリエストを離れるということだ。幼馴染にして親友のフォクノや、今では歌い手の先達たちにも可愛がられている。それと臆病な性格も相俟って、フォーリエストを離れようとするとは思えない。
 そして公演期間中、ほぼ毎日のようにそれぞれ別の貴族の使いがやってきては、断るのが日課になってしまった。多いときでは三人ほど、少なくても最低一人は交渉にやってくる。
 リーベの歌唱力が高いからこその弊害といえよう。しかし、だからといって毎日のように相手をしなければならないユナフィアはげんなりとしていた。貴族を敵に回すのは避けなければならず、言動にはとても気を遣う。それにユナフィアにはそれ以外にも仕事があるのだ。必然的に時間をとられてしまうことにおいて、苛立ちを禁じ得なかった。


「あ、オーナー。ここにいましたか」


 風で飛ばされた資料を全て纏め終え、再び飛ばされないよう窓を閉めていると、団員の一人が事務室に顔を出す。


「どうしたの?」
「えーっと……大変言いにくいことではあるのですが」


 言いづらそうに口篭る団員に、ユナフィアはまたかと嘆息した。つまりはまた、リーベに対して交渉がしたいと。


「……そのお客様は今どこに?」
「お、応接室へと案内してあります」
「わかった。すぐいくわ」


 煩わしいことは、早いうちに終わらせるに限る。ユナフィアは足早に応接室へと向かった。


「お待たせして申し訳ありません。失礼いたします」
「いえ。お忙しいところをお邪魔してしまったのですから、お気になさらず」


 ユナフィアは応接室の扉を開いた後、目を大きく見開いた。
 応接室で待っていたのは二人。一人はまるで炎のような、鮮やかな紅い髪をもった二十代手前の若い青年。男性なのに白くきめ細やかな肌と、整った端正な顔立ちに、穏やかな色が宿った髪と同じ色をした瞳。少し長めの紅い髪が、襟首の両側から垂れている。
 そして彼の後ろにいるのは大空より少し濃い色をした、珍しい青い髪をした女性だった。長いであろう青い髪を、シニヨンにして纏めている。年頃は青年と同じくらいであろう。彼女もまた、白い面立ちの美しい造作の持ち主だった。菫色の瞳を縁取る睫毛は長く、小さな唇には愛嬌がある。


(恋人同士……いえ、控えているということは主人と侍女かしら)


 美しい男女に、恋仲であるという邪推をするが、だったら彼女がいる位置は後ろではなく隣だろう。心の中で邪推を打ち消し、ユナフィアは笑みを浮かべた。


「わたしがこのミュージアムの責任者、ユナフィア・カーテュアリーと申します」
「私はイグニアス・サフィラ。彼女は侍女のララリエ・シルバーです」


 やはり主従であったと思うと同時に、ユナフィアは珍しいと疑問に思う。彼の持つ雰囲気や佇まいからしてどこかの貴族の青年であろう。通常このような交渉事を貴族が自ら行うことはなく、使者を寄越すのが一般的だ。実際、主様が直接乗り込んできたことは一度もない。


(面倒なことにならなければいいけれど……)


 ユナフィアがもう少し若ければ、イグニアスと名乗った青年の美しい容貌に見惚れたかもしれないが、生憎彼の美貌に心を動かされることはない。もう色恋に心をときめかせる年齢ではないことと、ユナフィアの言葉一つでミュージアムの命運が左右されるという責任感から、心に浮かぶのは早く彼らに帰ってもらいたいという願いだけだった。


「どうぞ、そちらのソファにおかけください。――シルバーさんもどうぞ」
「いえ、わたしは立ったままで結構です。お気遣い感謝いたします」


 ララリエと呼ばれた青髪の女性は、ソファに腰掛けるイグニアスの後ろへと控える。彼女は主と年が近いにも関わらず、分別をわきまえているようだった。逆にそうでなければ、連れてはこないだろう。彼の仕草に見惚れているようでは、仕事にならない。


「……ご用件は、我がミュージアムが誇る神鳥リーベのことでよろしいでしょうか」


 ユナフィアは単刀直入に本題を切り出した。それ以外に相手の目的は見えないのだから、さっさと済ませるべく余計な世間話をするつもりはない。


「はい。その通りです。カーテュアリーミュージアムの神鳥リーベは、至高の歌声を持つという噂を耳にしました。ですが、そのときには既に公演のチケットは全て完売済みでして……」


 公演が終わった直後に彼がやってきた理由を理解する。リーベのことを聞いたのが公演途中ならば、それは既にチケットが完売した頃だ。フォーリエストまで来たはいいが、チケットを手に入れられなかったという貴族の客は、決して彼だけではないだろう。


「差し出がましい願いだと承知で申し上げます。一目でもいいので、リーベさんにお目通りはかなわないでしょうか」


 礼儀正しい青年の申し出に、ユナフィアは少し目を丸くする。リーベを直接雇いたいという者はおれど、一目だけでいいから会いたいと願う者はいなかった。あくまで彼らが望んでいるのはリーベの『歌』であり、彼女の見目に興味を持つことはない。
 だからこそ、一目見るだけでいいという彼の申し出に違和感を覚える。リーベには会っただけでは意味がない。それとも、会えば歌ってくれるだろうと安く考えているのだろうか。
 本日は公演明けということで、歌い手や裏方達には休暇を言い渡しており、現在リーベはフォクノと共に、数ヶ月前まで暮らしていた孤児院の様子を見るために外出している。だから彼の要望に応えることはできないわけだが、もしもリーベが外出していなくとも、ユナフィアは彼の願いを叶えるつもりは毛頭なかった。


「……申し訳ありませんが、そのご希望に応えることはできません。我らが神鳥の歌を聞きたいと願うお客様は、あなた様以外にも大勢いらっしゃいます。もしイグニアス様にこのことを了承したならば、他のお客様も是非自分もと彼女に会いたがるでしょう。その度に彼女を会わせていたら練習時間を割くことになり、次の公演に支障が出てしまうかもしれません」


 今回初めて立ち見席を設けたが、これはあくまでフォーリエストの地域住民に向けたもの。実際、売ったのは全て一般市民であり、貴族の人間やその使いが立ち見席のチケットを購入したという話は聞いていない。リーベの歌は聞きたいが、それまでずっと立ちっぱなしというのは、高貴な人間が二の足を踏むには充分すぎる。
 だからこそ、是が非でもリーベの歌を聞きたいと願う貴族はこれからも増えるだろう。今後イグニアスと同じように、公演前にも関わらず練習風景を見るだけでもいいと押しかけてくる輩も現れるかもしれない。そして一度それを許してしまえば、貴族だけでなく一般市民も見学がしたいと、押しかけられる可能性もある。
 たった一度でも例外を作るわけにはいかなかった。こちらが提示するサービスは、あくまで『公演』という形のみであると示さなければならない。


「どうしても無理でしょうか」
「ええ。公平をきすためでございます。どうかご了承くださいませ」


 ユナフィアは深々と頭を下げた。これ以上は何を言っても自分は意見を曲げる気はないという意思を込めて。


「……今日のところは引き上げることにします。時間を割いていただき、ありがとうございました」


 イグニアスがソファから立ち上がったため、ユナフィアもまた立ち上がり、彼のために扉を開けた。


「お次は是非公演を見にいらっしゃってください。――そこのあなた、お客様を外へとお連れして」
「あ、はい」


 丁度通りかかったスタッフに話しかけ、彼は見目のいい二人の男女に緊張しつつも、こちらですと丁寧に案内を始めた。イグニアスとララリエは、去り際にユナフィアに向かって軽く会釈する。


(今回は聞き分けのいい人でよかったわ……)


 二人の姿が見えなくなってから、ユナフィアは大きく息を吐く。今まで交渉をしてきた使いの者達の大半は、こちらが断りを入れても是非にと、どうしてもとなかなか引かない者ばかりだった。その度どんな交渉内容でも、こちらは受けることはないと平行線を辿り、相手が根負けして折れるのを待つしかない。それは精神的な面において、かなり消耗する。


(……ちょっと待って。彼、立ち去る前に確か今日のところは、って……まさか)


 そして、ユナフィアの次は公演を――の言葉に頷いていない。嫌な予感にぶるっと身体が身震いした。


(か、考えすぎよね。さあ、頭を切り替えていかなければ。わたしにはまだ仕事があるのだから)


 ユナフィアは応接室を後にし、書類の整理をすべく事務室へと向かう。今日はこれ以上の来客がないことを願った。



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