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今日、トイレに行った時、入り口でかがんでいたトイレの守り神様が立ち上がり、
なんと、いきなり僕の首を絞めてきた。「う・・・うわ・・・ゲホ、ゲホ」僕は全身の
力を使って意外と強いその両手を払うと、守り神様に対する憐れみよりも、怒りが
こみあげてきた。この男には理性がないのだ。
僕は思い切り右手で守り神様の頬をはり倒した。守り神様は衝撃で少し吹っ飛び、
汚れた壁に頭をぶつけてうずくまった。僕はもう許せなかった。さらに腹を2、3発
蹴った。看守に見つかると悪いので、さっさと用を足し、逃げた。どうせあいつなら
僕から受けた被害を看守に伝える事もできないだろう。
守り神様に、同情などいらない。僕はそう思った。

僕は将来、あのボケ老人のようになるのか?ボケるってどんな気持ちなんだろう?
わからないが僕はそうなったらおしまいだ。あんな風になりたくないよ。

もし僕がボケたら、守り神様のようになったら、殺してくれ・・・死んだ方がマシだ。
精神病院に幽閉され、治る見込みもないのにクスリを飲まされ、いじめられて、
叩かれて、蹴られて、首を絞めて・・・なんて寂しい人生なんだろう。

 

 


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朝一にある人に「お前って意外とキツいね」と言われ凹む。
自分ではキツいと思わないけど。

昨夜は、僕はよく眠れなかった。ブッチャーが物を叩いたり、声をあげて泣いたり
してた。僕はよく母さんが小さい頃僕にしてくれたように、ずっとブッチャーの
手を握っていた。
僕の中に、「誰かを守る」という新しい気持ちが生まれようとしていた。

朝のインスタントのUCCは正直カフェのコーヒーには劣る。でも何もないよりは
マシだ。朝、今日も何かしてやろう、という気持ちになる。
今日は休日なのでヒマだ。折り紙で箱を作る作業をやっていた。

玲音は入院してもう2年になるという。まさにベテランなのか、箱を作るのも
速く、意外と上手かった。僕はなかなか作れない竜牙の方を手伝っていた。
「もう嫌だぜ、こんな作業」僕は少し笑ってしまった。竜牙の箱はどこで
間違えたのか、風船の膨らみそうにないやつ、何とも言い難い形状に
なっていた。何もかもできるように思える頼れる男の意外な弱点。
手先が不器用だったのだ。

「そういえば、リュウ、手の震えはもう直ったのか」僕が言った。
見たところ震えている感じではない。
「おお、それなら診察でクスリ変えてもらったらよくなったぜ。
心配かけたな」
「リュウ・・・」僕は竜牙の心遣いに少しときめいてしまった。
「ジュナン、どうしたの」玲音が覗き込んで言った。
「いや、なんでも・・・」
「クスリって、恐ろしーぜ」竜牙が腕を組んで言った。

 


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何だか、あっという間に昼になってしまった。レノとブッチャーと竜牙は
何も言わずカーテンからもれる水色の光に包まれ、寝ている。
そしてすぐに夜がやってくる。
退院の日が、実はもう決まっている。この入院生活も、あっという間に終わって
しまうのかな。
ここから出たくて仕方ない時もあったけど、今はもう何か昔から住んで育ってきたような、
懐かしい気持ちでいっぱいだ。

夜、大の方のトイレを出ると、例のボケ老人に「今日は下痢便だった?」などと
訳のわからない、根も葉もない事を尋かれた。僕はまったく目もあわさずに
通り過ぎた。
そうだ、明日はブラックコーヒーを飲もう。甘い物にはブラックが一番さ。

「レイン・・・」
退院の日を控えて、その日の晩、竜牙がつぶやくように言った。独り言のようでもあった。
ベッドから半分体を起こして、何か考えに沈んでいるようだった。
「どうかしたか」僕はなんとなく気になって、尋ねた。
「俺がいなくなったら、レインはどうなるんだ?また元の生活に戻るのか?
知らないだろ、元々あいつがブタ箱でどんな生活をしてたか。俺も聞いたから
知ってるだけだけど」
竜牙は何か悲しそうな顔でずっとベッドの上を見ていた。

 


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「あいつはずっと、俺達じゃ考えられない程の孤独に耐えてきたんだ。わからねえよ、
どうしてあいつだけがあんな目に遭ってるんだ?俺には『希望をもて』なんてとても
言えねえ。無責任すぎるからさ」
竜牙の目に、何か光るものが動いたようだった。「だから、あいつは守ってくれる
誰かを必要としてるんだ。一人で生きていけないから」
僕はベッドサイドに移動してその独り言のような話を聴いていた。
「なあ、僕じゃダメか」
「ジュナン、とんでもないぜ。お前が必要なんだ」竜牙の大きな両手が伸びてきて、
僕の小さな手のひらを包んだ。
「レインに伝えてくれ。あいつは物事を客観的に見れてねえんだよ。自分が
公衆の面前でケツ出してても、分からねえんだ。自分がどう見られてるかって事を。
そのまま言うんじゃ、繊細なあいつを傷つけちまう。オブラートに包んでな」

鍵のかかったホールの中で、僕は玲音を見つけた。確かに、彼は床に座る時
股上の浅いジーンズを履いていて、尻が丸出しになっている。そしてその事に
気付いている様子がまるでない。
「レイン・・・ちょっといいか」僕は手に汗をかきながら尋ねた。
「何?」
「その、後ろが・・・丸出しになってる」
「!」玲音は、事に気付いたようだった。そして・・・
看護師の元へ大声を出しながら走って行った。
「看護師さーん!いじめです!ジュナンが僕をいじめてきます!!」
「・・・」僕はあっけにとられて、何も言えなかった。

 


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「そうか、やっぱりダメか・・・」竜牙が険しい顔をした。
「被害妄想が強すぎて、俺らがどんな思いでレインを守ろうとしてるか、
まるで分かってねえ。肩を落としなさんなよ。俺でもきっと同じようにしか
言えなかったはずだ」
竜牙の優しさは、今僕のささやかな癒しになっていた。リュウのベッドの脇に
座っている時が、僕の一番幸せな時間。
「寝ますので、静かにしてくださいっす」レノが無表情な声で言った。
「あ、俺も寝るわ」僕は自分のベッドに帰った。消灯時間が近い。

(一日後)

朝食を終えた僕は、なんだか妙に寂しくなってしまった。
誰かに、抱かれたい。あるいは、抱きたい。でもそんな事してくれる人は
どこにもいなくて、温もりに飢えていた。
部屋の戸の外で、守り神様が何か汚い事を叫んでいる。食事中に便の話など
止めてほしいものだ。でもそれ以外には何の音も無い。無音。息が詰まるような
気さえもする。



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