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美味いブラックコーヒーは、切ない味がする。お菓子と一緒に食べると、とっても
甘くて切ない。今の気分もあるかもしれないが。
風呂に入ってきた。シャワーだけ浴びて、髪と体を洗って外に出た。着替える場所は
本当に寒かった。
そして、僕が生きている証拠を本当に説明できるもの・・・僕は手に入れた。
ブラックコーヒーの無糖。甘すぎるものは、無糖のブラックと一緒に飲むととても
相性がいいんだ。WONDAのは量が少ないのが残念。他社も同じかもしれないが。
でもアイスコーヒーに敵うような趣味はないよ。
ブラックでも甘いのは何がいいかわからない。

そういえば、僕はミルクティーも抹茶もだいたい飲み物は好きだよ。炭酸飲めるし、
嫌いなのは果汁の少ない砂糖臭い味のジュースくらいだな。

きららから、返事がまだ届かない。入院中で、いつ退院するかわからないから、
送りにくいんだろう。僕はいつも飢えているんだ。何にかは、あえて言わない。


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いつものように、夕食前窓の外を見ていた。
姉さん・・・あれは幻だったのか?答えてくれよ。
もう一度会いたいよ。もう一度会って、フィリピンでの生活の事、夫の事、
何でもいいから聴かせてくれ。
晩秋の窓の外を、寒い風がただ、通り過ぎる。

そのとき、僕は見つけた。
その女性も、気付いたようだった。少し雨が降っているのか、ナイロンのピンクのパーカの
フードをかぶった、はやみんが大きな瞳でこちらを見ている。
はやみんは僕をみつけるなり、何か大声で叫んでいるようだった。何か必死に、
伝えようとしている。でもここは病院。普通のガラスではないのだろう。何も聞こえない。
「はやみん、聞こえない・・・よ。聞こえない」
もちろん手話など知っているはずもない。
はやみんの目から、そのうち涙がこぼれてきた。何を言っても伝わらない。ドンドンとガラスを叩くが壊せるはずもない。
それに、こんな夕食時、叫ぶこともできない。おっさん達が後ろで見ているだろう。
「はやみん・・・グッバイ」
僕のせめてもの気持ち。僕はガラスに唇をあずけた。ありったけの熱と優しさをこめて。
はやみんも、それには気付いたようで、ガラスに唇を重ねた。唇に残るのは、ただただガラスの冷たい
感触。
僕は、はやみんを卒業したんだ。もうこれが最後のキスさ。
たった2,3秒の冷たいキス。
そのあと、はやみんの口が何か動いた。涙がはやみんの口のところまで来ていた。
「あ、り、が、と、う」
僕にははやみんがそう言ってくれたように感じた。

パーカを再び頭にのせ、はやみんが走ってゆく。
「ありがとう」僕は誰もいない真っ暗なガラスに向かって呟いた。


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玲音が突然「死にたいです、ヒモをください」といって部屋に入ってきた。
僕はアセったが、こんなとき竜牙ならどうするだろう?と考え、腕を優しく
包むように支えて、ナースステーション前に連れていった。
玲音を苦しめたのは、レノとの会話。レノは普段から玲音を「臭いっす、気持ち悪いっすよ」
と言っていたから、それがどこからか伝わったんだろう。
どうもレノと玲音は合わないらしい。僕は何か明るい話題でも提供しようとしたが、
玲音が文字通り「幽霊のように」落ち込んでいて、何も慰めることもできず、結局
それぞれの部屋へ帰ることとなった。

レノは20代にもなって、「見た目の汚いものは、心も汚い」と思い込んでいるのだろうか。
それはマンガの世界の話だ。
そうじゃない、逆のものがいっぱいあるんだよ。見た目どんなにナルシストで優しそうでも、
心の何と汚いことか・・・そんなのそこら中にいる。僕らはまだ若いから経験が無い。
見分けられないけどね。


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冬もTシャツ、ジーンズ、カーディガンくらいで過ごせないものだろうか。
寒さに慣れるために、僕はTシャツ一枚でこれを書いてる。でもベストくらい
あった方がいいかな。

ブッチャーがまた仕事の話を始めたので、僕は「もうやめてくれよ」と言ったのだが。
「仕事はしなきゃ食っていけないよ。働かないと死んじゃうよ。いいの?」
もう放っといてよ。僕の将来の事なんか考えさせないでくれよ。お前らにはどうでも
いいんだろ、僕が野垂れ死にしようがしまいが・・・
僕はどのみち、惨めに死ぬんだ。そんな将来しか見えないんだよ。
資格をとれる能力があれば、もうとってる。もう何もかも無理だから、ここに来たんだ。
現実自体を捨ててしまったんだよ。僕はそのころからブッチャーの残酷さを恨むように
なった。

僕は自分に才能がないと思っていたのだけど、違う事に気がついた。才能は
ある。クサい言い方をあえてすれば、僕は人を信じ、愛する事ができる。それって
今時貴重な能力なんじゃないか?
人を信じる事が仮にできなくても、金を稼いだり、一人暮らししたりする事はできる。
いくらでもできる。生きやすいだろう。
でも本当にそれで満足か?と僕は思う。信じ、愛する事のできない人生なんて、
僕は今すぐ捨てたい。信じるしか僕には途は無いんだ。


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玲音を守るのは、僕だ。
朝食は玲音の向かい側、ちょうど竜牙の座っていた席で食べた。
ここにいつも座っていた、髪の長い大柄な男。
彼は今どこで何をしているのだろう。玲音も今不安定な状態にあるようだった。
昨夜、また叫び泣く声が聞こえてきた。竜牙を失った悲しみからなのか。
レノはやはり玲音と気が合わないのか、僕の隣で、少し席を離して食べていた。
無愛想で、何考えてるか分からない奴。プライドが高い事意外はわからない。

すると、新入りだと思われる茶色に近い金髪の、不精ヒゲを生やした30代くらいの
男が、近づいてきた。レノの前の席を指して、「ここ、いいかい」と言った。
「俺はリードっていうんだ。よろしくな」
そう言うと、真っ先に握手を求めたのはレノでも僕でもなく、玲音。
玲音はとても嬉しそうにしていた。

この男なら、玲音を守ってくれるかもしれないな・・・
僕は直感した。



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