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アルツハイマー病?

自分の母の看護をしながら、階下の真ん中を挟んで反対側に住む義母の様子が変だと思うようになった。用事があっていつ階下に下りて行っても義母はソファーで寝ていることが多くなった。以前から肥満気味の義母は心臓病を患っていたせいで、生活は家の中が殆ど、買い物やお散歩に誘ってもなかなか行きたがらないところがあった。そのことが加速されたようにいつも家でじっとしている。あんなに大好きだった読書も進まなくなったみたいで寝ていることが増えた。「私は食いしん坊だから食事を作るのは苦にならないのよ」そう言っていた義母が何をするのも面倒そうな顔をするようになった。このまま行ったら認知症にならなくても充分寝たきりになってしまう...

 

あるときお漏らしをするようになった。おかしいな、羞恥心が人一倍ある筈の義母がお漏らしに気づいていない。ましてや私が後始末をしていても気に掛けていない様子だった。女性だから尿取りパッドを付けてもらっても大丈夫と思ったのは大失敗で、トイレで流して詰まってしまい、業者を呼ぶなど大変なことになったので、それからはなんとか説得してパンツ型のオムツを付けてもらうようにした。仕事や買い物など私が家を空けるときは、私の看護を必要とする私の母、1人ではお茶を入れることもできない義父、その頃はもう台所に立って火を扱うことができない義母、3人の気がかりを常に背負って外出していた。とうてい私1人では3人の全ての面倒を見ることはできないので、義父母のほうは介護認定を取って毎朝と夕1時間ずつヘルパーさんに来てもらい食事の介護をしてもらった。

 

アルツハイマー病には良い時、悪い時、の波があって、普段一緒に生活をしていない人が良い時だけを見ると、それまでと何も変わらなく思えるので、まさかアルツハイマー病だなんて思えない。あれ? どうしたのかな? 変だな? そんな小さな変化が分かるのは一緒に住んでいるから。一人暮らしの老人のそんな変化に誰が気づいてあげられるのか... 私のところは皆がまだ元気な時に3世帯住宅を建て、それぞれが独立して暮らせるような家の作りにしてあった。独立と言っても実際は同居なので親にはいつ何があっても、2階に私たちが住んでいるから大丈夫という安心感を持ってもらうことができた。年を重ねるに連れて誰しもいろんな不安が出てくるもの、子供のいない老夫婦だけの世帯、一人暮らしを余儀なくする高齢者世帯であったらなおさら明日のことが不安になると思う。

 

テレビの方を向いた義母の食事をする手がピタッと止まったまま動かない。もういいのかと声をかけると、「いただきます」と言ってまたゆっくり口に食べ物を入れる。台所を片付けながら目に入る義母の後ろ姿から、少しずつ病気が進んでいるのがわかった。もともととても穏やかでやさしい人柄の義母は私に対して暴言を吐りたり、怒ったりといったことは全くなかった。膝が悪く外出も嫌いだったためか徘徊も全くなかった。なのでアルツハイマー病とわかってからも大変だと言われているようなことはなく、身の回りの世話さえしていれば、それ以外に徘徊や排泄で困るようなことは起きなかった。それよりも、義母と話をしていると以前のようにニコニコとして返事をしてくれるので、いったい義母は自分の病気のことをどれほど解っているのだろう? 悪い時は、何も記憶に残らないかも知れないけれど、良い時は、もしかしたら少し解る部分があるからこそ、良く言われるように、自分の病気を隠そうとして普通に話をしてくれるんじゃないか、そんなことも考えた。


最期は在宅で

私の母が亡くなってそのことを義母に伝えたが全く反応がない。それどころか出棺を控えた日、最後に会ってお線香を上げて欲しいと言ったところ、軽い認知症の義父はすぐに最後の別れをしてくれたが、義母は、「私は嫌だ」の一点張りだった。きっと悪い時と重なって義母は理解できないでいたと思うと、なんとも切ない。薬で進行を遅くすると言っても、そこまで進んではもう先が長くはないだろうと覚悟を決めざる終えなかった。実際義母は機嫌が良さそうな日と悪そうな日があって、やはり言われているように良い時、悪い時、の波があるみたいだった。

 

母の葬儀を済ませて2週間ほど経ったある日、義母が苦しそうに咳き込んだことがあった。以前から往診の先生に、義母の心臓肥大はいつ何があってもおかしくない状態、と聞いていたので、その時も先生に往診を頼み、急遽入院してもらうことになった。入院先の病院の医師の勧めでペースメーカーを付けたらずいぶんと呼吸は楽そうにしていた。同時に生体検査で、アミロイドというタンパク質が体のあちこちに付いて機能しなくなるアミロイドーシスという病気だと解った。医師のもう先は長くないという説明に、私たち家族は、一日も早く退院してもらい、在宅で最期を迎えてもらいます、という決断を伝えた。入院して一ヶ月後の12月終わりに近いある日、自分の置かれている状況を全く理解できない義母を家に連れて帰ったのは、11月の初めに亡くなった自分の母の納骨を岡山で済ませ、川崎の自宅に戻って来た翌日のことだった。

 

それから1月30日に他界するまで、自宅の義父の隣に並べたベッドと食卓を行き来する生活が始まった。何かしたいことや食べたいものがあるかと聞いても、首を横に振るだけの義母はだんだん食が細り痩せて行く。以前から痩せたいと思っていた義母がこんな形で痩せて行くのを見るのは皮肉なものだと思えてくる。亡くなる10日ほど前だったか、食べ物を呑み込むことが上手くできなくなっていたので、甘いものが大好物の義母に柔らかいケーキを買ってきてお昼ご飯に出した。久しぶりに「おいしい」と言い全部食べてくれた。その日は良い時だったのだろう。顔も穏やかで、私の話に耳を傾ける義母は以前と変わらない。そんな時は私の方を見て、「申し訳ないわ、面倒をかけて、」と言いたそうな目でこちらを見ていた。

 

お正月を義父と私たちと一緒に迎えた義母は1月30日に他界した。退院して約一ヶ月半、夫の隣で眠ったり、息子に車椅子に載せてもらったり、まるで1人では何もできない赤ん坊のように皆に世話をしてもらいながら最期を迎えた。自分の置かれている状況が把握できないアルツハイマー病の母であっても、良い時があった。何もかも分からなくなって、息子や娘の名前も忘れてしまうと言われているけれど、本当にそうだろうか。2年程前に気づいた小さな変化のように、毎日一緒にいると表情の違いを見逃すことはない。だから良い時があったことは確かだ。アルツハイマー病で無表情の義母ではなく、「おいしい」と言ってくれた義母の顔が私の心に残っている。


兵隊さんが

義母が亡くなった日、隣のベッドにいる義父にそのことをどう伝えたら良いものか、何度も何度も義母の病気や入院について話したことがあったが、すぐに忘れてしまう。認知症の義父の中では義母はいつまでも元気な妻でいたようだから。義父を義母の眠るベッドの横に連れて行くと、義父は義母の名前を呼びながら大泣きをした。それから、同じ年の暮れに義父が亡くなるまでの11ヶ月間、私は義父の介護に明け暮れた。母、義母、義父、3人の面倒をいっぺんに見ていた時よりも、義父1人の介護に追われる毎日は精神的に辛い日々だった。

 

朝は、オムツから漏れた大量の尿や大便は決まってパジャマまで汚していたので、まず全部着替えてもらうことから始まる。食欲旺盛な義父は3度の食事を楽しみにしてくれていたので作りがいもあったし、毎回の完食には感心するほどで、後片付けも楽だったが、その分排泄の量も半端ではない。食事や排泄の世話は生きている以上当たりまえだし、むしろ食欲があればこちらも安心していられたものだ。ある朝、夢でも見たのか、「兵隊さんがたくさん並んでこっちを見ている」「誰も助けに来ない」などと一生懸命話をするので、いくら私が、それはきっと夢でしょう、と言っても、そこにいるだろう、見えるだろう、と譲らない。同じ話が一日続くこともあった。どうやら幻覚を見ているらしく、「誰かの顔が見える」「大きな虫が天井を這ってる」などと聞くと、幻覚と分かっていても気味が悪く、夜は私一人で話相手をするのはちょっと嫌だった。

 

とても痛がりの義父が、どこも怪我等してないのに痛い、痛い、と大騒ぎをした時は、私が少しきつい口調で、「お父様、我慢なさいよ」と言うと、医者を呼べ、救急車を呼べと余計に大騒ぎをして困らせた。そんなことが何度も何度もあった。甘えん坊で我がままな人の世話がこんなに大変とは思わなかったが、大正生まれの、「男子厨房に入らず」時代を生きて来た義父だから仕方のないことと諦めるしかなかった。あまり痛いと騒いだある日、往診の先生を呼んで診てもらった時も先生は首をかしげるばかり。当の本人は先生が診てくれた安堵感からか、ニコニコしながら帰り際の先生に手を振って見せた。アルツハイマー病のように、老人性認知症の義父にも良い日と悪い日の波があったようだし、一日中眠り続ける日があったり、夜中まで起きて暗闇で目をぱっちり開けているなど、生活のリズムが狂うこともよくあった。

 

ある時、義父の尾てい骨の赤くなった部分の皮膚が剥がれてしまっていた。数年前に老衰で亡くした犬の腰や頰にできていたのと同じだった。褥瘡(床づれ)はとても痛々しく処置をしていてもどんどん広がって行く。毎日大きなポケットのように開いた穴をお湯で洗い、薬をつけてガーゼで蓋をする。さぞかし痛いだろうと思って、義父に痛くないの?と聞いてもあまり反応がない。それどころか、なんとか横向きに寝てもらおうと背中にクッションをあてたり工夫をした私たちをよそに、5分も経たないうちにちゃんと上向きに寝ている義父を見て微笑ましくもあったけれど、看護士さんや私は困ったものだと頭を悩ませたものだった。


先の見えない不安

義父は一週間に一度のデイケアを楽しみにしていた。もともと絵を描くのが得意な義父は折り紙や塗り絵など楽しんできたようだった。旺盛な食欲は変わらず、ときどき昼夜逆転することがあっても、良く寝て良く食べてくれていればこのままずっと長生きをしてくれるんじゃないか、と思って安心していたある日、たまたま往診の先生の診察で軽い肺炎を起こしているようだとわかった。もう歩けなくなっていた義父を病院に連れて行くには救急車を要請するしかなく、けたたましいサイレンをならしながらやってきた救急車に義父をお願いした。救命救急センターでレントゲンなど検査をしてもらうと、軽い肺炎なので家で点滴を続けてくださいとのこと。数時間後に帰ってきた義父はとても元気そうに見えた。呑み込む力が弱くなった高齢者は簡単に誤嚥性肺炎を起こすのでその後も気をつけなければいけなかった。ところが僅か一週間後、今度は脳梗塞を起こした。その日はいつも通りお昼ご飯をベッドで取り横になって少しすると足に痙攣がきた。痙攣は全身に広がり、お父様、お父様と呼んでも反応がない。ただごとではない症状に先生と看護士さんに連絡を入れた。待っている間も義父の両目は片方に寄ったまま動かない。もうダメだと思ったので身内の者に連絡を入れた。看護士さんも義父を診るなり脳梗塞を疑い先生に電話で指示を仰ぎ、点滴を開始してくれた。皆が義父の回りに集まっていよいよ最期だと覚悟を決めて見守る中、なんと義父は目を覚まし何事もなかったようにニコニコしてこちらを見ている。やっと都合をつけてかけつけてくれた先生もこれには驚いた。本人はいつものように目が覚めたという顔をしている。なんと生命力の強い人か。そしてまた一週間後、私が仕事で家を空けている間に義父は生死をさまよった。ちょうど手伝いに来ていた義理の妹が一人で義父の傍についていた時、義父の血圧が急に下がり始め、このまま何もしなければ持ち直すことはないという医師の説明に、妹は点滴に一途の望みをかけてみるという判断をした。普段からその時が来たら延命はしないと家族で決めてあったが、娘として、一日でも一時間でも父に長く生きていて欲しいという心情を察すると当然のことだし、それで義父がまた元気を取り戻してくれたので良かったと思った。

 

それから2週間ほど義父はまた以前のように元気でいてくれた。肺炎、脳梗塞、血圧低下、3度の危機を脱した義父の生命力にただただ感心するばかりの私だったが、いつもの介護に戻ったときの何とも言えない重苦しい気持ち、この先いつまでこんなことが続くのだろう、と不安はつのるばかり。一生懸命面倒を見る私に、看護士さんの一人が、「大丈夫ですか」と聞いてくれた。それまで誰にも言えずにいた気持ちに、その時初めて自分で気がついた。胸が詰まって涙が溢れそうな思いをこらえて、「大丈夫、がんばります」とだけ答えた。

 

3度の危機を脱した義父も最期は呑み込むことができなくなり呼吸不全で亡くなった。それでも亡くなる日の朝までなんとか食事を取ることができた。亡くなる数日前は朝からご機嫌で、「アイスクリームが食べたい」「うなぎが食べたい」「コーヒーが飲みたい」などと訴えるので、私がその都度用意をしてベッドに運んで行くと、嬉しそうに食べながら満足そうな笑みを返してくれた。以前の義父のように、食事を取りながら冗談も交え私たちとの最後の会話を楽しんでいるようだった。こんなに嬉しそうな義父は何ヶ月ぶりだろう、まるで小さな子供みたいな屈託のない笑顔がずっと心に残っている。


在宅で看取ること

人も動物も自分の死が近づくと本能的にわかるんじゃないかと思う。その時をどこで過ごしたいか、誰といたいか、答えは皆同じではないか。介護用ベッドを置く部屋がないとか、同居でないので面倒を看たくても叶わないとか、物理的なことはさておいて、人は最期に何を望むのだろう。介護する側も後悔を引きずらないためにどうしたらいいのだろう。

 

私は、一匹のシーズー犬をたとえ2日でも病院に預けた後悔を今でも引きずっている。犬のことで何を言うかと思う方も多いと思う。でも犬は口がきけない、従って理屈でなく感情だけで飼い主と繋がっている。こうして欲しいと訴えるとき目を見てワンワンと吠えるしかない。病院のケージに預けたショーンが「一緒に連れて帰って」と悲痛な鳴き声で訴えていた。その声がずっと耳に残って今も後悔しない日は一日だってない。アルツハイマー病や認知症の人はどうだろう。まるでもう人にあらずというような扱いを老人ホームなどの施設で受けている高齢者のことが時々テレビのニュースで流れる。それを見て心を痛めない人はいない筈だ。

 

母が最後に腸閉塞で入院したとき一冊の小さなノートに日記を綴っていた。口では私に忙しいでしょうから毎日来てくれなくていいのよ、と言っていた母がノートには「今日は誰も来ない日、淋しい...」と書いていた。母は献身的に介護する私に痛いだの、辛いだの、不安だというような言葉を吐かなかった。終末期だと伝えられずにいた私への母の気遣いが感じられて、思い出すと切なくなる。母もまた最期が近いことに気づいていて、それでも私や妹のために一日でも長く生きようとしてくれていた。

 

アルツハイマー病の義母は入院していた一ヶ月間で表情がなくなり言葉を発することもなくなった。本人に家に帰ると伝えても事情が良くわからない様子だった。もしかしたら自分の子供の名前すら忘れているんじゃないだろうか、そんな疑問がわくほど義母は無表情で退院した。それでも前に書いたように、退院してからは時々好きなものは「おいしい」と言って食べてくれたし、義父の我がままに私が「困ったお父様だわ」と言うと申し訳なさそうな顔をして見せた。病気が進行していても決して感情がなくなったわけではない、そう確信していた。

 

我がままな義父も、人に対しては礼儀をわきまえるところがあって、機嫌の良い日には私や看護士さんに向かって、「いつもすまないねー ありがとう」と言った。認知症が進んだ義父でさえ理性を見せることがあったので、高齢でも、認知症でも、末期癌でも、人は最期まで人、だから人として接してあげないとだめなんだと心からそう思った。

 

最初の質問にもどって、人は最期をどこで、誰と迎えたいだろうか。人は生まれてきた瞬間から親に守られ大事に育てられて大人になった筈。そして亡くなるまでの長い人生を愛する人と共に送ってきたのではないか。最期だけ一人になって良い筈がない。家族が見守る中で、或は家族がいる住み慣れた家で、安心して最期を迎えることができたら、「良い人生だった」とそう思いながらこの世を離れることができると私は確信している。

 

介護する者が後悔を引きずらないためにも、誰もが在宅で、本当の意味の終の住処で、看取ることができたらいいと思う。それがきっと誰もが望む最期ではないだろうか。

 

生意気に書いてきた私も決して一人でできたわけではない。訪問してくださる先生や看護士さんたち、ケアマネージャーさんやヘルパーさん、義理の妹や夫、みんなの助けがあってこそできたこと。高齢者の介護は赤ん坊の世話とはわけが違う。腕力や工夫も必要、資金も必要だ。高齢者を食い物にする業者がないとは言えない世の中だからこそ、皆が自分の最期を考え、最期を迎えている人の気持ちを理解することが必要だと思う。誰の未来にも、いつか自分の番が来て介護される立場になるのだから。

 

 

 


この本の内容は以上です。


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