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 ユンは頭を下げると、懐から小さな巾着を取り出した。それから、上半身はいまだ乳房を露わにしたままの扇情的な明姫の姿を見つめた。彼はおもむろに自分の蒼い官服を脱ぐと、明姫の肩から掛けてやった。
「もう私になど触れられたくもないだろうが、せめて今は傷の手当てをさせてくれないか」
 優しく言い、ゆっくりと近づいてくる。
 明姫はいまだ大粒の涙を流しながら、怯えて後ずさった。
「大丈夫だから、もう本当に何もしない。これは清国渡りのよく効く塗り薬なんだ。擦り傷切り傷、火傷、何にでも効く。これを塗っておけば、治りも早いと思う」
 ユンは明姫の片足をそっと持ち上げ、自分の膝に乗せた。その際、チマの下に何も身につけていないため、どうしても下半身の秘められた狭間が見えてしまう。ユンにとって、その極めて魅惑的な場所を見ないようにすることは至難の業といえた。
 だが、あからさまに見つめては、また明姫を怯えさせることになる。彼が実は傷の手当てをしながら、意思の力を総動員させて明姫の秘所から眼を背けていたことを明姫が知らなかったのは幸いであった。
 ユンは明姫の脹ら脛に丹念に薬を塗ってゆく。明姫も抵抗する気力も体力もなく、あまりの痛みに今はただユンに身を預けていた。
 両脚の脹ら脛に薬を塗り終えた後、ユンは懐から清潔な布を出し、その上から巻いてくれた。
 しばらく二人はそのまま何も言わずに向かい合って座っていた。    
「その―、ごめん。何て謝って良いか判らないけど、とにかく、ごめん」
 そのときには既に明姫も泣き止んでいた。明姫は言葉を発する気力もなく、ただ彼の謝罪に耳を傾けていた。
「国王が相手なら、そなたは意に従って身を任せると言った。あの言葉を聞いただけで、カッとなってしまった。私を好きだと言いながら、何故、私は駄目で見も知らぬ王であれば良いのかと」
「私、そんなこと言ってない」
 明姫はポツリと呟いた。
「ユンは将来のある身でしょう。だから、あなたのためを思うなら、私から身を退く方が良いと考えたの」
「それで、あんな言い方を?」
「そう」
 明姫は頷いた。両脚を引き寄せ、膝を抱えてその間に顎を乗せる。脚を動かす度に、チマの裾から傷に巻いた白い布が見えた。先ほど、あんなに手荒く彼女を扱ったのが嘘のように、丁寧に手当してくれた。まるで壊れ物を扱うような仕種だった。
「もう、これですべて終わりだな。愚かな私自身の行いが自分を窮地に追い込んだのだから、致し方ない」
 ユンは淋しげに笑った。
「自分は今まで、もう少しは自制心があると思っていた。信じては貰えないかもしれないが、これまで女人に対して、こんな酷いやり方で迫ったことはない。自分がこんなに堪え性のない男だとは思わなかった。自分で自分が恥ずかしいよ」
 これで、完全にそなたに嫌われてしまった。
 最後の言葉はよくよく注意していないと、聞き逃してしまいそうなほど低かった。
「そうだったら良いんだけど」
 明姫は吐息混じりに言った。
 え、と、ユンが面を上げる。
「いっそのこと、あなたを嫌いになれたら良かったのに」
 明姫は小さくかぶりを振った。
 ユンの瞳に弱々しい希望の光が戻っていた。
「別にユンに身を任せること自体がいやだったんじゃない。ただ、こういうのは嫌。強引に奪われるのでは一方的すぎると思うの。もっとお互いのことを理解し合って、納得してから、ああいう関係になるのが自然なのではないかしら」
「確かに明姫の言うとおりだ」
 ユンは幾度も頷いた。
「私とあなたの間には、たくさんの問題がある。例えば先刻も言ったように、私が女官であることも大きな問題の一つよ。仮に私が女官を止めることができたら、また別の道が開けるだろうけど。それにしたって、私の実家はもうとっくに絶えたも同然なの。そんな家門の娘との結婚をあなたのお母さまが許して下さるとも思えない」
「もし、私がそれらの障害を一つ一つ、きちんと向き合い乗り越えてゆく覚悟があると言えば、そなたは私をもう一度、受け容れてくれるかい?」
 明姫はユンを見つめた。まるで科挙の合格発表を待っている受験生のような顔。先刻の欲望を剥き出しにして襲いかかってきた凶暴な獣の彼とはまったく違う。


 だが、それも彼がそこまで自分を求めてくれている気持ちの裏返しと思えるのは、あまりにも愚かすぎるだろうか。
 明姫はもう一度、ユンの顔を見つめた。男にしては整いすぎるほど綺麗な顔立ち。様々な顔を持つ男。けして底が知れず、本当の彼がどんな人間なのかも判らない。しかし、彼が明姫を焦がれるほど求めていることだけは真実なのかもしれない。
「今夜のようなことは絶対にしないでね?」
「ああ、必ず約束する。明姫が嫌だと言ったときには、無理に求めたりしないと誓う」
 ユンが神妙な顔で頷いた。
「ただ、一つだけ約束して欲しい」
 明姫が小首を傾げると、彼は彼女を眩しげに見つめて言った。
「私たちが結婚できると確信できるまでは待つけれど、晴れて祝言を挙げた暁には、もう待たない。そのときには、そなたがどれだけ拒もうとも、その身体も心も私のものにする。それで良いか?」
 引き返すなら、今だぞ。彼の瞳がそう告げている。明姫は婉然と微笑んだ。
「判った。祝言を挙げたら、そのときは、もちろん何も言わずにユンのものになるわ」
 その言葉に安心したのか、ユンの全身から漂っていた切迫した気配は完全に消えた。
「ところで、書物の表紙はどうなった?」
 突如として話題が変わり、明姫はユンを茫然として見つめた。
「表紙? 書物?」
 ユンが少し焦れったそうに言う。
「だから、私とそなたが初めて庭園で出逢った時、そなたが後生大切に抱えていた書物のことだ」
 ああ、と、明姫は漸く合点がいった。
「幸いにも、まだ破けてしまったのは誰にも見つかっていないみたい」
「そうか」
 ユンも彼なりに気にしてくれてはいたのだろう。少し安堵したように頷いた。
 明姫はうなだれた。
「見つかれば、ただでは済まないわ」
 ユンの綺麗に弧を描いた眉が心もちつり上がる。
「まさか。たかだか書物の表紙を破いたくらいで、それほどの大事にはならないだろう? しかも、よくよく注意して見なければ判らない程度のものだ」
 明姫は哀しげに微笑む。
「そういうわけにはゆかないの。あなたのような部外者には到底信じがたいかもしれないけど、後宮では国王殿下とそれに連なる血筋である王室、王族の方々は絶対なのよ。その王室の歴史を事細かに記した大切な書物を傷つけてしまったのは大罪になるわ。下手をすれば、鞭打ちだけでは済まないのよ」
「馬鹿な」
 ユンは一笑に付した。
「書物一冊と人ひとりの生命など引き替えにはできない。ましてや、人の生命で書物の破損をあがなうなど考えられない」
「ユンはそう言ってくれるけど、残念ながら、見つかれば何らかの形で罰を受けることになるでしょう」
 しばらく沈黙が漂っていた。ユンは何やら思案に耽っている様子だったが、決然とした表情で言った。
「私から殿下に申し上げておこう」
 明姫が笑う。
「以前から思っていたんだけど、あなたって、そんなに殿下に信頼されているの?」
 たかが集賢殿の一学者にすぎないユンがそこまで国王に信頼を寄せられ、大きな発言権を有しているとは信じがたい。
 と、ユンはまるで子どものように得意げに胸を張った。
「実は、そうなのだ。国王殿下は私を何かと頼りにされている。大切な御事をお決めになるときは、いつもひそかに私をお呼びになり、あれこれと相談されるのだ」
 まったく、どこまでが本当か知れたものではない。明姫はチラリとユンを見た。
 一方の彼は期待に満ちた顔だ。それが親に褒めて貰いたがっている子どものようにも見え、明姫は思わずクスリと忍び笑いを洩らした。
「あ、今、笑ったな」
「だって、今の話、どうにも信じられないもの。嘘でしょ」
 ユンの男にしては白い面が上気した。
「違う、嘘などではない」
 きっぱりと断言するユンに、明姫は笑いながら応えた。
「はいはい、判りました。信じれば良いんでしょう」
「何だ、無礼なヤツだな。その口調では全然信じてないだろ」
「ふふ、そんなことないわ。ちゃんと信じてる。ユンは国王さまの信任も厚い忠臣で、国の大事を決めるときは、いつもユンを頼りになさるのよね」


「ふん、可愛げのない女だな。どうして見かけは可憐で儚げな風情なのに、こんなに強情なのか」
 ユンは一人で憤慨しているようだ。
 そんな彼はどこまでも明るくて屈託がない。普段どおりの軽妙なやりとりを丁々発止と交わしている。
 既にいつもの二人に戻っている。明姫自身はそのことにホッとしていた。彼の晴れやかな表情から、彼もまた同じことを考えているのだと判った。
 これで良い。こうして一つずつ彼の言うように問題に向き合い、二人で話し合い解決してゆけばよいのだ。そうやって進んでいる中に、いつしか互いをもっと理解しあえるようになるだろう。
 女官を止めることについては、すぐに解決できる問題ではない。まず伯母に相談しなければならないだろうが、すぐに話を出すには時期尚早だ。いずれ折を見計らって話を切り出すことにしよう。
 明姫が黙り込んでいるのを勘違いしたものか、ユンが力強い声で言った。
「とにかく、書物程度で鞭打ったり、ましてや処刑など馬鹿げている。私から殿下に申し上げておくゆえ、明姫は心配しなくて良い」
「あなたの言葉を信じるとして、国王さまはそれで良いかもしれない。でも、大妃さまはきっと納得されないわ」
 謹厳でヒステリックな大妃のことだ、必ずや大騒ぎするに違いない。
 ユンが微笑んだ。
「大丈夫だ。国王殿下が言葉を尽くして説得すれば、大妃さまもお判り下さる。何とかなるさ」
 それに関しては期待は薄そうだと思ったけれど、何とかしてやると自信に満ちた口調で言うユンには、そこまでは言えなかった。
 ユンは後宮について詳しくはない。明姫は六歳のときから後宮で暮らしてきた。もちろん顔を見たことはないが、国王の母である大妃の人となりは女官たちの噂話で嫌というほど知っている。
 とにかく感情の起伏が烈しく、気に入った者には情けをかけもするが、気に入らねば、とことんまで敵視するという。後宮で大妃に睨まれては生きていけないというのは、満更誇張ではなかった。
 後宮のトップであり、王室の長でもある大妃に目下、刃向かえる者はいない。この国で最も至高な存在とされる国王でさえ、大妃には頭が上がらないといわれている。
 大妃は議政府の長である領議政の同母妹として生まれ、上流両班の姫として大切に育てられた。生まれ落ちたそのときから、いずれは世子嬪セジャビン(王太子妃)になるのだと言い聞かされ、そのための教育を受けたのだ。
 ゆえに、気位の高さも生半ではない。生まれながらにして王妃となるべく生まれ、誰からもかしずかれて育った彼女には〝諦め〟と〝不可能〟という文字はない。こうと思い立てば周囲がどうあろうと我意を押し通し、通らなければヒステリーの発作を起こし、後宮中に嵐が吹き荒れる。
 そのため、大妃殿に配属された女官たちはいつも大妃の顔色を窺ってばかりいて、気の休まる暇はない。更に、若くして世子嬪に冊立され、先王のただ一人の王子を生み奉った。良人の王が亡くなった後は、彼女の一人息子が王位を継ぎ、今は押しも押されもしない国母である。
 先代の王はこの正妃を嫌っていた。もちろん、時の権力者の妹であるから、あからさまに冷淡な仕打ちはできない。しかし、王が中宮殿(王妃の住まい)に足を向けることは滅多となく、十指に余る側室たちと夜を過ごすことが多かった。
 良人に見向きもされない分、彼女の関心と愛情は当然ながら一人息子に向けられた。それもそのはず、彼女の生んだ王子は彼女の実家であるペク氏一族にとっても彼女自身にとっても、大切な世継ぎであった。
 この王子に何かあれば、すべての約束された栄華も権力も露と消える。そんな心配もあってか、大妃は息子を溺愛し、いささか過剰なほど過保護に育てた。
 先王はあまり子宝に恵まれたとはいえない。王妃の他にもたくさんの側室を持ちながら、生まれたのは二人の王子と三人の王女だった。しかも、その中の三人は生後一年に満たない間に早世している。結局、育ったのは王子と王女が一人ずつだったが、側室が生んだ第三王女も十三歳で二年前に亡くなった。
 亡くなった王女の異母兄である現国王は、このたった一人の妹を可愛がっていた。自分が父代わりとなるのだと言い、自ら嫁ぎ先を探して、この者であればと前途有望な両班の子弟を妹婿に決めたほどであった。


 婚約も済ませ、後は王女の成長を待って降嫁の日を数えるばかりであったある日、十三歳の王女は病を得て亡くなった。亡くなる前日まで嘘のように元気であったのが、食事後、急に苦しみだし、数時間で息を引き取ったのだ。
 そのあまりに不審な死に方に、後宮はおろか宮殿中が騒然とした。そして、囁かれたのが
―和平翁主(ファピョン)さまの死は、大妃さまの差し金ではないか。
 というものだった。実は、先代の王の御子たちが次々と儚くなったのも、すべては大妃の仕業だと言う者も少なくはなかったのである。
 大妃にとって、己れが生んだ世子以外の王子王女はすべて目障りな存在にすぎない。そもそも世子は第二王子であり、生後まもなく亡くなった第一王子たる異母兄がいた。
 が、年子で生まれた一つ違いの異母兄が生きていたとしても、大妃の生んだ第二王子が世子になるのは明白だったのだ。力のない家門出身の側室の生んだ庶子など、正妃の生んだ唯一の嫡子である第二王子の敵ではなかった。
 ゆえに、大妃が第一王子を殺す必要まではないはずで、しかも確証もない噂の域を出ない話ではあった。が、嫉妬心も烈しい大妃の性格を知る女官たちは、あながち、大妃が先王の御子たちをことごとく根絶やしにせねば気が済まなかったというのもあり得ない話ではないと思っている。
 とにかく、その真実は天のみが知っている。
 ところが、そんな不名誉な噂を立てられるほどに溺愛し、掌中の玉と愛でて育てた肝心の世子は王妃に懐かなかった。あろうことか、先王の寵愛していた側室の一人をまるで母のように姉のように慕い、大妃の許には寄りつきもしない。
 そこで、あの例の騒動―この殿舎にかつて暮らしていた側室が自害するという痛ましい事件が起こったのである。
 以上の経緯は明姫でなくとも、後宮に少し長く暮らす者なら、誰でも知っていた。
 悪は千里を走るという。そういうスキャンダラスな噂―特にそれが国王やその母という高貴な人たちに関するものであれば―は、面白おかしく脚色され、瞬く間に人の口から口へと語り伝えられる。野火がひろがる勢いでやがて宮殿の外、即ち世間一般にも知れることにもなる。
 もちろん、後宮でも興味本位の噂話、憶測は一切禁止されているけれど、そんなものは何の効果もない。むしろ上の者たちが躍起になって止めようとすればするほど、悪しき噂は物凄い勢いで女官たちの間にひろまってゆくのだった。
 明姫が沈んでいるのを見、ユンが微笑む。
「まだ心配なのか?」
 彼女は笑って首を振った。
「ううん。それはもう良いの。だって、元はといえば、私の不注意だもの。後宮女官としてお仕えする身で大切な王室の書物を傷つけてしまった罪は逃れられないわ。たとえ、どんな罰を与えられても潔く受けるつもりよ」
 その言葉に、ユンが声を荒げた。
「そんな馬鹿な話があるか! 明姫の心がけは女官としては模範的なものかもしれないが、私は認められない。もし、その程度でそなたを罰する者があるというのなら、私が止めさせてやる。実の母であろうと、そなたを傷つける者は容赦しない」
「ユン、何をそんなに怒っているの? あなたが私を庇おうとしてくれているのは嬉しいけれど、正直、国王さまでも大妃さまを止めるのは難しいと思うわよ」
「そなたは国王がそれほどに力がないと思っているのだな」
「力の問題じゃない。国王さまにとって大妃さまはこの世でたった一人の母君でしょう。大妃さまにとっても国王さまは可愛い我が子だもの。たとえどれだけ高貴な方であろうと、血の繋がりは濃いものよ。国王殿下は大妃さまに距離を置いて接していらっしゃるけれど、本当はとても親思いのお優しい方だと大殿に仕える女官たちは皆話してる」
「つまり、国王が血の繋がりゆえに大妃さまに強く出られないと?」
 明姫はそれには応えず、笑んだまま続けた。
「ユン、後宮は怖いところね。私、今までは幽霊だとかは信じていなかったのに、今夜、この殿舎でお妃さまのお姿を見てから、少し考えが違ってきたみたい」
「幽霊が怖くなった?」
「私が怖いと思ったのは亡霊ではない。ユン、亡くなった人は時折姿を現すくらいで何もしないけれど、生きている人は違う。私は死者よりも人間が怖いわ」
 ユンを見上げる明姫の瞳が潤んだ。黒曜石の瞳が水晶のような露を帯びている。
「怖いの」
 繰り返す明姫を見ていたユンの腕が遠慮がちに伸びてくる。今はもう何の戸惑いもなく、明姫はユンの腕に抱かれた。


「何で人間を怖がるんだ? たとえどんなヤツが来ようと、私が明姫を守ってやるから、心配しなくて良い」
 ユンの力を帯びた声がこれほど頼もしく聞こえたことはなかった。
「判らない。私は一介の下級女官で、そんな私が空恐ろしい謀や陰謀に巻き込まれるはずもないのに、何故か胸騒ぎがしてならないの。お妃さまは一体、何を私に言いたかったのかしら。ただご自分の無念を伝えたいためだけに私の前に現れたのではないような気がして」
 ユンは明姫を腕に抱き、しばらく考え込んでいるようだった。やがて、静かな声音で言った。
「先刻、そなたが見たという女の亡霊のことだが、本当に見たのか?」
 明姫は小さく頷いた。
「嘘じゃないし、幻を見たわけでもない。小柄でほっそりとした方だった。とても美しいけれど、儚げで―とても哀しそうな顔をしていらしたわ」
 ユンが吐息をついた。
「昔語りをするとしよう。これは私が国王さまよりお聞きした話だ。その昔、この殿舎には美しいお妃が暮らしていた。当時、まだほんの幼子であった国王さまは、そのお妃をひそかに恋い慕っていた。もちろん、その思慕は子どもが臈長けた美しい女人に寄せる憧れ、淡い思慕でしかなかった。実の母にどうしても馴染めない国王さまは余計にそのお妃に惹かれていったんだ」
「たぶん、国王さまは淋しかったのね」
 明姫が相槌を打つと、ユンは笑った。
「やはり、そなたは見かけによらず、聡いな」
「まっ、失礼ね」
 ユンは微笑み、明姫のふっくらとした頬をつついた。
「ねえ、続きを話して。先が知りたいわ」
「明姫は見かけによらず賢くて聞き上手でもある」
 からかうように言われ、明姫は笑った。
「美しいお妃は心も同様に清らかで優しかった。狭い殿舎の庭にはいつも四季の花々が咲き乱れて行く人の眼を楽しませていたが、中でも彼女がこよなく愛したのが桜草だったという」
 明姫が眼を輝かせた。
「それで、この殿舎の庭園に桜草がたくさん咲いているのね」
「国王さまはお妃が亡くなり、自分が大人になっても、いまだに時々ここに来ているそうだよ。自ら庭の土を耕し、種を蒔いて桜草を育てている。不遇な中で亡くなったお妃の魂をせめて慰めたいと、今でも彼女の愛した桜草をこの庭で育てているんだ」
「きっと、お妃さまも歓ばれていると思うわ」
 明姫は言いながら、なるほどと得心がいった。この殿舎に脚を踏み入れた時、長らく無人のまま放置されていたにしては、荒れていないのに愕いたものだ。
 普通、人が住んでいない家というものは、幾ら手入れしたとしても、どことなく荒れて荒んだ雰囲気が漂っているものなのに、ここにはそれがなかった。
 やはり、国王が時折訪れているからだろうか。はるか昔に亡くなった美しいお妃のことを考えている中にふと我に返ると、ユンの視線が自分に向けられているのに気づいた。
「もしかしたら、昔、ここに住んでいたというお妃は、そなたに似ていたかもしれないよ」
 この上なく優しげなまなざしには、ほのかな熱も秘められていて。明姫は思わず頬が赤らむのを自覚した。
「わ、私はそのお妃さまのように綺麗でもないし、美人でもないわ。もう、良い加減なことばかり言わないでよね?」
「そうか? 私はそなたを可愛いし、美人だと思うが」
 そこで、よいしょと明姫の身体を持ち上げ、ユンは膝に乗せた。
「何より明姫は心が綺麗で優しい。そなたのような女に出逢えた私は幸せ者だ。そなたはは私の宝だよ、明姫」
「また、私をからかってるのね」
 真顔で囁かれ、明姫は身の置き所もなく、真っ赤になった。
「からかってなどいるものか」
 だから、大切にする。一生涯かけて、そなただけを愛し抜く。
 ユンの真摯な声音が二人だけの静かな空間に響いた。
「口づけても良いか?」
 これも真剣に問われ、明姫は真っ赤になって頷いた。
  ユンの顔が近づく。
「眼を閉じてくれ。こういうときは、眼を閉じるものだ」
 ユンに囁かれ、慌てて眼を閉じる。ほどなく、しっとりとした感触が明姫の唇に押し当てられた。最初はチュッ、チュッと小鳥が啄むような軽いふれあいが次第に深くなってゆく。



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