閉じる


<<最初から読む

167 / 202ページ

166

涙をグレーのトレーナーの袖で拭いて、僕は言った。
「誰もいないな」
「そうだな」
今はブッチャーはどうせいつもの公衆電話の前にいるだろうし、レノは
どこかわからないが、ベッドにはいなかった。
外は快晴。美しい朝。

「リュウ、ひとつ、僕の願いを叶えてくれ」
「おい、何だ何だ?」その少しかしこまった態度に、竜牙はいつもと違うものを
感じたようだった。
「リュウ」僕は両手を20cmくらい広げた。「僕とハグしてくれないか」
「何だ、そんな事か。俺の力は強ぇぜ。いいんだな」
先に竜牙を抱きしめたのは、僕。竜牙の大きなてが後から僕をしっかり
抱いた。「お前、ちょっと今日ヘンだよな。何だ、そんな事だったのか。
泣いたりして」
竜牙の腕の中は、痛くも何ともなくて、むしろ暖かく、どこまでも優しかった。
目から次々と、伝えたかった事があふれ出して、止まらない。
僕の頭は、竜牙の胸くらいまでしかない。それが、居心地のいい原因かもしれなかった。

「あと、玲音が言ってたぜ」
「何て?」僕は少し正気に戻った。
「数日前はごめん、って」


167

実はな、まだ他人に話した事はないんだ。お前だから言うんだが」
「話してみろよ」
「俺は某市で包丁を振り回してたんだぜ、昔」
「それはやべえな、本当か」今の落ち着いた竜牙からは想像できない、過去の姿。
「よく訳の分からない、得体の知れないものに襲われる気がしてな。必死で包丁で
そこら中を切りつけて、パトカーのサイレンがそのうち聞こえて・・・」
「すごい過去だな、それは」

「いや」竜牙は言った。「それはレインだけじゃないって事さ。今あいつはたまたま
そういう状態にいるけど、俺も昔はそうだったんだ。お前なんて軽症すぎるから
逆にわかんねんだよ。
それでもレインを見捨てられるか?あいつは俺の過去の姿そのままなんだ。
訳のわかんねえものにいつも怯えてる。でも治れば違うんだよ、あいつはいい奴
なんだよ!」
僕はまた涙が出そうになって、必死で抵抗した。玲音と竜牙が通じ合ったのは、
結局二人とも、同じような過去だったからなのだ。竜牙が一方的に救おうとしていたの
ではなくて。
竜牙がやっとコーヒーを全部口に入れ、微笑んだ。
白い太陽の光に照らされて。


168

レクで習字をやった。昔習っていたが、かなり腕が落ちていた。小さい
文字が綺麗に書けなかった。残念だな。

今日の午後は、ハードスケジュールだった。竜牙の退院の事を考えている暇もなくて、
こんな生活してたら一生治らないんじゃないかと思った。
夕食の時になって、鍵が閉められて、ようやく少し時間ができた。

玲音はクスリの副作用で変な方向に曲がってしまった黒目をなんとか
竜牙に向けて、寂しそうな表情をしていた。僕は竜牙の隣で黙々と夕飯を
食べた。誰も、何も言わなかった。僕らを繋いでいるのは言葉なんかじゃなくて。
玲音は突然立ち上がって「ジュナン、ごめん。本当にごめん」と言って
自分の頭を叩き始めた。竜牙はその腕をつかんで、
「お前は何も悪い事してないよ。病気のせいさ。
それに、もう過ぎちまった事だろ」もう最後になるかもしれない、笑みを浮かべた。

その日は早めにベッドに入った。まだ消灯までに30分近くあったけど、竜牙がどうも
頭が痛そうにしているので、そっとしておこうと思った。

もう永遠に、会えなくなるんだな。
どんな顔して、別れたらいいだろう。どんな顔しても、泣いてしまうのは分かっていた。


169

そして、その「永遠」の朝が来た。

朝食の時までは、竜牙は一緒にいた。無論、隣で食べた。
「なあ、あとでちょっとトイレに来いよ」僕が提案した。
トイレは一枚大きな壁があって、入り組んでいる。人に見つかりにくい。
監視カメラなどあるのかもしれなかったが、僕にはどうでもよかった。
「トイレ?何だよ急に」竜牙は少し驚いたようだった。
玲音は正直、ちょっと嫌そうな顔をしていた。僕ら二人だけの秘密がある事が。
「じゃ、僕も行く」
しゃーねーな。玲音もついてくる気まんまんのようだった。

誰もいない、白い無機質な壁のトイレ。
壁のこちら側で、僕は思い切りもう一度、竜牙を抱きしめた。
竜牙は素直に受け入れてくれた。そこにあるのはもう包丁を振り回すイカれた病人の
姿ではなく、何もかも乗り越えた僕らの憧れのリーダーの姿。
「リュウ、僕もお前みたいになりたいよ。二度と入院なんかしない」

リュウの胸は、どこまでも広く、温かい。おまけに、竜牙は僕の背中を少し
さすってくれた。僕の目からもう一度涙が溢れ出た。「リュウ・・・」
「ぼ、僕も、僕も!」玲音も竜牙のそれより少し小さい両手を広げた。
竜牙は同じように、玲音を抱きしめた。この男は玲音を「汚い」などと決して思わない。
心の通じ合った、わずか数秒の抱擁だった。

荷造りを終え、看守が珍しく嬉しそうな顔で迎えに来ると、竜牙はどこかへ
旅立っていった。

 

 


170

竜牙がいなくなってから、僕はしばらく放心状態だった。
何もせずに、レクにも参加せずにベッドの掛け布団の上に横たわっていた。
これからどうしよう?僕が玲音を守るのか?
いろいろな言葉が、頭で渦巻いては消えていった。

ここにいたら、常に大人である事を求められる。自分よりずっと大人気ない大人もいるし、
守らなきゃならないルールがいっぱいあるじゃん?ルールやそいつらと上手く付き合って
いかなきゃならない。
でも24歳なんてまだガキじゃない?社会とか自然とか地球規模で起こってる事なんか何も
知らないし、大人のふりをしていたって、やっぱりガキはガキだよ。でもガキとして扱われるのも
嫌なんだ。僕はね。どっちかにしろよ。
いずれにしても、僕だけじゃダメだ。玲音には、守ってくれる大人が必要なんだ。
その大人を探す事が、僕の役目なんだろう。

今日の昼過ぎ、守り神様と他の人がケンカしていたようだ。「ようだ」というのは、遠くの部屋から
怒鳴り声と奇声が聞こえてきたからだ。と言っているうちに、守り神様はなんと僕の部屋にまで
侵入してきた!
ざけんなよ、またくたばりたいのか、お前・・・
しかし、廊下で人が見ているかもしれない。僕は首根っこをつかむと、そいつを部屋から追い出し、
戸を閉めるにとどめた。ただの正当防衛だ。
僕の退院の日はもう決まっているんだから。邪魔はいらない。



読者登録

あめのこやみ(おけちよ)さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について