目次
はじめに
はじめに
宗教的表現について
研究者の方々へ - 検証中の仮説
外部リンクの表記、Android対応、訂正箇所のご指摘のお願い
概略
現在の症状
息子の誕生
さらに遠い通院へ
知らされなかった検査結果
アミノ酸分画検査結果
タンデムマス検査結果
合っているかもしれない仮説
閑話休題:創作話 トリケラお母さんの悲劇(# ゚Д゚)
DNA検査の実体験と仕組み
ミトコンドリアDNAの検査
ヒットカウント分析および共起性分析
23andMeのDNAアレイによる検査 - 販売停止命令に至る経緯
遺伝病とコモンディジーズの違い - 優性遺伝と劣性遺伝
ヒトはヒトであるが故にヒトの病を患う
コモンディジーズの検査方式 - アバウトなGWAS
23andMeの深刻な検査結果 - 統計の改善による影響
23andMeのその他の結果
エクソームシーケンシング
コモンとレアの重症度分布 - アレル頻度とエフェクトサイズ
個人向け遺伝子検査の選び方 - 罹患人口カバー率指標
閑話休題:製作物 DNAツリー
希少疾患と難病の制度および数値
希少疾患と難病の違いと制度的起源 - 日米欧比較
赤信号みんなで渡れば - 真面目な日本人の最悪の集団行動
もっとも希少な希少疾患 - 70億人にたった一人
もっとも正確な希少疾患の数 - 毎日約1つ希少疾患が増える?
希少疾患全体の罹患率 - 全部合わせると10~14人に一人
診断に至るまでの年数、または遅延 - 28年?!
GINA(ジーナ) - DNA検査時代の国民、患者を守る法制度
国民皆保険の功罪 - 患者をチェリーピッキングする医師達
節としてまとまらなかった事柄
希少疾患と感染症
感染症と希少疾患の関係 - 未診断の希少疾患という重症化因子
予防接種の健康被害としての未診断の希少疾患
希少疾患としての感染症 - 米国のAIDSの歴史
見えないところに死体の山
医師に頼らない因果関係の追求 - 脳症の本当の原因
更に複雑な感染症の話
医療訴訟が生み出す二次被害 - 無過失賠償制度の必要性
辛い記憶
両親を批判することについて
両親への間違った説明
辛かった学校生活
体育の次の時間に倒れてしまう
電車とバス
繰り返し運動による寝られぬほどの筋肉痛
食事の前後の発作
進化と感染症の間の遺伝性疾患
進化と感染症の間の遺伝性疾患
仮説の更なる展開 - 発見され増加を続ける希少疾患
卵子と精子の間の変異の導入の違い
感染症と遺伝性疾患で重度となる役割 - 男性淘汰進化説
絶滅のシナリオ - 感染症と遺伝性疾患の袋小路
進化のスピード調節 - もっとも強く訴えたいこと
進化と遺伝性疾患の「必然性の枠内の偶然性」
ダーウィンのUNdiagnosed
そして各論へ
遺伝学用語の混乱
遺伝学用語の混乱:genetic、遺伝か起源か
de novo変異 - 両親から受け継がれない優性遺伝の変異
個人向け遺伝子検査のガイドラインの乖離
みんなが保因者の劣性遺伝病? - 平均約10個の遺伝的荷重
劣性病的変異の健常者への影響 - 遺伝子プールの浄化説
あとがき
あとがき
これ以降分冊予定
▲▼そして各論へ
検証実験の山 - バッチ型検証実験の提案
希少疾患の中の更なる希少な患者群についての予測
環境因子か遺伝因子か
代謝異常についての進捗
遺伝子検査の2つの嘘
生まれの平等性または不平等性
▲▼生まれの平等性または不平等性
新型出生前診断と着床前診断 - 技術的に◯、倫理的に☓
生まれる前のDNA検査 - 科学的因果関係の追求ライン
技術としてのNIPT - 生まれのDNA検査の技術予測
我が子に故意に良くない遺伝因子を許容する親の罪
ディストピアな未来像 - 生まれの平等性が崩れた世界
不妊という社会問題 - 男性不妊と父性年齢効果
中絶による母体へのダメージ - 次の妊娠がうまくいく確率
着床前診断の問題点 - NIPTとの倫理的違和感
不妊治療としてのPGD - 不妊としての遺伝性疾患
生殖医療のリアルの写真
男女産み分けの国際比較 - 海外での生殖補助医療のリアル
着床前診断の潜在的なリスク - 子と女性へのリスク
フィルターされた人々による生まれの平等性、不平等性の支配
遺伝学用語の混乱:variation、多様性か変化性か
人権に基づく多様性、人権に基づく変化性
男性不妊と劣性遺伝病の完全予防 - 22世紀の精子起源工学
その他 - うまく分類できずとも価値のあるトピック
DNA検査の結果の公開 - シーケンシング機会の平等性
進化における神の概念
mtDNAとY染色体の永代性 - 未来の血縁者の不利益
奥付
奥付

閉じる


<<最初から読む

41 / 89ページ

両親を批判することについて

 ここからしばらく闘病記的な節が続くにあたって、最初にご説明した方がいいのは、両親に何も伝えずに勝手に書いているわけではないということである。本著を公開する前に、未完成な段階ではあったが、原稿を両親に見せた上で、一度は意見を聞いてから、公開している。やはり、日本では両親を批判することは、直接的に虐待を受けた場合でしか、倫理的に無理があると考えられることが多い。ただ、希少疾患の子の多くは、両親の無知により人生が振り回されるのもまた事実なのである。私の場合は、両親が小学校教師としての体面を保とうとする姿勢が、子の健康を気遣う気持ちよりも強かったため、不幸であった。後者が前者を上回ってさえいれば、いくら前者が強くとも特に問題がないことの方が多いであろうが、残念ながら全てのケースでそうではない。

 

 また、私の場合は断じて両親から虐待は一切受けていないことをお断りした上で述べるが、希少疾患の子や、診断されない病の子が、虐待を受けているケースは多いはずである。むしろ、虐待をするということ自体が、何らかを疾患を持っていることの兆候のうちの一つと考えられる時代がいずれ来るだろう。しかし、あくまで「兆候のうちの一つ」である。虐待をする遺伝子だとか変異だとかいうのが存在すると言っているわけではない。虐待は生物学的には非常に複雑な行動なので、2型糖尿病やアルツハイマー病のように生物学的に明確な特徴ほど、SNPの集合によって傾向を予測するのはあまり成功しないだろう。しかし、見た目それほど問題がないのに、診断されない病により内的に苦しんでいる人口がいるであろうということは、私自身の経験から少なくとも私自身にとっては明らかである。そういった内的な苦しみは、環境によっては最も近くにいる弱者、すなわち子に向かって暴力的に表現されてしまうことがあるだろう。

 

 虐待についての特定の遺伝子や変異が発見されることはまずありえないだろうが、虐待の何分の一かが診断されない遺伝性疾患の苦しみによっていて、その遺伝性疾患の継承のために、虐待を受けた子がやはり虐待を起こしやすい。しかし、診断されない病の苦しみによる虐待の割合は非常に限られていて、大部分の虐待は環境因子によるものなので、虐待の大多数は遺伝的には継承しない。そういうパターンなのではないだろうか。

 

虐待についてエピジェネティックスのようなものが当てはまるという説があるが、これも診断されない病と同じく一成分にすぎないだろうと私は思う。大多数はやはり環境因子によるものと考えるべきであろう。エピジェネティックスが好きな研究者が、科学的にどこまでも追求したいのならば勝手にすればいいが、生きていることの本能の部分では、我々は皆幸せになりたいと思っているのである。追求した結果、そういう説を信用する人口が多くなって、思い込みにより幼少期に虐待を受けた成人が追い詰められてかえって虐待の加害者側に回るのを促進するのであれば、不幸の連鎖を促進しているだけである。虐待が継承されてしまう原因は、基本的には環境因子であると、もう一度念を押しておきたい。

 

 それを踏まえた上でなのだが、すでに受刑者に知的障害が多いとの報告があり、私自身の患者としての経験からも、体の状態が悪いときには頭も悪く、頭が悪い時に無理なことを要求されると、暴力に訴えやすいものなのである。残念ながら、特に男性はそうである。体の具合が悪くとも、いままで虐待する側に回らずにいられているのは、妻のお陰とも言えるだろう。

 

 

 こういった前置きを踏まえるように、ここからはしばらく闘病記的な部分が続く。興味がおありにならない方は、次の章へと読み飛ばしていただきたい。


両親への間違った説明

 私は息子といっしょにO大学病院で遺伝子検査を受けたことを述べたが、それ以外に両親に協力を求めたことがあった。しかし、その際に、私はいくつか重大な誤りを犯した。その結果、返ってきた拒絶は未だに私と両親の間にいくらか(わだかま)りとなって残ってしまった。

 

 おそらく最初の誤りは、「劣性遺伝」の疾患の検査と言いながら、両親に検査への協力を求めたことである。実は当然ながら私は「優性遺伝」の疾患を疑っていたのだ。

 

 アンジェリーナ・ジョリーが優性遺伝する乳がんのDNA検査を受けて、その結果に基づいて乳房切除を受けたというニュースが2013年の5月頃に報道されたが、やはり家系内で遺伝するということを考えている場合、いとこ婚といった近親婚さえ存在しなければ、多くの場合は優性遺伝するという前提なのだ。私はそこまでは言いたくなかったために、「劣性遺伝」という言葉で両親の反応を和らげようとしたのだが、それは非常に大きなミスだった。その当時、私は父から重症度が非常に低い筋緊張性の疾患が遺伝しているのではないかと疑っていたのである。

 

 実は周期性四肢麻痺や先天性パラミオトニーについての論文を読むと、基本的には優性遺伝をするのだが、重症度はなぜか別の要因で決まっているように述べられていることが多い。同じ病的変異を有していても、他のSNPの組み合わせや環境因子によって、大きく症状が出る個人と、あまり症状が出ない個人が、一つの家系の中に存在している。一例を挙げると、米国の筋ジストロフィを中心とする筋疾患の患者会であるMDAの会報誌の周期性四肢麻痺特集でトップの写真を飾った姉弟では、弟が8歳で発症しているのに対し、同じ病的変異を持つ姉は19歳まで発症していない。この場合は、男と女で性が違うので、例外はあるが遺伝性疾患の一般的特徴として男子の方がより幼いうちにより重度に発症する。ある意味、XY染色体の違いという性差も他の多型の一部*と言えなくはない。そして稀に、一生涯自覚症状のないまま、筋電図検査の結果だけが陽性と出ている個人もいる*。つまり、私で筋電図検査が陰性だったからと言って、もしかすると私の父では症状が小さいにも関わらず、筋電図検査が陽性となるパターンが、確率としては非常に低いがありうるのである。当時の私はその藁をも掴む可能性にさえすがりたかったのだ。

 

「こいつは俺らが結婚したのが悪いといってんのや!」

  それが父が私に発した言葉だった。私を殴ったことさえない父の言葉とは思えなかった。その後にも新しい説明を続けようとすると、

「おまえの疾患はいったい何と言うの? え?」

 とネチネチとした話し方が続いた。それでも父は間違いなく私が倒れた時に親身になって見舞いに来てくれた父なのだ。汚い話だが、母の方は、私が一人で大便にいけなかった時に、ダイアパーさえ交換してくれた。間違いなく私を愛してくれた両親なのである。

 

 それでも私はずっと私の中の欠点の部分が、父か母のどちらかから遺伝したのではないかと、物心ついた時から漠然と考え続けてきたのである。その説明を私ははしょってしまったのだ。

 

 母は思い込んだら一途なところがあった。小学校中学年の頃だったと思うが、私が鉄棒の逆上がりが出来ないと知った両親が、我が家に鉄棒と体操マットを購入した。昭和55年頃のはずだから、おそらく現在みたいに気軽にそんなものを購入できたはずはない。おそらく、父と母の両方が小学校の教員をやっていたため、その模範的精神もあって購入することになったのだろう。

 そこからが私の地獄の始まりだった。弟と祖母を含めて、家族皆が見える場所で逆上がりの練習をさせられたのである。母が言うには、

「お前は運動神経が悪いから家でも練習しないと駄目だ」

 そうは言われても、上腕ニ頭筋がすぐに筋肉痛を帯び始め、練習を始めたときよりも体を鉄棒に引き寄せられなくなってきた。それでも、何日か、あるいは何十日かの後だったと思うが、はじめて辛うじて逆上がりの形になった時には、私は痛みのために泣き出してしまった。そこで涙ぐんだ母が私の練習を見ていた弟に大声で言った言葉は、

「兄ちゃんは逆上がりがうまくできない自分がくやしくて泣いてるのや!」

であった。何でもかんでも感動物語に変えようとする小学校教師のバカバカしさに唖然としながらも、もう痛みのために何も言い返すことができなかった。それ以降、私は母の強さを愛しながらも、母の一途さを恐れもしていたのだ。

 

 そんな母のことを恐れたのは、私以上に父だったのだと思う。確か中学生の頃だったと思うが、母が私の目の前で初めてではないかと思う挫折を見せた。なんでも、小学校で母が担任をしているある女子が、他の生徒に対して意地悪をするよう母が指図していると、彼女の両親たちに言いつけたとかいう話だったと思う。おそらく、母がその女子の発するサインを何度も見落としてしまったのだろうと想像がついたが、そんなことを言ったところで、寝込んでしまった母に通じるとは思えなかった。そんな母のことを見て、ビールを飲みながら父が言った言葉は

「今、かあさんは、人生で初めて挫折をしとんのよ」

そう言ってニヤニヤと笑っていたのだ。そんな姿を餓鬼に見られても酒の席の話だと後で言いくるめられると思っていたのか、私が母に訴えることはないだろうと予想していたのか、それは分からない。ともかく私は母に訴えるということはしなかった。

 大人になるにつれて、それは父が母に対して抱いていた劣等感の故だと分かるようになったが、当時の私には何が何だか分からなかった。そして、父が母のことを愛していないのだと勘違いをした。美しい母でさえこの様子なのだから、まして不器用で出来の悪い私が寝込んだら、父が喜ばないはずがない。幼かった私はそんな想像を膨らませて、可能な限り体の不調のことは父に伏せることに決めたのだった。

 ずっと大人になってからの話になるが、父は母のことを本当に愛していることに気付いた。父に足りなかったのは、母を幸せにしようとする気持ちなのだった。愛していることと、幸せにしようと思うのは別のことだと、まだ少年だった私は区別がつかなかったのだ。

 そんな挫折をした母が、普通のクラスを担任するのはきついので、養護学級の担任になると言い出した時、私は母のその判断にも落胆し、母にも私の体の不調を伏せることに決め、自分の心に強く強くフタをしたのだ。母の目の前に養護学級に入ってしまいそうな息子がいるのに、それさえ気づかずに養護学級の担任になるなど私には許容できなかったのだ。

 

 

 ともかく、父と私に共通している、何らかの強い劣等感の源が、もしかすると父も私と同様に体の不調を感じているのではないかと、ずっと私は思ってきたのだが、その説明をするだけの余裕は当時の私には残されていなかった。


辛かった学校生活

「運動神経が悪い」

 そう言ってしまえば簡単だが、私ぐらい極度になると、小学校から高校に至るまでの集団主義的な学校生活は本当に辛いものだった。

 

 人間の脳は嫌な記憶を自分で消し去る。私には特に小学校の頃の記憶があまりない。写真も全て自分で焼いてしまった。

 

 小学校の頃、特に球技、縄跳び、鉄棒、マット運動といった手足を同期的に動かす運動はクラスで最も下手であった。さらに、私を担任した小学校の先生の多くが、小学校が違うとは言え同じ職業の両親に、あなたの息子は運動がまるで駄目だと率直に伝えてくれなかったことも、拍車をかけていたと思う。それどころか、私が参加することで明らかに体育の授業が進まないにも関わらず、かえって無理に最後までやらせようとするのだ。

 

 もちろん、同級生の眼にはよく映らない。

「お前のせいでまたやり直しかよ」

「体でかいくせに、どんくせーな・・・!」

同級生といってもおよそ20人のクラスが学年に一つだけだったことが気持ちに拍車をかけ、小学校の六年生の時には、中学校に行ってもこの状態が続くなら自殺しようと考えるようになっていた。

 

 家に帰っても、面倒を見てくれた祖母の口癖は

「おまえは運動神経が悪い」

「人に迷惑をかけたらあかん!」

であった。今になって分かったことだが、運動神経が悪いというのは大きな誤りである。実際には運動神経よりも筋肉そのものの疾患のほうが疑わしいのだが、大正生まれで、看護師の経験があるでもない祖母にそんなことが分かるはずもなく、このお決まりの「運動神経が悪い」という表現が私を苦しめた。

 運動失調を持ちながら、集団行動ばかりの小学校で、人に迷惑をかけずに学校生活が成り立つわけもなかった。

 

 体育の時間に問題視されないように限界まで努力する一方で、クラブ活動にも体育系のものを選んでは挫折するということを繰り返していた。

「いつかは体がうまく動くようになるのではないか」

という淡い希望と、

「いくらやっても駄目なんだ」

という絶望の繰り返しだった。小学校では、重さのあるボールはうまく投げることすらできなかったので、

「卓球の小さいボールは、ラケットにさえ当たれば、とりあえず前に飛ぶはずだ」

という理由だけで、卓球部に入った。しかし、皆と同じようにボールを打とうとするのだが、前後左右に振られたボールに素早く追従するのが困難で、足先で立って尻が跳ねるように動かないと玉についていけない。私の番が回って来ると後ろで皆が笑い転げた。

 

 体がうまく動かないのを、補正することで何とか解決しようと意識し始めたのもこの頃だったと思う。一年に一度、学校を出て走るマラソン大会があって、確か二キロメートル以上の距離を走った。長距離を走っている間に、だんだん足首を含んでそこから先の部分に力が入らなくなって、地面を蹴る際に踏ん張りが効かなくなるのだ。

 足を地面に着ける際にも、足先から地面に下ろすことができなくて、足の裏全体を、なるべくタイミングを遅くして着地しようとする結果、

「ドタッ、ドテッ、ドタッ、ドテッ」

と大げさな音を立て始める。

 

 タイミングを遅くするというのは、靴底がなるべく地面と平行になってから着地しないと、足先が思っているよりも早く地面に触れたり、逆に遅く触れたりして、転倒しそうになるためだ。なるべく足の裏全体で地面に着くようにすれば、体の一部が制御できなくとも、不格好だが何とか補正を加えながら走り続けることができる。しかし、まるでスクアットをやっているように膝を上げ気味の走り方になり、走っている間は本当に苦しかった。ほんの少し膝を高く上げようとするだけで、苦しさは何倍にもなる。補正は可能だが、体に大きな負担がかかった。

「これで体力の差が比較できると思っている連中はバカだ」

 補正して何とか走っているのに、それで成績を比較する意味などない。元々、他人とは異なるフォームでないと走れないことに問題があったのだろうと、今になってみれば思われる。

 

 夜遅くまで寒くて乾いた部屋で勉強をして、急性肺炎で入院したのも小学校6年生の時だったと思う。同級生の男子の家はどれも遠く、誰ともそれほど親しくなかったためか、小学生が夜遅くまで勉強をするのが当たり前だと信じていた。家の中で目立ちにくい北側の部屋を望んだのは自分自身なので、急性肺炎について半分は自業自得とも言える。入院後に熱が下がってからは、小児病室での他の患児との入院生活の方が日常よりも楽しかったので、これについては悪い思い出ではなかった。

 

 幸いにして、中学校は七つぐらいの小学校区を含むマンモス校だったので、小学校ほどの閉塞感はなかった。

「これで何とか生きていける・・・」

「僕は生きていてもいいんだ・・・」

自殺は思いとどまったが、通学距離は非常に長くなり、自転車で通うのに体力的に限界の状態が中学、高校と六年間続いた。中学校も高校も約7kmと、ほぼ同じ距離で、自宅近くの百メートルぐらいの坂道が急できつかった。雨の日は自転車用の重いカッパを着て通学し、学校に着く頃には、意識がもうろうとし、ぜいぜいと喉が鳴った。

 

 学校の自転車置き場で、雨で冷たくなった手をハンドルから離そうとしても、手首から指先にかけて動かない。このような時は自転車のブレーキレバーを握る力もないので雨季には毎日が危険行為の連続なのだが、そういう症状が病気なのかどうか当時の私は知らなかった。動かないのは冷たくなった手だけで、腕の方は動くので、ハンドルから手が離れるように腕を動かすと、ハンドルを握ったままの形でだらしなく手が離れた。こうなると単純に温めただけでは、手先の運動麻痺は元には戻らず、回復までに一時間程度を必要とする。(かじか)みや凍えといった症状は健常者でも見られるが、頻度も程度も大きいのが、一部の筋疾患の特徴であると知ったのは最近のことだ。

 

「こんな情けないことを話題にするのは、運動神経が悪いのを正当化しようとする行為で、恥さらしに決まっている」

 孤立無援の体力の問題を抱えていた私は、誰にも相談できずにそう思っていた。だから、冬の雪の日には皆がこの状態になるが、夏の雨の日にブレーキレバーが引けなくなるのは一部の人間だけだということを知ったのは後々のことだ。ともかく、私が育った地域は、所謂過疎に近い状態の地域だったが、その中でももっと遠くてもっと坂道の険しい地域から通学している女子もいて、なぜ皆こんなので元気に生活できるのだろうかと不思議だった。

 

 

 カッパだけでなく学生服も重かった。冬服の黒い学ランを着ると、腕を動かすたびに肩がカッターシャツとの間でこすれて、摩擦の悪い引き戸のように抵抗を示した。まるで「養成ギプス」のようだとさえ思っていた。上半身をどのように動かそうにも学ランが弱い抵抗を示し、下校時にはまるで酔っ払いのようにくたくたになっていた。夕方に近づくにつれ首がうなだれてくると、詰襟に入っている白いプラスチックのカラーがあごに接触して更に気持ちが悪くなった。


体育の次の時間に倒れてしまう

 小学校のクラブ活動で卓球には懲りたので、中学校の時にはバレーボール部に入った。これもやったことがない球技の中で、ボールの大きさが比較的小さいので、とりあえずコートの端から端まで投げることができるという理由からだった。野球のボールはより小さいが、外野を守らされても投げたボールが塁まで届かないことを、小学生の時に子供会の活動で経験済みだったので避けた。

「お前なにしとんじゃ!」

 同じように入部した同級生は、私が練習の足を引っ張るのが分かると豹変した。見掛け上何の問題もなく、むしろ彼より少し背が高いぐらいだったのに、練習をすればするほど、どんどん動きが悪くなっていく。何も知らない人間が見ると、やる気をなくして手を抜いていると思っても不思議はなかった。やむなく限界を感じて、部を辞めた。それでも、その同級生は私を見るたびに、上級生ができの悪い下級生を叱るように、ここぞとばかり私を怒鳴りつけた。私は顔を伏せて周囲に目立たない向きに歩く方向を変えながら、罵声が止むのを待つだけだった。

「あれでも同級生なの?」

 周囲の視線が痛かった。

 

 運動を続ければ続けるほど、意識がもうろうとなり、耳も聞こえにくくなった。特に体育館の中で響くバレーボール部の顧問が叫ぶ言葉は、エキサイトしてくると無意味にカッコよく、英語なまりの日本語に近くなるので、何を指示されているか、自分に指示が出ているのかどうかさえ全く分からないことがあった。

「ヘィ、・・・どこ・・・ろよ!」

「な・・・こういう・・・んだろ?」

 意識がもうろうとなると、声も小さくなり、話す言葉も注意しないとロレツが回らなくなってくる。そんな状態の私にとっては、周りの皆がスーパーマンのようにさえ思えた。それに対して自分のことは、まるで、古典的なSF小説「宇宙戦争」で描かれた、地球の重力に逆らえない、タコの姿をした火星人の様だとさえ思った。

 

 中学校での困難は、クラブ活動だけではなかった。「補強」という名の元に体育の先生が機嫌の悪い日に実施する筋力トレーニングがあった。例えば馬跳びをして、一人でもできない生徒がいると、連帯責任としてもう一度全員の馬跳びが強制されるのだ。知る限りうまく当てはまる表現は、戦時中の軍事教練だと思う。体育会系のクラブ活動でそういう練習があるのは少なくとも入部した時点で覚悟はしていることだが、運動能力の低い者まで一切区別せずに無理やり参加させた上で、「全体責任」だのと言う行為は軍事教練ぐらいしか知らない。女子と合同で補強をやらされたこともあり、その中でさえ私が一番足を引っ張ることが多かった。

「周囲から買う恨みを、何としてでも最小限の留めなければ」

 追いつめられた状況で死に物狂いでがんばった結果、体育の後の休み時間に、だんだん両腕が動かなくなって鼻水がだらだらと流れ始めた。

「ふー・、ふー・・、ふー・・・」

 深呼吸をしてみようとするが苦しくて大きく吸い込めず、肘は曲がったままで開かない。鼻水が出ても手が動かないのだから自分では拭くことができず、ついには自分の机の上面に頭を落とした姿勢から動けなくなってしまった。次の時間の先生の指示で、

「ひきつけだろう」

と言われて支えられながら保健室に運ばれた。三十分ほどベッドで安静にしていると腕の緊張がとれて動くようになった。これもまた最近になって、もしかすると筋疾患の症状だったのかもしれないと思う。

 

 運動会でも、失態を露呈した。中でも印象に残っているのは、クラスの男子全員で、長い「うんてい」のようなものを作る組み体操だった。二人の生徒が柱になって、その上にうつ伏せの形で別の生徒が橋の形を作って、それを長く連ねるという形のものだ。私は柱の役割だった。上に乗った生徒の膝に手を当てて、肘を開いて押し上げることで、その足を持ち上げようとするのだが、すでに整列と移動でくたびれていて力が入らない。いくら力を入れても上がらない。隣に男の先生が来て、

「あげろ!あげろ!」

 

と怒鳴る。先述の教練の先生とは別の先生だったが、この先生も私が手を抜いていると思ったらしい。運動を続けると、なぜ自分だけどんどん筋力が低下するのか分からないので説明できずに、所謂「気合い」が足りないのだと思われるのが悔しかった。


電車とバス

 大学への通学のために一人暮らしをするようになると、公共の交通機関を利用することが多くなり、新しい問題が生じた。揺れるバスの車内で、吊革を掴んでいると、次第に足の踏ん張りが効かなくなって、転倒しそうになるのだ。先述のマラソンで足首がガクガクになるのとよく似た症状だった。常に同じ力で踏ん張っているつもりが、だんだんと踏ん張れなくなって、より強い力で踏ん張ろうとするのだが、五分、十分と揺られるうちに、それでも力の入れ方が足りないらしく、ふらふらしてくる。最後には、揺れに応じて力を入れるたびに、ふくらはぎやすねの筋肉が痛み出す。バスが目的地に着くまでの間に、車内前方の支払機まで行って千円札を小銭に代えるのも危険行為だった。停車している短い時間で、必ず片手で吊り革か持ち手を掴んでいる状態を維持しながら、支払機に辿り着かなければならない。しかも、先に降りる人たちの邪魔にならないようにしなければならない。自分が支払機の前に陣取ってしまったがために降りるタイミングを逃す人が出かねないからだ。

 

「バスの吊革や持ち手をつたって移動するだけなのに、まるで森の中をツルを持ちかえながら移動するターザンのようにスリル満点だ」

 自虐的にそんな風に考えることもあった。 

 

 同じことは電車の中でも起こった。足が痛み出した段階で、空いている席に座ろうと移動するのでは手遅れだ。一瞬でもしっかり支えられていない状態で、ガタンと大きめの振動が来ると、踏ん張りが効かなくて転倒しそうになった。

 

 

 所用で出かけることになった旅先では、長時間重いスーツケースを引っ張っていると、徐々に手がいうことを効かなくなってきて、それでも思う様に動かさないわけにいかないので、動かない程度に合わせて、余分に力を入れることになる。そうして増し入れる力が大きくなるほど、一日の終わりまで筋肉痛が長引いて、痛みのために寝入ることができなくなる。周りに知人がいると、荷物を引っ張りながら、あれこれ指摘されないように自然な体の動きに見せるのが、なお苦しかった。



読者登録

草戸 棲家さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について