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劇中、カプローニが二郎に向かって「創造的人生の持ち時間は一〇年だ」という。これから分かるように、この映画は、クリエーターにとっての映画なのだ。社会的価値観からズレている主人公の感性は表現者のそれである。二郎が魚の骨の曲線美を美しいといったことが納得できる。

 二郎にとって自分が思う美しさが全てという考え方は、声の感情の無さからも読みとれる。誰と何を話していても心ここにあらずな声は非常に不気味だ。視聴者は二郎の行動と表情のみで彼の心を読みとるしかない。とはいえ、表情は常に凛としているため感情が読みづらく、彼の真意を知るには細かな行動を見逃さずみるほかない。

 人をそんな気持ちにさせるのはどういう人間だろうかと考えると、コミュニケーションが上手くない人だ。言葉では真意が読み取れないから、周りの人間はその者の行動や動作からその心を読もうとする。二郎は口ベタな表現者なのだ。↓

 

 

 


世の中美しいものは様々ある。けれど、ふつうなら捨ててしまう魚の骨を見て、その曲線を航空機に重ね合わせてしまうところが、彼の航空機にたいする情熱の深さを物語っている。情熱といえば聞こえはいいが、単にそれに「興味」があるだけだ。

彼は航空機が好きということはもちろんだが、きっと航空機以外のものに興味がないだけだと思う。

 

 

 彼は航空機が世界でもっとも美しいと感じている。


彼は航空機が世界でもっとも美しいと感じている。だから、菜穂子が病気になり、血を吐いても仕事を休まなかった。職場の人間に彼女のことを言えばそばについてあげられることは可能だったはずだ。二郎は(後の)ゼロ戦の設計に成功することが、菜穂子の病気に報いる唯一の方法だと感じてたから仕事に情熱を傾けていたと考えることはできる。しかし、物語の終盤、菜穂子は二郎の家を出て行ってしまう。

 

 

お世話をしていた黒川婦人は一言、「美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね。」と言う。↓


 お世話をしていた黒川婦人は一言、「美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね。」と言う。いろいろな受け取り方はあるものの、こちらの考え方に引きつけて考えてみる。美しい姿を最後に消えるということは、永久に美しいことを意味する。

 菜穂子は病気にかかっている自分が美しい姿のままでいられないことをさとったから、家を出て行ったのだ。衰弱していく姿を見せるだけだからである(劇中、菜穂子は病気にもかかわらず、姿や表情は登場してから美しいまま最後ままだ)。

 なぜ家を出る必要があったのか。

 二郎は美しいものしか興味がないからだ。

 美しくないものは好きではない。それを菜穂子は理解していた。それならばと、美しい姿のまま二郎の前から姿を消したのだ。

 やはり二郎にとって美しさが全てだったことがわかる。

 


 

 

 

 

 やはり二郎にとって美しさが全てだったことがわかる。新型航空機の必死の製作作業は、菜穂子のためではなく自分のためだったのだ



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