閉じる


<<最初から読む

175 / 202ページ

174

冬もTシャツ、ジーンズ、カーディガンくらいで過ごせないものだろうか。
寒さに慣れるために、僕はTシャツ一枚でこれを書いてる。でもベストくらい
あった方がいいかな。

ブッチャーがまた仕事の話を始めたので、僕は「もうやめてくれよ」と言ったのだが。
「仕事はしなきゃ食っていけないよ。働かないと死んじゃうよ。いいの?」
もう放っといてよ。僕の将来の事なんか考えさせないでくれよ。お前らにはどうでも
いいんだろ、僕が野垂れ死にしようがしまいが・・・
僕はどのみち、惨めに死ぬんだ。そんな将来しか見えないんだよ。
資格をとれる能力があれば、もうとってる。もう何もかも無理だから、ここに来たんだ。
現実自体を捨ててしまったんだよ。僕はそのころからブッチャーの残酷さを恨むように
なった。

僕は自分に才能がないと思っていたのだけど、違う事に気がついた。才能は
ある。クサい言い方をあえてすれば、僕は人を信じ、愛する事ができる。それって
今時貴重な能力なんじゃないか?
人を信じる事が仮にできなくても、金を稼いだり、一人暮らししたりする事はできる。
いくらでもできる。生きやすいだろう。
でも本当にそれで満足か?と僕は思う。信じ、愛する事のできない人生なんて、
僕は今すぐ捨てたい。信じるしか僕には途は無いんだ。


175

玲音を守るのは、僕だ。
朝食は玲音の向かい側、ちょうど竜牙の座っていた席で食べた。
ここにいつも座っていた、髪の長い大柄な男。
彼は今どこで何をしているのだろう。玲音も今不安定な状態にあるようだった。
昨夜、また叫び泣く声が聞こえてきた。竜牙を失った悲しみからなのか。
レノはやはり玲音と気が合わないのか、僕の隣で、少し席を離して食べていた。
無愛想で、何考えてるか分からない奴。プライドが高い事意外はわからない。

すると、新入りだと思われる茶色に近い金髪の、不精ヒゲを生やした30代くらいの
男が、近づいてきた。レノの前の席を指して、「ここ、いいかい」と言った。
「俺はリードっていうんだ。よろしくな」
そう言うと、真っ先に握手を求めたのはレノでも僕でもなく、玲音。
玲音はとても嬉しそうにしていた。

この男なら、玲音を守ってくれるかもしれないな・・・
僕は直感した。


176

信じた人に裏切られる事はよくある。でも今それをここでして欲しくはなかった。
僕は心が弱っている病人だから、せめて楽な状態でいさせて欲しかった。
でも、何かがそれを許してくれない。結論から言うと、僕は自分の財布を
ブッチャーに盗られた。財布がないのに驚いて、辺りを探したら、ブッチャーの机の上に
あっさり置いてあった。間違いなく、僕の財布だ。
ブッチャーはそれについて謝るどころか、笑って言い訳した。「盗んだんじゃない。
移動させただけだよ」と。
ブッチャーに対する僕の信頼は、粉々に壊れた。もう退院まで、元に戻る
事は無いだろう。

もし入院に憧れた昔の自分に何か一つ教えてあげられるならば・・・
今何て言うだろう。「病院は生き地獄だよ。やめておけよ」そんなところかな。
僕は普通ではありえない体験をいくつもしてきた。幻覚、妄想、救急車、入院・・・
経験が豊かになった事には感謝しているけど、もう一度同じ人生をやりたいとは思わない。
色んな経験を積んで感じた事は、僕の心は汚れるどころか、ヘドロに洗い落とされて磨かれ、
逆にピュアになっている事だった。

 


177

そのリードという男は、年齢不詳だが不精ヒゲにも関わらず薔薇の花が
似合うような麗しいところがあり、立ち居振る舞いも外国人セレブのような上品な
感じのする、閉鎖病棟に似つかわしくない男だった。
ただし、話してみると笑顔の裏に、どうしようもない翳りがある。この男は統合失調症
ではないな、と僕は直感した。話は玲音などのように滅茶苦茶ではなく、受け答えもしっかり
している。しかしどこか陰鬱な感じがするのだ。

「リード、お前みたいにまともな奴が、どうして閉鎖なんかに?」僕は尋ねた。
「それはこっちのセリフだろう。ジュナンのように普通に会話できる奴、ここでは
お前だけだぜ」
「僕は・・・規則を破っちまったから」
「そんなところだろうと思ったよ」リードは長い睫毛を閉じた。ただ話しているだけなのに、
彼の表情には深い哀愁を感じる。「俺は保護室から出てきたばかりなんだ。自殺を図ってさ」
「自殺!?・・・どうして」僕は目を見開いた。「会ったばかりのお前にはやめておくよ。
いつか話すな」
僕の退院日は27日なのに。言おうかと思ったのだが、やめておいた。
「辛かった。苦しかった。ただそこから逃れたかっただけなのに。
何で俺は助かってしまったんだ・・・」
リードは非常に疲れたような顔をしていたので、僕は彼をどの部屋だか知らないが、連れて行こうと
思った。視線がテーブルの上のあたりをいたずらに彷徨っている。
本気で彼は、倒れてしまうかもしれない。そう思った。
「あっリード、ここにいたの」聞き覚えのある、嬉しそうな声。
「レイン・・・」リードの翳のある表情が、少しだけ和らいだ。
「ねえジュナン、リードは僕と同じ部屋なんだよ」玲音は心から嬉しそうに言った。


178

「レイン、お前の部屋か」
「うん」だからあのとき、最初に握手したのは・・・
「リードが今にも倒れそうだから、支えて連れていってあげてくれないか」
リードの息遣いが荒くなる。ソファにもたれ、息ができないようだ。
パニック発作だろう。だから死ぬ事はないはずなのだが。
「ジュナンも一緒に来てよ」玲音が僕の裾を引っ張った。

僕は特別に、玲音の部屋に入れてもらった。
玲音は自分の3人部屋の真ん中のベッドにリードを横たえると、掛け布団を
かぶせた。リードがはあはあ、と荒い息をするのが聞こえる。
「僕もよく前は起こしたけど、これはたぶんパニック発作だ。看守に言わなくても
問題ない」
「リスパダール、もらったほうがいいかな、どうしよう」玲音は判断しかねている様子だった。
「自分で取りに行かないと、出してもらえないだろう。看守はそういう奴らだ。
少し落ち着いたら、僕がリードを支えて、連れていく」
「じゃ僕も行く」

こんな時、自分だったら一番してもらいたかった事は・・・
あの時、母さんがしてくれたように。
僕は、リードの右手を強く握った。握って、放さなかった。
リードは、疲れ切ったような目で、僕を見た。
「あ、りが・・・とな」
その悲しそうな表情が、未だに僕には忘れられない。



読者登録

雨野小夜美さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について