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在宅で看取ること

人も動物も自分の死が近づくと本能的にわかるんじゃないかと思う。その時をどこで過ごしたいか、誰といたいか、答えは皆同じではないか。介護用ベッドを置く部屋がないとか、同居でないので面倒を看たくても叶わないとか、物理的なことはさておいて、人は最期に何を望むのだろう。介護する側も後悔を引きずらないためにどうしたらいいのだろう。

 

私は、一匹のシーズー犬をたとえ2日でも病院に預けた後悔を今でも引きずっている。犬のことで何を言うかと思う方も多いと思う。でも犬は口がきけない、従って理屈でなく感情だけで飼い主と繋がっている。こうして欲しいと訴えるとき目を見てワンワンと吠えるしかない。病院のケージに預けたショーンが「一緒に連れて帰って」と悲痛な鳴き声で訴えていた。その声がずっと耳に残って今も後悔しない日は一日だってない。アルツハイマー病や認知症の人はどうだろう。まるでもう人にあらずというような扱いを老人ホームなどの施設で受けている高齢者のことが時々テレビのニュースで流れる。それを見て心を痛めない人はいない筈だ。

 

母が最後に腸閉塞で入院したとき一冊の小さなノートに日記を綴っていた。口では私に忙しいでしょうから毎日来てくれなくていいのよ、と言っていた母がノートには「今日は誰も来ない日、淋しい...」と書いていた。母は献身的に介護する私に痛いだの、辛いだの、不安だというような言葉を吐かなかった。終末期だと伝えられずにいた私への母の気遣いが感じられて、思い出すと切なくなる。母もまた最期が近いことに気づいていて、それでも私や妹のために一日でも長く生きようとしてくれていた。

 

アルツハイマー病の義母は入院していた一ヶ月間で表情がなくなり言葉を発することもなくなった。本人に家に帰ると伝えても事情が良くわからない様子だった。もしかしたら自分の子供の名前すら忘れているんじゃないだろうか、そんな疑問がわくほど義母は無表情で退院した。それでも前に書いたように、退院してからは時々好きなものは「おいしい」と言って食べてくれたし、義父の我がままに私が「困ったお父様だわ」と言うと申し訳なさそうな顔をして見せた。病気が進行していても決して感情がなくなったわけではない、そう確信していた。

 

我がままな義父も、人に対しては礼儀をわきまえるところがあって、機嫌の良い日には私や看護士さんに向かって、「いつもすまないねー ありがとう」と言った。認知症が進んだ義父でさえ理性を見せることがあったので、高齢でも、認知症でも、末期癌でも、人は最期まで人、だから人として接してあげないとだめなんだと心からそう思った。

 

最初の質問にもどって、人は最期をどこで、誰と迎えたいだろうか。人は生まれてきた瞬間から親に守られ大事に育てられて大人になった筈。そして亡くなるまでの長い人生を愛する人と共に送ってきたのではないか。最期だけ一人になって良い筈がない。家族が見守る中で、或は家族がいる住み慣れた家で、安心して最期を迎えることができたら、「良い人生だった」とそう思いながらこの世を離れることができると私は確信している。

 

介護する者が後悔を引きずらないためにも、誰もが在宅で、本当の意味の終の住処で、看取ることができたらいいと思う。それがきっと誰もが望む最期ではないだろうか。

 

生意気に書いてきた私も決して一人でできたわけではない。訪問してくださる先生や看護士さんたち、ケアマネージャーさんやヘルパーさん、義理の妹や夫、みんなの助けがあってこそできたこと。高齢者の介護は赤ん坊の世話とはわけが違う。腕力や工夫も必要、資金も必要だ。高齢者を食い物にする業者がないとは言えない世の中だからこそ、皆が自分の最期を考え、最期を迎えている人の気持ちを理解することが必要だと思う。誰の未来にも、いつか自分の番が来て介護される立場になるのだから。

 

 

 


この本の内容は以上です。


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