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   目  次

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   まえがき

 

第1章 文明の起伏

     文明の栄枯盛衰 /東西文明の交代法則 /東西文明の特徴

 

第2章 東西文明の起源

     花粉分析と気候変動 /東の文明の稲作農耕 /西の文明の麦作農耕 /

     農耕の違いによる文明基層の相違

 

第3章 西欧文明の成り立ちと発展

     近代社会の原理 /化石燃料の大量消費による西欧文明の発展 

 

第4章 西欧文明の黄昏

     エネルギー収支比と余剰エネルギー /石油の黄昏 /石油代替えエネルギー /西欧文明没落の特殊性

 

第5章 日本文明の歴史

     縄文時代の一万年 /日本文化の礎たる南北朝時代から室町時代

 

第6章 次期日本文明の黎明に向けて

     持続不可能な西欧文明 /東の文明の価値観に返る /次期文化の勃興の担い手

 

 別記 原発は石油をがぶ飲み

 

   あとがき

 

   参考文献


まえがき

 私は社会人になってから読書好きになり、定年退職後は時々地元の本屋と図書館に出かけ、背表紙を見ながら気に入った本を購入したり借用したりしています。背表紙を見ながら思うに、並べられた本は時代を映す格好の鏡ではないかということです。地元の本屋は新刊本を売っており、図書館はどちらかといえば古い本が多いので、対比することでよりはっきりと時代の差異を背表紙から感じ取れます。近年、政治・経済・社会・ビジネスの分野に限っていえば、経済成長を称賛した本が圧倒的です。

 私は製造業の会社に入社し定年まで勤めましたが、会社が常に右肩上がりの売上と利益を計画し続ける考えに馴染めませんでした。決算では売上と利益は予算を下回ることも時々あり、赤字も数期連続がありました。会社組織としては、消滅につながる縮小再生産を目標にすることはないでしょう。確かに家族という運命共同体の消滅を望まないように、会社の消滅を関係者が望むことはありません。家族という運命共同体は幸福が目標であり、会社と言う人造組織は拡大発展が目標です。そのため会社は、右肩上がりの売上と利益が具体的目標になります。会社は、どうしても右肩上がりを指向しますから、経済成長を金科玉条にします。

 西の文明を源流とする西欧文明は、科学技術の革新的かつ先行的知見が、会社を通じて便利な製品に置き換わり我々を魅了し続けて来ました。この傾向は、イギリスの産業革命以降連綿と続いており、経済成長を肯定する考えは同時期に発生したものと思われます。産業革命は石炭をエネルギー源、第二次産業革命は石油をエネルギー源に経済成長を実現しました。近年に至っては、先進国の工業化に加えブラジル、ロシア、インド、中国、韓国、タイ、ベトナムなど多くの国が工業国へと離陸しました。

 先進国が新興国に経済成長するなといえる道理はなく、地球規模の経済成長競争が行われています。 更に、世界企業または多国籍企業に各国の独立企業が加わり、年々資源確保競争、製品開発競争が激しくかつ競争内容が高度化しつつあります。企業は生き残りをかけた経済競争の恐怖にかられ、組織に束縛された私たちは、経済成長の暗黒面を直視する余裕がなく、あくまでも従来の経済成長を突き進んでいます。西欧文明には西の文明を源流とする資源収穫を是とする考えが潜んでおり、エネルギーや資源を湯水のごとく使っています。

 しかしながら、西の文明を源流とする西欧文明にもやはり暗黒面はありました。キリスト教では、人間は神の姿に似せたとのことですが、能力は神に似せず失敗もする能力を埋め込んだようです。科学技術の公益はすぐに目に見えますが、科学技術の悪影響は長期間蓄積され徐々に目に見え始めます。公害として悪影響が多数の人に及ぶに至ると、時には手遅れもしくは呆然とし手をつけにくい状態になります。それでも世界中が経済成長を目標・目的にしていますが、経済成長の原動力たる石油に陰りが見えてきました。

  西欧文明の明暢(めいちょう)面から繁栄や富の増大、便利で快適な生活等文明の恩恵を享受して来ましたが、21世紀に入って西欧文明の暗黒面がはっきり見えてきました。西欧文明の暗黒面とまばゆい長所は表裏一体であり、暗黒面だけを捨て、まばゆい長所のみ享受したい考えは甘いと言わざるをえません。文明の明暗は貨幣の裏表の関係にあり、貨幣の裏を捨てることは貨幣自体を捨てることであり、新たな文明を勃興し転換していくべきと思われます。なぜならば、経済成長は西欧文明固有の問題であり、経済成長から脱却することは西欧文明を捨てることであり、超越的価値を重視する東の文明に移行するしか解決できないと思われるからです。文明の法則によれば、西欧文明800年の終焉がいま近づいており、東の文明の夜明けが始まろうとしています。

 文明は勃興し繁栄後衰退、没落、死滅します。西の文明には西欧文明が現存しており、東の文明には日本文明・中国文明・インド文明・中東文明の複数文明が現存しています。東の文明に属する日本文明は、戦前までは国防のため西欧文化を輸入し稲作漁撈を主に生計を立てていた、貧しいが超越的価値を重視する国でした。戦後、石油を大量に輸入し経済成長を実現したことから、功利的価値に固執するゆえ脱経済成長の考えができません。本論は、経済成長の原動力たる石油の質と量に陰りが見えてきた昨今、東の文明の超越的価値観が西欧文明に代わる文明勃興に必須であると述べます。

 ただし、新たな文明は後からの講釈であり渦中の人間にとっては、小さな一歩であることに間違いありません。次第に大きな潮流となった暁に、新たな文明と呼ばれるようになります。新たな文明は、永田町・霞ヶ関・大企業等経済成長を目標にした組織から勃興せず、組織にとらわれない集団からはじめの一歩を踏み出すと思われます。現在、組織にとらわれない多くの集団が、高い志の下日々努力されています。


第1章 文明の起伏

 文明の栄枯盛衰

 およそ700年前に書かれ、平家一族の盛衰を表現した 『平家物語』 の冒頭はあまりにも有名です。

 

 祇園精舎の鐘の声、

 諸行無常の響きあり、

 娑羅双樹の花の色、

 盛者必衰のことわりをあらわす。

 奢れる人も久しからず、

 唯春の夜の夢のごとし。

 たけき者も遂にはほろびぬ、

 偏に風の前の塵に同じ。

 

 平家物語は平家の栄華と没落を描いた軍記物語ですが、人間は栄枯盛衰の定めから逃れられない人生訓にもなっています。

 我々の歴史を振り返るに、○○時代、△△時代と区分しており、ここにも栄枯盛衰の定めがはたらいているように思えます。このような栄枯盛衰を文明まで拡張したのがシュペングラーであり、第一次世界大戦の後、文明または歴史的世界に衰退、没落、死滅を認める 『西洋の没落』 と題した名著を世に問いました。シュペングラーは、西欧文化の産物である近代科学技術・自由や民主主義といった政治理念・議会制政治等がある程度の段階まで高度化すると、いずれそれは普遍化され、普遍化されると同時に、それを生み出した土壌から切断されてゆくと述べています。普遍化されてゆくとは、同時に文化が世界中に伝播するのですが、普遍化されるため文化が 「伝統からの切断」 もしくは 「脱伝統化」 され文明へと転化するとします。この流れを引き継いだトインビーは、 『歴史の研究』 及び 『試練にたつ文明』 と題した大著を世に出しました。トインビーは、西洋中心の歴史観を脱し、近代技術で武装された西洋文明が世界唯一の 「大文明」 として世界中を席巻しているが、西洋文明以外の諸文明が 「周辺文明」 として現存しているとします。その西欧文明と周辺文明は、シュペングラーと同じく勃興し繁栄後衰退、没落、死滅を免れないと考えます。

 人と人とが交わる世界、いわゆる社会の場には、人と自然(科学や技術が向う環境的・対象的自然)との交渉の場には比較しえない複雑微妙なものと底知れぬ深さが存在しています。人生の場、社会の場の事柄には、歴史と共に進歩発展すると見えるものもあれば、同時に退歩堕落と評するほかないものもあります。そして、これらは複雑な波動を形造って歴史と言うものをなしています。ゆえに、文明の栄枯盛衰は人類の歴史そのものです。(*A)

 

 東西文明の交代法則

 私たちは、学校の歴史の時間に年表を何回も見たことがあります。教科書の年表は、昔に遡るほど年代の目盛が粗く現在に近づくほど年代の目盛が細かになっていたことを記憶していますか。その年表に歴史的事柄が記述されています。目盛が現在に近づくにつれ細かくなるのは、歴史的事柄が現在に近づくにつれ数多く判明しているからです。

 この複雑な歴史を研究するため、目盛の間隔を一定にとった世界史年表に、政治・経済・文化など分野別に色鉛筆を使い分け、ある百科事典から世界の歴史的な事件を書き込みました。この研究をしたのが在野の文明研究家・村山節(むらやま・みさお;1911~2002年)です。村山は自ら作成した世界史年表を眺めていると、世界的な事件は散発しているのでなく塊になっていることに気付きました。更に、世界史年表を考察したところ、800年ごとに東西文明が入れ替わっていることにも気付きました。

 世界の歴史的な事件の分布調査の研究結果を端的にまとめると、以下の図1 (出典元:文明と経済の衝突より) で示す栄枯盛衰の文明循環論、別名 「文明の法則」 を導きました。

 文明の法則とは、 「人類の歴史には1600年を周期とする冬(約400年の中世的時代)、春(約400年の文明準備)、夏(約400年の青春型文明)、秋(約400年の成熟型文明)があり、東洋と西洋が互いに800年ずれて展開している」 という規則性であり、しかも、東西の文明が入れ替わる時期は、過去、天変地異に大動乱が多発していることも併せて明らかにしました。また、図1の世界大文明曲線から 「文明の1周期は1600年と見なすことができ、そうすると半周期が800年となって、ここで東西文明の交差が起こっている」 といえます。しかし、必ずしも交差するクロスポイント(丁度2000年)で東西文明の交代が起こると言うとそうではなく、タイムラグが生じます。どれだけズレるかと言うと、過去の統計から半周期年の数分の1、つまりおよそ100~200年も時期がずれることも研究結果として残っています。それゆえ、2000年頃から確実に東西文明の交代が進んでいますが、渦中の私たちは極小さな変転ゆえに気付いていません。特に、没落する側の文明は、最後のろうそくの輝きに似てまばゆいばかりの輝きを放つため、文明の交代に気付かないのです。

 東の文明は、ハワイ東方洋上の溝に近いハワイから日本を経てエルサレムまでの文明地帯であり、西の文明は、エルサレムからヨーロッパ大陸を経てアメリカ大陸までの文明地帯です。この東西文明は、二重らせんの様に交互に規則正しく交差しており、東の文明が高調期なら西の文明は低調期であり、逆に東の文明が低調期なら西の文明は高調期です。ゆえに、上側の波形は文明の上昇期(東の高調または西の高調)を示し、下側の波形は文明の停滞期(東の低調または西の低調)を示しています。東の文明は、メソポタミヤ→インダス→インド→中国と中心地域が次第に東に向かい、西の文明は、エジプト→エーゲ→ギリシャ→ローマ→西欧→米国と中心地域が西に移っています。東の文明は、日本文明・中国文明・インド文明・中東文明の複数文明が現存しており、西の文明は西欧文明が現存しています。

 東西文明循環を子細に調査すると、文明高調期の前半(青春型文明)は、芸術的文化が創造され、後半(成熟型文明)には強力な帝国的国家と最高文化(宗教、哲学または科学)が創造されています。文明低調期の前半(中世的時代)は、その地域の政治的、民族的バランスに非常な不安定感があり、後半(文明準備期)は安定性がでてきて文化的創造力が芽生える姿があります。

 

 東西文明の特徴

 村山節は東西文明を調べていくと、東の文明は極東に向かうほど寛容で包括的、西の文明は欧州西部に向かうにつれて征服的、搾取的、人種差別的性格を帯びていることに気付きました。表1は、東西明の性質の違いを示しています

。東の国家群の文明は、平等・共生・自然を畏敬     

そういう文化原理に優れ、超越的価値感を重視

します。西の国家群の文明は、政治・経済・工業・

軍事・武器そういうものの発明に優れ、功利的

価値感を重視します。

 西の文明である西欧文明は、世界中を席巻し

ています。そのため、東の国家群は西の文明の

性格に染まり、東の文明の思考は隠れています

。日本は、明治から西欧文化を学び富国強兵の

国づくり、戦後は米国の工業国を模倣しました。

それでも、阪神大震災とか東日本大震災のよう

な危機に遭遇すると、東の文明の思考が呼び覚まされ、世界中が驚愕する行動をします。ですから、我々は西欧文明の真っただ中を生きていますが、日本に限らず、東の文明の国家群は基層に東の文明の思考を潜在的に継承しています。

 西欧文明の特徴は化石燃料と科学技術の結合にあり、象徴しているのが発電(=力)と兵器(=闘争です。文明の明暗は、貨幣の裏表の関係にあり分離することができません。今までは、西欧文明の明暢(めいちょう)面から繁栄や富の増大、便利で快適な生活等文明の恩恵を享受して来ましたが、21世紀に入って西欧文明の暗黒面がはっきり見えてきました。文明の法則から、西欧文明800年の終焉がいま近づいており、東の文明の夜明けが始まろうとしています。

 


第2章 東西文明の起源

 本章は、安田善憲著 『一万年前』 から抜萃します。ただし、筆者が引用文章を短くするため筆者の責任で所々変更しています。

花粉分析と気候変動

 花粉分析は、北欧の西欧人が氷床をボーリングした氷棒から始まりました。北欧地域は高緯度ゆえ、大陸氷床のボーリングで氷棒を採取できました。その関係で、北欧地域の花粉分析結果が世界標準になりました。花粉分析をすると、亜寒帯・冷温帯針葉樹の花粉が多いか、それとも冷温帯広葉樹の花粉が多いか区別でき気候変動の様子が推定できます。

 氷河時代の寒冷期には、北欧は大陸氷床に覆われ植物の生育が望めません。しかし、世界の大半は地表には土が見え、植物が生育していました。とは言え、何万年も昔のことであり証跡がありません。1982年安田善憲が、福井県三方湖の堆積物をボーリングしました。パイプの中には、連続した縞模様が入っていました。研究によって、縞模様の堆積物は年輪と同じく、一年に一本ずつ形成されてきたことが判明しました。安田善憲は、この模様を 「年縞(ねんこう)」 と名付けました。年稿には、氷棒以上の有効なさまざまな分析材料が残されており、過去の環境史を復元できます。今では、年縞の分析結果が世界標準になりつつあります。

 年稿から、気候変動や森林の変遷、巨大地震や大洪水が来襲した時期等さまざまな環境史が特定できます。図2は、晩氷期(17000年前~12000年前)の気候変動及び麦作農耕と稲作農耕の起源を模式的に示したものです。

 

                                                      出典元:一万年

                   図2:晩氷期の気候変動と定住革命と農耕の起源

 

 15000年前の急激な地球温暖化は、これまでの氷河時代の生態系と、そこで暮らしていた旧石器時代の人々の生活様式を一変させるほどに激烈なものでした。福井県水月湖の年稿から、15000年前に氷期型の生態系が消滅してから次の新たな後氷河期の生態系への移行期にあたる500年間は、おそらく食料の乏しい時代であったと考えられます。

 人類は気候悪化期の食料危機に直面し、やむにやまれず生き延びるため農耕を始めました。稲作農耕は14500年前頃に長江中流で始まり、麦作農耕は13000年前頃レバント回廊やヨルダン渓谷で始まりました。稲作農耕と麦作農耕が東の文明と西の文明の出発点であり、稲作と麦作の根本的違いが、東の文明と西の文明の特徴を生みました。

 

  東の文明の稲作農耕

 18000年前以降、温暖化による海面上昇で、海岸部にいた人々、特にデルタ地帯など、長江下流域で暮らしていた人々は、内陸へと移動しました。そして、内陸へ移動した人々は生活の適地を求めた結果、おのずと人口の集中が起こりました。人口の集中は情報量を増大させ、まず最古の土器作りが始まりました。江西省万年県仙人洞遺跡、湖南省玉蟾岩(ギョクセンガン)遺跡からは、17000年前の土器が発見されました。

 土器を作るには森の土と、土器を焼く燃料としての木、そして土をこねる水が必要です。更に、土器を作るということは、これまでのように大型哺乳動物を追いかけて移動するのではなく、一ケ所に定住して暮らすことを意味します。森の資源は逃げて行かないし、魚介類も漁場を見つけてしまえば、決まった範囲で獲ることができます。人類が森の植物資源と海と川の魚介類にタンパク質を求める暮らしを始めた時、土器作りと定住革命が始まりました。

 

     1 広西省柳州大龍譚遺跡   2  広西省桂林廟岩遺跡   3 湖南省玉蟾岩遺跡

     4 湖南省八十遺跡        5 湖南省彭頭山遺跡     6 江西省万年県仙人洞遺跡

                                                     出典元:一万年

                       図3:野生稲と稲作遺跡の分布

 

 これまで稲作の起源は、中国の雲南省にあるといわれ、起源についてはさかのぼっても、せいぜい5000年前だとされていました。しかし、安田善憲他の調査は、1万年以上も前に、長江の中・下流域で誕生していたという可能性を見つけました。図3は、野生稲と稲作遺跡の分布です。 

 15000年前の地球温暖化によって、野生稲の生育地が北方に拡大し、長江中流域にも生育できる環 境が形成され始めました。しかし、長江中流域の野生稲は、気候条件においても水分条件においても、東南アジアやインドネシアなどの亜熱帯や熱帯の野生稲とは比べようもない、過酷な環境に適用することを強いられました。これまで多年生で栄養繁殖していた野生稲は、この北限の長江中流域の過酷な環境に適応するために、栄養繁殖から種子繁殖へと自ら変化させた可能性が高いです。

 そこに注目したのが、食糧危機に直面していた長江中流域の仙人洞遺跡や玉蟾岩(ギョクセンガン)遺跡に暮らしていた旧石器時代の人々です。突然変異した稲を集め、人類の稲作への第一歩を踏み出しました。稲作は、長江中流域から長江下流域、雲南省や貴州省の山岳地帯にまで伝搬し、そして、3200年前の気候悪化期に東南アジア及び日本へと伝わったと考えられます。

 

 西の文明の麦作農耕

 15000年前以降、気候が温暖・湿潤化したことによって、レバント回廊の周辺の山々には落葉ナラ、ピスタチオ、アーモンドなどの森が拡大していました。また、ヨルダン渓谷には大きな淡水湖が存在していました。ところが、12800年前にヤンガー・ドリアスの寒冷期が襲来しました。気候が寒冷化・乾燥化したことにより、人々は水と食料を求めてレバント回廊の大地溝帯の底へ降りて行きました。そこには、まだ湖と湿地があり、湖には魚がおり、湿地周辺には野生の大麦や小麦が生えていました。図4は、人類が麦作を始めた肥沃な三日月地帯の森の分布です。

 

 

                                                     出典元:一万年

                 図4:1万2000年前の肥沃な三日月地帯の森の分布

 

 野生の大麦や小麦は、禾本(かほん)科の一年生の草木であり、もともと種子繁殖をしていました。しかも、寒冷化に対応し、子孫を残すために野生の麦類も大量に種子をつけていました。自然に実が落ちてしまえば、人間は食べられません。人々は、その中から突然変異で出現した脱穀性の小さなものを選び、育て始めました。それが、人類の麦作への第一歩です。

 安田善憲他は、シリア北部の山岳地域の麓に広がる低地ガーブ・バレイの花粉分析から、栽培型のムギ花粉を12500年前の地層から発見しました。安田善憲他は、この時が麦作の始まりと考えています。レバント回廊やヨルダン渓谷で始まった麦作は、トルコ南東部からトルコ全土、イラク方面、エジプト方面、それから8000年前にヨーロッパへと広がりました。

 

 農耕の違いによる文明基層の相違

 東西文明の特徴は、長い間の農耕の違いによる生活様式から出来上がったと考えることができます。

 麦作農耕と切っても切り離せないのが牧畜です。この麦作と牧畜が結合した農耕文明を、安田善憲は、 「畑作牧畜文明」 と呼んでいます。人間は、生きるためにはタンパク質を摂取しなければなりません。稲作農民は、そのタンパク質を魚介類と野生動物に求めました。これに対し、麦作農民のタンパク源は家畜のミルクと肉です。麦作を手に入れた人々は、ヒツジやヤギなど家畜を飼い、ミルクを飲み、バターやチーズを作り、肉を食べ、毛皮を利用する生活様式を確立しました。

 家畜を群れごとに安定した状態で維持・管理するには去勢の技術が必要です。去勢をして群れを維持し、家畜を統制するには男の力が必要です。(⇒表1の男性的、父性的)しかも麦は、稲作と違い年間500ミリ程度の雨水の畑で作れます。農耕地を広げれば広げる程、生産性は上がりました。(⇒表1の論理的、権力的)

 これに対し、お米と魚を食べる人々の、 「稲作漁撈社会」 には、水牛やニワトリはいたが、ヒツジやヤギなどの家畜はおりません。そして乳を利用しない、ミルクの香りのしない文明です。お米は女性でも栽培できます。(⇒表1の女性的、母性的)稲作漁撈民は発酵食品を作り、自然にも人にもやさしい生活様式を確立しました。(⇒表1の包括的、感性的)

 シリアのガーブ・バレイの花粉を分析すると、一万年前を境にして、落葉ナラで構成された森が、突然減少し始めたことが確認できます。これまであった落葉ナラの森が破壊され、その後に生育する二次林としてのマツ林と常緑カシ類からなる低木マッキーに取って代わられたことを示しています。

 人間は落葉ナラの森を、パンを焼くための燃料や建築材として破壊した後、ヒツジやヤギの放牧地にしました。ヒツジやヤギは昼夜の別なく若芽や草を食べ尽します。家畜の食害に強い常緑のマッキーやマツの二次林は再生できたが、もともとあった落葉ナラの森は再生できませんでした。森にインパクトを加える生業が、家畜とともに誕生しました。森の破壊は時代とともに進行しました。その様は、ガーブ・バレイの花粉の分析結果が明示しています。

 麦作と牧畜がセットになった生活様式は、きわめて生産性が高く、安定して豊富に食料が得られます。それには、森を破壊し、森の中の生きとし生けるものの命を奪い、水の循環系を破壊するという、闇を持っていました。畑作牧畜民の生活様式は、メソポタミア文明、エジプト文明を生み出しましたが、現在は砂漠化しています。ヨーロッパに伝搬した畑作牧畜民の生活様式は、森をなくし草地に変えました。

 東の文明は、稲作漁撈の生活様式です。稲作には大量の水が欠かせません。稲作漁撈民は、雨が降らない時でも山、森の木が溜めた水が少しづつ川に流れ出るのを知っていました。ゆえに、森里海の水の循環を守りました。そのため、稲作漁撈民は聖なる山を崇拝し、聖なる水を崇拝し、美しい森と水の循環の命あふれる大地を維持しました。東の文明は西の文明のような派手さはないが、千年も万年も生き続ける価値観を最高とした文明を構築しました。

 

 

 


第3章 西欧文明の成り立ちと発展

 近代社会の原理

 現在の文明は、約1200年頃を発端とする西欧文明であることに誰も異論はないでしょう。その西欧文明を継承したアメリカが、第二次世界大戦後にイギリスに代わり覇権を握りました。そこで、西欧文明の成り立ちを概観します。

 コペルニクス、ケプラー、カリレオらの天文学から始まった近代自然科学は、神の存在の証明が動機にあって神の繫がりを有していました。一方、ヨーロッパの哲学においては、キリスト教の不合理な話を信ずるわけにもいかず、デカルト哲学がまさに示唆するごとく宗教より理性を信じました。理性重視の哲学と近代自然科学が相互に影響しあい、ニュートンあたりから判然と無生物をモデルとする自然科学の路線を歩みました。

 一方、大航海時代には、株式会社の源になる考えができました。アジアとの貿易を行い巨万の富を得るため、船を作り、船員を雇い入れ大航海に乗り出しました。しかし、ひとりの金持ちが全てを賄うことは可能でしょうが、失敗時の経済的危険は多く、複数の人間で賄う考えが出て来たのです。代わりに、大航海貿易で得られた富はお金を拠出した仲間で分け合います。ここから、株式会社の組織が出来てきました。そして、会社の経理面を支援する画期的な複式簿記が、イタリアの自由都市で発明されました。

 つまり、近代ヨーロッパ社会は、ルネッサンスを通じて成立しました。ただし、ルネッサンスの目標である古代ギリシャ社会のような強い肉体と高い精神に誇りをもつ高貴な人間の理想を失い成立しました。その近代ヨーロッパ社会を成立たせた原理は、近代科学、資本主義の市場、近代法体系、複式簿記であるとマックス・ウェーバーが述べています。

 宗教の制約をはなれた人間は、無限の欲望の満足を希求します。科学的知見の応用が技術となり、その技術から商品を生み出せることに気付きました。しかし、商品開発の失敗もあるわけですから、経済的危険があります。ここで、株式会社の組織論と科学技術を応用した商品開発が結びつき、人間に有用なあまたの商品が会社から生み出されました。20世紀末頃までは製造を生業とする産業資本主義でしたが、現在では、金融市場による実体経済と切り離された金融商品取引が産業資本主義を凌駕し、究極の金融資本主義が世界中を跋扈しています。金融資本主義では、利殖獲得のマネーゲームが財政悪化を加速させています。

 ヤーコプ・ブルクハルトによれば、その近代人の思考とは、すべての社会的価値を未来に向けて再構築していく思想の営みであり、進歩の概念と結びつく知識のみが真の知識であり、それはもっぱら自然の征服をめざす技術的知識です。つまり、近代は技術的発展によって経済成長できるということを皆が信じて疑うことがなかった時代のことです。(*B)

 

 化石燃料の大量消費による西欧文明の発展

 16世紀に始まった資本主義がスペイン、イタリアといったヨーロッパ南部からオランダ、イギリスといった北部にその中心を移していきました。その頃、イギリスでは放牧により森が縮小し、人々は木材に代わり石炭を燃料として使い始めました。1710年にニューコメンが、炭鉱の排水ポンプ用に蒸気機関を発明し ました。それを1756年にワットが、熱効率の良い蒸気機関に改良してから産業革命が起こりました。石炭は、石炭の持つエネルギーだけで自らを拡大再生産できました。蒸気機関を使い石炭を掘り、石炭を運び、その蒸気機関を動力源にして自動織機を稼動させました。更に、蒸気機関は船の発達を促進させ、海洋へと進出しました。産業革命により名著 『国富論』 の経済が出現しました。この工業経済体制が、中世までの農業中心の経済との違いです。農業は天候、土地条件等の制約を受けるため、経済は定常状態を良としました。しかし、工業は自然との繋がりがなく、エネルギーと鉱物原料を投入すれば製品が生産できます。ゆえに、石炭を基盤にした需要と供給の経済たる資本主義経済がイギリスに出現しました。

  イギリスから始まった石炭を基盤とする工業経済体制は、たちまち西欧に広まり貿易圧力が世界中に及びました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、電気・化学・内燃機関を中心とする第二次産業革命が発生しました。第二次産業革命は蒸気機関が発電機や内燃機関に、石炭が電気や石油に支配権を譲ることから成立しました。それも、石油は、石油の持つエネルギーだけで自らを拡大再生産することができたからです。内燃機関は自動車を生み、米国にて大量生産・大量消費の経済モデルが確立しました。勝義において現在文明と称せられるべきものは、第二次産業革命からと言えます。とりわけ石油は誠に使い勝手がよく、利用範囲の広いエネルギーであり、火力発電の燃料以外に自動車、飛行機、船舶などの燃料、プラスチック、合成繊維原料、合成ゴム、塗料原料、合成洗剤などに利用され、現在文明を石油文明と形容できるぼど重宝しています。付け加えるならば、現在の兵器は石油がなければ製造もできず、石油がなければ動かすこともできません。

 第二次世界大戦前は、ヨーロッパ各国が植民地を作り市場を拡大しましたが、第二次世界大戦後に植民地国が独立を果たしたことで工業製品の押し売りができなくなり、代わって、便利な製品を次々と開発し需要を喚起しました。大量生産・大量消費の経済モデルは、安価な石油が大量にあればこそ成り立ちます。二度にわたる石油危機後の原油は1バレル平均20ドル前後で推移していましたが、ベルリンの壁崩壊後は供給ショックが起きたわけでもないのに、2004年7月に1バレル40ドルを超え、その後70ドル~100ドルで推移しています。明らかに、1970年代の石油危機とグローバリゼーションの原油高とでは、需要者の規模が違います。1989年のベルリンの壁崩壊まではOECD加盟国の10億人の市場が、その後全人口の70億人に拡大しました。特に、人口の多い中国、インド、東南アジア等の新興国の高度経済成長が原油をはじめ、鉱物資源、食料等の需要を増大させています。

 西欧文明は、イギリスの産業革命後258年の短期間に進歩の速度において文明史上まことに比類を絶し、自然征服、繁栄や富の増大、便利で快適な生活等文明の恩恵を享受して来ました。その西欧文明は、一次エネルギーを天然資源に頼っており、大部分を石油、石炭、天然ガス、ウラン(原子力)などの枯渇性資源から二次エネルギーを得ています。二次エネルギーとは、電気や水素、都市ガスなど一次エネルギーを変換して得られるエネルギーです。しかも、大量にエネルギーを使い天然資源を消費しています。その結果、グローバルな気候変動他の人類を脅かす環境問題がより深刻になっていますが、加えて、西欧文明の基盤である石油の量と質に陰りが及んできました。

 産業革命は効率よく石炭を搾取し、第二次産業革命は効率よく石油を搾取しました。今は、西欧文明が地球上を席巻しており、ありとあらゆる地下資源を収穫しています。西の文明は、畑作牧畜民の生活様式の思考です。西欧文明の地下資源搾取の思考は、西の文明の起源で述べたように、森の資源の搾取と相似であり、その環境破壊の闇は深いです。



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