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嵯峨野

 嵯峨野は、古来、太秦を根拠としていた豪族の秦氏によって開発が進められました。平安時代には、風光明媚なため、皇族や貴族たちの絶好の遊興、行楽の地でした。嵯峨天皇が離宮嵯峨院を造営して居住し、その地は後に大覚寺となりました。嵯峨野は「禁野」とされ、以後貴族や高僧などによる山荘・寺院建立が相次ぐ事になりました。

 ちなみに嵯峨の地名は、唐の文化に憧れていた嵯峨天皇が、唐の都・長安北方の景勝地、嵯峨山になぞらえたものと言われます。

  鎌倉時代中期には、後嵯峨上皇が亀山殿(嵯峨殿)と呼ばれる離宮を造営しました。大覚寺は後嵯峨上皇崩御後には引き続いて亀山法皇の御所となり、その子孫は大覚寺統と称されます。南北朝時代に敵対していた南朝(大覚寺統)の後醍醐天皇の崩御の知らせを聞いた室町幕府の足利尊氏が嵯峨野に天龍寺を造営したのも、ここが大覚寺統ゆかりの地であった事によります。

 

     

 

 藤原定家がこの地に小倉山荘を造営してここで小倉百人一首を撰んだと伝えられ、時雨亭跡とされる遺跡も常寂光寺、厭離庵二尊院など三か所が候補に上がっています。また、奥嵯峨の化野は、東山の鳥辺野と並ぶ風葬の地でした。江戸時代初頭には、角倉了以が保津川を改修して大堰川を開いて、嵯峨野は丹波と京都をつなぐ水運の要地となり、木材などを扱う問屋などが並ぶようになりました。

 

 


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