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後醍醐天皇鎮魂の寺 

 この地はその昔、檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開創した禅寺・檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、後嵯峨上皇が仙洞御所を造営し、さらに亀山上皇が仮の御所を営みました。

 その地に足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺です。名勝嵐山や渡月橋、天龍寺の西側に広がる亀山公園などもかつては境内地でした。

 小方丈の西北から上り坂に併せて屋根付きの廊下が設けられ、右手に祥雲閣や甘雨亭の茶室を見ながら上りきったところに多宝殿があります。前に拝堂をもち、中世の貴族邸宅を思わせるような建築は、後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂です。中央に後醍醐天皇の像、両側に歴代天皇の尊牌が祀られています。

 昭和9年に建築されたもので、この場所は亀山上皇が離宮を営んだ際、後醍醐天皇が学問所とした地で、後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式と伝えられています。

 

    

 

 足利尊氏や新田義貞とともに鎌倉幕府を滅亡させ、「建武の新政」を行った後醍醐天皇でしたが、長くは続かず、光厳上皇を立てて戦い、後に室町幕府を開いた足利尊氏によって、吉野に追いやられます。南北朝時代の始まりでもありました。

 天龍寺は、「吉野で無念のうちに没した後醍醐天皇の魂が怨霊となり祟りをなすことがないように」と願う、夢想礎石の勧めにより、足利尊氏によって創建された、怨霊鎮魂の寺でもあるのです。

 また、造営に際して、できたばかりの室町幕府は財政的にも逼迫しており、朝廷の官位を売却したり、尊氏や光厳上皇が荘園を寄進しましたが、それでも造営費用が足りなくて、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開し、その利益を造営費用に充てることを計画しました。これが「天龍寺船」の始まりです。以後、禅宗は、南禅寺を五山の上として天龍寺は、五山の第一位として位置づけられました。

 

 法堂は(はっとう)は、境内塔頭であった焼け残った雲居庵の禅堂を移築した江戸時代の建築です。天井には日本画壇の加山又造の描いた雲竜図があります。平成九年に落慶しました。天龍寺の創建にかかわった持明院統(北朝)の光厳上皇の位牌が祠られています。

 ときに法堂とは、住職や講義僧がここで経典の講読や説法を信者や他の僧侶に向けて行い、特に禅宗では、ここで法席に昇って説法することを「上堂説法」と言います。「法堂」は主に禅宗寺院で用いられ、そのほかの宗派では講堂(こうどう)と呼ばれることが多いです。 

 法席から法の雨を降らすの意から、法堂の天井には、その鳴き声が雷雨や嵐を呼ぶとされることから、雨水の神である龍が描かれることが多いようですね!そして、ここの龍の爪は五本描かれています。五本の爪はかつての中華思想に基づき、勅許がないと描けないといった約束事があったのですが、今は皇帝もいないし、象徴天皇であるのだからと、加山画伯が決断して、五本描いたとの逸話もあります。

 

 

 

 

 

 

 

 


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嵯峨野

 嵯峨野は、古来、太秦を根拠としていた豪族の秦氏によって開発が進められました。平安時代には、風光明媚なため、皇族や貴族たちの絶好の遊興、行楽の地でした。嵯峨天皇が離宮嵯峨院を造営して居住し、その地は後に大覚寺となりました。嵯峨野は「禁野」とされ、以後貴族や高僧などによる山荘・寺院建立が相次ぐ事になりました。

 ちなみに嵯峨の地名は、唐の文化に憧れていた嵯峨天皇が、唐の都・長安北方の景勝地、嵯峨山になぞらえたものと言われます。

  鎌倉時代中期には、後嵯峨上皇が亀山殿(嵯峨殿)と呼ばれる離宮を造営しました。大覚寺は後嵯峨上皇崩御後には引き続いて亀山法皇の御所となり、その子孫は大覚寺統と称されます。南北朝時代に敵対していた南朝(大覚寺統)の後醍醐天皇の崩御の知らせを聞いた室町幕府の足利尊氏が嵯峨野に天龍寺を造営したのも、ここが大覚寺統ゆかりの地であった事によります。

 

     

 

 藤原定家がこの地に小倉山荘を造営してここで小倉百人一首を撰んだと伝えられ、時雨亭跡とされる遺跡も常寂光寺、厭離庵二尊院など三か所が候補に上がっています。また、奥嵯峨の化野は、東山の鳥辺野と並ぶ風葬の地でした。江戸時代初頭には、角倉了以が保津川を改修して大堰川を開いて、嵯峨野は丹波と京都をつなぐ水運の要地となり、木材などを扱う問屋などが並ぶようになりました。

 

 


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