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神聖かまってちゃん天ぷら

狂気の2流であれ

 

 

 「天ぷら」という語感がすばらしいことに気がついた。言葉を口に出したときの気持ち良さは重要だ。

ウルトラマンやゴジラを生み出し、特撮のさまざまな技法を作りだした特撮の神様円谷英二はゴジラの語感の良さを気に入っていたという。たしかに!何度でも口に出したいぞ!ゴジラゴジラゴジラゴジラゴジラゴジラゴジラゴジラゴジラゴジラ。ほら、まったく飽きない。

主題歌がラルク・アン・シエルという謎さと、原作観てないだろ!と思わず口に出したくなってしまうハリウッド版のゴジラ(そして主演はジャンレノ)は、日本語タイトルだけではなく、アメリカで公開されるタイトルも『Godzilla』(ゴジラ)だったという。海外の人も認めるほどの語感の良さであることが分かる。円谷さんすごいです。語感の感覚は世界共通なのがわかる。

 

しかし、そのような語感の良さばかりに頼ってはいけない!

先日、テレビで英会話講師がいっていた言葉がある。英語をきっちり発音することもいいが、結局はどう話すかではなく何を話すかだよん、と営業スマイルを発動していた(なぜ英会話講師はみななぜハツラツとしているのか)。

 これには学ぶべきことが多い。ロックンロールもつまりそういうことだ。輪部を整えることよりも、なにをどう形作るのかである。ちょこざいものをぶちぬいてダイナミズムをリスナーは感じたいのだ。

 

 歌謡曲の作詞家である阿久悠は対談でこう語っている。

「雑誌で古い映画の話なんかしていても、いわゆる巨匠が作った一流という作品はあまり想い出さない。二流といわれる監督が、いつもはバカにされていたんだが、どういうわけか、その一作だけが気が狂ったようにいいとか、そういうことあるでしょう。(略)そういうものの方が、もう一度観たくなるよね」

 非常にわかる。単なるひねくれ者といわれればそれまでだが、やはり一番が出せない美学や狂気はある気がする。お笑い芸人を例にとってみると、ナインティナインはフジテレビのめちゃめちゃイケてるで、当初から身体的な反射神経をつかって面白さを演出していた。しかし、いまはそのような動きはない。落ち着いてきた感じである。視聴者としては面白くなくなった。

 オタキングの岡田斗司夫は、手塚治虫の作品を若い人がいまみても面白いと感じるのは、その絵柄の最高点を出しているからだという。いまの時代のマンガの絵はとても発達している。劇画のように緻密な書き込みがある。しかし、手塚治虫にはどうしても勝てないという印象を抱く。その当時、その時代、その絵柄で最高点を出しているからだろう。

例えば、吉田拓郎よりもギターが上手くて吉田拓郎よりも歌が上手くて吉田拓郎よりもボブディランっぽく日本語をフォークに落とし込める人間が今いたとしてもその人間はいつまでたっても吉田拓郎を越えられない。自分なりの新しいものをそこに足してないからだ。新しいことを足すと多くの批判がくるだろう。それを覚悟で革新性を出す者がオリジナルと並ぶ権利が得られる。

考えついた者よりも実行した者のほうが偉いという言葉があるが、そういうことだろう。

 理論ならば誰でも組むことができる。ようは、一歩踏み出す勇気があるかどうかだ。最高点を出す方法は、シーンを揺さぶるほどのインパクトを一番手で与えることがいいと思われる。

 

 一番手というのは批難を浴びるもの。しかし、それをやる人間が新しい時代を作っていく。阿久悠は作家・プロデューサーの久世光彦のある言葉を聞いて共感している。

 「ぼくのキャスティングを動物園だという人がいますが、上野へ行ってごらんなさい。博物館は閑散としているのに、動物園はいつも満員ですよ。」

 博物館は見識が高い者がいくとされている。それにくらべて動物園は下に見られてしまうけど、博物館って人集まらないよな、と核心をつく価値観を揺るがす言葉だ。

そしてこう解釈できる。時が経っても素晴らしいとあるものをいつまでも称賛し続けるだけでは、偉くはなるが人はやがて集まらなくなってしまう。博物館化するのだ。それよりも、先人にばかにされようがなんだろうが動物園のほうがいい。そういうことを思える。

 ロックンロールの精神と似ている。いつだって水々しいものは先人に良しとされないが、止まるものではなく、変化し続けることこそがロックでは正しく、それがロックンロールの宿命でもある。神聖かまってちゃんは現代でそれを行ったバンドだ。

 ロックシーンは博物館化していた。一〇年代前後にかけて解散していたバンドが次々と再結成を果たし、先人だけでなく若者にも歓迎されていた。若いロックバンドたちといえば個々でビッグマイナーな中爆発を起こすも、過去のロックバンドのようなダイナミズムはなかった。再結成したバンドたちの方がむしろダイナミズムに溢れていた。とても水々しかったのだ。

 

若手の良いロックバンドはもちろんたくさんいた。ロックシーンを揺さぶるほどのインパクトを与えるバンドはいなかった。神聖かまってちゃんはそのインパクトを起こしたバンドだ。彼らはインターネットを使った。自分たちの楽曲をネットにフルでアップし、自分たちで生配信もする。当時、楽曲をフルでアップする文化は日本にはなかったし、それを防ぐことが日本の音楽市場を守るためのレコード会社の絶対防衛ラインだった(音楽市場を守るといいつつ結局は自分たちの利権のためなわけだが)。

 ネットを使ってロックに新しい風穴を開けた神聖かまってちゃん。それはけしからん、という先人たちをよそに彼らは博物館になっているロックシーンにNO!を突きつけた。新しい場を求めた。

そもそもロック博物館に来るのはロックを趣向している人間だ。当たり前だが。若手のロックバンドたちはその限定されたパイを食い合うことをしていた。

 これじゃつまんねえなあと自覚的だったバンドは数多い(と思ってる。けど実際どうなのか)。海外のバンドがネットで新曲をアップロードしているというニュースを得ている人間もいただろう。その事例があるから次のロックシーンの展開の仕方として理論はできていたはずだ。しかし、だれも博物館から動こうとしなかった。

 神聖かまってちゃんはインターネットのそれもニコニコ動画にいった。ロックを趣向していない一〇代の少年少女がたくさんいるところである。アニメやマンガ、ボーカロイドシーンが盛んなところだ。ロックなんてものは上の世代の人たちがやってる老人たちの遊びであって、自分たちの「もの」ではないという感覚の層がそこにいる。いってしまえば圧倒的なアウェイである。

 ロックはこのままでは死滅するという自覚が神聖かまってちゃんにはあったのだと思う。ロックに興味ない一〇代にロックンロールを見せることがロック本来の働きであるし、自分たちの戦いの場であると思ったのだ。

彼らは何をどう言われようが動物園に身を置くことを選択した。インターネットを使ってロックシーンにも風穴を開けた。注目すべきは彼らの一歩踏み出す勇気である。

 博物館が一流なら動物園は二流かもしない。しかし、動物園とされているところにロックバンドは身を置くべきである。自分が恥ずかしげもなく一流であるとふんぞり帰った瞬間にロックは終わる。一〇代がいる場所で音を鳴らさなければならない。自分がロックバンドであるという自覚があるならばそうすべきだ。

神聖かまってちゃんは意志をもって、もとあるフィールドから一歩踏み出す勇気を教えてくれる。

 

久世光彦はこう言っている。

 

「二流というのは良い意味で一番ファッショナブルなんじゃないかな。一流、三流というのはなんかファッショナブルじゃないって気がするね。ファッショナブルという言葉はおそらく二流だけに与えられた言葉じゃないかなあ。」


奥付


 

 

 

天ぷら と神聖かまってちゃん ( 【期間限定】先出し )


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