閉じる


 父親の代から崔家の執事をしているという若い執事が祖母を呼んでくる間、明姫は黙り込んでいた。通されたのは来客用の客室ではなく、祖母の私室であった。
 どうやら、父と異なり機転のきかない若い執事は、祖母に孫娘の他に客がいるときちんと伝えなかったようである。さもなければ、見栄張りの祖母が私室に客を通すはずがない。
 隣に座したユンもまた同様に沈黙を守っている。先刻の話が途中止めになって以来、二人の間にはずっとよそよしい空気が漂っている。祖母は自らの衣服や宝飾品には金をかけるが、屋敷を維持することに対してはたいして関心を抱いていないらしい。
 私室の座椅子は所々破けていたし、文机は愕くべきことに一カ所、脚が取れたのを間に合わせの棒切れを紐でくくりつけたまま使っている。
 片隅に置いてある棚は傾き、その上に乗った青磁の花瓶は縁が欠けた挙げ句、既に枯れた花が挿しっ放しになっていた。
 女主人が女主人なら、女中も女中だ。これは帰り際に女中頭を呼んで厳しく注意しておかなければと要注意事項に付け加えておく。
 明姫はそっと傍らのユンを窺った。彼は背筋を伸ばし端然と座っている。その澄ました横顔からは、何を考えているのか判らないが、こんな悲惨な有様の家内を見て何も感じないはずがない。さぞや不調法な一族だと思われているのだろうと考えただけで、顔から火が出そうに恥ずかしい。
「なるほど、確かに明姫のお祖母さまは、なかなかの倹約家でいらっしゃるようだね」
 唐突にユンが沈黙を破ったので、明姫は横目でにらみ付けた。
「吝嗇で物の道理もわきまえない礼儀知らず―。そう言いたければ言っても構わないのよ」
 その剣幕に、ユンは眉をつり上げる。
「おいおい、いきなり喧嘩越しにならないでくれよ」
 その時、回廊でコホンと小さな咳払いが聞こえ、両開きの扉が開いた。
 二人はまたも顔を見合わせ、口をつぐむ。
「まあまあ、執事がお客さまがいらっしゃるとは伝えなかったものだから、とんだ失礼を」
 その場にはいささかそぐわない華やいだ声が響き渡った。祖母クヒャンの登場である。
 その祖母の言葉で、明姫はすべてを理解した。恐らく来客用の部屋はもう少し金をかけた内装にしているに違いない、と。少なくとも脚の取れた文机や枯れた花はないはずだ。孫娘だから、内輪だし取り繕っても仕方ないということで、私室の方に通したのだろう。
 ユンがやおら立ち上がった。両手を組み、高く持ち上げ、また座って手をつかえて深々と頭を垂れる。目上の人に対する最上級の礼を表す拝礼(クンジヨル)である。
 ユンが拝礼をする側で、明姫も合わせて女性式の拝礼を行った。
 クヒャンは拝礼する二人を満足げに眺めている。ひととおりの挨拶が終わると、祖母は明るい声音で切り出した。
「明姫、随分と長い間、顔を見せてくれなかったのね」
「ご無沙汰して、申し訳ありません。なかなか休暇が取れなかったものですから」
 明姫はこの祖母が幼い頃から苦手だ。やたら派手好きで、自分の身を飾ることしか頭にないような人である。祖父は思慮深く、学識家であった。崔氏は代々、中級官吏どまりの家柄ではあるが、祖父は学問を良くし、何事にも造詣が深かった。
 何故、祖父のような人が派手好きの祖母を娶ったのかは疑問だが、祖父が元気なときは夫婦仲はけして悪くはなく、むしろ似合いの二人に見えた。対照的な二人だったから、かえってうまくいったのかもしれない。
「そうなの? だから、宮廷女官なんて止めなさいと止めたのに、あなたは私の言うことなどきかなくて」
 祖母の果てしないお喋りが始まりそうだったので、明姫は慌てて言った。
「お祖母さま、こちらは友人の李ユンさまです」
 いざ紹介する段となって、何と言えば良いか判らず〝友人〟と言ってしまったのだが、この説明は大いにユンのお気に召さなかったようである。
 明姫は所在なげに前に置かれた茶を手に取った。祖母が来る前、若い女中が運んできたのだ。その十八ほどの娘はユンを見ると、見る間に細い眼を一杯に見開いた。
 小卓に乗せて運んできた茶を出すことも忘れ、いっとき、彼の綺麗な顔に見惚れていた。女に熱い視線を向けられているのには慣れているのか、ユンは女中に愛想の良い微笑みを返している。女中は元からの赤ら顔を更に上気させ、それこそ酒に酔っぱらったような体で、危うく部屋から出るときには脚を滑らせて転ぶところであった―。


 明姫は何となくそれが面白くなく、知らん顔で見ないふりをしていたが。
 それはともかく、ユンは明姫を意味ありげに見つめ、素知らぬ顔で祖母に言った。
「お初にお目にかかります。私はこちらの明姫さんの許婚者です」
 茶をひとくち呑んだ明姫は思わず生温く殆ど出ていない薄い茶にむせた。
「何を言うかと思えば、出任せを―」
「そなたは黙っていなさい」
 が、ユンはさりげなく明姫を遮り、魅惑的な笑みを祖母に振りまいている。
「何と、明姫の婚約者とな」
 祖母の顔が生き生きと輝き始めた。こんなときは、大抵ろくでもない展開になるに決まっている。明姫はもうこの場から逃げ出したいとすら思った。
「それにしても、お祖母さまはお若いですね。私、迂闊にもお祖母さまではなく、お母さまかと勘違いするところでした」
「まっ、年寄りを心にもないお世辞でからかうものではありませんよ」
 口では言いながら、祖母はかなり嬉しそうだ。明姫は頭痛と目眩がしそうになり、額を押さえた。
 確かに祖母は六十前には見えない。男好きのする派手やかな美貌はこの歳になってもさほど衰えておらず、若作りしているせいで四十代といっても通りそうだ。
 今日も深紅のチョゴリに濃紺のチマと二十代の娘が着てもおかしくないような派手な装いである。もちろん、例によって指には幾つもの指輪、髪にはきらきらしい簪がこれでもかというくらい挿してある。
「それにしても、良い男だこと」
 祖母はうっとりとユンを見つめている。祖母の白粉を厚塗りした顔が上気しているのは気のせいだと―思いたい。
 対するユンは黄緑色のパジチョゴリをこざっぱりと着こなしている。こちらも仕立ての良い絹製なのは疑いようもない。鐔広の帽子から顎に垂れ下がっているのは服の色に合わせたのか、翡翠だろう。
 確かに見慣れているはずの明姫が見ても惚れ惚れとするほどの男ぶりではある。
「どこから、こんな良い男を連れてきたの?」
 あまりといえばあまりの言い方に、明姫まで別の意味で頬が紅くなる。もちろん、恥ずかしいからだ。無教養なわけでもないのに、どうして、こういう品のない言い方しかできないのだろう。
「上手いこと、誑かした―いや、捕まえたのね」
 そう言ってから、肩を竦めた。
「どっちの言い方もたいして変わりないかね」
「お祖母さま、良い加減に止め―」
 言いかけたところを脇からユンが止めた。
「良いではないか。私のことなら、気にしなくて良いから」
 小声で話しているから、祖母には聞こえていないはずだ。現に、祖母は上機嫌で喋り続けている。
「あなたのお父さまの官職は?」
「お祖母さま!」
 明姫が咎めるように叫んでも、ユンも祖母もまるで明姫など無視して話し込んでいる。
「父は既に亡くなりました。私は集賢殿で学者をしております」
「そうなのですか。道理で秀でた良いお顔立ちをなさっていると思ったわ」
 祖母は満足げに頷き、明姫に向かって告げた。
「明姫、この方は貴人の相があるわ。集賢殿止まりで終わるとは思えませんよ。きっとゆくゆくは出世なさる」
「お祖母さまは観相もなさるのですか?」
 ユンが愕いて見せると、祖母は年甲斐もなく少女のように恥じらう。
「あら、ほんの真似事よ。私の母が占い師をしていたものだから、私にもその血が流れているのかもしれませんね。もしかしたら、そこの明姫にも素質があるかもしれない」
 占い師は当時、あまり良い職業とは見なされなかった。人は占い師を怖れ敬うが、ちゃんとした真っ当な仕事とは認められない。祖母の母は〝女巫女〟と呼ばれ蔑まれていた低俗な占い師であったという。それが思いがけず下級両班の手が付いて身籠もり、祖母を生んだ。
 その男の妻に実子が生まれなかったため、やむなく引き取られ正妻の子として養育されたのだ。祖母が父親に引き取られた後、その母である女占い師はいずこへともなく姿を消したそうだ。
 誰が聞いても、あまり褒められた出自ではない。
「お祖母さま、余計なことを言わないでちょうだい」
 ついに堪忍袋の緒が切れた。明姫は立ち上がると、袖から巾着を出した。ユンの前で崔尚宮の名前は出せない。黙っていれば、ここが崔尚宮の実家だとは判らないはずだ。


「これは預かり物です。これを渡してしまえば、もう用はないから、私は帰ります」
 どうぞお元気で。消え入るような声で言い、明姫は逃げるように部屋から出た。
 明姫が部屋を飛び出し、クヒャンは眼を丸くしていた。
「まあまあ、相変わらずね、あの子は」
 ころころと笑うと、ユンを見つめる。
「ご覧のとおりの娘です。ふた親を早くに亡くして、わずか六歳で女官になるために宮中に入りましてね。あれで苦労したはずです。賢く優しい娘なのですが、どうも思ったことがそのまま顔に出るようで、それが祖母としては不安なのですよ。どうぞ末永くお側に置いて慈しんでやって下さいませ」
「今のお祖母さまのお言葉、胸に刻みます。こちらそ、良いお嬢さんを妻に迎えることができて、この上ない幸せだと思っています」
 ユンは丁重に応え、立ち上がった。
「それでは、今日のところは失礼いたします」
「くれぐれも明姫をよろしく」
「ご心配ありません。私の生命が続く限り、大切にします」
 ユンはクヒャンに向かって礼儀正しく一礼すると、静かに部屋から出た。
「それにしても凛々しく美しい若者だこと。私がもう三十年若ければねぇ」 
 ユンが居なくなった室で、クヒャンは明姫が聞けばまた怒り出しそうなことを独りごちていた。
「でも、おかしいわ」
 クヒャンは首を傾げ、よく手入れされ紅色に染められた形の良い爪を見つめる。
「あの若者の相はどう見ても、集賢殿の学者などではない。そう、彼の上には鳳凰が見えたわ。大空を悠々と翼をひろげて飛ぶ鳳凰、それから」
 クヒャンはゆっくりと首を振る。
「いずれにせよ、あの男はただ者ではない。先刻の言葉に偽りはなかった。明姫を大切に遇してはくれるだろうけれど、果たして、あの男にめぐり逢ったのが明姫にとって良かったのかどうか」
 クヒャンは重い吐息を吐くと、疲れたように眼を瞑った。そうやっていると、若々しく見える彼女もやはり歳相応に見えた。その時、〝女巫女〟と呼ばれた占い師を母に持つクヒャンは可愛い孫娘の未来に何を見ていたのだろうか。
 
 あまり磨かれていない廊下を小走りに進み、玄関まで出たところで溢れる涙をぬぐった。涙が後から後から溢れ出て止まらない。庭へと降りる階を降りきった時、背後からユンが追いかけてきた。
「明姫」
「放っておいて」
 明姫は頬を流れ落ちる涙を乱暴に手のひらでこすった。
「何で泣くんだ?」
「恥ずかしいわ」
「何が?」
 明姫はキッとなった。
「祖母のことに決まってるじゃない」
 ユンが意外そうな表情で言う。
「どこが恥ずかしいんだ。良いお祖母さまではないか」
「全部、全部いやなの。恥ずかしいったらない。私の曾祖母が占い師だっただなんて、あなたの前でわざわざ言わなくても良いことを言うし」
「別に私は全然気にしてないぞ。占い師のどこが悪い? 職業に貴賎はない。それに、占い師は預言をすることによって人を幸せに導くこともできる益のある仕事だ。何を恥じる必要があるというのだ?」
「職業に貴賤はないですって? それを儒学者のあなたが言うの? この国は身分制度で成り立っているわ。私はそれが正しいとは思わないけれど、国王さま、両班だけが正しくて、それ以外の人は何をしても、たとえ両班に非があったとしても勝ち目はない。そんな教えを唱えているのがあなたたち学者でしょう」
「私は」
 ユンが流石に躊躇する素振りを見せた。
「私は確かに儒教を重んじねばならない立場だが、本来、身分制度は誤った考え方だと思っている。人にも仕事にも貴賤はないんだ。国王や両班だけが正しいという考え方も間違っているし、隷民を金で売買するような非人道的なやり方も撤廃するべきだと信じている」
 明姫は息を呑んだ。彼は今、自分がどれだけ危険な思想を口走っているか自覚はあるのだろうか。
「明姫、私はいずれ、そんな国を作りたいと思っている。この朝鮮が隷民もいない、皆が等しく豊かで幸せに暮らせる国を目指してゆきたいんだ」


 今、この国では、人や国を治めるのは身分制度だと考えられている。でも、本来、治世は人の価値を決めて身分という固定枠に縛ることではない。
「国を治めるのは法だ。しかも、誰か―一部の特権階級が恩恵を蒙るような歪んだ法ではなく、誰もが平等に権利を持てる法を作りたい」
 ユンはきっぱりと言った。
「判ったから、ユン。幾ら何でも人の耳のある場所でそんな物騒なことを言っては駄目よ。誰が聞いているか判らないでしょ。役人に訴えられたら、捕らえられて、どんな酷い罰を受けるか知れたものではない」
「明姫は私の身を案じてくれるのか?」
「あなたが斬首刑になるところは見たくないわね」
 こんなときなのに、ユンは心底嬉しそうに笑っている。
「素直じゃないな、私の可愛い未来の奥さんは」
「誰が奥さんですって? 私はまだ、あなたの奥さんじゃないわよ」
「だから、未来のって言ってるだろ」
 相変わらずの二人は、他人が聞けば痴話喧嘩にすぎない言い合いをいつまでも続けていた。

 結局、二人は適当に町の市を眺めて回った後、ユンの隠れ家に立ち寄った。途中、露店で買い求めた惣菜をユンが甲斐甲斐しく小卓に並べる。
 キムチ、鶏肉の蒸し焼き、もやしのお浸し、揚げパン。即席にしては結構なご馳走だ。
「美味しそう」
 歓声を上げる明姫を、ユンは笑いながら眺めた。
「そなたはその歳で色気より食い気なのだな」
「美味しいものを食べるのは好きよ。幸せな気分になるもの」
 明姫が早速揚げパンに囓りつくと、ユンは苦笑した。
「少しは私の前でしとやかにふるまおうという気はないのか?」
「生憎だけど、全然ない。猫を被っても、いずれバレちゃうもの。本当に結婚する気なら、長い年月を一緒に暮らすわけでしょう」
「まあ、な」
 ユンはしばらく唖然と明姫を見つめ、鶏肉の蒸し焼きを手にした。自分が食べるのかと思いきや、手でむしって小皿に取り分けている。
「ほら、今度はこっちだ」
 箸で摘むと、明姫の口に運んでやった。
「美味しい」
 明姫はユンに食べさせて貰い、ご機嫌だ。
「美女にご馳走とくれば、やはり、これがなくては」
 ユンが出してきたのは、何と酒だった。
 明姫は眼を剥いた。
「愕いた。一体、いつどこで買ったの?」
「ふふん、ユンさまを甘く見てはいかん」
 ちゃかりと安物の酒を調達していたようである。
「少しだけなら良いだろう」
 ユンは杯を二つ持ってくると、一つには手酌でつぎ、明姫にもついでくれた。
「そなたも呑んだら、どうだ?」
「昼間からお酒なんてねぇ」
 やはり、明るい中からの飲酒には抵抗がある。
「そなたの酔ったところを一度見てみたいな。酔わせてみれば、いっそう色っぽくなるかも」
 ユンの手が伸びてくる。
「明姫の身体はやわらかい」
 その手が腰から尻にかけてそろりと撫で上げたので、明姫はピシャリと叩いてやった。
「今はまだお昼なのよ」
「そなたはやけに昼に拘るな。ならば、夜なら良いのか? では、今夜また、二人きりで過ごすのも良いな。そなたさえその気なら、祝言よりも前に深間になっても私は一向に構わないぞ?」
 と、また不埒な手が伸びてこようとしたので、明姫はまた軽くその手を叩いた。
「まったく、油断も隙もない助平ね、ユンは」
「助平とは酷い物言いだ。傷ついた、生まれて初めて女から助平と言われてしまった」
 それからしばらくユンは一人で酒を飲んでいた。食べる物は食べずに、ひたすら杯を傾けている。もしかしたら、ユンは存外に酒豪なのかもしれなかった。世の中には幾ら呑んでも酔わないという奇蹟のような人間がいるものだ。
 現実として、今の彼は既に買ってきた酒瓶を殆ど空にしてしまっている。が、ユン自身は殆ど素面のときと変わらない。辛うじて眦が少しだけ紅く染まっていて、それが紅を眼許にはいたようにも見えて、凄く色っぽい。
 男の色香というものが迫ってくるようで、元がかなりの美貌だけに凄艶ささえ漂っている。


「明姫」
 改めて名を呼ばれ、彼にすっかり心奪われていた明姫は慌てた。
「はい?」
 その拍子に鶏肉を喉に詰まらせて、むせている。ユンが盛大な溜息をついた。
「とりあえず話より水を飲め」
 水の入った椀を手渡され、一息に飲み干す。
「ああ、助かった。死ぬかと思った」
 ユンが声を立てて笑う。
「今日は知らなかったそなたの一面が色々と見られて興味深い」
「で、何の話なの」
 明姫が話を振るのに、ユンは頷いた。
「お祖母さまのことだ」
「そのことなら話は済んだ。もう良い」
「良くない」
 ユンは、二個目の揚げパンを取ろうとした明姫から、さっと取り上げた。
「あっ、私の揚げパン」
「きちんと話をしたら、揚げパンは返してやるから」
 明姫はむうと頬を膨らませた。
「まるで子どもだな」
 ユンは明姫の頬をいつものようにチョンとつつき、また笑った。
「お祖母さまをもう少し大切にしろ。それから、目上の方にはもっと敬意を持って接しなければならない。後宮に長年いるそなたがそれを判らぬはずはないと思うが」
「そこまであなたに指図される憶えはないわ。あの人はいつもああなのよ。相手が誰であろうと、よく考えもせずに言いたいことをぺらぺらと話すの。尊敬なんて、できない」
 プイと顔を背けた明姫にユンが強い口調で言った。
「良い加減にしないか、それがお祖母さまに言う科白か?」
「だって、あの人は」
「あの人などという呼び方は止めるんだ。ちゃんとお祖母さまと呼ぶんだ」
 きつい口調で言われ、明姫は渋々〝判ったから、そんなに怒鳴らないで〟と呟く。
「そなたのことを心配されていたぞ」
「誰が」
 依然としてあらぬ方を向いたままの明姫である。それでも、ユンの静かな声が心に滲みた。
「お祖母さまに決まってるだろうが」
「あの人―お祖母さまが私のことを心配してた? あり得ない」
 ユンに睨まれ、慌てて途中で言い直す。
「そなたが部屋を出ていった後、私に直々に言われた。そなたのことを末永くよろしくと」
「―嘘でしょ」
「私が嘘を言って、何か得があると思うか?」
「ないわね」
「そう思うなら、少しは反省することだな。お祖母さまはこうもおっしゃっていたぞ。明姫は賢くて優しい娘だが、思ったことがそのまま顔や態度に出るから心配なのだと言われていた」
「何、それ。まるでお祖母さま自身のことじゃないの」
 明姫がまた膨れるのに、ユンがほっぺたをつつく。
「気安く触らないで」
「私は未来の良人だから、特別にそなたに触れる権利があるんだ」
「変な理屈」
「そなたとお祖母さまはよく似ている。明姫は気づいていないようだがな」
「まさか。冗談言わないでね」
 ユンは笑いながら首を振った。
「お祖母さまは若い頃はさぞかし美人だったろう。もちろん今もお綺麗で若々しいけど、昔はあまたの男どもが求婚したのではないか? お祖母さまを射止めたお祖父さまは幸運だ」
 明姫が低い声で言った。
「何が言いたいの? くだらない話ばかりしないで」
「そなたは美人のお祖母さまにそっくりだ。十五歳でそれだから、二、三年経てば、花がひらくように艶やかに咲き誇るだろう。私はそなたを花開かせるのが愉しみだよ」
「いやあね。色ぼけた爺ィのようなことを言わないで」
「色ぼけた爺ィか。こいつは良い」
 ユンは何がおかしいのか、腹を抱えて笑い出した。
「勝手にして」
 明姫は笑っているユンの手から揚げパンを取り戻し、勝手にぱくつき始めた。
「明姫、私はああいうお祖母さまが欲しくても、側にいてくれなかった」
 ふとユンが笑いをおさめ、真顔になった。
「私の子どもの頃の話は少ししただろう? 父が早くに亡くなり、母と二人だけだった。その母を私は愛せなかった。母は私に母なりに精一杯の愛情を注いでくれたのだとは理解できたが、母の過剰な愛も愛の示し方も、幼かった私には重すぎた。たぶん、母の愛を受け容れられなかった私以上に、母は傷つき悩んだはずだ」



読者登録

megumi33さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について