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末期癌

同じ家の1階と2階に住んでいたのに、何故もっと早く気がついてあげられなかったのだろう。若い頃から大きな病気もせず、飼っていたワンコを連れて毎日楽しそうにお散歩をしている母が病気になるなんて考えもしなかった。2年前のちょうど今ごろ、ゴールデンウィークで仕事が休みの私に母が病院へ連れて行ってくれと頼んできた。

 

病院ではすぐにいろんな検査が行われた。そして出た結果を元に医師からの説明を受けて呆然とした。このまま何もしなければ3ヶ月の命、抗がん剤などの治療をすれば延命できると。治療をするためには母に本当のこと(癌であること)を伝えなければならない。伝えないで癌治療をしなければたった3ヶ月あまり。自分の親のことなのに、子供である私と妹に責任の重い選択が与えられた。

 

母は気丈なところがあったので、そしてたとえ一年でも延命して欲しくて事実を伝えた。たださすがに末期癌とは言えない。医師の上手なウソの説明に合わせて、末期癌のステージの一つ前の段階ということにしておいた。母なら頑張って治ってみせようとする筈、そう思った。暫く入院した後、抗がん剤治療を通院に切り替えてもらい夏に退院した。それからあっという間に髪が全部抜け落ちた。治療で点滴をした後は数日辛そうにして殆ど食事も取れないでいたので、どんどん痩せ細って行く母が不憫でならなかった。そのころの母は、「また以前のようにおいしい食事がしたい」「何を食べてもおいしくない」が口癖だった。

 

抗がん剤治療を続けていても、母の体の中では癌が進行していて、卵巣から広がった癌細胞が腸や腹膜のあちこちに散らばっていた。腹膜藩主という病名で、もう治せないほど癌細胞が散らばっている状態らしかった。おそらくその癌細胞が腸壁や胃を圧迫して、それで食欲がなかったのだろう。何を作って持って行っても、食べることが苦痛のようだった。そして年末が近いある日、とうとう腸閉塞を起こして入院した。それでも持ち前の元気ですぐに退院できたので家でお正月を迎えることができた。それから暫くは食事もなんとか取れ、髪の毛も元通り生えて、このまま元気になって数年、或は奇跡が起きて、もっと長く生きられるんじゃないかと思えるほどだった。今となっては母の回復ぶりが返って癌細胞を元気にしたんじゃないか、そんなことを考える時がある。

 

元気そうでも血液中の癌を示す数値がどんどん高くなって行った。そのことを受けて、医師から選択肢が三つあると言われた。一つ目は、このまま何もしない。二つ目は、前回と違う抗がん剤投与を再開する。三つ目は、癌摘出手術をする。なんとしても治りたい母の選択は手術だった。7月終わりに手術を受けた。摘出した癌細胞を見せてもらって大きさに驚いたが、腹膜に散らばった小さな癌細胞全てを取りきることはできなかったらしい。大変な手術を受けた82歳の母はどんどん元気になり、自分でも早く退院したいという表情をみせるようになった。手術後僅か2週間で退院することができたが、体に残っている癌細胞のことを考えると、この先どうなるのだろう、大きな不安をかかえていた。

 


初めての看取り

手術を受けた母が少し元気を取り戻したように見えた矢先、9月始め、母に呼ばれて階下に下りて行くと、朝から食べたものを吐いて苦しそうにしていた。病院の救命救急センターで診てもらい急遽入院することになった。

 

それから10月の中頃までの入院生活は本当に惨めなものだった。また腸閉塞を起こしていた。固形物を食べることはできないので、お茶やジュースなど飲んで胃に入ったものは腸に流れて行く前に抜き取ってしまう管が片方の鼻から外の袋に繋がっていた。何を飲んでも次の瞬間には管から流れ落ちて掛けてある袋に溜まる。もう二度と食べることはできないのだと、あまり先がないのだと感じた。それなら余計に家に連れて帰らないと、残された時間を家で過ごして欲しい。医師から何とか母を説得して貰い退院することになった。退院してから亡くなるまでの3週間は往診の先生や訪問看護士の方に本当に良くしていただいた。看護をしながらいろんなことを学んだ。ベッドに寝たきりの人の介護のやり方が一通りできるようになった。胃から出た液体を毎日2回トイレに捨てて綺麗にした。鼻から延びる管は常に寝ている母よりも低い位置に、ベッドの下方にぶら下げておく。管が詰まっても大変なのでドロッとした液体をあげるわけにいかない。命綱の点滴液も一日2回私が交換した。

 

亡くなる一週間ほど前、母が寝るベッドのある隣の部屋で往診の先生の話を聞いていると、ベッドからじっとこちらを見ている母に気がついた。本当のことが言えずに後ろめたい気持ちでいた私は、その時も母に何も言葉をかけてあげることができずに、先生の話を聞くふりを続けた。その時の母の、全てを悟ったような目が今でも忘れることができずに、どうしてあげたら母の気持ちに寄り添うことができたのか、どの言葉を使ったら良かったのか、本当のことを言うべきだったのか、など今でも答えが見つからずにいる。

 

最期の3週間は慣れないで手つきで母の世話を一生懸命した。それでも、もう終末期だから最期が近いとはとうとう言えずにいた。家で母の嬉しそうな顔を二度と見ることはなかったが、病院でなく自宅に連れて帰って良かったんだと今でも自分に言い聞かせている。

私に心配をかけまいと最後までモルヒネを使うこともなく、痛い、辛いと訴えることもなく、じっと耐えていた母。どうしてあげることもできずに、その時をただ待つしかない私だった。在宅で看取るということは単にオムツ交換をしたり、着替えを手伝ったり、食事を作ったり、そういうもろもろのことではなく、何かもっと心にずしっと重い責任感のようなものかも知れないな、そう感じていた。

 

 

 


アルツハイマー病?

自分の母の看護をしながら、階下の真ん中を挟んで反対側に住む義母の様子が変だと思うようになった。用事があっていつ階下に下りて行っても義母はソファーで寝ていることが多くなった。以前から肥満気味の義母は心臓病を患っていたせいで、生活は家の中が殆ど、買い物やお散歩に誘ってもなかなか行きたがらないところがあった。そのことが加速されたようにいつも家でじっとしている。あんなに大好きだった読書も進まなくなったみたいで寝ていることが増えた。「私は食いしん坊だから食事を作るのは苦にならないのよ」そう言っていた義母が何をするのも面倒そうな顔をするようになった。このまま行ったら認知症にならなくても充分寝たきりになってしまう...

 

あるときお漏らしをするようになった。おかしいな、羞恥心が人一倍ある筈の義母がお漏らしに気づいていない。ましてや私が後始末をしていても気に掛けていない様子だった。女性だから尿取りパッドを付けてもらっても大丈夫と思ったのは大失敗で、トイレで流して詰まってしまい、業者を呼ぶなど大変なことになったので、それからはなんとか説得してパンツ型のオムツを付けてもらうようにした。仕事や買い物など私が家を空けるときは、私の看護を必要とする私の母、1人ではお茶を入れることもできない義父、その頃はもう台所に立って火を扱うことができない義母、3人の気がかりを常に背負って外出していた。とうてい私1人では3人の全ての面倒を見ることはできないので、義父母のほうは介護認定を取って毎朝と夕1時間ずつヘルパーさんに来てもらい食事の介護をしてもらった。

 

アルツハイマー病には良い時、悪い時、の波があって、普段一緒に生活をしていない人が良い時だけを見ると、それまでと何も変わらなく思えるので、まさかアルツハイマー病だなんて思えない。あれ? どうしたのかな? 変だな? そんな小さな変化が分かるのは一緒に住んでいるから。一人暮らしの老人のそんな変化に誰が気づいてあげられるのか... 私のところは皆がまだ元気な時に3世帯住宅を建て、それぞれが独立して暮らせるような家の作りにしてあった。独立と言っても実際は同居なので親にはいつ何があっても、2階に私たちが住んでいるから大丈夫という安心感を持ってもらうことができた。年を重ねるに連れて誰しもいろんな不安が出てくるもの、子供のいない老夫婦だけの世帯、一人暮らしを余儀なくする高齢者世帯であったらなおさら明日のことが不安になると思う。

 

テレビの方を向いた義母の食事をする手がピタッと止まったまま動かない。もういいのかと声をかけると、「いただきます」と言ってまたゆっくり口に食べ物を入れる。台所を片付けながら目に入る義母の後ろ姿から、少しずつ病気が進んでいるのがわかった。もともととても穏やかでやさしい人柄の義母は私に対して暴言を吐りたり、怒ったりといったことは全くなかった。膝が悪く外出も嫌いだったためか徘徊も全くなかった。なのでアルツハイマー病とわかってからも大変だと言われているようなことはなく、身の回りの世話さえしていれば、それ以外に徘徊や排泄で困るようなことは起きなかった。それよりも、義母と話をしていると以前のようにニコニコとして返事をしてくれるので、いったい義母は自分の病気のことをどれほど解っているのだろう? 悪い時は、何も記憶に残らないかも知れないけれど、良い時は、もしかしたら少し解る部分があるからこそ、良く言われるように、自分の病気を隠そうとして普通に話をしてくれるんじゃないか、そんなことも考えた。


最期は在宅で

私の母が亡くなってそのことを義母に伝えたが全く反応がない。それどころか出棺を控えた日、最後に会ってお線香を上げて欲しいと言ったところ、軽い認知症の義父はすぐに最後の別れをしてくれたが、義母は、「私は嫌だ」の一点張りだった。きっと悪い時と重なって義母は理解できないでいたと思うと、なんとも切ない。薬で進行を遅くすると言っても、そこまで進んではもう先が長くはないだろうと覚悟を決めざる終えなかった。実際義母は機嫌が良さそうな日と悪そうな日があって、やはり言われているように良い時、悪い時、の波があるみたいだった。

 

母の葬儀を済ませて2週間ほど経ったある日、義母が苦しそうに咳き込んだことがあった。以前から往診の先生に、義母の心臓肥大はいつ何があってもおかしくない状態、と聞いていたので、その時も先生に往診を頼み、急遽入院してもらうことになった。入院先の病院の医師の勧めでペースメーカーを付けたらずいぶんと呼吸は楽そうにしていた。同時に生体検査で、アミロイドというタンパク質が体のあちこちに付いて機能しなくなるアミロイドーシスという病気だと解った。医師のもう先は長くないという説明に、私たち家族は、一日も早く退院してもらい、在宅で最期を迎えてもらいます、という決断を伝えた。入院して一ヶ月後の12月終わりに近いある日、自分の置かれている状況を全く理解できない義母を家に連れて帰ったのは、11月の初めに亡くなった自分の母の納骨を岡山で済ませ、川崎の自宅に戻って来た翌日のことだった。

 

それから1月30日に他界するまで、自宅の義父の隣に並べたベッドと食卓を行き来する生活が始まった。何かしたいことや食べたいものがあるかと聞いても、首を横に振るだけの義母はだんだん食が細り痩せて行く。以前から痩せたいと思っていた義母がこんな形で痩せて行くのを見るのは皮肉なものだと思えてくる。亡くなる10日ほど前だったか、食べ物を呑み込むことが上手くできなくなっていたので、甘いものが大好物の義母に柔らかいケーキを買ってきてお昼ご飯に出した。久しぶりに「おいしい」と言い全部食べてくれた。その日は良い時だったのだろう。顔も穏やかで、私の話に耳を傾ける義母は以前と変わらない。そんな時は私の方を見て、「申し訳ないわ、面倒をかけて、」と言いたそうな目でこちらを見ていた。

 

お正月を義父と私たちと一緒に迎えた義母は1月30日に他界した。退院して約一ヶ月半、夫の隣で眠ったり、息子に車椅子に載せてもらったり、まるで1人では何もできない赤ん坊のように皆に世話をしてもらいながら最期を迎えた。自分の置かれている状況が把握できないアルツハイマー病の母であっても、良い時があった。何もかも分からなくなって、息子や娘の名前も忘れてしまうと言われているけれど、本当にそうだろうか。2年程前に気づいた小さな変化のように、毎日一緒にいると表情の違いを見逃すことはない。だから良い時があったことは確かだ。アルツハイマー病で無表情の義母ではなく、「おいしい」と言ってくれた義母の顔が私の心に残っている。


兵隊さんが

義母が亡くなった日、隣のベッドにいる義父にそのことをどう伝えたら良いものか、何度も何度も義母の病気や入院について話したことがあったが、すぐに忘れてしまう。認知症の義父の中では義母はいつまでも元気な妻でいたようだから。義父を義母の眠るベッドの横に連れて行くと、義父は義母の名前を呼びながら大泣きをした。それから、同じ年の暮れに義父が亡くなるまでの11ヶ月間、私は義父の介護に明け暮れた。母、義母、義父、3人の面倒をいっぺんに見ていた時よりも、義父1人の介護に追われる毎日は精神的に辛い日々だった。

 

朝は、オムツから漏れた大量の尿や大便は決まってパジャマまで汚していたので、まず全部着替えてもらうことから始まる。食欲旺盛な義父は3度の食事を楽しみにしてくれていたので作りがいもあったし、毎回の完食には感心するほどで、後片付けも楽だったが、その分排泄の量も半端ではない。食事や排泄の世話は生きている以上当たりまえだし、むしろ食欲があればこちらも安心していられたものだ。ある朝、夢でも見たのか、「兵隊さんがたくさん並んでこっちを見ている」「誰も助けに来ない」などと一生懸命話をするので、いくら私が、それはきっと夢でしょう、と言っても、そこにいるだろう、見えるだろう、と譲らない。同じ話が一日続くこともあった。どうやら幻覚を見ているらしく、「誰かの顔が見える」「大きな虫が天井を這ってる」などと聞くと、幻覚と分かっていても気味が悪く、夜は私一人で話相手をするのはちょっと嫌だった。

 

とても痛がりの義父が、どこも怪我等してないのに痛い、痛い、と大騒ぎをした時は、私が少しきつい口調で、「お父様、我慢なさいよ」と言うと、医者を呼べ、救急車を呼べと余計に大騒ぎをして困らせた。そんなことが何度も何度もあった。甘えん坊で我がままな人の世話がこんなに大変とは思わなかったが、大正生まれの、「男子厨房に入らず」時代を生きて来た義父だから仕方のないことと諦めるしかなかった。あまり痛いと騒いだある日、往診の先生を呼んで診てもらった時も先生は首をかしげるばかり。当の本人は先生が診てくれた安堵感からか、ニコニコしながら帰り際の先生に手を振って見せた。アルツハイマー病のように、老人性認知症の義父にも良い日と悪い日の波があったようだし、一日中眠り続ける日があったり、夜中まで起きて暗闇で目をぱっちり開けているなど、生活のリズムが狂うこともよくあった。

 

ある時、義父の尾てい骨の赤くなった部分の皮膚が剥がれてしまっていた。数年前に老衰で亡くした犬の腰や頰にできていたのと同じだった。褥瘡(床づれ)はとても痛々しく処置をしていてもどんどん広がって行く。毎日大きなポケットのように開いた穴をお湯で洗い、薬をつけてガーゼで蓋をする。さぞかし痛いだろうと思って、義父に痛くないの?と聞いてもあまり反応がない。それどころか、なんとか横向きに寝てもらおうと背中にクッションをあてたり工夫をした私たちをよそに、5分も経たないうちにちゃんと上向きに寝ている義父を見て微笑ましくもあったけれど、看護士さんや私は困ったものだと頭を悩ませたものだった。



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