2004.12.17 Fri 大学生タレントの通信簿の補足
大学生タレントの通信簿
>>学業に全力を尽くせば(すなわち、学業に頑張っているといういいイメージを得たいと思うならば)肝心の仕事そのものができないのだから、そんなもの得ても無駄である。思い切り矛盾している。
補足
人材の優秀さとは
だがこうなると話は別である。、単位習得は片手間でも余裕でこなせる人間は、芸能と学業の二束のわらじを履ける。つまり、学業をクリアするのに多くのエネルギーと時間の配分を割かずにすむ、要領のいい人材だ。・・・彼(女)はいわゆる、世間でいう優秀な人材ということになる。当然、そういった人材は、芸能の仕事をせず、フルタイムで学業をこなせば、学問の分野で、もっとスゴイことができるかもしれぬ、ポテンシャルの高い人間であろう。
結局、人材が優秀かどうかというのは、対象となる事案そのものの優劣と加えて、いかに(対象とは無縁の)他に配分できる余裕をひねり出すことができるか・・ということであろう。たとえば会社は当人の仕事ぶりだけ見ていればよいが、個人の処世術においては、仕事のみに、すべてのエネルギーや時間を傾けるわけには行かない。地域活動、子育てなど、他もこともやらなくてはいけないのは当たり前である。
また、ある限られた分野で同じ能力を発揮した人間が二人いたとする。が、一人は片手間で、一人は人生の全力を尽くしてそのレベルだとしたら・・限られたパラメーターでは同等だろうが、たとえば片手間の人間が、その余力を他のことに使って、他の分野で偉大な貢献をしたとしたら、前者の方がポテンシャルがあり、優秀だといえる。たとえ、実際に功績を残せなかったとしても、その可能性だけはあるからして。結果はさておき、後者の”人生の全力”氏は、その可能性すらない。はなっから道は閉ざされている。よって、優秀だとはいえない。経済原則にのっとった、その人の優秀さとはそういうことである。
・・・となると、学生自分、成績自慢をし合って、自分が負けたときに、勝った奴に対してよく言う”フン、あれだけやりゃ、俺だって、誰だって・・・たといバカだとしても、あのくらいの点は取れるさ。だけど俺は、やれるけどあえてやらなかったんだ。俺には、やるべきことが、他にいっぱいあるんだから”という捨て台詞、これはある面正しいといえる。決して、負け惜しみとはいえないのである。
話は戻るが、とにかく、教育のし甲斐がある、優秀な人間=ポテンシャルの高い人間とは、投資効率を考えた場合、割のいい人間、つまり、教育コストの投入が少ない割に、より大きなリターンが返ってきそうな人材・・ということだろう。(っていうか、人材に限らず、何でもそうなんだが。当たり前すぎ)
アイドルの進学って・・
となると、もしかして、学業で芳しい成績を収められなかったアイドル連中って、”芳しい人たち”に比べて、学業に対してのポテンシャルが低かったなどとは、とてもじゃないがいえないのではないだろうか。つまり、それほどバカだとはいえないのではないか?
何しろ、あれほど忙しかったのだから、勉強時間は取れなかったはず。教育コストの投入は少ないだろう・・・・、それでいて、人並みの成績を取れたのなら、返ってくるリターンは割高であり、余程の悧巧者だろう。学業に対するポテンシャルは、そこらへんの並みの人材より、かなりあると考えても、おかしいこととはいえないだろう。前述した、教育コストの投資効率を考えれば、なかなか割に合う人材かもしれない。
とすると、大学側のアイドル連中を選抜する判断基準は、不透明だなんだと世論で言われることは別として、あながち間違いとはいえまい。確かに、忙しい(=売れている)アイドルであればあるほど、優遇されている。投資効率の面からみれば、確かに合っている。
何しろ、アイドルが、売れることすなわち忙しくなることと、学業に割ける時間そのものが少なくなることの因果関係は、簡単に証明できる。テレビなどで、公衆の面前に姿さらしてるのだから・・どう考えても、勉強しようがないではないか、”アリバイ”はばっちりではないか!、となると、たとえ成績が並であろうと、少ない勉強時間(少ない教育コストの投入)で、多くのことを覚えてしまう(割高なリターンが返ってくる)、投資効率のいい人間、つまり先に言ったポテンシャルのある(=優秀な)人間ということになる。
ということで”こいつ、不正工作=影でこそこそ隠れて勉強して、自分のポテンシャル高く見せかけようと””アリバイ工作””してないな。公明正大ではないか、ようし、投資効率よさそうだ。入れてやろう”という大学側の判断も、あながち間違っているとはいえないのではないだろうか。同程度でも、全力を尽くしたバカよりも、片手間の悧巧者を選ぶ・・何が悪いのであろうか。当然ではないか。まだまだ伸びる可能性がある、若い人材であるから、なおさらである。そしてそれがたといもくろみどおりに行かなかったとしても、だからなんだというのだろう。周囲の不利益って、あるのか?※1
まだまだ伸びる可能性・・・たとえばの話
たとえの話として、ある陸上競技の名伯楽などは、足の形を見て、伸びる選手かそうでないか、即座にわかるという。当然、選手の現時点でのタイムを度外視して、採用の基準をそこに置く。
たとえばの話、もし、この陸上コーチに対して、この選抜基準は、個人の恣意的な判断によるところが多く、不透明であるし、皆の不満も大きい。よって、誰もが不満を漏らさない、公平な、タイムのみでの選抜に切り替えよ!と上に命令されたら、彼は、すんなりそれを飲むことができるだろうか?それとも、即座に辞表をたたきつけるだろうか・・・っていうか、そもそも、周囲から不満があがらない選抜方法が、最も優れた選抜方法だといえるのだろうか?専門家達は、本当は正しくない方法だと、わかっている。だが、処世術として、そういった方法をとらざるを得ないのか?
この、タイムによる選抜だと、記録はいいのだが、教育し甲斐のない(投資効率の悪い)、伸び悩みしそうな奴でも、ルール上、採用せざるを得ない。その反対も同様。現時点のタイムは悪いのだが、大きな成長を見込める、つまり教育のし甲斐がある、投資効率のよい”ダイヤの原石”を、落とさざるをえない。
また、これに似たような、もうひとつのたとえとして、仕事をしていれば誰でもわかることとは思うが、新人で欲しい人材というのは、現時点で仕事やらせてみて、実際にできたかどうかの厳密な差、ましてや、以前それに多くの時間を割いたかどうかはまるで問題ではなく、今は出来ようが出来まいが、とにかく飲み込みのよさそうな者である。いわゆる”伸びる人材”””筋がいい奴”ということである。当然、採用側が、それを人材の選抜基準としても、何の問題もない。落ちた奴も文句は言わないだろう。
一般社会では正しいことでも・・・
だが、一般社会では正しいとされる、これらのこと(※2)でも、こと学業で選抜する分野に限っては、とたんに正しくないことになってしまうのは、どういうわけだ?こんなことは、仕事をちょっとでもしたことのある人間にとってみれば、とっさに理解できることだろうに、どうして、学者や文化人やマスコミなど、何かと大衆を誘導したがる連中は、まるきり理解できてないのであろうか?奴らは世間を知らないのか?それとも、理解してにはしてるんだが、何かと不都合だから、世間に向けては言わないのか?不都合とは?もしかして商売のためか?世間知らずに耳障りのいいことを言って、迎合して金を稼ぎたいという、商魂ゆえなのか?
前に言った学生の負け惜しみにしろ、ああいった考え方は、まあ、子供にそう考えられたら都合の悪い大人連中は、否定するだろうから・・・マスコミ連中、つまり、権力側も、同じようなものなのかもしれない。とにかく我が子とおなじように、大衆にそう言う風に考えられたら、何かと問題があるのだろう。
※1)不利益って、あるのか?・・・たとえ、それで失敗したとしても、戦争や公害じゃありもしないのだから、イメージの多少の悪化、世論の非難など、被害は、おもに、あくまで当事者個人の中だけに限定されている。マアかわりに落ちた人が一人いるってことはいるが。。。しかし、それを同じようなことを、大人社会相手にいちいち言い出してたら、キリがない。詳しくは、過去記事を読んでいただくとして・・・・ひとついいたいことは、”君達、第一、そんなことまで深く気にしてたら、オトナの世界で生きていけないよ”・・・ということである。
勿論、若い時分に、一切考えないことが正しいということではなく、内容が、正しいか正しくないかという問題であって、理想とも別の存在である。いわゆる現実問題であって、あくまで正誤の問題ということであるからだ
※2一般社会では正しいとされる、これらのこと・・・こういったことがいえてしまう理由として、経済学の初歩である効用関数とかコストパフォーマンスというものが、世の中のほとんどの事柄について当てはまってしまうからであろう。まさに、世の中の道理であるといえる。・・若者の頃に、どんなに大人たちに違うことを説教されても、自分自身が大人になってしまうと、これに気がついてしまう・・・・ただし”愛”は例外らしい※3。
※3)”愛”は例外・・・・これもsiro氏の受け売り。
2004.12.20 Mon バーニングシフト4 あるいは総論
これから書くことは、文章が重複していたりして、とにかく、まだよくまとまっていない。分類も、バータレ総論の、バータレの本質的な傾向に入れるか、あるいはマスコミの傾向として、バーニングシフトの4番目としていれるか、どちらが適当か、まだ定かでない。・・・・まとまり次第、整理しようと思う。
バータレの種類
バータレには二種類いると思う。一つ目はバータレの典型的な例で、大衆路線のど真ん中を行くタイプ。いわば大衆バータレ。もうひとつが、前者とまったく対照的なタイプのバータレで、いわば、スペシャリストバータレとでも言うべきタイプである。そして、いわば聖と俗の世界を、それぞれ受け持っている。前者は今までさんざん言ってきたからよいとして、今回は後者について少々・・
スペシャリストバータレ
傾向:彼らは、規定打席に達していない
レギュラーと比較しての、補欠とたとえたらいいか、彼らは、質はともかく、”量”が圧倒的に足りないのである。人気もない、注目もされていない、仕事も少ししかしていない。そのため、アタリの仕事も無い。しかしながら、それゆえに、失敗もスキャンダルも、量をこなしている非バーニングに比べて、目立つ事は無い。
マスコミでの彼らの評価は、やたらと高い。だが、大衆バータレとは違って、マスコミのフィルターを除いた、実質的な技量、作品のアベレージや演技力などの質的なものは、非バーニングのメジャーどころのタレントと比べて極端には違わない。少々劣っているというくらいであろう。
しかし芸能界では、間にマスコミというものがあるがゆえに、容易に質の評価で逆転できてしまうのである。大衆バータレと違って大差がないだけよけいである。補欠バータレがレギュラー及第点となり、逆に、レギュラー非バーニングが、ボーダーラインの下に沈むこととなる。
質は大差ないとしても、本来ならば、成功の”量”ということにかけては、レギュラー=非バーニングのほうが、補欠バータレを大差で引き離している・・・はず。マスコミは、この、非バーニングが唯一勝っているフィールドにおいて、彼らを高く評価してもいいはずだ。だが、勝負させてはもらえない。バーニングシフトがあるからである。マスコミが、偏向により、非バーニングの”大量の勝ち星”をスルーしてしまえば、目立つものといえば、彼らの圧倒的な失敗数の多さ、反して、補欠バータレの失敗の少なさのみになる。
といううわけで、報道において、非バーは全敗するしかないのである。そして、これにより、大衆は、彼らより、補欠バータレの方が、なんとなく良質であるかのような錯覚をうけてしまう。
野球の成績表との比較
量が少なければ、量を多くこなしているものに対して、アベレージなどの質的なもので優位にたつのは容易であろう。たまたま一試合だけ出て、5打数5安打の成績を上げた準レギュラーが、レギュラーの年間打率より、質の面で圧倒的に勝っているのは当然である。だが、これらを、同じ土俵に挙げることに、違和感を持たぬ野球ファンはいないだろう。
A:アベレージは並で、レギュラーとしては及第点、
だから試合で多く使われる。
多く負け(凡退し)ているし、多く勝って(打って)いる
B:アベレージは、レギュラーとしては、ややラインに達していない。
だから、出場試合数が少ない。あるいはアベレージはいいのだが、
なにぶん日が浅く、サンプル数がすくないため、
レギュラーかどうかは、上は、まだなんとも決めかねている状態。
数的には、あまり勝って(打って)いないし、負けて(凡退して)もいない
芸能人で言えば、Aが非バーニングのメジャーどころ(レギュラー)、Bがスペシャリストバータレ(補欠)に当たる。
アベレージとの差が僅かでも、それらが、レギュラーラインの上、一方はその下という微妙なライン上にあるならば、量で圧倒的な差がつく。質差が僅かならば、当然、Aの、凡打や敗戦などの失敗率は、補欠と大差ない。しかし、失敗の量は圧倒的に多くなる。当然、それはBに比べて、はなはだしく目立つものとなる。
勝率、アベレージ、あるいは利回りという質的なものと、打点、勝ち星という量的なもの、また量的なものの到達数にかけられる、レギュラー、規定打数、売上高という、フィルターとの関連性。野球ファン、あるいはギャンブルに詳しいものは、これら質と量との関連性を、日ごろからデータを見ていることによって、感覚的に理解している。だから、補欠をレギュラーと比較して、失敗が少なかったり、率において多少上回っているということをあげつらって、彼らをレギュラーを比較して優れているなどとは決して主張しないし、芸能マスコミのように、揚げ足とってはやし立てても、騙される者など、一人もいない。
率で勝っていても、サンプル数の少なすぎる物とそうでないものとは、同じ土俵に挙げることは出来ない・・規定打席などのフィルターにより、量の少ないものは、質的な比較の対象から、はなっからはねられる。前述したように、”シーズン末期に一試合しか出なかった、パッと出の五打数5安打と、年間通しての三割打者を、打率で直接比較する者などいないし、前者を後者が率で遥かに劣っているからといって、馬鹿にしたりなどしないし、レギュラーであるべき人材なのに、奴らがのさばっているため、活躍できない・・・くそー!などと嫉妬したりもしない。当然、マスコミがそういう心理を煽ることも、出来ない。
とにかく、相撲の星取表、野球の成績表、出目表、四季報などの数字は、間に誰も入ることができないのだ。しかし芸能界はどうだろう・・・・
芸能界は・・といえば
芸能界だって、負けず劣らず、数字はシビアに出てしまうはず。少なくとも現場は・・・ギャラと売上の見込みの兼ね合い、演技力=NGの少なさによる拘束量、撮影経費のコスト、ケツカッチンによる超過支出・・・数値化できるパラメータはいくらでもある。しかし、そんなものは、大衆には、数字にされて届きやしないのだ(っていうか、届けたとしても、誰一人興味を持たないだろう)。
かわりに大衆に届けられるものといえば、興行的には厳しそう・・スポンサーも離れ気味・・・・逆に、最近●●に目が離せない・・・注目度上昇中☆☆☆(↑)・・・”といった、曖昧模糊としたもののみである。当然、こんなものは、マスコミが、好きなだけフィルターしている。
ということで、非バーニングAの勝ち星の多さ、バーニングBの勝ちの少なさが隠蔽され、逆にAの負け数の多さ、Bの負けのすくなさ、加えてBの勝率の高さも不当にクローズアップされる。アベレージはもともと大差なかったため、これで容易に率(質)が逆転してしまうのだ。
これにより、大衆は、率(質)に劣っているはずのレギュラーが、勝っているはずの補欠を押しのけているような錯覚を覚えてしまう。そのため非バーにたいして、憤懣やるかたない・といった感情、あるいは嫉妬感に襲われやすい。マスコミに、まんまとのせられてしまうわけだ。
マイナスが他のプラスになるのは、限界近くまでコストやエネルギーを配分した場合のみである
バータレの手法を一言で言えば、スペシャリスト錯覚とでも言うべきか、ただ単に量をこなしていないマイナー、あるいは失敗しそうなので他の分野をやっていない臆病者、あるいは実際に失敗している敗残者であるだけなのに、いかにもひとつの道を突き進む求道者であるかのように、大衆に思わせる手法である。
他の道をやっていないからその道のスペシャリスト、なぜ消去法でしか考えないのだろうか。なぜ、横綱相撲を取る者をみとめないのだろう。本格派女優といわれるのは、トークがヘタで、CMやバラエティーに出ていないからではなく、演技がうまいからである。映画女優といわれるのは、舞台やテレビドラマに出ていないからではなく、映画で映える演技をしているからである。本格派シンガーといわれるのは、ブサイクなのでアイドル性に欠けるからではなく、歌が上手いからである。体格が劣っているから、技巧派力士ではない。他がゼロあるいはマイナスだから、プラスではないのである。
演技を見たことのない素人は、”他で劣っている(やっていない)””一筋”のほうがなんとなく上手いと思ってしまう。真相は、演技はヘタ、インパクトもなし。でも、そんなんじゃ、当然人気も出ないだろうから、CMや歌手活動はなおさらやれないだけである。
だが、こんなのに騙されるのは、素人だけなんである。当たり前だが、こんな小細工など、ちょとでも実情を知っている玄人連中には通用しない。データに精通している野球ファンやギャンブルツウが騙されないのと同じである。
しかし、これからドラマや映画の世界に入ろうとしている、初心者=素人はどうだろう。どこから”とっかっかる”だろうか?
玄人は一種類しかいないが、素人には二種類ある。ひとつは、玄人の評価を知らないので、想像やマスコミの評価などで、おぼろげながらタレントの玄人評を思い描いている”素人1”、もうひとつは、玄人の世界というものがあること自体、知らない”素人2”である。バーニングは、両者の対応をはっきり分けている、あるいは、両パターンを、時と場合によって、上手い具合に使い分けているような気がする。両者の対応版、スペシャリストバータレ、大衆バータレの両者とも、その実、素人にも、玄人にもウケていないのは同じなのだが、イメージのつけ方、素人の”釣り方”が全く違う。
素人1
玄人はわからんが、素人うけしていないことは誰しもが納得する、メジャーでないバータレを、いかにもツウ好みのタレントであるかのような、スペシャリストイメージをつけさせる(=スペシャリストバータレ)。そして、玄人の評価を知らない(あるいはいいようにイメージしている)素人1をだまして”釣る”
連中は当然素人であるからして、玄人の評判というものが、どのようであるかはわからない。他人の評価を参考に、何となくいいようにおもいえがいているだけである。こういうひとたちにとって、一見、素人うけもしていないのに、何だかんだで芸能界を生き残っている彼らは、いかにも、玄人にはうけてそうな感じがするものなのだ。
マスコミも、そういう風に誘導する。しかし、当然ながら、玄人はこんなことではだまされない。
玄人は、ドラマや映画を見たことのない素人にとっては、歌手やCMタレントのイメージが強い人でも、案外、演技のほうも上手いことを知っている。逆に、素人の間では、他のジャンルを一切やっていないため、一見、玄人うけするスペシャリストと思われている者でも、実際、”本職”の演技力のほどは、言われるほどたいしたことないことも知っている。
一方、素人1はあっさり釣られてしまう。こういう人種はえてして、(本当は知りもしないのに)いかにもツウ好みを気取って、いっちょ、スノッブ路線で決め込もうかいな・・・と、いかにも格好のネタのように思える、スペシャリストバータレネタを引っさげて、”掲示板デビュー”を試みる。
しかし、いざのぞいてみると、予想と実際とあまりの違いに、愕然とする。彼ら、ツウの評価どころか、反応そのものが全くないのだ。
彼らは、たしかに駄作は少ないが、見るべきものも少ない。最終的には、非バータレに代表される人間は、量をこなす、あらゆることに秀でたオールラウンダー、いわゆるメジャーどころ、一流で、一方の、いかにもツウ好みのスペシャリストバータレ連中は、スペシャリストどころか、ただ単に劣っているだけのマイナー、二流。あるいは他に挑戦していない臆病者・・・と気が付き、ようやく、素人から脱却することとなる。
素人2
2は、逆に、ワイドショーの世界がすべての世界だと思っている人間だ。こういう連中にとっては、素人うけがすべてである。これは、釣るのは簡単だ。
絶対玄人うけなどしそうもないバリバリ素人ウケ派の大衆バータレを、そのまんまヨイショして、玄人にも素人にも受けているオールラウンダーの非バータレを、玄人世界を除外した、素人のフィールドのみで圧倒し、すべての世界で、彼らより優位にたっていると錯覚させる。
素人2は、自分がそうおもっているのだから、皆もそうなんだろう・・と思い込む。スペシャリスト幻想ならぬメジャー幻想とでも言うべきか。結局、あっさりと釣られ、玄人は騙されないのは1のケースと同じである
素人2も、掲示板などで、いかにも皆が食いつくだろうと思われる、無難な”イメージいい、人気者のタレントさん”である、大衆バータレについて、おおいに盛り上がろうかと、これまた掲示板デビューを張り切るが、期待を裏切って、誰も食いつかず、これまた愕然とする。
自分の意見は、月並み、底が浅いなどと逆襲され、”〇〇は××の愛人なんだから、イメージいいのは当たり前!あんた、知らないの?そんなこと常識だよ”などと、思いがけない無いせりふを浴びせられる。そして逆に、自分のような素人の間では、きわめて評判の悪い人物が、玄人の間では、案外、評価が高いことを知る。最終的には、”こんな世界があったのか・・・・”と目からウロコが落ちる思いをし、素人から脱却するのも、これまた1と同じである。
総論
結局、バーニングに騙されて無駄な時間と費用を無駄にしたくなかったら、日光のサルと逆のことをせよ、つまり”見ろ!聞け!知れ!”ということである。
隣国に騙されて金を巻き上げられたくなかったら、歴史を知れ!先人に聞け!。
オレオレ詐欺やマルチに騙されて金を巻き上げられたくなかったら、法律や経済の根本的な仕組みを知れ!。
すぐ飽きる一発タレントに小遣いつぎ込んで、押入れにゴミの山を築きたくなかったら、芸能界の仕組みと、バーニングはじめマスコミ連中の、大衆心理の操作法を知れ!
ということ。
2005.01.01 Sat rssモジュールの実験
サイドバーだけでなく、実際の文内ではどう出るか
siroさんのブログで実験させてもらいました
まあ、更新できない代物ではあリますが。
マウスオーバーするとdiscriptionがでてくるようです
1. 12/12 11:39
2. 12/12 11:36
3. 12/12 11:32
4. 12/12 10:57
5. 12/12 10:36
6. 12/12 10:26
7. 12/12 09:33
8. 12/11 10:14
9. 12/11 10:00
10. 12/11 09:59
11. 12/11 09:57
12. 12/11 09:54
13. 12/11 04:11
14. 12/11 04:11
15. 12/11 04:10
っていうか、これって、descriptionをタグ外に吐き出せないのか?
まあ、リンクだけなら大いに結構だが、冒頭だけとはいえ、やたらと制限無く自分の記事のコピぺ文が出てくるというのも、ページランク上よろしくないということで、RSS吐き出された相手に遠慮した仕様なのかな。
2005.01.05 Wed 補足
http://d.hatena.ne.jp/pokopiko/20041214の、”バータレは相対的に仕事の質が悪い。事務所はガンばって!心理”の補足説明。
普通の人が連想するのが、一方はえこひいきして、良質なドラマに出させる。もう一方は冷遇して・・・といういわゆるプロデューサーの潰し行為だろう。また、バータレ以外にも、オスカーのタレントも思い浮かぶ。これは、他の投稿者も、”刺客に襲われる元カレ出演者””植田マンション物語”などで大いにネタにしている。
その他
・・・腹心の植田はじめ、TBSも、キャラのかぶる上戸を潰しにかかりました。邪魔者はいません。いたとしても、我々が、事前に排除にかかります。姫、ですから、ご安心ください
・・・彼女達を寵愛する連中が、もろにキャラのかぶるU戸とかを、すんなり起用するはずがない。製作会社は丸投げ、そして駄作シナリオ、手抜き予算で、目も当てられない作品になるかと・・・・はっきり言えば、連中は潰しにかかるでしょう”
・・・植田編成の、オスカー潰し企画第三段階。”奥様は魔女”は、そういった企画ではないかと思っています。
おもにTBSのTVプロデューサーによる、同じようなブレイクの仕方をした、広末とバータレ(オスカ、イエローキャブタレ)の差別待遇について、参考
主題歌は大物なのだが、いまどきコレ??と、日本人全員が疑問を抱く、大映チックな”●●の女”シリーズによる、キワモノあてがい再起不能作戦
ロンバケで頭角をあらわし、ビーチボーイズで決定打
しかし、方や、野島伸司の社会派ドラマ。方や、標準語を喋る関西タレントが出ている、訳のわからない駄作ドラマで再起不能、以後、作品の質に苦しめられつづける。
寿司職人ドラマ、社会派ドラマ=聖者の行進で評価を高める
方や、野島伸司のディープ路線。方や女子陸上選手が、実は男だったという、わけのわからないドラマで再起不能。以後、サスペンス劇場など、キワモノ路線
(以下製作中・・・というか、記事自体ボツになるかもしれません)
2005.01.07 Fri 総論 本当に広末はマスコミの言うように中途半端だったのだろうか?
よくマスコミで唱えられている説に、”広末進学以後中途半端仕事説”がある。素人も、これにやたらと影響されているらしく、似たような意見は、ブログ、掲示板でも結構多く見受けられる。
進学後の彼女の仕事を、ドラマに限って見てみると・・・
- Lipstick 1999
- Summer Snow テレビジョン助演女優賞 2冠(最初の受賞はビーチボーイズ)2000
- オヤジぃ 同上 (3冠)2000
- できちゃった結婚 2001
- 愛なんていらねえよ。夏 2002
- おとうさん 2002
- 元カレ(助演女優賞 4冠)2003
ごく短期間に3冠を稼ぎ、僅か23歳にして、トータルで4冠、これは深津絵里や常盤貴子よりハイペース。ドラマに限ってみても、これである・・・
はっきり言おう。これのドコが中途半端なのだ?
これが、中途半端のそしりをうけねばならぬのなら、いったい、芸能界で、中途半端でない仕事をしてる者とは、誰なのだ?広末が中途半端でない仕事をしたといえるのは、どの程度からなのか?最低でもコレの2倍ぐらいをこなさないと、ちゃんと仕事をしたとはいえないのか?とすると、テレビジョンで3冠×2=ビーチボーイズを加えて、トータルで7冠。深津や常盤を優々と抜いて、木村拓哉と並び、しかも年齢からいけば、木村以上のハイペース・・彼女は、コレくらいの功績を残せて当然なのか?とすると、周囲の要求するレベルが、極めて高い・・ということで、彼女は、ドラマ史上始まって以来の(勿論、木村拓哉など足元に及ばぬ)不世出の人材であるということなのか??
結局、このようなマスコミのまやかしに思わず納得してしまうのは、広末の仕事を、一度も見たことが無い人間くらいなもんであろう。一回でも見たものには、全く通用しないだろうと思う。しかし、見たこと無い者って、結構いるのである。だから、ゲンダイなどの記事を、信じてしまう者が後をたたないのだ。ワカパイや若槻千夏、小倉優子などのグラドルが、演技を全くしていないということを知らない。管野美穂や広末などは、お騒がせヘアヌードタレントか、デビ夫人と同じくワイドショー常駐の住人だとおもっていて、幼少のころから、結構、演技の仕事を多数こなしていたことなど、全く知らない。挙句には彼女たちのことを、小倉優子と同じようなバラドルだと思っている・・演技をほとんどしたことが無いが、グラビア露出は多いワカパイと小倉優子と、演技の経験があるが評価は低く、CMの経験はある、藤原、菊川。演技の経験もあるが、グラビア露出も、CM経験も多い管野や松たか子や深津絵里や広末・・・無知な者は、彼女達を、全部頭の中で一緒くたにしているのである。だから、思いっきり頭が混乱しているのである。これは、ゲンダイ記者や、多くのブログ作者にも言えることである。連中の指摘がなんとなく的を得ていないと感じる理由は、おもにコレである。(っていうか、これ、まえに言った)
話はかわるが、たとえ話として・・
松井秀樹が、評論家に酷評されている・・あれほどの素質がありながら、ホームラン70本も打ててないではないか・・そして、一度も野球をみたことが無い人に対して、松井は評論家ウケがきわめて悪い二流の人物だ、そんなに悪くいわれない、二岡や清水の方が、余程一流だ・・と説明したとしたら、それはインチキであろう。だが、野球を見たこと無い人は、これをあっさりと信じてしまうのである。現に、あたりを見回してみても、松井の酷評は巷に沢山見受けられる、反対に二岡や清水の記事はあまり無い。野球を見たことが無い素人は、これを何よりの証拠とみなしてしまうのである。
野球を少しでも知っている人間ならば、連中は商魂で記事を書いている(清水について書くより、イチローや松井について書いたほうが目立つので売れる)ということをすぐに見抜き、イチローや松井が毎年あそこまでコンスタントに成績を残せたことを、素直に評価することだろう。広末もおなじである。
確かに広末や管野美穂のような芸能人は、ドラマを一度も見たことが無く、ゴシップ誌での彼女達しか知らないタイプの人間にとって、なぜ、いまだに活躍しているのか、理解しかねる人物であろう。
といっても、そういう人でも、”聖者の行進””リップスティック””イグアナの女”などを、一度でもみてみれば、この疑問はたちどころに氷解するのだが・・・要は、知ったかぶりをしてないで、一度でもいいからドラマというものを見てみろ、野球というものを見てみろ・・・・ということであろう。
だが大衆には、その”彼女達のドラマを、一度でもいいから見てみる”という、ごく簡単な行為さえ、なかなか出来ないのだ。プロのマスコミ人でさえ出来ない者が多いのだから・・(っていうか、基本的にマスコミの人間というものは、ドラマというものを、あまり見ない人種である※)。彼女達の評判がいまいちであるため、なかなそこにたどり着けないのだ。反面、ダウンタウン、ココリコ、ドンドコ山口などの、番組を持っているお笑い芸人、菊川怜、藤原などの、CMを持っているバータレ、オスカータレなどは、逆に、あっさりとその領域にたどり着ける。以前”素人の食いつきはよい”といったように・・
彼らがドラマにキャスティングされると、企画の良し悪しにかかわらず、見ようとする者が多い。当然、マスコミ人もこぞって見ようとする※※
※忙しい人間にとって、僅かな記事を書くためだけに、12時間を拘束されるのはしんどい。”聖者の行進”などは、ほとんどの記者は実際に見たことが無く、他者ライターの記事から類推して、多分、こうなんだろうなあ・・的な・・つまり、想像で記事を書いているに過ぎないのだろう。これは、芸能評論家、あるいはドラマ評論家と呼ばれる人種でさえ、例外でない。
つまり、ドラマというものは、記事を確かめたり、意見を求められたりしたとき、確認材料として見るには、余りにも拘束時間の長いメディアなのだ。だから、不当なけなし、ちょうちんなどのでたらめ評論を書いても、映画、書籍などと比較して、ボロが出にくい。前述した理由により、皆、”検証”をおっくうがるからである。藤原紀香はじめバータレが、今まで生き延びてこられたのも、こういった理由がある。
※※マスコミ人もこぞって・・
ドラマファンが真っ先にソッポを向くような、くだらないドラマだったのにもかかわらず、巷の”ハッピーマニア評””明日があるさ評”はやたらと多かったような気がする。
素人の大衆と、典型的な素人の一種である、”トレンドウォッチャー”などのマスコミ人は、ドラマファンとは逆に、真っ先に食いついてしまったということか・・なんかカッコわるう