目次
はじめに
はじめに
宗教的表現について
研究者の方々へ - 検証中の仮説
外部リンクの表記、Android対応、訂正箇所のご指摘のお願い
概略
現在の症状
息子の誕生
さらに遠い通院へ
知らされなかった検査結果
アミノ酸分画検査結果
タンデムマス検査結果
合っているかもしれない仮説
閑話休題:創作話 トリケラお母さんの悲劇(# ゚Д゚)
DNA検査の実体験と仕組み
ミトコンドリアDNAの検査
ヒットカウント分析および共起性分析
23andMeのDNAアレイによる検査 - 販売停止命令に至る経緯
遺伝病とコモンディジーズの違い - 優性遺伝と劣性遺伝
ヒトはヒトであるが故にヒトの病を患う
コモンディジーズの検査方式 - アバウトなGWAS
23andMeの深刻な検査結果 - 統計の改善による影響
23andMeのその他の結果
エクソームシーケンシング
コモンとレアの重症度分布 - アレル頻度とエフェクトサイズ
個人向け遺伝子検査の選び方 - 罹患人口カバー率指標
閑話休題:製作物 DNAツリー
希少疾患と難病の制度および数値
希少疾患と難病の違いと制度的起源 - 日米欧比較
赤信号みんなで渡れば - 真面目な日本人の最悪の集団行動
もっとも希少な希少疾患 - 70億人にたった一人
もっとも正確な希少疾患の数 - 毎日約1つ希少疾患が増える?
希少疾患全体の罹患率 - 全部合わせると10~14人に一人
診断に至るまでの年数、または遅延 - 28年?!
GINA(ジーナ) - DNA検査時代の国民、患者を守る法制度
国民皆保険の功罪 - 患者をチェリーピッキングする医師達
節としてまとまらなかった事柄
希少疾患と感染症
感染症と希少疾患の関係 - 未診断の希少疾患という重症化因子
予防接種の健康被害としての未診断の希少疾患
希少疾患としての感染症 - 米国のAIDSの歴史
見えないところに死体の山
医師に頼らない因果関係の追求 - 脳症の本当の原因
更に複雑な感染症の話
医療訴訟が生み出す二次被害 - 無過失賠償制度の必要性
辛い記憶
両親を批判することについて
両親への間違った説明
辛かった学校生活
体育の次の時間に倒れてしまう
電車とバス
繰り返し運動による寝られぬほどの筋肉痛
食事の前後の発作
進化と感染症の間の遺伝性疾患
進化と感染症の間の遺伝性疾患
仮説の更なる展開 - 発見され増加を続ける希少疾患
卵子と精子の間の変異の導入の違い
感染症と遺伝性疾患で重度となる役割 - 男性淘汰進化説
絶滅のシナリオ - 感染症と遺伝性疾患の袋小路
進化のスピード調節 - もっとも強く訴えたいこと
進化と遺伝性疾患の「必然性の枠内の偶然性」
ダーウィンのUNdiagnosed
そして各論へ
遺伝学用語の混乱
遺伝学用語の混乱:genetic、遺伝か起源か
de novo変異 - 両親から受け継がれない優性遺伝の変異
個人向け遺伝子検査のガイドラインの乖離
みんなが保因者の劣性遺伝病? - 平均約10個の遺伝的荷重
劣性病的変異の健常者への影響 - 遺伝子プールの浄化説
あとがき
あとがき
これ以降分冊予定
▲▼そして各論へ
検証実験の山 - バッチ型検証実験の提案
希少疾患の中の更なる希少な患者群についての予測
環境因子か遺伝因子か
代謝異常についての進捗
遺伝子検査の2つの嘘
生まれの平等性または不平等性
▲▼生まれの平等性または不平等性
新型出生前診断と着床前診断 - 技術的に◯、倫理的に☓
生まれる前のDNA検査 - 科学的因果関係の追求ライン
技術としてのNIPT - 生まれのDNA検査の技術予測
我が子に故意に良くない遺伝因子を許容する親の罪
ディストピアな未来像 - 生まれの平等性が崩れた世界
不妊という社会問題 - 男性不妊と父性年齢効果
中絶による母体へのダメージ - 次の妊娠がうまくいく確率
着床前診断の問題点 - NIPTとの倫理的違和感
不妊治療としてのPGD - 不妊としての遺伝性疾患
生殖医療のリアルの写真
男女産み分けの国際比較 - 海外での生殖補助医療のリアル
着床前診断の潜在的なリスク - 子と女性へのリスク
フィルターされた人々による生まれの平等性、不平等性の支配
遺伝学用語の混乱:variation、多様性か変化性か
人権に基づく多様性、人権に基づく変化性
男性不妊と劣性遺伝病の完全予防 - 22世紀の精子起源工学
その他 - うまく分類できずとも価値のあるトピック
DNA検査の結果の公開 - シーケンシング機会の平等性
進化における神の概念
mtDNAとY染色体の永代性 - 未来の血縁者の不利益
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進化のスピード調節 - もっとも強く訴えたいこと

 遺伝性疾患の患者が進化の犠牲者であることを完璧に証明するのは困難だが、傍証としては次々に挙げられる状況である。そういった傍証で、もっとも有効と思われるのが、変異が起こるスピード、時間的な頻度が、環境に適応できていない状況下で増すことの、実験室での証明である。更には、適応できていない状況下で遺伝性疾患を増す例を、具体的にヒトで示す。

 

 熱ショックタンパク質とか、シャペロン、シャペロニンと呼ばれるタンパク質が、種として環境に適応できていないような非常時、具体的には高温により絶滅してしまいそうな状況では、進化的な変化を起こすための起爆剤のような役割を担っているという説がある。具体的には、普段は表に出ず、隠蔽されているような変異を呼び覚まし、高温が継続している一時的な状況下で累積進化の方向性を決めるということのようだ。そのため、問題が解決されて高温の環境から去った後も、累積進化した形質は、別の変異によって持続するとのこと。完全には理解しているつもりはないが、大雑把にはこのような話で、この分野では非常に有名な説のようだ*

 

Rutherford, Suzanne L., and Susan Lindquist*. "Hsp90 as a capacitor for morphological evolution." Nature 396.6709 (1998): 336-342.

『形態学的進化のためのキャパシター*としてのHsp90

 

The heat-shock protein Hsp90 supports diverse but specific signal transducers and lies at the interface of several developmental pathways.

熱ショックタンパク質Hsp90は、多様だが特異的でもあるシグナル伝達因子であり、複数の発生経路の接点に存在している。

We report here that when Drosophila Hsp90 is mutant or pharmacologically impaired, phenotypic variation affecting nearly any adult structure is produced, with specific variants depending on the genetic background and occurring both in laboratory strains and in wild populations.

我々は、ショウジョウバエHsp90が変異するか、薬理学的に阻害された時、ほぼどんな成体構造にも影響を及ぼす表現型多様性が作られることを報告する。それは遺伝学的背景に依存し、実験室株および野生株の両方で起こる、特定の変異体を伴っている。

Multiple, previously silent, genetic determinants produced these variants and, when enriched by selection, they rapidly became independent of the Hsp90 mutation.

複数の、かつては潜伏していた、遺伝学的な決定因子が、これらの変異体を作り、選択により強化された時、それらはすぐさまHsp90変異から独立となる。

Therefore, widespread variation affecting morphogenic pathways exists in nature, but is usually silent; Hsp90 buffers this variation, allowing it to accumulate under neutral conditions.

それゆえ、形態形成的な経路に影響を及ぼす幅広い多様性が、本質的に存在するが、通常は潜伏している。Hsp90はこの多様性を緩衝し、自然の状態で蓄積することを可能とする。

When Hsp90 buffering is compromised, for example by temperature, cryptic variants are expressed and selection can lead to the continued expression of these traits, even when Hsp90 function is restored.

例えば温度によって、Hsp90の緩衝が取り除かれた時、隠蔽変異が発現し、たとえHsp90の機能が回復された際にも、選択によってこれらの形質の発現が継続されうる。

This provides a plausible mechanism for promoting evolutionary change in otherwise entrenched developmental processes.

これは、むしろ確立された(entrenched)発生過程の中であっても、進化的変化を促進するための尤もらしい機構をもたらす。

 

全体的に専門用語が多くて難しいが、この説では隠蔽されている変異が、適応に失敗していることを暗示する高温という刺激によって、一度に表出することがポイントである。具体的には、想像だが、ショウジョウバエが日陰で過ごすことができず、常に太陽光の下で餌を探し続けなければ生きられないほど食物が枯渇した状況なのだろうか。この文献は201411月現在Google Scholarで引用数1533と、非常に有名な文献のようだが、変異の時間的頻度を直接的に促進しているわけではない。促進していることを実験で証明している文献§も存在するが、検体が大腸菌であるため、ショウジョウバエよりも一般的な興味の対象とするのが難しいため、ここで詳しくは触れない。ともかく、進化の速度、変異の発現というのは、我々がかつて考えていたよりも遥かにシステマチックに調節されていることが示された例である。一見すると偶発的に見えながら、その偶発的な現象の頻度を調節する仕組みもまた、進化的に手に入れたものである。進化的にそういう仕組みを手に入れなかった種は、我々ほど進化せずに、ショウジョウバエ以前の状態のままのはずである。

 

 この他にも、変異の速度の進化について、様々な文献がWikipedia英語版で示されているが、一般的な興味を引くほど見慣れた動物の例がみあたらないため、いっそ具体的にヒトの場合に言及する。

 

 ヒトで変異の速度が制御されている状況証拠として、高齢の夫婦から生まれる子に染色体異常症や遺伝病が多いという、とても良く知られた現象があるが、これも、進化を促進する機構なのではないだろうか。一応、お断りしておくが、女性だけなく男性の方の加齢により、自閉症と統合失調症という比較的目につきにくい疾患の罹患率が上がることが証明され、どうやら"Paternal age effect"という名称で知られつつあるようである。本著では直訳して父性年齢効果と呼んでいる。話を戻すと、子をもうける年齢が40歳近くまで上がるということは、自然環境で生きる種にとって集団の個体数が著しく少なくなった絶滅寸前の状況のはずである。若いうちに子をもうけられるほど、女性や男性に頻繁に巡りあえず、年齢が進んでからようやく伴侶を得て子をもうけることになる。環境に適応していないから絶滅しかけているのであって、環境に適応しようとすれば、染色体異常や変異を引き起こして変化を促進した方が有利と考えられるのではないだろうか。基本的には疾患なのだが、結果的に、染色体異常や変異を許容した方が進化的に都合がいいので、多くの個体が犠牲となってもこういった作用が抑制されることなく残った可能性が高いのではないだろうか。

 

 別に現在の高齢妊娠・高齢男性授精の普及に、そのような種としての変化を必要とする要素があると言っているわけでない。変異の導入は基本的には偶然であり、必要とされて変異が起こるわけではない。淘汰されなかった変異が必要とされたかのように後から見ると見えるだけなのだが、ヒトに至るまでの進化史の中で、絶滅しそうになったら変化を引き起こした方が有利であったため、現在生き残っているヒトで、過去のそういう危機的な状況をやり過ごした通りに、DNAが勝手に過去の現象を再現しようとしているのではないだろうか。科学としては良くないが、分かりやすくするために擬人的な表現を用いるならば、高齢妊娠・高齢男性授精により、DNAが現在を絶滅しそうな状況だと勘違いを起こしているのではないか。

 

 [卵子と精子の間の変異の導入の違い]でウェルカム・トラスト・サンガー・インスティテュートの報告にあった、父母によって卵子や精子の変異の数が極端に異なるという現象の原因は、個体のトータルとしての活性酸素の濃度によって起こっているのかもしれない。つまり高齢の父母では、今までに卵子や精子が体液中で浴びた活性酸素の総量が大きいため、卵子や精子が変異を起こしている頻度が高いと推測される。更には、比較的軽度の目立たない先天性代謝異常症のような疾患があって、それが報告の中で差異を作ったのではないか、とも推測される。

 

 現在の段階では、ウェルカム・トラスト・サンガー・インスティテュートの報告ではたった2組の親子を調査したようで、数値的根拠がまだ十分でないため、そういう考え方もできるという話である。ただ、もしも数値的根拠が得られたならば、高齢妊娠・高齢男性授精を許容してしまう社会的傾向は、子の健康を何より重視すべき立場からすると、決してよい傾向ではないということが、進化の観点から理由付けられたことになる。我々は、子供を作る前に、将来職を失ったらどうしようなどと考えて、一年、二年とお金を貯めないといけないような社会保障の薄い社会では、結果的に高齢となり子が健康を損ねてかえって社会のサポートを必要とする悪循環の元だと分かっているのだから、子育て中に職を失った場合の社会保障を具体的に分かりやすくして充実させた方がいいに決まっている。

 

 ワトソンの言う変異を許容する遺伝物質、ストレス環境での隠蔽変異の発現、高齢妊娠・高齢男性授精による変化の促進、この3つを考え合わせると、遺伝性疾患は、マクロな視点から見れば「たまたま」「偶然」として発生するわけではない。進化という一見いいことのように見える現象が、人為的な影響もあって促進されればされるほど、進化の裏返しとしての遺伝性疾患の患者も増えるのだ。

 

 多くの文脈で、変異というのは、種の進化のためには、望まれている、よいことだということを前提にしている。ワトソンはある程度は変異しやすい遺伝物質を選択したから我々は進化したのだと誇らしげに述べ、隠蔽変異も進化を促進する要素として学術論文では好意的に扱われている。変異は、種の進化と繁栄のためには必要だったと、肯定しているのである。

 

 本質的に、変異というのは、種の進化という側面から見ると、全体の利益のためには不可欠だったと肯定されるものである。しかし、ヒトにおける新たな変異の発生ひいては進化を、遺伝性疾患の患者が読めるところで肯定してしまうと、全体の利益のために天に召されよという優生学的な、ナチズム的な、あるいは、日本のかつての軍国主義的な神風特攻隊の考え方と、たいして違いがないのである。神風特攻隊でさえ、形式的には志願者という形をとったのに対し、遺伝性疾患の場合には、本人の意志を問うという人道性が微塵も存在せず、非常に大雑把に言って約半数の患児は生まれた直後の無垢な状態で、すでに患っている。

 

 しかしそれでも、変異ひいては進化というのが、エボラ、新型インフルエンザ、普通のインフルエンザ、SARSAIDS、麻しん、MRSAといった感染症に対する、予防接種や抗ウイルス薬といった薬剤開発以外の、人類の唯一の生き残り策なのである。地球上で約70億人も繁栄してしまっている人類は、感染症にとって絶好のターゲットである。人口が増えて、個人間の距離が短くなるほど、また文明により都市の一部に人口が集中するほど、感染症は猛威をふるう。我々はこれからも、感染症により患児が天に召され、それ以上に感染症対策としてのいきあたりばったりの変異により、遺伝性疾患の患児が天に召され続けるのを見届けるだろう。あまりにも過酷な、人類という種が今後も繁栄し続けるために、一部の人口の基本的人権、特に生存権が侵害されているのが、進化という自然現象の本質なのである。しかも、重症度はばらばらで平等性に乏しく、こんなものを進化による多様性などと呼んで称える人間の気が知れない。欧米での希少疾患全体としての罹患率としては1014人に一人という、巨大な人口を巻き込んだ、人類が直面している中で最大規模の自然災害であり、これは同じ感染症対策として予防接種で対抗して、100010000人に一人といった頻度で健康被害に会うのと2ケタ違いの、極めて巨大な被害である。

 

 問題なのは、進化という機構が遺伝性疾患の患者という「犠牲」を必要とし、種としての強さを維持するために患者数は「ほんの一握り」に抑えられ、少数の犠牲という仕組みが出来上がっているのに、少数だから社会的サポートを充実しても社会的負担がしれていると考えるよりも、かえってあの少数は「偶然」「たまたま」疾患を患ったのだから「患者自身の努力で何とかすべきだ」「我々が無視しても罪の意識を覚える必要は全く無い」と考える風潮があることである。

 

 遺伝性疾患が進化のための必要悪だと考えると、劣性遺伝的にゾロ目を揃えてしまった患者ばかりが損をして、大多数の健常者が進化した存在としてヒトの生を謳歌するというシステムは、もう少し補正の余地があるように思われる。繰り返しになるが「大多数が得をするための、少数の生贄」なのだ。

 

 ロシアンルーレットに例えることもできると思う。たまたま撃たれてくれる奴が存在して初めて、進化というゲームは廻り続けるのだ。

 

 そう考えると、遺伝性疾患の患者に対する社会的補助は、より重要視されてもよい気がする。患者において、変異が特定されれば、治療法が確立されずとも、少なくとも将来に同じ病気になる人々の発症パターンを知るのに役に立つ。患者にできることは多くはないが、その中で、医師に書いてもらう症例報告なり、全ての変異の巨大データベース(dbSNP)なり、あるいは自分で作品を著すなりして、症例を後世に知らせるのは、唯一にして最大の社会貢献と言ってもいいだろう。将来同じ病気を患うのが、自分の子孫や近縁者がもっとも可能性が高いことからも、これらの行為は必要と言える。さらに、同一の希少疾患が日本でもヨーロッパでも存在するように、ほんの少しだけだが、症例の記録を残すというのは、人類全体に対する奉仕とも言える。

 

 柳澤桂子さんは、著書『認められぬ病』の中で次の言葉を述べられている。遺伝性疾患や希少疾患とは一言も言っておられないが、診断が得られないという意味では私も同じ状況なので、この文章を読んだとき、こんな風に考えて生きていければと思った。同書の中で、私が最も敬愛する一節である*

 

 すんでしまったことはどうでもよい。ひとつの症例として、私に起こったことが、あとからくる人の治療に少しでも生かされればと願った。

 

 人間にわかることはかぎられている。それを超えてしまったときには、どうすることもできない。医学の限界を超えたところでは、自分でその苦しみを受け入れるしかない。人間であることの苦しみを苦しみぬかなければならない。


進化と遺伝性疾患の「必然性の枠内の偶然性」

 私は本著で、偶然に遺伝性疾患に罹患するわけではなく、必然的に14人に一人が希少疾患に罹患するのだ、その必然性故に社会的サポートが必要なのだと繰り返している。変異には確かに偶然に依ったランダムな要素があるが、そのランダムな要素もまた必然性により引き起こされている。

 

 進化に寄与する変異は多くの意味においてランダムでないが、遺伝性疾患として表れて子孫をほとんど残さない場合には、進化よりもランダムであると考えられる。ドーキンスの『盲目の時計職人』から引用する。

 

私は突然変異がランダムでない点として三つ挙げた。突然変異はX線などによって誘発される。突然変異率は遺伝子によって異なっている。そして前進突然変異率は復帰突然変異率と等しいとは限らない。いまは、これに突然変異がランダムでない第四の点を付け加えたことになる。突然変異は、既存の胚発生過程に変更を加えることしかできないという意味でランダムではない。

493頁より) 

 

 うまくイメージを掴むために、次の図を描いてみた。我々は、健常児が生まれる様子しか思い浮かべることができないため、生殖細胞から死産に至るまでの過酷なフィルタリングに注意を払わない。しかし、実際には、卵子や精子は、死産よりも遥かに大きな頻度で変異と淘汰を起こしている。図中では染色体異常症やmtDNA病を含まず、優性遺伝と劣性遺伝しか示していないが、実際には染色体異常症は図中で優性変異のパターンとなり、mtDNA病は卵子側のみから来る優性変異のパターンとなるはずである。表示が込み入らないように、無視することが可能な良性の多型は除いて、「大量の初期変異の発生」をスタートとして設定した。まず、変異を起こした卵子や精子は、染色体異常など影響が大きすぎる変異の場合、多くがアポトーシスを起こして卵子や精子の形で残るのは数少ない。次に、卵子が歳を取っていたり精子の泳ぎ方が弱いと受精卵となることができない。劣性遺伝の病的変異の場合には、かなりの割合が健常児となるが、優性遺伝の病的変異の場合などは、いわば受精卵が遺伝性疾患を患うようなもので、着床、胚の形成、出産といった段階で、フィルタリングを受ける。これらの段階で問題を起こさなかった胎児のほとんどは、患児として生を受けるが、多くは生殖年齢に達せずに天に召されてしまう。しかし一部に、生殖年齢に達するような、症状が軽度の変異の場合だけが、次世代へ引き継がれていく。次世代に引き継がれていく中には、ごく一部、ときにはよい影響を及ぼすような進化の候補の場合が含まれると思われるが、極めて少数なのでこの図には含んでいない。進化といっても何世代も変化が累積しないと形として見分けがつかないので、1世代だけでは「大量の初期変異の発生」で表示の便宜上除くとした「良性の多型」に含まれるとも考えられる。

 

 健常児として示してあるのも、この図では良性の多型を含めていないので、劣性遺伝の病的変異を持っている。これらは次の世代では図中の卵子や精子に含まれていくが、劣性遺伝の病的変異は[みんなが保因者の劣性遺伝病? - 平均約10個の遺伝的荷重]で示すように10個程度持っているため複雑で、図が込み入ってしまうのでここまでは描けなかった。他にも図の制限として、卵子と精子で発生する初期変異が同数で、同じ段階で対等にフィルターされるかのように描いてしまったが、[卵子と精子の間の変異の導入の違い]で調べているように、結果的に卵子と精子で同じ桁数の変異を子へと与えているが、そもそも卵子と精子は大きさがとても違うので、初期変異が発生してフィルターされる過程は両者で異なっているはずである。図はこういった詳細を描かずに簡略化した形になっている。

 

 最初の変異の発生はランダムな要素が大きく、偶然と言っていいが、フィルターを通るほど、言ってみれば出産までの母親の胎内での自然淘汰がはたらいて、特別な要素のある胎児しか残らない。患児として出産に成功するのは、胎内で成長する条件を満たした変異だけなので、必然性が強いと言える。

 

 「必然性の枠内の偶然性」と言えると思う。基本は進化という流れに向かう必然性が元になっているのだが、変異の発生という過程は偶然性に頼っている。だから進化は偶然性を含みながら必然的な方向性を持つ過程だし、その裏返しである遺伝性疾患についてもほぼ同様と言える。

 

 

 ドーキンスは、ランダム性が少なくて系統的な進化を「累積淘汰」という用語を用いて説明しているが、ヒトの疾患に関してはあまり述べていない。思うに、この手の「淘汰」について書かれた著書で疾患を論じると、患者は淘汰されるべき対象と誤解され、著者・患者ともどもに不幸な関係になりかねないための配慮かもしれない。


ダーウィンのUNdiagnosed

ダーウィンが診断未確定の状態について研究していたというわけではなく、ダーウィン自身が診断未確定の病を患っていたという話である。進化論を唱え、同時代のメンデルと並んで進化と遺伝の世界を開いたこの偉大な研究者は、その死の原因となったとみられる病について、20歳台で発症してから亡くなるまで、18人の医師に診てもらったが納得のいく診断はなかったそうである。Wikipedia英語版にダーウィンの病について非常に詳しい説明が記されている。

 

 嘔吐と心臓病の両方を特徴する症状で、最新の説では、周期性嘔吐症候群とシャーガス病の併発ではなかったかと言われている。その上にピロリ菌感染も加わったかもしれない。生前に診断できなかったので、ダーウィンの病のWikipediaのページには7つの病因が記され、そのうち4つがうつ病やパニック障害など心因性のものである。これらが併発した可能性を含むと確かに診断は困難であっただろう。

 

 それだけでなく、ダーウィン自身、自分の子供達に彼の病が遺伝しないかどうか、特に妻のエマが従兄妹であるという近親婚との関係において、心配していたらしい。最終的には水治療に縋ったりと手をつくしたけれども、10人の子のうち2人を亡くしている。写真は長男のウィリアム・ダーウィンといっしょにいるときのもので、パブリックドメインから利用させていただいている。長男については、比較的健康だったようだ。

 

 それでも最後には、家族に向けて書かれた自伝の中で、自分の病について、次のような肯定的な言葉を残している。意訳を付する。

 

Lastly, I have had ample leisure from not having to earn my own bread. Even ill-health, though it has annihilated several years of my life, has saved me from the distractions of society and amusement.

結局のところ、食うために稼ぐ必要がないほど裕福であったので、十分な時間が得られた。病によって私の人生がいくらか奪われたけれども、そのことでさえ社会や娯楽の誘惑から私を遠ざけ、時間を研究のために費やすよう、いざなってくれたと思えるのだ。

 

"Recollections of the Development of my Mind and Character" Darwin Online, 20141028日閲覧 より)

 

この節の最後に、少し長い引用になってしまうが、本著で既出のミトコンドリア病と周期性嘔吐症候群が疑われた経緯について最新の論文をご紹介する。単一の疾患であったとしても診断しにくい希少疾患の、それもおそらく合併症例を、ダーウィンの後世の研究者や医師達が、知力を尽くして熱烈に推測した記録として非常に興味深いものがある。おそらく人類史の中でここまで追跡された診断の過程は、他に存在しないのではないだろうか。

 

 
皮肉なことに、ダーウィンが既に亡くなっているからと思われるが、あらゆる言葉を尽くして、ミトコンドリア病という疾患が精神疾患と誤解されやすいかが説明されている。もちろん、こんなことは患者が生きている間には言い出すわけもない。ダーウィンでなければ、精神疾患で社会の害悪のような患者が減った。死んでくれてありがとう、これからはもっと我々が社会的に診るべき患者に時間が割けるよと、口に出さずに医師達が思うというだけの話である。実際に柳澤桂子さんはダーウィンと同じ周期性嘔吐症候群に近い症状であったにも関わらず、ダーウィンとは異なってかなりひどい扱いを受けておられた。更には、2001年に起こった「北陵クリニック事件」(当初の報道では仙台筋弛緩剤事件と呼ばれた)ではミトコンドリア病患児が本当の病名として診断されないうちに筋弛緩剤を投薬されて亡くなりかけている。しかも、以下の文献で推測されるダーウィンのミトコンドリア病と同じタイプであるMELAS症候群のようだ。事件として報道されなければ、ミトコンドリア病患者であったことさえも知らされず、どうも現在もまだミトコンドリア病患者として扱われていないようだ。ダーウィンとこの患者の例から、潜在的に誤診を受けているミトコンドリア病の患者人口が存在することは間違いないと思われる。

 

 先述の日本でミトコンドリア病の診断が得られていない患者につづいて、ダーウィンのためにMELAS症候群の軽症例を示されれば示されるほど、これを読んでいる我々の中の誰が潜在的なミトコンドリア病を患っていても、それほど不思議なことではない気がする。これも優性遺伝とも劣性遺伝とも違う、ヘテロプラスミーによって広い重症度幅を示すmtDNA由来のミトコンドリア病の特徴なのだろう。

 

("Charles Darwin’s Mitochondria", John Hayman, Genetics. May 2013; 194(1): 21–25.より)

『チャールズ・ダーウィンのミトコンドリア病』

 

We now know that mitochondrial mutations producing impaired mitochondrial function may result in a wide range of differing symptoms, including symptoms thought to be primarily psychological.

我々は現代に至って、ミトコンドリア機能を損なうミトコンドリアの変異は、原発性の精神疾患と考えられる症状を含んで、広い範囲の異なった症状に結びつくことを知っている。

Examination of Darwin’s maternal family history supports the contention that his illness was mitochondrial in nature; his mother and one maternal uncle had strange illnesses and the youngest maternal sibling died of an infirmity with symptoms characteristic of mitochondrial encephalomyopathy, lactic acidosis, and stroke-like episodes (MELAS syndrome), a condition rooted in mitochondrial dysfunction.

ダーウィンの母系家族歴は、彼の疾患が本来はミトコンドリアによるものであるという主張を裏付ける。具体的な家族歴としては、彼の母親および母系の叔父の一人は奇妙な疾患を有し、もっとも若年の母系の兄弟姉妹は、ミトコンドリア脳症、乳酸アシドーシス、エピソード性の脳卒中様発作(これらを合わせてMELAS症候群と呼ぶ)を特徴とする症状、つまりミトコンドリア機能不良に根ざした疾患で亡くなっている。

Darwin’s own symptoms are described here and are in accord with the hypothesis that he had the mtDNA mutation commonly associated with the MELAS syndrome.

 

ダーウィン自身の症状についてここで述べるが、これらはMELAS症候群につきものであるmtDNA変異を有していたという仮説とよく一致する。


遺伝学用語の混乱

 英語との対応付けの関係で、遺伝学の用語は過去に改定されようとしてきた。もっとも近年の大きなものは日本人類遺伝学会が2009年に行った改定§のようだ。学会による考え方を広めるための文書なので、引用して大丈夫と思われるので以下に示す。

 

No 英語  日本語                     これまで 

 

1. genetics 遺伝学「意味:遺伝と多様性の科学」 遺伝学「意味:遺伝の科学」

2. variation 多様性(バリエーション)         変異(彷徨変異)

3. mutation 変異(突然変異)             突然変異

4. variant  多様体(バリアント)            変異体

5. mutant  変異体(突然変異体)          突然変異体

6. locus    座位                    遺伝子座

7. allele    アレル(アリル、アリール)        対立遺伝子

8. genotype 遺伝型                   遺伝子型

 

()内は、許容される用語

 

改訂の理由

 

1.本来 heredity variationの科学の意味で定義されたgeneticsheredityのみの科学と解釈されがちな「遺伝学」と訳されたため、カバーする範囲が狭く解釈される傾向にあり、日本社会では「遺伝」が暗いイメージに結び付きやすい。遺伝学という訳語を変化させることはもはや困難であるものの、遺伝学が「遺伝と多様性」の科学であると改めて明確に定義する。

 

2.初期の日本の遺伝学者がvariationを「変異」と訳し、それを「彷徨変異」と「突然変異」に分類したため、その後の用語と概念が混乱している。また、mutationに「突然変異」という問題のある訳を当てたため、更に用語と概念が混乱した。「突然」の用語は適当ではなく、多くの現在の研究者は「変異」をmutationの意味に用いている。以上の混乱を整理し、世界的な用語と概念に矛盾しないようにするため、variationに「多様性(バリエーションも可)」、mutationに「変異(突然変異も可)」を当てる。これに合わせ、mutantは「変異体(突然変異体も可)」、variantは「多様体(バリアントも可)」の訳を当てる。多様体は数学では別の意味(manifold)を持つが、使用される分野の違いを考えれば、混乱することはまずないと思われる。また、「多様性」は生物学全体、あるいは生態学ではdiversityの訳に用いられているが、意味は類似しており、混乱は大きくはない。

 

3.Locusgenotypealleleはいずれもgeneが定義される前から存在する用語であり、従って、本来、locusgenotypealleleに遺伝子(gene)の意味は入っていない。これらはいずれもメンデルの法則を説明するために必要な抽象的な概念であり、その対象は「一塩基多型」「欠失や挿入」「繰り返し配列」「遺伝子」など、さまざまな単位に適用される。従って、遺伝子座、遺伝子型、対立遺伝子などの用語は、その単位が遺伝子に限定されるような誤解を生じやすい。本来の抽象的な概念の定義にもどすため、座位、遺伝型、アレル(アリル、アリールも可)の訳語を当てる。

 

全体的な方向性は間違っていないが、学会が記したにしては参考文献も何も示されておらず、数値的にも根拠が足りない。PDFではなくDOCファイルとして提供されたこともリーダビリティを下げ、これでは、遺伝学用語は統一されないであろうと思われるし、実際統一されていない。本著で膨大な量のグーグルを用いたヒットカウント分析、共起性分析を導入している通りである。学会という大きな組織の中で、ここまで意見を統一させて用語の混乱を収拾しようとして下さったこと自体は、とてもありがたいことだが、結果的には問題がかえってややこしくなっている。

 

 geneticsの項目のうち、遺伝の部分については、[遺伝学用語の混乱:genetic、遺伝か起源か]の節でふれる。

 

 

mutation 変異(突然変異)

 

 mutationの項目について、「突然変異」と「変異」の違いに関して、一貫して意味を通すのが難しいので、本著では「変異」という表現だけに限っている。調べてみると、「突然」という時系列的にいきなり出現することに意味があるような表現は、およそ100年前のド・フリースによる命名に原因があるようで、当時はたった一つの変異の出現が直接的に進化に結びつくという「突然変異説」を唱えたため、英語でも「突然」というニュアンスがあったようだ。しかし、同説がそれほど正しくないと分かって以来、日本語による「突然」はあまり意味をなさない状態で放置されてしまったようだ。英語のmutationは、語源学的に"action of changing"という意味しかない。[de novo変異...]の節で述べるように、シーケンシング検査の普及にともない新しい混乱が発生している。そのため「突然」の表現は、なるべく避けるべきで、非常に重要な用語の改定にしては説明が不足しているものの、学会による改定は正しい。

 

 

variant  多様体(バリアント)

 

variantは「多様体(バリアントも可)」の訳を当てる。多様体は数学では別の意味(manifold)を持つが、使用される分野の違いを考えれば、混乱することはまずないと思われる。また、「多様性」は生物学全体、あるいは生態学ではdiversityの訳に用いられているが、意味は類似しており、混乱は大きくはない。

 

 混乱を引き起こしやすいのは、この用語である。英語圏で、『ミュータント・タートルズ』という子供向け映画作品などからの影響と思われるが、"mutant"という用語が、一般人には何か大変な種の規模の変化を引き起こすものであるかのごとく受け取られやすいため、一般人向けのウェブページでは"mutant"という用語を避けて"variant"と表記した方が無難と考えられる傾向がある。特に高齢の患者が医師から"mutant"などと言われると、人類ではなくなったかのようにショックを受ける場合もありうるので、配慮に基いて"mutant"が避けられ、自然と"variant"を従来"mutant"を用いていた文脈で使っている。"variant"は患者に対して変異のことを説明するのに無難な用語として、誰が最初に言い出したわけでもなく一般的になりつつある。古期フランス語由来の語源学的にも、「変わった」という単純な意味のようなので、ただ変化が認められた、という意味合いを説明しやすいものとみられる。しかも、"mutation"にも"mutant"の代わりにも、"variant"を用いているようで、とにかく"variant"はとても便利に使われている。

 

 "variant"は病的変異も良性の多型も含むので、患者に病的変異かもしれない変異が見つかったらとりあえず"variant"が見つかったと報告し、後で検証実験が完了して病的変異の可能性が否定されても、「"polymorphism"だと判明した」と報告しなかったとしても、あまり誠実ではないが嘘をついていることにはならない。患者が遺伝子検査の結果としてバリアントが見つかったと言われて、同意書にサインして採血を受けたのは何か意味があったような気がするな、と思ってくれていれば別の用語を説明する必要はないのである。そんな暇があったら検証実験の結果、病的変異だったと分かった患者のご親族にリスクをどう説明するかを考えたほうがいいと考えられているようだ。

 

 アンジェリーナ・ジョリーが受けたDNA検査のBRCAについて、Wikipedia英語版では、BRCAのバリアントを次のように分類している。Wikipediaは継承ライセンスなので大きくコピーすることはできないため、ほぼ用語のみ抜き出した。

 

Variants are classified as follows:

バリアントは次のように分類される:

 

Deleterious mutation

有害変異

Suspected deleterious

疑わしい有害変異

Variant of unknown significance (VUS)

意義不明のバリアント*

Variant, favor polymorphism

バリアント、良性と思われる多型

Benign polymorphism

良性の多型

 

 4番目に「バリアント、良性と思われる多型」とあるのが、良性として100%の自信がないので検査結果を患者に報告するのを延期して放置しているパターンである。本当に良性だと自信が出てから、「良性の多型」として報告した方が、患者ががんに詳しい場合以外は混乱は少ないと思われる。いわば用語の進化論的に、導入の偶然性と選択の必然性の間で、"variant"という都合の良い用語の方が幅を利かせて、"mutation", "mutant"という都合が悪い用語は淘汰されていった結果のようにも見える。

 

 英語でもご都合主義的な曖昧さがあるので、それを誤解してvariantを良性のものに限っている日本語のウェブページが稀に存在する。具体的には、VariationVariantに対して健康、多型との日本語を割り当てていたり§variantのことを遺伝的異型と訳して良性であることを前提にmutantの逆の概念のように説明していたりする*

 

 ここまで調べてみて、ようやく理解したのだが、おそらく学会が"variant"を「変異体」から「多様体」に改定した意図は英語でvariantが流行るのと全く同じ理由からと思われる。「変異」というと、患者が「わし突然変異やったんか!」と大騒ぎするので、本当に病的変異だと分かるまでは、別の用語で説明したいということだと思われる。そのため、「異型」では「異」という文字が残るので、既存の医学用語であっても、採用しなかったということなのではないだろうか。

 

 残念なことに改定から5年経っても、日本語の「多様体」は、あまりにも多く数学で使われすぎている。グーグルで"多様体"を検索するとヒットする約 223,000 件(201534日時点)の中で、生物学の文脈で最初に登場するのは5ページ目である。圧倒的に数学で使われている文脈の方が多い。「多様体は数学では別の意味(manifold)を持つが、使用される分野の違いを考えれば、混乱することはまずないと思われる」と付記されているが、グーグルで検索する中で数学の方が多くヒットしてしまうのは損失である。"多様体" "遺伝"のヒットカウントは約 19,500 件なので、およそ1割だ。他分野とは言え、別の意味の用語として使われているのにかぶせたのは、結果から言うとよくなかったのだが、全体的に、本節での批判は後知恵になっている傾向が否めない。用語改定まで行なって"variant"の印象をプラスに転換しようとした決断には敬意を表したい。

 

 

polymorphism 多型または良性の多型(文脈による)

 

 polymorphismは、学会による改定には含まれていないが、variantとの関係で非常に重要であるため、ここでまとめておきたい。本著で頻繁に登場する、DNA検査を受けると結果に記載されているSNPPの部分であるが、文脈によって「多型」か「良性の多型」かを使い分けないといけない不便さがある。polymorphismの意味が明確であればvariantは現在ほど流行っていないはずである。polymorphismには、事実上、二つの定義が用いられていて、一つは、ある人口において1%以上の頻度のものを多型と呼ぶのだという一律な基準である。

 

("Mutation or polymorphism?" Richard Twyman, Wellcome Trust, 20/3/03 より)

 

In contrast, a polymorphism is a DNA sequence variation that is common in the population. In this case no single allele is regarded as the standard sequence. Instead there are two or more equally acceptable alternatives. The arbitrary cut-off point between a mutation and a polymorphism is 1 per cent.

その一方で、多型はその人口において共通性のあるDNA配列のバリエーションである。この場合には、どんな単一のアレルもスタンダード配列としてみなされない。代わりに、二つ以上の同等に受け入れられる置換物が存在する。mutationと多型の間で独断的にカットオフポイントを決めるとすれば1パーセントである。

 

この基準が分子生物学的な文脈で用いられる多型の定義*と考えられるが、語源的な意味や、プログラミング言語で用いられている意味*では、もちろん、1%などという基準はなく、単に2つ以上の形態があるという程度のギリシャ語由来の抽象的な意味である。もちろん、後者の抽象的な意味の方が理解しやすい。加えて、1%というのは、バイオインフォマティクスとして計算機上での処理のしやすさに主眼をおいたもので、病因性については何も述べておらず、多型の中でも、2型糖尿病といったコモンディジーズの弱い病因性があるものが多く存在することになる。歴史的な経緯はよく分からないが、結果的には大きな病因性がないことを強調して「良性の多型」という表現が残った。mutationの方も、1%未満だからと言って、単一遺伝子疾患としての大きな病因性があるものは限られるので、良性のmutationはもちろん存在するのだが、そういった混乱をまねく表現は避けられて、「病的変異」という表現が残った。これが本著でいくらか冗長であっても「良性の多型」「病的変異」を用いている理由である。分子生物学的文脈で用いられると「多型」は1%以上を意味するので全て「良性の多型」のはずであるが、1%未満の"mutation"の方はその中で「病的変異」はごく限られる。

 

 

locus    座位

allele    アレル(アリル、アリール)

genotype 遺伝型

 

 改定の内容に話を戻すと、"locus"の「座位」、"allele"の「アレル」はとてもよい改定と思える。遺伝子座、対立遺伝子と学んだ時に、「遺伝子を特定しないとDNA上の位置を示したら駄目なの?」と混乱した記憶があるが、遺伝子を特定せずともDNA上の位置を示してもいいし、父母由来の2本の染色体の部分的な違いについて言及してもいいはずだと思う。しかし遺伝子座と対立遺伝子に対して抱いてしまった違和感は消し難く、本著ではなるべく用いないようにしたい。念のため、アレルについて、グーグルを用いたヒットカウント分析を行う。20141128日の結果である。

 

"allele"  11,500,000

(参考) "アレル 543,000 (アレルギー製品を含む)

(参考) "アリル 447,000 (アリル化合物を含む)

(参考) "アリール 355,000 件(アリール基を含む)

"対立遺伝子 151,000

 

アレルギー製品のせいで特異性が低下しているが、おそらく、これは、とりあえず、慣れるしかどうしようもない。どっちにしても苦手な用語である。

 

 

優性遺伝子、劣性遺伝子

 

 [遺伝病とコモンディジーズの違い...]の節で、優性遺伝子、劣性遺伝子について、本節で補足すると述べた。ヒトの場合には、シーケンシングで見つかるのは通常はSNP、一塩基置換多型である。ヒトのDNAは他の種と比較して極めて一様で、リファレンス配列と比較して、ごそっと入れ替わっている場合はあまりなく、ごそっと入れ替わっていればかなり重い遺伝性疾患なので、健常者ではリファレンス配列とあまり違わないことが前提である。ただし、現在世界の標準はヨーロッパ人なので、アジア人である我々をシーケンシングすると、それなりに多くのSNPが見つかって、病因性のものがあったとしても特定しにくいという状況が発生している。ともかく、人種的違いはありながらも、並んだ二つ、三つ、複数の塩基が同時に入れ替わったり、追加されたり、足りなかったりする場合よりも、一つの塩基だけが入れ替わっている場合の方が遥かに多い。このため、シーケンシング結果は、主にSNPの一覧として返され、SNPごとに考えるのが普通になっている。これが、SNPが病的変異だと分かった場合に、優性変異、劣性変異と呼ぶ理由で、実際に、タンパク質の構造に当てはめると、一つの遺伝子の中の変異の場所ごとに優性(機能獲得型)を示す場合と、劣性(機能欠失型)を示す場合の両方がありうる。遺伝子単位で優性か劣性かはほぼ決まっている遺伝子の方が多いが、詳しく調べると決まっていない場合もあって、優性変異と劣勢変異の両方が一つの遺伝子に同居できるかどうかは、そのタンパク質の機能次第である。念のため、グーグルを用いたヒットカウント分析を行う。20141128日の結果である。

 

"recessive mutation"  131,000

"recessive mutant"  40,700

"recessive variant"  7,640

"劣性変異 2,310

"recessive variation"  953

 

"dominant mutation"  123,000

"優性変異 1,990

 

"recessive gene"  430,000

"recessive inheritance"  305,000

"recessive allele"  267,000

"劣性遺伝 156,000

"劣性遺伝子 79,600

"劣性対立遺伝子 1,270

"劣性アレル 76

 

 それに対して、遺伝子ごとに優性遺伝子、劣性遺伝子と述べている場合は、主に植物といった場合で、ヒトの場合ほど徹底的にSNPごとに考えようとしていない場合が多いようだ*。おそらく、上記の結果から推測されるように、劣性アレル、劣性対立遺伝子という表現が、日本語として非常に通用しにくいため、シーケンシングを行った場合であっても劣性遺伝子という表現になるのではないかと思われる。

 

 劣性変異について、不顕性変異という呼称への改定が日本遺伝学会のサイトで提案されているようだ。

 

 

DNA検査の名称

 

 以降では、DNA検査の名称について述べる。

 

 乳がんのDNA検査では、遺伝子の名前をBRCA1といったように指定することで、検査するDNA上の範囲を示している。他にもBRCA2という遺伝子があるので、どれだけの数のどんな遺伝子を検査するのかが、DNA検査の費用との兼ね合いで重要である。また、本当にシーケンシングなのか、もしかしたらDNAアレイによる検査ではないのか、という確認も重要である。これからは遺伝子の全長をシーケンシングする方が普通になるはずだが、できることなら、シーケンシングがその遺伝子の特定のエクソンだけでないことも、念の為に確認した方がよい。冗長だが正確には、BRCA1遺伝子シーケンシングDNA検査というのが、BRCA1遺伝子全長に渡るDNAのシーケンシングを行う検査の名称となるべきである。これを略して、BRCA1遺伝子検査とか、BRCA1検査とか、BRCA1シーケンシング検査とか、その文脈で意味が通じる限りはいろんな略し方ができる。簡便なところをとって、BRCA1遺伝子検査とするのが通常であろう。前方に向かって修飾していく原則と、シーケンシングという動名詞は目的語を前に置くという英語のイディオムの修飾に関する原則を適用すると、以下のような文法表現になるのではないだろうか。

 

[遺伝子/[]エクソーム/[]ゲノム][DNA/RNA][シーケンシング/アレイ][検査]

 

 

エクソームとゲノムについては、一応本著ではエクソームについては何も修飾しなければ全エクソームを意味することにしている。ゲノムの方は全ゲノムと強調することにしている。これは現在の価格の問題である。部分的にエクソームを検査するのは、全エクソームの値段とほとんど差がなくなっているため、エクソームは全を付けないが、ゲノムの場合には全ゲノムはまだ高価なので、疑われる希少疾患の対象範囲に遺伝子の組み合わせ(パネル)を限定して、当面の間は行われると思われる。いずれ、全ゲノムの方も、全をつけるのがばかばかしいほど普及して、ゲノムシーケンシングと言えば全ゲノムが当たり前となるだろうが、まだ当面はそういう状況からは程遠い。全ゲノムシーケンシングを行うこと自体は既に金額の問題になっているが、データの解釈に用いることができる環境が、まだ整備されていなさすぎる。


遺伝学用語の混乱:genetic、遺伝か起源か

 [遺伝学用語の混乱]のうち、特にgeneticを遺伝的、遺伝学的としている部分について、起源的という名称の方が本来の訳である根拠を示す。ただし、すでに遺伝的と遺伝学的の間で、遺伝継承の意味の場合は「遺伝的」、起源的の意味の場合は「遺伝学的」と、混乱を少なくすべく区別を工夫されていることから、語源学的に起源的の方が適切と検証したところで、本当に改定しなければならないものかどうかは、正直なところ分からない。

 

(日本人類遺伝学会が2009年に行った改定§ より)

 

1. genetics 遺伝学「意味:遺伝と多様性の科学」 遺伝学「意味:遺伝の科学」

 

1.本来 heredity variationの科学の意味で定義されたgeneticsheredityのみの科学と解釈されがちな「遺伝学」と訳されたため、カバーする範囲が狭く解釈される傾向にあり、日本社会では「遺伝」が暗いイメージに結び付きやすい。遺伝学という訳語を変化させることはもはや困難であるものの、遺伝学が「遺伝と多様性」の科学であると改めて明確に定義する。

 

 遺伝と多様性の両方が、英語から導入されたにも関わらず元のニュアンスが保存されていないため、この手の用語改定の中で、意味を確認したり定義したりせずに唐突に使用すべきでない用語である。本節では多様性ではなく遺伝の方にふれる。

 

 おそらく本来は語源学的には"genetics"を「起源学」、"heredity"を「遺伝」とすべきであった。用語の互換性の点からこれは退けられたのではないかと推測する。

 

 名詞geneticsの語源である形容詞geneticの、更に語源について調べてみる。

 

 本著での疾患の分類をもう一度整理しておく。

 

遺伝病=単一遺伝子疾患、遺伝性が強い。

コモンディジーズ=多因子遺伝性疾患。遺伝性が弱い。

遺伝性疾患=遺伝病+染色体異常症。染色体異常症は、遺伝性が強いが、流産が多く評価が難しい。

 

では、遺伝性が強い弱いの、遺伝性とはなにかということになるが、形容詞geneticの語源をあたることにした。部分訳を付する。

 

("genetic (adj.)" Douglas Harper et al., Online Etymology Dictionary より)

 

"pertaining to origins," coined 1831 by Carlyle from Greek genetikos "genitive," from genesis "origin" (see genus). Biological sense first recorded in Darwin, 1859. Related: Genetically. Genetical is attested from 1650s.

「起源に属する」

 

生物学的意味で初めて用いたのがダーウィンとは初めて知った。geneticにはもともと日本語の「遺」「伝」という二文字の意味はない。むしろあるのは、heredityの方である。

 

("heredity (n.) " Douglas Harper et al., Online Etymology Dictionary より)

 

1530s, from Middle French hérédité (12c.), from Latin hereditatem (nominative hereditas) "heirship, inheritance, condition of being an heir,"

 

やはり"genetics"よりも"heredity"の方が遺伝の対応語としてふさわしいが、"inheritance"がオブジェクト指向プログラミングで「遺伝」ではなく「継承」と明確に訳されている関係上、"heredity"を継承性と訳す可能性も残っている。いずれにしても今度は日本語について、「伝」の方は継承に近いが、「遺」の方の意味はどうなのだろうかということになる。

 

(遺とは The Asahi Shimbun Company / VOYAGE GROUP, Inc., コトバンクより)

 

〈イ〉

後に残る。「遺憾・遺棄・遺恨・遺跡/後遺症」

死後に残す。「遺愛・遺訓・遺骨・遺産・遺書・遺族・遺体・遺品」

置き忘れる。取り残した物。「遺失・遺留・遺漏/拾遺・補遺」

気がつかないうちにもらす。「遺精・遺尿」

人にやる。おくる。「贈遺」

〈ユイ〉死後に残す。「遺言」

 

贈遺以外は、暗い、後ろ向きな意味にしか使われていない。IT関係で頻繁に用いられるようになった継承のイメージとはかなり違う。意味としては継承とほぼ同じと思われる。したがって、"heredity"を遺伝とするのは間違いではない。遺伝と継承で表現として被っているが、この2者は暗い意味合いか明るい意味合いで用いられるか、用いられる状況の違いだけで、意味そのものに違いはあまりない。やはり問題は"genetic"を遺伝性、遺伝学的と訳していることにある。"genetic"より更に生まれつきの部分を強調して先天性"congenital"と表現するので、こちらの語源をあたる。

 

("congenital (adj.) " Douglas Harper et al., Online Etymology Dictionary より)

 

"existing from birth," 1796, from Latin congenitus, from com- "together, with" (see com-) + genitus, past participle of gignere "to beget" (see genus). The sense formerly belonged to congenial. Related: Congenitally.

「出生から存在する」

 

ここでも、"genetic"と同様に"genus"が更なる語源であると表示された。

 

("genus (n.) " Douglas Harper et al., Online Etymology Dictionary より)

 

(plural genera), 1550s as a term of logic, "kind or class of things" (biological sense dates from c.1600), from Latin genus (genitive generis) "race, stock, kind; family, birth, descent, origin,"

 

種族、家系、血族、家族、出生、子孫、起源の意味のようだ。形容詞としての"genetic"が、出生と起源の間でどちらが向いているか考えると、"genetic"を「出生性」とまで訳してしまうと先天性と混乱が生じる。ここは"original"とは対応語としてかぶってしまうが、"genetic"を「起源性」とした方が無難と思われる。結局のところ、"original""genetic"は、形容詞同士で比較してみると似ているのだ。"original"のように形容する対象が作品といった分かりやすいものか、"genetic"のように分かりにくいものかという違いだけで。実際、"genetic"には「起源の」という訳語も後ろの方に割り当てられている。

 

 本著で単一遺伝子疾患と同義の遺伝病の場合には、英語のニュアンスを保存した訳は、起源病ということになる。単一遺伝子疾患と染色体異常症を合わせて遺伝性疾患と本著では呼んでいるのは、起源性疾患ということになる。しかし、遺伝病と遺伝性疾患の違いについては、確立されたルールがなくて困ったから本著で導入した独自ルールであるため、注意が必要で、むやみに起源病、起源性疾患と呼ぶことはできない。[遺伝学的検査のガイドライン...]の節で述べるように、あくまで、もしも"gene"が起源子と訳されることになったら、それと整合性をとる形で、起源病と起源性疾患ということになるのだろう。



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