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最終更新日 : 2014-04-06 22:17:32

 

 

 

 

 

 

ぼくのおとおさんは、おさかなやさんをしています

おさかなをさばくおとおさんは、とてもかっこいいです

ぼくはおとおさんをそんけいしています

しょうらいはおとおさんみたいになりたいです

                        よしなが こうき

 

 

 

 

 

「光輝は大きくなったら何になりたいんだ?」

「お父さんみたいなお魚屋さん」

「そうか。おまえ、魚好きだもんな。今週の日曜こそは、水族館、行こうな」

 そういえばクラスで一番人気のある杏里ちゃんは、魚が食べれないから光輝くんとは結婚したくないと言っていた。魚を食べないと強くなれないんだよ、と言い返したら「女の子だからそんなの必要無い」と返されてしまった。

 

 待ちに待った日曜日、光輝はそれぞれ父と母から手を引かれながら町はずれの水族館へと赴いた。寂れた水族館にはいつも客がまばらにしかおらず、不気味なくらいにしんと静まり返っていて、せっかくの休日だと言うのにほとんど人もいなかった。家族連れなんて自分たちしかいない事の方が多かったし、こんなに寂れた水族館よりもみんな郊外に出来たばかりの水族館へと行ってしまいがちであった。

 

 それでも光輝はこの、人のほとんどいない水族館の空気が大好きでたまらなかった。元々内向的で人ごみの苦手なせいもあるのか、光輝にとってはこの場所がお気に入りだった。ペンギンもいないしイルカのショーもない、綺麗な熱帯魚なんてほとんどいないけれど。

 どちらかといえばグロテスクで、不細工な深海魚たちで溢れかえる薄暗いこの空間が光輝にとってはどんなにカッコイイ鯨や鮫、うつくしい珊瑚礁、愛らしい魚たちよりも心を躍らせた。

 この見捨てられた場所そのものが、まるで深海を思わせて――光輝にとってこの場所は限られた自分だけの箱庭のように感じられていた。

 父は休みの日になると光輝にせがまれてこうやって水族館へと行ったりもしたし、他にも自分が出演している魚の解体ショーを光輝に見せてやったりもした。母に抱かれながら、光輝は魚をさばく父の事を心の底からかっこいいと思っていた。

 

 ある日、父は釣りから帰ってくるなりに、「面白い物を見せてやるから」と言い、どこか意地の悪いガキ大将のようににやりと笑った。

 父の置いたクーラーボックスに、光輝が興味深そうに小走りで近寄った。面白い物、の言葉に目を輝かせながら光輝がクーラーボックスを開けるように急かした。

「ほら」

 父が蓋を開けると、なみなみと注がれた水面がまず目に入った。

「どこに入れればいいか分からなくてさ、ひとまずここに泳がせておいたんだが」

 バシャンと一つ水の跳ねる音がして、光輝は目を丸くして中にいるそれを覗きこんだ。

――魚、だった。それだけでは至って普通なのだが、その魚はまるで墨汁の中にでも浸したみたいに真っ黒な見てくれをしてた。それなのに目ばかりがまるで血の様に赤く、更には片方の目が無い。抉られたようではなく、先天的に初めからそこに存在していないようだった。よく見たら背びれも無いし、鱗も存在していないようだった。

 その異質すぎる姿に光輝はわっと悲鳴を上げ、気味悪そうに後ずさる。やがて光輝がわんわんと泣きだしたかと思うと母親に泣きついた。

「ありゃ、おかしいな。光輝、お前こういうの好きだろう?」

「ちょっとあなた……。一体何なの、それ」

 光輝がまた異様な泣き方をするので流石の母も驚いてしまい、おずおずとボックスの中を覗きこむ。覗きこむやすぐに顔を歪めて、彼女は小さくおののいたのであった。

「ヤダ……何なの、これ」

「凄いだろう? こんな魚見た事無いよ。ひょっとして新種じゃないかな、なんて」

「それにしたって薄気味が悪いわ。真っ黒で赤目、それも片目しか無い魚……」

「珍しいじゃないか。さすがに食べるのには抵抗があるけど、少し飼ってみるのもいいんじゃないか。興味があるんだ、こいつに」

「止してよ! あたし、頼まれたって絶対に面倒見ないわよ」

 嫌悪感を露にさせ、彼女は首を横に振った。心の底から嫌そうにしている、これ以上無茶を言うと機嫌を損ねてしまいかねなかった。

「――あ~、まあ明日職場の奴らに見せてやるくらいならいいだろ?」

「いいけれど、私何もしないから貴方が勝手に準備してよね。……ほら光輝、いい加減泣き止んで」

 

 その日の晩、光輝はおかしな夢を見た。

 自分が深海の底に沈む夢。薄暗い、静かな海の底に沈んでいる筈なのに何故かきちんと呼吸ができた。光輝は先の見えない深海の淵をあてもなく彷徨う。泳ぐ、というよりは流れに沿って、たゆたうたゆたう水の中を漂うばかりなのだが。途中、何度となく気味の悪い魚達とすれ違った。あの、寂れた水族館で見かけるようなグロテスクな造形をした魚達だ。

 ふと、自分の足元をぬるりと何かが動くのが分かった。巨大な魚だ……光輝は息を飲み、身構えてその足元を見た。

 

 あの、父が釣った、畸形の魚がいた。

 真っ黒い身体をぬるりと動かして、深紅の目が暗い海の底、残光を残して揺れ動く。姿形はアイツなのだが、その大きさは比べ物にならないくらいに大きかった。口を開いて襲い掛かってきたら、一飲みにされてしまいそうだ。その大きさに戦慄し、思わず悲鳴を上げると口から酸素が気泡となって溢れ出た。

――助けて!

 必死でもがきながら浮上しようと試みる。

 が、巨大な黒い魚が足元を纏わりついて離れてはくれない。滑った感触が心地悪く、寒気を覚えた。血のように赤い目と焦点が合う……また叫んだ。届かない悲鳴は泡となって舞い上がるばかりで、光輝は抵抗も虚しく深い海の底、あるいは化け魚と化したそいつの口の中。それを確かめるすべも無く沈んでゆく自分の身体を知った。

 

 夢から覚めた後、光輝は父にあの魚を逃すように訴えた。

 

「……何だよ。光輝までそんな事言うのかい、別に悪い事してる訳じゃないんだよ」

「けどダメなんだ。怒ってるんだよ、そのお魚さん」

「怒ってる、って?……どうして」

「夢に出てきて、僕を食べようとしたから」

「何だ、そんな事か。あれだよ、怖がりすぎるから夢にまで見てしまったんだな」

 そんなものは所詮子どもの戯言でしかなく、父は笑うばかりで相手になどはしてくれなかった。こちらの食い入るような視線などは無関係に、時間は無常に淡々と時を刻むだけだった。父の持っていたバケツがぽちゃんと水を一つ跳ねあげた――。

 

 それから幾度となく、あの魚の夢を見た。父は何故かその魚に魅入られたように、結局彼を逃そうとはしなかった。魚も魚で、母が特に飼育に関与せずとも寂れた水槽の中で図太く生き残り、そして死ぬ事も無かった。

「やっぱりお前、新種なのかな」

「貴方、捨てるって言う約束でしょ? それ光輝が怖がるのよ……早くどこかやってくれないと」

「どうして。光輝、見に来るといいさ。大丈夫、大人しいんだこいつ。何もしないよ」

 光輝は首を振って、決して近づこうとはしない。

 

 ある日の解体ショー、いつものように父が取れたての魚をさばいている。光輝は何となく気乗りしなくて、嫌々母に連れられてやってきたようなものだった。父がさばくのは、活きのいい取れたての魚だ。魚はまな板の上でピチピチとその身を躍らせながら包丁が入るその瞬間を待つ。

「――光輝、見てごらん。パパがさばくよ」

 もう何度も見て来たから知っているよ……と内心飽き飽きした心地で光輝が思いながらも顔を上げると、そこにいたのは父では無かった。包丁を持っているのは、父なんかじゃ無い。魚の顔をした人間だった。いや、人間なのかも疑わしい――とにかく、魚だった。

「おかあさ……」

 まな板の上にいるのは……考えるのも恐ろしかった。あの黒い、赤い目をした片目の魚が跳ねていた。魚の片目が、僕を、光輝をじっと睨んでいる。

「――お母さんっ!」

 光輝が叫ぶ。その叫びが何か、空洞になった自分の中に虚しく響くだけのような気がしてしまう――包丁が振り降ろされる。

「やめさせて、ねえやめさせてよ!」

 訴えも虚しく、刃が魚に鋭く突き刺さる。聞いた事もないような、世にもおぞましい悲鳴がそいつから轟いた。

 次いで、魚の黒い身が割れて、赤い血がどろりと溢れだした。瞳と同じ色をした、人間のものと近しいそれは次から次へと溢れ出ては止まりそうも無い。血生臭い匂いがつんと鼻について、光輝が吐き気と戦いながら裂かれた魚をもう一度見た。黒い魚の姿はどこにもなく、代わりにそこにあったのは先程から姿が忽然と見えなくなった父の顔だった。

「お父さん!」

 厳密には、顔だけが父の物で、身体はあの黒い魚そのものだった。

「お父さん! お父さん! お父さんが死んじゃうよ!」

 その言葉を最後に、光輝は気を失った――。

 

 目を覚ますと、父はちゃんとそこにいて、母も心配そうに自分を覗きこんでいた。

「……ごめんな、光輝。お前があんなに怯えるなんて思わなくて。……あの魚は捨てたよ、これでもうお前が悪夢に悩まされる事も無い」

 申し訳なさそうに父がそう言って、光輝はそんな父と母と抱き合って泣いた。だけどそんな事があってから数日後、父はみんなでお酒を飲んでくる、と言ってその日の晩は家にいなかった。

 帰りが随分と遅く、母と二人して心配していた時にその電話が入った。その内容は、にわかには信じがたい話の連続だったようで受話器を持ったまま母がしばし茫然としていたのが印象的だった。

 まず、父はお酒を飲んだまま自転車を運転していたという事。当然捕まって尋問されたが、その自転車が盗品だった事、酒を飲んだままだった事――それから父は警官を殴り飛ばして、転んだ警官は怪我を負ったがそれも気に留めずに走って逃げてしまったのだという。

「……あ、あの人がそんな事するはずないじゃないですか」

 今にして思えば本当にそうだと思った。

 父はどちらかといえば気の小さい、優しい男だ。そもそも自転車を盗む様な事だってやらない、酒を飲んで我を見失っていたにしたって、そんな事をした日には潔く謝ってくれる筈だったろうに……母は、最初から最後まで自分の耳を信じようとはしなかった。

 

 その日以来、父と母の間には喧嘩がたえなくなり、あとはもう説明するのも煩わしい程の家庭崩壊だった。父は職を失った事で荒れ、ある日の晩母を殴った。その事が心の枷となったのか、自ら命を絶った。延長コードを器用に使って、首を吊った事によりる窒息死が原因だった。

 

――それからほどなくして、あの魚が戻ってきた

 

「何で……」

 光輝が、古く、何もいないはずだった水槽の中に生き物の気配を感じたのはいつものように高校から帰って来た時の事だった。苔むしていて、薄緑の水槽の中にはいつの間にか水が揺れているのが分かる。そしてその中に……真っ黒い見てくれの、あのいつかの魚がたゆたう水中で揺れるように泳いでいるのだった。

 

 こちらの気なんか全く知らないで。こちらの気なんか全く知らないで――、

 

「父さん、なんだね?」

 

 何故か、不意にそう思った。然るべく根拠や何か強い理由があったわけではなく、只本能的にそう感じただけなのだ。光輝は長い事、もうずっとずっと自分の中に抱え込んでいた筈の深い憎悪にも似た感情のやり場を見失ってしまったような気がした。今、違う、これから自分は、何を憎しみの対象としてこいつと向き合っていかなくちゃならないんだろう。少なくとも、今の自分には何が正しくて何が悪かったのか分からない。

 光輝は、うん、と一つだけ笑った。今にも消え入りそうな程か細い、弱弱しい笑い顔だった。

――分かったよ、父さん。そうやって戻って来てくれると言うなら、僕はもうきみを拒絶したりしないよ……

 水槽に触れるとどこかで懐かしい感覚さえした。とうさん、と力無い声で呼ぶとそれに応じるように魚が一つ、元気に跳ねた。

 

 

 

 

「……ヌシ?」

 素っ頓狂な声で、教え子の片倉が聞き返す。あれから何年も時が過ぎて、光輝は生物学を教える教師になっていた。遥か昔に願っていた魚屋は、色々思う事があって止めておく事にした。

「ああ。……父さんが釣ったのはひょっとしたらその海の主だったのかな、とか、守り神様だったんじゃないか――いや或いは、その逆の悪鬼だったのかもしれないね」

 読みかけの文庫本にしおりをしてから、光輝が本を閉じた。片倉は半信半疑といった顔つきのまま、肩をすくめて大袈裟に笑って見せた。

「まったまた……先生ったらそういう変な話が得意だよね。すぐそうやって生徒を怖がらせて」

「――嘘じゃないさ。その証拠に、今片倉が手を置いているそのテーブル。そこに置かれている水槽には例の魚がいる」

 こちらの視線を追うみたいにして、片倉が驚きながら背後を振り返った。苔しか見えない汚れた水槽を見てから、片倉がもう一度光輝の方を見た。

「よしてよ。何もいないじゃん」

「よく見ればいい。いるよ」

「や、やめとく……」

 ぶるっと身震いするように、苦笑いを浮かべた片倉が身を縮みこませる。

「それよりも先生、今日ここに来たのは他でもないんだ。……また生物について教えてくれよ、特に知りたいのは人間のオス同士の交配だ」

「――止めろよ、学校だぞ。ここは」

「いいじゃん。誰も見てないんだし」

 片倉が性急に光輝のシャツの下に手を滑り込ませながら、背中に手をまわした。

「言っただろう……魚が見てるんだよ」

「馬鹿言わないで下さいよ、なんもいやしねえんですって。……ねえ、ハッキリと言いましょうか。そんなの妄想です、全部先生の妄想なんですよ。先生はずっと思い込んでいたんです、そいつはきっと只の魚なのに、先生は子ども特有の思い込みか何かで勝手に不気味な姿に捏造していただけですよ」

 

――妄想? 捏造? とんでもないな。……いるんだよ、あの水槽には今も……だって僕には今もこうやって見えてるんだから

 

 薄汚い緑色の向こう側、赤い残光がすっと音もなく移動するのが見えた。規則的な運動から徐々に狭く、浅くなっていくその律動に光輝が何度か小さく喘いだ。片倉が動く度に光輝が微かな吐息を漏らし、片倉の腰に脚を回してその限界の時を誘う。光輝の太股に片倉が爪を立てる。

「なあ片倉……、あの魚は初めっから関わっちゃいけないものだったんだろうな。たまたま僕達の元へやってきただけで、本当なら違う人の元へ行っていたのかも」

「何言ってんすか先生……意味わかんねっす」

「そうか、ならそれでいいぞ……は、はは」

 

――ねえ父さん……、僕らは初めから呪われていたんでしょうね。あの魚に。見初められた、とでも言えばいいのか。僕が生き続ける限りあいつはまた捨てても僕の元へとやってくる。父さん、僕ももうじきそっちへ行くよ……その水槽の中に、僕も沈む日が来るんだ 

 水槽の水がまたばしゃんと飛沫を上げたのだが、猿の様に行為に夢中になっている片倉は気が付かなかったのだろう。

 

 

 

 

 

 

そいじゃあ、みなさんさよーなら。

 


3
最終更新日 : 2014-04-07 22:30:43

 少し前までのシロといったらそこにいるだけなのに周りから避けられて、遠くからひそひそと噂されたり、挙句の果てには汚物扱いされていたのだから何がどう変わるのか分からない。

 初めて声を掛けた時、シロはまるで死んだ魚のような目で涼太の事を見上げて来た。名前を聞いたらぼそぼそと聞きとりにくい声で「シロタ」とだけ呟いた。それが苗字なのか名前なのか今ひとつはっきりしなかったのだが、捨て犬のような彼を揶揄して「シロ」と呼んで可愛がる事にした。

 

 シロはボロも同然の様な服を身に纏っていて、髭も髪も伸び放題でこれは汚物と呼ばれても仕方ないなと涼太は内心せせら笑った。風呂に入れてやる時も、シロは無気力そのものでどこを好き勝手洗おうとも何の反応も見せなかった。

 清潔な衣服を着せてやると、それまでの不潔さ等一片も無くなったシロがそこにいた。……その日以来、シロはずっと涼太の傍にいる。涼太の飼い犬として、従者として、シロは涼太の命令には全部従う。黙って何でもいう事を聞いて、まるで本当の犬みたかった。ただ、本物の犬のように懐いて甘えてくれる気配はあまり感じられないのだが。

「初めは罰ゲームだったんだ。シロに声かけたのは。賭けに負けた奴が駅でいっつも寝転んでるお前に声かけんの。でも、俺で良かったね。でなきゃ今頃お前あそこで凍死してたんじゃない?」

「……感謝しています」

 いつも無気力なシロは、こんな涼太の嫌味にも何の反応も見せない。時には度の過ぎたワガママを言う涼太であったがシロは不愉快な顔一つとして見せず、黙って言う事を聞く。

 

 シロは自分の事を全然話さない。涼太が面白がって問い詰めても「あまり覚えていない」とはぐらかされてしまう。かろうじて聞き出せたのは、シロはとてもいい大学を出ていていい会社に入っていたと言う経歴だけ。

 ちなみに言うと、シロが通っていたのは今現在、涼太が目指している大学だった。あともう少し頑張らないと……と、言われたばかりなのもあってか涼太はトゲを含ませながらシロに問いただしてみた。

「じゃ、何であんな風になってたの? 堕落の仕方を教えてよ。そこまでいい学歴と職歴があるのにさ」

 ややあってから、シロが相変わらず暗い声と表情で呟いた。

「……僕は誰かに指示されなきゃ何もできないんです」

 そのどこか違和感を覚える言い回しに、涼太は眉間に皺を寄せるばかりなのであった。

 

 ある日の午後、シロはテーブルの上の食器を片づけていたので涼太がまたいつものようにちょっかいを掛けに行く。

「でもシロ、俺の父さんはシロより下のレベルの大学だったけどいい企業に入って、すぐに出世して、今は海外でバリバリ働いてる。結局こういうのが勝ち組っていうんでしょ? 結果論っていうかさ」

「はぁ」

「やっぱり最終的には金と権力のある奴が何だかんだ幸せなんだと思うんだよね~。いい服着て、いいもん食べてさ。金で買えないものって何? 愛? 馬鹿じゃないの、金がなくちゃどんだけ愛し合ってても口論になるし喧嘩だってするでしょ。何かさぁどーでもいいよ、そういうの。形に残ってこそでしょ、何だって」

 シロは聞いているのかいないのか皿を洗う手を止めようとしなかった。相変わらずからかい甲斐のない奴だ、と涼太は不服気に彼の背中を眺めた。

「シロ」

「何でしょう?」

「じゃあお前……指示されたら何でも言う事聞くの?」

 ええ、とシロはやっぱり厭世的な目をさせたままで一つ頷いて見せた。涼太は少し俯くと、曖昧な笑顔を口元に僅かばかりに浮かべて声を押し出した。

「……だったら。だったら俺さぁ、人が死ぬとこが見たいんだ。だから今すぐ死んで見せてくれよ。死に方は電車に飛び込みがいいな、あれって両親にめちゃくちゃ迷惑がかかるんでしょ?」

 そしてそんな言葉を吐かれたところでシロは表情一つとして変えない。やっぱり無表情のまんまで、その心の奥底では何を思っているのか不明瞭な顔と言葉で答えるだけなのであった。

 

「いいですよ。じゃあ、これが終わったら」

 

 指先に付いた洗剤を淡々と洗い流しながら、シロは考えている事などは億尾にも出さずに只そう呟いた。室内に、涼太の深い深いため息と、水の流れる音だけが静かに響いていた。

「……嘘に決まってんじゃん?」

 涼太の少しばかり震えを帯びた声にも、シロはさして反応を示すでもなく軽く一瞥するだけだ。

「お、お前が居なくなったら、俺この家で一人ぼっちになっちゃうじゃん……」

 珍しい涼太の感情の吐露にも、シロは動揺した様子も見せない。本当に憎たらしくなってくる程だ、その態度には。

「お前さぁ……何なんだよ。俺の言う事、そうやって何でも聞きやがって。俺が恩人だから? そうじゃないんだろ、誰の言う事でも聞くんだろ。マジで腹立つ。俺以外の言う事聞くな――聞いたら殺してやる」

「分かりました」

 勿論、シロだったらそう言うに決まってる。

「――シロ」

「何でしょうか」

「今すぐに俺の事、抱きしめろ」

「手が洗剤まみれなんですが?」

 シロは両手を見比べながらさも不思議そうに尋ね返してきた。彼にとって命令の内容はどうだっていいらしい。

「いいから」

 分かりました、とシロは言われた通りに涼太を抱きしめる。されるがままの人形みたいな動きで、その抱擁にはやっぱりどこか温度が通っていないように感じられたが。

「――父親が子どもを抱き締める時みたいにしろ、俺がいいって言うまで、ずっとだ」

「はい……」

 それで制服の背中がぐっしょりと濡れてしまったが、もう気にもならなかった。多分、一生シロはこのまんまで、変わらずにこれからもずっと傍に居てくれる。涼太のどんなワガママにだって嫌な顔一つせずに答えてくれるし、自分以外の奴を見るなと言えばその通りにしてくれる筈だ。

 

 嗚呼何て従順な犬、きっと涼太が愛を欲すればシロはそれさえも応じてくれるのだろう――出口のまるで見えない、光さえ差さない迷宮に一人置き去りにされてしまった心地がする。涼太はシロに抱きしめられながら、シロの華奢な腕の中でずっと泣き続けた。


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最終更新日 : 2014-04-07 20:53:56


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