兵庫県:姫路城
別名 :白鷺城(ハクロ)
所在地:兵庫県姫路市本町68
種類 :平山城
築城者:池田輝政
築城年:1601年
遺構 :備前丸、西の丸、三の丸、石塁、内堀、木造5層6階地下1階天守(国宝)、小天守、重要文化財櫓多数
姫路に城を築いたのは昔から多くいたが(1333年に赤松氏が姫山に城を築いたのが最初と伝えられている)、現在の城は池田輝政が1601年に徳川家康に命じられて築いたものである。その前には1580年に豊臣秀吉が築いた三層天守の城があった。
豊臣時代の姫路城の規模や外観は不明な点が多い。名将黒田如水が縄張りしたとされている。現在の姫路城も、如水の縄張りをそのまま使っている部分が多いらしい(特に本丸辺り)。
輝政は52万石の居城としてふさわしく(後には87万石、その他の領地を合わせて100万石近くになった)姫路城を改築したが、1617年に池田氏は鳥取や岡山に移され、姫路城主は本多、松平、榊原、酒井など、15万石程度の大名の城となっている。
姫路城は難攻不落の城として設計された(易功有落の城なんかないと思うが)。しかし、戦を見る事なく明治を迎えた。その後、三の丸に兵舎が建てられた為、東端にあった出丸は潰され、三の丸の建物全てが取り壊された。現在、三の丸に広大な広場があるのはこの為。
姫路城は一般的に多くの建造物が残っているとされるが、それは現在の視点からで、幕末と比べると何分の一にしか過ぎない(幕末の姫路城を描いた看板が菱の門を潜った後にある)。
今は、天守群がメインアトラクションとなっているが、他にも西の丸の渡櫓など、見所が多い。
姫路城は姫路駅から500メートルほど離れているが、行くのに困難しない。駅を出た時点で天守が望めるから。また、城の周辺には高層ビルが建っていないので、かなり遠くからでも城を展望できる。
和歌山県:和歌山城
別名 :虎伏城、竹垣城
所在地:和歌山県和歌山市一番丁
種類 :平山城
築城者:豊臣秀長
築城年:1585年
遺構 :石垣、水壕、復元天守群
和歌山城は弟秀長の為に豊臣秀吉が建てた城である。秀吉は和歌山に1ヶ月ほど滞在して縄張りし、1585年に本丸と二の丸の工事を終えた。
秀長は当時大和郡山城に在城していたので、和歌山には重臣桑山重晴を城代とした。
1600年の関ヶ原の合戦後、浅野幸長が37万石で和歌山に入った。この時、天守、二の丸、三の丸などが築かれた。
1619年、徳川頼宜が55万5000石で入り、城を更に拡大したが、あまりにも大規模な工事だった為幕府の疑惑を招き、城代家老が江戸に出向いて疑惑を解く、という事件が起こった。天下の御三家も幕府を恐れていたのだ。
和歌山はその後数回の火災に遭い、天守や御殿などを失った。御三家の為、特別に天守再建が許可されたが、藩主が幕府に遠慮した為最初に計画された5層天守ではなく、元と同じ3層天守が再建された。
この天守も第二次世界大戦で焼失してしまい、現在そびえる天守は1958年に外観復元したものである。
和歌山城に最も近い駅はJR和歌山駅ではなく南海和歌山市駅。それでも徒歩で15分ほど離れている。和歌山は幕末で活躍した勝海舟が一時住んでいたらしい。元住居後を示す石碑を途中見た。
本丸は二つに分かれていて、一方(天守曲輪)には天守や櫓等が再建されているが、もう一方(本丸御殿曲輪)は何故か給水場のタンクが置かれ、入れないようになっていた。
天守曲輪は有料。350円。
和歌山市には、JR和歌山駅を挟んで、もう一つ城がある。現在は来迎寺となっている太田城である。そちらは城に関する説明板があるだけで、城として整備されてはいない。
追記:
2014年に再訪したところ、和歌山市の鉄道の玄関は完全にJR和歌山駅となっていて、南海和歌山市駅はかなり寂れていた。
駅周辺も同じ事がいえる。
本丸御殿曲輪に給水場のタンクが置かれている状況は、相変わらず。
天守曲輪の入場料は410円に値上げされていた。
濠の一部を池としている点で全国的にも珍しい西の丸庭園は、かなり整備されている。秋頃は別名紅葉渓庭園の通り、紅葉が素晴らしい。
藩主が西の丸と二の丸を行き来し易くする為に建てられた御橋廊下も復元されている。
和歌山県:和歌山城
和歌山城概観復元天守。岡口門(現存建築)
鳶魚閣と御橋廊下。北側から望む天守と御橋廊下
島根県:松江城
別名 :千鳥城
所在地:島根県松江市殿町1-5
種類 :平山城
築城者:堀尾吉晴
築城年:1611年
天守閣:本丸、二の丸、石塁、濠、現存天守五層六階(重要文化財)、復元櫓
松江城は、23万石の大名堀尾吉晴が、1611年から5年の歳月をかけて築いた。堀尾氏は3代目に絶え、代わりに京極忠高24万石が入城。しかし、たった4年で死んだ。子がない為断絶となった。その後、家康の孫松平直政18万石が入城した。直政は、結城秀康の3男で、14歳の時、大坂冬の陣で真田丸を攻撃し、初陣を立てた人物である。松平氏による治政が10代続いて明治を迎えた。
城の殆どは史跡に指定され、保存されている。しかし、三の丸は濠の一部が埋め立てられ、県庁が建てられている。城内の建築物は壊されたが、天守だけは残された。
天守の鯱は木製で、2.08メートルもある。木製としては、現存天守の中で最大である。
松江城は、人柱の話で有名。
築城には困難が多かった。そこで堀尾吉晴は、盆踊りを催し、領民を招く。人柱に使う為の女性を捜す為だった。その結果、お松という娘が選ばれた。奥女中にしてやると騙して城に招き、人柱にしてしまった。
城は無事に完成した。吉晴は領民の入城を許可し、完成祝いが始まった。
満月が雲に隠れると、風が吹き始め、篝火が消えてしまった。天守の周りを人魂が飛び回ると、天守は大きく揺らいだ。
これを見た領民はお松の祟りだと言って逃げ帰ってしまった。
吉晴は急死した。跡継ぎにも早死が相次ぎ、堀尾家は断絶した。その後、京橋忠高が入城したが、彼も急死し、京橋家は断絶となった。
1638年、松平直政が入城した。天守を上がると、娘の幽霊が現れた。何者かとの問いに、お松はこの城は自分の城で、去らないと家を断絶させると脅した。
直政はコノシロが欲しければ、湖から取らせてお前にやると言うと、お松の姿は消えた。直政は「この城」を魚のコノシロとすり替えたのだ。
直政は一つの櫓をコノシロ櫓と改名し、お松の霊を祭った。その後城で異変は起こらず、松平氏は無事明治を迎えた。
天守は5階だが、何層なのかは書物によって分かれる。5層天守と記すのもあれば、3層天守、もしくは4層天守と記すのもある。
天守は高さ30メートル。現存天守の中では姫路城と松本城に続いて3番目。床面積では姫路城に続いて2番目である。
広島県:広島城
別名 :鯉城、在間城、当麻城、石黒城、御篠城
所在地:広島県広島市中区基町21番
種類 :平城
築城者:毛利輝元
築城年:1591年
遺構 :本丸、二の丸、濠、鉄筋コンクリート5層5階外観復元天守、復元二の丸櫓、復元二の丸門
広島城は名門毛利家112万石の居城として1592年に築かれた。
それまで毛利家は吉田の郡山城を居城としていた。が、豊臣秀吉の大阪城や聚楽第を見て、時代は郡山城の様な山城ではなく、平山城だと思い知る。瀬戸内海に面する己斐浦の三角州に、苦労の末新城を築く。地名を「広島」に改め、新城は広島城となった。
毛利家は、完成直後に勃発した関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担がれる。戦いは東軍の勝利に終わり、毛利家は改易こそ免れたものの、領地は防長二カ国に減らされ、広島から去る羽目に。
広島城には、福島政則が入るが、政則は幕府に騙され、49万8000石から4万5000石に減らされ、信濃高井に移された。
政則の後、浅野長晟(三原城を支城とする)が42万石で入城。浅野氏はそのまま明治維新を迎えた。
現在、広島城には本丸と二の丸が残され、水壕も残されている。本丸南部には護国神社が建てられ、城跡には場違いな自動車用の道路がある。実際、その辺りを歩いていると城跡にいる実感が湧かない。三の丸には県庁が建てられ、城の面影は全く残っていない。
本丸は比較的高い北半分と、比較的低い南半分から成り立っていて、北半分は犬走りの様な低い石垣に囲まれている。本丸はかなりの面積があるが、二の丸は非常に狭いのが特徴。
高知県:高知城
別名 :鷹城、大高坂城
所在地:高知県高知市丸の内1-2-1
種類 :平山城
築城者:山内一豊
築城年:1603年
遺構 :本丸、二の丸、三の丸、石塁、現存天守三層六階(重要文化財)、御殿、門、多聞櫓
高知城は、24万石を持って土佐国に転移した山内一豊によって築かれた。
現在、城山である大高坂山は、以前にも四国を手中に入れた長宗我部元親が城を築こうとしたが、川の増水で木材が流される等の問題で失敗してしまい、築城を断念している。
一豊は、それを踏まえて名工を招待し、築城に当たらせる。この為、築城は成功し、今残る高知城の基礎となった。しかし、1727年、追手門を除いて城郭の殆どが城下町の大火で焼失してしまった。天守を含む再建が終了したのは1753年である。現在残る本丸の建造物は、この時のものである。
1873年、本丸の建造物と、追手門を除いて、全ての建造物が取り壊されてしまった。1934年に天守は国宝に指定され、1950年に重要文化財に再指定された。
現存建築物は天守閣、黒鉄門、追手門、廊下門、懷徳館(正殿)、西多聞など15棟ある。いずれも重要文化財。二の丸、三の丸には建築物は残っていないが、本丸は完全に残っている。これは他の城では見られない。規模は小さくても、貴重な存在である。
高知城に関しては、怪談ではないが、ある話が伝えられている。
初代城主一豊は、元は信長に仕えていた貧乏侍だったが、関ヶ原で24万石の大名になった。秀吉程ではないが、大出世である。豊臣家が滅んだのに対し、山内家が幕末まで繁栄したところを見ると、一豊の方が幸せだったといえる。
ここまで恵まれたのも、千代夫人の働きが大きかったといわれる。
一豊が信長の家来だった頃、ある業者が名馬を売りに来た。金貨10枚。貧乏な一豊は手が出せない。「欲しいけど買えん」と残念がる夫を見た千代夫人は、嫁ぐ前に父から金貨10枚を渡されていたのを思い出した。千代は夫に金貨を渡した。一豊は喜んで馬を手に入れた。
他の兵と共に、一豊は信長の見回りに参加した。
信長は貧乏ながらも名馬を手に入れ、自分に尽くそうとする一豊を見て大いに喜んだ。
ここから一豊は出世の糸口を掴めた。
妻のお陰で大名にまでのし上がった一豊は、妻を大切にし、生涯妻を一人だけとした。大名が妾を多く抱えるのが当たり前だった時代では珍しい。
一夫一妻制が当たり前の現在では美談ぽく語られるが、家系の維持が命題だった当時は、致命的に成り得る行為である。
沖縄県:首里城
別名 :御城(ウグシク)
所在地:沖縄県那覇市首里区当蔵町
種類 :平山城(丘城)、山城
築城者:察度王統?
築城年:14世紀末(推定)
遺構 :石門、石垣
首里城は、琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。
創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていた事が確認されている。
尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城が王家の居城となった。首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられる事はなかった(第一尚氏はクーデターにより7代で滅び、クーデターを主導した重臣が「尚氏」を名乗って第二尚氏が発足)。
首里城は数度にわたり焼失しており、その度に再建されてきた。一度目の焼失は1453年に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。二度目の焼失は1660年(万治3年)で、再建に11年の年月を要した。1709年に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿等が焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年から1945年までの姿を基にしている。
1879年の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校等として利用された。戦前は正殿等が国宝であったが、沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊されてしまい、僅かに城壁や建物の基礎等の一部が残っている。
1980年代前半の琉球大学の西原町への移転に伴い、本格的な復元が1980年代末から行われ、1992年に、正殿等が旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。
2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(シュリジョウアト)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
最寄り駅はゆいレールの首里駅(2012年時点では終着駅)。そこから徒歩15分程度の場所にメインの入り口があるが、城自体は徒歩5分くらいの距離にある。専用駐車場もあり、そこからなら徒歩直ぐ。
城の大部分は無料開放されており、充分楽しめるが、復元された正殿や御庭(ウチナー)を見るには入場料が必要。正殿と連結した鎖之間では、有料で琉球菓子付きの呈茶サービスを受けられる。
復元工事が進められる為、立ち入り禁止区域も多い。
石垣は、本土の城の石垣とは全く概念で建てられているのが分かる。復元された建物も、日本の城とは全く異なる雰囲気。
城全域が元々高地にあり、門から潜ってから更に高い場所を巡るので、動き易い格好をする必要がある。
沖縄らしく、「ハブに注意」の警告がある。
沖縄は現在日本の一部だが、元はそうでなかった、という事を実感させられる城である。