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レクで習字をやった。昔習っていたが、かなり腕が落ちていた。小さい
文字が綺麗に書けなかった。残念だな。

今日の午後は、ハードスケジュールだった。竜牙の退院の事を考えている暇もなくて、
こんな生活してたら一生治らないんじゃないかと思った。
夕食の時になって、鍵が閉められて、ようやく少し時間ができた。

玲音はクスリの副作用で変な方向に曲がってしまった黒目をなんとか
竜牙に向けて、寂しそうな表情をしていた。僕は竜牙の隣で黙々と夕飯を
食べた。誰も、何も言わなかった。僕らを繋いでいるのは言葉なんかじゃなくて。
玲音は突然立ち上がって「ジュナン、ごめん。本当にごめん」と言って
自分の頭を叩き始めた。竜牙はその腕をつかんで、
「お前は何も悪い事してないよ。病気のせいさ。
それに、もう過ぎちまった事だろ」もう最後になるかもしれない、笑みを浮かべた。

その日は早めにベッドに入った。まだ消灯までに30分近くあったけど、竜牙がどうも
頭が痛そうにしているので、そっとしておこうと思った。

もう永遠に、会えなくなるんだな。
どんな顔して、別れたらいいだろう。どんな顔しても、泣いてしまうのは分かっていた。


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そして、その「永遠」の朝が来た。

朝食の時までは、竜牙は一緒にいた。無論、隣で食べた。
「なあ、あとでちょっとトイレに来いよ」僕が提案した。
トイレは一枚大きな壁があって、入り組んでいる。人に見つかりにくい。
監視カメラなどあるのかもしれなかったが、僕にはどうでもよかった。
「トイレ?何だよ急に」竜牙は少し驚いたようだった。
玲音は正直、ちょっと嫌そうな顔をしていた。僕ら二人だけの秘密がある事が。
「じゃ、僕も行く」
しゃーねーな。玲音もついてくる気まんまんのようだった。

誰もいない、白い無機質な壁のトイレ。
壁のこちら側で、僕は思い切りもう一度、竜牙を抱きしめた。
竜牙は素直に受け入れてくれた。そこにあるのはもう包丁を振り回すイカれた病人の
姿ではなく、何もかも乗り越えた僕らの憧れのリーダーの姿。
「リュウ、僕もお前みたいになりたいよ。二度と入院なんかしない」

リュウの胸は、どこまでも広く、温かい。おまけに、竜牙は僕の背中を少し
さすってくれた。僕の目からもう一度涙が溢れ出た。「リュウ・・・」
「ぼ、僕も、僕も!」玲音も竜牙のそれより少し小さい両手を広げた。
竜牙は同じように、玲音を抱きしめた。この男は玲音を「汚い」などと決して思わない。
心の通じ合った、わずか数秒の抱擁だった。

荷造りを終え、看守が珍しく嬉しそうな顔で迎えに来ると、竜牙はどこかへ
旅立っていった。

 

 


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竜牙がいなくなってから、僕はしばらく放心状態だった。
何もせずに、レクにも参加せずにベッドの掛け布団の上に横たわっていた。
これからどうしよう?僕が玲音を守るのか?
いろいろな言葉が、頭で渦巻いては消えていった。

ここにいたら、常に大人である事を求められる。自分よりずっと大人気ない大人もいるし、
守らなきゃならないルールがいっぱいあるじゃん?ルールやそいつらと上手く付き合って
いかなきゃならない。
でも24歳なんてまだガキじゃない?社会とか自然とか地球規模で起こってる事なんか何も
知らないし、大人のふりをしていたって、やっぱりガキはガキだよ。でもガキとして扱われるのも
嫌なんだ。僕はね。どっちかにしろよ。
いずれにしても、僕だけじゃダメだ。玲音には、守ってくれる大人が必要なんだ。
その大人を探す事が、僕の役目なんだろう。

今日の昼過ぎ、守り神様と他の人がケンカしていたようだ。「ようだ」というのは、遠くの部屋から
怒鳴り声と奇声が聞こえてきたからだ。と言っているうちに、守り神様はなんと僕の部屋にまで
侵入してきた!
ざけんなよ、またくたばりたいのか、お前・・・
しかし、廊下で人が見ているかもしれない。僕は首根っこをつかむと、そいつを部屋から追い出し、
戸を閉めるにとどめた。ただの正当防衛だ。
僕の退院の日はもう決まっているんだから。邪魔はいらない。


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美味いブラックコーヒーは、切ない味がする。お菓子と一緒に食べると、とっても
甘くて切ない。今の気分もあるかもしれないが。
風呂に入ってきた。シャワーだけ浴びて、髪と体を洗って外に出た。着替える場所は
本当に寒かった。
そして、僕が生きている証拠を本当に説明できるもの・・・僕は手に入れた。
ブラックコーヒーの無糖。甘すぎるものは、無糖のブラックと一緒に飲むととても
相性がいいんだ。WONDAのは量が少ないのが残念。他社も同じかもしれないが。
でもアイスコーヒーに敵うような趣味はないよ。
ブラックでも甘いのは何がいいかわからない。

そういえば、僕はミルクティーも抹茶もだいたい飲み物は好きだよ。炭酸飲めるし、
嫌いなのは果汁の少ない砂糖臭い味のジュースくらいだな。

きららから、返事がまだ届かない。入院中で、いつ退院するかわからないから、
送りにくいんだろう。僕はいつも飢えているんだ。何にかは、あえて言わない。


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いつものように、夕食前窓の外を見ていた。
姉さん・・・あれは幻だったのか?答えてくれよ。
もう一度会いたいよ。もう一度会って、フィリピンでの生活の事、夫の事、
何でもいいから聴かせてくれ。
晩秋の窓の外を、寒い風がただ、通り過ぎる。

そのとき、僕は見つけた。
その女性も、気付いたようだった。少し雨が降っているのか、ナイロンのピンクのパーカの
フードをかぶった、はやみんが大きな瞳でこちらを見ている。
はやみんは僕をみつけるなり、何か大声で叫んでいるようだった。何か必死に、
伝えようとしている。でもここは病院。普通のガラスではないのだろう。何も聞こえない。
「はやみん、聞こえない・・・よ。聞こえない」
もちろん手話など知っているはずもない。
はやみんの目から、そのうち涙がこぼれてきた。何を言っても伝わらない。ドンドンとガラスを叩くが壊せるはずもない。
それに、こんな夕食時、叫ぶこともできない。おっさん達が後ろで見ているだろう。
「はやみん・・・グッバイ」
僕のせめてもの気持ち。僕はガラスに唇をあずけた。ありったけの熱と優しさをこめて。
はやみんも、それには気付いたようで、ガラスに唇を重ねた。唇に残るのは、ただただガラスの冷たい
感触。
僕は、はやみんを卒業したんだ。もうこれが最後のキスさ。
たった2,3秒の冷たいキス。
そのあと、はやみんの口が何か動いた。涙がはやみんの口のところまで来ていた。
「あ、り、が、と、う」
僕にははやみんがそう言ってくれたように感じた。

パーカを再び頭にのせ、はやみんが走ってゆく。
「ありがとう」僕は誰もいない真っ暗なガラスに向かって呟いた。



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