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 『神聖かまってちゃん』のの子は引きこもりの経験があるという。の子の作った楽曲をみてみると、内向的で自傷的な歌詞が目につく。その深い人生経験があるから出る言葉は、浅はかな言葉をくりかえすセツナ系サワヤカポップ歌手群とはまったく接続しない。だからこそ、孤独を心に宿す者に強くつき刺さる。

 の子には独自の美意識があるように感じる。↓


 の子には独自の美意識があるように感じる。例えば、『天使じゃ地上じゃちっそく死』では「もういやだ/死にたいなあ」という自傷的な歌詞とは対照的に、サウンドは高音のコーラスとシンセが終盤に神々しさを放つ。

 『コンクリートの向こう側へ(デモ版)』ではロックサウンドではないクラシカルな、賛美歌を思わせる曲になっている。終盤には賛美歌を思わせるコーラスはいつのまにか絶叫(ノイズ)に入れ替わっていて、聴いた後のリスナーの気持ちをざわざわさせる。

 俗にあるロックンロール的なバンドサウンドが彼らの美意識の根幹ではないのだ。↓

 


 歌詞の面でもサウンドの面でも、神聖なものと自傷的なものを組み合わせているのが『神聖かまってちゃん』の特徴だ。彼らの楽曲にはなぜか「美しさ」を感じる。楽曲に正と負が混じっているからだ。の子は神聖なものへの「憧れ」と、「おれはぐちょぐちょの人間である」という負がある。ひとつの曲のなかにその相反する二つの属性がブチ込まれている。自分の自意識と葛藤しているのだ。

 

それをキレイに整理せず、その葛藤をあるがまま出してる点が『神聖かまってちゃん』の良さだ。彼らの楽曲を聴いていると「その二つがあって人間だよ」と言われているような感覚になる。だから、の子の楽曲は「美しい」と感じるのだと思う。《キレイはキタナイ》という格言が(わたしが勝手に思っていることですが)あるように、「人間」の本質をの子は突いている。

かつて「ブルーハーツ」が『リンダリンダ』でやったことをの子はちがう形でやってのけたのだ。


『風立ちぬ』は「美しさ」につきまとう人間の業を描いていた。二郎の作る航空機はやがてゼロ戦として戦闘特化し、第二次世界大戦に投入され、多くの人の命を奪うことになる。二郎の求めた美しさは自動的に負をまとう。美しさには必ず正と負があるということだ。言い換えると、正と負がないものは美しくないということでもある。『神聖かまってちゃん』はそれが一曲のなかにお互い高い純度でぶつかりあっている。

 自身と向き合うことが人間の本質にせまるのだ。↓


自身と向き合うことが人間の本質にせまるのだ。ふつうはアウトプットするときそれをぼかすだろう。の子は消しゴムを使わず、どんな間違った色もおかまいなしに、その瞬間思った通り、絵の具を上から重ね塗っているかのような曲を生み出す。だから曲に誠実さを感じる。

 

「ウソは付かないようにしている」と発言するバンドは多い。そういうものに限ってつまらない。同じようなところをいつまでもぐるぐる回って、肝心なことは言わないままだからだ。↓



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