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1 レイファスの言い分

  



 その日の夕方、レイファスは馬車の中で数時間揺られ、貴族の中ではそこそこ広い領地内にある屋敷の、樫の木に飾り彫刻の彫られた大きな玄関前で、侍従に数日過ごす為の着替えの詰め込まれたトランクを持たれ、侍従の頷きに頷きで応えた。

かっ!かっ!

来訪を知らせる鉄の輪を二度、背の高い侍従が叩くと、慌ただしい足音と共に召し使いが扉を開けて覗く。

侍従と荷物。
そして…小さなレイファスの姿を見つけた途端、その屋敷の召使いは奥へと飛んで行き、叫んだ。

「奥様!レイファス様がお付きです!」

そしてレイファスはファントレイユの母親、セフィリアの出迎えを受けた。

レイファスの母親は体調を崩して以来、病気がちになり、いいかと思えばまた悪く、療養地で過ごす事が殆どで、幼い彼は屋敷で乳母の手に預けられる事しばしばだった。

父親は彼の母にぞっこんだったので、任務から帰るとレイファスの相手もそこそこに療養地に飛んで行く。
だが母親はレイファスを溺愛していて、療養地から帰るとその埋め合わせのように決まって、息子を抱きしめて離さなかった。

…だがとうとうレイファスの母親、アリシャの体調は悪化。
彼女は姉、セフィリアに息子の世話を頼み込んだのだ。

セフィリアは知的な美人で、女性にしては少し背が高かった。
…まあ、レイファスの母親(アリシャ)は随分小柄なので、一般的には大きいとは言い難いんだろうが。

セフィリアは五歳になったばかりのレイファスの手を握ると、部屋へと招き入れた。
セフィリアの、心から労る感情が手から伝わり、今度ばかりはレイファスの母親アリシャはもしかして命の危機すら迎えるかも。
そうセフィリアが、心配している様子が解った。
彼女もレイファスと同い年の、やはり赤ん坊の頃体の弱かった息子ファントレイユで、随分心を痛めたので。
幼く心から愛している息子を残してこの世を去る事になったらとても辛いだろうと、彼ら親子に心を寄せている様子に、レイファスは何も言えなかった。



部屋の戸口から、ファントレイユが姿を現した。
母親から事情を聞いているのか、いつも人形のように大人しい彼はやはりとても静かに、心配そうな表情を浮かべてレイファスを迎え入れた。

レイファスは顔を上げて、頷いてみせた。
ファントレイユはあどけないピンクの唇を、ほんの少し開いた。
少女のような容貌だと、余所の人には言われていたが、レイファスはそうは思わなかった。
あまり感情を出さないファントレイユは性別を超えて、とても綺麗な人形のように見えた。

自 分のくっきりとした青紫の瞳や、明るい色のはっきりとした鮮やかな栗毛と違って、本当に淡い色のブルーの瞳で、髪の色も淡い栗色にグレーがかっていて、 ファントレイユがすました顔なんてするとその淡い色の髪や瞳の印象で人間離れして見え、どこか人外の者のように神秘めいて見えた。

ファントレイユはいつも決まって、母親の前でそれは大人しかった。
その時もセフィリアが気遣う言葉を投げかけている間、じっとしていた。

知ってる癖に…。
レイファスは軽くファントレイユを睨んで思ったが、彼が母親を遮る事は無さそうだったのでレイファスは少し、あくびをかみ殺す様子を、して見せた。
途端、セフィリアの言葉の内容が変わる。

「…とても、疲れているのね?」
レイファスは頷き、言った。
「いつもみたいにファントレイユの部屋に行って、いい?」

セフィリアは小さなレイファスに屈んだ。
「…でも今度は長く泊まるから、貴方の部屋を用意させたのよ?」

だがレイファスは聞く気は無かった。
とても悲しそうな顔をして、つぶやく。
「でも僕、この屋敷ではファントレイユの部屋が一番落ち着くんだ」

セフィリアは直ぐに折れた。
そのいたいけな、病気の母親と離れて心細い気の毒な少年の気持ちを、気遣ったのだ。
「…いいわ。
ファントレイユと一緒にいらっしゃい。
後で夜食を届けさせるから」

レイファスは頷いた。
一刻も早くこの息詰まる気遣いから解放されたくて、自分の部屋に促すファントレイユの後に付いて行った。

部屋に入るなりファントレイユはやはり気遣う様子を見せ、レイファスはつい胸の内を晒した。

「よしてくれ。
君の母親がそれは大事だと大袈裟に君に言って、君は母親のいい子ちゃんだから同じように僕に同情してるんだろうけど」

あんな風に気遣われるなんてうんざりだという顔を、でもファントレイユは強がりなのかどうか、気遣う表情を崩さず伺ったので、レイファスは続けた。

「家の乳母と対決しなくて良くなったと思ったら、今度はセフィリアだ。
君が唯一の息抜きなのに。
味方になってくれないのか?」

ピンクがかった肌に赤い唇をして、くっきりとした青紫の瞳も、鮮やかな栗毛もそれは綺麗でとても可愛らしいレイファスの唇からそれが漏れても、ファントレイユはまだ少し、眉を寄せて心配げだった。

レイファスはとうとう、タメ息を付いた。
「…アリシャは親父が面倒見てるし、僕は僕の面倒を見なくっちゃいけない。
セフィリアと来たら、女の子と君を絶対!間違えてる。
僕の所のアリシャもそうだけど、セフィリア程管理がきつくないぞ!」

ファントレイユはようやく、ほっとした表情を見せた。
「だって…彼女は僕が、噴水を浴びただけでも熱を出すと思ってる」

レイファスはさっさと寝台に座ると、ファントレイユも横に座った。
レイファスはファントレイユの、真っ白な肌のとても綺麗な横顔を眺めて肩をすくめた。

四歳の夏の事だった。
やっぱりここに母親アリシャと遊びに来ていて、暑かったしファントレイユに水浴びしようと誘った。
庭の中央の噴水が盛大に水を、吹き出していたので。

レイファスはさっさと服を脱いで水に浸かるが、ファントレイユと来たら、ぐずってた。
で、ついレイファスはファントレイユの腕を掴んで、引っ張り込んだ。
ファントレイユは服毎ずぶ濡れになって、その後、仕返しに水をかけてきたからその仕返しを、した。

が直ぐにセフィリアが飛んできてファントレイユを連れ去り、着替えさせて髪を必死で、拭いていた。

「真夏なのに」
レイファスがぼそりと言うと、ファントレイユも肩をすくめる。
「でもセフィリアは僕が熱を出したらと、それは必死だったんだ」

自分もそうだったが、ファントレイユも領地の外には絶対、出して貰えなかった。
遊び相手は領地に居る使用人かその子供達で、皆主人の子息に対する態度を叩き込まれていたし、絶対危ない遊びは禁止。
汚い言葉遣いも不潔な事も、ダメだった。

最もレイファスの方は母親がしょっ中療養所に行くので、目を盗んでは屋敷の使用人達の暮らす小さな村へと遊びに出ていた。

ダメだと言われた事は片っ端からし、村の大人や子供達にも堅く口止めするのを忘れなかった。
レイファスの母親は息子に甘かったし、レイファスが甘えた口調で優しくすると、大抵のお咎めからは逃れられた。
唯一レイファスの裏表のある性格を知り尽くし、猫なで声が通じない相手は、乳母だった。
乳母は母親が病気がちで甘やかし放題の我が儘息子に、母親の留守中、敢然と立ち向かった。
夕食が気に入らないと食べないと、その後の全部の食事を抜いた。
壊れたおもちゃの代わりが欲しいと言うと、壊したのは誰かを問われ、物は大事にするものだと、レイファスが代わりのおもちゃを欲しがらなくなる迄言い続ける。

常にレイファスと乳母の行き詰まる対決で、使用人達はその事を知っていて、レイファスがいかに彼女の裏をかくか。言いくるめるかに日夜知恵を捻るのを、目撃していた。

今度は長くなりそうだと肩を落として父親が話し、レイファスはファントレイユの屋敷に行く荷造りをし、屋敷を出る際見送る乳母に、舌を出してやった。
だが乳母の瞳は、こう言っていた。

“セフィリアは私同様、それは手強い相手ですからね”
でも、それは確かにそうだった。
ファントレイユを見ていれば、良く解る。
セフィリアは大人しく、いつも清潔で馬鹿騒ぎをせず、お行儀のいい自分の一人息子が大層自慢だったのだ。

だがレイファスにとって唯一の救いは、セフィリアがレイファスの裏表を知らず、猫なで声が通用する点だ。
しかもその母親で彼女の妹アリシャは、重態だった。

ファントレイユもセフィリアもそれは心配していたが、レイファスにはどうしてもアリシャが亡くなるイメージが無かった。
多分今年の冬がうんと寒くて療養地に出向けば良かったのに、最近元気だからと無理にこの地に留まったせいだと、解っていた。
しかも、レイファスの親父は可愛らしく可憐なアリシャに夢中だったから、妻の具合が少しでも悪いとそれは大袈裟に騒ぎ立てる。

…確かに、いつもよりは青い顔をしていてひどく弱ってはいた気もするが、アリシャが療養地に出かける時、別離の予感はしなかった。

…レイファスは大好きな毛皮の騎士、愛犬のローダーを、四歳の時亡くしていた。
ローダーは小さなレイファスよりうんと大きく、利口で優しくて、いつも甘えさせてくれたレイファスの一番の親友だった。

が、レイファスより年輩のその犬はもう年を取っていて、とうとうレイファスが四歳の冬、母親が療養地に出かけている間に、亡くなってしまった。

ローダーの側を離れて自分の寝台に戻る時、その優しかった犬は茶色の、とても暖かい瞳でレイファスを見つめた。
幼いレイファスはその意味が、解らなかった。

明け方だった。
どうしても寝付かれずローダーを覗いたが、ローダーは冷たくなっていた。

レイファスは泣き続け、ローダーの側を離れなかったから、屋敷の執事は慌ててセフィリアとファントレイユを呼んだ。
ファントレイユが彼の側に来てようやく、レイファスはローダーを離した。
ファントレイユに抱きついて泣き続け、セフィリアに命あるものは必ず終わりを迎えるんだと諭され、でもレイファスの感情は納まる事無く、冷たくなったローダーの事が悲しくて、代わりに暖かい、ファントレイユの体に抱きついて泣き続けた。

半日それを続けたと言うのに、ファントレイユときたら付き合った。
日頃、母親の厳しい管理で自分を抑えるのに馴れているのか、単にお人好しなのかはレイファスにはその時、解らなかったが。

ファントレイユがいつ迄たっても、疲れただとかお腹が減っただとか、いい加減にしろ!と言い出さなくてようやく、レイファスは顔を上げてファントレイユを見た。
ファントレイユはその人形のような綺麗な顔を傾けて、ほっとしたように見つめて来るものだから、もしかてファントレイユはとても男の子で、自分が女の子のような顔立ちだから、庇い、大事にする相手と勘違いしてないか。
と思う程だった。

事実領地の遊び相手の、とても利発な少年の小さな妹に、花を摘んでやったり、転びそうになると慌てて助けたりする時はちゃんと、人形で無く男の子に見えた。

幼い彼女がファントレイユに構われて笑顔になると、ファントレイユは途端、それは誇らしげな微笑みを浮かべていた。

だからその時だってファントレイユも小さかったと言うのに、レイファスが泣き続ける間じっと我慢して、顔を上げる迄付き合ってくれた。
レイファスの方から聞こうとしたが、ファントレイユが先に言ったのだ。
「お腹が、減ってない?」
とても優しい、表情を向けて。


…レイファスはこの後暫く思案した。
彼は二通りの付き合いをしていた。
一つは地を出して、共犯者にする付き合い。
もう一つは演技し倒して、甘えて自分の我が儘を、通す付き合い。

折角、ファントレイユから少女のように思われてるなら、彼に甘えてやれば自分の意見は全部、通るはずだ。
しかしファントレイユはとても利口で、レイファスのとんでもないやり様に薄々感づいてるし、いい子のふりだけする、やりたい放題のやんちゃ坊主だと言う事がバレるのも時間の問題だろう。

それでレイファスは惜しいとは思ったが、ファントレイユを共犯者にする付き合い相手に、切り替えたのだった。

レイファスはそれ以来、ファントレイユには本音をブチまけるようにした。
ファントレイユは最初、目を丸くしていたようだが、レイファスの地の性格が実は、見かけ道理のお行儀のいい可愛い子ちゃんで無く、いたずらも愉快な事も暴れ回るのも大好きな、普通の手に負えない悪餓鬼だと言う事を、解らせる事に成功した。

「よく、息がつまらないな?」
お人形のような彼にそう言うとファントレイユは返した。
「…よく、ころっと変われるな?」

レイファスは思い切り、肩をすくめた。
「お行儀、お行儀、お行儀!
なんだって女親ってお行儀にこだわるんだろう?
僕は女の子じゃ無いんだぞ?
だいたい男の子ばっかの間で大人しく、可愛らしくなんてやってられるか?
誰が一番高く迄木に登れるとか、誰が猛犬の目を盗んでりんごをたくさん盗むだとか。
そっちの方がうんと重要なのに!」

レイファスの言い切りに、ファントレイユは目を丸くした。
「りんごを盗むの?」
「……ああ…。
君は言いつけ通り、領地から出たりはしないんだっけ?」

「言いつけに、そむいてるの?」
レイファスは目を、丸くした。
「…言いつけ通りにずっと、従ってるの?」

「…だって、言いつけは守るものだろう?」
「…言いつけなんて大人の都合を子供に押しつけてるだけだから、普通の子供は破るのが当たり前だ」

ファントレイユは暫く俯いて、考え込んだ。
「君、お人形みたいだと思ってたけど、本当にセフィリアのお人形なんだな?」
そう言ってやると、ファントレイユが顔を上げた。

レイファスより少し、大柄だった。
ファントレイユのとても綺麗な顔立ちを覆う、ふんわり柔らかな淡い色の髪が肩の上で、揺れた。

「…僕が、人形みたい?どうして?」

レイファスはファントレイユの腕を掴むと、大鏡の前へ連れていった。
小柄な自分よりも幾分背の高い、淡い色の髪をしてクリーム色の衣服のとても栄える、それは綺麗なファントレイユの姿がそこに、映っていた。

「…自分を見て、そう思わない?」
ファントレイユは自分の姿を眺めたものの、まだ腑に落ちないようだった。
それでレイファスはようやく、セフィリアには彼の母親アリシャのように、綺麗な人形が大好きで、集めて飾って眺める趣味が無い事に気づいた。

「…君の屋敷に人形は、無かったな………」
ファントレイユは頷いた。
「…あんなものより腕のいい画家の絵を飾るべきだし、その方が絶対心が潤うってセフィリアは言っていた」

ファントレイユが言うので、レイファスは頷いた。
「君のお母さんは文学少女で、少女趣味は無いもんな」

「君は、随分色んな言葉を知ってるんだな?」
「家庭教師が色んな事を話してくれるし。
彼は大抵僕の話を聞いてくれて、それについての意見を言ってくれる。
絶対自分の考えを押しつけたりせず、必ずどう思う?って。
僕の意見をちゃんと聞いてくれるんだ。
凄く、ほっとする。

でも女は駄目だ。
人の話なんてそこそこで、すぐ自分のやり方を押しつけてくる。
心配だとか怪我をするからとか言って」

「…でも、心配かけると辛くない?
とても悲しそうで一生懸命な姿を、見たりすると」

「セフィリアは熱を出した君もいつも、看病していたからそう思うの?」
ファントレイユは、大人しく頷いた。
「…元気になるといつも、ほっとしたみたいに力一杯、抱きしめてくるから、心配かけないようにしたいんだ」

レイファスは母親想いのファントレイユは随分見た目と違って、ちゃんと男の子なんだ。とは思ったが、言った。

「気持ちは解るけど。
男の子としてちゃんとこの先、やっていけるようになる事が一番、親孝行だと思うな」
「親孝行?」
「セフィリアの心配じゃないって事!
君だって、軍教練校に入校する気なんだろう?
あそこは男ばっかだし、騎士志願者なんて洗練されている者なんてほんのわずかで、乱暴者ばっかだって。
僕もそうだけど、君もあんまり体の大きな方じゃないし。
うんと剣の腕を磨くか、相手を言いくるめるか。
ともかく殴られないよう身を護れなきゃ、学校を自分から、止めなきゃならなくなるしそれは凄く、不名誉な事だと思う」

「不名誉?」
「みっともないって事さ!」

そう言った時、ファントレイユは青くなった。
どうやら彼は、みっとも無いのは嫌いらしい。



2 ファントレイユの言い分





 ファントレイユは、レイファスを見た。
自分が散々セフィリアに心配をかけてきていたので、レイファスもさぞアリシャの事が心配だろうと思ったけど、違うようだった。

 ファントレイユはローダーの時、あの気かん気で気の強いレイファスが半日泣き続けたのを目撃して以来、彼を気遣う癖がついてしまった。
レイファスときたら初めて逢った時絶対!女の子だと思う程可愛らしくて可憐だったのに、二人きりになるとてんで悪餓鬼だった。

 母親達が集い、そのいかにもお上品そうな彼女達の友達がやって来るともう、レイファスの苛立ちは頂点だ。
大抵彼女達の前に引き出され、見せびらかされ、付き合わされる。

レイファスは本当に女の子でも滅多に居ないくらいそれは可愛らしい顔立ちで、彼に微笑んだりされると大抵の相手はその愛らしさについ、顔がほころぶようだった。
それがアリシャの自慢で、彼女達はその可愛らしさにやはり、夢中になる。
でも、当の本人は……。

可愛らしく微笑んで目当てのお菓子を貰うと、次にしたのは召使いの隙をどこで突くかで、召使いがお茶を配る時を狙い、こっそりと固くなったパン屑を投げて注意を引く。
上手くやれると召使いはそのお茶を、やって来た気取ったご婦人の、胸の上に落とすのだ。

 召使いにお茶をかけられ大騒ぎになる様子を、レイファスはその愛らしい顔でそれは愉快そうに笑ってみせ、ファントレイユは幾度もそれを目撃してきた。

最初はびっくりしたけれど、だんだん馴れてきた。
レイファスは決まって、その騒ぎの後に
「外に遊びに、行きたいんだけど」
と母親の腕にまとわりつくように身を寄せて、可愛らしく甘える。
母親は騒ぎに気を取られ、愛らしい息子に大抵色好い返答をするが
「危ない事はしないのよ。遠くに、行かないでね」
と釘を差すのを忘れなかった。
…レイファスがその言いつけを、守った試しなんか無かったが。

 
ファントレイユの家の領地の外れぎりぎり迄遠出して、立派な背の高い門に阻まれても、その隣に立つ大木に登ろうと言い出す。
ファントレイユはこの大木はいつも、園丁に見張られていると告げたがレイファスは登り始める。
やっぱり園丁のトレッドが飛んでくるが、レイファスは枝に捕まったまま、自分の大切なレースのハンカチが、風に飛んで枝に引っかかったのだ。と可愛らしい顔を歪め、嘘泣きをした。

木の下でファントレイユはそれは呆れていたが、トレッドは自分が何とかします。と木に登り、上で枝に掴まる愛らしい少年を抱きしめては下に降ろし、今度は自分が、レイファスの捕まっていた枝迄登るのである。

「この辺りですか?」
「もっと、上」
レイファスが言うのを聞いて、ファントレイユは小声で尋ねた。
「だって、レースのハンカチなんて、引っかかってないのに」

レイファスは艶然と笑うと、そっとファントレイユの手を引いてその場から逃げ出した。
トレッドを放って。

 ファントレイユはレイファスが、何喰わぬ顔で屋敷に戻り、正直者のトレッドがすまなそうな顔で、ハンカチは見つからなかった。と母親達の居る場に報告に来るのを聞いて、それはがっかりした様子で肩を落として見せるのに、更に呆れた。

そしてあろう事か、ありもしないハンカチを無くしたトレッドに
「一生懸命探してくれて、ありがとう」
とそれはしょんぼりして、告げるのである。

場の同情が一斉にレイファスに集まる様子に、ファントレイユはもう何も言えなくなっていた。
 
 夜、一緒に寝台に潜り込む彼に尋ねる。
「みんなを騙して、楽しいの?」
レイファスはファントレイユを、ちらと見たがつぶやいた。

「…木に登るのを邪魔したり、その外へ出てはいけないなんて禁止したりする相手にどうして手加減しなきゃいけないんだ?」

本人はでも、自分の抗議は随分と甘いし、面と向かって戦いを挑んだりしなかったし、相手を傷つけてもいない。と言いたいようだった。
勿論、レイファスのやり方はその場を丸く収めたし、木に登った咎めも無く、ありもしないハンカチをなくしたトレッドも、責めを負わなかった。

ファントレイユはため息を付いた。

が、ファントレイユはレイファスが自分のしたい事を阻む相手に容赦無く、この可愛らしさを武器にし騙し倒す様子を、この後ことごとく目撃する羽目になるのである。

 その内、母親の友達達が自分の息子らを伴って訪れるようになって以来、二人はますます居心地が悪くなっていた。

彼女達の息子らはそれは容姿の綺麗な二人が、母親達に大層受けがいい事に嫉妬した。
彼らの時には再三もっとお菓子が欲しい。とねだっても許可しなかったのに、レイファスが可愛らしくお願いすると途端、許されたりするのに不満を持っていた。

 それで子供達だけになった時、ひどい嫌がらせをした。
泥の入った飲み物を、飲ませようとした時なんかレイファスは怒りもせずにそれを受け取って口に運んでみせる。

彼らはそれを飲んだレイファスを笑い物にしたかったようだが、レイファスは飲み込む直前、それを彼らの衣服に向かって引っかけ、ファントレイユの腕をさっと掴んで駆け出した。

 連中は、追って来たが、レイファスは安全圏。
つまり母親達の群に、逃げ切った。

ど たどたと、血相を変えて追いかけてくる野蛮でやんちゃそうなその息子達は母親から見ると眉を潜める存在で、追いかけられたレイファスとファントレイユの上 品で可愛い姿はそれは可哀想に見え、彼らに味方して野蛮な追っ手に厳しく注意、してくれたりしたから、息子達は二人をもっと、嫌いになった。

「…だって、レイファスが僕の服に、飲み物をかけたんだ!」

彼らの抗議に対してファントレイユは
『その飲み物に泥を入れたろう?』
と糾弾しようとしたが、レイファスは、彼の服を掴んで止めた。

母親達がレイファスを見るとレイファスは途端、瞳を涙で潤ませ、つぶやく。
「…手が、すべったのに許してくれないんだ…」

やっぱり、場の同情はレイファスに一斉に集まった。

 母親は乱暴な息子達に、レイファスのした事を許せない、心の狭い子供だ。と彼らに言ったし、その上レイファスが投げて床に散った飲み物の後始末を彼らに命じたりしたからもう、彼らの怒りは頂点だった。

「…どうして本当の事を、言わないんだい?」
ファントレイユが尋ねると、レイファスは肩をすくめる。

「母親達は優雅な時間を過ごしたいのに、よりによって泥の入った不潔で野蛮な飲み物だどうだに、煩わされたいもんか!

第一僕が失敗した時、奴らが目くじらたてる。と大人達に示しといた方が、今後いつでもあそこに逃げ込めるじゃないか」

ファントレイユは目を、丸くした。
「…じゃあ、あいつらまた嫌がらせをすると思ってるの?」
レイファスは、とても性格のいい領地内の子供としか付き合った事がないファントレイユに、呆れた。
「…ああいう子供は、絶対これからずっとひどい嫌がらせをすると思う。
自分達が僕達より優れていると、僕達に思い知らせる迄」

 でも実際その通りだったし、レイファスはいつでも先手を打った。

レイファスがそれはうんざりすると日頃言っていた、二人を猫可愛がりするご婦人達の元へと毎度逃げ込む事に成功し、子供達は二人が、綺麗で大人しくて可愛らしいのに大層嫉妬して性格が悪い。と、彼女達に思われたのだった。

自分のあまり好きでないご婦人達の好意を使って自分の株を上げる事をどう思ってるのかレイファスに尋ねる時、彼は決まって
「…いつも女の子扱いされてうんざりしてるのに付き合ってるんだ。
これ位は返して貰って当たり前だろう?」
と、駆け引きのようにそう言う。

でもファントレイユは本当の真心とか思いやりとか、愛情は?
とレイファスに聞きたかったが、彼の中では大抵自分のしたいようにさせてくれる相手か、そうでないかが決め手のようだった。

 それに現実はどうやら、レイファスの言うとおりだと言う事に気づく。
子供達はレイファスとファントレイユに、がつんと思い知らせ、自分達が上だと、示したいようだったから。

がまだ母親が全世界の支配者の彼らには、可愛らしい容姿を武器にしたレイファスに、勝ち目は無いようだった。

 ある日、ご婦人達が新参者を連れて来ていた。
男の子供ばかりを持つそのご婦人達が
『男の子が、どれ程手が焼けるか』
という話題に飽きたのかと、レイファスは思ったようだった。

そのご婦人の子供は、女の子だったので。

場の注目は彼女に、集まった。
だって母親達は皆、女の子供が欲しいと思っていたから。

彼女は母親達に取り囲まれてちやほやされるのに鼻高々だったし、レイファスやファントレイユを
『女の子のまがい物』と
ふんと鼻を鳴らし、得意そうに見返した。
男の子達はいっせいに、レイファスをやり込めたように、にやにや笑って見る。
ファントレイユはそっとレイファスを心配げに見たが、レイファスは冷静だった。

 その場には珍しく彼女らの内の一人の、身内の甥が来ていて、若く
 て見目が良くて品のいい彼もそれは、皆にちやほやされていた。

レイファスはお菓子のバスケットを持って彼に差し出し、それは可愛らしくにっこりと笑ったし、時折、ファントレイユを連れては彼の側で話をねだった。

彼が、可憐なレイファスと人形のように綺麗なファントレイユに圧倒された様子を見せ、実際の女の子よりも容姿は二人がダントツ綺麗だ。と感じている様子がその場に、伝わった。

“輪の中心”だったその子は女の子というだけで、美しいのは二人の方で、女の子なのに男の子に劣る容姿だなんて気の毒に。と言う視線を
彼から投げられて、女の子は一瞬、泣きそうな表情をした。

ファントレイユはフェミニストだったから、どんな性格だろうと女の子を泣かせる事に罪悪感を覚えたが、レイファスはその様子を見、男の子達にたっぷりと、余裕の微笑を返したのだった。

二人だけになった時、ファントレイユがレイファスの腕を引いて叫ぶ。
「あの子、泣きそうだった!」
「だから?奴らの手先だぞ?」
「…でも、女の子なのに!」

「女の子だって、手先だって事が、解らない?
どっちが重要なんだ!
手先だって事の方が問題だろう?」

ファントレイユはまだ何か、言いたげだった。
「…君だっていい加減気づいたらどうだ?
母親達がちやほやしてくれているのは、女の子より君が綺麗だからだ。
いわば彼女はライバルなのに」

ファントレイユの胸に、でっかく太っとい、杭が突き刺さった。

 レイファスはファントレイユが、人形のような外観に反し中味はとても男の子で、女の子とか小さく弱い相手を庇い、彼らが自分に頼って感謝の視線を向けてくれる事がどれ程嬉しく、ファントレイユにとって誇らしいか知っていた。

きっと子供の頃、いつも熱を出しては母親に庇われていた反動で、自分が今度は庇う立場に立たされるとようやく、一人前になった気分に成れるんだろうな。とは思ったが。

 ファントレイユは暫く落ち込んでいたし、それ以来鏡があると決まって自分の姿を眺めては、普通の男の子と比べてそれは綺羅綺羅しい自分の容姿にため息をついて俯いたし、レイファスの家の人形を、しげしげと眺めたりしていた。

つい、そんなファントレイユの様子にレイファスは
「同じ色のドレスを着たら、この人形と君はそっくりだ」
と言うとファントレイユはますます、そのとても綺麗な人形を見て青冷める。

彼は思わずレイファスを見たが、レイファスは意地悪を言うつもりで無く『事実を認めろ』と言う表情を、して見せた。

 ファントレイユは領地内の男の子らとみんな友達だったし、母親の友達の息子達とも争う気は無かったが、彼らはやはり、ファントレイユの事を敵扱いした。

 ある日、ファントレイユはレイファスが居ない隙に、領地内にある小川のほとりで彼らの姿を見つけた。

いい加減喧嘩せず仲良く遊びたいと平和的にファントレイユは願ったが、彼らはファントレイユを見つけるとひそひそと話し、一人が寄ってきて、あっという間にファントレイユは取り囲まれ、襲いかかられた。

彼らはファントレイユの衣服を脱がし始め、怒鳴る。
「…本当に、男かどうか、調べようぜ!」
そう言って。

でもファントレイユは母親の言いつけで、川で服なんか脱いで、おまけに濡れたりして熱を出したら。という心配が身についていたので、抗った。
が、彼らは余計に乱暴になり、とうとうファントレイユの股間に目的のものを見つけると
「一人前に、ついてるぜ!」
「取って、本物の女の子にしちゃえ!」
と、更に乱暴を働いてくるのに、ファントレイユは焦った。

服を脱がされて体を触られるのが、もの凄く不快だったし。
ファントレイユが四人もの子供に抗いかねて、彼らのしたいように事がどんどん進むのをどう制止しようか、泣きそうになった時、レイファスがすっ飛んで来た。

 その時のレイファスは見た事の無い、きっ。とした顔をし、大声で
怒鳴る。

「ファントレイユは体が弱いのに!
川に落ちて熱を出したら死んでしまう!」

あんまり大声で、それに気づいた母親や召使い達が慌てて寄って来た。

ファントレイユは召使いの男に助けられ、男の子達は母親の糾弾を、縮こまって待った。
当然、川に入ろうと誘って、ファントレイユが従わないから衣服を脱がしたんだ。と釈明した。

ファントレイユはそんな風に暴力的な扱いを、今迄一度もされた事が無かったから、彼らがどうしてそんな事がしたいのかすら解らなくて、でもその暴力の不快さに、体をぶるぶる震わせていた。

 二人きりになった時、レイファスに礼を言おうと思ったが、レイファスに怒鳴られた。

「敵だと、言ったろう?
母親達の世界に暴力は無いけど、男の子達の間にはひっきりなしにあるんだぞ?

自分が男の子だと思うんなら、がつんとやり返せ!
それとも君は体も大きくないし女の子より綺麗だから、あついらに男の子としては勝てません。と認めるのか?!」

その時ようやくファントレイユはレイファスが今まで何と戦っていたのか、解った。
自分の、誇りを彼は、護っていた。
やり用はともかくとして。

 次の時だった。
レイファスはいなかったし、おろおろと彼らの暴力に立ち向かう術の無い奴。と目を付けられ、ファントレイユはまた、森で衣服を剥がされかけた。

今度はファントレイユは、もっと抗った。
が、確かに男の子として、体格は劣っていた。

相手の暴力が止まないのに歯を食いしばるが、相手は三人いた。

じきに上着を剥ぎ取られ、それは泥の中に落とされる。

上着を汚す横着者。といつも母親に思われている彼らは、ファントレイユにも同じ咎めを、味あわそうとしているようだった。
ファントレイユはとうとう殴りかかった。

喧嘩の仕方は森番の息子に教わったが、万一大人の男に拉致されたりする時の為。子供の相手に使うだなんて考えた事も無かったが、彼は殴った。

いくら殴っても効かず、ファントレイユは色々やり用を変える。
その間しこたま殴られたが、とにかく夢中だった。
相手の暴力を、叩きのめす事しか、念頭に無かった。

召使いの一人が悲鳴に振り向き、その乱闘を見た。
慌てて大人達が駆けつけ、レイファスもそれを、見た。

ファントレイユは一人を伸して地に転がし、別の一人に背後から抑えられ、前に居る子供に殴られていた。

その子達はファントレイユより年上で、更に体も大きかった。
が、ファントレイユは後ろから腕を掴む子供を、膝を曲げて思い切り後ろに蹴って吹っ飛ばし、目前の、殴っていた子供に飛びかかる。

 召使いが、ファントレイユを引き剥がそうと腕を伸ばすが、大きな召使いの掴むその腕を、肩を振って激しく振り払い、ファントレイユは相手にのし掛かって馬乗りに成り、拳を振り殴り続けた。

「ファントレイユ!」

レイファスが怒鳴ったが、彼に聞こえている様子は無い。
相手の子がとうとう泣き顔に顔を歪めて助けを叫び、ようやく大人達は慌ててファントレイユを引き剥がす。

ファントレイユは引き剥がされて荒い息に肩を上下させながらも、まだその子を、きつい瞳で睨み付けていた。

…あんまりのその迫力に、皆が黙り込んだのは言う迄も無い。

 その後、大人達の前でどうして喧嘩になったか聞かれても、ファントレイユは一言も口を、利かなかった。
例え相手が
『ファントレイユの方から殴りかかった!』
と言い張っても。

日頃それは大人しいファントレイユが殴りかかるだなんて。と、大人達は首を捻っていたので、レイファスはとうとう口を開いた。

「…ファントレイユが本当に男の子かどうか、ダンテはいつも確かめようとしていた…」

ぽそり。と目立たないように言ったが、大人達はそれで納得がいった様子だった。
が、ファントレイユは三人の子供に怪我をさせた。
と自室謹慎で夕食抜きを言い渡され、レイファスはこっそり彼を、見舞った。

 ファントレイユは誰にも自分を触れさせなかったから大人達は知らなかったが、ファントレイユの体は、痣だらけだった。

食事を差し入れ、その痣を見て、レイファスはそっと尋ねる。
「…そんなにいっぱい殴られて、よくやり返せたね?
前から人形みたいと思ってたけどやっぱり、痛まないんだ」

ファントレイユは顔を上げ、頷いた。
「あの時はどれだけ殴られても、全然痛くなかった」

レイファスは思い切り、ため息を付いた。

今はとても痛む様子の彼を見て、レイファスが薬草を持って来ようとするのに、ファントレイユは気づいた様だった。

大人達に告げられないか、心配げにファントレイユに見つめられて、レイファスは肩をすくめる。
「僕がこっそり盗むのが得意だって、知ってる癖に」

ファントレイユが途端、笑った。


3 一緒の、時間




 レイファスはセフィリアの前ではそれはしおらしく、病気の母親が心配な様子をして見せていた。

が、朝食後にファントレイユの家庭教師が来て、子供用書斎で書物を一緒に広げ始めると態度が一変する。
書物を、教師が読み進める間も与えず、次から次へと新しい言葉に対しての質問を、投げかけるのだ。
いつものどかに教師の朗読を聞いていたファントレイユは、心底びっくりした。

 教師は時々しどろもどろになって、レイファスの質問に答える。
数行読み、また知らない言葉を聞くとレイファスはその使い方を聞き、どんな風に言い回すのかの事例を尋ね、どんな場合に使うと効果的かも尋ねた。

一時間を超える時間の間レイファスは質問し続け、ファントレイユはどうしてレイファスがいつも、大人のように言葉を巧みに言い回すのかその理由が、とても良く解った。

まるで教師とレイファスの、戦いのような時間の後の、お茶を平和な気持ちで迎え、ファントレイユはレイファスに尋ねる。
「いつも、あんな風なの?」
その質問に、レイファスはファントレイユを見た。
「だって、ぼんやりしてると退屈じゃないか。
いつか来た時君が講義を受けてるのを見てたけど。
良くあれで、眠くならないな?」

ファントレイユは、呆れた。
レイファスの世界には安らぎとか、平和にのどかに時間を過ごすやり方は存在しない様だった。

「言葉を覚えるのが、好きみたいだ」
ファントレイユは、レイファスを見た。
およそ書物とか堅い物が似合いそうにない、それは可憐で可愛らしい、女の子のような顔立ちだった。

レイファスは見つめられて尋ねる。
「一人で居る時、本を読んだりしないの?
立派で格好いい騎士がたくさん出てくる、大人の冒険物とか歴史が大好きだけど、解らない言葉が出て来るとイラつくんだ。
意味が解らないと、せっかくなのにわくわく出来ないだろう?」
「本を、読むの?一人で?」
ファントレイユは本というものは大抵、セフィリアが読んでくれるか、家庭教師の読む物だと思ってた。

レイファスは、ファントレイユのとても綺麗な、人形のような顔をじっ。と見る。
が、ファントレイユにもその時、レイファスが自分をどう思ってるのか解った。
『姿が人形みたいで、頭の中も同様、脳味噌の代わりにおが屑が詰まってるんだ』
…そんな、表情だったから。

ファントレイユは少し、不機嫌になる。
「勉強は、嫌いじゃないけど」
「でも君は人に言われないと、何かをやろうと思わないみたいだ。
自分で、これをしようとか、あれをしようとかは、思わないの?」

ファントレイユはふと、レイファスが尽く人の意見を聞かず、自分のしたい事をどんどん実行する様子に気づいた。

確かに自分は彼に比べると、母セフィリアから
『これをするととても良い』だとか
『こういう事が必要だから覚えるように』だとか。
人に言われた事を、してきたと気づいた。
ファントレイユが言葉に詰まる様子に、レイファスはつぶやいた。
「何が好きで嫌いとか。
これはしたい。あれはしたくないって事なんだけど」
ファントレイユはか細い声で、つぶやいく。
「好きはいっぱい、ある。
嫌いは……。
薬草を煎じて飲むのは大嫌いだけど
あれを飲まないとセフィリアがとても悲しむんだ」
レイファスは、頷いた。
ファントレイユはきっととても幼い頃からいっぱい我慢して来たに違いない。
それでその我慢が、当たり前になってる。
「したく、ない事は?」
ファントレイユは顔を揺らした。
「じゃ、したい事」
「思い切り、水遊びしたい」
レイファスは全開で笑った。
 
 領地の外れの小川で、レイファスもファントレイユも素っ裸ではしゃぎ回った。
ファントレイユは幾度もレイファスに水を掛けたし。

浅いと言っても彼らは五歳だったから、水に浮かぶ事も出来た。
浮いていると青空がとても、綺麗だった。
木々の葉の間から、きらきらと陽光が煌めく。
風がさやさやと吹き渡る。
水は冷んやりと、体に染み渡る。

「気持ちいいだろ?」

レイファスが言うと、ファントレイユが返事した。
「とても」
レイファスはファントレイユを、見た。
あれをしちゃ駄目だとかを、全部聞いていたりしたら、こういう気持ち良さとか楽しいとか、わくわくした事を全部、諦めてるようなものだと言った言葉が、身に滲みて解った様子だった。

 髪と体を乾かす為、木にも登った。

「…………わぁ……」
ファントレイユの声に、レイファスが振り向いた。

「見晴らしが、いいだろう?」

風を受けて濡れた髪をなびかせ、ファントレイユは日頃見ていたものが足下に小さく見える、どこまでも広がる景色に頬を、紅潮させ頷いた。

ようやく人形に見えないそのファントレイユの姿に、レイファスはそれは、安心したようだった。


4 ある日の出来事

領地の、ファントレイユの友達に6つも年上の、アロンズが居た。

彼は執事の息子で、暗い栗毛の青い瞳の、大理石のような白い肌のとても利発そうな子供で、彼らよりようんと背が高く、大人びていた。
いつも地味な身なりはしていたが、とても綺麗な、神話の若く凛々しい神様のような顔をしていて、ファントレイユは彼がいつも優しいので、とても懐いている様子だった。

 彼の年の離れた妹はファントレイユ達より2つ年下で、いつもアロンズにまとわりついてた。

あまり顔立ちのいい女の子じゃなくて、赤毛でそばかすだらけで、神秘的な美男の兄と同じ血が流れてると思えなかったが、ファントレイユもアロンズもとても彼女を大事にしていた。

彼女は二人に優しくされると途端、無邪気に微笑む。
その笑顔が素晴らしく愛らしくて、二人が彼女を大切にする理由がレイファスにも解った。
だがアロンズは毎度、レイファスのとても可憐な美しさに見とれてた。

アロンズはそろそろ異性を意識する年頃だったし、実際女の子にモテていた。
だがどの女の子よりもそれは可愛らしく可憐なレイファスの一際人目を引く美貌には、男の子だと解っていても、必ず頬を染めて見とれる。

レイファスは気づいていて、それはにっこり微笑んでみせたりするから、ファントレイユはレイファスが何か企んでいて、アロンズに愛想を振りまいているな。と感づいた。

 レイファスが、尋ねる。
「アロンズはもう大きいから、一人で村に買い出しに行く事も、出来るって本当?」
妹のサイシャに聞いたんだな。と、アロンズは笑った。
「でも、本当に伝言くらいだ。
支払いとかの、お金は持たせて貰えないんだ」
ファントレイユもレイファスも、セフィリアにそれはきつく、領地の外出を禁止されていた。
でも領地内はそれ程広く無かったし、セフィリアや召使いに見られず暴れ回るには、それは、苦労した。

 彼らを探す召使いの姿が見えると途端、二人とも騎士ごっこの木の枝を引っ込めて隠さなければならなかったので。
外れの小川や大木の辺りに長く居ると決まって誰かが、二人の姿を探しにやって来る。
レイファスはもう、その監視体制の厳しさにうんざりの様子で、領地の外へ冒険しに出かけたくてうずうずしていたし、ファントレイユにもそれは良く解ってた。

 ある朝とうとうレイファスがセフィリアに尋ねる。
「アロンズは今日も、領地の外に出かけるの?」
セフィリアは微笑んで頷く。
「ええ。使いを頼んだわ」
この所二人がアロンズとその妹サイシャと過ごしている様で、セフィリアにはそれが嬉しかった。アロンズは彼女も認める、息子の友達としては及第点を遙かに超えた、優等生だったので。
レイファスはセフィリアの返答に
「そう」
と頷き、会話を終わらせる。
セフィリアはアロンズが出かけるので、この後は遊べない。とレイファスが納得したと思ったが、ファントレイユは違ってた。
チラ。とレイファスの、その表情に微塵も出さない思惑を、読み取ろうとする。

相変わらず、ファントレイユの父親不在の朝食だった。
彼の父は身分もそう高く無い、笑顔の可愛い人好きのするハンサムで、ファントレイユの髪も瞳も、父親譲りだった。

なかなかの美男子で、それは美人の彼の母親と結婚したが喋のような男で、ひらひらとご婦人の間を渡り歩いて、家に戻らない事しばしばで、実はレイファスは彼の父親と、殆ど会った事も話した事も無かった。
ファントレイユに言わせれば彼の母親が、夫があんまりしつこくじゃれてくるのでうっとおしくなって、余所で遊んで来いと言った所、その通りになったそうだ……。

 この話を聞いた時、レイファスは何も言えなかったが、ファントレイユもそれで話を終わらせた。
ファントレイユはレイファスを始終伺ったが、レイファスはすました顔で朝食を終えた。

「…何か、考えてる?」

ファントレイユにそっと聞かれ、レイファスは途端、にっこり全開で笑う。
彼がファントレイユに見せるそのとても可愛らしい笑顔は
『悪巧みを実行するぞ』
と言う合図で、ファントレイユは一瞬身が震った。

 朝食後、レイファスは領地の外へと出かける支度をしているアロンズの側にまとわりつく。
アロンズは小さな荷台を馬に繋いでいた。
レイファスはそっと横に付くと、覗き込んで尋ねる。
「…出かけて、荷物を載せて、ただ帰って来るだけ?」
アロンズは尋ねるレイファスに振り向き、優しく笑った。
「それも、うんと近くの農家だよ?」
「村じゃないの?」
レイファスの喰い付きに、ファントレイユの嫌な予感がますます高まる。
「村と言えば…村かな?
農家が五軒くらい集まってて、ちょっとした小さな雑貨屋があるし…。
そこで自分の買い物を、してもいい事になってるんだ」
「何を買うの?」
「砂糖菓子とか…。火打ち石とか。ペン軸とか…。
雑貨だよ」
アロンズは荷台の上に、丈夫な布を掛けた。布の下には空の籠や樽が乗っていて、レイファスが確認していたのをファントレイユは知っていた。

「もう、行くから…」
アロンズがレイファスに微笑み、レイファスはにっこりと頷く。
アロンズが馬に跨る隙に、レイファスはさっと荷台へと回り、乗り込むと布の下へと、一気に潜り込む。
ファントレイユはあっと言う間に姿の見えなくなるレイファスを、呆れて見た。
レイファスが、布の下から手招きしてる。ファントレイユはそれは躊躇したが、もうアロンズは馬に拍車を入れていた。
ガタン…!
荷台の車輪が音を鳴らす。
じき、動き出す。
レイファスがまだぐずってるファントレイユに向かって、来い!と合図を送り、ファントレイユは荷台がゆっくり動き出すのを見、慌てて乗り込む。
アロンズが、ふ、と視線を荷台に送った。
その小さな台を見たが、布が僅かに揺れているだけだった。
風かな?
アロンズは思ったが、そのまま馬車を走らせた。

 小さな荷台の中は樽が邪魔してはいたものの、空の籠の上に乗っていればファントレイユとレイファスくらいの小さな子供にとって、丁度良い空間だった。
「…レイファス!絶対まずいよ!」
ファントレイユが小声で言うが、レイファスはにっこり笑うだけで、ファントレイユはますます焦って顔を寄せ、ささやく。
「アロンズには、絶対にバレる!」
「…そりゃ、バラすよ?」
「…だってアロンズは、僕達を連れて行くなんて、一言も……」
しっ!とレイファスが唇に指を当て、門を通るのだ。とファントレイユは気づく。
門番のじいやがアロンズに気安く、門を開けて通す。
小さな荷台を引いた馬車は、ごろごろとまた、道を転がり始めた。

 レイファスはもう、わくわくしているみたいだった。
が、ファントレイユは、もしバレたらアロンズがひどく叱られる。と思うと、気が気じゃなかった。
レイファスはファントレイユの心配が解ってるみたいに、物知り顔でつぶやく。
「近くの農村ならそんなに危険だって、無いはずだろう?」
「でも………」
ファントレイユの領地の周辺はあまり警備が厳重で無く、盗賊達が時々ここより少し離れた森によく身を隠し、それで余計ファントレイユの外出を、セフィリアは阻んでいた。
「…でもごろつきが良くうろついてるって。時々、がらの悪い男も出入りしてるって聞いた」
だがレイファスは頷きながらつぶやく。
「セフィリアがそれだけ気を配ってるんだ。アロンズだってまだ11だろ?
そんな危険な所に一人で行かせる許可なんか、セフィリアは出したりしないよ」
「それは…。
そうかもしれないけれど……」
ファントレイユの心配そうな表情に、レイファスは微笑んだ。
「そんなに長い時間じゃないし、大丈夫さ!」

 ファントレイユはため息を、付いた。
確かにレイファスは、今迄上手くやって来てる事は解ってる。
だけど………。
言いつけを、破った事どころか荷台に隠れて門の外へ出る。
だなんて、ファントレイユにとって一度だってした事は無かったし考えた事すら、無かった。
が、二人が乗って暫くだった。
荷台が止まり、レイファスは、だろ?とファントレイユを見る。
その場所は門の前の道を少し左に入った辺りで、木々をかき分け進むと領地の周囲を取り巻く石塀が見えるんじゃないか。
と言う位、近かった。
布の間から覗くと、アロンズが農家の納屋に入って行くのが見える。
「…荷物を積むのかな?」
暫くしてアロンズが、籠の上に果物をいっぱい乗せて戻って来た。
農家の女将さんが微笑んで彼に、おみやげも持って行って。と笑い、アロンズは頷いて荷物を、荷台に乗せる為近寄って来た。
アロンズが籠を置いて布を取り払う前に、レイファスが布の下から姿を現す。
ファントレイユはあんなにびっくりしたアロンズの顔を、見た事が無かった。
まるで天地がひっくり返ったような驚きようで、レイファスがとてもしょげた表情でアロンズに謝罪する。
「…ごめんなさい………」
アロンズはまだ、口がきけなかった。
ファントレイユはどうしていいのか解らなかったが、彼もレイファス同様布を払って立ち上がる。
「…ファントレイユ……君迄?」
ファントレイユはとてもすまない。といった表情で、やはりアロンズに謝罪した。
「…ごめんなさい」
アロンズは暫く、どうしていいのか解らないようだった。
が、レイファスは上目使いにアロンズを見、つぶやく。
「ファントレイユを誘ったのは、僕なんだ。僕の領地でやっぱりアロンズ位の子が農家にお遣いに行く時、良く荷馬車に乗せて貰っていて…。
なんだか懐かしくて、つい、乗っちゃったんだ」
ファントレイユはレイファスを見た。
勿論レイファスの嘘だ。
彼の所だって領地から出たりしたらそれは、怒られる筈だった。
でも全部嘘じゃないのは、その子供とレイファスは内緒の取引をしていて、レイファスはこっそり領地からしょっ中、抜け出している。という事だ。

 アロンズはそれは大きな、ため息を付いた。そっとレイファスに屈み、つぶやく。
「もう少し、隠れていてくれる?」
レイファスは、こくん。と頷く。
「君達みたいに目立つ、綺麗な子供が一緒だって解ったら直ぐ奥様に解ってしまう」
レイファスはつぶやいた。
「君の困るような事は、しない…」
その、とても素直な様子に、アロンズは優しく頷いた。
レイファスはファントレイユを促すと一緒に荷台に屈み、アロンズから受け取った果物籠を、荷台の隅に置いた。

 そうして、三軒目の農家を訪れた時だった。少し手前でアロンズは馬を止めると、その隅の大木の下に、居てくれと二人に頼んだ。
「…樽を入れ替えるから、君達が乗っていたら農家の旦那に見つかってしまう。
これを、食べてていいから」
アロンズはさっきの農家で貰った干しりんごを二人に渡し、大木の隅に居る彼らを振り向き、微笑みを送る。

 風がさやさやと頬を撫で、気持ちのいい緑に囲まれた場所で、とてものどかだった。
「美味しいね」
レイファスが笑うと、ファントレイユもつい、微笑んで頷く。
干しリンゴは少し甘酸っぱく、木の葉のさざめく音を聞き、爽やかな風に吹かれながら食べていると、屋敷の庭で食べるより何倍も、美味しく感じられた。
がさっ!
音に、振り返ると少し離れた、生い茂る木々や丈の長い草むらの向こうに、一人の青年が遠ざかる姿が見え、振り向くその顔に、ファントレイユは見覚えがあった。
農家から、良く卵だとか焼きたてのパンだとかを届けていたフレディと呼ばれる、アロンズよりは少し年上の、黒髪で色黒の少年で、でもいつの間にかセフィリアに、出入り禁止を喰らった子だった。

 ファントレイユが見ると、フレディは振り向いたまま、大木の下に居るファントレイユを、じっと見つめている。
年の割に体格が良く、黒に近い焦げ茶の巻き毛と浅黒い肌をしていて、黒に近いグレーの瞳をしていた。
まるでファントレイユがそこに居るのを、さっきから知っていたように暫く、じっと見つめ続けている。
レイファスがフレディのそんな様子につい、不安になって、隣に並ぶファントレイユにそっと、耳打ちする。
「…ガラの悪い知り合いだね?」
ファントレイユはそう告げるレイファスを見る。
「以前、屋敷に出入りしてた。
アロンズも知ってる子だよ」
アロンズと一緒だから、大丈夫。と、ファントレイユは言ったつもりだったが、レイファスは彼がアロンズより年上で、その上体格もいい様子に少し眉を寄せ、不安げな表情を見せた。
「君も何度か、顔を合わせた事があるの?」
ファントレイユは頷く。
「初めは、他の子達と一緒に少し遊んだけど…。
でももう遊び友達にしてはいけない。って、セフィリアに言われた」
レイファスは、頷いた。
「年上過ぎるから?」
ファントレイユは首を横に振る。
「そうじゃなくて…。
少し、乱暴な所があるからって」
「君に、乱暴な事をした?」
ファントレイユは、レイファスを見た。
どうしてそんなに聞くのか、不思議だったが答えた。
「そうでも、無いけど…。
溝に落ちそうになった時、でも助けてくれた」
「セフィリアはそれを見ていたの?」
ファントレイユは頷く。
「…君を助けたのに、どうして遊び友達から外すんだろう?」
ファントレイユはその時の事を思い返す。
「…落っこちないよう抱きしめられたけど…その後暫く僕を離さなくて、セフィリアはそれが気に触ったみたいだ。
フレディが言うには、自分はあんまり清潔じゃないから僕に触るのをセフィリアは嫌がるんだ。って。
…けど」
ファントレイユがふ…と、思い出したように口にし、レイファスは彼を覗き込んで尋ねる。
「けど?」
ファントレイユは躊躇ったが、口を開く。
「…セフィリアは僕と遊ばせる子は、大抵お風呂に入れて綺麗にした後遊ばせる。何日もお風呂に入ってないデッロだって、僕と遊ぶ時はまずお風呂に入れられたって」
レイファスは眉間を寄せると、覗うような秘やかな声音で尋ねる。
「…その時フレディは君に何か、ヘンな事をしなかった?」
「ヘンって?」
「君、だって女の子みたいだし」
ファントレイユはもの凄く、むっとした。
「僕もそうかもしれないけど。
けど君の方がうんと女の子に、見えると思うな!」
レイファスは、そんな事はとっくに知ってる。と肩を、すくめる。
ファントレイユがそれは怒ってるみたいで、レイファスはもう口を開かなかった。
が直ぐにアロンズは戻って来る。
二人は揃って荷台に乗り込んだ。
樽は中味がいっぱいになっていて、たっぷん、たっぷんと音を立てた。

 村の真ん中の、広場に面した場所に雑貨屋があり、アロンズは布の下の二人にささやく。
「もう少し待っていて」
二人はこっくり頷いた。
アロンズは直ぐ戻り、荷台はまた動き始める。
けど暫く行くと、止まった。
足音がし、布を少し上げてアロンズが、二人に向かって微笑みを見せる。
「もういいよ。少しここで休もうか?」
レイファスは嬉しそうに微笑った。

 片側が木の立ち並ぶ森で、目前には草原が広がっていた。
風が吹き渡り、花々のいい香りがする。
アロンズは布を敷いて、二人をその上に座らせた。
なのにアロンズは布の上で無く草の上に腰掛けるのを見て、レイファスは不思議に思って尋ねる。
「アロンズは布に座らないの?」
「…だって君達の服は、汚す訳にいかないだろう?」
とても優しくそう言われ、レイファスは潔癖なセフィリアの事を思い出すと、少し項垂れてそうだね。と頷いた。

 三人の前にはミルク壺とコップ。それにいちごのパイ。ハムと野菜がサンドされたバーンズが並んだ。
「わぁ…!」
レイファスが、はしゃいだ声を立てる。
「でもあんまり食べて昼食が入らないと困るから、少しにしてね?」
レイファスは思い切り頷く。
ファントレイユも頬を紅潮させた。
確かに、そんな気持ちのいい場所での内緒の食事は、いつもより倍以上美味しかった。
それに、凄い開放感があった。
言いつけに縛られてない。その事がこんなに違うのか。と思う程。
ファントレイユはレイファスがどうしていつもそんな危ないマネをして抜け出すのか、解った気がした。
「男の子なのに、冒険も無いなんて!」
レイファスはいつも言っていた。
女の子みたいと言われる顔立ちと躾けのせいなのか、彼は折角自分が男の子で産まれたんだから、男の子に出来る事を全部、したいと思ってるみたいだった。
だけど…。
冒険を、ファントレイユも気に入った。
それはとてもわくわくした。

 食事の後、アロンズは後かたづけをし始め、二人はその辺を歩き回った。
レイファスは苺の実を見つけて夢中になる。
夜食のおやつにしよう。と、少しずつ場所を変えては草の中のそこら中に姿を見せる、赤く熟れた実を次々と摘み始めた。
ファントレイユはレイファスの様子を見ていたけど、つい気をそらすと近くのうっそうと茂った森の木立の下に、フレディの姿を見つけた。
手招き、してる。
ファントレイユは誘われるように彼の方へと歩を進めた。
フレディはファントレイユが側に来ると肩を抱いて、皆から見えないよう木立の影に隠す。
「久しぶり」
フレディが言うので、ファントレイユはどうして彼がそんなにこそこそしてるのか解らなかったが、返した。
「どうしてたの?」
フレディはそっと立木の影からアロンズやレイファスの様子を伺い、つぶやく。
「アロンズに見つかるとあいつ、奥様に怒られる」
「どうして?」
「俺と話しちゃいけないって、あんたの母親に言いつけられてるからさ。
もっと奥へ行こう」
フレディが強引に手首を引っ張るので、ファントレイユは少し不安になった。
手を、振りほどこうかとも思った。
が小声でフレディにささやく。
「レイファスが心配する」
フレディは振り向くと、請け合う。
「大丈夫。遠くに行かないから」

 少し奥まった辺りに小さく粗末な小屋が見え、小屋の後ろに回り込むと、木で出来たみすぼらしい長椅子があった。
「ここなら、誰にも見られない」
フレディがファントレイユを腰掛けさせ、その横に掛けた。が、ファントレイユは一度も二人切りになった事の無い相手と一緒に居る事に、不安を覚え始めた。
がフレディは彼を見て、笑う。
「…遠く、無いだろう?」
ファントレイユは頷く。
フレディは気さくに話しかける。
「よく、あの奥様が出してくれたね?」
ファントレイユが途端、俯く。
「…アロンズがまさか、こっそり出してくれたの?
あいつ、絶対しないと思ったのに」
ファントレイユは顔を上げる。
「アロンズは、絶対しない」
フレディは笑った。
「じゃ、勝手に出てきたのか?」
ファントレイユはしょんぼりするように、こくん。と頷いた。
顔を下げていると、フレディの視線が食い込むみたいに感じ、顔を上げてフレディを見る。
殆ど黒に見えるけど、少し光に透けるような濃いグレーの瞳がじっと見つめていて、つい尋ねる。
「…顔に何か、ついてる?」
フレディは首を横に、振った。
そして何か…言いたげだった。
途端、だった。
フレディが被さったと思った瞬間、唇を塞がれたのは。
ファントレイユは訳が解らず抗ったが、直ぐに椅子に押し倒され、背を、木の板に押しつけられて頭を掴まれてのし掛かられ
る。
フレディの体はアロンズよりもずっと大きく、優しい感じのアロンズとさえ、こんなに近くに密着した事なんて無かったのに良く知らないフレディの、大人に成りかけた青年の体の下敷きにされ、ファントレイユは恐怖を覚えた。
唇に、ねっとりとしたフレディの唇の感触がして、ぞっとして身もがくが、フレディの体はファントレイユよりもずっと大きくて、逃げ場なんか全然無い。
唇が、いつ離れるかとファントレイユは震えながら待ったが、フレディは口づけたまま、手を衣服に潜り込ませ探り始める。途端ファントレイユの脳裏に、服を脱がそうとしていたセフィリアの友達の、息子達の姿が蘇える。
フレディも、自分が本当に男の子かどうか確かめたいんだろうか?
その時恐怖が消え去り、怒りが沸いてきた。
だったらどうして。
自分に聞いたりせずに、こんな乱暴を働くんだろう?
フレディの唇が、離れたら言ってやろうと思った。
が、フレディの手が衣服をはだけて素肌に滑り込むと、なぜるように触ってきて、その感触にファントレイユはぞっと総毛立った。
彼が、思ってるのとフレディの考えは違うような気がして。
でもフレディがどうしてそんな事をするのかさえファントレイユには解らず、ただ込み上げる恐怖と不快感につい、身が震った。そして思わず…。
がっ!
フレディの体が少し浮いたのを機に、ファントレイユは膝を曲げ、フレディの体を思い切り蹴り上げた。その隙に逃げ出そうとしたが、咄嗟に手首を掴まれ、引かれてまた抱き寄せられ、今度はフレディは乱暴にもっときつく、抱きしめてきた。
ファントレイユはその時本当に、実はフレディは野獣なんじゃないか。と思った。
チラと目に映ったその顔は、怒りに歪んでから。
「いや…!」
ファントレイユが大声で叫ぶ。途端、フレディの手が口を塞ぐ。ファントレイユは必死で身もがいた。
が足を掛けられ、殆ど転ぶようにして地べたに叩き付けられ、押し倒され上からのし掛かられて髪を掴まれ、また唇を、唇で塞がれた時は、恐怖にぞっ。と鳥肌が立った。
直ぐそこにレイファスが、いる筈だった。
レイファスはさっきの声に気づいてくれるだろうか?
でもそうじゃなかったら…!
髪を掴まれ、首を振ろうとする度引っ張られて痛くて、顔にのしかかられて唇を、ずっと塞がれている。
ファントレイユはもう、息が苦しくなっていた。
身動き取れないくらいにきつく唇を押しつけられ、ファントレイユは呼吸出来なくて必死でフレディの大きな体の下で、身もがいた。
なのに…フレディは、止める様子を見せずに逆にもっと、押さえつけてくる…!
殺す気なんだろうか…?
ファントレイユが本当に、息が苦しくて怖くて、体ががたがた震え始めた頃、ざっ!と音がして突然フレディが体の上からどいた。
顔の横に立ち上がったフレディの足が見え、そして頭上で、殴り合う音がする。
がつん!
「大丈夫?」
気配に振り返ると、心配そうなレイファスが覗き込んでいた。
ファントレイユは二度、咳き込む。
レイファスが背を、抱え起こしてくれた。
目前で、アロンズとフレディは殴り合っていた。
レイファスをそっと見ると、彼はファントレイユの背を支えたまま、アロンズの様子を食い入るように見つめてる。
ファントレイユはそっ、とそちらに振り向く。どう見てもアロンズの方が背も低くて体格も劣り、不利だった。
ファントレイユは少年達が、真剣に殴り合う様を初めて見た。

がっ!
拳を握りしめたフレディが、アロンズの顎を思い切り殴り、アロンズは顔を歪ませ吹っ飛ぶ。
レイファスはじっと静かにそれを見つめ、ファントレイユにささやく。
「一人でも、大丈夫?」
ファントレイユは軽く頷く。
がっ!
また、アロンズが殴られていた。
そして腹を蹴られ、蹌踉めいていると襟首をフレディに、乱暴に掴まれる。
ファントレイユは身を屈めたレイファスが、近くにあった木の太い枝をそっと掴むのを見た。
襟首を掴まれたアロンズは、そのままなぶられるようにフレディの拳を二発、顔に喰らう。
三発目をフレディが喰らわそうとした時、レイファスは後ろから咄嗟にフレディの背中に思い切り、木の枝を振り入れた。
がっ!
フレディは背を激しく叩かて振り返ったが、その小さな邪魔者に凄まじい目を向け、木の枝を掴むとそれを持つレイファス毎、思い切り振り払った。
軽いレイファスが、吹っ飛んで地面に叩き付けられる。
でもそれを見たアロンズが、猛烈に怒った顔でフレディの腹を思い切り蹴った。
一発。二発。そして三発目を蹴り入れようとした時、フレディは蹌踉けながら慌てて、その場を逃げ出し始めた。
アロンズは威嚇するように足で蹴る仕草をし、フレディは一度振り向いたがそのまま、森の奥へと駆け去って行った。

 アロンズは直ぐに、レイファスの側に寄った。
レイファスは顔を歪めていたが、被さり様子を伺うアロンズにそれでも
「大丈夫」と言い
「それよりファントレイユを見てあげて」と、つぶやく。
アロンズが、ファントレイユの横に座る。
ファントレイユは半身を起こしていたが、アロンズの優しい気配に一気に緊張がほぐれ、気づくと彼の胸に突っ伏して、しがみついていた。
アロンズは労るように暫くそうしてくれたけど、やがて抱え上げて馬車の荷台迄運んでくれた。

 荷台にアロンズは、今度は布を、掛けなかった。
ファントレイユは隣に座るレイファスを見た。目の横に、擦りむいた傷を作っていたが、レイファスはじっとしていた。ファントレイユが見つめているのに気づくとそっ、とレイファスの手が動いて、はだけた胸元を直してくれた。
レイファスは全然口を、利かなかったけど、ずっと労るようにファントレイユにその身を、寄せてくれていた。
まるでローダーの時の、返礼だと言うかのように。

 屋敷に戻ると大騒ぎで、セフィリアは暫くファントレイユを、抱きしめて離さなかった。
ファントレイユが呆然としていて口をきかないので、レイファスは『休ませてあげて』と、セフィリアに頼み、ファントレイユは自室に連れて行かれ、レイファスも暫く一緒に無言で横に、たたずんで居てくれた。
が、レイファスはファントレイユが、ローダーの時してくれたようには自分に出来ないと解ったのか、直ぐに彼を置いて、部屋を出ていった。

 ファントレイユは何が起こったのか良く解らなかった。が、その暫く後セフィリアがやって来て、もう何も心配はいらないわ。と言い、額に口づけ、スープを飲ませ
「もし眠れるなら少しお休みなさい」
と掠れた声で耳元でささやく。
そして、側に居て欲しいなら…と言ったので、ファントレイユは一人でも大丈夫。と告げた。
もし、もっと幼い時みたいに、セフィリアに付いて貰ったりしたらレイファスに“赤ちゃん"とからかわれる気が、したからだ。

 ファントレイユは寝台に潜り込んだが、自分に何が起こったのか、やっぱり解らなかった。けれど、唇に感じたあの不快感だけは取れず、直ぐに体を起こしてはごしごしと唇を拭う。
レイファスが疲れた顔をして部屋に戻り、ファントレイユが唇を、拭っているのを見た。
ファントレイユは慌ててそれを止めた。
レイファスは寝台に腰掛けると、ファントレイユに尋ねる。
「気色悪い?」
尋ねられて、ファントレイユはどう答えていいのか、それは戸惑った。
が、黙って俯く。
レイファスはそれを見て、頷いた。
「気色、悪いんだな?」
ファントレイユは自分の心をレイファスに読まれ、つい頬を、赤く染めた。


5 男の子


 朝ファントレイユはやっぱり、洗ったと言うのにまだ唇が不快な気がして、唇を袖で拭っていた。
朝食の席に行く時庭でアロンズの姿を見つけ、ファントレイユは駆け寄った。
「アロンズ…!」
アロンズは少し青冷めていたけど、やっぱり優しい瞳を向ける。
「大丈夫?いっぱい、怪我をしたんでしょう?」
ファントレイユが聞くと、後ろにいたレイファスが言った。
「男の子はどれだけ痛くても、殴り合った後は痛いだなんて、絶対言わないんだ」
アロンズは一層微笑むと、レイファスを見た。
「君も、そうかい?
でもひどく地面に叩き付けられたんだろう?
背中がうんと、痛かったんじゃないか?」
ファントレイユは不安げにレイファスを覗う。
いつも一緒の寝台で休んでるけど、夕べは先に眠ってしまった。
「…でも名誉の負傷は例えどんなに痛くても、痛くないんだ」
そう言ったレイファスは本当に男の子に見えて、ファントレイユはつい彼をまじまじと見つめた。
アロンズは笑って、レイファスの髪を撫でる。
レイファスはまるで同志からの賞賛を受けるように、少し誇らしげだった。
「でも、ファントレイユは深刻なんだ」
レイファスがそう言うと、アロンズが肩を落とし、少し悲しげな表情をファントレイユに向ける。
ファントレイユはどうしてもアロンズの顔を見る時、その形の綺麗な引き締まって優しげな口元に視線が、吸い付いて困った。
自分がどうしてそんな場所が気になるのか解らず、ついアロンズに見つめ返され目をそらす。
けどレイファスにはその理由が、解ってるみたいだった。
「…とてもまずいお菓子を食べた後って、気分が最悪だけど、その後美味しいお菓子を食べると良くなるよね?」
アロンズはレイファスが何を言い出すのかと、目を丸くした。
ファントレイユには途端、レイファスの言った意味が解った。
フレディでうんと気持ちが不快だった。
…だから…アロンズの口元がとても気になるのは、大好きなアロンズに口づけてもらったら、不快な気分が直るんじゃないか。
そう、ぼんやり考えていたし、レイファスにもその事を知られてしまった。と気づいたからだ。
レイファスに、聞きたかった。自分はそんな風に、アロンズの事を見つめてたのかって。

 レイファスはフレディだけで無くアロンズも同様、ファントレイユの事を凄く綺麗な子供だと思っているのを知っていた。
それでレイファスは続ける。
「アロンズも、見たろう?
ファントレイユはフレディに口づけられて、凄く気分が最悪に不快なんだ。でももし、アロンズが………」
アロンズはレイファスの言ってる意味を察し、途端飛び上がりそうに声を跳ね上げる。
「僕が………?だって、僕は………」
そしてファントレイユの視線に気づき、そっと彼を見る。
アロンズに驚かれ、ファントレイユは凄く恥ずかしくて頬を赤く染め、俯いてしまった。
いつも…年の離れた親友同士のような付き合いだった。
だから…幾らフレディが変な事をしたからって、同じ事をその親友に頼むだなんて、きっとうんと…アロンズはびっくりしたろうな……。
ファントレイユは俯いたまま、もうアロンズの口元を見るのは止めよう…。そう固く思った。
が、レイファスは尚も言う。
「…でもアロンズに口づけられたりしたらきっと、美味しいお菓子を食べた時のように、ファントレイユの凄く不快な気分が直ると思うんだ」
「じゃあ、レイファスは僕がファントレイユにとっての、美味しいお菓子だと思うの?
…でも…」
アロンズはチラ…。と俯くファントレイユの、とても綺麗で人形のような顔を見つめ、そっと慌てて小声でささやく。
「…ファントレイユはそう、思ってないと思う」
ファントレイユはそれを聞いてますます真っ赤に成る。
が隣のレイファスに肘でつつかれ、か細い声でつぶやく。
「…とっても、呆れてると思うけど…。
レイファスの、言った通りなんだ」
それだけを、やっとの思いで吐き出す。
けど途端アロンズの声が、とても気の毒そうに、心配そうに成った。
「そんなに不快だったの?」
レイファスが後を継ぐ。
「ずっと、唇を袖で拭ってるんだ。うんとすすいだのに」
ファントレイユはもっとうんと、下を向いた。
あんまり恥ずかしくて、顔がアロンズから、そっくり隠れるように。
アロンズのため息が、また、頭上で聞こえる。
ファントレイユはアロンズがもの凄く呆れていて、二度と親友に戻れないんじゃないか。と、真っ赤になってうなだれた。
だが、アロンズの手が、顎にそっと触れる。
そして顔を、上げさせられた。
その時、ファントレイユがいつも、神話の美しい神様みたいだ。と思っているアロンズの顔が間近に瞳に映り、ゆっくりとその顔が寄せられるのを、うっとりとした気分で見つめた。
そしてその唇が押し当てられた途端、その初々しくて優しい感触に
『レイファスの言った、美味しいお菓子だ』
…そう、アロンズの事を感じた。

 まるで夢見心地で、うっとりとした気分になって、昨日の不快な出来事が魔法のように消えた気がした。
彼の、暖かな唇が離れると、ファントレイユは残念な気がした。
滅多に食べられない手作りのチョコレートの、残りの粒が二粒になった時の、落胆に似ていた。
アロンズが、顔を上げる。そして心配そうな表情を向けてつぶやく。
「気分、直った?」
レイファスは、ファントレイユの顔に書いてある。と言いたげな表情を見せ、ファントレイユに顎をしゃくる。
アロンズはファントレイユの、少しうっとりした表情を見て頷いた。
そしてファントレイユに、屈んで尋ねる。
「もう、唇を拭わないね?
あんまり擦ると、真っ赤になってその内ひりひりして、飲み物を飲んだりすると、きっと痛むよ?」
ファントレイユは素直にこくん。と頷いた。
「もう、拭わない」
アロンズはそれはにっこりと笑った。
けれどファントレイユがあんまり、アロンズの事をうっとりと眺め続けるのでとうとうアロンズの方も顔を赤らめ、用があるから。とその場を、そそくさと去って行った。
レイファスが、つぶやいた。
「君、自分の事女の子みたいだって言われると怒るけど…」
ファントレイユはいきなり正気に戻ると、レイファスに
『何を言い出すんだ?』とばかり、直ぐ様言い返す。
「そりゃ、怒るよ」
「アロンズは君に見つめられて真っ赤だった。
女の子にあんなに熱い瞳で見つめられても、そうならないのに」
ファントレイユはレイファスを、見る。
何を言いたいのか、さっぱりだった。
「だから?」
レイファスは解っていないファントレイユの様子に肩をすくめた。
こまっしゃくれて、女の子より可愛いレイファスにそんな事を言われるなんて、凄く心外だ。
…そう、ファントレイユの顔に書いてあったので。

 でも、レイファスの言った事はじきに、ファントレイユにも解るように、なった。
アロンズはそれ以来ファントレイユを、避け出したので。
ファントレイユの姿を見ると少し頬を赤らめ、彼のやって来る反対の方向へと、姿を消してしまう。
ファントレイユがアロンズの背を見送り、それは気を落とす様子を、レイファスは見て肩をすくめた。

 昼食後だった。ファントレイユはアロンズの姿を見つけ声を掛けようとした。が、アロンズはその視線を、避けた。
レイファスが隣で見守る中、ファントレイユは何か言いたげにそれでもアロンズの横顔を、じっと見つめ続けた。
アロンズは振り向くが、ファントレイユの視線を受けると悲しげに眉を寄せ、俯き、何も言わずその場を立ち去る。
ファントレイユが声も無く落胆する様子につい、レイファスは声も掛けられなかった。
が自分から逃げるように背を向け去って行ったアロンズの後を、ファントレイユがそっと追うのに、レイファスは付いて行った。

 アロンズは屋敷の裏庭で、時々頼まれ物を屋敷に届ける農家の女の子と、会っていた。
彼女が何か告げ、二人は話し込んでいたが暫く見ていると、アロンズは悲しげな表情の彼女の頬に手を掛け、そっ、と、ファントレイユにした時みたいに、その女の子に口付けた。
ファントレイユは暫く、呆然とその様子を見つめていた。
アロンズは顔を上げると彼女に微笑み、恥じらって嬉しそうな彼女の肩を抱いて、その場を歩き去って行った。
ファントレイユが、言葉も掛けられないくらいに消沈している様子が、レイファスにも解った。
まるで自分を失くしたみたいに、人形のように無表情で静かに部屋に、戻る。
「…ファントレイユ」
レイファスが声を掛けても、彼は聞こえてない様だった。
大好きなアロンズに、助けて貰って、不快な気分を直して貰って、素直な彼は凄く嬉しかったのに、その後ずっと避けられ続けたのは随分悲しい事のようだった。
いつも自分を抑える事に馴れているファントレイユが、どうして自分を避けるのか、アロンズを捕まえて問い正したりしなかったから彼の心の傷は余計、大きく成って行った事も、レイファスには解っていた。

 レイファスが暫く席を外し、部屋に戻った時だった。
人形のような表情の無い彼の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ、頬に滴っていた。
レイファスはそっ、と彼の、横に付いた。
そして、尋ねる。
「どうして泣いているのか、聞いていい?」
ファントレイユはいつもならきっと、慌てて涙を、拭って隠したろうに、その時はしなかった。
まるで、涙が流れてる事なんか気づいて無いように俯いたままつぶやく。
「…僕にとって、アロンズは美味しいお菓子だったけど、アロンズには、違ってた。
僕がまずいお菓子で…あの女の子が、彼にとっての美味しいお菓子なんだ」
レイファスは言葉を無くした。でつい、何か言おうと口を開ける。がその言葉を自分が言ったところで、ファントレイユは納得しないに違いない。そう思い、止めてその場を、後にした。

 レイファスはアロンズの姿を見つけると、その背に怒鳴るように叫ぶ。
「ファントレイユは貴方に嫌われていると思って、泣いている!」
アロンズはびっくりして、慌ててそう言うレイファスの横に来た。
「…どうして………?泣いている?ファントレイユが?」
レイファスは頷いた。
「僕が言ってもどうせ何も聞こえないんだ。だから貴方が言わないと。
ファントレイユは自分の事が貴方から見たら、フレディと同じ毛虫のように嫌な奴なんだと思い込んでいる」
アロンズは心底びっくりした表情で戸惑うようにレイファスの顔を、覗った。
「毛虫…?どうして?!」
「貴方にとって自分がまずいお菓子で、さっき裏庭で会っていた女の子が美味しいお菓子だって。
親友だった貴方に、自分がフレディみたいな嫌な奴だと思われてるのが凄いショックみたいだ」
「…自分の事、そんな風に思ってるの?どうして?」
「だって貴方に、避けられたから」
レイファスが言うと、アロンズは顔を揺らす。
「…避ける気持ちも、解るけど。
僕がどれだけ貴方は悪く無いって言っても、セフィリアは聞かない。第一ファントレイユがフレディの側に寄りさえしなければ、抜け出した事、バレたりしなかった」
アロンズは青冷めてつぶやく。
「…ファントレイユの事を恨んで、避けてたんじゃないのに…」
「でも、ファントレイユはその事を知らない。
僕もセフィリアに、貴方が去る迄ファントレイユに言わないって口止めされた。でも貴方は口止めされてないんでしょう?だってセフィリアは
『お別れを、言っていいわ。貴方方はとても、仲良しだったから』
そう言った。
このまま姿を消しちゃうの?
ファントレイユに、何も言わないまま?」
アロンズはとても真剣な瞳でレイファスを見つめた。
「ファントレイユは、どこに居るの?」
レイファスは、付いて来い。と言うように、先を歩いてアロンズを促した。

「…ファントレイユ」
アロンズが姿を現すと、ファントレイユは途端、俯いた。
涙がまた、頬に滴った。壊れてるみたいで、自分でもどうしようも無かった。
アロンズはそっ…と、ファントレイユの横に来た。
「…自分の事、まずいお菓子だと思ったの?」
アロンズに優しく言われて、ファントレイユは俯いたまま顔を揺らす。
アロンズの、ため息が聞こえた。
「君は一生の内一度食べられたらいいと言う位の、高級なお菓子だと思う」
ファントレイユが、その言葉にびっくりして思わず顔を上げる。
アロンズがまだ頬に涙を伝わせるファントレイユを見つめ、つぶやく。
「僕みたいな庶民は、そんなお菓子を食べられるだなんて夢を見るのは辛い事なんだ。
いつでも食べられる、食べ馴れたお菓子の方が安心なんだ」
レイファスは見守ったが、ファントレイユにはてんで意味が、解って無いようだった。
戸惑うように、言葉を絞り出す。
「…だっ…て、僕なら高級なお菓子が食べられたりしたら、きっと…とても嬉しい」
アロンズは頷いた。
「でも、また食べたくなったら?もっとずっといっぱい、食べたくてもそれは本当に滅多に、食べられないんだ」
ファントレイユにはようやく少し意味が、解った気がした。親戚のマグールおばさんの手作りチョコは、一年に一度しか食べられないし、それが猛烈に食べたくなっても我慢しなくちゃならなかったから。
でも………。
「…僕……は、どうして高級なの?だってアロンズとは仲がいいし、アロンズが食べたくなっても、僕は嫌だなんて決して思わないのに?」
アロンズが、とても切なげに眉を寄せる。
「ファントレイユ。君は貴族のお坊ちゃんで僕は使用人なんだ」
でも、ファントレイユには解らなかった。気持ちの間にどうして身分が入り込むのか、理解出来ないようだった。
「…もう、きっと会えなくなるから。君ももう少し大きくなったら直解ると思う」
ファントレイユが突然アロンズに顔を向け、怒鳴る。
「それ……どういう意味?!」
レイファスもびっくりしたがアロンズもそうだった。が、アロンズは言葉を続ける。
「…このお屋敷を、出るんだ。ランツ様のお屋敷で執事見習いをする」
ファントレイユの、涙がいきなり止まった。
「だって!アロンズはこの屋敷の執事になるんじゃないか!
どうして余所へ行くの?!」
ファントレイユは怒鳴り、そして涙でぼやけた頭が突然鮮明になった。
「…セフィリアが、そう言ったの?アロンズは悪くないのに!僕を庇って怪我をしたのに?!」
「…でもきっと僕がここに居たら、僕は君達に甘いから奥様の言いつけより君達の言葉を聞いて…君は又、危ない目に合うかもしれない」
ファントレイユが、きっ、と顔を引き締めた。
「だってそれは全然間違ってる!」
そしていきなり手を床について立ち上がると、ファントレイユはそのまま駆け出して行った。
レイファスとアロンズはあまりの彼の突然の行動に、暫くお互いの、目を見交わし合って沈黙した。

「セフィリア!」
ファントレイユは室内に入るなり、彼女のドレスにしがみついて叫ぶ。
「アロンズを、屋敷から出さないと言って!
僕が悪いんだ!彼は全然悪く無い!」
セフィリアは小さな息子に屈むと、彼の頬を両手で挟み、その綺麗な小さな顔を見つめ、優しくささやいた。
「レイファスもそう言ったわ。でもファントレイユ。そういう事じゃないの。
彼はとても優しいから、もし又あなた方に頼まれたら嫌と言えないでしょう?」
「僕はもう絶対、アロンズを困らせない!そう約束したらアロンズを出さない?」
彼女の小さな息子がこの間友達の息子に怪我をさせた時、セフィリアはようやくファントレイユが少しずつ男の子らしくなってきているのを知った。が、今回幼い彼が襲われた事を、どうしても無視する訳には行かない。
「貴方を、護る為なのよ……。私がどれ程大切に貴方の事を思ってるか、アロンズだって知ってるからこそ承知してくれたのよ?」
だがファントレイユはきっぱりと言った。
「セフィリアは間違ってる。アロンズは護ってくれた。自分が、怪我して迄。
そんな人を追い出そうとするだなんて、絶対違ってる!」
セフィリアはそれでも、愛する息子を見つめ、ささやく。
「もう、決まった事なの。相手のお屋敷も彼の受け容れを待ってるわ」
ファントレイユはいきなり表情を歪めるとセフィリアの腕を払い退け、机の上のペーパーナイフを、咄嗟に掴む。
「…ファントレイユ!」
セフィリアの、叫ぶ声がした。

 レイファスとアロンズが室内に入った時、ファントレイユは自分の喉に、その細い銀細工のナイフを押し当てていた。
「…何やってるんだ?!」
レイファスも我を忘れ、ファントレイユに怒鳴る。
が、ファントレイユは真っ直ぐ母親を見つめ叫ぶ。
「セフィリア。アロンズに悪い事をしたのは、僕だ!
何も悪く無いアロンズが咎めを受けるんなら、僕は自分を、もっとひどく罰しなくちゃいけない!」
セフィリアは震えていた。
「…冗談でしょう?ナイフを引いたり、しないわね?」
だがファントレイユは両手でナイフを、自分の喉に押し当てたまま叫ぶ。
「セフィリア。取り消して!」
ファントレイユは主張を、引っ込めなかった。
セフィリアは青ざめたまま、だがそっとファントレイユに近寄ってささやく。
「ともかく、ナイフを離して……。
話合いをしましょう。お願いよ。ファントレイユ」
だが、ファントレイユには解っていた。
セフィリアは僕が本気で自分を傷つけるなんて思ってはいず、ただの脅しでちゃんと話せば今まで通り、大人しくて聞き分けの言い彼女の息子は絶対、自分の意見に従うだろう。
そう思っている様子が。
レイファスは一瞬、ファントレイユのブルー・グレーの瞳が真剣に煌めくのを見た。
そして慌てて叫ぶ。
「駄目だセフィリア!お願いだ!
ファントレイユは本気だ!
本気で……誰か、止めて!!」
レイファスの、悲鳴のような声が室内に響き渡った。
ファントレイユが、ナイフを自分の喉に押し当てたままさっと引きかけたその時、アロンズの手がその腕を、飛びかかって捕まえた。
セフィリアは両手を口に当て、アロンズからナイフを取り上げられたファントレイユの首に赤い血が、滴るのを見た。
アロンズに抑えられてもまだ、ファントレイユは叫んだ。
「アロンズを出すんなら、僕はこの先いつだって自分を罰するから!!」
セフィリアの瞳に、涙が浮かんだ。
そして震える手で口元を押さえ、涙声で叫ぶ。
「出さない…出さないから……。お願いよファントレイユ。お願い。自分を、傷つけないで……!」
ファントレイユはまだ、何か言いたげだった。
レイファスの、真剣な青紫の瞳が自分に向けられてようやく、自分が最愛の母に投げかける言葉がどんなに残酷か、思い当たって口を閉ざす。
…でも貴方は、僕が自分を傷つけなきゃならないような事を無慈悲にも決断したんだ。
貴方が僕を、傷つけるも同然の事を…………。
そんな事を、言うつもりだった。
いつも大切に護り、慈しみ、どんな危険からもくるむように抱え守りながら愛してきた母親にとってそれは、とてもひどい言葉だろう………。
ファントレイユを傷つける気なんて、毛頭無いセフィリアにとっては。

 セフィリアはもう、泣いて、アロンズは止血しようと、ハンケチを取り出し、レイファスは誰か!と大声で叫んでいた。
召使い達が駆けつけ、ファントレイユの首の傷を看た。幸い、深く傷ついてはいなかった。が、傷を抑える薬草を付け、布で首をぐるぐる巻きにされた。
ファントレイユはでも、まだ痛みを感じる様子無く、きっ。とした表情を崩さない。
レイファスが、そっと言った。
「君の、勝ちだ」
ファントレイユはその言葉に気づき、レイファスを見る。
そしてようやく、自分のした事を、見回した。

 アロンズは泣きそうだったし、レイファスは疲労したように力が抜けた様子で、セフィリアはハンケチを使用人に差し出され、床に、泣き崩れていた。
ファントレイユはそっ、とセフィリアの横に付くと、抱きしめてくる彼女の腕にくるまれる。彼女は顔を上げ、布の巻かれた小さな首を見つめた。
「…本気だったの?本気で………」
彼女はその傷を見、唇をひどく震わせる。
がファントレイユは少し、笑った。
「だって、セフィリアはいつも言ってたじゃないか。
本気で誰かに物を言う時は、どれだけ本気かちゃんと、相手に教えないといけないって」
だがそれを聞いて、セフィリアはもっと泣いた。
ファントレイユは彼女のそんな様子に、困ったようにレイファスを見た。
が、女、特に母親の気持ちの解っていないファントレイユのまずい言い回しに、レイファスは思い切り、肩をすくめて駄目出しをした。



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